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願いは秋風と共に
久藤悠真(くどう ゆうま)の婚約者と、小林紗帆(こばやし さほ)が同時に拉致された。 悠真が駆けつけると、犯人は彼に残酷な選択を迫った。 ...
Chương (1)
第1章
久藤悠真(くどう ゆうま)の婚約者と、小林紗帆(こばやし さほ)が同時に拉致された。
悠真が駆けつけると、犯人は彼に残酷な選択を迫った。
「久藤社長、選べるのは一人だけ。喘息を起こしている婚約者と、妊娠中の元妻。どっちを取る?」
次の瞬間、悠真の怒号が工場に響き渡った。
「紗帆に手を出したら......お前ら全員、生きて帰れると思うな!」
だが、犯人たちはその脅しに怯まない。
返ってきたのは同じ質問だった。
張りつめた静寂が落ちる。
そして、悠真はついに口を開いた。
「......江島時雨(えしま しぐれ)だ」
第1話
久藤悠真(くどう ゆうま)の婚約者と、小林紗帆(こばやし さほ)が同時に拉致された。
悠真が駆けつけると、犯人は彼に残酷な選択を迫った。
「久藤社長、選べるのは二人だけ。喘息を起こしている婚約者と、妊娠中の元妻。どっちを取る?」
紗帆は、淡い期待を込めて悠真を見つめていた。
彼の仕事のために一時的に離れて暮らしていただけで、自分の立ち位置を疑ったことは一度もない。
次の瞬間、悠真の怒号が工場に響き渡った。
「紗帆に手を出したら......お前ら全員生きて帰れると思うな!」
だが、犯人たちはその脅しに怯まない。
返ってきたのは同じ質問だった。
張りつめた静寂が落ちる。
そして、悠真はついに口を開いた。
「......江島時雨(えしま しぐれ)だ」
その言葉を聞いた瞬間、紗帆はぱっと彼を見上げた。
信じられない、という思いが瞳いっぱいに広がる。
——確かに言っていた。時雨とは仕事上の『偽装婚約』で、愛しているのは紗帆だけだと。
なのに今、彼が選んだのは時雨だった。
犯人は答えを聞くと薄く笑い、悠真の婚約者を解放した。
紗帆は呆然としたまま見つめていた。
悠真が時雨のもとへ歩き、そっと抱き上げるのを。
悠真は紗帆に目を向け、言う。
「紗帆......時雨は発作がひどい。命に関わることだ。俺には、選ぶ余地がなかった」
まるで、紗帆に理解を求めるような言い方だった。
だが理解など――できるはずがなかった。
胸の奥を刃でえぐられたようで、息が止まりそうになる。
彼の背中を固く見つめながら、紗帆はかすれた声で呼びかけた。
「悠真......行かないで。置いていかないで......お腹に......赤ちゃんが......」
その言葉に、悠真の足が一瞬だけ止まった。
しかし抱えられた時雨がさらに苦しげに息を荒げると、彼はもう振り返らなかった。
大きな歩幅で、工場の外へ消えていく。
その姿が見えなくなっていく光景は二人の男に取り囲まれ、紗帆の視界から遮られた。
残った隙間から、彼女はただ——悠真が時雨をしっかり抱きしめ、遠ざかっていく背中だけを見ていた。
「離婚した時、あんたらの仲は冷えきったって噂だったけど......やっぱ本当だったわけだな。
捨てられたんだし、俺たちがかわいがってやるよ」
紗帆の心と体は石のように固まっていた。
だが、荒々しい手が身体に触れた瞬間、意識が一気に覚醒した。
全身の力を振り絞って二人を突き飛ばし、必死に駆け出す。
足元の山道は険しく、紗帆は踏み外して斜面へ転げ落ちた。
意識が薄れていく最後の瞬間——もう、このまま眠ってしまいたい......そんな甘い誘惑が、黒い闇とともに広がった。
暗闇の中、紗帆は過去の夢を見た。
大学の学園祭。
ステージで踊る彼女に、悠真は一目惚れした。
それ以来、クールで近寄りがたい印象だった彼が嘘のように真っ直ぐで激しい想いをぶつけてきた。
「これまでどれだけの子を振ってきたと思ってるんだ。悠真があんなに必死になるなんて!」
周りはそう騒いでいた。実際、彼は何度も苦労していた。
紗帆の誕生日。
夜遅く、彼女のマンションの下まで追いかけてきて、紗帆だけのために花火を上げた。
最後には警察に連れていかれながらも、笑って手を振った。
——誕生日おめでとう。
その笑顔は、紗帆の心に深い影を落とした。
二年かけて、氷のように固い紗帆の心は、ゆっくりと溶けていった。
だが、両親は二人の交際に猛反対した。
「スポーツ推薦で入った大学生に未来はない」と。
悠真が挨拶に来た日、彼は殴られ、脚を折られた。
その怪我は後遺症を残し、彼は競技の道を断念した。
紗帆は親を恨み、悠真と共に別の街で暮らし始めた。
彼の脚をさすりながら泣く紗帆に、悠真はいつも言っていた。
「いいんだよ。怪我一つで紗帆がそばにいてくれるなら......お安い御用だ」
彼は「必ず幸せにする」「辛い思いだけはさせない」と言った。
最初の頃、彼は紗帆に食事も皿洗いもさせなかった。
仕事で稼げるようになると、紗帆に辞職させ、好きなことに専念させた。
家に一人でいるのが怖いと知れば、どんなに遅くても夜は必ず帰った。
彼女が仕事を辞めて家にいると、不安になるのではと心配した彼は、すべての資産を彼女名義にしていた。
八年間——紗帆は一度も、自分の選択を後悔しなかった。
だが今年の誕生日、悠真が手渡したのは、離婚協議書だった。
「仕事の都合で、時雨と『仮』の婚約が必要なんだ。終わったら、また籍を入れよう。
俺たちの関係は何も変わらない。紙なんて、ただの形式だろ?」
紗帆は信じた。
そして今日——その信頼を、彼は自ら裏切った。
頬を涙が伝い、紗帆はゆっくり目を開けた。
真っ白な天井。
胸の奥が締めつけられる。
本当に......仕事のためだけだったの?
もう、あなたがわからない。
医師が入ってきて、簡単な検査を行う。
「意識が戻ってよかったです。赤ちゃんは無事です。ですが足首の怪我が重く、後遺症が残るかもしれません」
紗帆は言葉を失い、震えながら問い返した。
「そしたら......踊れなくなるんですか?」
踊ることだけが、紗帆の唯一の情熱だった。
「リハビリ次第では、軽いダンスならできます」
その答えに、紗帆はほっと息をついた。
だがすぐに目を閉じる——この怪我の原因を思い出したからだ。
入院して半月。
その間に届いた悠真からのメッセージは三通だけ。
すべて「どこにいる?」という短いものだった。
紗帆は返事をしなかった。
そのあと彼からの連絡は途絶えた。
そして入院十日目。
ようやく一度だけ、悠真から電話がかかってきた。
第2話
紗帆は一瞬ためらったものの、ついに電話に出た。
受話器越しの悠真は、どこか宥めるような声音で言った。
「紗帆、どうして返事をくれないんだ?まだ怒ってるのか?あの時は、時雨の状態が本当に危なくて……仕方なかったんだ……」
あまりにも薄っぺらい言い訳に、紗帆は皮肉に口元をゆがめた。
そして冷たく遮る。「用件は?」
悠真は一瞬言葉を詰まらせ、照れ隠しのように声をさらに柔らかくした。
「紗帆、今どこにいる?迎えに行くよ。すごく心配してるんだ」
胸のどこかが、微かに期待に揺れた。
紗帆は唇を動かし、答えようとした。
「私、今……病院に——」
突然、悠真の慌ただしい声が遮った。
「ごめん、急な用事が入った!今どうしても離れられない。片付いたら迎えに行く!」
言葉は一気にまくし立てられ、そのまま――電話が切れた。
短い電子音が耳に残る。
その瞬間、病室のテレビに映った映像が目に飛び込み、紗帆は思わず目を見開いた。
画面には、記者に囲まれながらホテルへ入っていく悠真と時雨の姿が――彼が力強く時雨を抱き寄せていた。
記者の声が容赦なく耳に刺さる。
【久藤ホールディングス社長、婚約者・江島家ご令嬢とホテルへ——婚約披露宴の会場準備を視察か】
耳が割れるほどのざわつきに、逆にすべての音が遠のいていくようだった。
——あの電話の時、彼らは一緒に車にいたのだ。
なら、この十日間も?ずっと?
疑念と答え合わせが一瞬で押し寄せ、胸の奥に渦を巻いた。
そのとき、隣のベッドの老婦人が声をかけた。
「お嬢さん、大丈夫かい?なにかあったの?そんなに泣いて……」
紗帆はハッとして手を顔に当てた。
指先に触れたのは、いつの間にか流していた涙。
抑え込んでいた痛みが一気に全身を襲う。
肉も骨も裂けてしまうような痛みだった。
紗帆は胸を押さえなんとか涙をぬぐい、小さな声で答えた。
「大丈夫です……ただ、ある人の正体がやっとわかっただけなんです」
本当に心配していたなら、彼は病院を見つけられないはずがない。
ただ——彼がより大事にしている相手がいただけ。
そう気づいた瞬間、すべてが腑に落ちた。
悠真は「片付いたら迎えに行く」と言った。
だが彼は一度も現れず、退院の日を迎えても同じだった。
家に戻り、指紋認証を押すと——拒否された。
眉をひそめたところへ、中からドアが開いた。
驚いた顔の家政婦が立っていた。
「ま、奥さっ!」
言いかけて、はっと口を閉ざした。
なぜ彼女が自分に驚くのかわからなかった。
だが、家の中に入った瞬間、理由がわかった。
リビングのソファで、悠真が時雨に薬を飲ませようと寄り添っていた。
二人はすぐに紗帆に気づいた。
悠真は固まった後、すぐ立ち上がる。
「あ、紗帆……どうして帰って来た?」
問いかけは、帰宅を咎めるようにも聞こえた。
紗帆は答えず、ただ部屋を見回した。
ほんの半月で、家の景色は一変していた。
時雨の物が家中に溢れ、紗帆の持ち物は——庭に無造作に積まれていた。まるで、不要品のように。
悠真は彼女の視線に気づき、慌てて言い訳を並べた。
「時雨の喘息がまだ安定してなくて……ここは緑が多いから、身体にいいんだ。
それに契約前なんだ、倒られたら困るだろ?
紗帆は少しだけ我慢して。もう別の家を用意したから、そこで――」
紗帆は荷物から目を離し、赤くなった眼差しで彼を見た。
理解できない、という色が浮かんでいる。
「私に出て行けって言うの?
……ここは、あなたが私にくれた家だよね。
どうしてあの人をここに住まわせないといけないの?」
悠真は視線を逸らし、紗帆の肩をつかんだ。
「違うんだ!
時雨はほんの少しの間いるだけだ。
契約が終わったら、また君が戻ってくればいい」
半月前のあの日にも触れず、紗帆の怪我にも気づかず、ただ「時雨」の話だけを繰り返す男。
紗帆は目を伏せ、小さく答えた。
「……わかった」
そっと彼の手を払う。
庭へ向かう紗帆を、悠真が慌てて追う。
「荷物は運ばせるよ!」
紗帆は首を振った。
「いい。必要な物だけ持っていくから」
大切なものを二つだけ手に取り、玄関に向かおうとしたとき――一面に黄色いバラが咲いていたはずの庭が視界に入った。
そこはすでに無惨にえぐられていた。
紗帆は足を止める。
背後から、時雨の甘い声が聞こえた。
「ここ、黄色いバラがたくさんあったんだよね?
ごめんなさいね、紗帆さん。私、黄色を見ると気分悪くなっちゃって。
だからね、悠真さんが全部抜いてくれたの。
紗帆さん、どうか怒らないでね?」
紗帆は、ただ黙っていた。
第3話
紗帆は花が好きだった。なかでも、いちばん好きなのは黄色いバラ。
だから悠真がこの家を買ったとき、最初にしたことは——自分の手で庭いっぱいに黄色いバラを植えたことだった。
花が枯れないように、季節が変わるたびに品種を変えて植え替えた。
六年間、その庭には途切れることなく満面の黄色だった。
彼の愛の証のように。
だが今、そのすべてが悠真の手によって壊された。
紗帆はゆっくりと悠真を見た。答えが欲しかった。
けれど彼は下を向き、腕の中の時雨だけを見ていた。
その口元には、甘くて優しい笑みを浮かべていた。
——見覚えのある笑顔だった。
かつて、自分に向けられていたものとまったく同じ。
胸の奥に細かな痛みが広がり、悠真の視線が向いた瞬間紗帆はそっと俯いた。
手に握った荷物をきつくつかみ、かすれ声で言った。「残りの物は……全部捨てて」
それだけ告げると、紗帆は足を引きずりながら外へ出た。
一歩ごとに足首が焼けるように痛んでも立ち止まろうとはしなかった。
悠真が用意してくれた家に戻ると、すぐにメッセージが届いた。
【庭に花を植え直させた。部屋も君の好みに合わせてある。契約が近くて会社が忙しいから今夜は戻れない。必ず電気をつけて寝るんだぞ】
たしかに庭は花だらけだった。
けれど——黄色いバラは一輪もなかった。
紗帆はスマホの画面を消し、返信せずに置いた。いつから彼は夜に帰らなくなったのだろう。
思い返せば、それは時雨が現れた頃からだった。
時雨からの連携話は一年前にも来ていた。
そのとき悠真は断ったのに、わずか一年で考えを変えた。理由なんてもうどうでもよかった。
ただ、これ以上傷つかないために距離を置きたかった。
八年間眠っていた電話番号をタップする。呼び出し音が鳴るたび、胸に釘が刺さるようだった。
数回のコールのあと、小林母の声が聞こえた。紗帆は罪悪感で息が詰まり、声が出なかった。
数秒後、泣きそうな声が響く。
「……紗帆?紗帆なの?」
その瞬間、涙がとめどなくあふれた。
「お母さん……私が間違ってた……」
八年ぶりだというのに、母は一言も責めない。ただひたすら娘を気遣い、慰めてくれる。
父の様子を尋ねると、母の声が急に濁った。
だが落ち込んでいた紗帆は、その不自然なところに気づかなかった。
電話を切る頃には、紗帆の決意は完全に固まっていた。
八年の想いは、一日で消せない。だからこそ、一刻も早く抜け出さないといけない。
すぐに航空券を予約しようとしたが、大雨で全便が欠航していた。
一番早い便は半月後。
——奇しくも悠真と時雨の婚約パーティーの日だった。
紗帆はため息をつき、購入ボタンを押した。そして弁護士に電話する。
「離婚協議書を修正してください。他は何もいりません。子どもの親権だけは……私に」
離婚協議書は形だけだと言われたから、内容を気にしなかった。
けれど今はもう、その『形』にすがるしかない。
翌朝、悠真が突然帰ってきた。高価なブランドのバッグを手に。
「紗帆、ごめん。もう怒らないでくれないか。今日は一緒に検診に行こう?」
返信がなかった紗帆を、彼は拗ねてるだけだと思ったらしい。
高価なプレゼントで気を晴らせると信じて。
悠真はそういう物をよく贈った。
だが紗帆が求めていたのは想いのこもったものだった。
——そのことを彼はいつの間にか忘れてしまったようだ。
朝食を済ませ、悠真に支えられて車に乗る。
悠真は紗帆のお腹に耳を当て、嬉しそうに目を細めた。
「なあ……今、聞こえた気がするぞ。赤ちゃんの鼓動が……トクトクって」
紗帆は彼を見下ろした。
「そんなわけない」と言いかけて、飲み込んだ。
胸の奥で、かすかに何かが崩れる音がしただけだった。
第4話
病院へ向かう車の中、紗帆は妊娠のせいか少し車酔いをしていた。
いつものように、悠真が自分のために置いてくれているはずの水を手で探る。
しかし、そこには何もなかった。
声をかけようと振り返った瞬間、彼がスマホを手にして時雨へメッセージを送っているのが目に入った。
いつもなら紗帆の車酔いに真っ先に気づき、すぐ運転手に停車させてくれていた。
けれど今日は吐き気がもう込み上げているのに、悠真はただ時雨への返信に集中していた。
胸の奥が鈍く痛み、紗帆は皮肉を込めて視線を外へ向けた。
胃のむかつきを必死に押さえ込みながら。
病院が近づいた頃になって、ようやく悠真は名残惜しそうにスマホをしまった。
口元にはまだ薄い笑みを残している。
けれど紗帆の顔色を見た瞬間、その笑みは跡形もなく消えた。
「紗帆?また酔ったのか?運転手さん、車を停めて!」
そう言って、彼は紗帆の肩を抱き寄せた。
紗帆はもう峠を越えていた。彼女は運転手に向かって手を軽く振り、静かに言った。
「大丈夫です。停めなくていいです」
だが、悠真は青ざめた紗帆の唇を見て胸を痛め、構わず停めさせようとした。
紗帆がそっと彼の腕を叩くと、ようやくその考えを引っ込めた。
病院に着くと、悠真は左側から車を飛び出し、急いで右側まで回り込んで紗帆を支えようとした。
だが紗帆はわずかに身を引いてその手を避け、一人で歩き出した。
空を掴んだ悠真の手が宙に浮く。
一瞬呆然となったが、慌てて彼女の後を追った。
検査を終えて医師の部屋に入ったとき、紗帆はようやく気づいた。
この階には、医師と看護師以外、患者がひとりもいない。
疑問を浮かべる紗帆に、医師が答えた。
「久藤社長が、奥さまの検査が落ち着いて受けられるようにと、このフロアの全体を事前に押さえられたんですよ」
医師は柔らかく笑い、続けた。
「本当に素敵なご主人ですね。それに立派なお父さんですよ。
奥さまの妊婦健診を一度も欠かしたことのない方なんて、見たことがありません」
紗帆の胸に、冷たい嘲りが広がった。
――妻と子を、あの日あの場に置き去りにした人が?
それが『良い夫』『良い父親』だと言えるの?
検査は順調に終わり、子どもはとても元気だと告げられた。
病院を出る頃には、悠真は異様なほど浮かれていた。
未来の話をし、子どもの名前をあれこれと挙げては紗帆の手を嬉しそうに握る。
だが紗帆は一言も声を発さなかった。
――彼が語る未来は、もう決して来ない。
病院の玄関へ向かうには小さな花園を通る。そこで彼らは時雨に遭遇した。
「悠真さん、紗帆さん。わあ、偶然ですね!」
そのまま三人で歩く形になった。
道中、時雨は絶えず悠真に話しかけ、悠真も甘やかすように一つひとつ返事をしていた。
まるで紗帆だけが忘れられたようだった。
出口が見えてきた頃、突然後ろから二人の若者が走ってきて、その勢いのまま紗帆と時雨にぶつかった。
紗帆の足首に、鋭い痛みが突き刺さった。
バランスを崩してバラの茂みに倒れ込み、細かな棘が肌に食い込んだ。
数秒、痛みに意識が飛んだ。意識が戻ってきたとき耳に入ったのは、焦った悠真の声。
……けれど倒れる直前、確かに見えた。
悠真が最初に掴んだのは――紗帆ではなく、時雨の手だった。
「紗帆!大丈夫か?どこか打った?」
抱き起こされ、紗帆が目を開けると、視界に入ったのは、どこも乱れず綺麗なまま立っている時雨の姿だった。
紗帆が黙ったままでいると、悠真はさらに慌てて何か言いかけ――その横で、時雨が指を押さえて泣き声をあげた。
「悠真さん……指、血が出てる……どうしよう……」
第5話
血の気が引いた声を聞こえた悠真は即座に振り返って見ると、時雨の指先に細い傷が走り、そこから血が滲み出ていた。
紗帆は、自分を支えていた手がわずかに離れるのを感じた。
そして、続けて聞こえたのは悠真の声だった。
「紗帆、時雨は血が止まりにくい体質なんだ。小さな傷でも危険だ。
先に医者に連れて行ってくるから、少し待っててくれ。すぐ戻る」
その言葉と同時に、彼はあっさりと紗帆の手を放し、時雨を連れて歩き出した。
支えを失った瞬間、足首に体重が乗った。紗帆は踏ん張れず、再び地面に倒れ込んだ。
――選択の場面で、また自分は捨てられた。
覚悟していたはずなのに、実際に訪れた瞬間、胸がぎゅっと縮み、息ができなくなるほど痛んだ。
心なのか身体なのか、どちらが痛いのかすらもう分からない。
紗帆は悠真を待たなかった。
痛みが落ち着くと、ひとりで足を引きずりながら病院へ戻った。
病院の廊下を進む途中、時雨が入っている診察室の前を通りかかった。
室内では、医師が消毒用の綿で彼女の指先を丁寧に処置していた。
時雨は怯えたように肩をすくめ、全身で悠真にしがみついている。
悠真はその背中を優しく撫で、「もう大丈夫だよ。痛くない、痛くない。俺がついてるからな」と子どもに言い聞かせるようにささやいていた。
紗帆はドア枠に手を添え、ただ茫然とその光景を見つめた。
――昔、自分が熱を出したときも、注射を怖がったときも、悠真がかけてくれた言葉はたしかにあれと同じだった。
どれくらいそこに立っていたのか分からない。中の二人は最後まで彼女に気づくことはなかった。
紗帆は足を引きずり、壁を支えにしてその場を離れた。
診察を受けた医師は紗帆の足を見るなり、残念そうに首を振った。
「足は二度目の損傷で相当ひどい状態です。もうダンスは続けられないでしょう。
むしろ歩くのも不安定になるかもしれません。今後は細心の注意を」
――悠真は、自分の脚を代償に夢を失った。
そして紗帆も今、彼のせいで夢を失った。これで互いに借りも貸しもない。もう、結ぶものは何一つ残っていない。
包帯を巻かれ、紗帆は松葉杖で病院を出た。
さきほど覗いた診察室の前を通ると、もう誰もいなかった。携帯も静まり返って、沈黙が胸に響く。
その夜、悠真が帰宅し、包帯を巻かれた足と松葉杖を目にした瞬間、彼は驚いたように走り寄り、片膝をついた。
「紗帆!足どうしたんだ?今日のあれで?」
紗帆は淡々と答えた。「ただの捻挫よ」
悠真の眉が一気に寄り、深い後悔の色がにじむ。
彼は紗帆の手を握りしめ、何度も謝った。
「ごめん、ごめんな紗帆。俺が悪かった。気づけなくて、本当に……」
その瞳の痛みは嘘ではなかった。
だがそれは紗帆だけに向けられたものではない。
その心配と優しさは、時雨にも――いや、時雨のほうがもっと多く受け取っていた。
ならもう、その気持ちは要らない。
その後数日、悠真は仕事をすべて断り、家で紗帆の世話をした。
まるで昔に戻ったみたいだった。離婚前の、あの温かな日々に。けれど、それは『幻』でしかない。
六日目の朝、悠真は突然言った。
「紗帆、俺、何日か出張に行くんだ。
君をひとりにするのは心配でさ、それで時雨が代わりに看てくれるって申し出てくれたんだ。
しばらく時雨の家にいてくれたら俺も安心だ」
時雨も駆け寄り、紗帆の腕をそっと支えた。
「大丈夫ですよ悠真さん。紗帆さんは私が責任持って看ますから」
――二人だけで勝手に決まった。
紗帆の意思なんて、一度も問われなかった。
時雨の家での生活は最初の二日こそ丁寧で、紗帆は本気で彼女の優しさを信じかけた。
そして三日目。
時雨は紗帆の手を引き、庭でお茶をしようと誘った。
席についた紗帆の目に映ったのは――黄色いバラが植わっていた場所に、新しく植え替えられたチューリップだった。
第6話
「きれいでしょ?」時雨の声に、紗帆は一瞬だけ動きを止めた。
もっとも、時雨は返事など最初から求めていない。
その問いは、次に続く言葉への前置きにすぎなかった。
「これ、悠真さんが私のために植えてくれたの。あなたに黄バラを植えてあげた時みたいにね。
最初は断られたのよ。これはあなた専用だからって。でも私がちょっと甘えたら、すぐにOKしてくれた」
時雨は湯呑みを口に運び、くいっと飲む。
唇には勝ち誇った笑みを浮かべている。
「一年前、私が彼に提携を持ちかけた時も断られた。
でも今は違う。彼は受け入れた。意味、わかるでしょう?」
紗帆の指先が、湯呑みの縁でぴたりと止まった。
もちろん、意味は痛いほど理解できた。
時雨はカタンと湯呑みを机に叩きつけ、笑みを消した。
「あなたなんか、悠真さんにふさわしくない。
彼はすごい人、更なる高みへ行ける人、あなたのせいで足を止められてたのよ!」
紗帆はふっと笑った。
「『更なる高み』って、あなたのおかげで?悠真が女にすがってるってわけ?」
時雨の顔がひきつった。
胸が上下し、息が乱れるほど怒りがこみ上げている。
だがほどなくして、再び余裕の笑顔が戻った。
「どう否定したって、悠真さんはもう私を選んだ。私がいれば、彼は今まで以上の場所に行ける。あなたはただの過去でしかない」
紗帆は小さく首を振り、何か言い返そうとした。
その瞬間、下腹部に鋭い痛みが走り、ぐっと熱を帯びる。胃の底がずるりと落ちていくような感覚。
腰を折ってお腹を押さえた紗帆を見て、時雨は歪んだ笑みを浮かべた。
「子どもで彼を縛ろうなんて思わないで!」
紗帆にはすぐに分かった。
——茶だ。時雨が何か入れた。
声を出そうとしても、痛みで呼吸さえ切れる。言葉が形にならない。
真っ赤な液体が脚をつたった時になって、時雨は大袈裟に悲鳴を上げた。
「紗帆さん?どうしたの?誰か来て!!」
駆けつけた使用人に抱えられ、急いで病院へ向かった。
しかし間に合わなかった。
子どもは、いなくなった。
---
悠真は知らせを受け、慌てて出張先から戻ってきた。
ベッド脇に座り、やつれた紗帆の顔にそっと触れる。
紗帆の虚ろな視線がゆっくりと悠真へ向いた。
そして、かすれた声が漏れる。
「……子ども、なくなったの」
悠真の胸が沈んだ。
そして、力強く紗帆を抱きしめた。
「平気だよ。またできるさ」
紗帆は首を振った。「ないわ。もう、ないの」
——彼と子を持つ未来は、もうどこにもない。
悠真は紗帆が取り乱したと思い、さらに強く抱き寄せた。
だが紗帆は彼を突き飛ばし、叫んだ。
「できても、あの子じゃない!」
「時雨のせいよ!あの子が何かを飲ませたの!だから……私、流産したの!」
悠真の瞳に悲痛が宿り、そして抑えるように言った。
「紗帆、落ち着いて。時雨は妊娠のことなんて知らない。
ホオズキがお腹に悪いなんて知らなかっただけだ。本人もすごく反省してる」
紗帆の思考が止まった。
彼は分かっている。何が原因だったのかも。それでも——信じるのは時雨であって、自分ではない。
胸が、どんどん冷たくなっていく。
「……あの子も、あなたの子だったのよ」
震える声は、もう届かない。
悠真は表情を変えなかった。
紗帆はひどく乾いた笑みを浮かべ、背を向けて横になる。
悠真はため息をついた。「ゆっくり休め。明日また来る」
扉が閉まり、すぐに病室に押し殺した泣き声が満ちた。
……
夜遅くになって、ようやく涙は止まった。
紗帆はスマホを取り出し、大型バスのチケットを予約した。
一週間も待つつもりはない。
明後日、ここを出る。
……
翌朝、悠真は手作りのスープを抱えて来た。
「紗帆。俺が作ったんだ。味、落ちてないか試してみて?」
紗帆は一瞥すらよこさず、冷たく告げた。
「私たち、別れましょう」
第7話
悠真は思わず固まった。眉を寄せて聞き返す。
「……今、なんて言った?」
「別れましょうって言ったの」
紗帆は淡々と繰り返した。
付き合い始めた頃、紗帆はよく「別れる」と口にしていた。
悠真は、いつもの癖だと思っていた。けれど、こんなにも真剣な声音は初めてで、胸が重く沈んだ。
病室はしんと静まり返った。
悠真は昨日の出来事を思い出し、怒っているのだと見当がついた。
そう気づいた瞬間、逆に少しだけ安堵し、機嫌を取ろうと優しく声をかけた。しかし、何を言っても紗帆の態度は変わらず、揺るぎない拒絶だけが返ってきた。
婚約パーティーだの契約だの、ただでさえ頭を抱えているところへ、さらに紗帆のこの言葉。
悠真の忍耐にも限界が来た。
「……何のつもりだよ。無茶言うな、今はほんとに忙しい時期なんだ。まずは体をしっかり休めろ。数日したら迎えに来る」
それだけ吐き捨てるように言い、背を向けて病室を出ていった。
閉まった扉を紗帆はただ静かに見つめ、しばらくして視線を落とした。
——これが、最後になる。
翌日、彼女は自分で退院手続きを済ませ、タクシーでバスセンターへ向かった。そこは駅に隣接した大きなターミナルだ。
紗帆はベンチで検札時間を待っていた。
時間が迫ってきた頃。突然、大きな手が彼女の腕を掴んだ。
「紗帆?こんなところで何してるんだ」
声をたどって振り返るとそこには悠真がいた。
彼の視線は、紗帆の手に握られた乗車券へ移り、昨日の言葉とつながった。
理解した悠真は、これまで見たことのない怒りを見せた。結果、紗帆は家に連れ戻され、閉じ込められた。
悠真は数人の家政婦を呼びつけ、命じた。
「数日間はちゃんと家にいろ。余計なことは考えるな。契約が済むまで大人しくしていろ」
そう言い残し、家を出ていった。
——待つ?もう待てない、待ちたくもない。
翌日、弁護士から修正された離婚協議書が送られてきた。
紗帆は子どもの項目を見て、胸がきゅっと締めつけられた。そこにあるはずの名前は、もう消えていた。その瞬間、この紙は意味を失った。
彼女は離婚協議書を破り、ゴミ箱へ投げ捨てた。
四日目の午後。
悠真が戻ってきた。
「紗帆、ずっと家に籠っててそろそろ飽きただろ?今夜はパーティに連れていく。気分転換だ」
これが悠真なりの「優しさ」だとわかっていた。
だけど、紗帆の心はもう動かない。
高価なドレスが運び込まれ、プロの手で美しく整えられ、そして悠真にエスコートされて会場へ。
二人が会場に足を踏み入れた瞬間、ざわりと空気が揺れた。
ひそひそ声が耳に突き刺さる。
「元奥さんだよな?まだ一緒にいるの?」
「っていうか、ただの一般人でしょ。子どもがいなきゃ、あの人なんてもう捨てられてるよ」
「やっぱり時雨ちゃんがお似合いだよね。もう気持ちはそっちなんじゃない?元嫁のことなんて情でつないでるだけだって」
ひとつ、またひとつ。
それぞれが刃となって紗帆に降り注ぐ。けれど心はもう、痛みを感じることすらできないほど麻痺していた。
代わりに、悠真の顔が険しくなった。足を止め、紗帆の手を握ったまま低く響く声で言い放つ。
「俺の大切な人を、勝手に口にするな」
その瞬間、ざわめきが止んだ。
悠真は最後の一言を言った人物へ視線を向けた。
「悪いがお前の予想は外れだ。俺が愛しているのは、紗帆だけだ」
紗帆のまつ毛が震えた。
もし足首の痛みがなく、腹の中が空っぽじゃなかったら、その言葉を信じていたかもしれない。
けれど、今の彼女に信じさせる方法は──たったひとつ。それは、「記憶を失うこと」しかなかった。
全部忘れて、最初からやり直すしか。
足がつらい紗帆のため、悠真は人の少ない席へ案内した。
「ここで少し休んでろ。俺が食べ物を取ってくる」
「……うん」
それだけ答えた。
三十分。悠真は戻らなかった。この会場全部を歩き回れるほどの時間。
紗帆はもう待つのをやめた。
テーブルに手をついて立ち上がり、ベランダへ向かった。
扉の前に来たとき、声が聞こえた。
「悠真さん……あんな写真をネットに晒されたの……もう生きていけない……うっ……うぅ……」
時雨の泣き声だった。
第8話
ドアの隙間から、紗帆は三十分以上姿を消していた悠真を見つけた。
彼は泣きじゃくる時雨を抱きしめていた。
「時雨、安心しろ。俺が必ず、あいつをタダでは済まさない」
怒りに燃える目。
紗帆は、あんな悠真を見たことがなかった。自分を連れ戻したあの時でさえ、ここまで怒ってはいなかった。これがあなたの言う『愛』ってこと?
唇をゆがめて笑うと、紗帆は視線を逸らした。
もう見たくなかった。
ざわつき始めた人混みを抜け、紗帆は反対側のテラスへ向かった。
足首が鈍く痛みだす頃、ようやく室内に戻ろうとしたその瞬間——母から電話が入った。
通話ボタンを押した途端、泣き声が耳に飛び込む。
「紗帆……もうどうにもならなくて……迷惑かけたくなかったんだけど……」
胸が縮む。
紗帆は慌てて問い返した。「どうしたの?」
「お父さんが病気で、手術しないと助からないって……でもどうしてもお金が足りないの……」
「いくら?」
「あと100万円……」
紗帆は息を吸い込み、できるだけ穏やかに答えた。
「お母さん、心配しないで。すぐ送るから。お父さんのそばにいてあげて。私もすぐに帰る」
電話を切ると、紗帆は急いで送金画面を開く。
そのとき——バンッ!
テラスのドアが勢いよく開いた。
振り返ると、そこには怒りに顔を染めた悠真がいた。
後ろには、面白がって見ている客が何人も並んでいる。
意味もわからないまま、紗帆は再び視線を落とし、送金金額を入力する。
だが、そのスマホは無情に奪い取られた。
紗帆はハッとして、すぐに手を伸ばして奪い返そうとした。
「返して!」
悠真はスマホを高く掲げ、見下ろすように彼女を見た。
「返したら、証拠を消すつもりか?」
紗帆は眉をひそめる。
「何を言ってるの?」
悠真は乾いた笑いを漏らし、スマホを操作して紗帆の目の前に突きつけた。
「ほら、これでもまだ白を切る?」
画面に映ったのは——加工された時雨の裸写真。
そのとき、時雨が泣きながら人混みをかき分けて入ってきた。
「紗帆さん、まだ私のこと恨んでるんですか?私がうっかりあのお茶を飲ませたから……だから、私をこんな目に?」
すかさず悠真が続ける。
「時雨の流出写真、追ったら発信元は君のスマホだった。今も証拠が残っている。まだ言い逃れするつもりか?
気持ちはわかる。子どもを失ってつらいのだろう。
でもこれは時雨のせいじゃない。君は許されないことをした」
紗帆には、どうして写真が自分のスマホにあるのか見当もつかない。
だが今はそれどころではない。
ただ——早く送金しなければ。
「悠真!お願い。スマホ返して。お父さんの手術にお金が必要なの。送金だけさせて!本当に急いでるの!」
必死の声は、悠真には芝居にしか聞こえなかった。
「君は、親と八年も音信不通だったろ?嘘をつくならもっとマシなの考えろ」
その瞬間、紗帆は崩れた。
「嘘じゃない!お願いよ……本当なの……お願いだから返して……お父さんが……本当に……」
涙と嗚咽がこぼれる。
その必死さに、悠真の表情が揺れた——けれど。
「なんでそんなことするんですかあああ!」時雨が突然大泣きし、ぐらりと倒れた。
「時雨?時雨!」
悠真は飛びついて抱きあげる。
紗帆を見る目は、氷のように冷たかった。
「失望したよ、紗帆。彼女を家に連れ戻せ。俺が許可するまで外に出すな」
ボディーガードに両腕をつかまれ、紗帆は必死にもがく。
「違う!お願い、信じて——!!悠真!!」
けれど彼は一度も振り返らなかった。
再び部屋に閉じ込められ、紗帆は家の使用人に懇願した。
「悠真に会わせて……お願い……」
返ってくるのは一言だけ。
——「旦那様は江島さんの側におられます」
どれだけ頼んでも、叫んでも。
婚约披露宴前夜、紗帆はとうとう一度も悠真に会えなかった。
そしてその夜、警備が式場に移り、家は手薄になったのを隙に、紗帆は窓から逃げ出した。
スマホはない。
家にあった現金を握りしめ、乗車券を買い、故郷へ急いだ。
家に着いたのは翌朝。
足の痛みも忘れて駆け込むと——そこにある父の遺影に目が留まった。
父は、もういなかった。
一方その頃、婚約パーティー会場では。突然、悠真の胸に不安がよぎった。
紗帆……大丈夫だろうか?やりすぎたのではないか。
そう思い始めた時、電話が鳴った。
「ご依頼の山一面、黄色いバラの植え付けが完了しました。
ご指定の一区画は、ご自身で植えられるよう空けてあります」
悠真は満足げに微笑んだ。
式が終わったら、これを紗帆に贈るつもりだった。最近気まずかった関係を、これで元に戻せると信じていた。
父の遺影に線香をあげ終えると、母が涙ながらに言った。
「お父さんね、本当は三日ももたないって言われてたの。でも紗帆に会うまでは死ねないって……それで昨日まで……頑張ってくれたのよ……」
涙が喉に張りつき、声も出ない。
紗帆は母を抱きしめ、壊れた声で繰り返す。
「ごめん……ごめんなさい……全部私のせい……私が……帰っていれば……ごめん……」
こんなにも後悔したことはなかった。
もしやり直せるなら——彼と出会った大学も選ばない。
あの日、彼についていくこともない。
葬儀が終わったら、母を連れてここを出る。
そして、全てやり直す。二度と振り返らずに。