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二人の夫と偽りの誓い
葉山グループの社員の誰一人として、想像だにしていなかっただろう。わずか三十分前まで冷ややかな表情で企画案を説いていた社長の葉山安奈(...
Chương (1)
第1章
葉山グループの社員の誰一人として、想像だにしていなかっただろう。わずか三十分前まで冷ややかな表情で企画案を説いていた社長の葉山安奈(はやま あんな)が、今は夫である藤原逸人(ふじわら はやと)に組み敷かれ、骨抜きにされているなどとは。
第1話
葉山グループの社員の誰一人として、想像だにしていなかっただろう。わずか三十分前まで冷ややかな表情で企画案を説いていた社長の葉山安奈(はやま あんな)が、今は夫である藤原逸人(ふじわら はやと)に組み敷かれ、骨抜きにされているなどとは。
オフィスにはハイヒールとネクタイが散乱し、安奈はシャツ一枚の姿でデスクに押しつけられ、天井の監視カメラを正面から見据える形になっていた。
「逸人……カメラ、止めてくれない?」安奈の瞳には涙が浮かび、その潤んだ眼差しが逸人の呼吸をさらに荒くさせた。
逸人は答えず、彼女を強く抱きしめると、さらに激しい動きで問いかけに応えた。安奈の思考は一瞬でかき乱され、抗う術もなく快楽に溺れていく。
二人の情事には、常に監視カメラが付きまとっていた。それは逸人の特殊な癖だった。「君を狂おしいほど愛しているから、一分一秒、すべての姿を記録しておきたいんだ」と、彼はいつも囁いていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、オフィスを包んでいた情事の余韻がようやく静まった。
逸人はいつもの優しい顔に戻っていた。デスクに座る安奈の前に彼は恭しく片膝をつく。彼女の透き通るように白い足首を支えながら、レッドソールのハイヒールを丁寧に履かせていく。
履かせ終えると、彼は彼女の腿を支え、その肌にそっと口づけを落とした。獲物を追い詰めるような鋭い視線で彼女を射すくめ、改めて念を押す。「安奈、カメラを勝手に消しちゃだめだよ。君の姿が見えないと、俺は狂ってしまいそうなんだ」
その視線に、安奈は頬を赤らめて頷いた。デスクから降りると、床に落ちていたネクタイを拾って首に巻いた。「わかったわ。これから会社に戻って用事があるんでしょう? 早く行って」
逸人が去った後、彼女は一人で呼吸を整えた。火照りが引くのを待ってから、秘書の 園田愛梨(そのだ あいり)に内線をつなぐ。「愛梨、十分後に工場の視察に行くわ。準備して」
車で傘下の工場へと向かった安奈だったが、車を降りた直後、会社にいるはずの逸人の姿を目にする。不審に思った安奈が後を追うと、彼は藤原家が所有する廃工場へと入っていった。
視察に来たのかと思い、錆びついた鉄扉を押し開けようとした安奈は、その隙間から逸人と瓜二つの男が中にいるのを目撃した。
衝撃が走った。彼に双子の兄弟がいるなんて、一度も聞いたことがなかった。
その男は椅子に縛りつけられていた。逸人は男に近づき、悠然とした口調で語りかける。「逸斗、また撮れたての動画があるんだ。わざわざ見せに来てやったよ」
その名前が彼の口から出た瞬間、安奈の思考は真っ白になった。
椅子に座った男はその言葉を聞いて激しく抵抗し、殺意に満ちた視線を向けた。
逸人は意に介さずスマホを取り出し、動画を再生して男の目の前に突きつけた。音量は最大に設定されている。
次の瞬間、安奈の鼓膜を震わせたのは、紛れもない自分自身の声だった。淫らな喘ぎ、泣きじゃくりながら許しを乞う悲鳴、そして肉体が激しくぶつかり合う生々しい音。
それらが、がらんとした廃工場の中に無慈悲に響き渡る。安奈の顔からは瞬時に血の気が失せ、指先は制御不能なほどに震え出した。
それは、つい先ほどの監視カメラの映像だった。
「聞こえるか?逸斗、俺の愛しき兄貴。お前の愛する女がいい声で喘いでいるぜ」逸人は自画自賛するかのように動画を眺め、満足げにうそぶいた。「この動画はいい出来だ。ダークウェブなら、かなりの高値で売れるだろうな」
「逸人!」椅子の男が怒鳴り声を上げた。「復讐なら俺にしろ!どんな報いでも受けてやる。だから安奈を放してやってくれ!」
「放す?どの面下げてそんなことが言えるんだ」逸人の目が一変し、男の襟元を掴んで陰険な声を出した。「笙子も、あの時お前にそう乞うたはずだろ?あんなにお前を愛していたのに、俺が心臓を捧げても、彼女の目にはお前しか映っていなかった!
彼女の唯一の願いはお前に愛されることだった。火の中で助けを求めていた彼女を、お前は一瞥だにしなかった。笙子を自殺に追い込んだのはお前だ!俺は本当にお前を殺してやりたいよ!」
逸人の目は血走り、不気味に微笑んだ。
「でも、ただ殺すんじゃ生ぬるい。二年も待って、ようやくチャンスが巡ってきた。愛する女と政略結婚するつもりだったのか?
なら、俺がお前に成り代わって、お前の愛する女が俺をどう愛し、俺の下でいかに理性をかなぐり捨てて喘ぎ乱れているかをたっぷり見せてやる。笙子が味わった苦痛は、何倍にもして安奈に返してやる」
安奈の全身の血が凍りついた。あらゆる音が消え去り、耳の奥で鋭い耳鳴りが脳を突き刺す。
彼は本物の藤原逸斗(ふじわら はやと)に成り代わって自分と結婚し、愛を囁き続けてきた。すべては自分の忘れられぬ想い人である吉岡笙子(よしおか しょうこ)のために、双子の兄へ復讐を果たすためだったのだ。
あんなに情熱的だった愛は、すべて偽物だったのか……
中の逸人は言葉を止めない。彼は立ち上がり、手を拭う。「七日後は笙子の命日だ。彼女はあの火災で見る影もないほどに顔を焼け爛れ、絶望の末に自ら命を絶った。
その日が来たら、安奈にもその顔を焼かれる痛みをたっぷり味わわせてやる。そしてお前は、彼女の道連れになってもらうぞ」
ほんの三十分前まで、「君が見えないと俺は狂う」と言っていた口で、今は彼女の顔を無残に焼き潰す計画を立てている。
圧倒的な寒気が安奈を襲った。鉄扉を掴んでいなければ、その場に崩れ落ちていただろう。中の逸人が監視の者に指示を出し、外へと歩き出す。
安奈はふらつきながら車へと走り戻った。愛梨がその様子を見て飛び上がるほど驚く。「社長!どうされたんですか?顔色が真っ白です!」
安奈は荒い息をつきながら運転席の背もたれを握りしめ、震える声で言った。「早く出して。会社に戻って」逸人にだけは見られてはならない。
愛梨はすぐに車を発進させ、会社へと引き返した。
窓の外の景色が過ぎ去る。安奈の心臓は目に見えない手に掴まれたかのように、息ができないほどの痛みに苛まれていた。
あの献身的な気遣いも、熱烈な愛の告白も、愛おしそうな眼差しも、すべては虚飾だったのだ。
彼女と逸人は政略結婚だった。両親を亡くし、グループが混乱に陥った際に彼女が矢面に立ち、その窮地を救うように逸人が結婚を申し出た。藤原家の後ろ盾があったからこそ、葉山グループは今日まで生き残ることができたのだ。
結婚初日、彼は「ずっと前から君に片想いしていた」と告げた。安奈は一度パーティーで見かけたことがある程度で、目の前の男が入れ替わっていることなど気づくはずもなかった。当初、その言葉を真に受けることはなかった。
だが、彼女の生理周期を常に把握し、言われる前にナプキンを用意しては、その時期特有の苛立ちさえも優しく包み込んでくれたのは、彼だった。
仕事の無理がたたってボロボロだった彼女の胃を、献身的に労り、健康な状態に戻してくれたのも、彼だった。
さらには、ライバル会社に拉致された彼女を救い出すために、凶刃で肺を貫かれ、一週間もの間、集中治療室で生死の境を彷徨ったのも……すべて、彼だったのだ。
その一つ一つの献身が、安奈を底なしの愛へと突き落とした。形ばかりの政略結婚が、真実の絆へと変わったのだと、彼女は信じて疑わなかった。
二年間、幾度となく肌を重ねた熱い夜、逸人の数えきれないほどの愛の言葉。昨日までは、両親の命日に彼を連れて墓参りに行こうと考えていた。それなのに、今、そのすべてが紛い物だったと突きつけられた。
彼は彼女を愛してなどいない。彼女はただの復讐の道具に過ぎなかった。
頭の中はぐちゃぐちゃになり、安奈はどうやってオフィスに戻ったのかさえ覚えていなかった。天井で点滅する監視カメラの赤い光が、彼女を現実に引き戻す。
逸人の言葉を思い出し、スマホでダークウェブを必死に探した。そこには、見覚えのある動画があった。顔にはボカシが入っていたが、それが自分であることは、一目でわかった。
「一分一秒、君を見ていたいんだ」――かつて彼が囁いた熱烈な愛を信じ、オフィスや自宅に監視カメラを設置することを許した。だが、それさえも彼の復讐という名の台本に書き込まれた、卑劣な一節に過ぎなかった。
目の前にあった完璧な幸福という名の鏡が、音を立てて砕け散る。その鋭い破片が容赦なく肉に食い込み、逃げ場のない激痛が全身を駆け抜けた。
必死に堪えていた涙が、ついに決壊する。赤く腫れた瞳に冷徹な決意を宿し、震える指である番号を呼び出した。
逸人。そこまで非情になるのなら、私はその計略を逆手に取って、あなたの世界から永遠に姿を消してあげる。
第2話
最初の電話を、安奈はエンジニアにかけた。「監視カメラをすべて撤去してほしいの。今すぐよ」
通話を終了させると、彼女はすぐさま別の番号を呼び出した。「七日後に火災が起きるわ。私の完璧な偽装死を準備して。それと……現場にもう一人いるから、その人を救い出してほしいの」
逸斗は必ず生かす。あの火災で「死ぬ」のは、安奈一人だけでいい。
監視カメラの撤去作業員はすぐやってきた。オフィスの作業を終えると、安奈は彼らを自宅へと案内した。寝室、トイレ、リビング――すべての監視カメラが、跡形もなく取り払われた。
夜、帰宅した逸人はその光景を目にして、一瞬呆然とした。「安奈、どうしてカメラを全部外したんだ?」
安奈の背中が強張った。廃工場で味わったあの圧迫感が、どっと押し寄せる。彼女は作業員を送り出すと、努めて冷静さを保ちながら言った。「……あんなもの、見ているだけで気が滅入るわ。だから処分させたの」
逸人は彼女の腰を抱きしめ、少し甘えるような、それでいてどこか芝居がかった声を出した。「でも、俺が君を恋しくなった時、姿が見えないと寂しいじゃないか」
純粋に彼女を見守りたいのか、それとも動画を撮って逸斗への復讐に使いたいだけなのか。数年前に藤原家の長男が名を改めたという噂があったが、ようやくすべてに合点がいった。
安奈は胸を締め付けられる思いで視線を落とし、彼の腕を振り払った。なおも言葉を重ねようとする逸人を遮るように問う。「その手首のブレスレット、どこで手に入れたの?ずっとつけているみたいだけど」
逸人は、案の定それ以上カメラの件を追及しようとはしなかった。彼は手首のブレスレットを愛おしそうに撫でると、この上なく慈しむような眼差しでそれを見つめ、静かに呟いた。「……ある友人がくれたんだ」
その表情を見た瞬間、安奈はすべてを悟った。あの笙子という女が贈ったものなのだ。道理で、一度として外そうとせず、水一滴触れさせないわけだ。
彼女は自嘲気味に口角を上げた。心臓を大きな手で鷲掴みにされたような、鈍い痛みが走る。これ以上、馬鹿げた問いを重ねる気力は残っていなかった。
夜、安奈がベッドで横向きになって休んでいると、ほどなくして背後から腕が回され、腰を引き寄せられた。耳元で逸人の囁きが聞こえる。「安奈、俺たち最近デートをしていないだろう。七日後、仕事を休んで二人で出かけよう」
彼女の息が止まる。強く抱きしめられているはずなのに、そこに温もりなど微塵も感じられない。震えそうになる声を必死に押し殺し、彼女は問うた。「……もし、行かないと言ったら?」
彼はさらに顔を寄せ、唇が触れるかのような距離で、冗談めかして囁いた。「その時は、俺が縛ってでも連れて行くよ」
それが冗談ではないことを、安奈が知っていた。全身を突き抜けるような寒気に襲われ、彼女は目を閉じ、掠れた声で絞り出すように返した。「……わかったわ」
三十分が過ぎ、背後から規則正しい寝息が聞こえ始めた。暗闇の中で、安奈は静かに目を開ける。
彼女は音を立てずに起き上がり、逸人のスマホを手に取った。一つ、また一つと、パスワードを試していく。
最初は彼の誕生日。二回目は笙子の命日。だが、どちらも無慈悲に弾かれた。
笙子の誕生日だろうかと考えたが、彼女の誕生日までは知らない。最後は一か八か、自分たちの結婚記念日を入力すると、嘘のようにロックが解除された。
開いた画面を見つめ、安奈は立ち尽くした。なぜ彼は、自分と同じように結婚記念日をパスワードに設定しているのか。彼もまた、あの日を大切に思っていたのか。
廃工場での冷酷な言葉が脳裏をよぎり、安奈はその甘い迷いを即座に振り払った。きっと自分を欺くための周到な罠なのだ。自分に夫のスマホを覗き見る習慣がないことが、彼の計算を狂わせただけだろう。
逸人のスマホの中は、彼女の写真で埋め尽くされていた。満面の笑みを浮かべたもの、食事中の何気ない姿、そして無防備な寝顔……さらには、彼女の嗜好や苦手な食べ物までを事細かに記したメモまで残されていた。
安奈の瞳に深い自嘲の色が浮かぶ。逸人、あなたは本当に完璧な役者ね。
アルバムを閉じようとしたその時、非表示設定のフォルダが目に留まった。笙子の命日を入力すると、容易くその中身が現れた。
そこにあったのは、逸人と一人の少女のツーショット写真の山だった。どの写真の中の彼も、隣にいる少女を熱っぽく見つめている。その隠しきれない愛しさは、見る者の胸を締め付けるほどに溢れ出していた。
逸人、あなたは彼女をあんなに愛している。けれど、私は何の罪があって、あなたの復讐の道具にされなければならないの。
安奈の心から血が滴るようだった。涙が次第に視界を奪っていく。
震える指先で非表示フォルダを抜け、ダークウェブへアクセスしてあの動画を完全に消去した。スマホを元の場所に戻すと、安奈は逃げるように寝室を後にした。
自分を陥れようとする男の傍らで、安らかに眠ることなど到底できない。その夜、彼女は客室に枕を移した。
案の定、翌朝目を覚ました逸人は、なぜ客室で寝ていたのかと怪訝そうに尋ねてきた。安奈は「夜中にどうしても片付けたい仕事があったの。あなたを起こしたくなかったから」と、適当な言い訳で煙に巻いた。
朝食を済ませると、逸人はいつものように彼女を会社まで送り届けた。車を降りる直前、彼は安奈を引き寄せ、慈しむように口づけを落とした。「お仕事頑張って、安奈」
以前の彼女なら、愛おしげにそのキスを返していただろうが、今は黙って顔を背け、そのまま車を降りた。
オフィスに着くなり、安奈が真っ先にしたことは、友人に電話をかけてあの笙子という女の素性を調べてもらうことだった。
思いがけず、友人は電話の向こう側で声を弾ませた。「やっとその気になったの?以前あなたに教えようとした時は、これっぽっちも興味ないって一蹴したくせに」
安奈は一瞬、呆然とした。記憶の底を辿れば、確かに逸人には狂信的な追っかけの女がいたという話を、以前友人から聞かされた覚えがある。だが、当時は逸人に対して特別な感情など抱いていなかったため、まともに取り合っていなかったのだ。
「ええ、今は聞きたいの。話して」
第3話
「その女の名前は吉岡笙子。吉岡家の隠し子でね、どういうわけか逸人に執着して、なりふり構わず追いかけ回していたのよ」
友人は電話の向こうで、溜息をついた。「ありとあらゆる手を使ったわ。色仕掛けで誘惑したり、挙句の果てには薬を盛ったり……でも安心して。あなたの夫は、毅然と断り続けたそうよ」
安奈の口元に、冷ややかな皮肉が浮かぶ。拒絶したのは逸斗であって、私の夫ではない。
友人は興奮を抑えきれない様子で話を続けた。「どんな手段も通用しないと悟った笙子は、あろうことか自作自演の暴行事件を仕組んだのよ。逸人に自分を救い出させて、運命のヒロインを演じるつもりだったんでしょうね。
でも計算外だったのは、その日の逸人が別の道を通っちゃったこと。挙句の果てに、雇われた男たちが欲に目を眩ませて暴走し、狂言が本物の惨劇になっちゃったのよ。
その一件で彼女は完全に壊れてしまったわ。執拗に逸人に責任を迫るようになった。放火まで仄めかして脅迫したんだけど、結局は墓穴を掘って、自分の顔を無残に焼き爛れさせてしまったの。最後は見る影もなくなった自分の容姿に絶望して、自ら命を絶ったわ。
凄まじい話でしょう?噂を聞いた時は、この笙子って女は本物の狂人だと思ったものだけど……」
その後の言葉は安奈の耳には入ってこなかった。ただ、あまりの理不尽さに眩暈すら覚える。すべては笙子の自業自得ではないか。
それなのに逸人は、理非もわきまえぬ逆恨みで他人に責任をなすりつけ、あまつさえ自分にまで牙を向けている。彼は一体、どれほど狂おしく笙子を愛していたというのか。
心臓を締め付けられるような鈍い痛みに耐えかね、安奈は友人の話を遮って電話を切った。
午後、安奈は法務担当を呼び、株式譲渡の契約書を作成させた。一部の株を新たな名義へと移し替える。この会社は両親が遺してくれた形見だ。決して、このまま奪わせはしない。
夜、仕事を終えて会社を出た安奈は、路肩に停められたマイバッハに背を預けて立つ、スーツ姿の逸人を見て思わず足を止めた。
珍しく呆然としている彼女の様子に、逸人はふっと表情を和らげた。彼は穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ると、慈しむように身をかがめ、安奈の唇へそっと顔を寄せた。「今夜はパーティーがあるだろう? 忘れたのかい?」
安奈は身を引いて、その口づけを避けた。数日前、パジャマ姿でソファに丸まり、テレビを見ながら仕事の話をしていた時に約束したパーティーだ。
わずか数日の間に、世界は天地がひっくり返るほどの変貌を遂げていた。
逸人は彼女の拒絶に不満げな表情を浮かべ、なおも追ってこようとする。安奈は彼を無視して車に乗り込んだ。「仕事が立て込んでいて、忘れていたわ」
逸斗は一瞬だけ呆気に取られたように立ち尽くしたが、すぐに諦めたような苦笑を漏らした。彼は大人しく助手席へ回り、甲斐甲斐しく彼女のシートベルトを締めた。
「君のことだから忘れているだろうと思っていたよ。スタイリストをあちらで待たせてあるし、ドレスも数着取り寄せた。好きなものを選べばいい」
慣れた手つきで世話を焼く姿を見て、安奈の胸には細かな痛みと自嘲がこみ上げた。独りきりで天地が覆るような絶望に沈んでいるのは自分だけで、逸人は最初から最後まで、精巧な仮面を被り続けているのだ。
会場に着くと、二人はまず控え室に向かった。ドレスはすべて安奈の好みに合わせて選ばれており、彼女は適当な一着を手に取った。
メイクを終え、ドレスに着替えて更衣室から現れた安奈を見て、逸人の瞳に感嘆の色が走った。「安奈、君は本当に美しい。君を妻にできたことは、俺の人生で最大の幸運だよ」
その言葉は、まるで真実の愛であるかのように甘く響いた。安奈はそっと視線を落とし、瞳の奥に宿る皮肉を覆い隠した。
パーティーが始まり、二人は手を取り合って入場し、挨拶回りを始めた。
やがて二人は、安奈にとって極めて重要な取引先の田中亮宏(たなか あきひろ)の前で足を止めた。礼儀正しく言葉を交わしていたが、会話が弾むにつれ、亮宏がふとした拍子に笙子の話題を口にした。
「葉山社長、お二人の仲睦まじいお姿を拝見していると、ふと藤原社長をかつて追い回していた女性を思い出しましてね。あの吉岡家の隠し子ですよ。
まったく、あれはとんだ狂女でした。藤原社長も、そんな人間に付きまとわれて災難でしたな。きっと相当嫌っておられたのでしょう?」
逸人の顔から笑みが消えた。しかし、亮宏は空気を読まずに続ける。「藤原社長が彼女を拒絶した理由が今ならわかります。あの狂った女は、葉山社長の足元にも及びませんからな」
逸人の腕を組んでいた安奈は、彼の筋肉が岩のように硬く強張るのを感じた。その怒りが、すでに沸点を超えていることは明白だった。
胸を突き上げるような不穏な予感に、安奈は慌てて亮宏の言葉を遮ろうと口を開きかけた。
だが、それよりも早く、逸人が突如として激昂した。目の前の亮宏を蹴り飛ばして、陰惨で恐ろしい声を絞り出した。「笙子のことを、貴様ごときが軽々しく口にするな」
彼は亮宏の上に馬乗りになり、機械的にその顔を殴りつけ始めた。その瞳は凍てつくように冷たく、狂気に満ちている。
「彼女が誰に劣るかなど、貴様に言われる筋合いはない。ところで、外で囲っている愛人たちのこと、奥方はまだ知らないだろう?俺が直々に教えてやってもいいんだぞ」
安奈はその光景を目の当たりにし、顔面蒼白になった。亮宏は会社にとってとても重要で、失うわけにはいかない。
「逸人!」
震える声で叫ぶが、今の逸人の耳に届くはずもない。安奈は彼を引き剥がそうと前に出たが、彼は煩わしそうに彼女を突き飛ばした。「どけ!」
ハイヒールを履いていた彼女はバランスを崩し、背後のシャンパンタワーへと倒れ込んだ。無数のグラスが轟音と共に崩れ落ち、安奈は割れたガラスの山の上に倒れ伏した。膝や肘、体中の至る所に鋭い痛みが走る。
遠のく意識の中で、彼女はかつて自分を守ってくれた逸人を思い出していた。あの時は自分を助けるために命さえ懸けてくれたのに、今は……
瞳の奥に、深い自嘲が滲む。かつての慈しみはすべて幻に過ぎず、この無残な光景こそが、目を背けようのない真実なのだ。
会場の人々は好奇の目を向けて遠巻きに二人を眺め、ひそひそと交わされる陰口が、安奈の耳に冷たく突き刺さる。
「どういうことかしら。藤原社長は笙子を嫌っていたはずじゃなかったの?彼女が死んでから愛に目覚めたとでもいうの?」
「そのようね。でなければ、あんなに我を忘れて暴れるはずがないわ。葉山社長との仲睦まじい姿も、結局はただの演目だったってわけね」
握りしめた拳に、ガラスの破片が深く食い込んでいく。うつむいたままの安奈は、まるで衆人環視の中で服を剥ぎ取られ、路頭に晒されたかのような屈辱に震えていた。これほどまでに無惨な辱めを受けたことは、人生で一度としてなかった。
その間も、逸人は周囲の目など一顧だにせず、なりふり構わず亮宏を殴り続けている。心臓を抉られるような思いで、安奈は血の滲む地面に手をつき、這いつくばるようにして立ち上がった。一歩、また一歩と会場を後にする彼女の足跡には、痛々しい鮮血が点々と残されていた。
第4話
病院へ向かい、傷口の処置を終えた直後、スマホの着信音が執拗に鳴り響いた。亮宏からだった。
電話の向こうの亮宏は、殴られた傷のせいか怒りのせいか、もどかしげに言葉を震わせ、痛烈な皮肉をぶつけてきた。「葉山社長、お前の旦那様は大したお方だ。生きているうちは必死に拒み、死んでからようやく愛したと来たね。
それほど御大層な御仁なら、うちとの提携もこれっきりだ」
彼の言葉は安奈の心に鋭く突き刺さった。だが、社運を懸けた提携を維持するために、彼女は必死に食い下がった。「田中社長、申し訳ございません。すべてはこちらの不徳の致すところです。ですが、提携の件、どうか……どうかもう一度だけご再考いただけないでしょうか」
「再考だと?ふざけるな!」亮宏は激昂して言葉を叩きつけた。「今の契約はもちろん、今後お前がこの業界でまともな協力が得られると思うな!」
弁明の余地すら与えられず、電話は一方的に切られた。
安奈は力なく手を落とした。提携が白紙になったことをどう社員に伝えればいいのか。底知れない敗北感が、彼女を飲み込もうとしていた。
膝の痛みは引かず、壁を伝いながら外へ向かおうとしたその時、返り血を浴びた逸人が血相を変えて飛び込んできた。安奈の無残な姿を目にするなり、彼は慌ててその体を抱き寄せようとした。「安奈、すまない!君だとは気づかなかったんだ」
安奈は一言も発することなく、その手を冷たく振り払った。その拍子に身体が大きくよろめいたが、それでも壁を支えに足を踏みしめ、毅然と歩き出す。
逸人の胸に鋭い痛みが走った。彼は湧き上がる得体の知れない感情を抑えつけ、なおも縋るように手を伸ばした。「安奈、ごめん。本当に、本当にすまなかった」
「笙子とは、どんな関係なの?」彼女は立ち止まり、彼の言葉を遮った。
逸人の瞳に一瞬、明らかな動揺がよぎった。だが、すぐに無実を装うような、白々しい言葉が返ってきた。「彼女はただ、熱狂的に俺を追いかけていただけの女だよ。一切の関係もありはしない」
安奈は自嘲気味に鼻で笑った。その声は、消え入りそうなほど微かだった。「ふふ、何の関係もない……
関係もないのに、あんなに田中社長を殴りつけたの?」彼女の目元が赤く染まり、声が鋭く響いた。「あなたのせいで提携が白紙になったのよ。この提携が私にとってどれほど重要か、知っていたはずでしょう!」
この提携のために不眠不休で働いていたとき、傍で支えていたのは彼だった。毎日欠かすことなく食事を作り、健康を気遣ってくれていたのも彼だった。だというのに、笙子のこととなると、彼は一瞬にしてすべての理性を投げ捨ててしまう。
これ以上、不毛な押し問答を続ける気力もなく、安奈は背を向けてその場を立ち去った。逸人は、まるで地面に縫い付けられたかのように、その場から一歩も動くことができなかった。
背後から追いかけてくる足音は聞こえない。言い訳の言葉すら見つからないのかと、安奈の瞳に冷ややかな嘲笑が浮かぶ。
外はあいにくの雨だった。雨の中へ踏み出すと、繊細な生地のドレスがぐっしょりと肌に張り付く。全身ずぶ濡れで虚脱状態の彼女を、タクシーは無情にも乗車拒否して走り去っていく。
やむを得ず、彼女は愛梨を呼び出した。
駆けつけた愛梨は、安奈のあまりの惨状に息を呑んだ。「社長!一体どうされたんですか?」
「田中社長との提携は白紙になったわ。予備プランを動かして」愛梨の問いには答えず、安奈は疲労を滲ませてそう言い捨てると、座席に深く身を預けて目を閉じた。
脳裏で残された日数をカウントダウンする。あと六日。逸人、あなたは本当に、私に手を下すつもりなの?
その日の夜、彼が帰宅することはなかった。完璧な夫を演じ続けることに、彼自身もついに限界を感じたのかもしれない。
だが翌朝、安奈を揺り起こしたのは、逸人の慈しむような口づけだった。その微笑みは以前と何ら変わらず、昨夜の惨劇などなかったかのように、彼は一言も触れようとはしなかった。
いつも通りに食事を整え、彼女を会社まで送り届ける。笙子への妄執が、彼にこれほどの屈辱を飲み込ませ、平然を装わせているのだと思うと、安奈は背筋が凍るような思いがした。
提携解消の後始末に追われ、その日、安奈は深夜まで仕事に忙殺された。いつもなら欠かさず入るはずの逸人からの連絡が、これほど遅くまで一度もないのは極めて稀なことだった。
特に気に留めることもなく、道端でタクシーを待ったが、一向に空車が捕まらない。仕方なく、彼女は家へ歩きながら逸人に電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴り響き、切れそうになったその瞬間、ようやく繋がった。だが、電話の向こう側から聞こえてくるのは酷い雑音ばかりで、どうやら誤操作で繋がってしまったらしい。安奈が電話を切ろうとしたその時、二つの声が漏れ聞こえてきた。
「逸人、手配はすべて完了した」
そして、聞き慣れた逸人の声が応じる。「……やれ」
その言葉と重なるように、安奈はいつの間にか、街灯も乏しい薄暗い路地裏へと足を踏み入れていた。
第5話
安奈の足が、凍りついたように止まった。通話を切り、慌てて路地の入り口まで引き返そうとしたが、そこを四人の男たちに塞がれ、じわじわと奥へと追い詰められた。
男たちの口からは、反吐が出るような卑俗な言葉が次々と溢れ出した。
「へへっ、こいつはとんだ上玉だ。これなら残りの報酬なんて抜きでも構わねえぜ」
「兄貴、手早く頼むぜ。俺は二番手で構わねえ」
男たちが距離を詰めるにつれ、身の毛もよだつような恐怖が安奈を支配した。顔面は紙のように白くなり、必死に逃げ道を探して走り出そうとしたが、強引に腕を掴まれ、逃れる間もなく地面に叩きつけられた。
安奈は泥にまみれながらも這い上がろうと足掻いたが、すぐに男の重い体に組み伏せられた。彼女は狂ったように身をよじり、悲痛な声を上げる。「やめて……お金ならいくらでも出すわ。言い値で払うから、お願い、放して!」
上に乗った男は下卑た笑いを浮かべ、その顔を安奈に近づけた。「金なんていらねえよ。俺たちが欲しいのは、あんたのその体だ」
恐怖に瞳孔が収縮し、安奈は死に物狂いで身をよじった。だが、上に乗った男は不愉快そうに舌打ちをすると、次の瞬間、彼女の細い指を容赦なくへし折った。
脳を突き刺すような激痛が安奈の意識を真っ白に塗り潰した。もはや抗う力など微塵も残っておらず、彼女は糸の切れた操り人形のように、その身を蹂躙されるがままに投げ出した。
絶望の淵で、彼女の脳裏に逸人のあの言葉が鮮烈に蘇る。「笙子が味わった苦痛は、何倍にもして安奈に返してやる」
そういうことだったのか。先ほどの電話から聞こえた、あの冷酷な指示が、最悪の形で結実したのだ。
安奈の目尻から、絶望の涙がこぼれ落ちる。空虚な瞳で黒ずんだ空を見上げ、心臓を切り刻まれるような苦痛に耐えていた。
粗野な手が安奈のスカートに指をかけ、無残に剥ぎ取ろうとしたその時、上に跨がっていた男が突然悲鳴を上げた。路地裏に飛び込んできた人影によって、男の身体は勢いよく地面へ叩き伏せられた。
「てめえ、何様だ!邪魔すんじゃねえ!野郎ども、こいつもまとめてぶちのめせ!」
激しい打撃音が狭い路地に響き渡る中、安奈はただ麻痺した感覚でそれを聞いていた。思考は完全に停止し、もはや何の反応も示せない。数人の悲鳴が上がった後、彼女の身体にふわりとジャケットが掛けられ、焦燥の入り混じった強い力で抱き寄せられた。
「安奈、大丈夫か?すまない、俺が遅すぎた……」逸人の声は小刻みに震え、まるで最愛の存在を失うことを心底恐れているかのように、その腕に力を込めた。
安奈は焦点の定まらない瞳で彼を見つめた。朦朧とした意識の中で、以前彼が助けに来てくれた時の記憶が重なる。
だが、すぐに現実が牙を向いた。彼は救世主などではない。この惨劇の執行人なのだ。
安奈の口元に、乾いた自嘲が浮かんだ。「逸……」
最後まで言葉を紡ぐことなく、彼女は意識を失った。
再び目を覚ましたとき、安奈は病院のベッドの上にいた。指に走る激痛に顔を歪めると、傍らにいた逸人がすぐに駆け寄ってきた。
「安奈、気がついたか!他にどこか痛むところはないか?俺が迎えに行っていればこんなことには……全部、俺が悪いんだ。すまない……」
自責の念に駆られた彼の姿を見つめながら、意識を失う直前の記憶が奔流となって押し寄せる。
薄暗い路地裏の光景、肌にこびりついたおぞましい感触、そして絶妙なタイミングで現れた逸人。それらすべてが、あの冷徹な「やれ」という一言へと収束していく。
安奈は一言も発しなかった。逸人はそれを事件のショックによるものだと決めつけ、彼女を慈しむように抱き寄せ、耳元で囁いた。
「安奈、もう大丈夫だ。俺がついているよ。あいつらには必ず報いを受けさせるから、安心してくれ」
安奈の瞳には、ただ死の如き静寂が宿っていた。もはや、彼の甘い言葉に、心が揺らぐことなど二度とない。
昼時、逸人は食事の支度をするために自宅へ戻り、そのついでに届いていた宅配便の荷物を持って病院へ戻ってきた。
「安奈、君宛てに荷物が届いていたよ。書類のようだったから、ついでに持ってきたんだ」
開封された中身を彼が確かめようとした瞬間、安奈はそれをひったくるようにして奪い取った。そこには『偽装死』に関する最終合意書が記されている。
逸人がなおも中を覗き込もうとするのを、彼女は手元を隠すように遮り、一つの問いを投げかけた。「逸人、四日後のデートは、予定通り行くの?」
逸人は一瞬、虚を突かれたように沈黙したが、やがて低い声で答えた。「……ああ、もちろんだ」
安奈は書類を握りしめる指先に力を込め、音もなく自嘲の笑みを浮かべた。「わかったわ。お腹が空いた。何かつくって」
その言葉を聞くと、彼はそれ以上書類を気に留める様子もなく、すぐに食事の準備に取り掛かった。安奈は震える手でペンを握り、自らの名前を一筆一筆、鮮明に書き込んだ。
本来、骨折の療養には相応の時間が必要だったが、安奈はわずか二日で退院を強行した。
彼女が真っ先に向かったのは、自分の会社だった。だが、社長室に足を踏み入れるや否や、以前から事あるごとに反目し合ってきた取締役の渡辺朝陽(わたなべ あさひ)が、待ち構えていたかのように入ってきた。
「葉山さん、一体何のご用ですか。まだ通達を受けていないのですか?取締役会はすでに、君の解任を正式に決定しましたよ。君はもう、この会社の社長ではありません。さっさと私物をまとめて、この部屋を明け渡してもらいたいものですな」
第6話
安奈は眉をひそめ、冷徹な視線を朝陽に投げかけた。「取締役会で解任?筆頭株主である私が関知しないところで、一体いつそんな決議が行われたというの」
「おっと、言い忘れていましたな」朝陽は手元の書類を彼女の前に放り出した。「今や私がこの会社の筆頭株主、つまり新しいオーナーですよ」
安奈がその書類を手に取ると、それは株式譲渡契約書だった。あらかじめ別の名義に移し替えておいた分を除き、彼女の持ち株はすべて、朝陽の名義に書き換えられていた。
これほど重大な書類にサインした覚えなど、断じてない。もし、自分の代わりに株式を譲渡できるだけの書類が揃っているのだとすれば、心当たりは一つしかなかった。
それら重要書類はすべて、自宅の書斎に厳重に保管されていたからだ。あの場所に自由に出入りし、機密を盗み出すことができる人間など、この世に逸人ただ一人を除いて他にいない。
膝の震えが止まらず、安奈はデスクの端を掴んでどうにか身体を支えた。握りしめた拳が白くなるほど、胸の奥には焼け付くような痛みが走る。
この会社は、亡き両親が彼女のために遺してくれた唯一の形見であり、彼女自身が心血を注いで守り抜いてきたものなのだ。それを彼は、これほどまでに容易く、無残に踏みにじった。
逸人……よくも、よくもこんな真似を……
打ちひしがれる彼女の様子を、朝陽は勝ち誇ったような笑みで見下していた。その口調は、かえって慇懃無礼なまでに傲慢さを増していく。
「葉山さん、往生際が悪いですよ。さっさと出て行かれないのでしたら、警備員を呼んでつまみ出させますが、よろしいですか?」
これ以上居座れば、朝陽が本当に警備員を呼ぶであろうことは火を見るより明らかだった。安奈は深く息を吐き出すと、重要な私物を段ボール箱に詰め込み、背筋を伸ばして会社を後にした。
自宅に辿り着くや否や、彼女は迷うことなく書斎へと足を向けた。ドアに手をかけ、中へ押し入ろうとしたその瞬間、内側から逸人の、誰かと電話で話す声が漏れ聞こえてきた。
「逸人、まさか安奈と肌を重ねているうちに、本当に情でも移ったんじゃねえか」電話越しの人の声には、焦燥と苛立ちが混じっていた。
逸人は即座に、突き放すような冷たい声で返した。「そんなわけがないだろう」
「なあ、前回はあと一歩で成功ってところだったじゃねえか。なのになんでわざわざ助け出したんだよ?
今回だって、会社を乗っ取った後にあの動画をバラまいて、あいつを社会的に抹殺する手はずだっただろ。それなのに株を奪っただけで、動画の公開をいつまで渋ってんだ?」
逸人は沈黙したまま、手元でカチカチとライターを弄び続けている。安奈は知っている。それが、彼の苛立ちが頂点に達している時の癖だということを。
「最近笙子の墓参りにも行ってねえだろ。まさか、忘れたわけじゃねえだろな?」
ライターを回す指が、ぴたりと止まった。
「あの時、暴行を受けた後の笙子がどんな無残な姿だったか。彼女がどうやって死んでいったのか……まさか忘れたわけじゃねえよな?」
逸人は掠れた声で、絞り出すように言った。「……彼女は手首を切り、浴槽は溢れんばかりの血に染まっていた。俺はこの光景を、死ぬまで忘れることはない」
「忘れてねえならいいんだ。もうすぐ笙子の命日だ。当初の計画を忘れるんじゃねえぞ」
逸人は沈んだ声で短く応じた。「……分かっている」
安奈は抱えていた段ボールを強く握りしめ、音を立てずに寝室へと向かった。仮面のような無表情で、心の中で冷ややかに毒づく。逸人……いいわ、死ぬまで笙子を愛し続けていればいい。その完璧な演技で、いつか自分自身さえ騙してしまえばいいのよ。
二年間、共に眠り、互いの匂いが染み付いた寝室。安奈は段ボールを下ろすと、クローゼットの整理を始めた。この部屋に、自分の痕跡を一片たりとも残さないために。
電話を終えて出てきた逸人は、寝室の物音に気づき、顔色を変えて駆け込んできた。安奈の姿を認めるなり、その瞳に明らかな緊張が走る。「安奈?いつ帰ってきたんだ?」
安奈は視線すら上げず、衣類を無造作に放り出す手を止めなかった。「さっきよ」
逸人は目に見えて安堵の吐息を漏らすと、寝室へ歩み寄り、床に散乱した服を見て呆然とした。「安奈、どうしたんだ?なぜ服を床に放り出している?」
彼女は腕に抱えた衣類を、ゴミでも捨てるかのように床へ投げ捨てた。「これから先、もう袖を通す機会もないから。全部捨ててしまおうと思って」
逸人は一瞬、不可解そうに眉をひそめた。これらはすべて、最近彼が彼女のために買い揃えたばかりのものだったからだ。だが、最後にはいつものように、包み込むような甘い微笑を浮かべた。
「デザインが気に入らなかったのかな?分かったよ。二日後にまた新調しに行こう。クローゼットが溢れかえるくらい、君の好きな服で埋め尽くしてあげるからね」
安奈は自嘲気味に口角を上げたが、何も答えなかった。二日後にはもう、この世界に「私たち」という未来など存在しないのだから。
その後、逸人は甲斐甲斐しく、彼女の指示通りにクローゼットの中身をすべて運び出していった。
第7話
七日目、笙子の命日当日。
早朝、安奈は逸人の声で揺り起こされた。「安奈、起きるんだ。今日は大切なデートの日だろう?」
目を開けた安奈の瞳に、濁りはなかった。そこには寝起き特有の微睡みなどは欠片もなく、驚くほど澄み渡った意識だけが宿っている。彼女は静かに身支度を整えると、自らの「死」という幕引きを迎え入れるために車に乗り込んだ。
車は滑らかに走り出す。かつての幸せなデートの日々と何ら変わらない、穏やかな時間が流れていた。
十五分ほど経った頃、逸人のスマホが鳴った。彼は片手でハンドルを握ったまま、通話に出た。
「逸人、予定のコースを外れているぞ。さっきの交差点を曲がるべきだった」
ハンドルを握る逸人の手に、ぎりりと力がこもる。彼はすぐには答えず、ただ重苦しい沈黙だけが車内を支配した。
安奈はそのやり取りに息を詰め、膝の上のバッグを、指先が白くなるほど強く握りしめた。
やがて、電話越しの声がさらに低く、突き放すように響く。「逸人。笙子のことを忘れたのか?」
数秒の沈黙の後、逸人が答えるのが聞こえた。「……分かっている」
電話を切ると、彼は猛然とハンドルを切り、本来の目的地へと車を走らせた。安奈はそっと視線を落とした。胸の内は、すでに死の如き静寂に包まれていた。
車は一軒のレストランの前に停まった。客の姿はなく、どうやら貸し切りにされているようだった。
「安奈、ここは君が以前行きたいと言っていたレストランだ。ずっと忙しくて来られなかったけれど、今日ようやく連れてきてあげられたよ」
私が好んだレストランを、わざわざその顔を焼け爛れさせる処刑場に選んでくれたことに感謝すべきなのだろうか。安奈の瞳の奥に、鋭く冷徹な皮肉がよぎった。
給仕に導かれて個室へと向かう道すがら、他の個室はすべてドアが開け放たれていたが、隣の一室だけが固く閉ざされていた。安奈の眼光が暗く沈む。あの中に、逸斗が囚われているのだろうか。
この食事がまるで早送りの映像を見ているかのように、実感を伴わずに過ぎ去っていった。逸人もまた、明らかに心ここにあらずといった様子で、食事の途中で唐突に切り出した。「ちょっとお手洗いに行ってくるよ」
いよいよ始まると確信し、安奈は静かに頷いた。逸人は部屋を出ると、ドアを閉めた。
安奈は箸を置き、窓の外をじっと見つめながら、その時を待った。
五分後、ドアの隙間からもうもうと黒煙が漏れ出し、瞬く間に室内を埋め尽くした。
彼女は口と鼻を覆い、身を屈めてドアを開けようとしたが、外側から鍵が掛けられていることに気づいた。これほどの火勢、本当に「顔が焼け爛れる」程度で済ませるつもりなの?
彼女の瞳には、冷徹な皮肉と深い悲哀が滲んでいた。容赦なく黒煙が襲いかかり、視界は断続的に暗転していく。肺を突き刺すような苦しさに、彼女はその場に力なく膝をついた。
朦朧とする意識の中で、安奈はドアから最も遠い隅へと這い進み、入り口をじっと見つめていた。まるで、何かを待ちわびているかのように。
かつて拉致された際、死線の中からドアを蹴破って自分を救い出してくれたのは、他ならぬ逸人だった。あの時、彼は彼女を強く抱きしめ、こう誓ったのだ。「安奈、もう二度と、君をこんな危険な目に遭わせたりはしない」
燃え盛るドアが無残な音を立てて崩れ落ちた。ようやく視界が開けたその先に、かつてのように命を懸けて自分を救い出してくれるヒーローの姿はなかった。そこに広がっていたのは、ただ荒れ狂う火炎の舌。彼女の顔を焼き焦がさんばかりの、容赦ない熱風だけが吹き抜けていく。
瞳に宿っていた最後の光が、ふっと消えた。安奈は抗うのをやめ、ゆっくりと瞼を閉じた。
これでいい。
逸人、私たちはもう二度と、相まみえる必要はないのだから。
レストランの上空には、おぞましいほどの黒煙が激しく立ち昇っていた。逸人は友人たちと共に離れた場所に立ち、その光景を静かに見守っていた。
逸人は腕時計をじっと見つめていた。やがて分針が文字盤を半周したその時、彼はスマホを取り出し、火事を通報しようとした。隣にいた友人がすかさずその手を掴み、制止する。「逸人、何をするつもりだ?」
「三十分だ。これだけ時間が経てば、彼女の顔を焼け爛れさせるには十分だろう。火元に縛り付けておいた逸斗も、今頃はもう事切れているはずだ」逸人は友人の手を荒っぽく振り切ると、素早く電話をかけた。
通報を受けて消防隊がすぐに駆けつけ、消火活動は三十分ほど続いた。
廃墟の中から、消防員たちが白布を掛けられた担架を静かに運び出してきた。その布の隙間からは、無残にも炭化し、もはや人の形を留めていない遺体の輪郭が覗いていた。
逸人は、心臓を鋭く突き刺すような言い知れぬ不安に駆られ、なりふり構わず担架へと駆け寄った。「これ一人だけか?中に女がいたはずだ。もう一人の女はどこにいる!」
消防員は困惑した表情で彼を見た。「救出されたのは、このお一人だけです。あなたが仰っている女性なら、今この担架の上に横たわっている遺体のことでしょうが」
逸人は、頭上から雷撃を浴びせられたような衝撃に打ちのめされた。血の気が引き、凍りついた瞳で目の前の白布を凝視する。
「……何だと?」