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身代わりの愛
十八歳の年、玉の輿に乗った実母・一ノ瀬淑子(いちのせ よしこ)が、私という娘――一ノ瀬紗季(いちのせ さき)の存在を、突然思い出した。 ...
Chương (1)
第1章
十八歳の年、玉の輿に乗った実母・一ノ瀬淑子(いちのせ よしこ)が、私という娘――一ノ瀬紗季(いちのせ さき)の存在を、突然思い出した。
電話越しに、彼女は言った。「毎月100万円やる。白見原に来て、おとなしくしてなさい」
私は即答し、大学入試の志望校を白見原経済大学に書き換えた。
一週間後、白見原から迎えが来た。
来たのは淑子じゃない。淑子のもう一人の娘、一ノ瀬美月(いちのせ みづき)の婚約者――神崎亮介(かんざき りょうすけ)だった。
彼が私に向けた最初の言葉は、こうだ。「美月の身代わりになれるなんて、お前の光栄だ」
それから私は白見原で、美月の身代わりとして八年を過ごした。
言われるがままに従い、侮辱されても、黙って耐えた。亮介は、私を通して美月を愛していた。
二十六歳の誕生日、亮介は無表情のまま、私にプロポーズした。
耳元に息をかけ、囁く。「忘れるな。お前は美月の身代わりだ」
私はうなずき、手を差し出して、指輪をはめさせた。
背を向けたその瞬間、ニューヨーク大学金融学博士課程への出願メールを、静かに送信した。
白見原という踏み台は、もう十分だ。そろそろ、ひとつ上へ跳ぶ。
第1話
十八歳の年、玉の輿に乗った実母・一ノ瀬淑子(いちのせ よしこ)が、私という娘――一ノ瀬紗季(いちのせ さき)の存在を、突然思い出した。
電話越しに、彼女は言った。「毎月100万円やる。白見原に来て、おとなしくしてなさい」
私は即答し、大学入試の志望校を白見原経済大学に書き換えた。
一週間後、白見原から迎えが来た。
来たのは淑子じゃない。淑子のもう一人の娘、一ノ瀬美月(いちのせ みづき)の婚約者――神崎亮介(かんざき りょうすけ)だった。
彼が私に向けた最初の言葉は、こうだ。「美月の身代わりになれるなんて、お前の光栄だ」
それから私は白見原で、美月の身代わりとして八年を過ごした。
言われるがままに従い、侮辱されても、黙って耐えた。亮介は、私を通して美月を愛していた。
二十六歳の誕生日、亮介は無表情のまま、私にプロポーズした。
耳元に息をかけ、囁く。「忘れるな。お前は美月の身代わりだ」
私はうなずき、手を差し出して、指輪をはめさせた。
背を向けたその瞬間、ニューヨーク大学金融学博士課程への出願メールを、静かに送信した。
白見原という踏み台は、もう十分だ。そろそろ、ひとつ上へ跳ぶ。
……
二十六歳のバースデーパーティー。
白見原の名だたる顔役たちが、揃って集まっていた。
誰もが知っている。亮介は今日、私にプロポーズする。
滑稽なのは、今日は私の誕生日じゃない。
美月の誕生日だ。
私は更衣室の前に立ち、亮介のタキシードを手に提げている。
三十分ほど前、亮介は化粧を終えたばかりの私を、無言で外へ追い出した。
「ここで待て。動くな」
そう命じられた直後、更衣室の中から、亮介と秘書・大野佳代(おおの かよ)の、いやに甘い声が漏れてきた。
何をしているか、分からないほど鈍くはない。
白見原で過ごしたこれまでの年月で、こんなことは、数えきれないほど繰り返されてきた。
今さら、驚く気にもならない。
それに――亮介にとって、私は美月の身代わりでしかない。
身代わりなど、私ひとりで足りるはずがなかった。
佳代の声は、美月とほとんど聞き分けがつかない。
だから亮介は、ベッドの上で名前を呼ばせたり、はにかんだ甘言を囁かせたりするのが、ひどく気に入っていた。
佳代が、荒い息の合間に言う。「社長……紗季さんを外に出して、立たせたままにするなんて……さすがに……
今日は、彼女の誕生日ですよ」
更衣室の中の気配が、ふっと途切れた。
次の瞬間――頬を打つ、乾いた音が響いた。
佳代が、怯えた声を上げた。
私は目だけを動かし、閉まりきっていない更衣室の扉の隙間から、中を覗いた。
亮介が佳代の髪をつかみ、その顔を壁に押しつけているのが見える。
「自分の立場、わきまえろ。今後、俺の前で余計な真似はするな!
俺と紗季のことに、二度と口出しするな!」
吐き捨てるように言い放ち、亮介は乱れた服を整えて、更衣室を出てきた。
私は何も言わず、彼が腕を通しやすいように、上着を広げて支えた。
冷えた目で一瞥され、次の瞬間、手首をつかまれる。そのまま、会場へと引き入れられた。
「……不満か?」
私は淡々と答える。「いえ」
途端に、握る力が強まった。指の骨がきしむほどの痛みが走る。
こういう不機嫌の示し方が、亮介は昔から、ひどく子どもじみていた。
……
白見原に来たばかりの数年間、私は自分を守れるつもりでいた。
この街の眩い享楽にも、心を奪われずにいられると信じていた。
けれど、私が冷たく距離を取るほど、亮介は歯止めを失っていった。
私を惚れさせようと、手を替え、品を替え、執拗に迫ってきた。
私が彼を愛している顔だけが、美月にいちばん近い――彼は、そう信じ込んでいたからだ。
英語が苦手な私は、セレブたちの輪の中で、何度も笑いものにされた。
そのたびに亮介は間に入り、「その発音、かわいいじゃないか」とフォローしてくれた。
そして英語圏を次々と連れ回し、遊びながら、私の会話力を鍛えていった。
第2話
ワインの嗜みも、アートや宝飾の見方も、すべて彼に教え込まれた。
金持ちたちの前で、臆せずに立っていられるようにするためだ。
それだけじゃない。私が金融に興味を示したときには、チャートの読み方から相場の動かし方まで、彼が直々に叩き込んだ。
そして平然と、10億円もの資金を渡し、好きに試せと言った。
あの頃の私は、もしかしたら本当に、この男に釣り合えるのかもしれない――そんな甘い幻想を、本気で信じていた。
彼は矜持をまとったように高貴で、洗練されていて、視線が自然と引き寄せられる男だった。
けれど、初めて彼の周囲の女たちのことで私が感情をぶつけた夜。
彼は、別の女の下着を私の顔に投げつけた。
そして、冷たく言い放った。「調子に乗るな。それは、身代わりが持っていい感情じゃない」
その瞬間、私は彼に向けていた期待を、きれいさっぱり畳んだ。
男なんて、将来の足しにもならない。そう、自分に言い聞かせた。
笑えるのは――私が本当に、何も感じなくなったと知った途端。
彼が、まるで別人のように振る舞い始めたことだ。あれこれと手を替え品を替え、私の反応を確かめるようになった。
ベッドの上では、何度も私を「美月」と呼び、返事を強要した。
佳代がどんな言葉で彼を甘やかし、機嫌を取っているのか。それをわざわざ私に聞かせ、次はお前が同じようにしろと言った。
そしてある日、亮介は私の鎖骨に、自分の名前を刻むタトゥーを入れさせた。
私が無反応でいるほど、彼は苛立ちを募らせていった。
そして二か月前――彼は人を使って、私の修士論文を潰した。
彼が何を欲しがっているのかは、痛いほど分かっていた。
だから私は、従順なふりをして頭を下げた。
卒業させてほしいと願ったんじゃない。
「八年も一緒にいるんだし、婚約しない?
あなたがいないと……私、だめなの」
彼は満足そうに、私の顎をつまみ上げた。「紗季。覚えとけ。お前は、俺が飼ってる犬だ」
「プロポーズの最中に、ぼーっとするな。死にたいのか?」
我に返ると、亮介が無表情のまま、目の前に立っていた。指先には、ひとつの指輪が掲げられている。
細工は派手で、石も、これでもかというほど立派だ。
けれど、私の視線は自然と内側の刻印に吸い寄せられた。
【R&M】。
私は笑って、手を差し出す。
彼はわずかに眉を寄せ、面倒そうに、私の薬指へ指輪を滑り込ませた。
そのまま、抱き寄せられる。首元にはまだ、佳代の甘ったるい香水の匂いが残っていた。
胸がむかつき、吐き気がこみ上げる。
彼は耳元に唇を寄せ、低く囁いた。「忘れるな。お前は、美月の身代わりだ。
彼女が事故で死ななければ、お前が俺の隣に立つ資格なんて、一生ない」
この言葉は、八年のあいだで、嫌というほど聞かされてきた。
誰もが言う。美月に似ているなんて、ありがたいことだと。
彼女のおかげで、私は今の暮らしを手に入れたのだと。
本来なら、もう聞き流せるはずだった。心は、何ひとつ揺れないはずだった。
なのに、離れると決めたせいだろうか。
この言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと潰れた。息が詰まる。
亮介自身も、分かっていないのかもしれない。こんな場でこんな言葉を口にするのは、私に言っているのか。それとも、自分に言い聞かせているのか。
――惚れるな、と。自分に言い聞かせているのだ。
私は必死に呼吸を整え、口を開いた。
「……身代わりでも、いい。亮介。私は、ずっとあなたのそばにいたいだけ」
彼は満足そうに私の頭を撫で、何事もなかったかのように、客の相手へ向かった。
その背中を見送りながら、胸の底に沈む屈辱を押し殺し、私はスマホを取り出す。
受信箱に入っていた――ニューヨーク大学、金融学博士課程への出願メール。
私はそれを、静かに送信した。
第3話
送信を終え、顔を上げた。
淑子が、取り巻きを連れて私の前へやって来る。
連中は私を値踏みするように眺め、すぐに淑子へと視線を戻し、口々にお世辞を並べ始めた。
「淑子さま、立派なお嬢さまをお育てになりましたね。
白見原経済大学で、金融の修士を取られたとか。
将来は、一ノ瀬グループにお入れになるおつもりですか?」
淑子は、名家の奥さまらしい笑みを、きっちりと顔に貼りつけたままだった。
けれど、声だけがひどく冷たい。「この子に、たいした望みはありませんの。女の子は外で働かなくていい。家にいて、私の話し相手にでもなってくれれば、それで十分ですわ」
私は、淑子が愛想よく相槌を打ち続ける様子を、黙って眺めていた。
胸の奥で、冷たい笑いが静かに広がる。
母にとって、私は娘なんかじゃない。
ただ――立場をつなぎ留めるための、都合のいい道具にすぎない。
これまでに、何度トロフィーを叩き割られ、成績表を引き裂かれただろう。
頬に、平手打ちの熱が残ったまま眠った夜も、一度や二度じゃない。
彼女は、いつも同じ言葉を吐いた。「美月は、こんな子じゃない。あんた、もう似てもいない!」
ありがたいことに、私も彼女に、情なんて欠片ほども抱いていない。
先ほど質問してきた男が、淑子の言葉に乗っかるように笑った。「まあ、そうでしょうな。名家のお嬢さまは、大事にされてこそですから」
私は口元だけで微笑み、彼へ向けて手を差し出した。「森田社長。もし、何か面白いお話がありましたら、ぜひご紹介ください」
男は、一瞬だけ淑子の顔色をうかがい、それ以上は何も言えず、曖昧な笑みを残して、その場を離れていった。
淑子は、仮面のような笑みを崩さない。
けれど、その奥の瞳だけが、氷のように冷たく光っていた。
「礼儀、忘れたの?人が多いからって、私が何もできないとでも思った?
今すぐ屋敷に戻って、反省部屋に入りなさい」
私は従順にうなずく。「……はい、淑子さま」
背を向けて、先輩の河本蓮(こうもと れん)にメッセージを送った。
【新しい身分を用意して。私、ニューヨークに行く】
返事は、ほとんど即座だった。文字の端々に、焦りがにじんでいる。
【今日、婚約だって聞いてたけど?なんで急に、ニューヨークで博士課程なんだ。
分かってるよな。先生は「一ノ瀬家と神崎家を選ぶなら、受け入れない」って言ってただろ】
指が止まらないまま、スマホの画面に文字を打ち込み続けた。
【婚約しないと、亮介が私から目を離さない。だから、必要だった。大丈夫。何を選ぶべきか、ちゃんと分かってる。
私が選ぶのは、いつだって、私自身】
送信した、その直後。
ボディガードが二人、無言のまま私の両脇に並んだ。
「お嬢さま。奥さまのご命令です。お屋敷までお送りいたします」
私は何も言わず、車に乗り込んだ。
恐怖で体がわずかに震える。
それでも平気なふりをした。見抜かれたくなかった。
一ノ瀬家の反省部屋は、淑子が――私のためだけに用意した場所だ。
四方の壁も、天井も、逃げ場のないほど、鏡で埋め尽くされている。
彼女の機嫌が悪い。それだけで、私は閉じ込められる。
メイドは勝手口で目を光らせ、私がすべての衣服を脱ぐまで、視線を外さなかった。
それから、裸足のまま中へ入るよう、促された。
いつも通り、私は部屋の中央へ進み、背筋を伸ばして跪いた。
ぼんやりと、初めてここに入れられた日のことがよみがえる。
逃げ場のない裸の身体を、鏡がどこまでも映し返す。
あのときの私は、壊れたように泣き、淑子に許してほしいと縋った。
彼女は、感情のない声で告げた。「美月のものを、手に入れたんでしょう。だったら、代償を払うのは当然よ」
淑子は、監視カメラの向こうから私を見下ろす。
私の身体が、少しでも崩れそうになると――
メイドが、手にした物差しで、無言のまま私を打った。
淑子は、私に教えたいのだ。
恥というものが、どんな痛みを伴うのかを。
第4話
淑子は、私にこう言い放った。「一ノ瀬家がなきゃ、あんたなんて裸にされて大通りに放り出されるだけよ」
最後に手を差し伸べたのは、亮介だった。
彼は自分のジャケットを脱ぎ、私の身体を、隙間ができないほど包み込んだ。
私のみっともない姿を見た使用人たちには、自腹で口止め料を渡し、全員を辞めさせた。――私の体裁を守るためだけに。
それからしばらくのあいだ、亮介は寸分も私のそばを離れなかった。私の心が、ようやく持ち直すまで。
もし後になって、あの反省部屋そのものが、亮介の入れ知恵だったと知らなければ。
私を追い詰め、最後に救い出す。そうやって、私を惚れさせるための筋書きだったのだと。
きっと私は今でも、あの人はいい人なのだと、勘違いしていた。
もしかしたら、ほんの一瞬くらいは。
彼の優しさが、美月の代わりではなく、「紗季だから」向けられたものだったのかもしれない、と。
膝をついてから、もう一時間近くが過ぎていた。やがて、反省部屋の扉が開く。
背後で、亮介の足音がした。
私は目を開き、目の前の鏡越しに、彼と視線を合わせる。
亮介は、不機嫌そうに眉を寄せた。
「……なんで、わざわざ彼女を怒らせる。あの人は、美月の母親だろ」
そんなふうに言うとき、亮介は忘れている。
あの人が、私の母親でもあることを。
私が意地でも黙ったまま跪いているのを見て、亮介は私を横抱きにした。
屋敷の私の部屋へは戻らない。
連れて行かれたのは、彼が買ったばかりだという一軒の別荘だった。
庭には、たくさんの花が植えられている。
美月の好きなラベンダーじゃない。私の好きな、野のデイジーだった。
「どうだ。気に入ったか。お前のために用意した、新居だ。
お前、あの家に情がないだろ。あそこから嫁に出たくないのも、分かってる」
私はわざと明るく笑い、彼の首に腕を回して、顎先に軽くキスを落とした。
「……うん。とても、好き」
亮介はその反応に満足した様子で、私を連れ、別荘の中をゆっくり案内して回った。
結婚したあとの暮らしがどんなものになるか。甘い未来図を、ひとつひとつ語って聞かせる。
式は一か月後だ、と言った。
それまではここに住んで、準備をしろ。必要なものがあれば、何でも俺に言え、と。
私は素直に、うなずいた。
彼は私の目を見つめたまま、喉仏を小さく上下させる。
片手が私の腰を引き寄せ、もう片方が、スカートの裾から滑り込んできた。
私は即座にその手首を押さえる。
「……今日はだめ。あの日だから」
彼は興を削がれたように眉をひそめ、何も言わず、手を引っ込めた。
「じゃあ、今夜は休め。明日、また来る」
そう言ったあとも、彼はすぐには動かず、私をじっと見ていた。
――引き留めろ。
そう、目で言っているのが分かる。
けれど私は、ただ静かに彼の腕の中から身を抜き、穏やかに微笑んだ。
「……また明日ね」
これまでなら、こういう夜は決まって、彼は別の女のところへ行き、都合よく発散していた。
今日も、そうなるものだと思っていた。
けれど――彼が出て行ってから、二時間ほど経ったころ。バーから、一本の電話がかかってきた。
私は二度、呼びかけた。けれど、返事はない。
代わりに受話器の向こうから、亮介の友達たちの声が飛び込んできた。
「亮介、マジであの女たちと手ぇ切ったのか?」
「嘘だろ。紗季のために女遊びやめるとか、お前らしくねえ」
騒がしさがしばらく続き、やがて、亮介の声がはっきりと聞こえた。
「……俺、紗季と結婚する」
それきり、電話の向こうは長い沈黙に包まれ、彼の声は戻ってこなかった。
私は、ちょうどいいところで通話を切った。
考えるまでもない。この電話は、わざとだ。
本気なのか。それとも、こうやって私の気持ちを、縛りつけたいだけなのか。
……もう、どうでもよかった。
それから私は、渡航の書類を揃えながら、同時に、婚約準備をしているふりを続けた。
蓮が新しい身分を用意してくれた。
二ノ宮琴葉(にのみや ことは)。
それが、これからの私の名前だ。
第5話
これは、私が自分自身に与えた名前だ。実の父の姓を借りた。
新しい身分を手に入れたその日、私は鎖骨に刻まれたタトゥーを消しに行くつもりでいた。
別荘の玄関を出たところで、佳代と顔を合わせた。
腫れはすっかり引いていたが、皮膚が裂けた痕はまだ完全には癒えていない。
私を見るその目には、嫉妬と怨嗟が露骨に滲んでいた。
「社長が、ドレスの試着に連れてくるようにって」
タトゥーを消すことが亮介にバレたら、また面倒になる。
そう思い、今日は素直にドレスの試着に向かうことにした。
ドレスはフランスから空輸されたものだった。
どれも一流デザイナーが手がけた一点物で、縫い込まれた宝石は光を受けて艶やかに瞬いている。
亮介はソファに脚を組んで座り、それらを満足そうに眺めていた。
まるで芸術作品を鑑賞するかのように。
「来たか。試してみろ」
私は嬉しそうな表情を作り、いちばん装飾が重たいドレスを選んで試着室へ入った。
内側にも外側にも何重にも布が重なり、着るだけで十分以上かかった。
それでも着替え終えて外に出てみると――
亮介も佳代も、そこにはいなかった。
スタッフは歯切れ悪く、「姿は見ていません」と繰り返すばかり。
私は心の中で、かすかに笑った。佳代が彼を連れ出したのだろう。
佳代は、亮介のそばに四年もいる。彼の女の中では、いちばん長い。
彼女は何度も口にしていた。
肩書きなどいらない、一生そばにいられればそれでいい、と。
数日前、亮介が身の回りの女たちを一斉に切り捨てた。あの出来事が、佳代に強烈な危機感を与えたのだ。
だから今、私は必死だった。自分だけが特別なのかどうか、それを確かめずにはいられなかった。
私はドレスの裾を持ち上げながら、店内をあてもなく歩いた。
最初から、二人を探すつもりなどなかった。
それなのに――あまりにも出来すぎたタイミングで、行き当たってしまった。
「使用中」の札が掛けられた試着室。その中から、抑えきれない二人の声が漏れてくる。
「ねえ、亮介……私、本当に離れられない……お願い。今、欲しいの……」
亮介の返事は、彼女の唇に塞がれたように途切れ途切れだった。
薄いカーテン一枚を隔てただけなのに、絡み合う息遣いが、いやというほどはっきり聞こえる。
しばらくして、亮介が荒い呼吸のまま言った。
「……お前、正気か。紗季が外にいるだろ。
金なら渡す。後の人生、困らないくらいにはな。だから、もうやめろ」
「ドレスの試着なんて、そんなにすぐ終わらないよ。刺激が欲しいって言ってたの、あなたでしょ。
鏡がこんなにあるんだよ?私のこと、紗季さんだと思えばいい。私は気にしない……」
そして、佳代が囁いた。
「ねえ、亮介。反省部屋に入れられてたときの彼女が、いちばん興奮するって言ってたよね」
その瞬間――頭の中で、何かがぷつりと切れた。
亮介が誰と寝ようが、もうどうでもいい。
けれど、私のいちばん惨めで、逃げ場のなかった姿を、笑い話のように他人に渡されるのは、話が別だ。
血の気が一気に引き、手足が痺れて動かなくなる。
それでも結局、亮介は佳代の誘いに抗えなかった。
カーテンの向こうから、陶酔しきった声が漏れ出す。
「……あ、舌……そう……」
胃の奥がひっくり返り、吐き気で息が詰まった。
もう、衝動を抑えることができなかった。
私はカーテンを乱暴に引きはがし、スマホを掲げる。無我夢中で、二人に向けてシャッターを切り続けた。