さよなら愛、終わらない罰

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さよなら愛、終わらない罰

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夫である柴田翔太(しばた しょうた)の浮気を知った望月菜々子(もちづき ななこ)は、彼に離婚を申し出た。 しかし、家に帰る途中で交通事故...

Chương (1)

第1章

夫である柴田翔太(しばた しょうた)の浮気を知った望月菜々子(もちづき ななこ)は、彼に離婚を申し出た。 しかし、家に帰る途中で交通事故に遭い、記憶を失ってしまう。 彼女が目を覚ますと、そばには何食わぬ顔で夫の顔をした翔太がいて、菜々子に拉致されたショックで記憶を失ったのだと説明した。 その日を境に、菜々子は山頂の別荘に閉じ込められることになった。 なぜなら、「お前がこれ以上、少しでも傷つくことは耐えられない」と翔太が言い、菜々子を守るためだけに、わざわざセキュリティ万全の別荘を建てたからだった。 こうして菜々子は、翔太によってまるで鳥籠の中のカナリアのように3年間も匿われていた。 そんなある日、別荘に一人の女が乗り込んでくるや否や、花瓶を手に取り、菜々子の頭を殴りつけた。 しかも、いつも菜々子の言うことを何でも聞いてくれていた使用人たちも、助けようとしないどころか、その女を「奥様」と呼ぶ。 その瞬間、激しい頭痛とともに菜々子の記憶がすべて蘇り、自分の頭を殴った女こそ、翔太の浮気相手だったことも思い出した。 それは、菜々子が実の妹のように可愛がり、ずっと金銭的に助けてきた女子大生だった。 第1話 夫である柴田翔太(しばた しょうた)の浮気を知った望月菜々子(もちづき ななこ)は、彼に離婚を申し出た。 しかし、家に帰る途中で交通事故に遭い、記憶を失ってしまう。 彼女が目を覚ますと、そばには何食わぬ顔で夫の顔をした翔太がいて、菜々子に拉致されたショックで記憶を失ったのだと説明した。 その日を境に、菜々子は山頂の別荘に閉じ込められることになった。 「お前がこれ以上傷つくのは耐えられない」翔太はそう言って、彼女を守るためだと、このセキュリティ万全の別荘を用意した。 こうして菜々子は、翔太によってまるで鳥籠の中のカナリアのように3年間も匿われていた。 そんなある日、別荘に一人の女が乗り込んでくるや否や、花瓶を手に取り、菜々子の頭を殴りつけた。 しかも、いつも菜々子の言うことを何でも聞いてくれていた使用人たちも、助けようとしないどころか、その女を「奥様」と呼ぶ。 その瞬間、激しい頭痛とともに菜々子の記憶がすべて蘇り、自分の頭を殴った女こそ、翔太の浮気相手だったことも思い出した。 それは、菜々子が実の妹のように可愛がり、ずっと金銭的に助けてきた女子大生・杉山美優(すぎやま みゆ)だった。 …… 意識を取り戻した菜々子は、鼻につく消毒液の匂いを感じた。 なんとか必死に目を開けようとするが、まぶたが重く上がらない。ただ耳元で、翔太が誰かを低く咎める声だけが聞こえてきた。 「美優、お前やりすぎだろ。 菜々子を傷つけていいなんて誰が言った?」 「ごめんって。ちょっとヤキモチ妬いちゃっただけじゃない」 美優のとろけるような甘い声を聞き、菜々子の背筋に悪寒が走る。 「火木土は菜々子のところに行くけれど、月水金は私と一緒にいてくれるって約束してくれたでしょ?でも……」 美優は恨めしそうに翔太を見つめ、赤い唇を軽く噛んだ。そして甘えるような声を出す。「この1週間、ほとんどあの女と一緒にいたじゃない。誰だって、ヤキモチぐらい妬いちゃうよ」 その言葉に気を良くしたのか、翔太の表情が少し和らいだ。「だからといって、頭を殴るなんてだめだろ? それに、お前がこんなことしたら、俺は菜々子になんて説明すればいいんだ?」 翔太は、咎めるような顔つきで美優を見る。 しかし美優は悪びれる様子もなく、彼の袖を引っ張った。「それなら本当のことを話せばいいじゃない。だって、一生別荘に閉じ込めておくわけにもいかないんだから。 それに、彼女は今、記憶をなくしてるのよ。自分がお嬢様だったってことも忘れてる。それに、あなたの本当のお嫁さんは、私なんだから」 美優は顎をくいと上げ、鼻で笑った。「本妻が愛人を叩いただけじゃない。いちいち説明する必要なんてあるかしら?」 その言葉に、ベッドの上の菜々子の心臓が大きく跳ね上がる。 3年前、美優から、翔太とベッドにいる写真を送りつけられたことがあった。その時、菜々子は怒りを抑えきれず、翔太の会社に乗り込み、二人それぞれに平手打ちを食らわせたのだった。 そんな菜々子を翔太はきつく咎めたが、菜々子は平然と言い放った。「本妻が愛人を叩いただけじゃない。いちいち説明する必要なんてあるかしら?」 まさか、この言葉が今、美優の口から出るなんて。 しかし、そんなことよりも翔太の最低な行いの方が許せない。 この数年、彼は美優と結婚しただけでなく、記憶喪失の自分を騙して愛人にし、こんな惨めな立場に自分を追い込んだのだ! 「けど、今の菜々子は、確かに性格がずいぶん丸くなったと思うよ」 そう呟いた翔太は少し考え込むと、ふっと笑った。「今のお前たちなら、うまくやっていけるかもしれないな」 菜々子は静かに拳を握りしめた。彼の思い通りなんかにはさせない。自分はもう、すべてを思い出したのだから。 望月家の令嬢である自分が、翔太の愛人だなんて。ふざけるな。 どれくらい時間が経っただろうか。菜々子がやっとのことで目を開けると、病室には誰もいなかった。 一息つき、目眩をこらえながらなんとか体を起こす。そしてまだ血の気が戻らない顔で、母親である望月若葉(もちづき わかば)に電話をかけた。 3年にもわたる閉じ込めと嘘。必ず翔太に報いを受けさせてやる。 しかし、菜々子が何度かけても、若葉は電話にでない。 彼女はスマホを握りしめると、今度は父親に電話をかけた。しかし、やはり繋がらない。 どうして? 胸騒ぎがした菜々子は最後の望みを賭け、親友の佐藤渚(さとう なぎさ)へと電話をかける。 「もしもし、どちら様?」今度はすぐに電話が繋がった。 ほっとした菜々子は、なんとか声を絞り出す。「渚。私よ、菜々子……」 菜々子が言い終わらないうちに、電話の向こうから渚の興奮した声が聞こえてきた。「菜々子!本当に菜々子なの?!生きてたの?」 「当たり前じゃない、死んでないわよ。どうして私が……死んだなんて思ってるの?」 菜々子は眉をひそめ、これまでのことを手早く渚に話す。 「翔太、あのクズ男!」 話を聞き終えるや否や、電話の向こうの渚は怒りを露わにした。 「3年前、菜々子が事故にあった時、おじさんとおばさんは海外から急いで戻ってきたんだけど、こっちに着いた時には、もうすでに菜々子が亡くなったと聞かされてた。それに、遺体はもう火葬された、って。 私も急いで帰国したんだけど、その時にはもうあなたのお葬式だったの。 それから、おじさんとおばさんは毎日悲しみにくれてた。そんな時に、翔太は美優をあなたの家に連れてきたの。そして、彼は……」 渚はそこで一度言葉を切り、悔しそうに続ける。「翔太は、あなたが亡くなる前に美優を義理の妹として認めていた、なんておじさんとおばさんに言ったの。だから彼女をずっとおじさんとおばさんのそばにいさせた。 結局、美優は望月家の養女になって、望月姓を名乗り、あなたのすべてを奪い取ったのよ。 それに、おじさんとおばさんは亡くなる直前、望月グループを翔太に託しただけじゃなくて、美優を彼に嫁がせることまで決めてしまったの……そして、これは一年前の話……」 渚が何かを言っているが、もう菜々子の耳には入らなかった。 頭がガンガンする。今聞いたことが信じられない。 両親はもうこの世にいない? 翔太は、両親の死に目にさえ会わせてくれなかったのだ。 それどころか美優に自分の立場を乗っ取らせ、結婚までさせた。一方で自分は、山頂の別荘で秘密の愛人として囲われていたなんて。 どうりで、翔太が自信満々に、自分と美優を仲良くやらせるなんて言ったわけだ。 自分にはもう、最後の頼れる人さえいなくなってしまったのだから。 たとえ記憶が戻ったところで、こんな自分に何ができるというのだろう。 翔太が望めば、自分を一生この山頂の別荘に閉じ込めておくことだってできるのだ。 菜々子の心が、まるで鋭い刃物でえぐられるように、ズキズキと激しく痛んでいる。 「菜々子、菜々子!大丈夫?」 心配する渚の声が聞こえた。「今どこにいるの?すぐに迎えに行く!」 「だめ!」 菜々子はかすれた声で答える。その声は氷のように冷たかった。「私を騙し、弄び、辱めた翔太に、必ず復讐してやるの」 「復讐?」 渚がそう繰り返した瞬間、背後から翔太の低い声が聞こえた。「菜々子、思い出したのか?」 第2話 菜々子が振り返ると、翔太が緊張した顔でこちらを見ている。 その顔を見ていると、腑が煮えくり返る思いだった。でも、今はぐっとこらえるしかない。 「翔太、やっと帰ってきたのね」 菜々子はそっと渚との電話を切り、優しい声で話しかける。でも、その目の奥は氷のように冷たい。 「今日ね、変な女が家に乗り込んできて、私の頭を殴ったのよ?あなた知ってる?」 菜々子はわざとらしく不満そうな顔を見せ、以前のような甘えた声を出す。「ちょうどあなたに電話して、仕返ししてもらおうと思ってたところなの」 その言葉を聞いて、翔太は明らかにほっとした様子だった。そして、彼女を労わるように抱きしめる。 「菜々子、俺が悪かった。辛い思いをさせてごめんな」 菜々子は何も言わず、ただ顔を上げて静かに翔太を見つめる。彼の目の奥にある愛情は、嘘ではないらしい。 だからこそ、そうして同時に二人も愛せるのか、菜々子は理解できなかった。 翔太の浮気が発覚したのは3年前。その時、離婚を切り出しても、彼は頑として受け入れてくれなかった。 それどころか、菜々子の家の前で、3日間も跪いて許しを求めていた。 我慢の限界がきた菜々子は、最終的に美優と翔太のベッド写真を突きつけ、「離婚に応じないなら、この写真を東都中にばらまいて、二人そろって破滅させてあげる」と脅したのだった。 それでようやく、翔太は折れた。 まさかその後、自分が交通事故に遭い、翔太に3年間も騙されることになるとは思いもしなかったが…… しかしこの3年間、翔太が彼女を想う気持ちは、嘘ではなかったと思う。 菜々子が夜中に高熱を出した、ある冬の夜のこと。 車で別荘に駆けつけていた翔太だったが、その道中で車が故障してしまった。それでも彼は、10キロもの道のりを歩いて山頂の別荘に来てくれたのだった。 結局、菜々子が回復する頃には、今度は翔太が高熱で丸1週間寝込むことになってしまったのだが。 しかし、これほど菜々子を愛してくれている男が、浮気しただけでは済まずに、自分を事故で死んだことにして、美優にその地位を奪わせたのだ。 「翔太、さっき言ってたこと、どういう意味?」 翔太が顔にキスしようとするのを、菜々子はさりげなく押し返し、こみ上げる吐き気を必死にこらえながら尋ねる。 「私は何か思い出すべきことでもあるの?」 一瞬躊躇いを見せた翔太だったが、すぐに軽く笑った。「拉致された時のことを思い出して、またつらい思いをするんじゃないかって思ってさ」 拉致された時のことを思い出して、つらい思いをする? 菜々子の目がすっと冷たくなり、その口角が上がった。 本当は、自分が記憶を取り戻して、彼自身がどれだけ卑劣な人間かを思い出すことが怖いくせに。 「翔太。私を殴ったあの女、どうするつもり?」 菜々子がそう言い終わると、突然優しい声が聞こえてきた。「ねえ、あなた。もう菜々子には隠さなくていいんじゃない?」 菜々子が振り返ると、そこにいたのは美優だった。3年前の控えめな様子はどこにもなく、たくさんの煌びやかなジュエリーを身につけ、悪意に満ちた目で菜々子を見下している。「いつまでも別荘に囲って、愛人にしておくわけにもいかないんだからさ」 その時、美優がつけているネックレスが、ふと菜々子の目に入った。それは、若葉が心を込めてデザインしてくれた、18歳の誕生日プレゼント。 そんな大切な贈り物が、今、美優という泥棒女の首にかかっている。 渚から、美優が望月家の養女になったことは聞いていたが、美優が堂々と自分のものを使っているのを目の当たりにすると、菜々子の胸は張り裂けそうに痛んだ。 感情を必死にこらえ、そばにいた翔太を突き飛ばす。そして美優を指さし、わざと怒った声で尋ねた。「翔太、あなたは私と結婚しているはずなのに、なんで彼女があなたのこと『あなた』なんて呼ぶの? それに、どうして私のことを愛人だなんて言うのよ?」 菜々子の目がみるみるうちに赤くなるのを見て、翔太の胸は締め付けられた。 しかし、彼が口を開く前に、美優が先にフフッと笑った。「菜々子、本当に忘れているのね。自己紹介するわ、私は柴田美優。望月家の長女、そして翔太の正真正銘のお嫁さん」 美優は菜々子を見つめる。「そして、菜々子。あなたは、私が育ててあげた孤児だったくせに、私の夫を誘惑したのよ」 その言葉を聞いて、菜々子は全身が震えた。 美優が望月家の令嬢で、自分が翔太を誘惑した不倫相手? こんなデタラメを、美優はよくも平気で言えるものだ。 「菜々子、わざと隠していたわけじゃないんだ」 翔太が再び近づき、菜々子を抱きしめようとしたが、菜々子はそれを避ける。 翔太の腕は宙で一瞬止まり、やがて力なく下ろされた。どうしようもない、とでも言うように首を振ると、彼は静かに説明を始めた。 「3年前、お前が記憶を失ったのは、拉致のせいじゃない。俺がお前を愛してしまった事が気に入らなかった美優のお母さんが、美優のためにお前を懲らしめようとして、人を雇ったんだ。それで、お前はそこから逃げる途中で事故に遭い、そのせいで記憶を失った。 その後、お前が望月家からさらに報復されるのを恐れて、ずっと山頂の別荘でお前を保護していたんだ」 こんなにも出鱈目な言葉を聞いて、菜々子は思わず身震いした。 しかし翔太は彼女が怖がっているのだと思い、軽く背中を撫でた。「菜々子、怖がらなくたっていいんだ。美優の両親はもうは亡くなったし、美優もお前を受け入れてくれる。もう誰もお前を傷つけたりしないから。 だから、美優がお前を殴ったことも、水に流してやってくれないか?」 再び翔太の口から両親が亡くなったと聞き、菜々子の鼻の奥がツンとなった。爪を掌に食い込ませる。 なんてかわいそうなお父さんとお母さん。娘の自分が実は死んでおらず、ただ翔太に隠されていたと知ることなく死んでしまうなんて。 それどころか、翔太に騙されて、泥棒猫を娘として迎え入れてしまった。そして、望月家の全財産を自らの手で譲り渡してしまったのだ。 「翔太、菜々子に文句を言う資格なんてあるわけないじゃない」 美優は鼻でせせら笑い、突然一歩踏み出して手を伸ばし、菜々子の顎をぐいと持ち上げた。「だって、あなたと私の間では、ずっとあなたの方が私に負い目がある立場だったんだから。 けど、もう水に流してあげる。感謝しなさいよね」 「その通りですよね!」菜々子は美優の手を払い、力強く頷く。 そして涙を拭い、なんとか感情を押し殺すと美優に向かって言った。「恩人を裏切って、その夫を誘惑するなんて、本当に卑しいことですもんね」 美優の顔色が変わるのを見てから、菜々子は翔太の方に向き直る。「昔のことは、全部忘れたの。 それに、もう人の家庭を壊したくない。だから、私たちは終わりにしようよ?」 第3話 「それはだめだ!」 顔色を変えた翔太は菜々子の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめた。「俺たちは愛し合ってるし、一番つらい時も、ずっと一緒にいただろ。それに、美優だってお前のことを受け入れてくれるって言ってるのに、なんで別れるなんて言うんだよ? 三人で仲良くやっていくんじゃダメなのか?」 菜々子はさっと目を伏せ、瞳に浮かんだ皮肉な色を隠す。 この男は欲張りで、美優も、そして自分も手放せないのだと最初から分かっていた。 「翔太、今日は色々ありすぎて……少し考える時間が欲しいの。だめかな? でも、もしこれからも私と一緒にいてくれるっていうなら……」 菜々子は態度を和らげつつも、わざと赤くなった目元を上げて、翔太に条件を突きつけた。「美優に、私を……」 記憶を取り戻したことを悟られないように、菜々子は美優のことをずっと「美優さん」と呼んでいた。けれど今、思わず呼び捨てにしそうになってしまい、慌てて言い直す。「美優さんが、もう私にひどいことをしないように、ちゃんと約束してくれない?」 「わかった」翔太は、躊躇うことなく答えた。 しかし、美優が恨みがましい表情を浮かべているのを見ると、翔太は一瞬言葉を切り、少し間を置いてから付け加えた。「けど、お前。美優に対してはもう少し立場を弁えろ。名目上、俺の正式な嫁は美優なんだ。それに、お前は……ただの愛人に過ぎない」 菜々子はその言葉を聞き、声も出さずに皮肉な笑みを浮かべた。 そんな彼女の手に握られているスマホが、ずっと録音を続けていることには誰も気づいてはいない。 どんな屈辱を受けたって、必ず望月グループを取り戻してみせる。 そして、翔太の正体を世間に暴き、社会的に破滅させてやるのだ。 1週間後、退院した菜々子は柴田家の屋敷へと迎えられた。 菜々子と翔太は20年来の幼馴染だったし、結婚してからも5年という月日をこの屋敷で暮らしていた。 だから隅々まで知っているはずなのに、今では翔太が説明してくれる庭の草木一本一本までもが初めて見る物のように感じる。 その中でも最も変わってしまっていたのは、庭にあった人工池が埋め立てられていたことだった。 かつて池いっぱいに咲いていた蓮の花は、今ではバラ園に姿を変えていた。 美優が菜々子の耳元で自慢げに囁く。「ここはね、私が嫁いできてから、翔太が私の好みに合わせて作り直してくれたお庭なのよ」 菜々子は黙ってバラ園を見つめた。その胸に浮かんだのは、かつてこの場所に広がっていた蓮の池、それは翔太の亡き母が自らの手で植えたものだった、ということ。 それなのに、自分には蓮アレルギーがあった。 嫁いできたばかりの頃は、池のそばを通るたびに全身に赤い発疹ができていた。 そんな時、翔太はいつも申し訳なさそうな顔で言っていた。「菜々子、ごめんな。 でも、この池の蓮は母さんが残してくれたものなんだよ。だから、このままにしておきたくて……」 あれほどお互いが愛し合っていた時でさえ、翔太は自分のために蓮を処分してはくれなかった。 それなのに、美優のためには池を埋めた。その時、彼は亡き母親の形見だということを思い出さなかったのだろうか。 そして、かつて自分がこの池のせいで全身発疹まみれになったことも、忘れてしまったのだろうか…… その夜、菜々子がこの家に「初めて」来たから慣れないだろうといって、翔太自らゲストルームに泊まりに来た。 しかし、そこへ突然、美優もやってきて、菜々子にプレゼントを渡したいから着いてきて欲しいと言う。 菜々子は、美優のいい人アピールに付き合う気はなかったが、それ以上に翔太と二人きりで同じ部屋にいるのも嫌だったので、自ら美優について行った。 美優は菜々子を自分のウォークインクローゼットに連れて行くと、高級品を次々と取り出しては自慢した。「これ、全部翔太がプレゼントしてくれたの。 気に入ったのがあったら、持って行っていいわよ」 それらに目をやる菜々子だったが、表情はまったく動かなかった。 彼女が少しも心を動かさない様子を見て、美優は何を思ったのか、目に嫉妬の色をちらつかせる。 「気に入らないとでも言うわけ? まあ、そうよね。だって、翔太は愛人にはいつも気前がいいものね」 美優は鼻で笑った。「あなたにも、同じようなものをたくさん買ってあげたんでしょ。 でも、覚えておいて……」 美優が少し声を落として続ける。「私は望月家の令嬢なの。あなたとは身分が天と地ほど違うんだから」 そう言うと、美優はウォークインクローゼットの奥にある隠し部屋を開けた。 中には様々な高価なジュエリーが、種類ごとにきちんと並べられていた。 菜々子がとうとう目を見開いたのを見て、美優は満足そうに息を吐いた。 美優は中に入り、うっとりとジュエリーを一つ一つ撫でてから、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。「これは全部、望月家が揃えてくれた私の嫁入り道具。私が今の地位をしっかりと保てるようにってね」 第4話 こんなふざけたことを言われて、菜々子の体が悔しさで震えた。 美優の嫁入り道具?冗談じゃない。ここに並んでいるジュエリーは、全部自分が嫁ぐときに母が一つひとつそろえてくれたものなのに! それが今では、美優のものになっているって? そして、菜々子の目は、自然と一対の輝く水晶のブレスレットに引き寄せられた。 それは、母が望月家に代々伝わる宝物だと言っていたものだった。 母は、自分がもっとしっかりしたら、このブレスレットと会社を任せるからね、と言っていたのに、今そのブレスレットは美優の手に渡ってしまっているし、会社は翔太の物に。 なのに自分は、両親の死に目にすら会えなかたなんて…… そう思うと、菜々子の心臓は大きな手でぎゅっと鷲掴みにされたかのように痛んだ。 「このブレスレット、欲しいの?」 菜々子がブレスレットを瞬きもせずに見つめているのに気づいた美優は、口の端を少し吊り上げながらそう言った。 そしてブレスレットをひょいと手に取ると、わざと菜々子の目の前でひらひらと振ってみせる。 「これは母の形見なの。欲しい?」 菜々子は今すぐにでも奪い返したかったが、ぐっとこらえて歯を食いしばった。「お母様の形見なら、大切にしてください」 しかし美優は、菜々子を見つめながら、悪意に満ちた笑みでゆっくりと瞬きをしてみせた次の瞬間、彼女はわざとらしく大げさな仕草で、ぱっと手を開いた。 カシャン、と澄んだ音が響く。 二つの水晶のブレスレットが床に落ち、粉々に砕け散った。 菜々子ははっと息を飲み、思わず床にかがみこんで破片を拾おうとした。 しかし美優に手を思いきり踏みつけられる。 菜々子は痛みに小さく悲鳴を上げた。 ハイヒールの踵でぐりぐりと踏みつけられ、手にブレスレットの破片が刺さる。そして、菜々子の手から血が滲むのを確認した美優は、ようやく足を離し、ゆっくりとしゃがみ込んで菜々子の耳元で囁いた。「本当は私もこのブレスレット、気に入ってたの。でも、あなたも好きだったみたいだから……しょうがないわよね? だから、こうして壊しちゃっても……ね?」 美優の言葉はまだ終わらない。「ねえ、菜々子。この嫁入り道具を見ても、本当に何も思い出さないの? 翔太の愛人でいることに満足してるなんて、あなたにはプライドってもんがないのかしら?」 菜々子は全身の血が凍るような感覚に襲われた。もう、我慢の限界だった。菜々子はありったけの力を込めて、美優の頬をひっぱたいた。 パァン。 乾いた音がウォークインクローゼットに響き渡る。 不意を突かれた美優は床に倒れ込み、頬を押さえながら、菜々子を冷たい目つきで睨みつけた。「あなた何様のつもり!よくも私をぶったわね?」 そう言うと、美優は声を張り上げてボディーガードを呼ぶ。「この女を押さえつけて!」 ボディーガードが来るや否や、菜々子は無理やり美優の前にひざまずかされた。 身動きがとれないでいる菜々子に、美優は手を振り上げる。 パァン。 最初の一発。菜々子の頬は焼けるように痛んだ。 そして二発、三発と、平手打ちが続く。 菜々子は必死にもがき、かすれた声で叫んだ。「こんなことしたら、翔太が黙っていませんからね!」 美優はもう一発、力いっぱい平手打ちを食らわせた。「翔太が、あなたなんかのために私をどうにかするって?この身の程を知らずが何を言ってるの?」 身をかがめ、菜々子の耳元で囁く。「菜々子。翔太が一番愛しているのは、私なんだから」 すると、美優は疲れたとでもいうように、痺れた手のひらを振りながらドレッサーの前に腰掛けると、菜々子の手からはぎ取った血まみれのブレスレットの破片を、いじり始めた。 そして振り返り、今度は大柄なボディーガードの一人へと自分の代わりに菜々子を殴り続けるよう命じる。 バシン、バシン、バシン…… 嵐のような平手打ちが、次から次へと菜々子へ降り注ぐ。 菜々子の頬は、痛みと熱さでもう感覚がなくなっていた。 視界は涙で滲んでいたが、それでも美優の得意げな顔だけははっきりと見えた。 何度殴られただろうか。菜々子の意識がふっと飛びそうになったその時、ドアが開けられる音がして、誰かが怒鳴るような声が聞こえてきた。「何をしているんだ!」 第5話 翔太はボディーガードを下がらせると、菜々子を心配そうに抱きしめる。 菜々子の赤く腫れた頬を見た翔太の表情が一瞬で険しくなり、美優を怒鳴りつけた。「どうしてこんなことしたんだよ?」 一瞬うろたえた美優だったが、すぐに落ち着きを取り戻し、目に涙を溜めた。 「菜々子がこの水晶のブレスレットを欲しがったから、あげようと思ったの。でも、これが私の母の形見だと知った途端、彼女が叩き割ってしまって…… 死んだ人のものなんて、縁起が悪いって……」 美優はブレスレットの破片を翔太の目の前にかざし、声を詰まらせる。「あなたも知ってるでしょ、母は生前、私によくしてくれたわ。それに、菜々子にとっては……」 美優が言葉を濁した。「菜々子があまりにわがままだったから、ついカッとなってこんなことしちゃったの」 ブレスレットの破片を見つめる翔太の眉間の皺が深くなっていく。 「そんなのでたらめです!」 真逆のことを言う美優に、菜々子は怒りがこみ上げてきた。「あなたが……」 しかし、菜々子が言い出すや否や翔太が乱暴に口を挟んできた。「菜々子、いい加減にしろよ! まさか美優が自分でブレスレットを壊したとでも言うのか?あれは美優の亡き母親の形見なんだぞ。美優にそんなことをする理由がないだろう?」 翔太は不満げに菜々子を見つめ、感情を抑えた声で言った。「この水晶のブレスレットが俺の義母の形見で、望月家の家宝でもあるってことを分かってるのか?それに、お前にとってもどれだけ大事なものか……」 美優の亡き母親の形見? 翔太は、よくもそんなことが言えたものだ。 菜々子は手のひらを強く握りしめ、表情を引き攣らせながら尋ねる。「美優さんの亡き母親の形見なんでしょ?じゃあ、なんでそんな大切な望月家の家宝が、私にとって大事だなんて言ったの?」 菜々子は「美優の亡き母親」という言葉を強調した。 翔太は言葉を詰まらせる。 結局、翔太は罰として菜々子に、若葉の墓石の前で一晩反省させた。 体に吹きつける冷たい風が、ひどく皮肉なものに感じられる。 母の形見を他人に奪われたあげく、まさかそれが原因でこんな屈辱を受けるなんて。 それでも菜々子は若葉の墓前で深く頭を下げて誓った。必ず翔太と美優に罪を償わせてみせると。 翌朝早くに菜々子を迎えにきた翔太は、彼女の赤く腫れた口元を見て、心が少し痛んだ。 翔太は車から救急箱を取り出して手当てしながら、突然菜々子にこう告げた。「菜々子、昨日の振る舞いはあまりにも品がなかった。 だから、昨日の夜のうちにどこに出ても恥ずかしくないようなマナーを教えてくれる先生を手配しておいたんだ」 菜々子は顔をそむけ、そんなこと気にも留めなかった。 もう20年以上も上流階級で生きてきたが、自分はそんなマナーなんて聞いたこともない。 しかし、屋敷へ足を踏み入れた途端、目に入った妖艶な女性を前にし、菜々子は全身が震えた。 まさか、翔太がここまで自分を侮辱するなんて。 それに、菜々子は目の前にいるこの女を知っていた。彼女はこの世界で有名な……男に囲われた女を仕込む調教師。 「こんにちは、望月さん。本日より私が、旦那様と奥様のお世話の仕方を、手取り足取りお教えしますので」 菜々子が呆然としていると、その女は妖しい笑みを浮かべて近づいてきて、菜々子を連れて行こうとした。 しかし、菜々子は一歩下がり、鼻で笑う。「お世話? あなたたち、一体何時代を生きているの?」 菜々子は顔を上げ、翔太を見据えた。口元に皮肉な笑みを浮かべて、静かに問いかける。「私を傷つけないって、そう言ったよね。それなのに、今やってることは何?」 菜々子は駆け出し、その場から逃げ出した。 だが、翔太は引き止めも、追いかけもしなかった。 ただ、眉をひそめて彼女の後ろ姿を見つめるだけで、その表情は、どこか意味深だった。 第6話 静かな喫茶店に入った菜々子は、一人考えをまとめていた。 翔太について柴田家の屋敷に戻ったのは、隠しておいたUSBメモリを取り戻したかったからだった。 そこには、3年前、美優から送られてきたいかがわしい写真と、挑発的なメッセージがすべて保存されている。 それに、翔太に株の譲渡契約書へサインをさせ、会社を取り戻すチャンスも狙っていた。 しかし、翔太が本当に人を使って、自分を囲われる女として調教しようとしていることだけは、どうしても耐えられなかった。 今日会ったあの女のことを思い出すと、なんだかすごく腹がたつ。 菜々子は何度か深く息を吸い込んで、ようやく落ち着きを取り戻すと、適当に朝食を済ませた。 しかし会計の時、カードが使えなくなっていた。 翔太にカードを止められた。 「おい、食い逃げでもするつもりか?」 店主が軽蔑したような目を菜々子に向ける。 菜々子は顔を赤くさせ、おどおどしながら口をひらく。「あ、あの、一日ここで働かせてくれませんか。その……朝食代の代わりに……」 すると店主が、菜々子の体を上から下までいやらしく眺めた。 そして、いきなり彼女の耳元に顔を寄せて汚い言葉を吐く。「姉ちゃん。俺と一発ヤッたら、食事代はチャラにしてやるよ」 「やめて!」 菜々子は、躊躇わずに彼の頬を平手で打ち付けた。 「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ! 警察呼んで、お前をブタ箱にぶち込んでもいいんだからな……」 しかし、男が振り上げた手は誰かにがっしりと掴まれ、彼の言葉は悲鳴へと変わった。「い、痛え……」 「こいつを警察に突き出せ」 翔太がボディーガードに静かに命じる。 店にいた数人の客は、この突然の出来事に驚いて、そそくさと出て行った。 あっという間に、店内には翔太と菜々子の二人だけが残された。 翔太はハンカチを取り出し、さっき男に触れた手を念入りに拭いながら、菜々子を鼻で笑う。「これでもまだ家出するか? 俺がいなければ、お前は朝食代すら払えな……」 「今日は、急だったから」菜々子は翔太の言葉を遮った。「これからは、バイトでもなんでもして自分で生活する」 しかし、彼女も胸は悔しさで溢れていた。 自分が今こんな状況に陥っているのは、すべて翔太のせい。 翔太が自分の死を偽装して、3年間も閉じ込めるようなことさえしなければ、自分がこんな惨めな目に遭うことなんてなかったのに。 それなのに、今さら救世主みたいな顔をして自分の前に現れるなんて。 なんて皮肉な話なのだろう。 「バイトをして自分で生活するって?」 翔太はしばらく菜々子をじっと見つめていたが、突然笑い出した。「お前、何か自分の身分を証明できるものは持ってるのか?」 菜々子は、ぐっと手のひらを握りしめる。 この3年間、彼女はずっと山頂の別荘に閉じ込められ、外界から隔離されていた。 言うまでもなく、以前の免許証やパスポート、さらにはマイナンバーカードまでも翔太によって無効にされているのだった。 「菜々子、俺は忙しいんだ。お前と遊んでる暇なんてないんだよ」 翔太は小さな椅子に腰掛けた。そして、長い指でテーブルを叩く。その一回一回が、菜々子の心臓を強く打つようだった。 「お前がアルバイトの辛さに耐えられるかはさておき……たとえ耐えられたとしても、俺の許可がなければ、この東都では誰もお前に身分証明書を発行しない。もちろん、お前を雇ってくれる者もいないだろう」 翔太は余裕たっぷりに菜々子を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべる。「お前はもう、とっくに俺のものだろ。大人しく言うことを聞いていれば、それでいいじゃないか」 翔太はもはや本性を隠そうともせず、菜々子を半ば脅すようにして柴田家の屋敷へ連れ戻した。 菜々子は以前、富裕層の女性たちが語る「愛人を調教し、仕立て上げる」という話を、馬鹿げた冗談として聞き流していた。 だが今、自分はその渦中にいる。 昼間は、美優にお茶を淹れたり、身の回りの世話をして、夜になれば、かなり露出度の高い服を無理やり着せられ、翔太への奉仕の仕方を教え込まれた。 菜々子にとって、人生で最も屈辱的な日々が続いた。 しかし、手のひらが傷つくほど強く拳を握りしめ、なんとか耐え抜いた。 1週間後、翔太は菜々子の「学習の成果」を試すことにした。 翔太はベッドに腰掛け、菜々子の体を品定めするように眺めながら、菜々子が動き出すのを待っている。 まるで玩具でも見るかのようなその視線は、菜々子に耐えがたい屈辱を与えた。 しかし、菜々子は吐き気をこらえ、自ら翔太の首に腕を回し、彼の耳元で吐息を漏らしながら囁く。「翔太、ここでなんてつまらないでしょ?書斎に行こうよ」 「どうやらいろいろとテクニックを教わったみたいだな」 翔太は愉快そうに笑い、待ちきれないといった様子で彼女を抱き上げて書斎へと向かった。 しかし、寝室の前を通りかかる時、菜々子はわざと声を上げる。「翔太、もう少しゆっくり!」 第7話 案の定、翔太が菜々子をデスクに座らせた途端、書斎のドアがノックされ、「旦那様。どうやら体がお辛いそうで、奥様が望月さんにマッサージをしてほしいと申しております」と、美優の使用人が報告しに来たのだった。 「誰か他のやつにやらせろ」翔太は振り返りもせずに怒鳴った。 しかし、使用人は美優に命じられていたので、ドアをノックし続けた。 菜々子は翔太の胸をそっと押し、なんとか吐き気を堪えながら囁く。「翔太、やっぱりあなたが行って話をつけてきてくれない?だって、私、美優さんにわざとサボってるって思われたくないから……」 そう言って、菜々子はわざとらしく不満そうに、目を潤ませた。「もうひどいことをされるのは嫌だから」 それをみた翔太はゴクリと喉を鳴らし、菜々子の首筋に強く歯を立てると、名残惜しそうに彼女を離した。 「美優に話してくる。待ってろ」 翔太が部屋を出ると、菜々子は翔太にキスされた場所を乱暴に拭う。 それから記憶を頼りに、急いで書斎の中をくまなく探し始めた。 しばらく探していると、ついに、かつて自分が隠したUSBメモリを見つけ出した。 菜々子はそこで初めて口の端を上げ、嬉しそうに書斎を出て行く。 寝室の前を通りかかると、中から男女の甘い声が聞こえてきたが、黙って足早に通り過ぎた。 次の日、美優は使用人に命じて朝早くから菜々子を寝室へ連れてこさせた。 部屋中に漂う情事の後の匂いに、菜々子は吐きそうだった。 「昨日の夜、翔太ったらすごくって。おかげで体中が痛いの」そう言って、美優はわざと首筋のキスマークを菜々子に見せつける。 「だからさ、菜々子。マッサージしてちょうだい」美優が気だるそうに命じた。 しかし、菜々子は鼻で笑った。もうUSBメモリは手に入れたから、美優にどんな態度でもとれる。 菜々子が美優の命令を断ろうとしたその時、翔太が入ってきて二人に笑いかけた。「お前たちをいいところに連れて行ってやるよ」 …… 翔太が彼女たちを連れてきたのはオークション会場だった。 菜々子が車を降りると、美優が翔太の袖を掴んで苦しそうに表情を歪ませた。「翔太、お腹がすごく痛いの。生理が来ちゃったみたい」 すると翔太は、「すぐに運転手にカイロと薬を買いに行かせるよ」そう言って、さっと美優を抱き抱える。 しかし、美優は翔太を止めた。「運転手なんかに分かるわけないじゃない」 「菜々子に行かせた方がいいわよ」彼女は何かを含んだような目で菜々子をちらりと見る。 翔太も菜々子を見たが、少し躊躇していた。 しかし、菜々子の方から口を開く。「大丈夫ですよ、私が行ってきますね」 菜々子は内心、胸を躍らせていた。 なぜなら、以前から翔太の監視から逃れ、マイナンバーカードを再発行したいと思っていたからだった。 今は絶好の機会だ。 そこで、菜々子は翔太が口を開く前に、自分からタクシーを拾いその場を離れた。 マイナンバーカードを無事に再発行した後、菜々子はコンビニで株式の譲渡に関する書類も印刷した。 翔太の浮気の証拠を手にれた今、あとはどうにかして彼に望月グループの株を返させさえすれば、完全に縁を切ることができる。 菜々子はその株式譲渡書を慎重にバッグにしまうと、美優のためのカイロを買いに向かおうとした。 しかし、一歩踏み出したその瞬間、菜々子は突然何者かに首の後ろを殴られた。 菜々子は目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失った。 再び目を覚ますと、彼女は倉庫で縛られていた。隣には、同じように縛られた美優がいて、目の前には、顔を真っ青にさせた翔太が立っている。 「柴田社長、一人選べ……」 拉致犯はナイフを、菜々子と美優の首に突きつけた。 翔太の表情も、ますます険しくなっていく。 「柴田社長、どうした? もし変な真似でもしてみろ。こいつら二人とも殺してやるからな!」 拉致犯はそんな脅し文句を叫んでいたが、翔太はその言葉を完全に無視し、大股で近づくとあっさりナイフを奪い取った。 「美優。こんなくだらない拉致ごっこなんかして」 翔太は美優の縄を解きながら、呆れた表情を浮かべる。 芝居が見破られた美優は、笑いながら、菜々子の縄を解こうとする翔太の手を掴んだ。 「ねえ翔太。私と菜々子、どっちの方が好きなの?」 第8話 「もう、いい加減にしてくれ。二人とも、好きなんだから」 翔太は困ったように眉間を押さえる。 「だめよ!どっちが一番好きか、はっきりさせて」 美優はしつこく食い下がった。 翔太は仕方なく首を振り、「分かったよ。お前が一番好きだ。これで満足か?」と言った。 それを聞いた美優は、満足げに翔太に抱きついてキスをすると、さらに甘えた声を出した。「それなら、私が一番だって証明してよ」 「どうやって証明しろって言うんだ?」 美優は菜々子を一瞥し、ナイフを翔太の手に握らせる。「菜々子を、あなたの手で刺して。そしたら信じてあげる」 菜々子は、その言葉を聞いて、馬鹿馬鹿しいと思った。 確かに翔太は美優と浮気をしたけれど、それでも、彼の心のどこかには、まだ自分への愛情が少しは残っているはずだと信じていたから。 しかし、次の瞬間。菜々子の胸に、突然鋭い痛みが走った。 菜々子は、信じられない思いで顔を上げる。 そこには、申し訳なさそうな顔で菜々子を見つめる翔太がいた。「菜々子、少しだけ我慢してくれ。俺は美優を安心させてやらなくちゃいけないんだ」 菜々子は目を見開いた。それが驚きのせいなのか、痛みのせいなのか、自分でも分からなかった。 安心…… 美優を安心させるためだけに、翔太は本当に自分を刺したのだった。 再び目を開けるとそこは病院で、蛍光灯の光が目に染み、菜々子は顔をしかめた。 「菜々子、美優は俺の嫁さんなんだ。それに、お前をここに連れ戻したことで、彼女を傷つけてしまった」 翔太は菜々子のそばに座ると、その目元を優しく撫でた。 「だから、さっきのは美優への埋め合わせだと思ってくれ」 とっくに翔太への愛情など消え失せていたはずなのに、その言葉を聞いた瞬間、菜々子の心は氷水に浸されたように冷たく、そして痛んだ。 彼女は顔を背け、翔太の手を避ける。 「菜々子、怒るなって」 翔太は無理やり菜々子の顔を自分の方に向けさせ、優しく言い聞かせた。「退院したら、埋め合わせはなんだってしてやるから」 その言葉を聞いた途端、菜々子の心臓がどくんと波打つ。 翔太に会社の株を譲らせる方法を閃いた。 菜々子は顔を上げて翔太を見つめる。「月見ヶ丘の別荘が欲しい」 翔太は、それを聞いて満足げに微笑んだ。「ああ、問題ないさ」 そう言いながら翔太は再び菜々子の頬をつまむ。「別荘をやるから、もう俺に怒るなよ。それに、美優のことも恨むんじゃないぞ」 その言葉に、菜々子は目を伏せ、冷ややかに笑った。 翔太の気が変わらないうちに、と菜々子は痛みをこらえて退院し、その日のうちに翔太をせかして月見ヶ丘の別荘を見に行った。 そして売買契約を結ぶ時、こっそりと株式譲渡の契約書を購入契約の書類に紛れ込ませた。 翔太がそれにサインするのを目の前で確認し、菜々子はついに満足げに微笑んだ。 これで、もうこの男の機嫌を取るために芝居を続ける必要はない。 そして、迎えに来てもらおうと渚に電話をかけるため、人気のない場所に移動した時、数人の話し声が聞こえてきた。 「翔太、お前もたいしたもんだな。菜々子さんをすっかりお前の女にしちまって。 さっき、お前が契約書にサインしている時のじっとみてた顔。完全に愛人そのものだったぞ。 家柄っていうフィルターを外せば、彼女もたいしたことないんだな!」 その言葉に、周りからどっと笑い声が上がる。 菜々子の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 声のする方へ近づくと、ドアの隙間からオフィスの中にいる翔太の姿が見えた。彼はタバコを指に挟んで軽く笑っている。「菜々子は頑固でさ。昔、美優の存在を知られた時、どうしても離婚するって聞かなかったんだ。 けど、お前らも知っての通り、俺は菜々子を愛してるから別れるなんてできるわけがない。だから仕方なく……」 翔太は仕方がないといった風に首を振った。「あの事故を起こして、菜々子を世間から隠すしかなかったんだ。 でも、まさか記憶喪失になるとはな。まあ、結果的には好都合で手間が省けた」 その瞬間、菜々子の頭の中で何かが爆発した。キーンという鋭い耳鳴りだけが、頭の中に響き渡っている。 あの交通事故は、ただの偶然だと思っていた。だから、翔太につけこむ隙を与えてしまった。 まさか、すべては翔太が仕組んだことだったなんて。 自分を死んだことにして、美優にすべてを奪わせるために。 「あ、そうだ。3日後の俺の誕生日パーティーで、改めて菜々子をみんなに紹介するつもりだからさ」 翔太は仲間たちに釘を刺す。「お前ら、ヘマして菜々子に勘付かれたりするなよ」 「心配すんなって!俺たちがそんなことするわけないだろ。でもさ……」 仲間の一人がからかうように笑った。「彼女のことはなんて呼べばいいんだ?奥さんって呼ぶわけにもいかないだろ?」 「そんなのだめに決まってるじゃないか」 翔太はタバコの火をもみ消す。「俺の嫁は、美優なんだからさ。 これは全部、菜々子が自分で招いたことだ。もしあいつがあの時、美優を受け入れていれば、こんなことにはならなかったんだから」 そして口の端を上げながら、翔太はさも当然かのように言った。「俺の嫁でいたくないって言うなら、愛人になるしかないだろ? 菜々子は俺の愛人……ふん、結構しっくりくるな」 その言葉は、ナイフのように鋭く菜々子の心をえぐった。 菜々子は唇を震わせながら、スマホの録画を停止した。ゆっくりと振り返ったその瞳には、燃え盛るような憎しみが渦巻いている。 菜々子は、考えを変えた。 今ここで翔太と対決したって、面白くない。 それに、彼の誕生日パーティーには、きっと各界の名士が大勢集まるはずだ。 これほど自分を陥れてくれたんだ。こちらも、とびっきりのプレゼントを用意してあげないと。 3日後、翔太が人生の絶頂にいるその瞬間に、地獄の底へ突き落としてやる。 しかし、菜々子がその場を立ち去ろうとした、その時だった。いつのまにか現れた美優が、大声で叫んだ。「菜々子!あなた、こんなところでこそこそ何してるの?」 その声に、オフィスの中の談笑がぴたりと止まる。 息が詰まるような沈黙の後、翔太が勢いよくドアを開けた。 翔太は菜々子が浮かべた、一瞬の慌てふためいた表情を見逃さなかった。凍えるように冷たい声で、鋭く彼女を見つめる。「菜々子、さっきの話、全部聞いていたのか?」