一輪のめぐり逢い

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一輪のめぐり逢い

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杉本莉子(すぎもと りこ)は、誕生日を迎える婚約者の久保充(くぼ みつる)をサプライズで驚かせようと、仕事を大急ぎで片づけた。だが、夜通...

Chương (1)

第1章

杉本莉子(すぎもと りこ)は、誕生日を迎える婚約者の久保充(くぼ みつる)をサプライズで驚かせようと、仕事を大急ぎで片づけた。だが、夜通し車を走らせた疲れがたたり、つい不注意から事故を起こしてしまう。 足を引きずりながらも充の家になんとかたどり着いたが、家の中は莉子が想像していたような静けさはなかった。 テーブルはたくさんの人で埋め尽くされている。 それに、いつも自分が座っている席には、知らないおとなしそうな女が座っていた。 そこにいた人々は莉子に気づくと、笑い声をぴたりと止め、一斉にその女のほうに視線を向けた。 充の笑顔までもが強張っている。 「どうして来たんだ?仕事って言ってただろ?」 第1話 杉本莉子(すぎもと りこ)は、誕生日を迎える婚約者の久保充(くぼ みつる)をサプライズで驚かせようと、仕事を大急ぎで片づけた。だが、夜通し車を走らせた疲れがたたり、つい不注意から事故を起こしてしまう。 足を引きずりながらも充の家になんとかたどり着いたが、家の中は莉子が想像していたような静けさはなかった。 テーブルはたくさんの人で埋め尽くされている。 それに、いつも自分が座っている席には、知らないおとなしそうな女が座っていた。 そこにいた人々は莉子に気づくと、笑い声をぴたりと止め、一斉にその女のほうに視線を向けた。 充の笑顔までもが強張っている。 「どうして来たんだ?」 莉子は固まってしまった。 プレゼントを抱えた莉子の鼻は、寒さで真っ赤になり、おまけに足は怪我をしている。 なのに充は、そんな莉子の様子を気にかけるどころか、第一声は自分になぜ来たのか、と聞いてきた。 「もしかして、私が来たら都合でも悪かった?」 莉子は、無理やり口角を上げて笑ってみせる。 「いや、そういうわけじゃないけど。ただ、今日は来ないと思って、席を用意してなかったから」 充の声に苛立ちが混じっているのが、莉子にははっきりと分かった。 しかし、その苛立ちが招かれざる客である自分へのものなのか、それともこの気まずい鉢合わせへのものなのかは定かではないが…… 「そんな顔するなよ。席を用意するから、早く座れ。みんながお前を待ってるんだから」 そう言うと充は適当に、背もたれすらない椅子を持ってきた。 その椅子を無理やりテーブルの隙間に押し込んだせいで、ひどく場違いに見える。 足の痛みはまだ引いていなかった。この怪我のせいで、もうモデルの仕事は続けられなくなるだろう。なぜなら、会社から半年は休むように言われたから。この業界で半年も休んだら、もう自分の居場所はなくなってしまうはずだ。 しかし、仕事を失っても、自分には充がいる。そう思っていたけど、それもどうやただの思い上がりだったようだ。なんて自分は馬鹿だったんだろう。 莉子は椅子に座らず、充の隣にいる女に視線を向けた。 女の肩には、サイズの合わない白いメンズジャケットがかけられていて、よく見ると油のシミが点々とついている。 しかもそのジャケットは、数日前に充と旅行へ行った時、莉子がプレゼントしたもの。 充はそれをとても気に入り、汚すのが嫌で滅多に着なかったし、その上潔癖症もあったので、汚すことなんてありえなく、莉子にすら着させなかった。 なのに、そのジャケットは今、知らない女の肩にかけられている。そんな光景が、嫌でも莉子の目には入ってきた。 莉子は、張り裂けそうなほどの胸の痛みをなんとか堪え、女の前に立ち、静かに口を開く。 「あの、あなたのお名前は?」 「青……青木紗奈(あおき さな)です」 莉子の気迫に押されて、紗奈はびくっと肩をすくめた。声も、心なしか少し震えている。 「青木さん。このジャケット、私が買ったものなの。だから返してもらってもいいかな?」 紗奈が答える前に、莉子は彼女の肩からジャケットをひったくり、持っていた誕生日プレゼントと一緒に、ゴミ箱へと叩きつけた。 その場の全員が凍りつく。そして、長居できない雰囲気を感じ取り、それぞれがそそくさと挨拶をして帰って行った。 紗奈が帰り際、目に涙を浮かべて、充に小声でささやくのが見えた。 「ごめん、充。私のせいで、莉子さんに誤解させちゃったみたい。本当にごめんね」 みんなが帰った後、気まずい空気が流れる中、充はソファにどっかりと腰を下ろした。そして、苛立たしげにタバコに火をつける。 「これで気が済んだか? ただ友達と飯を食ってただけなのに、なんでこんなにみっともなく大事にするんだよ?もうすぐ結婚するからって、世界中がお前の思い通りになるとでも思ってるのか?」 充の言葉は鋭いナイフのように、容赦なく莉子の心をえぐった。 拳をぐっと握りしめる莉子の声が自然と冷たくなる。 「友達?ただの友達なら、どうして今まで紹介してくれなかったの? それとも、私という婚約者の存在を知られたら、まずい女友達でもいるってわけ?」 充は一瞬、鋭い視線を莉子に向けたが、すぐにため息をつくと、呆れたような口調で話し始めた。 「紗奈は、ただの幼馴染。それに、お前が変に誤解するのが嫌だったから、今まで紹介しなかったんだ。 莉子、お前のためを思って、秘書を全員男にしたっていうのに。その疑り深い性格、いつになったら治るんだ?」 誠意を見せるため秘書を男性に変えると言い出したのは、充の方だったのに、なぜか今ではすっかり自分のせいにされている。 「本気で相手を愛している男なら、多少疑われたって気にしない」と、充は言っていたのに。 でも今の充は自分の嫉妬に苛立ち、そして怖がっている。 莉子の喉が、きゅっと締め付けられた。しばらくして、やっと震える声で言葉を絞り出す。 「充。私たち別れよう」 タバコを挟んだ、充の手がぴたりと止まった。 莉子を見る充の目には、呆れの色が浮かんでいる。 「今日は俺の誕生日だっていうのに、そんな冗談はやめてくれよ。 仕事が片付いたら、気分転換に旅行にでも連れてってやるからさ」 充は疲れたように眉間を揉むと、ゴミ箱からジャケットを拾い上げ、そのまま二階へと上がっていった。 莉子が本気で言っていることくらい、充にだって分かっているはずなのに。 莉子は家を飛び出すと、タクシーを拾って会社へ向かった。 道中、莉子はある番号に電話をかける。 「私名義の株を、30%売却して。久保社長の許可はいらないから」 売却利益が口座に振り込まれるのは、1ヶ月後。 つまり、充のもとを完全に離れられるのは、あと1ヶ月先ということだ。 会社に着くと、マネージャーの山下澪(やました みお)のオフィスの灯りはまだついていた。 莉子は部屋に入った。泣きはらしたせいで、声はまだかすれている。 「山下さん、私は休みません。 モデルができないなら、マネージャーとして海外にでも派遣してくレませんか?」 第2話 澪は莉子をベランダに連れて行き、タバコを一本差し出した。 「どうしたの、結婚やめるの?あなたが海外に行きたがってること、久保さんは知ってるの?」 冷たい風が、切ない痛みで張り裂けそうな莉子の心を、ゆっくりと冷やしていく。 莉子は5年もつけていた指輪を無造作に外すと、近くの池に投げ捨て、自嘲気味に言った。 「山下さん、結婚は二人でするものですが、別れは一人でも決められるんです。 それに私、自分のことは自分で決められますから、充が知る必要はありません」 海外赴任の件が充に知られれば、きっと機嫌を取ろうと下手に出てくるだろう。 でも、そんな卑怯な手を使ってまで充の優しさと愛情を勝ち取ることを、莉子のプライドが許さなかった。 同情で得た優しさなんていらない。 もう充のことでは十分泣いた。だからこれ以上、あの人のために立ち止まっているわけにはいかない。 「1ヶ月後にM国でモデル選考のプロジェクトがあるの。経験豊富なあなたに行ってもらうってもいいかしら?」 澪は莉子の肩をぽんと叩いて、その場を去った。 タバコを一本吸い終えると、莉子は足首にズキズキとした痛みが走るのを感じた。 視線を下すと、傷口から滲み出た血でガーゼが赤く染まっている。 莉子は疲れた体を引きずって、再び病院へと向かった。 一人で治療室に座っていると、心配そうにパートナーに付き添っている人が目に入った。 いつだったか、充もあんな風に自分を気遣ってくれたことがあった。 病気だと知ればすぐに仕事を放り出して病院に連れて行ってくれたし、熱を出せば一晩中そばで看病してくれた。 疲れて椅子にもたれかかり、そっと目を閉じた莉子は、どうしてか昔のことを思い出していた。 充と出会った頃、彼はまだ一介の社員にすぎなかった。 莉子があちこちからお金をかき集めて、充と一緒に会社を立ち上げたのだった。 接待に付き合っては一緒にお酒を飲み、充が今の地位に上り詰めるまで支えてきた。 今では、東都で誰もが知る社長となった充。そして、莉子はモデル業に復帰してトップモデルに躍り出た。 婚約してからは、二人で毎月神社へお参りに行くのが習慣だった。 東都には、ある言い伝えがあった。 恋人同士が66ヶ月間、欠かさず神社にお参りし、願掛けの短冊を木箱に納めて御神木の下に埋めると、添い遂げられるというもの。 充はこの話を信じていて、お参りのたびに真剣な顔で願い事を書いていた。 すべてが順調なはずだった。だが、充は頑なに莉子を自分の友人に紹介しようとはしなかった。 理由は、まだその時じゃない、というものだった。 しかし、今になって思えば、充の心変わりの予兆は確実にあった。 充はいつも、ある一人の友人の話ばかりしていた。 その人の誕生日も、二人が出会った日のことも、充は全てはっきりと覚えていた。 でも、性別も名前も、決して口にすることはなかったし、その人の話をするときの充は、自分が笑っていることにさえ気づいていなかった。 以前の莉子はただの友情なんだ、何かやましいことがあるわけではない、と思い込むことができていた。 しかし、紗奈がおびえた瞬間、充が真っ先に心配そうな顔をしたのを見て、莉子の心は完全に冷え切ってしまったのだった。 男が女を心配するのは、始まりを意味する。 だが、関係者が三人になる場合、それはただの危険なサインでしかない。 充と過ごした5年間の日々が走馬灯のように莉子の頭を駆け巡り、そのまま疲れから深い眠りに落ちてしまった。 目を覚ますと、スマホには十数件のメッセージが届いていた。 昨日の夜、熱で朦朧としながら、看病してほしくて充に電話をかけていた。 しかし、3時間ずっと話し中だった。 きっと紗奈と長電話でもしているのだろうと思い、苛立ちをぶつけるように何通かメッセージを送ると、そのままスマホの電源を切って眠った。 充はすぐに電話をかけ直したらしいが、誰も出なかったので、莉子がすねているだけだとでも思ったようだ。 そして最後には、充もうんざりしたのだろう。 【そんなに神経質にならないでくれ。そこまで疑われたら、俺だってどうしようもないんだ】 そのメッセージを見て、麻痺していたはずの莉子の心に、またチクリと痛みが走る。 充が怒っているのは分かったが、莉子は初めて、自分から折れて彼をなだめようとはしなかった。 莉子は病院を出ると、神社へと向かった。 神聖な空気が漂う境内。今まで、ここに来る時はいつも、二人の結婚を願っていた。 しかし今回ばかりは、一か月後、二人が再び会うことのない未来を願った。 莉子は御神木の下へ行き、充の木箱を掘り起こした。 65ヶ月の間、莉子は一度もその箱の中身を見たことがなかったが、どの短冊にも、細かい字がびっしりと書き込まれていた。 【今日はカフェで待ち合わせ。大雨でびしょ濡れで入ってきた莉子を見て、ふと学生時代を思い出した。軒下で、莉子が傘を持ってきてくれるのを待っていた日があった】 【花屋の前を通ったら、アイリスが綺麗に咲いていた。莉子が好きだったのを思い出して、つい足を止めて一束買ってしまった】 …… 一つひとつ読むたびに、莉子の心は震えた。 しかし、【紗奈、ずっとお前との未来を考えている】という一文を見つけた瞬間、莉子の全身の血が凍りついた。 目の前が真っ暗になり、心臓を鷲掴みにされたような痛みに襲われ、息もできなくなった。 どれだけ心の準備をしていたつもりでも、充の心はずっと別の女性に向けられていたことを知ると、やっぱり涙が溢れてきてしまう。 自分が二人の未来を心から祈っているとき、充は一体何を考えていたのだろう? 紗奈が自分たちのことを知って悲しむのが怖かったのか。それとも、毎年紗奈のそばにいられるようにと願っていたのか…… 莉子はいつも気丈に振る舞い、トップモデルとして、人前で取り乱すことなんて決してなかった。 それなのに、今の莉子は箱を抱きしめて神殿の前にひざまずき、声が枯れるほど泣きじゃくった。 涙も枯れ、声も掠れた頃、莉子はゆっくりと立ち上り御神木の下へと戻った。そして、充の木箱を埋め直した後、自分の木箱を掘り出す。すると、莉子に気づいた神主が声をかけてくれた。 「杉本さん、最後の一枚をお納めになられますかな?それに、もうすぐご結婚なさるとお伺いいたしました。末永くお幸せに」 神主はそう言いながら、最後となる短冊を莉子へと手渡した。 しかし莉子はそれを受け取らずに、寂しそうに微笑む。 「いいえ。もう、婚約は取り消しましたので」 そう言うと、莉子は自分の箱をそのままお焚き上げのところへと投げ入れた。 そして、もう一度本殿の前で自分の仕事の成功を祈願して手を合わせた後、莉子は帰ることにした。 しかし、振り返った拍子に、うっかり誰かにぶつかってしまった。 莉子は顔を上げず、小さく「すみません」と謝る。 すると、相手が驚いたように口を開いた。 「莉子さん?」 第3話 聞き覚えのある声。 莉子が顔を上げると、にこりと笑みを浮かべている紗奈と目が合った。 「奇遇ですね。莉子さんもお参りに来ていたなんて。充に勧められたんですよね? 実は、私たちがまだ学生だった頃、よく充を連れて合格祈願のお参りに来てたんです。そのおかげか、充は本当に東都で一番の大学に受かりまして。それから充は、この神社の御利益を会う人みんなに話してるんですよ」 莉子は唇を固く結んだ。何も言わなかったし、何を言えばいいのかも分からなかった。 紗奈の言葉は、まるで石つぶてのように、引き裂かれて血まみれになった莉子の心にねじ込まれ、心臓が脈打つたびに、鈍い痛みが走る。 自分だけがまるで充の過去を知らないまま、締め出されてしまった部外者みたい。 どうりで、充が短冊に願い事を書くときの表情があんなに真剣だったわけだ。 充は心からご利益があると信じて、本気で紗奈との未来を願ってい他のだから。 莉子が何も話さないのを見ても、紗奈は気まずそうな素振りも見せず、話を続けた。 「この間は本当にごめんなさい。莉子さんが充の服を他人に着られるのをあんなに気にするなんて思ってもみなくて。私たちは小さい頃からすごく仲が良くて、服を借りるのなんてよくある事でしたから。 あの時はとても寒かったので、充が羽織らせてくれてたんですけど、気づかないうちに汚しちゃったみたいで。新しいのを弁償させてください」 莉子も特に遠慮はせず、すぐに連絡先を交換した。 しかし、相手から送金されたのは、たったの1万円だった。 莉子はそれを受け取らず、口の端を上げて、気のない笑みを浮かべた。 「青木さん……」 しかし、紗奈は莉子の言葉を遮り、気前よく言った。 「もし多く払っていたら、お返しは結構ですよ」 「違うの。あの服は30万円だったから、あなたからの1万円じゃ、端数にも足りないってこと。 だから、残りの29万円、一括で払う?それとも分割にする?」 紗奈は信じられないという顔で莉子を見つめる。 「30万円?!あの服、金かなにかでできてるんですか?」 莉子は眉を上げて紗奈を見た。 「青木さんの方から弁償すると言ってきたけど、まさか口だけ?」 莉子は紗奈に逃げ道を与えず、ずっとその場で対峙し続ける。 結局、紗奈は唇を震わせながらもクレジットカードを切った。 お金を受け取った莉子は、ゆっくりと秘書へと電話をかける。 「300万円した新作のシャネルのバッグ、今夜家まで届けて」 紗奈はまさか莉子が本当にお金を受け取るとは思わなかっただろうし、しかも、そのまま10倍の値段のバッグを買うなんて、もっと考えもしなかっただろう。 そんな紗奈の顔色は、決して良いとは言えなかった。 しかし、莉子はただちらりと紗奈に目をやっただけで、そのまま帰りの車に乗り込んだ。 ここ数日間、会社で忙しくしていた充だったが、今夜は久しぶりに家で夕食をとることにしたらしい。 しかし充本人が着くより先に、充からのプレゼントが届けられた。 高価な贈り物が床に山積みになり、あの300万円のバッグさえ霞んで見える。 しかし、莉子に喜びは一切なく、ただ滑稽に感じるだけだった。 莉子はそれらをすべて物置に放り込む。 そしてついでに、自分が持って行くものをまとめ始めた。 ベッドの下に隠してあった段ボール箱を引き出し、できるだけ無感情で中のものを一つ一つ取り出していく。 一番上にはアルバムがあり、この5年間に撮ったすべてのツーショット写真が詰まっていた。 初めてのビーチデート、初めて一緒に行ったディズニーランド、初めて海外でスキーをしたこと…… 写真の中の充は、とても優しく愛おしそうな目で莉子を見つめていた。まるで莉子が世界のすべてであるかのように。 その眼差しに、莉子も一瞬心が揺らぎ、胸にちくちくとした細かい痛みが走った。 あと一ページで、このアルバムもいっぱいになるはずだった。 そこには必ず、二人のウェディング写真を貼ろうと約束していたのに。 ウェディング写真は、莉子が一番好きな海辺で撮ることになっていた。 白いタキシードを着た充が花束を手に、笑顔で一歩一歩莉子に近づいてくる。そして彼女を強く抱きしめ、「愛してる」と何度も囁く…… 打ち上げ花火が昼夜問わず続き、空いっぱいの花火が、二人の門出だけを祝ってくれるはずだった。 すべて約束していた。二人で手を取り合えば、幸せなゴールにたどり着けるはずだったのに。 なぜ充が突然立ち止まり、他の人の手を握ろうとするのか、莉子には理解できなかった。 これ以上見るのは耐えられなかったので、莉子はアルバムを閉じると共に、ゆっくりと目を閉じた。 悲しみ、悔しさ、切なさ。様々な感情が複雑に胸の中で渦巻き、息苦しくなる。 物はそれほど多くなかったが、莉子は一つ取り出してはまた一つと捨てていった。 その動きには覚悟が滲み出ていて、まるで充との思い出を完全に捨て去り、関係をすべて断ち切ろうとしているかのようだった。 片付けが終わる頃には、もう夕方になっていた。 莉子が階下に降りると、7時を告げるリビングの時計の鐘が数回鳴った。 食事を終えようとした頃、玄関のドアがきい、と音を立てて開くと共に冷たい声が響いてきた。 「莉子。どうして紗奈から金を受け取ったりなんかしたんだよ?」 第4話 莉子が振り向くと、スーツの上着を腕にかけた充がいた。でも、その凛々しい顔には喜びの色なんて少しも見えない。 しばらくぶりに会えたはずなのに。 「あの服は私が買ったもの。お金を受け取って何が悪いの?」 莉子は淡々とそう言うと、また目の前の食事に視線を戻した。 「紗奈とは長年の友達なんだ。あいつだってわざと上着を汚したわけじゃないだろ。それに、あいつには金がないって分かってるのに……俺が他の友達からどう見られるか、考えてくれなかったのか?」 「それが何?」 莉子の声は平然としていて、何の感情も読み取れなかった。 しかし、もし充がもう少しだけ理解しようとすれば分かったはずなのだ。それは無関心なんかではなくて、完全なる失望で心が死んでしまったからだということを。 近づいてきた充からは、知らない女性ものの香水の匂いがする。 きっと、あの「女友達」と会っていて、心の中ではとっくに答えを出したのだろう。 充はいつもこうだった。莉子のいない世界で生きることに、すっかり慣れてしまっている。 莉子はふと、自分の心がひどく疲れているのを感じた。一体いつから、二人の関係はこんな風になってしまったんだろう。 今では、充がプレゼントをくれたり優しくしてくれたりするのも、全部下心があってのことだった。 「お前にとってあの金額は大したことないだろ?だから、紗奈に返してやれよ。それに、食事にでも誘って、ちゃんと謝ってくれよな。 俺からのプレゼント、受け取ってくれたんだろ?だから、ここは俺の顔を立てて、さ? それに、結婚式で俺の友達とも気まずくなりたくないだろ?」 充は声を潜め、莉子の後ろに立つ。そしてテーブルに両手をついて、まるで莉子を腕の中に閉じ込めるような体勢になった。 紗奈のためなら、充は自分から頭を下げることも厭わないらしい。 莉子の心に、チクリと痛みが走ったが、それはすぐに跡形もなく消えてしまった。 「いやよ」 莉子は片手で充を突き放す。 紗奈に頭を下げて謝るなんてありえないし、充の友人達からの祝福なんて必要ない。 だって、もう自分と充に未来なんてないのだから。 莉子は充の横をすり抜けて足早に二階へ上がると、そのまま部屋のドアを閉めた。 気まずい雰囲気のまま、次の日の朝を迎えた。 だからか、会社の創立記念パーティーがあるというのに、充は莉子を車で迎えにも来なかった。 今日の莉子は、とても質素な服装でパーティーに参加した。充から贈られた宝飾品は何も身につけず、自分でM国で買った小さなダイヤのネックレスだけ。 会場に入るなり、ひときわ華やかな人影が目に入る。 紗奈も来ていた。 指輪もピアスも、どれも一級品で、首には目が眩むほど輝くサファイアのペンダントが下げられている。 莉子はすぐに視線を逸らす。 あちこちから聞こえる「杉本さん」という声で、莉子の存在に紗奈が気づいたようだ。 しかし、莉子の方を見た紗奈は、莉子のその地味な装いに少し驚く。 「莉子さん、どうしてそんな地味な格好をしてるんですか? これらのアクセサリー、全部充がプレゼントしてくれたんですけど、莉子さん、誤解しないでくださいね。なんなら、外してあなたにお返ししますから」 そう言って紗奈が莉子に手を伸ばしかけたその時、充がその手を止めた。 「俺が贈ったものだ。そのまま着けてろ」 紗奈は驚いたように言う。 「そんなの、だめだよ。企画部の部長に抜擢してもらっただけでも、恐れ多いぐらいなのに、こんな高価なものまで貰ったら、周りから何を言われるか分からないでしょ」 「俺がついているんだ。誰がお前に文句を言えるって言うんだ?」 充の淡々とした声には、有無を言わせない威厳がこもっていて、しかもその視線は莉子に注がれていた。 そして、紗奈も莉子に向かって、ぺろっと舌を出してみせる。 「莉子さん、見ての通りです。お返ししたくないわけじゃないくて、充が許してくれないから……充は友達にとっても優しい人なので、どうか彼のことは責めないでくださいね」 莉子が口を開く前に、紗奈は他の人に引っ張られてお酌をしに行ってしまった。 新人がいきなり部長に抜擢されたのだ。紗奈が充にとって、いかに特別な存在か、誰の目にも明らかだった。 「お前の代わりの謝罪で、紗奈には役職を用意したんだ。これ以上、つまらないことでいちゃもんをつけるのはやめろよ」 充は莉子のそばに歩み寄り、声を潜めてそう言った。 しかし、充の視線は、少し離れた場所で人だかりに囲まれている紗奈にずっと注がれていて、紗奈が数杯飲んだだけで顔を赤らめるのを見て、充は思わず眉をひそめる。 「紗奈は酒が弱いんだ。お前が代わって飲んでやって、これを機に少しは仲良くしろ」 充は知っているはずなのに……自分の胃が弱く、医師から飲みすぎないようにと、きつく言われていることを。 それでも自分がお酒を飲んだのは、充の仕事上の接待のためだった。 接待から帰るたび、莉子は充に隠れてトイレで何度も吐いた。 莉子は、紗奈を心配する充の表情を見上げ、かつて自分を愛してくれていた頃の充の姿を、思い出そうとする。 そして、断ろうとした莉子の腕を充はひっぱり、そのまま人混みの中へと引きずり込んだ。 次々と差し出されるグラスを、莉子は全て飲み干すしかなかった。 胃の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようで、吐き気がこみ上げてくる。 「莉子さん、大丈夫ですか?ここに梅ジュースがありますから、これで少し酔いを覚まして……」 莉子は梅ジュースにアレルギーがあった。だから、思わずそのグラスを押し返してしまった。 しかし、紗奈はまるで自分が強く突き飛ばされたかのように、後ろによろめき、シャンパンタワーにぶつかりそうになった瞬間、紗奈はとっさに一番近くにいた莉子を掴もうと手を伸ばした。 ガッシャーン。 大量のグラスが二人の上に降り注ぎ、飛び散ったガラス片が剥き出しの肌にいくつもの切り傷を作った。みるみるうちに血が溢れ出し、床の一角を赤く染めていく。 充の瞳孔がキュッと縮まり、すぐさま二人の元へ駆け寄った。 莉子は苦痛にうめきながら、かすむ視界の中に、見慣れた姿をぼんやりと捉えた。 莉子は思わず叫んだ。 「充、早く助け……」 しかし次の瞬間、莉子の目に入ったのは、充が自分の上着を脱いで紗奈にかけると、そのまま彼女を抱き上げて外へと走り去っていく姿だった。 莉子の言いかけた言葉は、喉の奥に詰まってしまった。息をするたびに、心臓が引き裂かれるように痛む。 「永遠にお前を守る」と言ってくれたあの男は、最初から最後まで、一度も自分を振り返らなかった。 莉子はそのまま、地面に崩れ落ちた。頭の中がぼうっとして、無数の電流が走るようだった。 次第に焦点が合わなくなっていく瞳がゆっくりと閉じられ、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。 人は危険が及んだ時、一番大切な人を無意識に選んでしまうものらしい。 充の行動の一つ一つが、莉子のプライドをずたずたに引き裂いていく。 こんなことをされてまで、彼が本当に自分を愛してくれているだなんて信じられる人はいないだろう。 第5話 莉子は病院でたった一人、手当てを受けていた。 もうモデルを辞める決心はついていたので、自分の体の傷跡を見ても、そこまで辛くはならなかった。 足首の古傷がまた開いてしまった莉子が足を引きずりながら病室を出ると、そこにいたのは、今までそばにいなかった充だった。 「病院にいてくれて良かった」 莉子の顔を見て、充はなんだかほっとした様子だった。 そして充は有無を言わさず、莉子の腕を掴んで引っ張っていく。 「紗奈の体に傷跡がたくさん残ってしまって、先生が言うに、綺麗に治すには皮膚移植が一番いいらしい。それで考えたんだけど、お前に皮膚を提供してもらおうと思ってさ」 莉子の目が大きく見開かれる。目の前に立つ男の、その広い背中を信じられない思いで見つめた。 かつては安心感を与えてくれたその背中が、今ではまるで大きな山のように、彼女を押し潰して呼吸困難にさせる。 足首の傷がどんなに痛むといっても、心の痛みには到底かなわなかった。 モデルの体に傷があってはならないことを充が知らないわけがない。それなのに、自分の将来を潰してまで、紗奈のご機嫌をとるというのか? 莉子の目はみるみるうちに赤くなり、充の手を荒々しく振り払うと、声を張り上げた。 「充、どうかしちゃったの?!あの女と私が同時に怪我した時、私を助けてくれなかったことはもういい。それなのに、今度は彼女に皮膚をあげろって?私のことも、私の将来も、何だと思ってるのよ?!」 立ち止まった充は振り返り、心底がっかりしたという顔で莉子を見つめる。 「紗奈は俺の大切な友達なんだ。それに、お前のせいで怪我をしたんだから、もし俺が紗奈を先に助けなかったら、周りから何を言われるか。そもそも、お前が紗奈を押さなければ、こんなことにはならなかったんだから、これはお前が負うべき責任なんだよ。 太ももの皮膚を少し取るだけだ。ショートパンツでも履かなければ、見た目に影響はないだろ?」 莉子はとんでもない冗談を聞いたかのように笑い始めた。しかし、そのうちその目からは涙が堰を切ったように溢れ出してきた。 「少しでも監視カメラを調べようとしてくれたら分かることなのに……私は青木さんを強く押したりしてない。あの女が自分で転んだ拍子に、私を巻き込んだだけ。 でも、あなたはあの女のことばかり考えて、私がこんなに包帯だらけなのは見て見ぬふり。それでも、青木さんに親切なのは長年の友情からで、やましい気持ちなんてないって、本気で言えるの?!」 充とは5年間の付き合いだったが、莉子が本気で怒りをぶつけたのは、これが初めてだった。 互いの目に失望の色が浮かんでいる。 充は何かにつけて紗奈を目の敵にする莉子の嫉妬ぶかさに。 莉子は、極端なまでに冷淡な充の態度を。そのせいで、自分だけが取り乱したヒステリックな女みたいに見えてしまう。 「充、私は大丈夫だから。私のせいで莉子さんと喧嘩しないで……」 ドアの外の口論を耳にした紗奈が真っ青な顔で駆け寄ってくる。 紗奈は充の袖をくいっと引き、彼をなだめるように微笑んだ。 「ちょっとくらい傷が残っても平気。もうスカートを履かなければいいだけだから。それに、私はただの一般人だから、誰も気にしないよ。 でも、モデルの莉子さんは体に傷一つつけられないでしょ?だから、もう莉子さんを困らせないであげて」 紗奈は言うことなすこと全部が人のためで、健気すぎて胸が痛くなる。 充が視線を落とすと、赤く腫れている紗奈の手首が見えた。莉子に突き倒されたときに捻ってしまったのだろう。 充には理解できなかった。長年愛してきた人が、どうしてこんなにも意地が悪く自己中心的になってしまったのか。 充は怒りのあまり目を赤くし、体からはぞっとするような威圧感を滲ませた。その声は、恐ろしいほどに冷え切っている。 「最後にもう一度だけ聞くぞ。皮膚を提供するか?」 「冗談じゃないわ」 莉子は少しも臆することなく充の視線を受け止め、毅然と顔を上げた。 充は怒りのあまり笑い出すと、誰かに向かって合図を出した。すると、すぐに数人の男が現れ、莉子の両腕をがっちりと押さえつける。 「こいつを手術室に連れて行け」 「充、どうかしてるわよ!」 莉子は必死にもがいたが、すぐに鎮静剤を打たれてしまい、視界がだんだんとぼやけていった。 莉子は舌を噛み、なんとか薬に抗おうとする。 意識を完全に失う直前、莉子は最後の力を振り絞り、あの冷たい背中に向かって、一語一句、言葉を刻む。 「充、本当にあなたが憎い。あなたなんかのために、私は海外で学ぶ機会を手放してしまったなんて…… もし昔に戻れるなら、絶対に何の迷いもなくあなたのもとを去るわ」 第6話 充の心臓が跳ね上がり、息も荒くなった。勢いよく莉子の方を振り返る。 しかし、莉子はもう完全に気を失っていて、手術室の中へ運ばれていった。 「もう喧嘩はやめて……私、手術は受けないし、今すぐ退院するから……」 紗奈は二人の口論におびえて、泣きそうな声を出す。 「悪いのはあいつだ。お前は何も悪くない。自分を責めるな」 充は、ささやくように紗奈をなぐさめた。 秘書の池田裕也(いけだ ゆうや)に紗奈を病室へ送らせた充は手術室のドアの前に座り込む。 頭の中では莉子がさっき言った言葉が何度も繰り返されていた。 あれは、カッとなって言っただけとは思えない。 急に胸が詰まるような息苦しさを感じ、どうしようもない焦燥感が心を締め付けた。 でも、莉子が自分から離れていくわけがない。きっと、自分を困らせたくてあんなことを言っただけだ。 充はスマホを開くと、莉子とのこれまでのやり取りを何度も見返した。莉子がまだ自分を愛している証拠を探し出しては、自分に言い聞かせるように心を落ち着かせる。 どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく手術室のランプが消えた。 どうやら皮膚組織の摘出は、無事に終わったようだ。 充はためらうことなく、すぐに紗奈の病室へ向かった。 紗奈の手術が無事に終わったのを確認すると、充は疲れきった足取りでやっと莉子の病室へと戻った。 病室に入ると、莉子はもう目を覚ましていた。 莉子が身を起こしたのを見て、充はすぐに駆け寄って水を渡す。 しかし、莉子はそれを受け取ろうとしなかった。 抑えていた苛立ちが、また充の心にこみ上げてきたが、莉子の青白い顔を見て、なんとかこらえ口を開く。 「紗奈の手術は成功した。お前が紗奈に謝れば、それでこの件は終わりにしてやる。 あと1週間で結婚式なんだ。大人しく言うことを聞けよな」 充を見上げる莉子の瞳には何も映っておらず、静まり返った水面のようだった。 その目に、充は心臓が鷲掴みにされたような感覚を覚える。 「謝るつもりはないし、結婚式を取りやめたいなら好きにして」 充は拳を固く握りしめ、ギリッと歯を食いしばった。 充の瞳の奥にあったわずかな優しさも、一瞬にして氷のような冷たさと嫌悪に変わる。 「お前がそんな態度だったら、結婚式は中止しないどころか、前倒しで決行する。 ただし、まともな式場も、ウェディングドレスも、指輪も用意させない。お前の友達や親戚を招待して、お前を笑い者にしてやるさ。 けど、お前が過ちを認めるなら、今までのことは全て許してやる。だって、俺たちには5年間の積み重ねがあるんだし、お前以上に大切な存在はいないからな」 その言葉を言い終わると同時に、充のポケットでスマホが鳴った。 充が電話に出ると、秘書の裕也が紗奈の名前を告げるのが聞こえた。 さっと表情を変えた充は、ジャケットを掴んで慌ただしく部屋を出ていく。 莉子は、充の後ろ姿をしばらく見つめていたが、姿が完全に見えなくなると、ゆっくりと視線を戻した。 人が本性を現す時は、まず相手の急所を見つけ出し、容赦なく叩きにかかるものらしい。 モデルの自分が、見た目やプライドを一番大事にしているのを知っているくせに、充はそれを盾に自分を脅してきた。 うつむいた莉子の目に、ふと左手の指輪の跡が映る。 莉子ははっとした。 自分たちは憎み合う敵ではなく、かつては愛し合っていたのに…… 退院の日、長いボイスメッセージが何件か送られてきただけで、充はやはり来なかった。 莉子はボイスメッセージを聞く気にすらなれなかった。 家に帰ると、莉子は部屋の隅々まで掃除して、自分に関するものは全部捨てた。 しばらく片付けをしていると、突然玄関の方で物音がした。 顔を上げると、紗奈がオートロックの暗証番号を押して入ってくるのが見えた。 ここは二人の家なのに、充は平気で他の女に暗証番号までも教えていたのか。なんて滑稽なことなのだろう。 「ここ数日帰れないから、着替えを何着か会社に持ってきてほしいと、充に言われて……」 莉子は表情を変えず、淡々と答える。 「充の寝室は二階の一番奥。それと、玄関のスマートキーはもうすぐ電池が切れるから、予備の鍵が必要なら植木鉢の下にあるから。毎週土曜には家政婦さんが掃除に来るから、帰る時に必ず鍵を返してもらって」 紗奈は一瞬ぽかんとしてから、探るような声を出した。 「莉子さん、私……そんなつもりじゃ…… みんな、心の中ではあなたこそ充に一番ふさわしいと思っています。ただ、私と充は幼馴染だから、それで特別に気にかけてくれるだけなんです」 莉子は紗奈を見つめ、片側の口の端だけを上げる。 「ここには私たち二人しかいないんだから、そんな猫被らなくたっていのよ。それに、あなたの下心なんてもう分かってるし」 第7話 莉子は、紗奈のあざとい態度に付き合うのはもううんざりだった。 もし紗奈に本当に下心がなかったのなら、充の誕生日パーティーで、自分の正体を知ってもなお、平然と自分の席に座り続けるなんてことはなかったはずだ。 それに、パーティーで散々もったいぶったあげく、結局アクセサリーを返そうともしなかったし、わざとシャンパンタワーにぶつかって、大騒ぎを起こすこともなかったはず。 口先だけで行動が伴わない人間は、いつだって本心は別にあるのだから。 しかし、もうすぐここからいなくなるのだから、莉子はそんなことを気にするつもりはなかった。 この別荘が誰を新しい女主人として迎えようと、もう自分には関係のないこと。 紗奈は声を詰まらせ、しばらくもごもごとつぶやいていた。 しかし、急に目を赤くして、ひどく傷つけられたかのような不満そうな顔を見せる。 「私……莉子さんがずっと、心の奥でそんな風に思っていたなんて……でも、莉子さんが私を押したこと、もう責めるつもりなんかなかったのに、どうして私にそんなこと言うんですか…… 私は平凡で、何もかもあなたに敵わないことは分かっていますし、何かあっても、みんなが信じるのはあなたの方だから……私はいつもあなたのご機嫌をうかがって、決して逆らったりしなかったのに…… ご迷惑をおかけしたみたいで、本当にごめんなさい。今日の午後には充に辞表を出して、東都を去りますから」 目を赤くしたままうついた紗奈が駆け出すと、温かい胸にぶつかった。 顔を上げると、そこにいたのは恐ろしいほど顔を強張らせた充だった。 どうやら、さっきの二人の会話を聞いていたらしい。 「莉子。俺が間に合わなかったら、お前は権力に物を言わせ、この子を追い出すつもりだったのか?」 紗奈を背後にかばう男を見て、莉子は静かに微笑む。 「彼女が自分から辞めたいと言っただけよ。私が追い出したわけじゃないわ」 充のこめかみには青筋が浮かび、場の空気は一瞬にして凍りついた。 「そんなに揉め事を起こしたいのか?」 今日の午後にはここを出ていける。そう思うと、莉子はもう言い争うことすら馬鹿らしくなってきた。 「あなたの目には、私がそんな根性悪い女に映ってるのね。だったら、望み通りめちゃくちゃにしてあげる。 はっきり言うわね。彼女がいるなら私は出ていくし、私を選ぶというなら彼女を追い出して」 怒りのあまり鼻で笑う充の眼差しは氷のように冷たく、唇を震わせている。 「お前が言ったんだからな。今すぐこの家から出ていけ。 お前の会社には俺から話して、仕事も続けられなくしてやるからな。最近お前を甘やかしすぎたせいで、こんなに自分勝手で思いやりのない、根性悪い性格になったんだ。 自分が間違っていたと反省したら、そのときは戻ってくればいい」 そう言い捨てると、充は紗奈の手を引いて、一度も振り返らずに去っていった。 莉子は窓の外に目をやった。充のブガッティが走り去っていくのが見えた。 それから莉子は二階へ上がって荷物をまとめると、空港行きのタクシーを呼んだ。 株を売却した代金は、もう口座に振り込まれている。 莉子はスマホからSIMカードを取り出すと、ためらうことなく真っ二つに折り、それを強く握りしめた。 脳裏に浮かぶのは、さっきの充の冷たく決然とした表情。 充、間違ってるのはあなた。 自分は間違ってなんかない。反省なんてするものか。 そして、二度と充の元なんかに戻らない。 莉子を乗せたタクシーは、深い夕闇の中へと吸い込まれるように、あっという間に見えなくなった。