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月の色が霞んでいく
レース中、ヘッドセットから恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)がこれまで聞いたことのないほど叫ぶ声が響いた。「減速しろ!左の前輪がバー...
Chương (1)
第1章
レース中、ヘッドセットから恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)がこれまで聞いたことのないほど叫ぶ声が響いた。「減速しろ!左の前輪がバーストする!」
自分ではマシンの調子は良いと感じていたが、小林美月(こばやし みつき)はそれでも彼を信じ、アクセルを緩めた。
次の瞬間、彼の幼なじみである隈元芽依(くまもと めい)が美月にぶつかり、コース外へ弾き飛ばして追い抜き、優勝をさらった。
美月は左耳を失聴し、レーサーとしてのキャリアを絶たれた。
偶然、辰朗が友人と話しているのを耳にした。
そこで美月は、命を落としかねなかったあの事故が彼の計算通りだったと知った。
彼のすべての深い愛情は、芽依のために道を敷くものだったのだ。
「美月は今回は重傷だし、もう二度とサーキットには戻れないだろうな?その人生はおしまいだ」
「俺が彼女と結婚する」
辰朗はこともなげに言った。
「北村夫人の座を補償として与えるさ。北村家が養ってやる」
辰朗の声には、施しのような哀れみが滲んでいた。
「結婚後、貴婦人になった美月は、安心して家にとどまれるさ。そして、良妻賢母として日々を送れば、それで十分だ。そうなれば、芽依のレーサー人生にもう障害はない」
美月は完全に心が砕け、泣きながら父の小林明雄(こばやし あけお)に電話をかけた。
「政略結婚、受け入れるわ」
辰朗、今回は、もうあなたはいらない。
第1話
最終ラップ、小林美月(こばやし みつき)はハンドルを強く握り、視線をゴールラインに固定した。
大きくリードしている彼女には、陽光の下で輝く優勝トロフィーが、手を伸ばせば届きそうに見えた。
そのとき、ヘッドセットから突然、恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)の声が響いた。
その声は切迫しており、彼女がこれまで聞いたことのないほどの緊張を帯びていた。
「美月、減速しろ!左の前輪に問題がある。このまま突っ込めば横転するぞ!」
彼女の心臓がぎゅっと縮んだ。
マシンに異常はまったく感じられず、そのままアクセルを踏み続けたかったが……
辰朗が彼女のレース中に、これほど取り乱したことは一度もなかった。
信頼が本能に勝った。
美月はアクセルを緩めた。
その一瞬、バックミラーの中で、ピンクとホワイトのカラーリングのマシンが猛然と加速した。
ドン!
左側から凄まじい衝撃が襲ってきた。
美月は反応する間もなく、慣性に引きずられて右へ激しく投げ出された。
ヘルメットがロールケージに強く打ちつけられた。耳をつんざく金属が擦れる音と砕ける音が、瞬時にあたりを覆い尽くした。
激しい眩暈が、頭を揺さぶるように襲ってきた。
意識を失う直前の最後の瞬間、美月は朦朧としながら、コース脇で自分の方へ走ってくる辰朗の姿を見た。
……
消毒液の匂いが鼻腔に入り込む。
美月はかろうじて目を開けた。視界に映ったのは見知らぬ真っ白な天井だ。
「目が覚めましたか?」
看護師が近づいて、医療機器を確認しながら言った。
「左耳は一時的な失聴です。頭蓋内に軽い内出血もあります。運が良かったですね。植物状態にならずに済みました」
左耳……失聴?
美月は手を上げて左耳に触れた。
一面の静寂だ。
右耳だけが、機器の規則正しい電子音と、自分の荒い心拍を拾っていた。
「治療が間に合わなければ、右耳も失聴します」
医師がドアを押して入り、診断書を差し出した。
「手術をするかどうか、早めに決断してください」
美月は診断書を受け取らず、視線を病室の隅にあるテレビへ向けた。
ニュースでは、昨日のレースの映像が再放送されていた。
「……レース前に大きな期待を集めていた『三連覇』の小林美月さんは、最終ラップでまさかのリタイアしました。新人選手の隈元芽依(くまもと めい)さんが後方から追い上げ、番狂わせで今大会のチャンピオンに輝きました!」
画面が切り替わった。
表彰台の上で、芽依はトロフィーを抱え、明るく眩しい笑顔を見せていた。
「これが私のキャリア初の金メダルです!レースでは、常に新鋭が台頭してきます。すべての選手を尊敬していますし、次の大会で私を倒してくれる選手が現れるのも歓迎します!」
さらに映像が切り替わった。
辰朗が、ステージ下で待っていた。
顔を上げ、芽依を真剣に見つめるその瞳には、深い優しさが宿っていた。
芽依が階段を下りると、彼はすぐに歩み寄り、自分の上着を彼女の肩に掛けた。
あまりに自然で親密な様子に、美月の心が痛んだ。
その光景を見た記者が、笑いながら伝えた。
「関係者によりますと、隈元家と北村家は以前から縁談の意向があり、二人は幼なじみでもあるとのことです。今回の優勝では、北村辰朗さんが終始付き添っており、結婚も間近かもしれません……」
スマホにメッセージの着信音が鳴った。
美月は車両検査報告書を読むと、胸がざわつき、まるで世界の一部が唐突に崩れ落ちたかのような気持ちになった。
なぜ?
なぜ左の前輪に問題がないのに、辰朗は減速しろと言ったの?
まさか、わざと……いや、そんなはずない!
美月は勢いよく手の甲の点滴針を引き抜いた。
血が滲んだが、痛みは感じなかった。
「小林さん!だめです」
彼女は看護師を突き放し、よろめきながら病室を飛び出した。
冷たい廊下の光が身体を照らす。
彼女は薄手の病衣だけを身にまとい、素足で冷たいタイルの床を踏む。歩くたびに、まるで刃の上を踏んでいるかのようだ。
だが、足裏よりも冷たいのは、心だ。
自分の口で、辰朗に問いたださなければならなかった。
あの減速の指示が、本当に自分の安全のためだったのか?
それとも、芽依に道を譲るためだったのか?
……
夜の闇の中、レーシングクラブのビルは煌々と灯っていた。
壁には、美月の巨大なポスターがまだ掲げられている。
【天才少女・小林美月、国内レース界の伝説】
心臓に鋭い痛みが走り、美月はまっすぐ2階のオフィスへ向かった。
ドアは半開きで、暖かな黄色い光が隙間から漏れている。
押そうとしたそのとき、中から男の笑い声が聞こえた。
「辰朗、その一手は本当に見事だな!今じゃネット中が、美月の時代は終わった、未来は芽依だって言ってる!」
足立家の御曹司である足立啓人(あだち けいと)の声だった。
美月の足が、その場に止まった。
辰朗の声が響いた。
落ち着いていて、どこか誇らしげですらあった。
「芽依は子どもの頃から、ずっとチャンピオンを取りたがっていた。それが彼女の夢だ」
「芽依のためとはいえ、本当によく手を尽くしたな」
啓人が舌打ちした。
「今日の一撃のために、2年間も美月に深い愛情を見せかけてきた。割に合うのか?」
時間が凍りついた。
美月はドアの外に釘付けにされたようで、息をすることさえ忘れていた。
彼女もまた、辰朗の答えを待っている。心の奥には、最後のわずかな望みを抱いている。
「違う、愛してるんだ。そのすべては事故だ」と言ってくれるのを、ただ待っている……
辰朗は数秒沈黙した。
彼の声は軽々しいのに、美月の耳には重くのしかかるように響いた。
「割に合うさ。
美月は、目障りすぎた」
第2話
「ただの一般家庭の子が、少しの才能を頼りにすべての注目をさらった。美月がいる限り、芽依は永遠に2位だ」
その言葉の端々が、氷の錐のように、容赦なく美月の鼓膜を突き刺した。
「だから事故に遭うよう仕組んだわけか?」
啓人が笑って言った。
「美月って、今でもお前がタイヤを心配して減速させたって信じてるんじゃないか?」
「あの指示は、タイミングを計算して出した」
辰朗の声には、わずかな感情の揺れもなかった。
「美月は俺を信じているから、必ず減速する。少しでも遅くなれば、芽依が追い越せる」
美月は口を必死に押さえ、爪が頬の肉に深く食い込んだ。
自分の命を奪いかねなかったあの事故は、最初から計算されたものだったのだ。
あのロマンチックなアプローチも、心打たれる告白も、辛抱強い気遣いも、すべては自分を罠に誘い込むための演技にすぎなかった。
「俺にとって、お前は眩い真珠だ」という言葉は、嘘だった。
実際には、自分は芽依の優勝を邪魔する「目障りな存在」にすぎなかった。
「それにしても、お前は本当にえげつないな」
啓人は続けた。
「あの衝突は冗談じゃない。万が一、本当に死んでたら……」
「死なないさ」
辰朗は遮り、日常会話でもするかのように軽い口調で言った。
「角度も速度も計算済みだから、せいぜい重傷だ。リタイアならちょうどいい。それで、一件落着さ」
美月の身体は震え始め、奈落の底に突き落とされたようだ。
長年の信頼と愛情が、この瞬間、辰朗の最も鋭い刃となり、美月の心の奥深くに突き刺さった。
「この先はどうするつもりだ?」
啓人が尋ねた。
「美月は今回は重傷だし、もう二度とサーキットには戻れないだろうな?その人生はおしまいだ」
「俺が彼女と結婚する」
辰朗は、何でもないことのように言った。
「何だって?!」
啓人は信じられないという叫び声を上げた。
「北村夫人の座を補償として与えるさ。北村家が養ってやる」
辰朗の声には、施しを与えるような哀れみが滲んでいた。
「結婚後、貴婦人になった美月は、安心して家にとどまれるさ。そして、良妻賢母として日々を送れば、それで十分だ。そうなれば、芽依のレーサー人生にもう障害はない」
「さすがだな!厄介者を片付けただけじゃなく、情に厚いって評判まで手に入れた!」
二人がグラスを合わせる音が、澄んでいて耳障りだった。
美月は冷たい壁にもたれ、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
左耳は、相変わらず何も聞こえない。
しかし、右耳に届く言葉は、赤く焼けた烙鉄のように、心臓のいちばん柔らかな場所を焼いた。
彼女は3年前、辰朗と初めて出会った日のことを思い出した。
あの頃、父である明雄は彼女がなぜそこまでレーサーにこだわるのか理解せず、卒業したら家業を継ぐべきだと考えていた。
彼女もまた、なぜ明雄が何度も自分の選択を否定し、誇りにしていた才能を認めてくれないのか理解できなかった。
二人は激しく言い争い、彼女はドアを叩きつけて家を飛び出した。
実のところ、明雄と大喧嘩したのは二度だけだった。
一度目は3年前レーシングのためで、二度目は2年前辰朗のためだ。
あの日の細かなことは覚えていない。
ただ、練習場に現れた辰朗が、彼女にかけた最初の言葉だけは覚えている。
「美月、お前には、もっと輝かしい未来が待っている」
あのとき、美月は本当に自分の輝きを理解してくれる人に出会えたのだと思った。
だが彼の言う「輝き」とは、眩しすぎて消さなければならない障害にすぎなかった。
なぜ、都にいるはずの彼が蘇市の練習場に現れたのか。
なぜ、自分の好みをすべて正確に把握していたのか。
なぜ……
温かい涙が目尻からこぼれ、美月の口元へと流れ落ちた。
しょっぱくて、苦い。
彼女は震える手でスマホを取り出し、画面の光が目に突き刺さるように痛かった。
電話帳には「お父さん」と書かれている。彼女はもう2年も電話をかけていなかった。
当時、辰朗と一緒になるため、家と完全に決裂した。
明雄は湯呑みを叩き割り、言った。
「その男について行くなら、二度と蘇市に戻ってくるな!」
あのときの自分は、振り返りもせずに去り、「愛」という名の罠に自ら飛び込んだ。
今思えば、愚かで笑うしかない。
指先は発信ボタンの上で止まり、なかなか押せずにいた。
そのとき、オフィスの中から再び啓人のからかう声が聞こえた。
「正直に言えよ。美月を一度も好きになったことがないのか?
あの子、綺麗だし才能もあるし、お前には一途だったのに……」
「道具にすぎない」
辰朗は遮った。
その冷たい声に、ドアの外の美月は全身が凍りついた。
「愛してるのは、ずっと芽依だけだ」
最後の幻想が砕け散った。
美月は発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴るや否や、すぐに電話はつながった。
まるで、この電話をずっと待っていたかのようだ。
スマホ越しに、明雄の低く慎重な声が響いた。「……美月?」
たった二文字だけで、美月の抑え込んでいた悲しみは喉を突き破り、小さな嗚咽となって漏れ出た。
「お父さん……」
「どうした?」
明雄の声は即座に緊張を帯びた。
「ま、まさか……試合で大けがをしたか?怖がるな。すぐ海外の医療チームに連絡する。今迎えに行く!」
明雄は彼女が事故に遭ったことを知っていた。
まさか、父がそれを知ってるなんて!
「私……」
悪いのは自分なのに、父は責めも恨みもせず、今でも自分を心配していた。
それなのに、自分は人を見誤り、本当に愛してくれる人を遠ざけ、幼稚に意地を張り続けていた。
涙は完全に止まらず、大粒になって次々とこぼれ落ちた。
美月は深く息を吸ってから、強く吐き出し、できるだけ声を落ち着かせた。
「私は大丈夫……私は……」
声が喉に引っかかり、彼女はどこから話せばいいのか途方に暮れた。
スマホの向こうは、安堵したように静まり、彼女を急かすことはなかった。
美月は長い間考え、ただ一言だけ口にした。
「お父さんの言う通りにするよ」
「何をだ?」
「政略結婚を」
第3話
美月は目を閉じ、涙が頬を伝って激しく流れ落ちた。
「来月、蘇市に戻る。お父さんが決めた相手と結婚する」
「うん……分かった!美月、帰ってくればいい。帰ってくればいいさ……」
明雄の声は震えていた。失っていたものを取り戻した歓喜だ。
「すぐに手配する!」
美月は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
そして最後に、あのドアを一度だけ振り返った。
裸足のまま、冷たい夜の闇へと踏み出した。
世間は、彼女をレース界に彗星のごとく現れた天才少女としてしか知らない。
だが彼女が、蘇市の辰月グループ唯一の後継者だということは、誰も知らない。
今、夢は覚めた。
家に帰るべきだ。
美月は病院に3日間入院した。
その3日間、辰朗は一度だけ慌ただしく顔を出したきりで、滞在は10分にも満たなかった。
お見舞いの品とバラの花束を置き、「会社に急用がある」と言って去っていった。
去るまで、彼女の耳の具合を一言も気にすることはなかった。
医師は静養を勧め、手術をするか早急に決めるよう告げた。
だが彼女には、耳よりも急ぐべきことがあった。
自分のものであるトロフィーと金メダルを、必ず取り戻さなければならない。
それは汗と青春を注ぎ込んで手にした栄誉だ。芽依の元に残すわけにはいかなかった。
退院手続きは、すべて美月一人で済ませた。
病院を出るとき、クラブのアシスタントの内山(うちやま)からメッセージが届いた。
【小林さん、今日ご退院されたと聞きました。クラブでサプライズを用意してるから、必ず来てほしいと、北村さんが言ってました】
サプライズ?
美月はただ【うん】と返した。
タクシーでクラブへ向かう途中、美月は車窓の外を眺めた。
この道は、あまりにも馴染み深い。
かつて、辰朗は毎日自分をクラブに送っていた。自分は助手席に座り、彼は片手を伸ばして自分の手を握った。
「美月、お前は夢だけを追えばいい。俺はいつでも、お前の一番強い後ろ盾だ」
今になって、彼女は理解した。
彼は確かに「後ろ盾」だった。しかし、その後ろ盾は芽依のためのものだった。
そして、美月の無防備な背後から、最も致命的な一撃を与えた。
夕陽がクラブのガラス張りの外壁を紅く染めていた。
ここは、辰朗が美月のために「一から作り上げた」王国であり、二人の夢の始まりだと言っていた場所だ。
クラブのドアを押し開けた瞬間、美月は立ち尽くした。
場内いっぱいにシャンパンローズが敷き詰められている。入口から中央まで続き、濃厚な花の香りが押し寄せてくる。
夜風に揺れるろうそくの炎が、壁に彼女にとって見慣れたあの写真を映し出していた。
一枚目は、大学時代、美月が初めて学内レースで優勝したときのものだ。ゴールラインで、辰朗がひまわりの花束を抱えて待っていた。
二枚目は、初の全国大会だ。辰朗は、緊張で手汗をかく彼女の手を握り、「大丈夫、俺がいる」と言った。
三枚目は、初の全国優勝だ。表彰台の下から、辰朗は宝物を見るような誇らしい眼差しで、彼女を見上げていた。
どの写真も、美月が疑いなく信じていた幸せを刻んでいた。
今見ると、その笑顔の一つ一つが、彼女の愚かさを嘲笑っているようだ。
辰朗は、彼女が一番好きなダークグレーのスーツを着て、ベルベットの指輪箱を手に、バラで囲まれたハートの中央に立っている。
彼女に気づくと、彼はいつも通り微笑み、深い愛情をたたえた眼差しを向けた。
その演技は見事だ。
「美月」
彼は片膝をつき、とても優しい声で言った。
「俺と結婚してくれ」
チームメイトたちが四方から集まり、歓声が次々と上がった。
「結婚してあげて!」
「小林さん、北村さんが3日もかけて自分で準備したんだよ!幸せだね!」
「ロマンチックすぎるわ!」
美月は入口に立ったまま動かなかった。
辰朗のイケメンで愛情深そうな顔を見た瞬間、胃の奥がむかむかして吐き気がこみ上げた。
「まだ怒ってるのか?」
辰朗は一歩近づき、後悔に満ちた口調で言った。
「あの日は俺の不注意だった。芽依のマシンが制御不能になったのに気づけず、お前を怪我させてしまった。俺が悪い。美月なら、許してくれるだろ?」
彼は美月の手を握った。
掌は温かい。
かつては、その温もりが美月を安心させた。
今は、全身が凍りつくように感じるだけだ。
「一生をかけて、お前に償うと誓う」
彼は指輪を彼女の目の前に掲げた。
キャンドルの光に、ダイヤモンドが痛いほど眩しく輝く。
「愛しい美月よ、俺にお前を支える機会をくれないか?」
チームメイトたちは息を潜め、興奮に目を輝かせていた。
美月は目を伏せ、指輪を見つめた。
「いいわ」
そして、彼女は自分の声が聞こえた。
静かで、何の感情の揺れもない声だった。
辰朗の目に喜びが走り、疑うこともなく、待ちきれない様子で指輪を彼女の指にはめた。
冷たい金属の感触は、まるで枷のようだ。
「やっぱりな!」
彼は彼女を強く抱き寄せ、耳元で囁いた。
「美月、お前を世界一幸せな花嫁にする」
チームメイトたちは歓声を上げ、拍手が沸き起こった。
すべてが熱烈で、美しく、夢のように現実味がなかった。
美月は彼の肩に身を預け、彼の体から漂う淡い男性用香水の匂いを感じた。
そして、かすかに甘い香りが混じている。それは芽依がいつも使っているものだ。
美月はそっと彼を押し離し、何気ないふりで口を開いた。
「私のトロフィーと金メダルは?」
辰朗は一瞬、表情をこわばらせた。
「どうして急にそんなことを?」
「ずっと見ていなかったから、見たくなったの」
美月は彼を見つめ、もう一度繰り返した。
「見たいの」
第4話
「お前が大事にしているのは分かってるから、先にメンテナンスに出しておいたんだ」
辰朗は優しく微笑み、美月の肩を抱いた。
「戻ってきたら、専用の展示ケースを作らせるよ。新居に置こう……」
言い終わらないうちに、スマホが鳴った。
辰朗は画面を一瞥し、眉をわずかにひそめた。
「会社の急用だ」
彼は申し訳なさそうに彼女の額にキスを落とした。
「戻ったら、結婚式のことをゆっくり話そう」
そう言って、彼は慌ただしく背を向けて去っていった。
足取りはどこか落ち着きがなかった。
美月はその場に立ち尽くし、彼の背中がドアの向こうに消えるのを見送った。
チームメイトたちが祝福に集まってきたが、彼女は淡くうなずいただけで、まっすぐ倉庫へ向かった。
予備の鍵を持っている。
辰朗は、ここにあるすべてが彼女のものだと言っていた。
ドアを開けると、埃が舞い上がった。
トロフィーを保管していた棚は、空っぽだ。
棚のドアには、埃をかぶった紙切れが一枚貼られていた。
洒落な筆跡は辰朗の字だ。
【美月、トロフィーは専門のメンテナンスに出した。数日後に戻す】
数日後?
彼は、私をだますことにすらいい加減なんだね。
美月はその紙を見つめ、ふっと笑った。
笑っているうちに、涙がこぼれ落ちた。
……
アパートに戻るころには、すっかり夜になっていた。
ここは辰朗が美月に買い与えた「愛の巣」だ。
都心の最上階で、街の夜景を一望できる。
彼は、ここは二人だけの場所だと言っていた。
美月はソファに崩れ落ち、スマホを開く。
芽依がインスタに投稿していた。
祝勝会の写真だ。
シャンパンタワーがきらめき、芽依はトロフィーを掲げて輝くように笑っている。
最後の一枚は、隅のゴミ箱の中に転がっていた金メダルだ。
その金メダルは果物の皮と紙くずに半分埋もれ、汚れきっている。
それは、自分のキャリアで初めて手にした全国大会の金メダルだ。
そして、こういう言葉が添えられた。
【いらないものは捨てるべき。『障害を片づけてくれた』すべての人に感謝!】
その投稿の下で、辰朗が「いいね」を押していた。
さらにコメントまで書いた。
【お前にふさわしいものが一番いい】
美月は画面を見つめ、指先が冷たくなった。
これは彼が言う「専門メンテナンス」か。
彼女は立ち上がり、荷造りを始めた。
クローゼットの半分は美月の服で、半分は辰朗のものだ。
かつて彼女は、二人の服を混ぜて掛けていた。
そうすれば、毎日抱き合っているみたいだと思っていた。
今、彼女は自分の服を一枚ずつ引き抜き、スーツケースに放り込む。
本棚には、彼女が勝ち取ったメダルや、辰朗が贈った手作りのレーシングモデル、そして分厚いアルバムがあった。
アルバムを開く。
一ページ目は大学のキャンパスだ。サーキット脇で、辰朗が彼女の横顔を盗み撮りしていた。
二ページ目は、彼が初めて正式に彼女をデートに誘った日だ。グラウンドに、ろうそくで「美月、愛してる」と描いた。
三ページ目は、二人で初めて優勝したときだ。彼は彼女の額にキスをし、氷も溶かすような優しい目で見つめていた。
どの写真も、美月が疑いなく信じていた愛の証だった。
今見ると、すべてが皮肉にしか見えない。
美月はアルバムを閉じ、ゴミ箱に投げ入れた。
そして作業を続けた。
ベッドサイドの引き出しから、小さなベルベットの箱を取り出す。
開くと、中には男性用の指輪が一つあった。
彼女はこっそり辰朗の指のサイズを測り、全財産をはたいてこの指輪を特注した。
今回の優勝のあと、彼にプロポーズするつもりだった。
箱の中には、彼女が手書きしたカードも入っていた。
【辰朗、これからの道も、あなたと一緒にすべてのゴールラインを駆け抜けたい。あなたもそう思ってくれるの?】
書いたものは、すべて本心だった。
美月は指輪を手に取り、長いこと見つめた。
それから窓辺へ行き、窓を開けると、迷いなく手を放した。
指輪は夜の闇を切り裂き、音もなく落ちていった。
玄関で、ドアの開く音がした。
辰朗が帰ってきた。
酒の匂いが彼の体に染みついていても、甘く濃厚なクチナシの香水の匂いにはかなわなかった。
「美月?」
彼はよろめきながら入ってきて、床一面のスーツケースを見て立ち尽くした。
「これは、どういうことだ?」
美月は振り返らず、服を畳み続けた。
「荷物をまとめてるの」
辰朗は背後から彼女を抱きしめると、顎を彼女の肩に乗せ、親しげに頬ずりした。
「また怒ってるのか?会社のほうが本当に断れなくて……」
彼の熱い息が、酒の匂いとともに彼女の首筋にかかる。
美月の体は硬直した。
「離して」
彼女はそう言った。
「離さない」
彼はさらに強く抱きしめ、甘ったるい声で言った。
「美月、今日は本当に嬉しかった。俺と結婚すると言ってくれて……本当に、本当にお前を愛してる……」
愛?
美月は口元をわずかに歪めた。
「次は芽依に、違う香水を使わせて。体につけたなんて……」
その声は冷静で、真剣だった。
「気持ち悪い」
辰朗の体がぴくりと固まった。
やがて彼女を離し、無実そうな表情を作った。
「きっと祝勝会でつけたんだ。今日、芽依は嬉しくて、たくさんの人に抱きついてたから」
「あなたも、その中の一人ね」
断定的で、わずかに嫌悪を含んだ口調だった。
「美月……」
彼は困ったようにため息をついた。
「分かってるだろ、俺はお前しか見てないんだ。芽依は妹みたいなものなのに、どうしていつも彼女に嫉妬するんだ?」
妹だと?
なんて都合のいい言葉だ。
美月は彼を見つめ返した。
照明の下で、辰朗の瞳は相変わらず深く、魅力的だ。
彼はかつて、その瞳で美月を見つめ、彼女が自分のすべてだと言った。
でも今……
その目を通して見たものは、最初から最後まで、ただもう一人の女性の影だけだ。
第5話
「疲れたの」
美月は辰朗の視線を避けた。
「先に寝るわ」
「俺も一緒に……」
「一人で寝たい」
彼女は寝室に入り、内側から鍵をかけた。
ドアにもたれかかると、部屋が静寂に包まれた。
彼女はようやく息をつけた瞬間、涙が無意識に頬を滑り落ち、胸に詰まった息は吐き出せないままだ。
ドアの外で、辰朗は長い間立ち尽くしていた。
やがて足音が遠ざかり、ゲストルームのドアが開いて、閉まる音がした。
美月は窓辺に座り、膝を抱えながら、高く昇った月を静かに見つめた。
左耳は相変わらず何も聞こえないままだ。
右耳には、街の喧騒と心がゆっくり砕けていく音だけが聞こえている。
一睡もできない夜だった。
空が白み始めたころ、目玉焼きの香りとコーヒーの匂いが漂ってきた。
辰朗はそれを「家の味」だと言っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、美月はベッドの縁に腰かけた。
視線は指先に留まった。
ダイヤモンドが陽光を受け、刺すような光を放っていた。
まるで嘲笑うかのようだ。
「美月、起きた?」
辰朗が静かにドアを押し開け、トレイを手に入ってきた。
彼は部屋着姿で、髪は少し乱れ、穏やかで家庭的に見える。
「お前の好きな半熟目玉焼きを作った」
彼はベッドに腰を下ろし、一口分を箸でつまんで彼女の口元へ差し出した。
「食べてみる?」
美月は顔を背けた。
「お腹空いてない」
辰朗の手が宙で固まった。
やがて彼は箸を置き、彼女の手を握った。
「まだ怒ってる?これからはなるべく残業を減らして、お前と過ごす時間を増やす」
彼は彼女の指の指輪を撫で、深い愛情を宿した目で見つめた。
「式場はもう考えた?モルディブはどうだ?それとも……ずっと行きたがってたフィンランドでオーロラを見る?」
美月は手を引き抜いた。
「どこでもいい」
辰朗は笑い、彼女の鼻先を軽くつついた。
「俺たちの結婚式だ。唯一無二にしよう」
そして、少し間を置いてから慎重に尋ねた。
「耳は……まだ痛む?医者は何て言ってた?」
美月は立ち上がった。
「会社に行く時間よ」
「今日は行かない」
辰朗は慌てたように立ち上がり、後を追った。
「家でお前に付き添うさ」
彼の目に浮かぶ、理由の分からない焦りを見て、美月は可笑しくなった。
彼は何に怯えているのだろう?計画が露見するのが怖いのか?
それとも、自分が彼の思い通りに動かなくなるのを心配しているのか?
そのとき、インターホンが鳴り、二人の間の張り詰めた空気を断ち切った。
美月はほっとし、辰朗は足早にドアへ向かった。
ドアを開けると、芽依がピンクのスーツケースを引いて立っていた。
その目はひどく腫れていて、一晩中泣いていたかのようだ。
「辰朗……昨日、両親が海外に行ってしまって。家に私しかいないの。すごく怖い……」
芽依はおずおずと美月を見た。
「美月さん、しばらく……泊めてもらえる?」
美月は何も言わなかった。
辰朗はすぐに身を引いて道を空け、笑みを抑えきれない様子で言った。
「もちろんだよ、早く入って」
「ありがとう、辰朗!」
芽依は笑い出した。
辰朗は自然な仕草で彼女のスーツケースを中へ運んだ。
芽依が美月のそばを通ると、あの甘く濃厚な香水の香りが立ち込め、思わず息が詰まるほどだ。
辰朗は優しい声で言った。
「ゲストルームは空けてある。ずっとお前を待ってたさ」
「やっぱり、辰朗が一番優しいよ」
芽依は甘く言い、美月を一瞥すると、隠そうともしない得意げな視線を向けた。
美月は背を向け、階段を上がろうとした。
「美月!」
辰朗が呼び止めた。
彼女のそばへ来て、声を低くする。
「芽依は今回、本当に怖がってる。お前も少し気にかけてやってくれ。彼女は小さいころから一緒に育ったんだ。実の妹みたいな存在なんだ」
美月は彼を見上げた。
「あの子と血がつながってるとでも?」
辰朗の顔色が沈んだ。
「美月、そんな意地悪な言い方はやめろ」
「意地悪?」
美月は笑った。
「意地悪な話、言った覚えはないけど?」
芽依が歩み寄り、辰朗の腕を掴んだ。
「辰朗、美月さんと喧嘩しないで……全部私が悪いの。来るべきじゃなかった……」
「お前のせいじゃない」
辰朗は宥めるように芽依の手を叩き、美月へ向き直ると、口調が強くなった。
「芽依は数日泊まるだけだ。大したことじゃないだろ。いちいち……」
美月はもう関わる気もなく、そのまま階段を上った。
「待て!」
辰朗がまた呼び止めた。
彼はテーブルへ行き、ブリーフケースから書類を一枚取り出して差し出した。
【事故状況説明および示談書】というタイトルだ。
美月はそのタイトルを見つめ、ようやく落ち着きかけた心が再び波立った。
「お前がリタイアしてから、芽依はネットでずっと叩かれてる」
辰朗は至極当然という態度だ。
「芽依がわざと事故を起こしたって言われてる。プロのレーサーにとって、これは致命的だ。だから……」
「だから?」
第6話
美月は辰朗の言葉を受けず、聞こえなかったふりをした。
芽依はそばで涙を拭いながら言った。
「ごめんなさい……美月さんを怪我させてしまって。怒ってるなら、私にぶつけていい。でも、この件でクラブに迷惑はかけられないの……」
辰朗は有無を言わせず、書類を美月の手に押し込んだ。
「署名して。そして、持病の再発が原因で、芽依とは無関係だって、声明を出してくれ。そうすれば、炎上は収まる」
美月は書類を開いた。
条項は明確だ。
事故の責任はすべて自分にあり、芽依には一切の非がないと認める内容だ。
「補償」として、辰朗が【すべての医療費を負担する】と記されている。
美月は顔を上げた。
「私が署名しなかったら?」
辰朗は眉をひそめた。
「美月、わがまま言うな」
「わがまま?」
美月は書類を彼の顔に投げつけた。
「辰朗!芽依はサーキットで私を殺しかけたのよ。それでこれに署名しろって?」
「その言う方はやめろ!ただの事故だ!」
辰朗は怒鳴って遮った。
「芽依に何の関係がある?わざとじゃないだろ!理不尽な言いがかりはやめろ!」
彼が美月の前で、これほど露骨に荒い感情を見せたのは初めてだ。
それは芽依のためだ。
「そう?」
美月は芽依を見た。
「あなた、わざとぶつかったんじゃないの?」
芽依の顔色が一瞬で青ざめ、後ろめたさを隠しきれず、辰朗の背後に身を隠した。
「美月!」
辰朗は完全に怒り狂った。
「もういいだろ!お前がもう走れないからって、芽依まで潰す気か?
なんて性悪なんだ!」
美月は目の前の辰朗をまるで他人を見るかのような目で見つめた。
2年間彼を愛し、共に一生を過ごすと思っていた。
彼が今、別の女のために、自分に屈辱的な「自白書」への署名を迫っている。
胸の奥はもう痛みすら感じなかった。
残っているのは、麻痺したような冷たさだけだ。
「署名しない」
美月ははっきりと意思を示した。
そして迷いなく背を向けて2階へ上がり、部屋のドアに鍵をかけた。
薄いドア越しに、芽依のすすり泣きと辰朗の宥める声が丸聞こえだ。
うるさくて神経に障る。
美月は顔を枕に埋めた。
左耳は相変わらず何も聞こえないままだ。
右耳の音も、途切れ途切れになり、はっきり聞こえなくなっていった。
……
どれほど時間が経ったのか、朦朧とする中で、美月は焦げたような匂いを感じた。
最初はごく淡く、彼女は疲れすぎて幻覚でも見ているのだと思った。
だが匂いは次第に濃くなっていく。
美月ははっと起き上がった。
濃い煙がドアの隙間から入り込み、鼻を刺した。
火事だ。
彼女は急いでドアへ駆け寄った。
ドアノブが回らない。
「辰朗!芽依!」
そして、力の限りドアを叩いた。
「開けて!火事よ!」
返事はない。
聞こえるのは、炎の爆ぜる音がどんどん大きくなるばかりだ。
煙で目を開けていられず、呼吸も苦しくなっていく。
彼女は必死に冷静さを保ち、浴室へ向かった。
そして、濡らしたタオルで口と鼻を覆った。
それから引き返し、全力でドアに体当たりした。
肩が壊れそうになるほどぶつけても、ドアはびくともしない。
外から何かで完全に塞がれている。
美月は二歩下がり、部屋を見回した。
窓だ!
彼女はバルコニーへ走り、下を見た。
ここは最上階で、飛び降りれば即死だ。
だが隣の書斎にも小さなバルコニーがあり、間は一メートル余りしかない。
跳べる距離だ。
彼女は柵に登り、呼吸を整えた。
下ではすでに消防車のサイレンが聞こえていたが、火の回りはあまりに速く、外壁一面が燃え上がっていた。
美月は機を見て、身を投げた。
ドン!
書斎のバルコニーに叩きつけられ、膝から血が滲んだ。
美月は痛みに息を呑んだ。
構っていられない。
彼女は急いで書斎に入ろうとした。
だが、どれだけ力を入れてもドアは開かない。
これも外から塞がれている。
考える暇もなく、バルコニーの植木鉢を掴み、書斎とリビングを隔てるガラスに叩きつけた。
煙が渦巻く中、リビングのバルコニーから人影が現れた。
芽依だ。彼女は何かを手に持ち、炎の中へ投げ込んでいる。
火の光がその顔を照らした。いつもの楚々たる顔だ。
芽依も彼女に気づいた。
美月は割れたガラスの上を踏み越えて突進した。
芽依はライターを持ち、もう一方の手で火災警報器を押さえている。
火災報知器は止められた。
「正気なの?」
美月は駆け寄って、ライターを奪おうとした。
芽依は押しのけながら、身をかわそうとした。
「辰朗は祝勝会で私にプロポーズするって約束してたの!どうして!あなたさえいなければ、私はもう北村夫人だったのに!」
「狂ってる!」
もみ合いの末、美月はライターを奪い取った。
美月は全力で芽依を壁へ押しやり、警報器のスイッチへ手を伸ばした。
あと少しだ。
ドン!
玄関のドアが蹴破られた。
辰朗が飛び込んできた。
彼は全身びしょ濡れだ。どうやら外から戻ってきたばかりらしい。
「助けて!」
芽依は瞬時に表情を変え、地面に倒れ込んで泣き叫んだ。
「辰朗!助けて!」
辰朗は駆け寄って芽依を抱き上げた。
そして美月を見る目は、毒を含んだように冷酷だ。
「辰朗、ごめんなさい」
芽依は弱々しく咳き込み、涙に濡れた顔で言った。
「ゴホンゴホン……美月さんが引退したのも、結局は私のせい。恨まれても仕方ない。もし私が死ねば……」
「馬鹿なことを言うな」
辰朗は必死に芽依を抱き締め、視線を美月の顔から、彼女の手にあるライターへ移した。
「美月、お前は本当に狂ってる」
恨みはあまりにも露骨で単純だ。
その一言は、燃え盛る炎よりも人を焼き尽くすものだ。
第7話
美月は口を開こうとしたが、濃煙にむせて声が出なかった。
辰朗は芽依を抱き上げ、振り返りもせずに外へ駆け出した。
炎がドア枠を飲み込んだ。
濃煙にむせて、美月は激しく咳き込んだ。
彼女は炎に包まれたドアを見つめた。
自嘲するように笑ったあと、血を咳き吐いた。
身体はゆっくりと崩れ落ち、瓦礫だらけの床に座り込んだ。
炎が周囲から迫り、熱波が肌を焼いた。
意識が散る直前、最後に見た光景は去っていく辰朗の背中と、床に残された指輪だ。
……
鼻腔に消毒液の刺激臭が入り込んだ。
美月ははっと目を開き、荒く息を吸い込むと、肺がヒリヒリ痛んだ。
それは濃煙が残した後遺症だ。
私は……生きている?
では、意識が途切れる直前に聞こえた消防車の音は、死の間際の幻覚ではなく、本当に助けられたということだ。
それは同時に、辰朗が本当に自分を見捨てたことも意味していた……
すべてがあまりにも荒唐無稽だった。
手の甲に点滴の針が刺さっていなければ、悪夢を見ただけだと思ったに違いない。
「美月?」
明雄は肘掛け椅子に座っていた。2年ぶりに見る父のこめかみには白髪が増えていた。
「お父さん……」
声は古びたふいごのようにかすれていた。
明雄はすぐに立ち上がり、そっとストローを彼女の唇元に運んだ。
「ゆっくりしてて。まずは水を飲もう。怖がらなくていい、父さんがついている」
涙が前触れもなくこぼれ落ちた。
美月は機械的に水を飲み込みながら、明雄の目の下の赤い血管や、いつの間にか増えた白髪を見た。
そこには責める色は一切なく、ただひたすらな心配だけがあった。
胸が締めつけられ、彼女はか細く口を開いた。
「お父さん……ごめな……」
嗚咽して、最後まで言えなかった。
だが明雄はすべてを悟ったように、コップを置き、点滴の刺さっていない方の手をざらついた大きな手で強く握った。
「馬鹿な子だ。父さんに謝る必要なんてない。帰ってきてくれればそれでいい、帰ってきてくれれば……」
帰る。
その言葉は鍵のように、感情の堰を一気に開いた。
美月は号泣したい衝動を必死でこらえた。
「耳の手術はとても成功した」
明雄は落ち着いた声で、慎重な優しさを込めて言った。
「医者によれば、左耳の聴力は八割まで回復する見込みだ。右耳も、きちんと静養すれば問題ない」
美月は手を伸ばし、左耳に触れた。包帯に覆われ、鈍い痛みが伝わってくる。
だが耳よりも、心の傷の方がずっと痛かった。
「北村辰朗と隈元芽依については……」
明雄の声が急に冷えた。
「父さんが対処する」
「いいえ」
美月は声を出した。かすれてはいたが、異様なほど揺るぎなかった。
「自分でやるよ」
明雄はじっと彼女を見つめた。2年ぶりの娘はひどく痩せ、年齢にそぐわぬ疲労と虚無が目に宿っていた。
「やりたいようにやりなさい。いつでも、父さんは美月の後ろ盾だ」
美月の涙が音もなく落ちた。
それは、愛されていると実感した涙だった。
明雄は慌てて彼女の涙を拭い、少し間を置いてから再び口を開いた。
「そうだ。
草薙家の跡取り、浩行のことは覚えているか?子どもの頃に会っただろう」
美月は茫然と首を横に振った。
「今回、草薙家が世界最高の耳科専門医を招いた。君を助けたのは彼だ」
草薙浩行(くさなぎ ひろゆき)か?
その名前は美月の脳裏をかすめただけで、ほとんど痕跡を残さなかった。
「草薙家とうちは長い付き合いだ。君が生まれた年に、両家で口約束の婚約もしている」
明雄の言外の意味を、美月は理解した。
「もちろん、これは俺たちの考えにすぎない」
明雄はすぐに付け加えた。
「君が戻ったばかりだ。無理に受け入れろとは言わない。ただ……浩行はとても良い青年だ」
何か思い出したのか、明雄の目に笑みが浮かんだ。
「そういえば、子どもの頃は君がよく後ろを追いかけて、『お兄ちゃん』って呼んで遊んでもらってたな」
明雄にそう言われて、確かにいつも生真面目な顔をした少年が、家によく来ていた記憶がうっすらと浮かんだ。
「それでも、どうして彼が私を?」
幼少期の縁だけで、草薙家がここまで動くとは信じられなかった。
ましてその後、浩行とはまったく連絡もなかったのだから。
名家同士を結びつける最良の軸は、常に利益だ。
だからこそ、はっきりさせておく必要があった。
「公の理由としては、草薙家は近年、新エネルギー車市場を拡大していて、突破口となる人物を必要としている。私的には……」
明雄は微笑み、言葉を濁した。
「彼自身も、美月が回復することを望んでいる」
美月はわずかに眉をひそめた。
明雄は腕時計を一瞥した。
「見舞いに来ると言っていた。そろそろだろう」
その言葉を裏付けるように、病室のドアが静かに開いた。
黒いスーツを着た男が立っていた。
背筋はまっすぐで、冷ややかな気品をまとっている。彫りの深い顔立ちが、疎外と自制を物語っていた。
だが、彼の瞳と視線が合った瞬間、美月の心臓は理由もなく跳ねた。
どこか見覚えがある気がするのに思い出せない。
「どうも、草薙浩行だ」
第8話
浩行は口を開いた。声は低く耳に心地よく、まるでチェロの弦の音のようだ。
「小林おじさんから、君が目を覚ましたと聞いて、喉にいい薬草茶を持ってきた。声帯の回復に役立つ」
彼の口調は事務的なものだが、細部に至るまで行き届いた配慮が感じられた。
美月は彼を見つめ、口を開かなかった。
今の彼女は少しみすぼらしく、どう切り出せばいいか分からなかった。
浩行も催促せず、ただ静かに立っていて、彼女に十分な空間と時間を与えた。
明雄はそれを察して、そっと部屋を後にした。
美月は目を伏せ、差し出された薬草茶を手に取った。
温度はちょうどよかった。
「ありがとう」
彼女は言った。
「どういたしまして」
浩行は軽くうなずき、礼儀正しく温和だ。
彼は真っ黒な名刺を差し出した。表には金箔で二文字「草薙」と刻まれ、電話番号が一行だけ書かれていた。
美月は名刺を受け取り、指先が彼の指に触れた。
冷たかった。
「あなたなら、選択肢はいくらでもあるのに、なぜ私を助けた?」
彼女は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐ見つめた。
浩行は目をそらさず答えた。
「小林おじさんと俺の父は親友だ。理屈としても感情としても、手助けするのは当然のことだ……」
「じゃあ、私に同情してるの?」
「いいえ」浩行は首を横に振った。「尊重だ。君のレースはとてもクリーンだ」
美月の心臓がぎゅっと跳ねた。
浩行は続けて真剣に答えた。
「草薙家と辰月グループは、共同で『星躔』(せいてん)クラブを買収した。新しい舵取りが必要だ。
君こそが最適の選択だ」
星躔は国内トップクラスのレーシングクラブの一つだ。
業界の伝説であり、無数のレーサーが夢見る聖地だ。
「なぜ私が?」
美月は布団をぎゅっと握り、声に少し落胆が混じった。
「耳もまだ治ってないし、もしかしたら二度とレーサーとして走れないかもしれない。私は……衝動的で、自信過剰で、適任じゃない……」
「クラブの舵取りとしては、自らレースに出る必要はない。もちろん、将来またレースに戻りたいなら、いつでも可能だ」
浩行の声にはごくわずか、ほとんど気づかない程度の感情が混じっていた。
「自信があるのは、君に実力があるからだ。
明確な目標があり、それに迷わず全力で取り組む。これは衝動ではなく、勇気だ」
彼の声は穏やかで、慰めの調子はなく、むしろ公的な説明のようで、ただ事実を誠実に述べているだけだった。
「本当に優れたレーサーを見極めるために、君のプロとしての判断が必要だ」
美月は指先が掌に食い込むほど拳を握った。
こんなに肯定されるのは、どれくらいぶりだろう……
「もちろん」
浩行は微かにうなずいた。「考える時間は十分にある。しかし、その間……」
彼は窓際へ歩き、カーテンを開けた。
朝の光が差し込み、美月は目を細めた。
窓の外は蘇市で最も繁華な金融街だ。高層ビルが林立し、車が行き交う。
その鉄筋コンクリートのジャングルの上には、大型デジタルサイネージがニュースをループ表示していた。
画面が突然切り替わった。
辰朗の顔が映った。疲れ果て、目には赤い血管が浮かび、「深い愛情」を装った表情だ。
「……美月はこの一生の最愛。どれだけ回復に時間がかかろうとも、待ち続ける」
辰朗はカメラに向かって、声はかすれていた。
「どうか俺たちに、少しの時間と空間を……」
画面下のタイトルが目に刺さる。
【北村辰朗さんの愛情深い告白、婚約者の帰還を待つ】
美月は無表情で画面を見つめた。
心はすでに死んでおり、二度と痛むことはない。
ただ、滑稽に感じるだけだった。
「世論というものは面白いものだ」
窓際から、浩行の淡々とした声が届いた。
「事故の直後に火災が起きた。ネット上ではすでに隈元が介入したと暗に示す声があった」
美月は冷笑した。
「だから今、辰朗が恋愛宣言を公にしたことで、皆の視線は『愛情深い辰朗』に集中する。隈元はもう誰も話題にしない。本当に、相変わらず……深謀遠慮だね」
浩行は彼女を見つめ、目は海のように深い。
「君には一振りの刃が必要だ。
偽りの仮面を切り裂ける鋭い刃ね。そして、俺が……」
最後の言葉を彼は少し弱々しく発した。美月にははっきり聞き取れず、疑念を浮かべながら眉をひそめた。
彼は軽く咳をして、少し大きめの声で続けた。
「星躔クラブは、その刃になれる」
美月は理解した。
これは同情でも施しでも、ましてや単なる協力でもない。
これは取引だ。
「わかった」
声は小さいが、異様なほど確固としていた。
病室のドアがそっと閉まった。
部屋には再び静寂が訪れた。
美月は拳を握り、指先が肉に食い込みそうだった。
北村辰朗、隈元芽依、あなたたちが私にしたこと、私は必ず自分の手で返してやるわ。