ピントを合わせても、あの日は戻らない

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ピントを合わせても、あの日は戻らない

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二宮夏美(にのみや なつみ)と藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)は幼馴染で、そして二人はそのまま大人になって結婚した。 夏美は18歳の時、両親...

Chương (1)

第1章

二宮夏美(にのみや なつみ)と藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)は幼馴染で、そして二人はそのまま大人になって結婚した。 夏美は18歳の時、両親が交通事故に遭った。そのせいで父親は亡くなり、母親の二宮香織(にのみや かおり)は植物状態になったのだった。その時祐介は悲しみに暮れる彼女を抱きしめ、自分のキャッシュカードを差し出した。 「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」 それから、夏美が22歳で大学を卒業すると、祐介はすぐにプロポーズした。彼は家族から勘当されるほどの覚悟で、ようやく彼女を妻に迎えたのだ。 23歳の時、祐介は夏美のために豪華な結婚式を挙げたのだった。その時のドレスには9999個ものダイヤで二人の名前が刺繍され、靴は有名デザイナーによる特注品で、値段は計り知れないほど高価なものだった。そして、ベールに至っては、彼自身が手縫いしたものを使ったのだ。 さらに、26歳の時、夏美が胃がんを患うと、祐介は全国の名医を訪ね歩き、あらゆる神社でひたすら彼女の回復を祈り続けた。その甲斐あって、夏美は健康を取り戻した。 だから、後になって祐介が子どものできにくい体質だと知った時、夏美は何度でも体外受精に挑むことを受け入れたのだ。 その数、実に99回。彼女のお腹は注射の痕で埋め尽くされ、家に溜まった注射針は床を覆うほどの数だった。 それでも、彼女は文句一つ言わなかった。 そして32歳になった今、まる6年もの歳月をかけて、ようやく夏美は祐介との子どもを授かったのだ。 しかし、喜びいっぱいで母子手帳を受け取りに役所に行った時、職員は、夏美にこう告げたのだ。 彼女は戸籍謄本上では未婚となっているのだった。 そして、彼女が言う夫である祐介の妻は、藤原梨花(ふじわら りか)という女性だそうだ。 それは、かつて祐介が「従妹」だと紹介していた女性だった。 そして、子どものできにくい体質の話もまた、すべてが嘘だったのだ…… 第1話 99回にも及ぶ体外受精の末、二宮夏美(にのみや なつみ)はようやく赤ちゃんを授かった。 幸せな未来を思い描きながら、彼女はまず役所へ向かった。生まれてくる子の戸籍について相談するためだ。この子が藤原祐介(ふじわら ゆうすけ)の正当な跡継ぎとして、彼の戸籍に無事に入れるようにと願っていた。 「ええと、二宮さん」役所の職員は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。「法律上、未婚の母親から生まれた子の戸籍は、原則として母親のものになります。父親の戸籍に入れることを希望される場合は、夫婦の婚姻関係を証明するものが必要になるんです」 その言葉を聞いた夏美は、無数の注射痕が残る自分のお腹をさすりながら、信じられないという口調で言った。 「未婚の母親?でも、私はもう結婚していますけど……」 夏美は職員の言葉が信じられず、心臓が喉から飛び出しそうだった。 「そんなはずはありません。もう一度確認していただけませんか?パソコンが故障しているんじゃ……」 夏美が諦めきれない様子なのを見て、職員は複雑な表情を浮かべた。しかし、彼女の言葉を直接否定はしなかった。 そして、わざと声を潜めてこう言った。 「二宮さん、あなたは現在未婚です。ですが、『ご主人』の情報を調べたところ……彼の妻は藤原梨花(ふじわら りか)、という方です」 その瞬間、頭をガツンと殴られたような衝撃が走ったようで、夏美は、椅子に崩れ落ちた。 梨花? それは祐介がかつて連れてきた従妹じゃなかったの? いつから彼の妻になったっていうの? 「すみません、もし今手続きをされないのでしたら、他の方のご迷惑になりますので」 職員の声にはっと我に返り、夏美は慌ててその場を離れた。 祐介の妻が、梨花? そんなはずない。 夏美と祐介は幼馴染だった。彼女が18歳の時、両親が交通事故に遭ったせいで、父親は亡くなり、母親の二宮香織(にのみや かおり)も植物状態になって、今も集中治療室で生命を維持している状況だ。 その時、祐介は悲しみに暮れる夏美を抱きしめ、自分のキャッシュカードを差し出した。 「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」 それから、夏美が22歳で大学を卒業すると、祐介はすぐにプロポーズした。彼は家族から勘当されるほどの覚悟で、ようやく彼女を妻に迎えたのだ。 23歳の時、祐介は夏美のために豪華な結婚式を挙げたのだった。その時のドレスには9999個ものダイヤで二人の名前が刺繍され、靴は有名デザイナーによる特注品で、値段は計り知れないほど高価なものだった。そして、ベールに至っては、彼自身が手縫いしたものを使ったのだ。 さらに、26歳の時、夏美が胃がんを患うと、祐介は全国の名医を訪ね歩き、あらゆる神社でひたすら彼女の回復を祈り続けた。その甲斐あって、夏美は健康を取り戻した。 だから、後になって祐介が子どものできにくい体質だと知った時、夏美は何度でも体外受精に挑むことを受け入れたのだ。 その数、実に99回。彼女のお腹は注射の痕で埋め尽くされ、家に溜まった注射針は床を覆うほどの数だった。 それでも、彼女は文句一つ言わなかった。 そして32歳になった今、まる6年もの歳月をかけて、ようやく夏美は祐介との子どもを授かったのに……二人が実は結婚していなかっただなんて? こんなこと、ありえない。 そう思っていると涙が、予期せず頬を伝った。夏美は祐介との過去を、何度も何度も思い返していた。 いったい、何がどう間違ってこうなったんだろう? そうこうしているうちに、夕方近くになって、祐介から電話がかかってきた。 「なぁ、どこにいるんだ?今日一日、顔を見てないじゃないか。俺が迎えに行こうか?」 電話の向こうから、いつものようなとろけるように甘い声を聞いていると、夏美はまるで夢の中にいるような気分になった。 「ねぇ、祐介、私のこと愛してる?」 彼女がそんなことを訊くのは、これが初めてだったから、電話の向こうで、何かが床に落ちる音が聞こえた。 「愛してる。俺は、君を愛しているよ。 どうしたんだ?もしかして、今回も妊娠できなかったのか?大丈夫だよ、夏美。今いる場所を教えてくれ。すぐに迎えに行くから」 30分後、二人は一緒に家に着いた。 ドアを開けるとすぐ、祐介は優しく夏美にスリッパを履かせてあげた。 すると、物音を聞きつけたのか、梨花が勢いよく二階から駆け下りてきた。それと同時に彼女の弾んだ声も、部屋中に響き渡ったのだった。 「祐介さん、私ね、妊娠……」 そう言いかけたが、夏美の姿が目に入ったのか、梨花は階段の途中で足を止め、声のトーンを変えた。そして、その顔から笑顔もすっと消えたのだ。 「夏美さん、祐介さん。お帰りなさい」 一方で祐介は、素っ気なく答えた。 「ああ。今度から口の利き方に気をつけろ。それと、大声で騒ぐんじゃない。夏美は、体が弱いんだから」 「はい」 夏美は目の前の二人を見ながら、役所の職員の言葉を思い出していた。 彼女は急いでベランダに出ると、弁護士をしている親友・酒井若葉(さかい わかば)に電話をかけた。 「お願いがあるの、梨花と祐介の関係を調べて」 彼女が通話を続けていると、二枚のガラス窓の向こうで、祐介が梨花の額に愛おしそうにキスをするのを、夏美は見てしまったのだ。 その瞬間、頭のてっぺんから心臓まで一本の刃物で貫かれたような痛みが走った。 「他には?夏美、夏美?」 一方で、夏美は、キッチンにいた二人が出てこようとしているのに気づくと、さっと振り返ってうつむいた。 そして、彼女は声を押し殺しながら、ぽたぽたと服に涙を落とした。 「ある。私の死亡を偽装してほしいの。祐介からきっぱり離れたいの。永遠にね」 第2話 そう言って電話を切ると、スマホが再び震え出したのだった。 夏美が開くと、知らない番号からのメッセージだった。 【はじめまして。祐介さんの妻です。今夜、晩餐会でお会いしましょう】 顔を上げると、梨花がスマホをポケットにしまうところだった。 夜になり、空が満点の星で飾られる頃、三人は一緒に晩餐会へと向かった。 数分後、夏美は気分転換を口実に祐介のそばを離れ、会場の外にある甲板へとやってきた。 「夏美さん、私ですよ」 海風が夏美の体を吹き付け、彼女は少しだけ身震いした。 「夏美さん、驚かないのですか?」 夏美は振り返ると、梨花の指にはめられたエメラルドの指輪を見て、力が抜けたように笑いながら首を横に振った。 そして、彼女の涙が頬を伝って流れ落ちた。 やっぱり、すべて本当のことだったんだ。 何年も前、祐介と結婚した時から、彼の母親である藤原陽子(ふじわら ようこ)は藤原家の嫁に受け継がれるこの指輪を、夏美に渡すのを嫌がっていたのだ。 だから、祐介は夏美のために大金をはたいて、そっくりな指輪を買ってくれたのだ。 それは色合いも質も、本家のものより何倍も良いものだった。 「夏美さん、あなたは知らないでしょうけど、本当の祐介さんの妻は、私ですよ。でも、あなたが祐介さんと幼馴染だから、彼も手放せなかったんでしょうね。気持ちは分かります。 でも今、私は、妊娠したんです。この子のためにも、はっきりさせなくちゃいけないと思いまして」 暗闇の中、夏美は梨花が自分のお腹を優しく撫でるのを見て、心臓を鷲掴みにされたかのように、激しく痛んだ。 「昔、私は普通の大学生でした。祐介さんとは大学の講演会で知り合ったんです。あの時彼は全然相手にしてくれませんでした。でも、私は祐介さんをあまりにも愛しているから…… たとえ薬を盛ってでも関係を持ちたいと思い、その過程を撮影して脅してでも、結果的に彼と一緒にいられるなら、それでも構わないと思いました。 それに、祐介さんのお母さんも私のことをとても気に入ってくれています」 そう言いながら、梨花は指にはめられたエメラルドの指輪をくるりと回した。 「男って、どんなに自分の欲望を抑えていても、色仕掛けを仕掛けられたら、いつまでも我慢できるわけじゃありませんのよ。しかも、あなたという比較対象がいれば、なおさらです」 しかし、彼女がそう言い終える前に、夏美はもう我慢できず、梨花を強く張り倒した。 「なんて卑しい女!」 梨花は叩かれてよろめいたが、すぐに顔を上げると、その目には一瞬で険しい光が宿った。 「卑しいですって?もし私がプライドを気にしていたら、祐介さんは毎晩のように私を求めて来ませんよ。もちろん、私が彼の子どもを妊娠することもなかったでしょうね。 信じられないなら、試してみましょうか?卑しい女である私と、あなたのどっちが彼にとって大事か、試してみましょうよ」 そう言うと、梨花は夏美を海に突き落とした。 「きゃあ!」 「きゃあ!」 すると、叫び声を聞きつけて、周囲にいた晩餐会の参加者たちがすぐに集まってきた。そして、水の中でもがく二人を見て、祐介はすぐに上着を脱ぎ捨てて海に飛び込んだ。 一方で突き落とされた夏美は冷たい海水と暗闇に飲み込まれてしまい、彼女は無意識に必死でもがいたけど、かえって多くの海水が気管に流れ込んでくるのだった。 その時、クルーズ船の明かりがすべて灯され、夏美は祐介がすごい速さで泳いでくるのを見て、その心は、期待と恐怖でいっぱいだった。 そして、祐介との思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。 子どものためにも、もう一度だけ彼にチャンスをあげよう、と夏美は思った。 ただ一度だけ。 でも次の瞬間、体がどんどん沈んでいく中、祐介は梨花を抱きかかえて岸に向かって泳いでいくのを目にするのだった。 それと同時に夏美には、梨花の指にはめられたエメラルドの指輪が、たくさんの光を浴びてキラキラと輝いて、それにひきかえ、自分の指輪は、暗闇に飲み込まれ霞んでいくように思えた。 肺が焼けるように痛くて苦しい。でも、それよりもっと痛かったのは、夏美の心だった。 彼女はその瞬間、まるで無数の鋭い破片が心の奥深くまで突き刺さるような痛みを感じたのだった。 この時、彼女は思った。 祐介、もし私が本当に死んでしまったら、あなたは一瞬でも後悔することはあるのかな? 第3話 そして、次に目が覚めると、あたりは消毒液の匂いが充満していた。 全身が痛んで、夏美は身じろぎした。 すると、ベッドの足元から、陽子の、責めるような声が聞こえてきた。 「まったく、いつまで経っても子どもができないからって、変な気を起こさないでほしいわ。梨花を水に突き落とすわ、祐介を海に飛び込ませるわ……」 陽子の声を聞きながら、夏美は黙ってシーツに涙を落とし、何も言い返さなかった。 これまで、必死にこの女に気に入られようと努力してきたのに。 宝石や服、それに高級な化粧品だって…… 各ブランドの新作だって、発表されるとすぐに手配して彼女の家に届けていた。 さらに、少しでも認められようと、必死で子どもを授かろうとしていたのに。 「お母さん。夏美、目が覚めたのか?」 そう思っているとドアの外から、祐介の心配そうな声が聞こえた。 彼が入ってくるのを見て、陽子はすぐに立ち上がった。 「あなたは海に丸一日浸かっていて、まだ高熱があるのに……」 「お母さん、もういい。夏美と二人きりで話したいんだ」 数秒後、部屋にバタンとドアが閉まる音が響いた。 「夏美、指輪、見つけてきたよ」 そう言って、祐介はポケットから、海に沈んだあの指輪を取り出してそっと夏美の指にはめてあげた。 その額の汗と熱い体から、彼の体調が良くないことが分かった。 だが、夏美は少し身を引いて、指にはめられた指輪をぼんやりと見つめた。 祐介の心の中では梨花のほうが大事なのに、どうして今さら愛情深いふりをするのか。彼女には分からなかった。 面白いとでも思っているの? 「夏美、俺のこと、怒ってるか?」 祐介は伏し目がちになり、そのかすれた声には疲労感が滲んでいた。 「あの晩は暗すぎて、君を助けたんだとばかり思ってたんだ……」 彼の白々しい言い訳に、心の痛みが津波のように押し寄せてきた。夏美は必死に下唇を噛んで、込み上げる悔しさを喉の奥に押しとどめた。 暗かった、だって? あんなに明かりがあったのに。自分の目が見えないとでも思ってるの? そう思っていると、ドアが開く音がして、医師が入ってきた。 「二宮さん、あの晩運ばれてきた後、全身の検査をしました。幸い、お腹の中の……」 医師がそう言いかけていると、ガシャンと音を立てて、夏美はテーブルの上のコップを床に叩きつけた。 そして、祐介が屈んで片付けている隙に、彼女は医師に向かってゆっくりと首を横に振った。 祐介が裏切った以上、お腹の子の父親になる資格はない。ましてや、この子の存在を知る資格などないと彼女は思ったのだ。 それに、この子はもう残さないと、彼女は心に決めたのだ。 だから、医師が去った後、夏美は床の破片を片付けている祐介に向かって言った。 「退院するわ。ダンススタジオに行くの」 だが、彼女が言い終わらないうちに、祐介はさっと立ち上がった。 「夏美、体はまだ弱っているんだぞ。そんなことしたら……」 「祐介、退院したいの」 彼女がこれほど頑ななのを見て、祐介もそれ以上は反論することはできず、すぐさま退院手続きをした。 20分後、夏美はダンススタジオに着いた。 どうしようもない心の痛みを抱え、夏美は鏡の中の自分を見つめると、狂ったように何度もターンを繰り返した。 彼女が生まれた瞬間から、祐介はそばにいた。 だからこそ、その長年の愛情を断ち切るなんて、自分の一部を切り落とすのとほぼ同じくらい苦しいことなのだ。 涙が溢れて止まらなくなったとき、足に何かが刺さるのを感じた。激痛が走り、彼女はその場に崩れるように座り込んだ。 足の痛みに、視線を落とすと、足の裏に小さなガラスの破片が刺さっているのが見えた。 足の裏から滴る血が床を濡らす中、夏美は天井の監視カメラを見上げた。 そして、執事に電話をかけた。 「ここ数日、私以外に誰がダンススタジオに入ったか調べて」 そして、電話を切ると、梨花からメッセージが届いているのが見えた。 【夏美さん、言い忘れてたけど、今日は私と祐介さんの結婚式ですよ。よかったら来てくださいね】 動画を開くと、屋外の芝生の上に立つ、ビシッとスーツを着こなした祐介が映っていた。日に照らされたその顔は、18歳だったあの頃から変わらず凛々しいのだ。 ただ、今の彼の隣に立つ花嫁は、梨花だった。 足の痛みと心の痛みが、全身に広がっていく。夏美は震えながら泣き、爪が食い込むほど拳を握りしめた。そして、息が詰まるような思いだった。 目の前が涙でかすみ、彼女はかつて祐介が神父と招待客たちの前でした誓いを思い出した。 あの時彼は天に指を掲げ、ひざまずき、声を詰まらせながら言った…… 「夏美、君と結婚できることが、俺の人生で一番の幸せだ。約束する。一生かけて君だけを愛し続け、必ず君を大切にする。そして何度生まれ変わってもその気持ちが変わることはない。だから安心して、俺は、命をかけて君を愛することを誓う」 祐介の瞳は澄んでいて、真剣だった。あの頃、彼の目には夏美だけが映り、心は夏美だけを思っていたのだった。 でも、その永遠の愛は、たったの9年で終わってしまった。 足の裏から流れる血が増していく一方、夏美は自分の中から何かが静かに消えていくのを感じた。 第4話 次に目を覚ました時、夏美は病院のベッドに横たわっていた。 彼女は無意識にお腹を触った。でも、そこはもう平らになっていた。 涙が静かにこぼれ落ちる。その時、祐介の心配そうな声が聞こえてきた。 「夏美、目が覚めたか? 大丈夫だ。ガラスの破片はもう取り除いた。ちゃんと療養すれば、また踊れるようになるって先生も言ってた」 だが、夏美は何も言わず、彼に背を向けて横になった。 6年間、99回にわたる注射、そして数えきれないほどの針の跡。そのすべては、祐介との子どもを授かるためだった。 たとえ堕ろすと決めていたとしても、やはりそれは自分の子だったのだから。 そう想いを巡らせていると、スマホが震え、彼女は電話に出た。 「奥様、ここ数日の監視カメラを確認しました。奥様のダンススタジオに出入りしたのは、梨花さんだけのようです。映像を見る限り、彼女が床に何かを置いているように見えます」 やっぱり、あの女だったんだ。 通話を終えると、夏美は急いで警察に電話をかけた。 でも、その次の瞬間、祐介にスマホを奪い取られた。 すると、信じられないというように、彼女は驚きに目を大きく見開いた。 「夏美、俺も監視カメラは見た。梨花は今、妊娠してるんだ。警察を呼ぶのはやめてくれないか?」 そう言いながら祐介はうつむき、その目は懇願の色を浮かべていた。 そして、そばで聞いていた梨花も、口を挟んだ。 「そうですよ、夏美さん。ごめんなさい。あの日、私も練習しようと思いました。でも、グラスが割れてしまって……掃除を頼もうとしたのですが、でも…… 夏美さん、ごめんなさい。私がいけなかったんです……」 夏美は目の前の二人を見ていると、耳鳴りがしてきて、周りの音が一瞬すべてかき消されてしまったかのようだった。 「夏美さん、どうか許してください。ごめんなさい、もう二度としません」 バタンと音を立てて梨花は床にひざまずいた。 すると、祐介はすぐに駆け寄って、彼女を抱き起こした。 「夏美、梨花のお腹にいる子どもに免じて、彼女を許してやってくれないか?」 祐介の言葉は、その一語一句が、夏美の心をえぐるようだった。そして、彼女は体中が引き裂かれるような痛みが走るのを感じた。 しばらくして、彼女は自分の指を強く握りしめ、ゆっくりと目を閉じて、低い声で言った。 「いいわ、許してあげる」 どうせ、もうすぐここを離れるんだから。 翌日、夏美は車椅子で、病院の特別室にあるダイニングへ向かった。 すると次の瞬間、梨花が鍋の熱い油を自分の腕にかけようとするのが見えた。 夏美が止めようとした瞬間、梨花はわざとらしく床に倒れ込んだ。 そして下半身から、ゆっくりと血が流れ出るにつれ、彼女は大声で叫んだ。 「夏美さん、昨日許してくれるって言ったじゃないですか!どうして今日になって……熱い油をかけて、私を突き飛ばしたりするんですか!」 その声に、祐介がすぐに駆けつけてきた。 部屋に入るなりその光景を目にした祐介は、梨花を抱きかかえて外へと飛び出していった。 夏美が慌てて車椅子を動かし、外に出て説明しようとした。 「祐介、私じゃないの、彼女が自分で……」 「もういい!」 祐介は振り返って彼女を見た。そして、その目に次第に深まる怒りの色を滲ませて言った。 「夏美、君がこんなにも酷い女だったとは、思ってもみなかった」 その一言で、夏美は凍りついた。 祐介は、自分を信じてくれない。 彼は、自分を信じてくれない。 そう思いながら、ぽろりとこぼれ落ちる涙を彼女は乱暴に拭うと、再び顔を上げた。 「祐介、あなたは私を信じてくれないの?」 すると、祐介のまつげが微かに震え、少し心が揺らいだようだった。 その時、梨花が彼の袖を引いた。 「祐介さん、夏美さんを責めないで。子どもができないことで、きっと八つ当たりしたいのよ。私のせいで、二人が喧嘩しないで」 次の瞬間、祐介は彼女の額にそっと触れた。 そして再び夏美に向き直ると、その澄んだ声には、怒りが込められた。 「夏美、彼女に謝れ」 そう言う祐介の表情は冷たく、薄い唇は一文字に結ばれているのだった。さらに、彼はまるで夏美を射抜くようにじっと見つめていた。 その言葉を聞くと、夏美はうつむいた。少し間を置いて、赤くなった目で彼に尋ねた。 「もし今日、私が謝らなかったら?」 「だったら、容赦しない。 誰か、こいつを冷凍庫へ連れていけ。少し頭を冷やさせろ」 それを聞いて、夏美は呆然と祐介を見つめ、再び心が貫かれるかのような痛みを感じた。 あれほど自分を愛してくれた人が、今ではこんな酷い言葉を口にするなんて。彼女にはどうにも信じられなかった。 そして、3分後、夏美は冷凍庫に閉じ込められた。 涙がこぼれ落ちると、すぐに凍って顔に張り付いた。 さらに、骨まで凍みるような寒さが体に伝わり、彼女は震えが止まらなかった。 流産したばかりの下半身からはもう血の巡りを感じられないほどになっていて、夏美は青ざめた唇を必死に手で覆った。 彼女は激しく鼓動し破裂しそうな心臓の痛みを必死に堪えようとした。 この瞬間、あの日、祐介が自らの手で温めてくれた心は、今、彼の手によって再び凍り付いてしまったのだ。 第5話 どれくらいたっただろう。ついに、冷凍庫のドアが開いた。 夏美が床から這い出ると、スマホにメッセージが届いた。 【夏美さん、あんまりかわいそうだからもう一つ教えてあげますよ。時間があったらあなたの母に会いに行ってみたらどうですか?もしかしたら、もう火葬場にいるかもしれませんよ】 その瞬間、夏美は雷に打たれたような衝撃を受けた。 彼女はふらふらと立ち上がると、車に乗って療養院へと向かった。 中に入るとすぐ、夏美はよろめきながら母親の香織の病室へと走った。 でも、そこはもぬけの殻だった。 すると、近くにいた看護師が教えてくれた。 「12号室の方ですか?昨日、どなたかがいらして、酸素チューブを外されました。今頃はもう一番近い火葬場に運ばれたかもしれません」 それを聞いて、涙がどっと溢れ出た。でも悲しんでいる暇はない、そう思って夏美はふらつく体に鞭打って、一番近い火葬場へと向かった。 「昨日運ばれてきた人ですか?だったらあっちの霊安室に行ってみたら、みんなそこにいますから」 うだるような夏の暑さなのに、霊安室は冷凍庫みたいに体の芯まで凍える寒さだった。 香織の名前を見つけると、彼女は力なくその場にへたり込んだ。 再びスマホを開くと、梨花から動画が送られてきていた。 すると、画面に、黒い袋を頭から被せられ、室内に吊るされた香織の姿が映った。 そして、そこで彼女は水の中に何度も沈められては、引き上げられたのだった。すでに脳死状態だった彼女は、まるでただの抜け殻のように扱われていたのだ。 胸に鈍い痛みを堪えながら、夏美は震える手でスマホの画面を拡大すると、そこに映っている冷酷な表情の男の顔が目に入った。 それは、祐介の顔だった。 その事実を目の当たりにして、夏美は、まるで心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃を受け、スマホが手から滑り落ち、床に叩きつけられた。 彼女は何度も何度も、動画を再生しては拡大した。 するとまた、スマホに再びメッセージが届いた。 【祐介さんが言ってましたよ。『藤原家の敵は、こうやって始末する』って、どうりで彼のお母さんが、ずっとあなたのことを嫌ってたわけですね】 敵? 夏美はそっと目を閉じる。脳裏に、あの日の光景がよみがえってきた。 18歳だった祐介は、泣き崩れる自分を力強く抱きしめてくれた。 その瞳には、痛々しいほどの優しさが宿っていた。 彼は、一枚のキャッシュカードを差し出してくれた。 そして言った。 「夏美、これは俺の有り金だ。全部おばさんの治療費に使ってくれ」 あのカードを受け取ったらこんなことになるなんて、最初から祐介に出会わなければよかった。 そうすれば、母は死なずに済んだかもしれない。 そして、人は、あまりに心が痛むと、涙も出なくなるものなのねと夏美は思った。 こうして夏美は廊下にしばらく座り込んだ。祐介と過ごした年月が、走馬灯のように頭を駆け巡りながら、彼女は自分の胸にそっと手を当てた。 そこは、もう何も感じられないほど空っぽになってしまったようで、残されたのは、痺れたような痛みと、骨の髄まで凍るような冷たさだけだった。 そして、数時間後、香織の遺骨が職員の手によって渡された。 夏美は、ぼうっとしたまま骨壺を受け取ると、家に戻った。 だが、ドアを開けた途端、部屋の中から男女の睦言が聞こえてきた。 「祐介さん、すごい。そう、そこ。 私を愛してる、祐介さん?」 「ああ、愛してる。すごく」 …… それを耳にしても、今の夏美の心臓は、まるで止まってしまったかのようだった。 彼女は幽霊のように、ふらふらとゲストルームへ向かった。 そして、静かにドアを閉めた。 第6話 その夜、夏美は一睡もできなかった。 母親の遺骨を抱きしめて窓の外を眺めていると、夏美は祐介が病床で誓った言葉を思い出した。あの時彼は、自分をずっと愛し面倒を見ていくと誓ったのだった。 それなのに今、彼は隣の部屋で、「従妹」とやらと快楽に溺れている。 18歳の頃の祐介を思い出すと、あの頃の彼は、自分の手を握るだけでも、ずいぶん長いことためらっていたほどシャイだったのに。 それが今では…… やはり、誓いの言葉なんて、口にしたその瞬間だけ効力があるものなのだ。 翌朝、ドアを開けると、梨花の部屋から出てきた祐介と鉢合わせになった。 瞳に一瞬だけ動揺が走ったかと思うと、彼は慌てて早口で言い訳を始めた。 「梨花の体の調子がどうか、見に来ただけだ。 朝ごはんは何が食べたい?俺が作ってやるよ」 夏美は祐介の何食わぬ顔を見ていると、はらわたが煮えくり返るようだった。 頭の中では、彼が香織を虐待して死なせた場面が、映画のように繰り返し再生されていた。 だから、夏美は祐介を無視して、まっすぐ二人の寝室へ向かった。 そして、スーツケースを開け、その場にへたり込んだ。 だが、いざ部屋の中を見回しても、持っていきたいものなんて、何一つなかったように感じた。 壁にかかった結婚式の写真や額縁に入った二人の思い出の写真。流行りに乗って一緒に作った、石膏の人形。 祐介がくれたたくさんの服やバッグ、アクセサリー。 どれも、もともと自分のものなんかじゃなかったんだ。 これらの本当の持ち主は、戸籍上で正式な祐介の妻であるべきなのだ。 だから、彼女は空っぽのスーツケースに、何も詰め込むことができなかった。 結局、夏美はマイナンバーカードだけを手に取ると、無造作にポケットに突っ込んだ。 しかし、彼女がゲストルームに戻りドアを開いた時、香織の遺骨がないことに気がついた。 その瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。 夏美は夢中で家中を探し回った。すると次の瞬間、リビングで梨花が骨壺の中から何かを掘り出しているのを見つけた。彼女は駆け寄って梨花を平手で打ち、慌てて骨壺を抱きしめた。 「何してるの?」 梨花は叩かれて床に倒れ込み、みるみるうちに目に涙を浮かべた。 「夏美さん、ただワンちゃんにミルクをあげようとしただけですが」 ミルク? 自分の母の遺骨をミルクだなんて言って、犬に飲ませようとしてる? 夏美の視線の先には、遺骨が混ぜられて泡立っている水の入ったコップがあった。傍らではトイプードルが、彼女に向かってキャンキャンと吠え続けている。 夏美が腕を振り上げ、もう一度叩こうとしたその時、誰かに強く腕を掴まれた。 そして、パシンという乾いた音と共に、祐介の平手が彼女の頬を打った。 「夏美、いい加減にしろ!」 その一発は容赦がなく、夏美に言い訳する隙さえ与えなかった。 夏美は耳がキーンとなり、涙が目じりを伝って流れた。 そして、彼女が頬を押さえて顔を上げると、祐介が心配そうに梨花を抱き起こしているのが見えた。その眼差しは、痛々しいほど優しさに満ちていた。 「いい加減にしろ、だって?祐介、どうして私が彼女を叩いたか、聞こうともしないの?」 夏美は声を絞り出すように尋ねた。そしてまつ毛を震わせ、肩を落とすその姿は、まるで最後の望みを掴もうとするかのように見えた。 だが、しばしの沈黙が続いた後、祐介の恐ろしいほど低い声が聞こえてきた。 「夏美、俺が普段君を甘やかしてきたからなのか?だから君は、こうして何度も梨花をいじめるんだな」 ソファに座った男の顔は険しく、息が詰まるほどの威圧感を放っていた。 彼自身は気づいていなかったかもしれない。だが心配のあまり、その片手はすでに梨花の腰を固く抱きしめているのだ。 一方で、その言葉を聞いた瞬間、夏美の瞳から再び音もなく涙がこぼれた。 涙は次から次へと溢れ出たが、やがて彼女は泣きながら、ふっと笑った。 夏美はくるりと背を向けると、母親の遺骨を抱いてドアへ向かった。 すると、背後から、祐介の冷酷な声が聞こえてきた。 「出て行くのもいいだろう。外で頭を冷やしてこい。子どもができないからって、嫉妬でおかしくなったその頭をな」 それを聞いて、夏美は足を止め、必死で下唇を噛みしめて、嗚咽をこらえた。 そう……そうだったんだ。祐介は、そんな風に思っていたんだ。 99回の体外受精。6年という時間。それが今、彼からしてみればこれまでの努力は「嫉妬」の一言で片付けられるというのか? 外は土砂降りで、止めどなく流れ出す涙は雨粒と一緒に地面に吸い込まれていった。 夏美は母親の骨壺を抱きしめ、一歩一歩、足を引きずるように進んだ。 夏の夕立は、涼しいはずなのに。 彼女はまるで氷点下にでもいるかのように、体の芯まで冷え切っていた。 顔は青白く、まだ治りきっていない体からは、血が滲んでいた。 お母さん、ごめんね。自分が、愛する人を間違えたの。 もしも…… もしも祐介に出会ってさえいなければ、よかったのに。 そう思っていると、ポケットのスマホが震えた。夏美がゆっくりと電話に出ると、若葉の声が聞こえてきた。 「夏美、伝えなきゃいけないことがあるの。心の準備をして聞いてね」 その言葉に、夏美は力なく笑った。 「大丈夫よ。もう、何を聞いても驚かないから」 「あのね……昔、あなたのご両親が遭った交通事故、あれは藤原家が仕組んだものなの。当時、あるプロジェクトを巡って両家が激しく対立していて……そのあと、ご両親が事故に遭って、結局プロジェクトは藤原家のものになった。 だから祐介さんのお母さんは、あなたが藤原家に入ることにずっと反対してた。だから祐介さんは、あなたをそばに置くだけで、入籍もしなければ、子どもも産ませないと誓ったらしいの。 それに、こっちで調べたら、彼は……子どものできにくい体質じゃないみたい。あなたのほうこそ何か、変なものを食べさせられてないか、心当たりはない?」 …… その言葉と一緒に通り過ぎる車が、水しぶきを上げていった。 それを聞いて、夏美はその場に立ち尽くし、しばらく我に返ることができなかった。 雨水が耳に流れ込んできて、自分の耳がおかしくなったのかとさえ思った。 スマホを振ってみると、また若葉の声が聞こえてきた。 「夏美?夏美、大丈夫? 私としては、今すぐ荷物をまとめてほしい。予約しておいた偽装死サービスは、いつでも始められるから……」 ああ、スマホは壊れてないんだ。 じゃあ、全部、本当のことなんだ。 体外受精のたびに、「最近、何か変わったものを食べませんでしたか」と医師に聞かれたこと。毎晩、祐介が優しい言葉と共に飲ませてくれたミルクのこと。これが妊娠できる最後のチャンスだと告げた医師の言葉。健康診断で告げられた、早期卵巣不全…… そうだったのか。これが、事の真相だったんだ。 祐介は、自分の両親を殺した仇の息子だった。 彼自身の欲望のためだけに、18歳から32歳までの14年間、自分をそばに縛り付けていた。 彼女が女として、一生で一番輝く時間をすべて奪い取ったんだ。 挙句の果てに、彼女は婚姻も、無事に生まれてくる我が子も手にすることはできなかった。 それどころか、彼は自分を騙し、自分が何度も体外受精に挑むのを見ていた。 床に散らばる長い注射針を、お腹の注射痕が毛穴より多くなるのを、ただ見ていたんだ。 そして最後には、自分の母まで殺した。 彼が口にした愛とは、嘘と束縛の塊だったのだ。 最後の一粒の涙が乾くと、夏美は立ち上がり、静かに口を開いた。 「今すぐ、偽装死サービスの担当者を呼んで。祐介の家の近くの交差点で待ってる」 10分後、一台の黒いワゴンが夏美の前に停まった。 彼女が乗り込むと、もう一台の、そっくりな黒いワゴンがガードレールに突っ込むのが見えた。 そして車はコントロールを失い、交差点の先にある海へと落ちていった。 これをもって、「二宮夏美」という人間は、この世から消えた。 彼女は両親を合葬し、霊園の管理人に二人の墓石をきちんと守るように頼んだ。 それから、若葉が用意してくれたF国の首都行きの航空券と、新たな身分証明書を手にすると、飛行機に乗り込んだ。 そして、飛行機が高度1万メートルまで上がると、彼女は地上を走る車や人々が、どんどん小さくなっていくのを眺めていた。 祐介と過ごした長年の記憶もまた、ゆっくりと頭の中から消えていった。 祐介、もう二度と、あなたに会うことはない。一生、決して。