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潮騒に消えた愛の言葉
7歳の時、私は竹内豪(たけうち ごう)に拾われた。それからずっと、彼の影として生きてきた。 8歳で暗殺術を学び、15歳で豪の敵を潰した。大学...
Chương (1)
第1章
7歳の時、私は竹内豪(たけうち ごう)に拾われた。それからずっと、彼の影として生きてきた。
8歳で暗殺術を学び、15歳で豪の敵を潰した。大学入学共通テストの日には、犯人のアジトに一人で乗り込んで彼を救い出し、全身に17か所もの傷を負った。
その日から、豪は私をまるで宝物のように、大事にしてくれるようになった。
私が結婚できる年になると、彼はすぐに結婚式を挙げた。そして、耳元でこう誓ってくれたんだ。「美希(みき)、永遠に君を愛するよ」って。
体中に残る醜い傷跡ごと、私は毎晩豪に抱きしめられた。彼は温かい唇で一つ一つの傷をなぞり、強く抱きしめながら、ささやいた。
「美希、君は誰よりも純粋だ。絶対に、俺のそばを離れないでくれ」
私はその言葉を、ずっと信じていた。
彼が外に囲っていた、「清らかな恋人」の存在を知ってしまうまでは。
豪は完璧に隠せていると思っていたみたい。でも、私が彼に内緒で大学に受かっていたなんて、夢にも思わなかったんだろう。
そして、豪が宝物のように大切にしているその女は、私のいちばんの親友だったんだ。
第1話
7歳の時、私は竹内豪(たけうち ごう)に拾われた。それからずっと、彼の影として生きてきた。
8歳で暗殺術を学び、15歳で豪の敵を潰した。大学入学共通テストの日には、犯人のアジトに一人で乗り込んで彼を救い出し、全身に17か所もの傷を負った。
その日から、豪は私をまるで宝物のように、大事にしてくれるようになった。
私が結婚できる年になるとすぐ、彼はすぐに結婚式を挙げた。そして、耳元でこう誓ってくれたんだ。「美希(みき)、永遠に君を愛するよ」って。
体中に残る醜い傷跡ごと、私は毎晩豪に抱きしめられた。彼は温かい唇で一つ一つの傷をなぞり、強く抱きしめながら、ささやいた。
「美希、君は誰よりも純粋だ。絶対に、俺のそばを離れないでくれ」
私はその言葉を、ずっと信じていた。
彼が外に囲っていた、「清らかな恋人」の存在を知ってしまうまでは。
豪は完璧に隠せていると思っていたみたい。でも、私が彼に内緒で大学に受かっていたなんて、夢にも思わなかったんだろう。
そして、豪が宝物のように大切にしているその女は、私のいちばんの親友だったんだ。
……
怪我をした足を引きずって大学に戻った日、私は盛大なプロポーズの場面にでくわした。
校門から寮へ続く道は、白いバラで埋め尽くされていた。真ん中には、まるで湖のきらめきを砕いたような青いカーペットが敷かれていた。
その女性は白いドレス姿でカーペットの先に立っていた。その姿は、まるで優雅な白鳥のようだった。
そして、その前で跪いているのは、海外へ出張だと言っていた、豪だった。
私はマスクで顔を隠して人ごみに紛れ、二人が抱き合ってキスをするのをただ見ていた。胸に氷を抱いているみたいに、骨の髄まで冷たかった。
昨日の夜まで「君の上で果てたい」と囁いていた人が、今は真剣な顔で他の女に「うん」と言ってくれと頼んでいる。
その時、やっと気づいた。豪は、私を表に出すつもりなんて全くなかったんだ。
私たちのデートはいつも夜中だったし、関係を公にしたこともなかった。
3年前、一度だけ彼から離れたことがある。竹内家や私たちの関係を知る人たちは、みんな口をそろえて言った。「大学も出ていない孤児が、海市の竹内家の御曹司にふさわしいわけがない」って。
でも豪は人脈をすべて使って、7日間も寝ずに私を探し続けて、ついに連れ戻した。
あの時の彼の顔は今でも覚えている。苦しみに満ちた、死んだような目で言った。「美希、俺を捨てて、どこへ逃げるつもりだ?」って。
豪は部下に命じて、彼自身の体を99回も鞭で打たせた。そして、私を見つめるその瞳には、光が宿っていた。
「美希、君を不安にさせた俺が悪い。罰を受けるべきだ」
血だらけになった豪の背中を見て、私は胸が張り裂けそうで、涙が止まらなかった。
その時、豪は私にW国の永住権と、プライベートジェットの航空機登録証明書をくれた。
「美希、俺はW国への入国を永久に禁止されているんだ。もし俺が君を裏切ったら、罰として、もう二度と君に会えなくなる」
それを受け取った瞬間、私は彼に強く引き寄せられ、まるで骨の髄まで溶け合わせるかのように、力いっぱい抱きしめられた。
「美希、俺は生涯、君にこれを使わせるようなことはしない」
なのに今、裏切りは明白な形で目の前に突きつけられた。
結局、馬鹿だったのはずっと私の方だった。
私はぼうぜんとしたまま、豪の仕事用の別荘まで歩いた。豪を問い詰める前に、中から彼の親友の木村悠斗(きむら ゆうと)の祝いの声が聞こえてきた。「豪さん、おめでとう。ついに美人を手に入れたな」
豪は酔っているようだったけど、その目は急に鋭くなった。
「このことは誰にも言うな。もし美希に知られたら……」
グラスがテーブルに強く叩きつけられ、悠斗は口をつぐんだ。でも、おそるおそる尋ねた。
「豪さん、お祖父様から結婚をかなり急かされているみたいだけど、美希さんと正式に入籍しては?」
全身の血が逆流するような感覚に襲われ、私は思わず息を止めた。
すると豪は口の端を吊り上げて言った。「祖父は千佳のことをとても気に入っていて、もう家宝まで渡したんだ」
私は呆然と立ち尽くした。耳鳴りが止まらなかった。
二人はもう入籍した?
じゃあ、私との結婚式は、一体なんだったの?
悠斗もきょとんとした。「じゃあ、美希さんはどうするんだ?」
豪はしばらくグラスを揺らしてから口を開いた。
「昔、美希、結婚したいって言った時、祖父に猛反対されたんだ。だから婚姻届は出さなかった」
彼は言った。「結婚式だけ挙げて、彼女を安心させるしかなかった。美希は気性が激しすぎるから、竹内家の嫁には向かない。俺が可愛がってやれば十分だろ」
悠斗の目に、複雑な色が浮かんだ。
「豪さん、美希さんは一筋縄ではいかない人だよ。もし彼女がこのことを知って……またいなくなってしまったら、どうするんだ?」
豪の漆黒な瞳が鋭く光った。「じゃあ、永遠に知らせなければいい。伊藤に伝えろ、美希をしっかり見張っておけと」
私は声もなく笑った。喉の奥が、苦さでいっぱいだった。
伊藤正人(いとう まさと)に何度も絡まれて怪我をしたのは、全部、豪の指示だったんだ。どうりで今日、大学へ向かう途中で正人が狂ったように私の邪魔をしてきたわけだ。彼を振り切ろうとしたせいで、足の怪我が悪化したのに。
心をえぐられるような真実から立ち直れないでいると、悠斗が、私も聞きたかった質問をした。「豪さん、あなたは一体、誰を愛してるんだ?」
豪は何かを思い出したように、優しい目を向けた。「もちろん、美希だ。でも、これからの3年間は、千佳にも誠心誠意尽くすつもりだよ」
彼は指先でグラスの縁をなぞった。「千佳はあまりに純粋で、まるで18歳の頃の美希のようだ。俺のために横山家に乗り込むようなことがなければ、美希も今頃はこうだったはずなんだ。
美希をもう一度育て直すことはできない。だから千佳を育てるんだ。そうすれば、美希に対しても心残りはない」
悠斗は黙って酒を煽ると、また尋ねた。「豪さん、正直に言って。美希さんがあなたを救うために横山家で過ごしたあの3日間を、まだ根に持ってるのか?」
私の心は、どこまでも沈んでいった。
横山家で過ごしたあの3日間は、確かに悪夢のようだった。
私が純潔なままそこから出てきたなんて、誰も信じてくれなかった。豪だけが、信じると言ってくれたのに。
その後も、数え切れないほどの夜、彼は私の涙にキスをして、「君が一番きれいだ」と言ってくれた。
今回、豪は何も言わなかった。ただ、グラスの酒をぐいっと飲み干しただけだった。
その沈黙が、何よりも残酷な肯定だった。
私は固く目を閉じた。涙は、流れるままに頬を伝った。
彼は、私を信じてなんかいなかった。それどころか、汚らわしいとさえ思っていたんだ……
豪のかすれた声が、また聞こえてきた。「7日後の結婚式は、美希に隠し通さないと。いっそ、彼女には『事故』で怪我でもしてもらって、しばらく病院にいてもらうのが一番だ」
心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
豪の言葉は鋭いナイフのように、私の心の奥深くに突き刺さった。私の痛みは、彼にとって利用価値のある弱みでしかなく、私をコントロールする手段になっていたんだ。
ブーッ――
スマホに三件のメッセージが届いた。
一件は竹内千佳(たけうち ちか)から。婚姻届と指輪の写真と、楽しげなスタンプがついていた。
【美希、私は憧れの人とゴールインしたよ!見て、この指輪、私たちにぴったりでしょ】
もう一件は豪から。【美希、会いたい。こっちの用事が片付いたら、すぐに帰るから】
最後は、指導教官の植田蓮(うえだ れん)からだった。【高木さん、本当にW国の音楽院への留学を辞退するのか?君の才能を埋もれさせてはいけない。もう一度、考え直してほしい】
婚姻届の写真と、豪の【会いたい】というメッセージ。それはまるで、私の愚かさをあざ笑うかのように、顔をひっぱたかれたような衝撃だった。
心臓が、針で刺されるようにチクチクと痛み始めた。指先まで震えが伝わってくる。
私はゆっくりとトーク画面を開き、返信を打ち始めた……
第2話
千佳への返信は、たった一言だけ送った。【おめでとう】と。
すぐに、植田教授にも返事をした。【先生、そのお話、やっぱりお受けします】
すぐに千佳から返事がきた。送られてきたのは、二人が固く手を握り合っている写真だった。薬指にはめられたダイヤモンドの指輪が、スマホの画面越しでもまぶしく光っていた。
そのメッセージは、隠しきれない喜びで弾んでいた。【彼がね、私のことをお姫様だって言ってくれたの】
植田教授からも、すぐに返事があった。【よかった!楽団の人たちがもうすぐ国内に戻ってくるから、航空券は彼らが手配してくれる。1週間後には顔合わせだからね、がんばって!】
スマホの画面を見ながら、私はふうっと長いため息をついた。
隠していた卒業証書をカバンに押し込んだ。7周年の記念日に、サプライズで見せるつもりだったこの証書が、今ではここから逃げるための切符になった。
まだ人探しのサイトのページは開いたままだった。私はそっと、送信ボタンを押した。
生い茂る木々の葉のすき間から、別荘にいるあの男の横顔が見えた。相変わらず、すべてが自分の思い通りに進んでいるという自信に満ちた顔だった。
豪、今度こそ、私は本当にあなたの元を去るわ。
家族だなんて言ってたあなたが裏切るなら、私は本当の家族を探しに行く。
私は、ふらつく足取りで自分の部屋に戻った。
思った通り、その日の夜、豪は帰ってこなかった。
午前3時、スマホが震えた。彼からのメッセージだった。
【美希、会社で急な出張が入ったんだ。いい子で待ってて。愛してる】
空が明るくなり始めた頃、今度は千佳からメッセージと動画が送られてきた。
【美希、私は今、深津市にいるの!彼が、まるでお城みたいな家を建ててくれたの!すっごく幸せ!】
動画に映っていたのは、広大な敷地の中心にある音楽噴水だった。その真ん中には、大きなクリスタルでできた白鳥のオブジェが立っていて、太陽の光を浴びてキラキラと輝き、目がくらむほどだった。
豪は顔の半分しか映っていなかったけれど、甘ったるい声が聞こえてきた。「千佳、誰にメッセージ送ってるんだい?」
「もちろん、美希よ」千佳は甘えた声で笑いながら、彼の首に抱きついた。「どうしたの?美希は私のいちばんの友達なのに」
カメラがぐいっと向きを変え、豪の顔を真正面から捉えた。
私ははっきりと見た。彼の瞳が一瞬、驚きに細められ、それからゆっくりと力が抜けていくのを。
それもそうか。豪にしてみれば、私が大学に通っているなんて、夢にも思わないだろう。
昔の豪はいつも、私を強く抱きしめ、髪を優しく撫でながら、狂おしいほどの独占欲をその瞳に宿していた。
「美希、学校には行かないでくれないか?君が他の奴らの目に触れるのは嫌なんだ」
私の耳たぶにキスをしながら、彼は言った。「こんなに綺麗な君が、他の男に取られたらどうするんだ?」
でも、私には音楽家になるという夢があったから、豪に内緒で大学に願書を出した。
大学では毎日マスクをして、男の子とは一切話さなかった。だから周りからは、付き合いの悪い、変わった子だと思われていた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
卒業証書をもらった日は、豪が帰ってきたら見せびらかしてやろうと思って、得意げな言い方をこっそり何度も練習したんだ。「ほら、誰にも取られなかったでしょ?」って。それから、卒業式に一緒に行こうって誘うつもりだった。
今となっては、「取られてしまった」のは豪のほうだったなんてね。
最初から、千佳から積極的に近づいてきた。その親しげな態度が、なんだか目的があるように感じて少し苦手だった。でも、話してみると、私たちには共通の趣味がたくさんあることがわかった。
乗馬もアーチェリーも好きで、好きな色も白で、ピアノを弾くのも好きだった。
千佳は、女の子らしい秘密も打ち明けてくれた。「美希、憧れの人がいてね、その人が私のこと好きだって、援助したいって言ってくれてるの。どうしたらいいかな」
その頃の私は、豪との恋愛に夢中だったから、笑いながらこう答えた。「自分の気持ちに素直になるのが一番だよ」
もしあのプロポーズの場面を見ていなかったら、私は一生気づかなかっただろう。千佳の言っていた「憧れの人」が、毎日私に「愛してる」と言っていた豪だったなんて。
涙は出なかったけれど、心の奥で泣いていた。苦い思いが、体中に広がっていく。
動画はまだ続いていた。
豪は千佳をお姫様抱っこしていて、その言葉はどこまでも優しく、甘かった。
「千佳、さっき俺のことなんて呼んだ?社長?二人きりなのにそんな他人行儀な態度とるようになったか、ずいぶん調子に乗ってるな……今夜は俺が、しっかり『お仕置き』してやらないとな」
そこで動画はぷっつりと途切れた。
私の手からスマホが滑り落ち、ソファの隅に転がった。
ぎゅっと目をつむり、私は体を丸めた。肩の震えが止まらなかった。
そんな親しい言葉は、豪から一度も言われたことがない。
今までは、彼が口下手で、愛情表現が苦手なだけだと思っていた。でも今、ようやくわかった。できないんじゃなくて、私にはしたくなかっただけなんだ。
千佳からのメッセージは、まだ次々と送られてくる。
【美希、彼は夜もすごいの。私は最高の男を捕まえちゃったかも。きゃっ】
【あなたがくれたお祝いのプレゼント、彼に破られちゃったの。えーん……】
【美希、ご主人も、いつも甘えてくるって言ってたよね。何かコツとかあったら教えてよ。私はもう身が持たないよ】
私の心は、まるでナイフで引き裂かれたようだった。冷たい風が、その傷口に容赦なく吹き付けてくる。
千佳にねだられて贈った、あのプレゼントを思い出した。3軒も店をはしごして、やっと見つけたセクシーなランジェリーだった。ぎゅっと目をつむると、麻痺していたはずの心の底から吐き気がこみ上げてきて、息が詰まりそうだった。
心から信頼していた友達と、骨の髄まで愛した男。二人が一緒になって、私をズタズタに引き裂いた。
このすべてが、本当にただの偶然なのだろうか。
突然、豪からの着信を知らせる、特別な通知音が鳴った。
開いてみると、そこには取引先との契約を結んでいる彼の写真があった。スーツをパリッと着こなし、落ち着いた笑みを浮かべている。添えられたメッセージは、いつものように優しかった。
【美希、会議が終わったよ。君との夕食には間に合いそうだ。サプライズがあるからね】
豪の芝居は、どこまでも完璧だった。
もし千佳の動画を見ていなかったら、私はきっと今も、豪の甘い言葉に騙されて、彼が作った嘘の世界で幸せな夢を見続けていたことだろう。
夜6時、時間ぴったりに豪がドアを開けて入ってきた。
オーダーメイドのスーツには、しわ一つない。体からは、私が贈った香水の匂いがした。首筋や手首には、浮気の痕跡なんて少しも残っていなかった。
その瞳にはいつもの優しい光が満ちていて、腕には白いバラの花束を抱え、手には私の大好きなチョコレートを提げていた。そして、身をかがめて私の額にキスをした。
「美希、ただいま」
私は冷めた目で、豪が手慣れた様子で花を花瓶に生け、着替えに行く後ろ姿を眺めていた。
夕食は、ピアノの生演奏があるレストランだった。窓の外には、静まり返った夜の港が見えた。
穏やかなピアノの曲が流れる中、豪は切り分けた肉を私の前に差し出しながら、少し眉をひそめて言った。「美希、怒ってるんだね」
それは疑問ではなく、確信に満ちた口調だった。
「三回目だ。君が俺のメッセージを無視したのは」
彼は私の手を握り、じっと見つめてきた。「7周年の記念日を一緒に過ごせなかったから、怒ってるのかい?」
私の手は、ぴくりと震えた。心臓を細い針で突き刺されたような痛みが走った。
豪はすべてを知っている。知っていて、わざわざ記念日に千佳にひざまずいたのだ。今さら記念日の話を持ち出すなんて、皮肉にもほどがある。
私たちの間には、本当の夫婦の絆なんて、一度もなかった。
私は顔を上げ、冷たく疲れた瞳で彼の目をまっすぐに見つめ、一言ずつ区切るように問い返した。
「じゃああなたは、私に何かやましいことをした?」
豪はテーブル越しに私の手を強く握りしめた。「美希、言っただろ。君は俺の命なんだ」
彼は私を見つめ、その瞳は真剣そのものだった。「もし俺が君を裏切るようなことをしたら、君を完全に失うだろう。だから、美希、俺は絶対に君を裏切ったりしない」
私はうつむいて、ふっと笑い声を漏らした。
「そう、わかったわ」
あなたの望み通りにね。
すぐに、あなたの願いは叶うでしょ。
第3話
どうやら豪は、勘違いをしているようだった。
彼が手を挙げて合図すると、窓の外がとつぜん、無数の光で明るくなった。
数万機のドローンが飛び立ち、夜空に男女が抱き合うシルエットを描き出した。周りの人々の驚きと羨望の声が聞こえるなか、豪は私を腕の中に引き寄せた。
空の光が「MK、愛してる」という文字に変わったとき、彼の吐息が私の耳をかすめた。そして「美希、永遠に愛してる」と、熱い言葉を囁いた。
空を見上げると、ドローンが描いたシルエットは、ゆっくりと夜の闇に消えていった。私は思わず、皮肉な笑みを浮かべた。
振り向くと、ちょうど豪の視線とぶつかった。
彼はレストランの隅にいる人影をじっと見つめていた。千佳だ。彼女のテーブルには空のワインボトルが二本置かれている。その姿は、まるで雨に打たれてうなだれた花のように寂しげで、人の心をくすぐるようだった。
豪は私の手を握る力を、とっさに強めた。私が痛みに声を上げるまで彼は気づかず、慌てて「すまない、美希。会社で急用ができた。運転手に送らせる」と謝った。
手つかずのままのディナーを前に、私は嘲笑うかのように口の端を吊り上げた。
街角で車を止めさせて運転手を先に帰らせ、レストランに戻った。すると遠くに、ぐったりした千佳を抱きかかえ、慌てて救急車に乗り込む豪の姿が見えた。
車で後を追って病院まで行くと、豪が彼女を抱いて駆け込んでいくのが見えた。彼は必死の形相で叫んでいた。「先生!妻はアルコールアレルギーなんです!妻を助けてください!」
看護師が千佳を救急治療室に運んでいくと、豪は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
その様子に、私の心臓はぎゅっと締め付けられた。まるで、昔私が横山家から逃げ出した時のようだった。あの時彼も同じように慌てふためき、よろよろと医師の手を掴んで、私を助けてくれと懇願していたかのようだった。
同じような光景。でも、豪が抱きしめる人も、口にする名前も、もう違っていた。
「永遠に愛してる」という彼の誓いの言葉は、泡のようにはかなく、跡形もなく消え去ってしまった。
千佳が処置室から出てくると、豪はすぐに彼女の手を握った。顔は真っ青だ。「頼むから、もう俺を怖がらせないでくれ。君の望みはなんでも叶えるから」
千佳は弱々しく顔をそむけた。「あの女のところへ行ってあげて。私はもともと他人だもの。彼女を愛してるって言ったじゃない。私のことなんか放っておけばいいわ」
豪は慌てて彼女の口を塞いだ。その目には、私には一度も見せたことのない切羽詰まった色が浮かんでいた。「俺たちの間じゃ、彼女こそ他人だ。約束してくれ、もう二度と自分を傷つけるな」
彼の後ろに立つ私の心臓は、まるで鈍いナイフで何度も切りつけられるようだった。息もできないほどの痛みが、私を襲った。
ふと、竹内家の地下室での出来事が頭をよぎった。豪の祖父の竹内龍介(たけうち りゅうすけ)が私に罰を加えようとした時、豪が私を必死に身を挺して守り、目を真っ赤にして叫んでいた。
「美希は俺の命だ!彼女に比べたら、あなたなんてどうでもいい!ただの他人が、どうして彼女に手を出せるんだ?殴るなら、俺を殴れ!」
なんて滑稽なんだろう。あれからいくらも経っていないのに、今や私が豪の言う「他人」になってしまったなんて。
心臓を重いハンマーで殴られたような衝撃だった。私はその場で凍りつき、身動き一つできなかった。
ちょうどその時、廊下の向こうで何かトラブルがあったらしい。若い看護師の手からトレイが滑り落ち、ガシャンと大きな音を立てた。
豪は素早くそれを蹴り飛ばし、千佳にかすり傷ひとつ負わせなかった。しかし、薬品の入ったガラス瓶は、運悪く私の足元へと飛んできた。
私はよろけて倒れ込んだ。砕けたガラスが手のひらに突き刺さり、あっという間に血が筋となって流れた。
周りから驚きの声が上がった。豪はちらりと看護師の方を一瞥したが、眉一つ動かさない。彼は財布から小切手を取り出すと私の足元に投げ捨て、千佳を庇いながら背を向けて去って行った。
私の目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。
すべては一瞬の出来事だった。若い看護師は我に返ると、慌てて私を支え、手当のために部屋へ連れて行ってくれた。
処置室では、看護師たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「竹内社長の奥さん、幸せすぎじゃない?あんなにイケメンで一途なんて」
「知らないの?アレルギーなんかじゃないのよ。救急治療室に入ったらすぐ、旦那さんを試しただけだって。まさかあんなに怖がらせるとは思わなかったって言ってたわ」
看護師の一人が、包帯でぐるぐる巻きになった私の左手を見て、同情したように言った。
「はぁ、とんだ災難でしたね。顔に傷がつかなくてよかったですよ……支えてくださる方がいらっしゃるかどうかで、人の運命って変わってくるものなんですね」
私は無表情でその言葉を聞いていた。体は氷のように冷たく、手のひらの鋭い痛みが心臓まで突き刺さるようだった。
私は黙って小切手をしまい、トレイに目をやった。そこには、血に染まった数珠のブレスレットが静かに置かれていた。
それは昔、豪が千段の階段を登って手に入れたものだった。彼は自ら仏の前で写経し、49日間、毎日お経を唱えて祈願した。そして、ようやく私の手にはめてくれたのだ。
その時、豪はこう言った。「美希、俺の愛がある限り、このブレスレットが君を永遠に守ってくれる」
その言葉がまだ耳に残っているのに、彼の心はとっくに変わってしまった。このブレスレットまでもが、もう私を守ろうとはしてくれない。
それなら、もう何もいらない。
私が処置室を出るとすぐ、豪が千佳の薬を替えに、看護師を呼びに来た。
視線の端に、トレイの中のブレスレットが映った。その瞬間、彼の瞳孔がきゅっと収縮した。
第4話
豪が様子を見に行こうとした時、スマホが鳴った。
画面には「千佳」の文字が光っている。受話器からは、彼女の甘えるような声が聞こえてきた。「豪、頭が痛いの」
豪はトレイの上のブレスレットに再び目をやった。指先をきゅっと丸めると、結局は背を向けて看護師の後について行ってしまった。
夜になり、雨が降り始めた。
古傷がずきずきと痛む。私は布団にくるまって、止まらない震えに耐えていた。
昔は、雨の夜になると、いつも豪が私を腕の中にすっぽりと包み込んでくれた。彼の温かい体温が、私の体の芯から冷えを追い払ってくれたのに。
そして、愛おしそうに囁くのだ。「美希、この傷は俺のためについたんだ。だから、これからの雨の夜は、俺がずっとそばにいるよ」と。
今、豪はその約束を破った。
スマホが震えた。千佳からのメッセージだった。
【美希、彼の家には年増の女がいるの。恩返しのために置いてやってるんだって。ムカついたから、罰としてどしゃ降りの雨の中でずっと待たせてるところ!】
添付された動画には、豪が土砂降りの雨の中、傘もささずに立っている姿が映っていた。高級なスーツはずぶ濡れで体にぴったりと張りつき、痩せた体のラインを浮かび上がらせている。
時折光る稲妻が、彼の青白く、それでいて頑なな表情を照らし出していた。
動画に映る見慣れた顔を見ているうちに、ふと笑いがこみ上げてきた。でも、笑いながら、涙がぼろぼろとこぼれ落ちてくるのだった。
恩返し?
恩返しだというのなら、どうして私を外の世界へ送り出してくれなかったの?それなのに、愛という名の籠に閉じ込めて、私の翼を無理やり折ったりしたの?
スマホには、夕方に豪から届いたメッセージがまだ残っていた。【美希、今夜は海外との会議があるから、待たずに先に寝ててくれ】
笑わせる。彼の言っていた海外との会議って、結局は他の女のご機嫌取りだったわけね。
苦しくて、ぎゅっと目を閉じる。涙が枕カバーをじっとりと濡らしていった。
翌朝、目が覚めると、寝室のドアがそっと開かれた。
部屋着姿の豪が入ってきた。その目は真っ赤に充血している。
彼はベッドのそばまで来ると、包帯だらけの私の手をそっと握った。「美希、誰に傷つけられたんだ?また伊藤が何かしたのか?あいつにはちゃんと……」
言いかけて、うっかり口を滑らせるところだったと気づいたのだろう。豪は私の額にキスを落とすと、こう言った。「美希、あとで気晴らしに乗馬クラブへ行こう。
君を傷つけたのが誰であれ、俺が必ず仇をとってやる」
私は静かに口を開いた。「大丈夫、自分のことは自分で何とかするから」
それから豪は、とことん優しかった。抱きかかえて洗面所まで連れて行ってくれたり、朝食を一口ずつ食べさせてくれたり。傷には一番効く薬を塗ってくれた。
私は魂の抜けた人形のように、ただされるがままになっていた。彼の首筋にある赤い痕を、無表情で見つめながら。
竹内家の乗馬クラブは、ゴルフ場に隣接している。
着いて早々、遠くに白い人影が見えた。ゴルフウェアのミニスカート姿の千佳だ。彼女は男性客の隣に立ち、不満そうな顔で愛想笑いを浮かべている。
豪は足を止めると、私の方をちらりと見て、何でもないような口ぶりで言った。
「あれは会社が新しく雇った秘書だ。うちの支援契約を利用していて、今年卒業したばかりなんだ」
私はふっと笑って言った。「様子を見に行かなくていいの?」
豪は、まるで誓いを立てるかのように真剣な顔つきで、私をじっと見つめて言った。「美希、俺の妻は君だけだ。他のやつらは、ただの他人だ」
私はもう何も言わなかった。手綱を強く握りしめ、ひらりと馬に飛び乗ると、そのまま反対方向へと駆けだした。
豪も馬を並べてついてきたけど、その視線はゴルフ場の方に吸い寄せられていた。彼は上の空で、心ここにあらずといった様子だ。
例の男性客の手が千佳の腰に回されそうになった、その時だった。豪は、急に手綱をぐいっと引き締めて馬を止めた。
「美希、すまん。取引先への電話を一本忘れていたのを思い出した。代わりにスタッフを呼んでおくから」
私はフンと鼻で笑うと、馬に鞭を入れて走り出した。
木々が茂る隠れた場所まで馬を進めると、どこからか女性の甘えたような声が微かに聞こえてきた。
続いて、笑いを含んだ男の低い声がした。「なぁ、あいつに君のどこを触られたんだ?言ってみろ。俺が全部きれいにしてやるから」
「だめ……そこは、やめて……」
恥じらうような女の声が、まるで鋭い針のように私の鼓膜に突き刺さった。
私は馬を止め、まばらな木の葉の隙間からそっと覗き込んだ。
二つの体が絡み合っている。千佳と、豪だった。
怒り、吐き気、絶望……胸の中で様々な感情が渦巻いたが、最後にはすべてが冷たい無感情へと変わっていった。
その場を離れようと馬の向きを変えた、その時だった。乗っていた馬が何かに驚いたのか、突然、制御不能なほどに暴れ出したのだ。
私は必死で手綱を握りしめて馬を落ち着かせようとした。しかし、他の馬たちもそれに驚き、あっという間に場は混乱に陥った。
スタッフたちが慌てふためいて駆け寄ってきたが、誰も迂闊に近づけずにいる。
私がなんとか馬をなだめようとした、その瞬間、バチンという音と共に手綱が切れてしまった。
すさまじい勢いで、私の体は馬から振り落とされ、地面に強く叩きつけられた。
意識が完全に闇に落ちる直前、血の気を失った豪の顔が見えた。そして、魂が引き裂かれるような悲痛な叫びで、「美希!」と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
けれど、彼の腕の中では、怯えた様子の千佳が、ずっと固く抱きしめられていた……
第5話
うとうとしていると、ドアの向こうから話し声が聞こえてきた。
「社長、乗馬クラブの件、調べました。誰かが古い手綱に交換したようです。あの日、高木さんがいつも乗る馬に触れたのは、奥さんだけでした」
しばらくの沈黙の後、豪が釘を刺すように言った。
「この話はこれでおしまいだ。誰にも漏らすな」そして少し間を置いてから、「いつもの店の看板メニューを、誰かにデリバリーさせてくれ」と続けた。
秘書の石井亮太(いしい りょうた)は一瞬、きょとんとしたようだった。「ですが社長は、以前、高木さんには手料理を振る舞うと……」
その言葉を最後まで言い終わる前に、彼は豪の険しい表情に気づいたのだろう。「失礼しました。余計なことを申しました」と、慌てて言葉を改めた。
亮太の足音が遠ざかると、入れ替わるようにして女のすすり泣く声が聞こえてきた。
「私のせいだわ。わざとじゃないの。私がゴルフ場に行かなければ、あなたの気を散らすこともなかった。そしたら、あなたも高木さんをしっかり守れたのに」
そして、スープジャーの蓋を開ける小さな音がした。「一晩かけて作ったスープよ。高木さんへのお詫びの気持ちに」
けれど、豪は突然彼女の手を掴んだ。そして、手についた赤い跡を見て眉をひそめた。
「どうしたんだ、こんな怪我をして。さあ、薬を塗りに行こう。ついでに……自分を大事にしなかった罰だ」そう言うと、彼は千佳を横抱きにした。
千佳は泣きそうな声で問いかけた。「あの、高木さんは……」
「今は、他の女のことなんて気にしてる場合じゃないだろ。俺が怒ってるんだから」
二人の足音が完全に聞こえなくなってから、私はそっと目を開けた。涙が一筋、目じりを伝って流れた。
手足を動かしてみる。幸い、大した怪我ではなかった。
様子を見に来た若い看護師が、私が目を覚ましたことに気づいてぱっと顔を輝かせた。そして、嬉しそうに言った。
「旦那さんはあなたのこと、本当に大事にしていますね。何人もの専門の先生に診てもらって、その先生たちを病院のすぐ近くのホテルに待機させていますよ。それに、あなたが検査を受けている間、ずっと外でひざまずいて祈っていましたから。無事だって分かるまで、立ち上がろうともしなかったんですよ」
私は静かに口を開いた。「あの人は、夫じゃありません」
看護師が驚いた顔をした、まさにその時だった。豪が慌ててドアを開けて入ってきて、私たちの会話を遮った。
「美希、目が覚めたのか?何か買ってきたけど、お腹は空いてるか?」
私は買ってきたであろう食べ物に目をやった。そして、豪の襟元についている、目に焼き付くような口紅の跡に視線を移す。でも、何も言わなかった。ただ顔を上げて、彼に尋ねた。「乗馬クラブの件、調べた?」
豪は水の入ったコップを差し出しながら、落ち着いた声で言った。
「ああ、調べたよ。馬具が古くなっていたのと、新しくした餌が馬に合わなかったのが重なった、ただの事故だった。担当のスタッフはもう解雇した」
豪はうつむいたまま、親指で人差し指をこすっていた。それは、彼が嘘をつくときの癖だった。
「美希、あの時は千佳に仕事のことで話しかけられて、すぐに君を守れなかったんだ。あの子もすごく反省してる。だから、この件はもう水に流してやらないか?」
私は目を閉じた。
ふと、高校時代のことを思い出した。クラスの男子にシャーペンの先で手をつつかれたことがあった。それを知った豪は、3日もしないうちに、その男の一家を海市から完全に追い出したのだ。
それなのに、今、千佳にここまでひどい目に遭わされたというのに。彼はあっさりと「水に流して」と言う。
胸に綿でも詰められたみたいに、息苦しくてたまらない。でも、数日前のような胸を刺す痛みは、もう感じなかった。
私はそっと息を吐き、窓の外を流れていく雲に目をやった。
もうすぐだ。もうすぐ、自分のための自由な人生を手に入れられる。
3日後、私は退院した。
豪は私を美容院に連れて行って綺麗にセットさせると、今度は海市大学へと向かった。
「美希、今日は海市大学の卒業式なんだ。学長から特別に招待されててね。ちょうどいいから、君も気分転換にどうかなって」
私は豪の隣に座り、卒業生代表として壇上でスピーチする千佳を見ていた。
豪の視線は彼女に釘付けで、その眼差しからは愛情と称賛の気持ちが溢れ出ていた。
本当なら、あの場所に立つのは私だったのに。
植田教授から卒業生代表のスピーチを頼まれた時は、本当に嬉しかった。壇上に立つ私を見て、客席にいる豪がどんなに驚いて、そして誇らしく思ってくれるだろうかと想像していた。
でも、あのプロポーズを見てしまってから、断ったのだ。
私は、静かにここを去る。豪は、もう私が用意したサプライズにふさわしい男じゃないから。
千佳が壇上から降りると、豪はトイレを口実に席を立った。
私はその隙に、ドレスの上に受け取ったばかりのアカデミックガウンを羽織った。そして、急いで植田教授のところへ向かい、一緒に写真を撮ってもらった。
植田教授は私を見ると、とても誇らしげな顔で航空券と書類を手渡してくれた。「高木さん、君の未来が輝かしいものでありますように、祈っている」
彼に別れを告げて振り返ると、すぐそこに豪が立っていた。
豪は私のその姿を見て、心底驚いたような顔をした。
「美希、どうしてアカデミックガウンを着てるんだ?それに、手に持ってるものは何だ?」
第6話
私は静かに顔を上げて言った。「学生から借りたの。私は大学に行けなかったから、一度着てみたかったんだ」
手に持っていた航空券と書類をひらひらさせながら、私は淡々と言った。「これは拾いもの、ちょうど警備室に届けようと思っていた」
豪の目に一瞬よぎった罪悪感を見て、私は皮肉な気持ちになった。
あの時、彼の歪んだ独占欲がなければ、私も今日の卒業生の一人だったはず。ガウンを着て、壇上で拍手を受けていたはずなのに。
豪は声のトーンを和らげた。「じゃあ、俺が一緒に行くよ」そう言って、それを受け取ろうと手を伸ばしてきた。
ちょうどその時、学長が彼と一緒に写真を撮りたいとやって来た。私はその隙にさっと身をかわす。「あなたは先に行って。私一人で大丈夫だから」
道を歩いていると、千佳が木に寄りかかって私を待っていた。彼女は隠そうともしない得意げな笑みを浮かべていた。
「もう全部知ってるんでしょ?」千佳は首を傾げて笑った。「あ、そっか。見るべきものは全部送ってあげたもんね。馬から落ちるのって、すごく痛かった?
彼が最初に私に会いに来た時、なんて言ったか知ってる?」彼女はわざと間を置いた。「『夫として、君を3年間養いたいんだ』ってね」
私は口の端を歪めて冷たく笑った。「つまり、あなたは最初からわざと私に近づいてきたってこと?私をからかって、楽しかった?」
千佳はさらに楽しそうに笑った。「そうよ。あなたがどんな顔してるのか、見たかっただけ。どうして男たちはみんな、あなたのことを忘れられないのかしらってね!」
彼女の眼差しが、急に意味深なものに変わった。「意味がわからない?大丈夫よ、すぐにわかるから」
突然、千佳のスマホが鳴った。画面を一瞥すると、彼女は私に視線を戻す。その目には勝者の誇示があった。「夫が呼んでるの。また今夜ね」
「また今夜ね」という言葉の意味を、私はすぐに理解することになった。
豪は私のために、豪華クルーザーで誕生日パーティーを用意してくれていた。
パーティーの幕開けを告げる花火が打ち上げられる直前、豪は千佳を壇上に呼び、そして私の方を振り返った。
「美希、奇遇だな。君たちは同じ誕生日なんだ。二人でオープニングを飾ってくれないか」そして彼はこう付け加えた。「乗馬クラブの件、この子はずっと気にしてたんだ。今日で水に流して、仲直りしてやってくれ」
私の視線は、千佳が着ている、きらびやかなダイヤのドレスに吸い寄せられた。
それは去年、豪がバレンタインのプレゼントにくれたものだった。彼はその時、「こんな輝きが似合うのは、君だけだ」と言ってくれたのに。
私がドレスをじっと見つめているのに気づき、豪は慌てて説明した。「彼女がちょうどいいドレスを持ってきてなくてね。君のクローゼットから適当に一枚、選んだんだ」
彼は私の耳元に顔を寄せた。「いい子だから。あとで新しい、もっといいのを買ってやるから」
私は静かに豪を押し返し、無表情で言った。「手の怪我がまだ治っていないから、私は参加しないよ」
その言葉を聞くと、豪はすぐに私を席に座らせ、おでこにかかった髪を優しく直してくれた。「忙しくて忘れてた、すまない。手はまだ痛むか?」
私は手を引いた。「あなたは招待客の相手をしてきて。少し一人になりたいの」
豪が去ると、ホールの喧騒が少し遠のいた気がした。
不意にスポットライトが点灯し、中央のピアノを照らし出す。聞き慣れたピアノのメロディーが流れ始めた。
ピアノの前には豪と千佳が並んで座っていた。その様子は、誰も入り込めないような親密な空気をまとっている。二人の演奏は、息もぴったりだった。
一曲が終わると、割れんばかりの拍手が起こった。
招待客たちのひそひそ話が、私の耳にも届いてきた。
「この曲って、恋人たちが弾く定番じゃない?竹内社長は、これって事実上の交際宣言ってこと?」
「馬鹿なこと言わないで。竹内社長には小さい頃から大切に育ててきた、命の恩人がいるって聞いたわよ。目に入れても痛くないほど、大事にしてるって……」
「ふん、あの横山家で三日三晩も弄ばれたっていう『命の恩人』のこと?そんな女、どの男が我慢できるっていうのよ……」
全身を駆け巡る悪寒に、私は震えが止められなかった。
豪が人混みをかき分けて、私のそばに戻ってきた。「美希、気に入ってくれたか?君のために特別に用意したんだ。千佳がちょうどこの曲を弾けるって言うから……」
私はただ、じっと彼を見つめた。
豪の声は次第に小さくなっていった。そして、冷たく震える私の手を握りしめた。
「嫉妬したのか?美希、あの子とは何もない。俺たちはもう18年も一緒にいるんだ。信じてくれ、俺の心には君しかいない。彼女は会社と支援契約を結んでるんだ。でなければ、そばに置いたりはしない」
豪は私の手を固く握ってデッキへと連れ出した。ちょうど遠くで花火が打ち上がり、次々と大輪の花を咲かせ、夜空を埋め尽くした。
「美希、俺は……」
彼の言葉は、突然鳴り響いた着信音に遮られた。
千佳からの電話だった。彼女の声は恐怖に満ちていた。
「高木さんどこにいるか知ってる?ドレス返してほしいって、埠頭で会う約束したんだけど……もう着替えたから、すぐ返すよ。ここ、すごく暗くて……きゃあッ!あなたたちは誰?」
続いて、スマホが地面に落ちる音と、女の悲鳴、そして男たちの下品な笑い声が聞こえてきた。
「どこのどいつだ、こんな可愛い女を俺たち横山家のシマに送り込んできたのは?たっぷり可愛がってやろうじゃねえか……」
「助……助けて!触らないで!やめてッ!」
布が引き裂かれる音を最後に、通話はぷつりと切れた。
豪はスマホを強く握りしめ、勢いよく私の方を振り返った。
第7話
「私じゃない」私はスマホを取り出して潔白を証明した。「彼女とは一度も話してない」
豪はふっと笑うと、私の体を強く抱きしめた。「美希、何を怖がってるんだ?あんな女のために、君を信じなくなるわけないだろう」
私は、何かをこらえて歪んだ豪の顔を呆然と見つめていた。彼の考えが全く読めなかった。
「美希、何があったのか調べてくる」
豪は私を解放すると、指先で私の頬をなぞった。「今夜は荒れそうだから、先にボディーガードに家まで送らせる。君が目を覚ます頃には、すべて片付いているさ」
彼はボディーガードを呼び、彼らが私を車に乗せるのを自ら見届けた。
車のドアが閉まった瞬間、空に雷鳴が轟いた。大粒の雨が地面を叩きつけ、あっという間に土砂降りになった。
クルーザーを彩っていた花火は、激しい雨に打たれてわずかな火の粉を残すだけ。それはまるで、私たちの18年間の絆が、突然消えてしまったかのようだった。
私は雨のカーテン越しに、雨の中に立つ男を見つめた。彼の姿は、すぐに水煙に飲み込まれて見えなくなった。
次の瞬間、黒い布が突然頭に被せられた。鼻をつく薬の匂いが流れ込み、意識が急速に遠のいていった。
意識を失う直前、車に乗る前に見た豪の冷たい瞳を、ふと思い出した。
やはり彼はわざとだ。わざと優しくして私を油断させ、警戒心を解かせたんだ。
次に目を覚ました時、私は普段着に着替えさせられていた。手足は太い縄で縛られ、口にはガムテープが貼られていた。
視界に豪の姿が映った。彼は冷たく私を一瞥しただけで、すぐに視線を外した。呼び止めて問い詰めたかったけれど、力が入らなかった。
ボディーガードに引きずられながら豪のそばを通り過ぎる時、彼は氷のように冷たい言葉を吐いた。
「美希、君が横山家にめちゃくちゃにされたからって、千佳まで巻き込むな」
涙が堰を切ったようにあふれ出した。
ついに本音を言った。豪は私が横山家から無事で出てきたなんて、一度も信じていなかったんだ。
どうりで。あの時、妊娠がわかったのに、「事故」で流産してしまったわけだ。
あれは、決して事故なんかじゃなかった。
彼は、あの子が自分の子だと信じていなかったんだ。
私は後悔した。
あんなに必死で豪を助けたことを後悔した。助けた結果が、彼からの軽蔑と裏切りだったなんて。おまけに、私たちの子供までその手にかけたんだ。
「横山家に送って、千佳と交換しろ」
無慈悲な言葉に、私は必死にもがいた。いや、あんな地獄にはもう戻りたくない。
けれど、手足は固く押さえつけられ、少しも抵抗できなかった。
私が崩れ落ちそうになったその時、豪がふと優しい声で言った。「美希、待ってろ。すぐに助けに戻るから」
私は目を閉じると、自然に涙が落ちた。
引きずられて遠ざかる私の後ろ姿を見て、豪は急に胸騒ぎを覚え、鋭い声で叫んだ。「待て、彼女の袖をまくれ」
ボディーガードは言われた通りにした。私の左手首があらわになり、そこには何もつけられていなかった。
豪の張り詰めていた神経が、ふっと緩んだ。
ない。あのブレスレットが、ない。
美希じゃない。
この替え玉は美希にそっくりだ。あまりにも似ていて、危うく見間違えるところだった。
祖父が言っていた。竹内グループはこの替え玉の家族の面倒をちゃんと見ており、彼女は自ら志願したのだと。
豪はもう一度ボディーガードに別荘の監視カメラ映像を見せた。画面の中の「私」が無事なのを確かめると、ようやくこの「替え玉」の私が横山家へ連れて行かれるのを黙って見ていた。
指定された場所に着くと、全身あざだらけで、ボロボロの服を着た千佳が中から出てくるのが見えた。
私のそばを通り過ぎる時、あの女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そして声を出さずに[死ね]と唇を動かすと、ふらつきながら豪の胸に飛び込んだ。
「千佳、怖かっただろう。もう大丈夫だよ、迎えに来た」
豪は優しく千佳をなだめながら、自分のジャケットを脱いで彼女にかけた。そして、壊れ物を扱うように千佳を横抱きにすると、振り返りもせずに車で走り去った。
背後で、重い鉄の扉がガチャンと音を立てて閉まった。私は完全に、横山家という地獄に閉じ込められた。
息が詰まるような絶望から立ち直る間もなく、鉄の鎖が私の首に叩きつけられた。鎖のもう一方の端は、横山家の当主である横山大輔(よこやま だいすけ)が握っていた。
彼は金の縁の眼鏡をかけ、鎖をゆっくりと揺らしながら言った。「また会えたね。
あの時、一晩付き合えと言ったのに、お前は竹内って男のために操を守るだなんて言った。それどころか、俺たち横山家の閻魔陣に挑戦するなんて賭けまでしたな」
大輔は軽く笑った。「残念だったな。結局、あいつはお前が俺に汚されたと思ってる。自分の子供まで、平気で殺すくらいにな。
今回はもっと面白い。別の女のために、自らの手でお前を俺の元へ送り返してきた」大輔は身を屈めた。「お前は今度こそ逃がさないぞ」
彼は手を伸ばして私の口のガムテープを剥がした。強い粘着力に、皮膚が引き裂かれるように痛んだ。
すぐに、顎を強く掴まれた。そして、冷たい錠剤が無理やり喉に押し込まれた。
大輔は私を、大きなベッドが一つだけ置かれた簡素な部屋に引きずり込んだ。私のスマホを投げ捨てながら言った。「10分で薬が効き始める。
あの男に10回電話するチャンスをやろう。もしあいつが10分以内にここに来たら、お前を解放してやる。
小細工はなしだ。電話していいのはあいつだけだ。さもないと、お前は一生ここから出られない」
体の奥からこみ上げてくる熱を感じながら、私は震える指で、骨の髄まで染み付いたあの番号を押した。
第8話
1回電話をかけてみたけど、返ってきたのは、ツー、ツー、という無機質な音だけだった。
2回、3回……9回目までかけたけど、誰も電話に出なかった。
大輔は腕を組みながら、してやったりという笑みを浮かべて、私を見ていた。
私の心は、どんどん底へと沈んでいくようだった。
10回目で、ようやく電話が繋がった。
私は、ほとんど叫び声だった。「豪にぃ、助けて!薬を盛られた……」
この「豪にぃ」っていう呼び方は、私たちだけの合言葉だった。
私がそう呼んだときは、すごく大変な時だってこと。だから豪は、すぐに駆けつけてくれる約束だったのに。
でも、電話の向こうから聞こえてきたのは、心配する声じゃなかった。豪の、嬉しさを隠しきれない声だった。
「君は妊娠したのか?本当に良かった!」
すぐに、千佳の泣きそうな甘い声が聞こえてきた。「豪、さっきはびっくりしちゃった。急にお腹が痛くなって……」
「大丈夫だ、すぐ病院に連れて行く」豪の声は、すごく心配そうだった。
「あの、高木さんは……」
「今は、君と赤ちゃんのことが一番だ。他のことは考えるな。な?」
「じゃあ、私たちの結婚式は……」
「もちろん、予定通り挙げる」
「あら、ごめん。手が滑っちゃった。じゃあね」
ツー、ツー、という無機質な音が、まるで錆びたナタみたいに、私の最後の望みを打ち砕いた。
大輔は鼻で笑うと、自分のスマホで豪に電話をかけた。
豪はすぐに出た。声は冷たく、いら立っている。「横山、人はもうお前に渡しただろう。二度と邪魔をするな!」
大輔はスピーカーの音量を最大にして、にやりと笑った。「へえ?じゃあ、こいつは好きにさせてもらうぞ」
「どうなっても俺に知らせるな!」豪の怒鳴り声に、千佳の悲鳴が混じった。「千佳!どうしたんだ……」
電話は、プツリと切れた。
大輔の、ねっとりとした手が私の頬を撫でた。私は思わず顔を背ける。嫌悪感で、全身が震えた。
「聞いたか?これで完全に諦めがついただろう」
私は自分のスマホを掴んで、もう一度かけた。お願い、豪、電話に出て。心の中は、その想いだけでいっぱいだった。
「おかけになった電話は、電源が入っておりません……」冷たい機械音声が流れた瞬間、私の心は底なしの闇に突き落とされた。
電源を切ったんだ。
暗くなったスマホの画面を見つめながら、私は涙をぼろぼろ流して笑った。
これが、豪が言ってた「愛」の正体だったんだ。
私が地獄でもがいているというのに、彼は別の女と新しい命の誕生を祝っていた。
意識が遠のく中、7歳の私を野良犬の群れから救ってくれた、豪の顔が浮かんだ。
彼の瞳は星みたいに輝いていて、パンをいくつかくれた。「これを食べて元気を出せ。そいつらを追い払ったら、うちに連れて帰ってやる」
16歳の時、私に言い寄る男の子たちを追い払いながら、豪は勝ち誇ったように言った。「僕の女に手を出すなんて、いい度胸してんじゃねえか」
場面は変わり、永遠の愛を誓ったはずの男が、ひざまずいて別の女にダイヤモンドの指輪を差し出していた。
抵抗しようとする気持ちが、ぷつりと切れた。
体の中から熱い波がこみあげてくる。すると、大輔のいやらしい顔まで、なぜか魅力的に見えてきてしまった。
私は腕に強く噛みついた。痛みで、少し意識がはっきりする。
大輔はストップウォッチを手に持っていた。そして、はっきりとカウントダウンの声が響く。10、9……1。
バンッ――
ドアが蹴破られる音がした。
飛び込んできた黒服の男が、一発で大輔を殴って気絶させた。
かすかな光が差す方を見ると、先頭に立っているのは背の高い、すらりとした男だった。
彼が近づくと、整った顔立ちがはっきりと見えた。どこかで見たことがあるような気がする。
男の声が、どこか遠くから聞こえてくるみたいだった。「美希、俺は君の婚約者だ。君のお兄さんに頼まれて迎えに来た。
美希、大丈夫か?」
「この薬は早くなんとかしないと、ひどい後遺症が残ります」部下が焦った声で言った。
手に、ひんやりした何かを握らされた。
目の前の男は、まだ優しく話しかけてくる。「美希、俺は君の婚約者だ。帰ったら結婚しよう。俺は君を助けに来たんだ……」
私は体の熱で溶けてしまいそうで、もう何も聞こえなかった。ただ本能のまま、目の前の男に抱きついた。
その後のことは、成り行きだった。
かろうじて意識が残っている中で、私は心の中で呟いた。豪、私たちはもう、終わりだね。
次にぼんやりと目が覚めると、周りの景色がすごい速さで後ろに流れていくのが見えた。
誰かに抱きかかえられて、運ばれているんだと、やっと気づいた。
私が目を開けたのに気づいて、男は顔を寄せた。そして私の手にリモコンを握らせる。「美希、それを押せば、ここでの全てと縁が切れる」
私はぼうっとリモコンを見つめた。男の励ますような眼差しに、私は指でボタンを押した。
男は静かに笑って、「それでいい」と言った。大きな手でリモコンを受け取ると、無造作に放り投げる。そして私の頭を優しく撫でた。「心配ない。必要なものは、ちゃんと全部持ってきたから。
君のスマホは、あの男の元へ送っておいた」男は少し間を置いて、続けた。「あいつが知るべきことは、全部その中に入っている」
私は頷いた。聞きたいことは山ほどあったけど、喉は息をするだけでも痛くて、諦めるしかなかった。
私がリモコンを押した、その瞬間に。二つの場所で、大きな炎が上がったことを、私は知らなかった。
一つは横山家のアジト。そしてもう一つは、私と豪が暮らした別荘。
そして、豪が私のために手配したW国行きのプライベートジェットは、10分後に深い海へ墜落することになっていた。
男に抱かれてプライベートジェットに乗り、そっと座席に降ろされたとき、耳元で優しい声が聞こえた。「さあ、家に帰ろう」
私はそっと目を閉じた。
豪、これからあなたが誰と結婚しようと、子供ができようと、もう私には、何の関係もない。