都合のいい妻の終活、私の葬式へようこそ

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結婚して10年。私はいつも青木克哉(あおき かつや)の、専属の「後始末役」だった。 克哉がクラブでキスをするというスキャンダルを起こせば、...

Chương (1)

第1章

結婚して10年。私はいつも青木克哉(あおき かつや)の、専属の「後始末役」だった。 克哉がクラブでキスをするというスキャンダルを起こせば、私は相手は自分だと言い張った。そして、いかがわしい写真が流出すれば、それは夫婦のプライベート写真だと言い、彼が女性とホテルに三時間滞在していた時も、私はその時自分も部屋で台本を読んでいたと説明をした。 そのおかげで、私はネットで「芸能界一、健気な『追っかけ』妻」と笑われた。なにせ、いつも夫のスキャンダルのために、一生懸命尻拭いをしてきたわけだったから。 それは、克哉のスキャンダルが99回目にネットニュースのトップを飾るまで続いた。 今回に限って、私は何の後始末もしようとせず、ただ、SNSを更新しただけだった。 【みなさん、こんにちは。私の命はもうまもなく底をつきます。よければ、7日後のお葬式にでも、ぜひお越しください】 これで、私が克哉のために開く、最後の記者会見となるだろう。 第1話 結婚して10年。青木菖蒲(あおき あやめ)が青木克哉(あおき かつや)を愛して止まないということは、芸能界で誰もが知っていることだった。 それだけ、愛が深かったからこそ、彼女はたとえ、克哉が結婚しているにも関わらず数々の馬鹿げたスキャンダルを起こしても、何一つ嫌な顔をせず、後始末をしてきた。 例えば、克哉と小林綾(こばやし あや)がクラブでキスしているところを撮られた時、菖蒲はパパラッチのSNSの投稿を引用して、【克哉がキスしていた相手は私です】と投稿することで粉飾しようとした。 また、ある時、克哉と綾のいかがわしい写真が流出した時も、「プライベートな撮影をしていただけです」と菖蒲は記者に説明した。 さらに、克哉と綾が同じ部屋に3時間も二人きりでいた時は、「実はあの夜、私もその部屋にいました」と言ってのけた。 こうして、菖蒲は克哉が繰り返すスキャンダルの後始末をひたすら行ってきたのだった。 そして、世間から、最初は同情も買っていたが、いつしか「クズ男に尽くす追っかけなんて自業自得だ」と罵られるようになったのだ。 だが、こうした騒ぎが続く中、克哉と綾の話題が99回も世間を騒がせた時、いつもなら真っ先に夫をかばうはずの菖蒲が、何の反応も示さなかった。 そんな状況に、世間が驚いている矢先、菖蒲はSNSに一件の投稿をした。 【みなさん、こんにちは。私の命はもうまもなく底をつきます。よければ、7日後のお葬式にでも、ぜひお越しください】 …… その、投稿をし終えると、菖蒲はスマホをソファに放り投げた。 画面はまだ明るく、コメント欄は炎上していた。でも、彼女はそれを見る気にもならなかった。 その時、ドアが激しい音を立てて開けられた。 菖蒲がどうにか顔を上げて目線を向けると、入口に克哉がスマホを握りしめ、顔を怒りで歪ませながら立っているのだった。 そして、克哉は靴も脱がず、高価な手織りのウールカーペットの上を土足でずかずかと歩いてきた。 「菖蒲、また何かしようとしているのか?同情を引くためなら、そんなくだらない手まで使おうっていうのか?」 そう言われて、菖蒲はゆっくりと顔を上げ、克哉の怒りに満ちた視線を静かに受け止めた。 10年も愛してきたこの男の顔を見ていると、彼女はなんだか笑えてきた。 菖蒲と克哉は、古い団地で一緒に育った幼馴染だった。 内気でおとなしかった菖蒲は、よく他の子にいじめられていた。そんな時、いつも明るく朗らかな克哉が、ボロボロになりながらも菖蒲の前に立って守ってあげたのだ。 それから、16歳の時に菖蒲は両親が交通事故で亡くなったことで、彼女の世界が一変したのだった。 それは彼女にとって人生で一番つらい時期だった。そんな時、克哉は学校をサボって、葬儀場の隅でうずくまっていた菖蒲を見つけ出してあげると、彼は気の利いた慰めの言葉を言わず、ただ、手のぬくもりで少し溶けた飴を菖蒲の手に握らせた。そして言った。 「菖蒲、俺が大人になるまで待っててくれ。必ずお前を世界一幸せにするから」 その瞬間から、克哉は菖蒲の人生における、たった一筋の光となった。 それから、克哉は猛勉強の末、優秀な成績で、多くの名監督や俳優を輩出した業界でも名を轟かせていた大学に入学することができた。 こうして彼はただ地域だけで秀でていた学生から、芸能界のスターへと上り詰めたのだ。 そして、ついに主演男優賞を手にした日、克哉は2千万円の指輪を菖蒲に贈った。「菖蒲、お前を幸せにすると約束したよな。今日、やっとその約束が果たせる」 その時、嬉しさのあまり涙を流し、菖蒲は克哉から贈られた指輪をはめた。 自分は、この世界で一番幸せな人間なんだと思っていた。 しかし、結婚後に綾が現れてから、すべてが変わってしまった。 綾は、克哉が主演した大ヒットドラマのヒロインだった。落ち着いていて包容力のある菖蒲とは違い、綾は天真爛漫で、甘え上手だった。 それから克哉は菖蒲のことを「つまらない女」と言い、綾こそが「大切にすべき宝物」というようになったのだ。 綾といることで、克哉は菖蒲との間では感じられなかった情熱と新鮮さを味わった。 すると、味を占めた克哉は、夫としての一線を何度も越えた。 それでも菖蒲は、克哉はただの一時的な気の迷いだと思い、何度も彼を許してきた。 しかし、99回も克哉を許した末に、菖蒲は膵臓癌だと診断された。 それを知らされて、菖蒲もこの妥協することで成り立ってきた結婚生活に、うんざりするようになった。 「違うわ」そう言う菖蒲の声は、ため息のようにか弱かった。「本当に、もうすぐ死ぬの」 それを聞いて、克哉は、思わず言葉を詰まらせた。 そして、克哉は菖蒲の顔をじっと見つめた。すると、この10年で初めて気づいたかのように、彼女の左目の下にある小さな泣きぼくろが、真っ白な肌の上でやけに目立って見えた。 そう思っていると、克哉が持っていたスマホから、すすり泣く声が聞こえてきた。 「克哉さん、聞いてる?」 スピーカーから、綾の涙声が響く。「今、みんなが私を責めてる。『人の奥さんを追い詰めて殺そうとしてる』って。どうしたらいいの?新しいドラマがもうすぐ始まるのに、イメージが悪くなったら、違約金なんて払えないよ……」 その声は冷水のように、克哉の束の間の動揺を打ち消した。 克哉の表情は、再び硬いものに戻った。 「菖蒲、何を企んでいるか知らないが、今すぐ釈明しろ。昨日の夜、俺と一緒にいたのはお前で、お前が盛り上がって、窓際でやりたいと言い出したから撮られたんだと、そう言え」 その言葉を聞いて、菖蒲は力なく笑った。 「克哉、10年よ。あなたのスキャンダルを99回もみ消してきた。今回が百回目よ。もう、うんざりなの」 「お前っ!」克哉はカッとなって菖蒲の手首を掴んだ。しかし、その腕があまりに細く、力を入れたら折れてしまいそうなことに気づいて、ハッとした。 だが、彼はまたすぐにその考えを振り払った。「綾は悪くない。お前は彼女の人生をめちゃくちゃにする気か!」 「悪くない?」菖蒲は、まるでおかしな冗談でも聞いたかのようにその言葉を繰り返した。「じゃあ、私が着せられた濡れ衣は?誰が晴らしてくれるの?」 すると、電話の向こうで、綾の泣き声がさらに大きくなった。 「克哉さん、もういいの。菖蒲さんを困らせないで。私が悪いの、昨日の夜、克哉さんを引き留めたりしなければ……大丈夫、芸能界を引退するから。この街から出ていくから……」 「聞こえたか?」克哉は、歯ぎしりしながら言った。 「菖蒲、いつからそんなに根性の悪い女になったんだ?仮病で同情を買って、罪のない人間を巻き込むなんて」 菖蒲は、黙って克哉を見つめた。 かつては自分への愛で満ちていた克哉の瞳が、今では嫌悪と軽蔑の色しか宿していない。 「克哉、私たちの結婚記念日、覚えてる?」 そう言われて克哉は、その予想外の質問にぽかんとした。 「じゃあ、私の誕生日は?」菖蒲は続けた。 克哉は、やはり答えられなかった。 菖蒲は二、三度咳き込み、かすれた声で言った。「じゃあ質問を変えるわ。小林さんの誕生日はいつ?」 「4月18日だ」克哉は、ほとんど即答だった。 その答えを聞くと、菖蒲はただ黙って克哉を見つめるだけだった。 すると、克哉はなんだか追い詰められたようで急に苛立ちを募らせた。 「今さらそんなことを聞いて何になる?菖蒲、俺はもうお前を愛してないって言ったはずだ。いや、もしかしたら、最初から愛なんてなかったのかもしれない。確かに、俺たちは一緒に育った。でも、それが何だって言うんだ? 綾に出会って、俺は初めて、ときめくってことや、本当に人を好きになるってことが分かったんだ」 それを言われ、今度は、菖蒲が黙り込んだ。 片や克哉は菖蒲の前にずかずかと歩み寄り、彼女のスマホを奪い取った。 「お前が釈明しないなら、俺が代わりにしてやる」 克哉は慣れた手つきでロックを解除した。パスワードは、まだ二人の結婚記念日のままだった。どうやら頭では覚えていなくても、体では記憶しているようだった。 その事実に気づいたのか、克哉は一瞬手が止まったが、またすぐに操作を続けた。 菖蒲は止めなかった。いや、止める力もなかった。 数分後、克哉はスマホを菖蒲に投げ返し、冷たく言い放った。 「お前のアカウントで釈明しておいた。昨日の夜、窓際にいた女はお前だってな。それから、例の注目を集めるための投稿も消しておいたぞ」 菖蒲がスマホの画面に目を落とすと、案の定、自分の死を告げた投稿は消えていた。 代わりに投稿されていたのは、見慣れた釈明文だった。 【私には露出癖があります。だから、克哉に無理を言って、窓際であんなことをしてしまいました。私が悪いんです。どうか小林さんのことは誤解しないでください】 「露出癖」という三文字を見て、菖蒲の呼吸はだんだんと浅くなり、息が詰まるような感覚に襲われた。 「薬、克哉、薬を取って……」 克哉は顔色を変え、何の薬がどこにあるのかと聞こうとした。しかしその時、またスマホが鳴った。綾からのボイスメッセージだった。 「克哉さん、ありがとう。でも、まだすごく怖いの。会いに来てくれない?」 克哉はスマホと、苦しそうに息をする菖蒲の顔を交互に見たが、最終的には背を向けてドアに向かった。 「菖蒲、お前が演技が上手いのは知ってる。でも、そんな芝居はもうやめろ。くだらない」 彼はそう言って、ドアを乱暴に閉めた。 一方で残された、菖蒲はソファから転げ落ちた。荒い息をつきながら、必死に手を伸ばし、クッションの下からくしゃくしゃになった診断書を取り出す。そこに書かれた「膵臓癌、末期」という文字を見て、静かに笑った。 これでつまらない女といわれている自分も、もうすぐ克哉の視界から消えてなくなるのだ。 第2話 そう思って、菖蒲はゆっくりと体を起こし、テーブルの下の棚から銀色のライターを取り出した。 カチッと音を立てると、青い炎が診断書にたちまち燃え移り、紙は丸まりながら黒く焦げ、やがて一握りの灰になった。 まるで、燃え尽きた自分の10年間の愛のように。 それから、菖蒲は深く息を吸い、こみ上げてくる血の味をなんとか飲み込み、改めてスマホを手に取ると、画面には克哉が投稿した例の投稿が表示されたままだ。そのコメント欄は、ひどい言葉で埋め尽くされているのだった。 【キモ。菖蒲のヤツが本当の尻軽女だったとはね!】 【綾さんに謝れ!芸能界から消えろ!】 【独りよがりに尽くしても、思うようにならなかったのね!菖蒲のヤツ、ざまあみろ!克哉さん、早く離婚して!】 次々と増える悪質なコメントを眺めていても、菖蒲はもう痛みを感じなかった。心が廃れていくと、体も感覚を失うのかもしれない。 そう感じながら菖蒲は、ほとんど連絡を取ることのない番号に電話をかけた。 「陣内先生、すみませんが家まで来ていただけますか。遺言書を作成したいんです」 それから、弁護士の陣内浩平(じんない こうへい)はすぐに来てくれたが、彼は血の気もなく、まるで別人のように痩せこけた菖蒲の姿を見て、驚きを隠せないようだった。 記憶にある菖蒲は、いつも上品で落ち着いていた。どんなに大変な状況でも、気品を失わない人だったのに。どうしてこの数ヶ月で、こんなに死にそうなほど衰弱してしまったのだろうか。 「青木さん、あの……」 「私にはもう時間がありません、陣内先生」菖蒲は浩平の言葉を遮り、用意していた書類の草稿を渡した。 「私の個人資産はすべて、両親の遺産も、これまでの投資の利益も、私の名義になっているあの古い家の権利も、死後、すべて児童基金会に寄付します。問題がなければ、この通りに進めてください」 そう言われて、浩平はうなずいた。そして、何かを言いかけたとき、菖蒲の額に冷や汗がにじむのが見えた瞬間、彼が反応する間もなく、菖蒲は後ろへばったりと倒れ込んでしまったのだ。 菖蒲が再び目を開けると、そこは病院の白い天井だった。 「目が覚めたか?」克哉がベッドのそばに立っていた。そして、菖蒲を見下ろしながら、そう言う彼の声はひどく冷たかった。 「菖蒲、仮病を使うならもう少しマシな芝居をしろ。わざわざ病院に担ぎ込まれて、みんなの笑いものになりたいのか?」 菖蒲は何も言わなかった。 すると克哉は菖蒲のスマホを取り出し、ひどく苛立った口調で言った。 「お前の緊急連絡先から俺を外せ。今度からこういうことで、俺を呼び出すな。忙しいんだ」 「忙しい?」菖蒲の声は、病み上がりで弱々しかった。「小林さんの新作ドラマの稽古に付き合うのが忙しいの?それとも、彼女のスキャンダルの後始末が忙しいの?」 「お前には関係ないことだ」克哉は眉間にしわを寄せた。 「さっさと変更しろ。病院から電話なんて、縁起でもない」 その言葉を聞くと、菖蒲は自分のスマホを受け取った。そして、克哉の目の前で設定を開き、緊急連絡先の項目から「青木克哉」の名前を削除した。 菖蒲は顔を上げて克哉を見た。その瞳は、がらんどうのように虚ろだった。「これでいいでしょ」 克哉はその迷いのない手つきを見て、なぜか胸が詰まるのを感じた。しかし、その感情はすぐに苛立ちに変わった。 「お前はいつも物分かりがよくて助かるよ」 それから、病室は、静まり返った。 菖蒲は窓の外に揺れる木々の影を眺めながら、ふと、ぽつりとつぶやいた。それは克哉に問いかけているようでもあり、独り言のようでもあった。 「克哉、覚えてる?私の父と母の葬祭場で、あなたが言ってくれたこと」 すると、克哉は、はっと息をのんで固まった。 一方で菖蒲は顔を向け、初めてこれほどはっきりと克哉の顔を見つめたのだった。 「あなたはあの時こう言ったわ。『菖蒲、もしもいつか、お前を愛せなくなったり、裏切るようなことをしてしまったら、その時は俺に言ってほしい。お前の願いを三つ、なんでも叶えると約束する。そして、俺はお前の前から去る』って」 それを聞いて克哉は言葉を失ったように、口を開きかけたが、何も言えなかった。 「一つ目の願い」菖蒲は、克哉に考える時間を与えずに言った。 「私の地元に一緒に帰ってほしいの。今日、今すぐに」 克哉は眉をひそめた。「何を言ってるんだ?綾は俺がいないとダメなんだ、俺は……」 「どんな願いでもって、言ったわよね」菖蒲は克哉の言葉を遮った。 長い沈黙の後、克哉はついにゆっくりとうなずいた。「わかった」 地元まではそれほど遠くなく、高速を使えば2時間ほどの距離だ。 道中、二人の間に会話はなかった。 到着したあと、菖蒲が車のドアを開けて降りると、克哉も後に続いた。その間、彼の眉間に寄せられたしわは、ずっと消えないままだった。 一方で、菖蒲はあるマンションの前に置かれた石のベンチまで歩いていくと、そのざらざらした表面をそっと撫で、静かに言った。 「昔、あなたはいつもここに座ってたわね。私が学校を終えるのを待って、一緒にアイスを買いに行った」 克哉が菖蒲の視線の先を追うと、記憶の扉がほんの少し、こじ開けられたようで、ポニーテールの、いつも静かに自分の後ろをついてきた少女の姿が一瞬よぎったのだった。 しかし、その思い出はすぐに綾の明るく華やかな顔によって塗り替えられた。 「今さらそんな話をして、何の意味がある?」克哉は目をそらし、ぶっきらぼうに言った。 菖蒲は克哉を無視して歩き続け、ある壁の角で立ち止まった。 「ここで、私をいじめていた年上の子たちと喧嘩してくれたわね。おでこをケガして、血がたくさん出ていた」 克哉は無意識に額に手をやった。そこはもうすっかりきれいになっていて、傷跡一つ残っていなかった。 「菖蒲、いったい何がしたいんだ?」克哉はついに我慢できなくなり、問い詰めるような口調になった。「思い出に浸るつもりか?過去にすがりついて俺を縛り付けようったって、無駄だぞ!人は変わるんだ!」 菖蒲は立ち止まり、克哉を振り返った。その目はとても穏やかだった。 「あなたを縛り付けようなんて思ってないわ、克哉。 ただ、確かめにきただけ。かつて、私を幸せにすると言ったあの少年が、本当にもういなくなってしまったのかどうかをね」 第3話 それを聞いて、克哉はぐっと拳を握りしめた。しかし、菖蒲は彼に構うことなく話を続けた。 「10年間、私は無名だったあなたが成功するまでずっとそばにいた。マスコミの対応も、人間関係のやり取りも全部私が担ってきた。ワイヤーアクションの事故で崖から落ちたあなたを、捜索隊と一緒になって、私も飲まず食わずで3日間探し続けた。 あなたが見つかったとき、体はもう冷たくなっていた。病院では輸血が必要だって言われて、私はすぐに腕をまくって私の血を抜いてもらったの。大人が一度に献血できるのは400ccまでなのに、あの時一気に、私の血を900ccもあなたに輸血した。 それなのに、私が最後に手にしたのは、数えきれないほどの裏切りと、『疫病神』という言葉だった」 こうして菖蒲は一語一句言う度に、長い間息を整えなければならなかった。 それでも無表情なままの克哉を前に、菖蒲は自嘲気味に笑い、静かに言った。 「克哉、二つ目の願い。あなたと離婚させて」 その言葉を聞いた克哉は、鼻で笑うように言い放った。 「こんな大騒ぎして、結局はそれが目的か?いくら欲しい?俺の財産、何割よこせって言うんだ?」 菖蒲は落ち着いた表情だった。 「克哉、離婚しよう。私が欲しいのは、たった180円だけ」 その一瞬、あたりが静まり返った。 克哉は完全に固まってしまった。まるでその言葉が理解できないかのように。「なんだって?」 「180円よ」菖蒲ははっきりと繰り返した。その視線は克哉を通り抜け、10年前の、狭いけれど希望に満ちていた役所の窓口を見ているかのようだった。そこには、ちゃんとした服すら買えないほど貧しかった、菖蒲と克哉の姿があった。 「だって、あの時役所までの交通費が180円だったでしょ。私が出したのよ」 その言葉が終わると、まるで時が巻き戻ったかのようだった。 克哉の脳裏に、あの日の午後の陽射しがよぎった。若かりし頃の菖蒲が、顔を赤らめ、穴のあいた財布から、まだ温かい18枚の10円玉を大事そうに数えて出した。そして、振り返って、はにかみながらも明るい笑顔を自分に向けた。 克哉は突然喉を詰まらせた。かつてのあの18枚の10円玉に打撃されたかのようで、胸に一瞬、鈍い痛みを感じたのだった。 彼が何かを言おうとしたその時、遠くから甘ったるい声が聞こえてきた。 「克哉さん、小さい頃はこんなところに住んでいたの?」 綾がピンヒールで恐る恐るこちらへ歩いてくる。限定品のワンピースが、この古びた団地ではひどく浮いて見えた。 一方で、綾は眉をひそめながら、ハンカチでそっと口元を覆った。 「なんて古ぼけてるの。そこら中ほこりだらけだし、しかもなんだか変な匂いがする」 その言葉を聞くと、克哉はすぐに綾の前に立ち、庇うようにした。そして優しさあふれんばかりの声で言った。 「ごめん、俺が悪かった。先にちゃんと説明しておけばよかったな。車に戻って待っててくれるかい?」 「克哉、小林さんを連れてきたの?」菖蒲は信じられないといった様子だった。 克哉の目は一瞬泳いだが、すぐに冷たい表情に戻った。 「綾を一人にしておけなくて、一緒に来てもらった。離婚のことは、東都に帰ってから話そう」 菖蒲は頷くと、もう二人に目を向けることなく、慣れ親しんだあの古いマンションのほうへ歩き出した。 そして、階段を一段上がるごとに、体の奥からじくじくと痛みが伝わってくるのを感じたが、それでも彼女は気丈に振る舞ったのは、あの二人の前で倒れたくはなかったからだ。 それから、彼女がドアを開けると、陽の光の中をほこりが舞っていた。 リビングでは、すべての家具に白い布がかけられていた。テレビ台の上に置かれた菖蒲の両親、中村亮太(なかむら りょうた)と中村明里(なかむら あかり)の遺影だけが、むき出しのままだった。 一方で、綾は部屋に入るなりくしゃみをしたので、克哉はすぐに心配そうに尋ねた。「どうした?ほこりがひどいか?」 「大丈夫」綾は鼻をこすりながら、きょろきょろとあたりを見回し、最後にその視線は遺影に止まった。 「ずいぶん古い写真ね。誰なの、この人たち?」 そう言うと、綾はすでに写真立ての方へ歩いていき、手を伸ばした。 わざとだったのかは分からない。だが、綾の手が滑り、写真立ては「ガシャン」という音を立てて床に落ち、ガラスの破片が飛び散った。 そんな状況に菖蒲の顔が、一瞬で真っ青になった。 彼女はよろめきながら近づき、床にかがみこむと、震える手で色褪せた写真を拾い上げようとした。 しかし綾は、菖蒲の手の甲を、ピンヒールで容赦なく踏みつけた。 「ごめんなさい、菖蒲さん。わざとじゃなかったの」 菖蒲の手のひらはガラスの破片に押し付けられ、たちまち血まみれになった。 すると、痛みに耐えかねた菖蒲はありったけの力で綾を突き飛ばし、血のついたその手で平手打ちをしようと振り上げた。 だが、菖蒲が綾に触れる前に、克哉が先に彼女の手首を固く掴んだ。 そして、克哉は冷たい顔で、菖蒲を警告するように睨みつけた。 「綾に指一本でも触れてみろ。死んだ人間の写真一枚で、そんなに大げさにすることはないだろ」 「死んだ人間の写真?」菖蒲は静かに繰り返した。 「克哉、これは私の親よ!二人がどうして死んだか、覚えてる?」 克哉は眉をひそめた。菖蒲がなぜまたその話を持ち出すのか、明らかに理解できていない様子だった。 「急にどうしたんだ?」 「交通事故よ」菖蒲はまるで他人事を語るように、独り言のように続けた。 「相手の飲酒運転で、全面的にむこうが悪かった。救急車は本来15分で着くはずだったのに、あの道が狭くてボロボロだったから、途中で動けなくなって、結局40分も遅れたの」 菖蒲は窓辺に歩み寄り、外のでこぼこ道を指さした。 「そこの道よ。10年前、あなたは泣き崩れて気を失いそうだった私を抱きしめて、あの道を指さして言ったわ。『菖蒲、俺が将来金持ちになったら、真っ先にこの道を直しにくる。広くて平らにして、もう二度と救急車が遅れることのないようにする』って」 克哉は菖蒲が指さす方を見た。しかし、目にするその道は今も昔のまま荒れ果てており、10年前よりもさらにひどくなっていた。 それを見て、克哉の喉がごくりと動いたが、何も言わなかった。 その時、綾が悲鳴を上げた。「私の靴!」 綾が足を持ち上げると、靴の裏はほこりとガラス片で汚れ、表面にもはっきりと傷がついていた。 「これ、限定品なのよ。一回しか履いてないのに!」 その言葉を聞くと、克哉はすぐにかがんで、綾のハイヒールについたほこりを拭ってやった。 菖蒲はその光景をみて、ただ皮肉に思うだけだった。かつての甘い愛の誓いは、今となっては新しい彼女の靴先のほこりにも敵わないんだな。 そう思って、菖蒲は笑いながら、咳き込み始めた。 最初は軽い咳だったのが、やがてむせ返すかのような激しい咳に変わっていった。 そしてついに、克哉と綾が驚きに見開く目の前で、菖蒲は、ごぼりと血を吐き出した。 第4話 すると血が飛び散り、ほこりだらけのコンクリートの床に、痛々しいほどの赤い花を咲かせた。 それを見て、綾の靴を拭いていた克哉の手が、ぴたりと止まった。 綾は驚いて一歩後ずさり、口元を覆った。「菖蒲さん……」 菖蒲は手の甲で口元の血をぬぐい、弱々しい笑みを浮かべた。 「小林さんを驚かせちゃった?ごめんなさい、最近ちょっと体調が悪くて」 一方で、克哉もすっと立ち上がり、眉をきつく寄せた。「一体どうしたんだ?」 「たいしたことじゃないわ」菖蒲は静かに首を振り、再び窓の外の寂れた小道に目を向けた。 「克哉、三つ目の願いは……」 「もういい」克哉は突然菖蒲の言葉を遮った。その声には、自分でも気づかないほどの焦りが含まれていた。「お前のわけのわからない願いには、もう付き合いきれない。東都に帰るぞ。離婚のことは弁護士から連絡させる。たった180円だと?馬鹿にしてるのか?」 「馬鹿にしてる?」菖蒲の瞳にようやく、かすかな感情の波が立った。「克哉、あなたはこれを、侮辱だと思うの?」 菖蒲はゆっくりと克哉に近づいた。手のひらの傷からはまだ血が滲み、一滴、また一滴と落ちていく。 「親が亡くなった後、残してくれたわずかなお金と、私がバイトを三つ掛け持ちして貯めたお金で、あなたを養成所に通わせた。あの頃、地下室で一緒に暮らし、一番安いカップ麺を食べたりしたわね。 あなたの初舞台の衣装も、父の古いスーツを私が徹夜で手直しをしたものよ。そして、あなたが初めて賞をもらった時だって、会場で手が真っ赤になるまで拍手していたのは、私だけだったわ」 菖蒲は克哉の目の前に立ち、静かに告げた。 「それなのに、180円を侮辱だと言うの?じゃあ聞くけど、大物俳優のあなたにとって、何なら侮辱にならないの?あなたの財産の半分を奪うこと?それともあなたの恩知らずな本性を世間にばらすこと?まさか、この小林さんのように……」 菖蒲の視線が綾をちらりと捉えた。「他人の真心と尊厳を踏み台にして、欲しい地位を手に入れること?」 それを言われて克哉の顔色が一気に険しくなった。 でも菖蒲は全く気づかないふりをして、一語一句はっきりと告げた。 「三つ目の願い。五日後、すべての人にあなた自身の口から伝えてほしいの。『菖蒲を一度も愛したことはない。10年前の結婚はただの取引で、利用しただけだった』って。そして、『綾こそが、唯一の真実の愛の相手だ』と」 すると、それを聞いた克哉はぽかんとした。 一方で綾の目には一瞬、歓喜の色が浮かんだ。だが、彼女はすぐにそれを隠して心配そうな表情を見せた。 「克哉さん、菖蒲さんの言うことなんか聞いちゃダメ。きっとかっとなって、わけがわからなくなってるのよ……」 「わけなら、ちゃんとわかってるわ」菖蒲は綾の言葉を遮り、視線を克哉に向けたまま動かさなかった。 「これが最後の願い。これを叶えてくれたら、きれいさっぱり別れてあげる。これからは、あなたは雲の上の大物俳優で、私は世間から叩かれるただの女。あなたとは、もう何の関係もなくなるの」 その言葉に克哉の呼吸が荒くなった。 そして、長い沈黙の後、克哉は自分が冷たく言うのを聞いた。「わかった、約束する」 「ありがとう」と菖蒲は言った。 それから、菖蒲はもう二人を見ようとせず、かつての自分の部屋に向かって歩き出した。「明日の朝早く東都に帰るから。今は、もう出て行って」 一方で、克哉は菖蒲のよろめく後ろ姿を見つめていると、なぜか、急に心が乱れるのを感じた。 いつの間に、彼女はあんなに痩せてしまったんだ? しかしそう思っても、克哉は追いかけることなく、綾を連れてその場を去った。 翌朝早く、菖蒲の家のドアがノックされた。 克哉と綾だと思い、深く考えずにドアを開けた。 次の瞬間、生臭い液体が顔めがけて浴びせられた。 「死ね、このクソ女!私たちの克哉さんをいじめるんじゃないわよ!」 「芸能界から消えろ!この世からいなくなれ!」 「ババア!ブス!さっさと克哉さんと離婚しなさいよ!」 ドアの前には、17、18歳くらいにしか見えない女性が三人立っていて、手には空のプラスチック容器を持っていた。 そして、その刺激臭のする赤いペンキが、菖蒲の髪や顔から滴り落ち、真っ白な部屋着を赤く染めていった。 女性たちの後ろには、スマホで撮影している数人がいて、口々に罵声を浴びせ続けていた。 菖蒲は液体を浴びてよろめき、ドアの枠に手をついてようやく体勢を立て直した。 ペンキが目にしみて痛い。なんとか目を開け、若く歪んだ顔を見た。 「あなたたち……」菖蒲の声はかすれていた。 「何よ?」先頭にいたショートヘアの女性が一歩前に出て、菖蒲を乱暴に突き飛ばした。そして、ふてぶてしく言い放った。 「世のため人のために害虫駆除してんのよ!あんたみたいに結婚を盾に男に寄生する虫は、とっくに消えるべきなの!」 ただでさえ衰弱していた菖蒲は、この一突きで、なすすべもなく後ろに倒れ込んでしまった。 後頭部を玄関の棚の角に打ちつけ、鈍い音が響いた。そして激しい痛みが走り、彼女の目の前がだんだん暗くなっていったのだ。 それでも女性たちは容赦なく家の中に押し入り、床に倒れた菖蒲を撮影し始めた。 「みんな見て、これが噂の恥知らずな青木菖蒲って女よ!」 「かわいそうなフリしてんじゃないわよ!起きなさいよ!」 中の一人が足を上げ、菖蒲を蹴ろうとさえした。 だが、その時、「やめろ!」ドアの方から怒号が響いた。いつの間にか克哉がそこに立っており、その顔は凄まじい形相だった。 そして、克哉は、床で赤いペンキにまみれたその姿を見つめたまま、歯を食いしばりながら一言絞り出した。 「消えろ!」 これまでに見たことのない克哉の恐ろしい形相に、女性たちは顔を真っ青にして、慌てて逃げ出した。 克哉は一歩ずつ菖蒲のそばに歩み寄り、身をかがめた。刺激臭のするペンキの匂いが鼻をつき、その中にほのかに血の匂いも混じっていた。 それに気づき、克哉は伸ばした手を空中で止め、菖蒲に触れることをためらった。 「菖蒲?」克哉はそっと呼びかけた。 返事はなかった。 克哉は心臓が止まるかと思った。手を伸ばし、おそるおそる菖蒲の体を仰向けにした。 ペンキで菖蒲の顔はすっかり覆われていたのだった。それを見た、克哉は自分の袖で、菖蒲の目の周りの赤い液体を少しずつ拭き取った。 すると、菖蒲はまつ毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。 だが、視線が交わった瞬間、菖蒲はあざけるように笑った。 「克哉、何の芝居?さっきの人たちは、あなたがやりたくてもできなかったことを代わりにやってくれただけじゃない」 第5話 図星を指され、克哉は気まずそうに顔を歪めた。 「何をわけの分からないことを言ってるんだ?」 菖蒲はなんとか地面に手をついて立ち上がったが、動くたびに、後頭部の痛みはどんどんひどくなった。 それでも菖蒲は克哉を見つめ、一言一言、力を込めて話し始めた。 「この10年、あなたがファンをけしかけたこと、一度や二度じゃないでしょ。私の撮影場所をリークして、唾を吐かせたり、汚い物を投げつけさせたり。わざと私の両親のお墓の場所をバラして荒らさせて、最後には、遺骨までめちゃくちゃにされたわ。 克哉、私はバカじゃない。ただ、昔はあなたのことを愛しすぎていただけなの」 克哉はきょとんとした。 菖蒲は激しい痛みをこらえ、あざけるように言った。 「私が死んだら、あなたは嬉しいんでしょ?だって『離婚より死別の方が聞こえがいい』って言ってたもの。だから今更、助けに来たふりなんてしないでよ。私がそれであなたに感謝するとでも思ったの?」 最後の仮面が無情にも引き剥がされた。かつて愛し合った二人の間には、痛々しい傷跡しか残っていなかった。 克哉は何も言わなかった。 一方、菖蒲は克哉に背を向け、バスルームへと向かった。再び彼に目を向けることはなかった。 「ちょっと洗ってくる。大物俳優のあなたはお忙しいでしょから、離婚の時間を遅らせたりはしないわ。ご心配なく」 克哉はその場に立ち尽くしていた。バスルームから聞こえるシャワーの音を聞きながら、袖についた赤いペンキを見つめる。その瞳には、深く複雑な色が浮かんでいた。 しばらくして、水の音が止んだ。 菖蒲が出てきた。その声は、何の感情も感じられないほど平坦だった。 「行こう。この道を二人で歩くのも、これで最後になるわね」 …… 3時間後、東都の役所の前。 菖蒲は、自分が克哉と離婚する時に、綾が付き添うことになるなんて、思いもしなかった。 手続きは事前に済んでいたためか、驚くほど早く進んだ。 だが、サインをする菖蒲の手は、かすかに震えていた。 名残惜しいからではない。体の痛みが、もう限界に達していたからだ。 菖蒲は歯を食いしばり、一文字ずつ丁寧に自分の名前を書き記した。 克哉は、菖蒲の血の気のない横顔と額ににじむ冷や汗を見て、思わず口を開いた。 「お前……」 「青木さん、署名をお願いします」と、職員が促した。 克哉は視線を戻し、すぐに自分の名前を書き込んだ。 こうして、二人の離婚は正式に成立した。 菖蒲は自分の分の受理証明書を受け取ったが、その指先は氷のように冷え切っていた。 終わったんだ。 10年の結婚生活、10年の献身、そして10年間の愛憎。その全てが、この薄っぺらい紙切れ一枚に集約されてしまった。 役所を出ると、太陽の光が目に染みた。 綾はわざと克哉の隣を歩き、彼にぴたりと寄り添いながら、笑顔で顔を見上げて言った。 「克哉さん、今夜お祝いしない?新しくできたフレンチレストランがあるんだけど……」 「克哉」と、菖蒲が突然声をかけた。 二人は足を止め、菖蒲の方を振り返った。 菖蒲はバッグから古びたベルベットの小箱を取り出し、克哉の前に進み出て、それを差し出した。 「これは何だ?」克哉は受け取らなかった。 「昔あなたにもらったエンゲージリングよ」菖蒲が箱を開けると、中にはシンプルなデザインの指輪があった。それは長い年月で削られ、輝きが少し曇っているものだった。 「あなたにお返しするのが一番いいと思って。だって……」 菖蒲は綾に視線を移し、血の気のない皮肉な笑みを浮かべた。「小林さんは、あなたが私とお揃いの指輪をしているのなんて、見たくないでしょから」 それを聞いて、綾の表情が途端に険しくなった。 一方で「持っておけ」克哉はそう言って顔をそむけた。だが、「いらないよ」菖蒲は克哉の手をつかむと、その掌に箱を無理やり押し付けた。 指先が触れた瞬間、菖蒲の体が異常なほど冷たいことに克哉は気づいた。 「汚れたものは……」菖蒲は手を引き、静かに言った。「捨てるべきよ」 その言葉を聞いて、綾は頷くと、克哉の手から指輪の箱を奪い取って、近くのゴミ箱に投げ捨てた。 「菖蒲さんの言う通りね。でも、そんなガラクタを10年も大事にしてたなんて、菖蒲さんくらいよ。克哉さんはとっくに気にもしてなかったんだから。もう離婚したんだし、私が代わりに捨ててあげる。構わないでしょ、菖蒲さん?」 「ええ、もちろんよ」菖蒲はかすかに微笑んだ。 しかし、綾はそれでも満足せず、克哉の方を向いて甘えるように言った。 「克哉さん、菖蒲さんのためにヌードシーンの代役契約にサインしたこと、まだ話してないでしょ?今、教えてあげたらどう?」 「ヌードシーンの代役契約?」菖蒲は信じられないというように克哉を見た。 「ええ。数日前にね。克哉さんが、私がカメラの前で肌を晒すのを嫌がったのよ。十数人もの男優さんとの絡みのシーン、克哉さんが私にやらせるわけないでしょ? それに、菖蒲さん、最近仕事がなくて困ってるって聞いたから。ちょうどよかったじゃない……」 「黙って!」菖蒲は目を真っ赤にして克哉を睨みつけた。その声は震えていた。 「克哉、あなたにだけ聞くわ。本当に、私にヌードシーンを撮らせるつもりだったの?」 克哉は、菖蒲の充血した瞳と、綾の若く美しい顔を交互に見て、歯を食いしばって言った。 「ああ。だが……」 克哉の言葉が終わる前に、菖蒲は高く振り上げた手で、克哉の頬を思い切り叩いた。 パシンッ、と乾いた音が響き、辺りは静まり返った。 第6話 役所の前で、乾いた平手打ちの音が響き渡った。 殴られた衝撃で克哉の顔は横を向き、左の頬がみるみる赤く腫れ上がった。 克哉はその場に凍りつき、信じられないという表情で目を見開いていた。 この10年、菖蒲は彼に一度も声を荒らげたことがなかった。ましてや手を上げるなんて、ありえないことだ。一体どうして? そこへ綾が悲鳴を上げて駆け寄ってきた。「克哉さん、大丈夫?」 綾は心配そうに克哉の頬を撫でると、向き直って菖蒲を睨みつけた。 「頭おかしいんじゃないの?」 菖蒲の手はまだ小刻みに震えていた。でもそれは後悔からじゃない。痛みと怒りが入り混じったせいで、体が勝手に反応しているだけだ。 菖蒲は目の前の二人をまっすぐ見つめた。その眼差しは氷のように冷ややかだった。 「頭がおかしいのはそっちでしう。克哉、あなたがここまで恥知らずな人間だとは思わなかったわ」 それを聞いた綾はすぐに警察に通報した。「人前で殴るなんて立派な犯罪よ。克哉さん、絶対にこのままにしちゃダメ。あなたは有名人なのよ。もし誰かに動画でも撮られて、元妻からDVされてるなんて広まったらどうするの……」 克哉は、そんな綾を止めようとしなかった。 二十分後、警察署の一室。 綾は克哉に寄り添うように座り、甘ったるい声を出した。 「おまわりさん、見てください。克哉さんの顔、まだこんなに赤いんですよ。これは立派な傷害事件です。法律に従って、ちゃんと罰してほしいです」 中年の警察官が菖蒲に尋ねた。「殴ったことは認めますか?」 「はい、認めます」菖蒲は落ち着いた声で答えた。 「どうして殴ったんですか?」 菖蒲は顔を上げ、克哉と綾に目をやり、ふっと鼻で笑った。 「この人は、殴られて当然だからです」 綾がすぐに立ち上がった。「おまわりさん、聞きましたか?まったく反省してないんですよ!こんな人は留置場に入れるべきです!」 警察官は眉をひそめた。「菖蒲さん、あなたが謝って、相手の方が許してくれれば……」 「謝らないし、許してもらう必要もありません」菖蒲は話を遮った。「捕まる方がましです」 それを聞いて、克哉が不意に口を開いた。 「実はもう一つ、選択肢がある」 菖蒲は無表情のまま、克哉に視線を向けた。 「契約通りなら、お前は今日の午後には撮影に参加するはずだ」克哉の声には感情がこもっていなかった。 「もし今から契約通り撮影に来るなら、この平手打ちのことは水に流してやってもいい。それに、お前の両親の墓や実家を荒らすような真似も二度とさせないと約束しよう」 「克哉さん!」綾が不満そうな声をあげた。 克哉は手で綾を制すると、視線を菖蒲に固定したまま言った。「選べ。留置場か、撮影現場か」 菖蒲は、克哉が思わず目を逸らしそうになるほど、長い時間、彼をじっと見つめていた。 「撮影現場に」菖蒲はついにそう答えた。 克哉の胸が、なぜかチクりと痛んだ。だがすぐにその奇妙な感覚を押し殺し、警察に頷いてみせた。 「告訴は取り下げます」 綾は信じられないという顔で克哉を見た。「克哉さん、このまま許すの?あなたを殴ったのよ!」 「行くぞ」克哉は立ち上がり、菖蒲を見下ろした。 「今日の午後3時だ。遅れるな。さもないと、お前は到底払えない額の違約金を請求されることになる」 それを聞いて菖蒲の体は、ぴくりとこわばった。 そして、警察署を出る前、綾が菖蒲の耳元に顔を寄せて、囁いた。 「克哉さんがどうして許してくれたか分かる?このあと撮影現場で、あんたにたっぷりお返しをするつもりだからよ。そうそう、共演する男優たち、みんな大物俳優の元奥さんと絡めるって聞いて、すごく……興奮して楽しみにしてるみたい」 午後2時50分、撮影現場。 菖蒲は二人のスタッフに、まるで連行されるようにスタジオへ連れてこられた。 そこは、古びた安宿の一室のように飾り付けられていた。壁には暗い赤色のカーテンがかかり、部屋の中央には汚れたベッドが一つ。そして、あたりには無数のカメラが設置されていた。 何より菖蒲を息苦しくさせたのは、部屋の中にすでに5人の上半身裸の男優たちが立っていたことだ。 彼らは、遠慮のない視線で菖蒲の体をなめ回すように見ていた。 克哉はモニターの後ろに座っていた。ダークスーツに身を包んだその姿は、この汚い部屋の雰囲気とは全く不釣り合いだった。 克哉は台本に目を落としたまま、顔も上げずに言った。「着替えさせろ」 女性スタッフの一人が、ほとんど透けているような薄い衣装を持って菖蒲に近づいた。 「こんなものは着ません」菖蒲は一歩後ずさった。 克哉は立ち上がり、一歩一歩、菖蒲に近づくと、彼女の胸ぐらを掴んで冷たく言い放った。 「お前に拒否権はない!」 ビリッ、薄いシャツが乱暴に引き裂かれ、ボタンが床に弾け飛んだ。 菖蒲は悲鳴をあげ、とっさに両手で胸元を隠した。 「克哉、やめて!」 「やめる?」克哉は鼻で笑い、さらに菖蒲の服を引き裂いた。「菖蒲、今さら綺麗事を言うな。ここに来ると決めた時点で、こうなることは分かっていただろう?」 こうして、静まり返ったスタジオに、布が裂ける音がやけに響いた。 菖蒲は歯を食いしばってもがいたが、弱りきった体では克哉に敵うはずもなかった。 まもなく、菖蒲は克哉によって汚れたベッドの上に突き飛ばされた。 克哉の合図で、広いスタジオは一瞬にして暗闇に包まれた。 荒い息遣いがだんだんと近づいてくる。菖蒲は、無数の手が自分の体に触れてくるのを感じた。誰かに顎を掴まれ、赤く光るカメラの方へと無理やり顔を向けさせられる。 克哉が高画質の暗視カメラを近づけようとした、その時。ふいに、強い血の匂いが漂ってきた。 続いて、男優の一人が恐怖に満ちた声で叫んだ。 「大変だ、人が死んだぞ!」 第7話 その瞬間、照明が一斉に灯された。眩しい光の中で、克哉は思わず目を細めた。 菖蒲は薄汚れたシーツの上に横たわっていた。顔は血の気がなく、真っ青だった。口の端からは血が流れ、彼女の周りにはおびただしい量の血だまりができていた。 すると、ベッドのそばでは、男優の一人が股間を押さえ、苦痛に顔を歪めている。 「こいつ……俺に噛みつきやがって!そのあと急に血を吐き始めたんだ!どうなってんのか、さっぱりわからねえ!一発ヤれると思ったのによ、とんだ災難だぜ、まったく!」 その言葉を聞いて、克哉は眉をひそめ、不快感を露わにした。 しかし何も言わず、ただアシスタントに菖蒲に服を着せるよう指示し、救急車を呼ぶよう電話をかけただけだった。 しばらくして、病院の救急処置室の外で、克哉は長椅子に座っていて、手には、乾いてこびりついた血痕が残っているのだった。 それは、医者に手伝いを頼まれた時に、うっかり触れてしまったものだった。 そこへ、菖蒲のマネージャーである夏川杏(なつかわ あん)が慌てて駆けつけた。杏は克哉の顔を見るなり、無言で思いきり平手打ちを見舞った。 「克哉さん、この人でなし!どうして菖蒲にあんな酷いことができるんですか?菖蒲がどれだけ……」 彼女がそう言いかけていると、「杏さん、もうやめて。克哉には帰ってもらって」か細い声が、救急処置室のドアの向こうから聞こえた。 そして、看護師がストレッチャーを押して出てきた。その上には、血の気のない真っ青な顔をした菖蒲が横たわっていた。 菖蒲はうっすらと目を開け、虚ろな瞳で克哉を見つめていた。 「克哉、もう帰って」 その言葉に、杏はベッドに駆け寄り、目を赤くしながら言った。「菖蒲、どうして?」 一方、克哉は立ち上がり、拳を握りしめて言った。「菖蒲、これもお前の芝居か?」 「克哉さん!」そこへ綾が駆けつけ、克哉の腕に自分の腕を絡めた。「外に記者がたくさん来ている!誰かが情報を漏らしたみたいで、今、ネット中が菖蒲さんが私のヌードの代役だったってことで持ちきりよ!今日の撮影現場でのことも、全部暴露されて!」 克哉の表情が険しくなる。彼は菖蒲をさらに冷たい目で見つめた。「お前がやったのか?」 菖蒲は目を閉じ、何も答えようとしなかった。 「菖蒲さんがやったかどうかはともかく、今はまずこの一件を解決するのが先決よ」綾は必死に訴えた。「克哉さんは有名人なんだから、こんなスキャンダルでイメージを傷つけるわけにはいかない。菖蒲さんに外へ出て、すべて誤解だったと説明させないと!」 杏は怒りで全身を震わせた。「あなたたち、それでも人間なんですか?菖蒲がどんな状態か、見てわからないのですか!」 克哉はベッドに歩み寄り、菖蒲を見下ろしながら言った。「立て。記者の前に出て説明しろ」 「克哉さん、菖蒲、さっきやっと峠を越したのですよ!」杏がベッドの前に立ちはだかった。 だが、「立てと言っている」克哉はそう言って、菖蒲の腕を掴もうと手を伸ばした。 その瞬間、菖蒲はまたもや激しく咳き込み、口の端から溢れ出る血に、真っ白なシーツはみるみるうちに赤く染まった。 すると、看護師が慌てて駆け寄ったが、克哉に突き飛ばされてしまった。 「いつまで芝居を続ける気だ?」克哉の声は極めて冷酷だった。「今日、お前は外に出て釈明するんだ。さもなければ、以前約束したことはすべて覆してやるからな。俺を本気で怒らせたらどうなるか、知ってるだろう」 その言葉を聞いて、菖蒲は力なく笑った。「ええ、わかったわ。行くよ」 その頃、病院の玄関にはすでに大勢の記者が詰めかけ、無数のカメラが出口に向けられていた。 克哉が、衰弱しきった菖蒲を半ば引きずるようにして姿を現すと、夥しいフラッシュが一斉に焚かれた。 菖蒲はまともに立っていることすらできず、克哉の腕に全体重を預けていた。 「青木さん、菖蒲さんと本当に離婚されたというのは事実ですか?」 「菖蒲さんに、小林さんのヌードシーンの代役を強要したという話は本当ですか?」 克哉はアシスタントからマイクを受け取ると、無表情に口を開いた。「メディアの皆様、ご関心をお寄せいただき感謝します。本日、俺たちの婚姻関係が終了したことを、正式にご報告いたします」 克哉は一度言葉を切り、腕に支えられた体が微かに震えるのを感じた。 「離婚の理由は、菖蒲が長年のセックス依存症であり、この10年もの間、その事実を隠し続け、裏で様々な男性と関係を持っていたためです。これが、この結婚生活を破綻させた原因です」 その言葉に、会場は騒然となった。記者たちの質問の矛先は、一斉に菖蒲へと向けられた。 「菖蒲さん、本当にそんなに男好きなんですか?」 菖蒲の体はぐらりとよろめいた。何かを言おうと口を開いたが、喉から出たのはかすれた息の音だけだった。 すると、群衆がざわめき始め、誰かが菖蒲を突き飛ばした。 「土下座して謝れ! 克哉さんを騙して、裏切るなんて、恥知らずめ!」 菖蒲は膝から崩れ落ち、その場に倒れこんだ。 混乱の中、誰かの平手が菖蒲の顔を打ち、乾いた音が騒音の中に鋭く響き渡った。 「もうやめてください!」杏が菖蒲を庇おうと飛び出したが、警備員に阻まれてしまった。 克哉はその場に立ち尽くし、菖蒲がボロ切れのように突き飛ばされ、辱められるのを眺めながら、胸の内に得体の知れない苛立ちがこみ上げてくるのを感じていた。 ふと見ると、菖蒲が顔を上げ、人々の隙間から自分のことを見ていた。その眼差しは、恐ろしいほどに穏やかだった。 そして菖蒲は、口の端に血を滲ませたまま、ふっと笑い、声もなく何かを言った。 10年を共に過ごしたからだろうか。克哉には、菖蒲の唇の動きが読み取れた。菖蒲はこう言ったのだ。「克哉、あなたは後悔するわ」と。 その後の3日間、菖蒲はずっと集中治療室で過ごした。 膵臓がんが急速に全身へ転移し、危篤通知は何度も出され、医者は即刻手術が必要だと言うが、それには家族の署名が必要だった。 そこで、仕方なく杏は震える手で、克哉の電話番号をタップした。 長いコール音の後、ようやく電話が繋がったが、聞こえてきたのは克哉の声ではなかった。 「どなた?」綾の甘ったるい声がした。 「克哉さんをお願いします、急用です!」杏は切羽詰まった声で言った。 「克哉さんは今、忙しいんです。結婚式場を選んでいるところなんですよ」綾はクスクスと笑った。「ここがいいかな。3週間後の聖ペテロ教会は?克哉さんはどう思う?」 すると、電話の向こうから、克哉の低い声がかすかに聞こえた。「お前が好きなところでいい」 「克哉さん!」杏は受話器に向かって叫んだ。「菖蒲が危篤なんです!手術のサインが必要なんですよ!早く病院に来てください!」 しばしの沈黙の後、再び綾の声が響いた。「夏川さん、克哉さんが言っています。『もう菖蒲とは何の関係もないから、そういうことは彼女の家族に頼んでくれ』と」 「菖蒲に家族なんて、もういないじゃないですか?克哉さん、あなたって……」 電話は、一方的に切られた。 杏は力なくその場にへたり込み、涙で視界がぼやけていった。 杏は知らなかった。その瞬間、集中治療室のベッドの上で、菖蒲が最後の力を振り絞り、SNSの送信ボタンを押したことを。 一つ目の投稿は、末期の膵臓がんの診断書だった。 二つ目は、克哉と綾の、10年間にわたる不倫の証拠。 三つ目は、一本の録音データ。そこには克哉の冷たい声がはっきりと残されていた。 「菖蒲と結婚したのは、若気の至りというか、責任感からだ。あいつは両親がいないし、俺以外に引き取り手なんていなかったからな。だから、今回あいつがお前の代わりにヌードシーンをやり終えたら、さっさと捨てて、お前と結婚するさ」 そして最後の投稿には、ただ二文字だけが記されていた。【訃告】 添えられていたのは、一枚の、菖蒲の遺影だった。