深海に溺れる時

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深海に溺れる時

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原田愛菜(はらだ まな)は、これまで、自分は世界でいちばん素敵な男性に出会えたと信じていた。でも、そんな彼こそが自分を身も心もズタズタ...

Chương (1)

第1章

原田愛菜(はらだ まな)は、これまで、自分は世界でいちばん素敵な男性に出会えたと信じていた。でも、そんな彼こそが自分を身も心もズタズタに引き裂く刃物となってしまうだなんて、夢にも思わなかった。 第1話 高橋裕也(たかはし ゆうや)の誕生日、原田愛菜(はらだ まな)は自分を捧げて、結ばれようとしていた。 しかし、そうしようとしていた瞬間、真っ暗だった邸宅が、まるで白昼のように辺り一面明るい明かりが灯ったのだった。 そこへ、3年間ずっと彼女をいじめてきた大塚莉子(おおつか りこ)がビデオカメラを手に飛び込んできた。更に彼女はその後ろに、裕也の「仲間たち」である盛遠グループの役員を5、6人従えていた。 「最高!」莉子は手を叩いて大笑いした。「みんな見て、この女なんて恰好!ヒョウ柄?あははは!」 すると邸宅中に、天井が抜けそうなほどの嘲笑が響き渡った。 「あはは、このブスがヒョウ柄の下着なんて、ダサすぎ!まさか、こんなので裕也さんを誘惑できるとでも思ったのかね?」 あまりに突然の出来事で、まるで雷に打たれたように、愛菜は慌てて床の服を拾って身に纏い、そして、助けを求めるように裕也の方を振り向いた。 しかし、裕也はただ、気だるそうにドアの枠に寄りかかり、莉子に愛おしそうな優しい眼差しを向けているだけだった。 愛菜は呆然とその光景を見て、あまりの恐怖に幻覚を見ているのかとさえ思えてきた。 「愛菜、本気で裕也さんがあなたに気があるとでも思ったの?」 莉子は体をのけぞらせて笑った。 「確かあなたが研修中に高級レストランでバイトしてた時、不倫相手と間違われて骨折するまで殴られたことがあったでしょ。あれは裕也さんの指示で、私たちがあなたの裸の写真をあの悍ましい女に送りつけたからなのよ。 それに入社して2年目に担当したプロジェクトでデータミスがあった時もそう。あの時あなたは貯金を全部はたいて弁償したわよね。気が付かなかったの?あれも裕也さん本人が大事なデータを書き換えたのよ。 あと、一昨年あのすごく寒かった日、裕也さんにあなた達の思い出の品を無くしたって言われて、あなたは湖に飛び込んで3時間も探したせいで、1週間も高熱で寝込んだわよね。あれも本当は嘘なの、裕也さんはわざと湖に捨てたのよ。 一番の傑作は先月。あなたが3ヶ月も徹夜して作った企画を、裕也さんが原稿と資料を全部私に渡してくれたの。おかげでそれは私の手柄になったけど、代わりにあなたは会社に2000万円の借金を背負わされることになったってわけ。 それにしても残念。この3年間、盛遠での評判はガタ落ち、キャリアも台無し。骨を折ったり高熱を出したりしたのに、まだのこのこと生き延びているなんて」 莉子は腕を組み、ため息をついた。「愛菜、あなたって本当にしぶといわね」 …… その一連の言葉を聞いて、愛菜の全身の血が凍りつくようだった。 彼女は震えながら裕也を見た。莉子たちがでたらめを言っていると、彼が一言でも言ってくれれば、それを信じるつもりだった。 しかし裕也は愛菜を見て笑った。その笑顔は嘲りと軽蔑に満ちていて、まるで無数の鋭い棘のように彼女の心を突き刺した。 「莉子が言ったことは、一語一句すべて本当だ。 いや、違うな。 莉子の話には一つ、言い忘れたことがある。お前がこの邸宅に入って、服を脱いで俺を誘惑し始めた時から、その一部始終が会社のロビーのモニターにライブ配信されている。もちろん、繰り返し再生でな」 裕也は愛菜の耳元に顔を寄せた。「つまり、会社中の人間が、お前の見事なショーを見たってことさ。 なあ、病院で寝たきりのお前の母が、自分の娘がこんなにみっともないことをしているのを見たらどう思うかな……」 その言葉はまるで雷の轟きのように耳元で鳴り響いて、愛菜は頭が真っ白になり、胸が締め付けられ、息が詰まってしまうほどだった。 「な……なんで?」 裕也は彼女を見下ろし、ゴミでも見るかのような冷たい目で言った。「お前が杏に産業スパイの濡れ衣を着せ、彼女をうつ病で飛び降り自殺するまで追い込んだ時から、こうなることは覚悟しておくべきだったな」 それを聞いて、愛菜は耳鳴りが留まることなく鳴り響いて、彼女は裕也の袖をつかんで、必死に首を振った。「私じゃない!」 確か盛遠に入社して間もなく、高橋杏(たかはし あん)という女性社員が飛び降り自殺したことがあった。それを知った当時、愛菜も長い間、心を痛めていたくらいだった。 しかし、自分と杏は面識すらなかった。それなのにどうして彼女を自殺に追い込むことなどできるというのか。 莉子は鼻で笑った。「裕也さん、だから言ったでしょ。この女が認めるわけないって。 あなたはあの時、自分の目で証拠を見たじゃない。そして誓ったはずよ。3年間この女を徹底的に苦しめて、絶望の中で死なせてやるって。 だから、私たちに彼女をいじめさせて、それであなたが彼女を助けるふりをする計画を仕立てたんでしょ。すべてはこの女にあなたが恩人であると思わせてから、一気にどん底まで突き落とすためじゃない」 莉子は眉を上げた。「裕也さん、まさかここにきて彼女に情が移ったんじゃないでしょ?」 そう言われて裕也は、まるで吐き気がするゴミでも振り払うかのように、愛菜の手を荒々しく振り払った。 「情が移る?」彼はふっと嘲笑い、冷たい目線を愛菜の青白い顔に向けた。「笑わせるな、俺はこの目で、こいつが死ぬのを見届けたくて堪らないだけさ」 それを聞いて、愛菜は全身が震え、視界がだんだんとぼやけていった。 そして、この3年間の出来事が、走馬灯のように彼女の頭を駆け巡った。いつも自分がどん底に落ちるたび、裕也は絶妙なタイミングで現れた。だからてっきり彼は救いの神だと思っていたのに、その全てを仕組んだのはまさに彼だったなんて。 「そうだ」裕也は仲間を連れて去る前に、一言付け加えた。「病院にはもう連絡してある。明日から、お前の母親はもう心臓移植の待機リストから外されることになったからな」 その言葉と同時にドアが閉まる音は、まるで弔いの鐘のように部屋に響き渡った。 愛菜は床に崩れ落ち、涙が堰を切ったようにあふれ出した。 心の底から愛し、全てを捧げたいと願った人。その人がしてきたことの全てが、自分への復讐だったなんて。 そして、この3年間、自分が味わってきた全ての苦しみは、一番愛していた人から与えられたものだったなんて。 それどころか、彼は母の生きる希望までも奪おうとしているなんて。 立て続けの追い打ちに、抑えきれない嗚咽が喉から漏れ、愛菜は気を失いそうになるまで泣き続けたが、ポケットのスマホが突然震え始めた。愛菜はかろうじてそれを取り出し、震える手で電話に出た。 すると、電話の向こうから、低い声が聞こえた。「愛菜、この前話した件、考えてくれたかい?」 1ヶ月前、愛菜は長年離れ離れになっていた叔父・原田正人(​はらだ まさと)がいることを初めて知ったのだ。 海外に住む正人は、愛菜の母親・原田智子(はらだ ともこ)が心臓移植を必要としていると知り、何度も海外での治療を勧めてくれた。しかし愛菜は裕也を信じて、北市に残るつもりだった。 今思えば、なんて馬鹿げていたんだろう。 自分は今まで自分を傷つけてきた相手を、救いの神だと信じ込んでいたなんて。 「決心したわ、おじさん」愛菜は震える手で涙をぬぐった。「お母さんと一緒に、海外に行く」 第2話 そして、電話を切ると、愛菜はよろめきながら床から起き上がった。 つい先週、裕也に愛情のこもった目線で、この邸宅は将来二人の家になるのだと告げられ、愛菜は1週間かけて、邸宅の隅々まで、思い描いていた理想の我が家のように飾り付けたのだった。 でも今、これらの目の前にある飾り付けは、すべてがどれほど馬鹿げたことだったかを、思い知らされているようだった。 本当に馬鹿みたい。裕也にまるまる3年間も騙されていたなんて。 そう思っていると突然、またスマホが鳴った。病院からの緊急の連絡だった。 「原田さんですか?あなたのお母さんの容態が急変しました。すぐに病院へ来てください」 愛菜はスマホを固く握りしめると、狂ったように、よろめきながら邸宅の外へと駆け出した。 あまりにも慌てていたせいか、靴がどこかにいってしまった。そして、いつの間にか、一階へ続く階段にはガラスの破片が散らばっていたが、今の愛菜にはそんなことにかまっている余裕はなく、彼女は突き刺すような痛みをこらえ、階段を駆け下りた。 そのせいで階段には、痛々しい血の跡が点々と残されていった。 そして、彼女が玄関のドアを開けた瞬間、突然、ざばっと音がした。 氷の混じった冷水が頭から浴びせかけられ、愛菜はずぶ濡れになってしまい、骨まで凍みるような寒さで彼女の震えが止まらなかった。 その一方で、莉子たちはまだ帰っておらず、庭に立って面白そうにその様子を眺めていた。 「愛菜、ガラスの破片と氷水の味はどう? これも裕也さんの特別なご指示なのよ」 足の裏に突き刺すような痛みを感じながら、愛菜はスマホを固く握りしめ、凍えて震える体を必死で抑えていった。 「どいて!」 そう言われて莉子は驚いて眉をひそめ、近づくと彼女のすねを蹴りつけた。「裕也さんに捨てられたくせに、まだ強がるつもり? そんなに急いでどこへ行くの?」 「あははは、わかったわ!死にかけの母親に会いに、急いで病院にいくつもりなんでしょ!」 それを聞いて、愛菜ははっと顔を上げたが、その目は血走っていた。 彼女は震える声で言った。「あなたたち、何をしたの!?」 しかし、莉子はもう愛菜を止めるつもりはないようで、ただ意味深な笑みを浮かべて言った。「病院へ行ってみればわかるわよ」 愛菜も彼らとこれ以上絡んでいる余裕はなかったから、彼女は裸足のまま雨の中へ飛び出した。 そして、なんとか邸宅から走り出てタクシーを捕まえようとしたその時、突然、眩いヘッドライトが彼女を照らした。 すると、甲高いブレーキ音が響き渡り、辺りの景色が目まぐるしく回る中、愛菜は体が宙に浮くのを感じた。 そして自分の体が、ぼろきれの人形のように空中に投げ出され、そして地面に強く叩きつけられるのを目の当たりにしたようだった。 そして、その地面に広がる血は雨水によって滲み、まるで妖艶な花のように咲き散ったのだ。 こうして、愛菜は意識が遠のく最後の瞬間、ぼんやりとした人影が自分に駆け寄ってくるのが見えた気がしたが、すぐに暗闇にすべての感覚を飲み込まれていった。 次に目を覚ますと、鼻をつく消毒液の匂いがした。 そこに聞き慣れた声が響いていたが、いつもとは違い、激しい怒りを抑え込んでいるような声だった。 「あいつに嫌がらせをしろとは言ったが、車で轢けなんて言ってないぞ!」 「今日でちょうど3年だぜ、裕也さん。彼女に3年かけて復讐して、それから死なせるって言ってたじゃないか?」 「裕也さん、莉子さんはこの3年間、あなたとあの女が仲睦まじくするのを見ても、平気なふりをして我慢してきたんだから、これ以上、彼女に嫌な思いをさせちゃだめだよ」 「そうだよ、裕也さん。ずっと前からあいつに死んでほしいと思ってたんじゃないか?今さら俺たちに怒るなんて。こっちは殺人犯になるリスクを負ってまで、あなたのために……」 そして、ついにそんな言い争いの中、「裕也さん、どうして怒るの?まさか、彼女のことを心配するようになったの?」莉子は不満げな声を漏らした。 すると、病室は一瞬静まり返り、やがて裕也の抑えられたかのような、かすれた声が響いた。 「俺が後悔なんてするわけないだろ」 そう、後悔などするはずがないと、裕也はそう自分に言い聞かせた。 だって愛菜は、自分のたった一人の妹を死に追いやったんだから、この3年間、裕也は愛菜にあらゆる苦痛を味わわせ、絶望の淵で死んでほしいと、片時も願わない日はなかった。 そうすることで、天国にいる杏の慰めになると信じてきたのだった。 ただ、愛菜は彼の想像以上にしぶとかった。 この3年間、彼女が味わった苦痛は、他の人間ならとっくに耐えきれず、自ら命を絶っていただろう。 しかし、愛菜は落ち込んで泣き明かすのは一日だけと決め、次の日にはまた元気に、希望に満ちて立ち上がるのだった。 どんな苦難も、彼女を打ち負かすことはできないかのようだった。 だが愛菜は知らないのだ。 それゆえ、裕也はさらに彼女をこの手で叩きのめしたいと思うようになったのだ。 「言っただろ。あいつが耐えきれずに、自ら命を絶つのが一番望ましいんだ」裕也は冷たく言い放った。それは莉子たちをなだめるようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。「愛菜ごときのために、お前たちを犠牲にする価値はないんだから」 それを聞いて、莉子と男たちはまた顔を見合わせ、気楽に笑い出した。 「ほらね、やっぱり。裕也さんが仇を好きになるわけないって。昔、杏ちゃんは俺たちの手の中で大事にされてたお姫様だったのに。それを原田って女に殺されたんだ。この恨みは絶対に晴らさなきゃ」 「裕也さんが考えを変えるつもりがないなら、それでいいんだ。今回は俺たちがやりすぎたってことで、それにしても、こいつは本当に運がいいな。これでも死なないんだから」 「まあまあ、こんなに遅くまで騒いで莉子さんも疲れちゃっただろ。裕也さん、俺たちはもう帰ろうぜ。どうせ原田は死にゃしないんだから」 すると、裕也は少しかすれた声で言った。「お前たちは先に帰ってくれ。俺はまだやることがある」 莉子は不機嫌になった。「裕也さん、まさかここに残ってこの女の看病でもするつもり?」 裕也はためらうことなく答えた。「もう正体はばれているんだ。今さらこいつの前で愛情深いフリをする必要なんてないだろ。ちゃんとした用事があるんだ」 彼がそう言うと、莉子もそれ以上何も言えなかった。 彼女は他の人たちと一緒に、次々と病室を後にしていたのだった。 そして彼らが出て行った後、裕也はようやく、周りを気にすることなく愛菜に視線を注ぐことができた。 第3話 一方で、愛菜はまるで魂が抜けてしまったみたいに静かにベッドに横たわっていた。 その血の気のない顔色はシーツの白さに溶け込んでしまいそうなほど白く青ざめていた。そして、かろうじて上下する胸だけが、彼女がまだ生きていることを示していた。 細い手首には点滴の針が刺さっている。透き通るような肌の下に、青紫色の血管がはっきりと見えていた。 裕也は胃が弱いから、この3年間、この手が何度も彼のために食事を作ってきた。そして、不眠症の彼が眠りにつくまで、この手はいつも夜中までマッサージを続けてくれてたんだ。 そう思って、裕也の目に宿っていた氷のような冷たさと憎しみは、知らず知らずのうちに和らいでいた。そこには、ほんの少しの優しい感情さえ浮かぶようになったのだ。 その時、愛菜のまつ毛が微かに震えた。 それを見て裕也の目は一瞬で冷たさを取り戻した。「もう寝た振りをするな。どうせ起きてるんだろ」 そう言われて、愛菜はゆっくりと目を開けたが、かつては輝いていた瞳は、今ではまるで霞んで光を失っているようだった。 そして、彼女は裕也に一瞥もくれず、ただ必死に体を起こそうともがいた。 しかし、腕を持ち上げる力さえ残っておらず、ぐったりと枕に倒れ込むしかなかった。 「何がしたい?」 愛菜は母親のことが心配でたまらず、唇を噛みしめたが、それでも彼の方を見ようとはしなかった。「先生が、母の容態が悪化したって、母は、どうなったの?」 すると、愛菜に無視されたのが初めてだった裕也は、得体の知れない怒りに駆られ、わざとこう言った。「死んだ」 それを聞いて、愛菜の瞳孔が急に収縮し、まるで雷に打たれたかのように体が固まった。 彼女は唇を震わせたが、声をまともに出すことすらできなかった。 その瞬間、病室の空気が、まるで凍りついたかのようだった。 「今、なんて……」愛菜はかろうじて言葉を絞り出した。その声は、今にも消えてしまいそうなほど軽かった。 だが、彼女の顔がみるみるうちに絶望に染まるのを見て、裕也の心には歪んだ快感が込み上げてきた。「言っただろ、お前の母は死んだって。 お前が意識を失っている間にな」 それを聞いて、愛菜は指の関節が白くなるほどシーツを強く握りしめた。 彼女は胸を激しく上下させたが、喉はまるで締め付けられているかのようで、呼吸することさえ苦しくなっていったのだった。 「うそ。そんなはずない……」彼女は首を振り、涙が静かにこぼれ落ちた。「先生は……容態は安定してるって……」 愛菜は最後の力を振り絞り、充血した目で点滴の針を引き抜くと、必死に起き上がろうとした。 でも、彼女の体はあまりにも弱りすぎていた。 足が床につく前に、くらくらして何度も気を失いそうになった。 突然、愛菜は体をくの字に折り曲げ、「かはっ」と真っ赤な血を吐き出した。 吐き出された血は、半分は真っ白なシーツに、もう半分は裕也のシャツに飛び散り、なんともぎょっとする光景だった。 それを見て、裕也も呆然とした。 愛菜がこれほど激しい反応を示すとは、彼も思ってもみなかったからだ。 「どうして?」愛菜は顔を上げ、血走った目で彼を睨みつけた。「あなたは一体何をしたの?どうして母にまでこんなことを……母は何も知らないのに……」 その声はひどくかすれていて、まるでどん底から這い上がろうとする必死な嘆きのようだった。 裕也は、彼女の瞳に宿る憎しみに気圧された。 この瞬間、彼は愛菜の目をまっすぐ見ることができなかった。 だが、「自業自得だろ」と裕也はそう言って、すぐに心の奥底に芽生えた罪悪感を必死で押さえ込んだ。「あの時、杏がどれだけ苦しんだか――」 「私は彼女を知りもしないのに!」と愛菜は突然、絶望の淵に立たされたかのような悲鳴をあげて叫んだ。「裕也、あなたはちゃんと調べたの?本当に私が彼女を殺したって、確信があるの? 3年間、毎日一緒にいたじゃない。それでも、本当に私が殺人犯だと思うの?!」 その問いに、裕也はきょとんとした。 この3年間、彼は自分の判断を一度も疑ったことがなかった。 「もちろん調べたさ」裕也は反射的に言い返したが、その声には以前のような確信がなかった。 それを聞いて愛菜は不意に笑った。だが、その笑みは、見る者を驚かせるほどの悲しみが含まれているようだった。「調べもしないで、私を罪人だと決めつけて……私の人生をめちゃくちゃにして……母まで殺した……」 彼女の声はどんどん弱々しくなり、口の端からは絶えず血が滲んできた。 すると、モニターの心電図が激しく乱れ始めた。 それを見て、恐怖に襲われた裕也はナースコールを押し、初めてうろたえた声で叫んだ。「先生!先生、早く来てください!」 第4話 医師と看護師が病室に駆けつけ、愛菜の様子を見るなり、すぐに救命処置を始めた。 「血圧が急低下で、アドレナリンを準備します!」 「血中酸素濃度は持続的低下しています!」 「早く呼吸器の準備を!」 病室は一瞬にして騒然となり、様々な医療機器のアラームが鳴り響いた。 裕也は脇に追いやられ、ただ呆然と愛菜の真っ青な顔を見つめていた。 ベッドに横たわる彼女は、まるで生気を失って枯れ果ててしまったようだった。それには裕也も、今まで感じたことのない恐怖に襲われたかのように感じた。 「愛菜……愛菜!」裕也は無意識に愛菜の名前を叫んだ。その声には、彼自身も気づかないほどの動転が隠されていたのだった。 「死ぬなんて許さないぞ! 聞こえているのか!」 医師は、邪魔な裕也を一瞥し、無表情に言った。「高橋さん、外に出ていてください」 裕也は病室を出たくなかった。しかし、医師の一言で諦めざるを得なかった。 「高橋さん、もしこのまま患者さんが目の前で死なれても構わないのなら、どうぞそのままここに」 そう言われて、裕也はよろめきながら病室を飛び出した。 そして、冷たい壁に背中を預けると、彼の両手はコントロールを失ったかのように震えだした。 俯くと、シャツについた生々しい血痕が、まるで焼きごてのように肌を焼くようだった。 これは、愛菜の血だ。 自分が、彼女をこんな目に遭わせたんだ。 それから1時間も経っていないのに、裕也には半世紀も過ぎたかのように感じられた。 すると、医師がドアを開け、ため息をついて言った。「我々は、やれるだけのことはやりました」 それを聞いて、裕也の体は、ぐらりとよろめいた。 彼は医師の白衣を強く掴み、指の関節が白くなるほど力を込めて叫んだ。「やれるだけのこと……どういう意味ですか?」 医師はマスクを外し、疲れた表情で言った。「患者さん自身に、生きようという意志がないんです。目覚めることを拒んでいます」 裕也はきょとんとした。「どういうことですか?」 「患者さんに生きる気力がなくなったということです」 「まさか!」裕也は突然激昂し、医師を突き飛ばして病室に駆け込んだ。「彼女が死ぬなんて、そんなわけがありません!」 病室では、愛菜がベッドに静かに横たわり、青白い顔だけがやけに目立って見えて、それはまるで眠っているかのようだった。 裕也はよろめきながらベッドの前にひざまずき、愛菜の手首を掴んだ。 「愛菜!目を覚ませ!」彼は目を真っ赤に充血させて叫んだ。「嘘なんだ!お前の母は無事だ!まだ生きている! お前が死んだら、お母さんの面倒は誰が見るんだ?」 裕也の声は、これまでにないほどの混乱と絶望を帯びて、病室に響き渡った。 すると、ピーッ―― 心電図モニターが、突然甲高い音を立てた。 裕也は勢いよく顔を上げ、叫んだ。「先生!先生、早く来てください!彼女に反応があります!」 医師がすぐに駆けつけ、愛菜の状態を確認した。 「患者さんの生きようとする意志が強くなりました!早く、二度目の救命処置を始めよう!」 裕也は再び病室から出るように言われたが、今度は抵抗しなかった。 彼は壁に寄りかかり、両手を固く握りしめた。 この時、裕也は、自分が愛菜を失うことを恐れていることに、全く気づいていなかった。 長く感じられた3時間が過ぎた後、医師は愛菜が大事には至らなかったと告げた。 医師は眉をひそめて裕也を見つめた。「高橋さん、患者さんはまだ不安定な状態です。もう彼女を刺激するようなことは言わないでください」 それから、愛菜は丸3日間、意識が戻らなかった。 裕也はずっと病室に泊まり込んで彼女を看病した。その間、莉子や仲間たちから何度も電話があったが、彼はすべて適当にあしらって切っていた。 こうして愛菜が目を覚ますと、彼女の手に寄りかかるようにして眠っている裕也の姿が目に入った。 そして、まつ毛をかすかに震わせながら、ぼんやりと天井を見つめる彼女はそれが夢なのか現実なのか、すぐには分からなかった。 自分が意識を失っている間、裕也はずっと病院で看病してくれていたのだろうか? その可能性を考えると、愛菜の心に複雑な感情が湧き上がった。 彼女はゆっくりと手を伸ばし、裕也の乱れた髪に触れようとしたが、その手は途中で止まった。 すると、何かの気配を感じたのか、裕也ははっと目を覚ました。 充血した彼の目が愛菜の視線と絡み合うと、一瞬、ぱっと輝いた。 しかし、それもほんの一瞬のことだった。 裕也の口調は相変わらず冷たかった。だが、そこには彼自身も気づいていないような気遣いが滲んでいた。「気分はどうだ?」 愛菜は、裕也の充血した両目を見て、思わずきょとんとした。 裕也は名家の生まれで、卒業後は自ら盛遠グループを立ち上げた。北市を代表する若手経営者だ。 恵まれた家柄、端正な容姿、そして類まれな経営手腕。その全てが、彼を北市中の令嬢たちが憧れる理想の結婚相手にしていた。 だから人前では、裕也はいつも気高く、冷静沈着だった。 そんな高嶺の花である彼が、今は見るも無残なほどやつれていて、顎には青黒い無精髭が生え、髪は乱れていたのだった。そしていつもはパキッとしている高級シャツも、今ではくしゃくしゃで、まるで安物のようだ。 愛菜はそんな裕也の姿を見て、胸の中に何とも言えない複雑な感情が渦巻くのを感じた。 彼女は顔をそむけ、静かに言った。「……私は大丈夫。心配しないで」 すると、裕也の眼差しが、すっと沈んだ。 愛菜の冷たい態度に、心の中で得体の知れない怒りがこみ上げてきた彼は鼻で笑うと、言い放った。 「誰が心配なんかするか。俺の目の前で死なれたら、縁起が悪いと思っただけだ」 第5話 それを聞いて愛菜は唇を引き結び、それ以上は何も言わなかった。 すると、病室はしばし静まり返り、心電図モニターの規則正しい電子音だけが響いていた。 しばらくして、裕也は突然立ち上がった。そして、少し乱暴に水を注ぐと、彼女の前に突き出し、ぶっきらぼうな口調で言った。「飲め」 そう言われて、愛菜はきょとんとした顔で彼を見上げた。 裕也は彼女の視線に気まずそうに眉をひそめると、苛立ったように言った。「何見てんだよ。先生がお前は脱水症状だって言ってたぞ。また倒れられたら、迷惑なんだよ」 そう言われて愛菜はうつむいてコップを受け取った。その時、彼女の指先が裕也の手に不意に触れた。 すると裕也は、まるで火傷でもしたかのように、さっと手を引っ込めた。そして愛菜に背を向けると、冷たい声で言った。「……飲み終わったら言え」 そう言って、彼は大股で窓際まで歩いていくと、まるで病室の空気を息苦しく感じたかのように、イライラした様子でネクタイを緩めた。 愛菜は水を一口ずつ飲みながら、裕也の背中を横目で見た。 彼は背筋を伸ばして、肩に力を入れて立っているのだった。それはまるで、何かを必死にこらえているみたいに張りつめている様子だ。 愛菜はふと、意識を失っていた時にかすかに聞こえた、あの叫び声を思い出した―― 「愛菜!目を覚ませ!」 あんなに取り乱していて、絶望に近いような声は本当に目の前の冷たい男の口から発せられたものなのだろうか。 そう思いながら、愛菜はうつむき、口の端に苦い笑みを浮かべた。 彼はおそらく、自分が死んだら、憎しみをぶつける相手がいなくなることを恐れているだけなのだろう。 目が覚めた日を最後に、愛菜はその後3日間、裕也の姿を見ることはなかった。 一方で、智子の病状は悪化し、医師からは心の準備をしておくようにと、やんわり告げられた。 愛菜が智子の状況を正人に伝えると、正人は海外なら治療できると言った。そして、すべての準備は整っていて、あとは彼女が智子を連れてくるだけだ、と告げられた。 愛菜はもうここを離れる決心をしていた。それに、智子の病状はもう一刻を争う状態で、早く治療を受けさせなければならなかったから、彼女は正人にメッセージを送った。 【1週間後にはパスポートとビザが手に入るから、すぐにお母さんを連れて海外に行くわ】 …… その間、裕也から連絡は来なかった。彼はまるで、突然愛菜の世界から完全に姿を消してしまったかのようだった。 そして、荷造りをしながら、愛菜は家にあった裕也に関するものをすべてゴミ箱に捨て、電話番号、ライン、そしてSNSアカウントをもブロックした。 さらに、彼女は盛遠にはもう行かなかった。家に荷物を取りに帰る以外は、病院で智子に付き添っていた。 しかし3日目の朝、愛菜は盛遠の人事部から電話を受けた。 「原田さん、もう3日も無断欠勤されていますが。もしかして、退職されるおつもりですか?」 そう言われて愛菜は少し意外だった。裕也にあの動画を会社のロビーで流されてしまったから、彼女は会社の人はみんな自分を軽蔑し、馬鹿にしていると思っていた。でも、人事の人の口調は、予想外なことにいつもと変わらず丁寧なままだった。 だが、そう思いながらも愛菜は落ち着いた声で答えた。「はい、退職します」 すると、電話の向こうで担当者は少し間を置いてから、ためらいがちに言った。「でしたら、お手数ですが人事部まで来て、退職手続きをお願いします。後任の社長秘書への引き継ぎもありますので」 手続きが必要なのは分かっていた。でも、愛菜はもう盛遠には一歩も足を踏み入れたくなかった。「引き継ぎ資料はすべてまとめてあります。後でメールで送りますので、会社にはもう行きませんので」 そう言って、彼女は通話を切ろうとした。 その瞬間、スマホから怒りを抑えた声が聞こえてきた。 「誰が辞めていいと言った? 愛菜、会社に2000万円以上の損害を与えておいて、それで逃げられるとでも思ってるのか?」 それを聞いて、愛菜の指は一瞬で固まり、スマホを落としそうになった。 彼女は絞り出すような声で言った。「裕也、あれは私のミスじゃない。あなたが仕組んだ罠じゃない」 しかし、一方で裕也の声は何の悪びれもない様子だった。「だが、お前のせいで会社に2000万円の損害が出たのは事実だ」 そして、彼はさらにあっけらかんとした口調で続けた。「今すぐ会社に来い。さもないと、法務部から直接お前の母に連絡させるからな。それでもいいのか? 彼女が、そんな刺激を受けたらどうなるかな?」 そして、愛菜が何かを言う前に、電話は一方的に切られた。 彼女はその場に立ち尽くし、胸を激しく上下させて、息が詰まりそうな思いに襲われたのだった。 裕也は、智子が愛菜の弱みだと知っている。だから、何度も何度もそれにつけこんで彼女を脅すのだ。 しかしかつて智子のことを一番に気にかけてくれていたのも彼だった。 あの時、彼は自ら病院に連絡を取って、智子を北市で一番良い中央病院に転院させてくれた。さらには大金をつぎ込んでヘリまで用意して、国内で最も権威のある心臓外科医の診察を手配してくれていたのだ。 それなのに今、彼は智子の命は自分の一言で、いとも簡単に奪えるのだということを彼女に知らしめようとしているのだ。 第6話 結局、盛遠に向かった愛菜が社長室のドアを開けると、裕也は彼女に背を向けて、大きな窓の前に立っていた。 たった3日会わなかっただけなのに、彼の後ろ姿はすっかり別人のように見えた。 愛菜は落ち着いた声で切り出した。「社長、退職の手続きをしに来ました」 裕也がゆっくりと振り返る。その視線は、突き刺すように彼女に鋭く向けられた。 彼が一歩ずつ近づいてくる。革靴がカーペットを踏む音は、重苦しく空気を押しつぶすようだった。 「退職だと?」裕也は鼻で笑った。「愛菜、言ったはずだぞ。ここから逃げられるなんて思うなよ」 その憎しみに満ちた視線を受けて、愛菜は息が詰まった。 「3年間」彼女の声は震えていた。「あなたは私に復讐し続けた。まだ足りないの?」 「たかが3年しか経っていないじゃないか!」裕也はこめかみに血管を浮き上がらせると、いきなり愛菜の顎を掴んだ。「お前は3年苦しんだだけだ。でも杏は、永遠に帰ってこないんだぞ!」 愛菜には、もう彼と言い争う気力も残っていなかった。 裕也は頑なに彼女が犯人だと信じ込んでいる。たとえ百回説明したって、聞き入れてはくれないだろう。 「どうすれば、あなたは私を許してくれるの?」愛菜は顔を上げ、彼の憎悪に満ちた視線と向き合った。 その瞳には、もう何の光も宿っていなかった。「私が死なないと、あなたの気は済まないの?」 裕也は、愛菜がこんな表情をするのを今まで見たことがなかった。 それは生気を失った、どんよりしている沈んだ表情だった。 その瞬間、彼の心臓は何か鋭いもので抉られたかのような痛みに襲われ、愛菜の顎を掴む手から、思わず力が抜けたのだった。 裕也の脳裏に、病室のベッドで死にかけていた愛菜の姿がよぎった。 医師は言っていた。愛菜にこれ以上、強いストレスを与えてはいけないんだ。 そう思うと裕也の心は理由もなくかき乱された。彼は無意識に手を放すと、その指先は微かに震えていた。 「考えが変わった」裕也は震える指先を隠し、氷のような視線で愛菜を見つめた。「このままお前を死なせるのは、あまりに生ぬるい。 お前が杏にしたことは、一生かかっても償いきれない。 たった3年ぽっちで足りるわけがないだろ。俺はこれからもお前を苦しめ続ける。お前は残りの人生、ずっと俺の傍で杏のために罪を償い続けろ!」 そう言われて愛菜は、盛遠ビルを出るまでずっと生きた心地がしなかった。 この3年間で育んだ甘い思い出のすべてが鋭い矢に変わり、一本、また一本と彼女の胸に突き刺さる。その痛みで、彼女は息をすることさえ苦しかった。 自分が意識を失っていた間、裕也は一時も離れずそばにいてくれたと聞いた。 だから、彼にはまだ少しでも愛情が残っているのかもしれない、と期待してしまったのだ。 それなのに、さっきの裕也は何の感情もこもらない瞳で、これからもずっと苦しめ続けると言い放った。 痛みに耐えながら、愛菜はふと、自分が馬鹿らしく思えてきた。 もう裕也への気持ちは断ち切ったはずだった。なのに心のどこかで、まだ彼に期待している自分がいたのだ。 そうやってぼんやりと考え事にふけっていて、一台の車が猛スピードで歩道に突っ込んでくることに全く気づかなかった。 「愛菜!」 すると、焦りと驚きを含んだ声が、すぐ後ろから聞こえた。 次の瞬間、強い力で腕を引かれ、たくましい胸の中にすっぽりと抱きしめられた。 片や裕也は肩で息をしていて、胸が激しく上下していた。 彼は愛菜の手首を強く掴んだまま、抑えきれない怒りを声ににじませた。「前を見て歩け! また車に轢かれそうになったじゃないか!」 そう言われて、愛菜はようやく我に返った。 呆然と顔を上げると、動揺を隠せない裕也の目と視線がぶつかった。 なぜ、裕也がそんなに慌てる必要があるの? こうなることこそ、彼が望んでいたはずなのに。 彼女は口の端を歪めた。死にかけた恐怖など微塵も感じさせない様子で言った。「ずっと私に償いを求めているんでしょ?私が死ねば、あなたの望み通りじゃないか?」 その言葉に、裕也は息をのんだ。まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。 ついさっき、社長室で愛菜が背を向けて去っていく姿を見送ったとき、彼は今まで感じたことのない恐怖に襲われていた。 だから追いかけてきたのに、目にしたのは彼女が車に轢かれそうになる瞬間だった。 裕也がさらに何か言おうとした時、二人の背後から明るい女の声が聞こえた。 「裕也さん、こんな所で何をしているの?」 裕也は視界の隅に莉子を捉えると、まるで厄介払いをでもするかのように、愛菜を乱暴に突き放した。 愛菜は無防備に地面に倒れ込み、ざらついたアスファルトで肘を擦りむいて、生々しい血がにじんだ。 それを見て裕也ははっとした顔で、思わず手を差し伸べようとした。 だが、すぐにその腕を莉子に絡め取られた。 莉子は二人を値踏みするように見渡すと、愛菜には目もくれず、愛らしい笑顔で言った。「裕也さん、そろそろ取締役会が始まるよ。 どうでもいいことで時間を使わないで。みんな、あなたを待ってるから」 一方で、愛菜の目は、固く組まれた二人の腕に釘付けになった。 そして、どうしようもなく、胸に苦いものがこみ上げてくるのを感じた。 裕也、もう莉子と付き合い始めたんだ。 それもそうか。 莉子は彼たちに大切にされていて、二人は幼馴染で、とてもお似合いのカップルだから、元々結ばれるべきだった。 そう思っていると裕也は、一度も振り返ることなく去っていった。 しばらくして、愛菜はよろよろと立ち上がると、足を引きずりながら通りまで出てタクシーを捕まえた。 病院に戻ると、珍しく智子の意識がはっきりしていた。 彼女は心配そうに愛菜を見つめ、そっと尋ねた。「愛菜、裕也さんはここ数日ずっと顔を見せないけど、お仕事が忙しいのかしら?」 すると、りんごの皮をむいていた愛菜の手が、ぴたりと止まって、彼女は顔を上げ、にっこりと笑って見せた。 「うん。彼の会社、今が一番大変な時期みたい。だから、私と一緒に海外に行く時間は取れないんだって。 お母さん、今はそんなこと考えないで。ちゃんと病気を治すことだけ考えて。 元気になって、孫が生まれたら一緒に遊べるようにもなるでしょ」 すると、闘病生活ですっかり生気を失いかけていた智子の顔に、ふと期待の色が浮かんだ。「そうね、あなたの言う通りにするわ。 あなたと裕也さんは美男美女だから、生まれてくる子どもはきっと、もっと可愛いでしょ」 子ども、か。 そう思って、愛菜は心の中で嘲笑いをを浮かべた。 自分と裕也との間に、子どもが生まれることなんて永遠にないのに。 その時、スマホにメッセージの受信があったから、愛菜はそれを取り出して画面を確認すると、彼女の表情がさっと変わった。慌てて智子に布団をかけ直すと、愛菜は優しく声をかけた。 「お母さん、会社の同僚から連絡があって。少しだけ外に出てくるね」 第7話 でも、病院の屋上に着いた愛菜を待っていたのは、裕也ではなく莉子だった。 すると、愛菜は眉をひそめて尋ねた。「私を呼び出したのは裕也じゃないの?どうしてあなたがここにいるの?」 白い長袖のワンピースを着た莉子は、振り返って愛菜ににっこりと笑いかけた。「確かに、あなたを呼び出したのは裕也さんよ。でも、彼は私に誤解させたくないからって、あなたへの伝言を頼まれたの」 彼女に誤解させたくないから、か。 その言葉で愛菜は胸に鋭い痛みが走るのを感じ、指先がかすかに震えた。 裕也が本気で誰かを大切にしようとすると、こうも気遣うようになるんだな。 そして愛菜は思わず自分と彼が付き合って二年目のことを思い出した。裕也が取引先の女性と二人きりで会っていたことに、愛菜が少しやきもちを焼いたことがあった。 その時、彼女も一緒に行きたいと言った。 社長秘書として同席するのはごく自然なことなのに、裕也は絶対に首を縦に振らなかった。 しかし、その女性からは、何度も思わせぶりな写真を個人的に送りつけられてきたから、やきもちを抑えきれなくなった愛菜は、車に隠れてこっそり後をつけたのだった。 でも、途中で裕也に見つかってしまったのだ。 それで裕也は二人が会う予定をしている料亭が山頂にあったにも関わらず、あの時、腹痛を起こした愛菜を山の中腹に置き去りにしたのだった。 あの日、彼女は6時間もかけて山を降り、やっとタクシーを拾うことができた。 そう思うと愛菜は、思わず笑いがこみ上げてきた。3年間も一方的に思いを寄せ、馬鹿みたいに弄ばれてきた自分が滑稽に思えてたまらなくなったからだ。 「それで、伝言って何?」愛菜は無表情で尋ねた。「悪いけど早くして。私は忙しいの」 しかし、莉子はそれには答えず、眼下に広がるきらびやかな夜景に目をやった。「きれいな街よね。でも愛菜、あなたはこんな街に来るべきじゃなかった」 そう言われて愛菜は、すぐには意味が分からなかった。「どういうこと?」 だが、そう言い終わらないうちに、莉子が突然駆け寄ってきて、彼女の手を掴んだ。 愛菜は驚いて、とっさにその手を振り払おうとした。「何するの?」 すると莉子は、不気味な笑みを浮かべた。彼女は愛菜の手首を強く握りしめると、甲高い声で叫んだ。「愛菜、何するの?!押さないで!」 愛菜が何が起きたか理解する前に、莉子の体がぐらりと後ろに傾き、そのまま手すりを乗り越えて落ちていった。 すると、「きゃあ――」莉子の悲鳴が、夜空に響き渡った。 愛菜は恐怖に駆られて手すりに駆け寄ったが、かろうじて彼女の服の裾を掴んだだけだった。 しかし、するりと指の間から布が抜け落ち、莉子の体はあっという間に闇の中へ吸い込まれていった。 「莉子!」 裕也は、目の前で莉子が落ちていくのを見て、怒りで目を見開いた。 彼の体は震え、3年前の光景が脳裏に蘇った。 3年前、杏も白いワンピースを着て、盛遠ビルの屋上から飛び降りた。駆けつけた時には、白い服の裾がひらりと消えていくのが見えただけだった。 その瞬間、あの時の光景と今この時がぴったり重なったのだ。 裕也は手すりに駆け寄り下を覗き込んだ。すると、莉子が階下に設置された救助用のエアマットの上に落ちて、ぐったりしているのが見えた。 彼はほっと息をつくと、すぐさま振り返った。その目は燃え盛る怒りに満ちていた。 「愛菜!この世に、お前ほど根性悪い女がいるとはな!」 裕也は何の躊躇もなく、愛菜の首を絞め上げた。「3年前は杏、そして今度は莉子か。お前は一体、何人殺せば気が済むんだ!」 足が宙に浮き、愛菜の顔は一瞬で赤く染まった。苦痛に歪む口から、かろうじて言葉を絞り出す。「違う。私じゃない……彼女が、自分で……」 「まだ嘘を言うか!なぜやったことを認めない?なぜ一度も本当のことを言わないんだ!」裕也は怒鳴り、手に込める力を強めた。「今度こそ、俺はこの目で見たんだぞ。お前が莉子を突き落とすところをな!」 窒息しかけながら、愛菜は首を絞める手を必死に叩いた。涙が止めどなく溢れ出す。「違う――」 自分じゃない。 このまま殺されると思った、その瞬間。裕也は突然手を離した。 愛菜は地面に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。 裕也は冷え冷えとした視線で彼女を見下ろし、突き放すように言った。「愛菜、今度こそお前に償わせてやる」 そう言うと、彼は踵を返し、足早に屋上から去っていった。 意識が遠のく中、遅れてやってきた仲間に裕也が命じる声が聞こえた。「こいつを連れて帰って、閉じ込めておけ」 それから愛菜は、廃墟となった邸宅の地下室に乱暴に放り込まれた。 激痛で意識を取り戻したが、状況を把握する間もなく、地下室の鉄の扉が重い音を立てて閉められた。 最後の光が消えた時、愛菜は遅まきながら自分の状況を理解した。 自分は、裕也に閉じ込められたのだと。 光の差さない地下室で、どれくらいの時間が過ぎたのか、愛菜には分からなかった。 母の病気はもう待ったなしの状態だし、叔父も自分の渡航を待っているはずだ。 彼女は必死で鉄の扉を叩いたが、何の応答もなかった。 水一滴、食べ物一口さえ与えられず、愛菜は目眩がして、もう這い上がる力も残っていなかった。 だが、彼女を何よりも絶望させたのは、自分が暗闇を怖がっていたことだった。 裕也は、自分が暗闇を怖がることを知っている。だからわざと、この真っ暗な地下室に閉じ込めたのだ。 本当に、それほど自分のことを憎んでいるの? こうして絶望感がじわじわと愛菜の生きる気力を奪っていき、もうこのまま地下室で誰にも知られず死んでいくのだと諦めかけた、その時。ついに地下室の扉が開かれた。 眩い光の中に、裕也の姿が浮かび上がった。 彼はパリっとしたスーツを着こなし、険しい表情で立っていた。その視線は、まるで鋭い刃物のようだ。 「愛菜」冷たく言い放つ。「莉子が無事だったことを、幸運だと思え」 愛菜は、きょとんとした。 あの病院は15階建てだ。あんな高いところから落ちて、莉子が無傷でいられるなんてことがあるだろうか? その目に浮かんだ驚きが、裕也の怒りに火をつけた。彼は大股で近づき、愛菜の体を無理やり引き起こした。 「なんだ?がっかりしたか?」裕也の声は、氷のように冷たい。「残念だったな。莉子は運よく救助用のエアマットの上に落ちたんだ」 その瞬間、愛菜はすべてを悟った。莉子は、わざとやったのだ。 彼女は必死に首を横に振り、弁解しようとした。「違う、あの女が……」 しかし、その言葉はまだ言い終わらないうちに、バチン。 乾いた音が響き、愛菜の頬に激しい痛みが走った。 目の前が真っ暗になり、また意識を失いかけた。 「お前みたいな女は、何度死んでも足りん!」裕也は、彼女を力任せに床へ投げつけた。 愛菜は痛みでうずくまり、声を出すこともできなかった。 どうして信じてくれないの?一度でいいから、信じてほしかった。 視界に、ぴかぴかに磨かれた革靴が映る中、彼の冷たい声が聞こえてきた。 「莉子は脳震盪で、全治3ヶ月の診断だ。 今日からお前は、莉子の世話係だ。彼女が何を要求しようと、お前は黙って従え」 第8話 そして、愛菜は無理やり、莉子の世話をさせられることになった。 愛菜にはもう裕也に対する未練もなければ、莉子に対して後ろめたいこともなかった。しかし、裕也は智子を人質に彼女を脅したのだ。 母親は、愛菜にとって唯一の弱みだった。 大事な治療の時期だから、少しでも危険にさらすことはできないのだ。 だから、ビザが下りるまであと3日。愛菜は従うしかなかった。 この3日間、莉子はあらゆる手を使って彼女を苦しめた。 裕也はそばで冷ややかに見ているだけで、何も言わなかった。 1日目、莉子は西区の星空カフェのコーヒーが飲みたいと言い出し、愛菜に歩いて買いに行かせた。 そのカフェは邸宅から歩いて往復3時間もかかる場所にあった。 愛菜がやっとの思いで買ってきたのに、莉子は一口飲んだだけで全部床に吐き出した。「冷めちゃってるじゃない。買い直してきて」 「砂糖が少ないわ。買い直して」 「甘すぎる!わざと私を苦しめたいの?買い直して!」 こうして3回も往復させられ、カフェが閉まる時間になった。愛菜の足をマメができるほど血が滲むまでこき使って、莉子はそれでようやく「しぶしぶ」諦めた。 2日目、莉子は愛菜に髪を洗ってあげると言って聞かなかった。 彼女はわざと愛菜の目にシャンプーを入れたあと、さらに、愛菜が目を開けられず苦しんでいるうちに「うっかり」髪を大量に引き抜いた。 そして、「ごめん、愛菜」莉子は悪びれる様子もなく言った。「ちょっと手が滑っちゃって。怒ってないよね?」 愛菜がヒリヒリする目を水で洗い流していると、後ろから裕也の冷たい声が聞こえた。「お前が謝る必要はない。 こいつが受けて当然の罰だ」 朝から何も食べていないのに、愛菜はまるで苦い薬でも飲んだかのような絶望感を味わっていた。 その夜、彼女は全身が痛み、眠ることができなかった。 3日目、莉子は海市の海鮮が食べたいと言い出した。 裕也なら電話一本で空輸させられるのに、彼は愛菜に車で買いに行くよう命じた。 北市と海市の間は往復で20時間以上もかかるのだが、北市に戻る頃には、ちょうどビザを受け取って母親を連れて出国できそうだったから、愛菜はこれ以上面倒事を起こしたくなかった。だから彼女は受け入れることにした。 しかし、書斎の外で、彼女は莉子と裕也の会話を耳にした。 「裕也さん、もう手配は済んでるわ。ブレーキに細工をさせたの。北市から海市へ向かう環海通りには急な坂があるから、そこでブレーキが効かなくなって、車ごと海に落ちるはずよ。 そうなれば、車に閉じ込められて、誰にも助けを呼べずに、ただ死を待つしかないわ。 そうすれば、あの女も私と杏ちゃんが味わった絶望を思い知るはずよ」 それを聞いて、裕也の脳裏に、病床で死にかけていた愛菜の姿がよぎった。彼は持っていたタバコを突然もみ消すと、少し黙り込んだ。そして、かすれた声で尋ねた。「そこまでする必要があるのか?」 莉子は泣きそうな声で言った。「裕也さん、あなたには分からないのよ。 私が愛菜に屋上から突き落とされた時、初めて杏ちゃんの絶望や恐怖、苦しみが分かったんだから。 あの女が私たちにしたことと比べたら、こんなの大したことないじゃない。 安心して。あなたの言うことはちゃんと聞くから、人殺しはしないさ。全部手配済みよ。近くに捜索隊を待機させてあるし、本当に死なせたりはしないから」 裕也は長い間、黙っていた。 莉子は声を詰まらせた。「裕也さん、私は本当に死ぬところだったのよ」 「わかった」裕也の声は、一晩中タバコを吸い続けたかのようにひどくかすれていた。「お前の思うようにやればいい」 それを聞いて、ドアの外に立っていた愛菜は、爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。でも、痛みは感じなかった。 彼女は口の端を吊り上げ、皮肉な笑みを浮かべた。 裕也は前に残りの人生をかけて杏のために罪を償わせると言っていた。だから、最初から彼女を許すはずがないんだ。 でも、もう付き合ってなんていられない。 部屋の中が静かになるのを待って、愛菜はドアをノックして中に入った。 裕也は彼女を見た瞬間、目に一瞬だけ動揺が走った。 「何の用だ?」 一方で愛菜は全く動揺を見せず、落ち着いた声で言った。「さっき病院から連絡があって、母の容体が良くないそうだ。看病に行きたいので、海市に行くのは明日にしてもらえない?」 それを聞くと莉子は迷うことなく、悪意を込めて断った。「だめに決まってるでしょ」 しかし裕也が突然口を挟んだ。「いいだろう。今日は病院へ行け。海鮮は急がない」 愛菜は彼を一瞥したが、それ以上心が動かされることはなかった。 …… そして、ビザを受け取り、病院の手配を全て済ませた後、愛菜は車の鍵をもらうために裕也のいる邸宅へ向かった。 彼の手から鍵を受け取った時、愛菜はふと尋ねた。「裕也。この3年間、私のこと愛してた?」 それを聞かれて、裕也の体は一瞬こわばった。 だが、愛菜は彼の反応を気にせず、一人で続けた。「私が盛遠に入ったばかりの頃、あの人たちにいじめられてた時、あなたは何度も陰で助けてくれたわ。最初は私に見つかっても、意地を張って認めようとしなかったじゃない。 だけど、企画の修正に付き合ってくれたり、プロジェクトの進め方を丁寧に教えてくれたり、夜中まで残業に付き合ってくれたり。私自身ですら忘れかけていた誕生日まで、あなたは覚えててくれた」 それを聞いて、裕也の喉がごくりと鳴り、呼吸が次第に荒くなっていった。 しかし、愛菜はさらに続けた。「私は本気で思ってたの。自分がなんて幸運なんだろうって。こんなに大事にしてくれる人に出会えるなんて……」 「もうやめろ!」そこまで聞いて裕也は拳を握りしめ、愛菜の言葉を遮るように怒鳴った。 彼の瞳には複雑な感情が渦巻いていて、それが何なのかは読み取れないほどだった。「俺が自分の仇を愛するはずがないだろう!」 すると、愛菜は軽く微笑んで、車に乗り込んだ。 10時間後、一台の黒い乗用車が、まるで弓から放たれた矢のように、底の見えない海へと突っ込んでいった。