雲の如く、自由な空へ

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小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ...

Chương (1)

第1章

小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ姿になった。 しかし、革ベルトで椅子に縛り付けられた雫を残し、司は女秘書からの電話一本で、振り返ることもなくその場を去っていった。 雫は、そのあまりにも屈辱的で無様な格好のまま、夜が明けるまで拘束され続けた。 一晩中もがき続け、手首が血に染まるほど擦れて、ようやくベルトを解くことができた雫は、命からがら家へと辿り着いた。 だが、ボロボロになりながら帰宅した雫を待ち受けていたのは、リビングに集まった大勢の来客と、大型モニターに映し出された――映画館で見知らぬ肥満男と情を交わす、彼女自身の淫らな映像だった。 目を凝らせば、それがAIによって精巧に作られた動画であることは明らかだ。 第1話 小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ姿になった。 しかし、革ベルトで椅子に縛り付けられた雫を残し、司は女秘書からの電話一本で、振り返ることもなくその場を去っていった。 雫は、そのあまりにも屈辱的で無様な格好のまま、夜が明けるまで拘束され続けた。 一晩中もがき続け、手首が血に染まるほど擦れて、ようやくベルトを解くことができた雫は、命からがら家へと辿り着いた。 だが、ボロボロになりながら帰宅した雫を待ち受けていたのは、リビングに集まった大勢の来客と、大型モニターに映し出された――映画館で見知らぬ肥満男と情を交わす、彼女自身の淫らな映像だった。 目を凝らせば、それがAIによって精巧に作られた動画であることは明らかだ。 「意外ですね。普段はあんなに清楚で上品な雫さんが、裏ではいやらしい遊びをなさっているなんて」 秘書の西内美咲(にしうち みさき)は司に寄り添い、わざとらしく甘えた声を出した。 「社長、奥様とは結婚して五年間、一度も夜を共にしたことがないと伺いましたけど、それってもしや……」 美咲が言い終える前に、司はその体を抱き寄せた。薄い唇が侵略的とも言えるほど迫ったが、理性に縛られるように、美咲の唇のすぐ傍に、キスを落とした。 彼の黒い瞳には情欲が渦巻き、含みのある声で囁いた。 「五年間、あいつに指一本触れなかった理由は、君がいるからだ」 その一言で、場にいた人々は一斉に騒ぎ出した。 雫はそのおぞましい光景を目の当たりにし、玄関にあったアンティークの花瓶を力任せに叩き割った。 一瞬にして室内は静まり返った。雫は目を真っ赤に腫らし、花瓶の破片を踏みつけながら中へと歩を進めた。 彼女はスクリーンを指差し、枯れた声を絞り出した。 「あなたが、やったの?」 しかし、美咲は恐れる様子もなく、勝ち誇ったように笑った。 「奥様、社長を責めないでください。あの動画は……私が作ったんです」 そして、わざとらしく言葉を付け加えた。 「でも、素材を提供してくださったのは社長ですわよ」 再び沸き起こる嘲笑の中、雫の表情はますます険しくなっていった。 司は美咲をかばうように自分の背後に引き寄せると、冷徹な眼差しを雫に向け、軽々しく言った。 「美咲はまだ若くて遊びたい盛りだ。このAI動画、ただの悪ふざけに過ぎない。 そこまで目くじらを立てる必要がないだろう?」 雫はあまりの言い草に失笑した。鼻の奥がツンと痛み、激しい悲しみがこみ上げてきた。 彼女の声は震えていた。 「悪ふざけ?なら、彼女の顔をAIでアダルト動画のヒロインに差し替えるのはどうでしょうか?」 司の顔が瞬時に険しくなった。彼は雫に向かって大股で歩み寄った。 初めて自ら雫に伸ばした手は、情愛ではなく、彼女の襟元を力任せに掴むためのものだった。 「雫、貴様……やれるものならやってみろ」 司の瞳に宿る剥き出しの殺気は、氷の楔となって雫の心臓を深く突き刺した。 美咲は司の背後に隠れ、いかにも無実だと言わんばかりの表情を浮かべた。 「奥様、どうしてそんなに私を嫌うのですか? 昨夜、映画館で社長と楽しんだあの『プレイ』は私が提案したものですが、悪気はなかったんです。 社長が奥様を嫌っているからこそ、私を口実にして、全裸の奥様に触れることさえ拒んだのでしょうに」 雫の心は極限まで冷え切った。彼女は司の手を振り払い、傍らにあったスマホを手に取って電話をかけた。 背後からは司の氷のように冷たい脅し文句が響いた。 「言ったはずだ、美咲はただの冗談だとな。もしどうしても通報すると言うなら、この動画を京川市の人間にバラまいても構わないんだぞ」 そう言い捨てると、司は美咲を連れて部屋を出ようとした。 雫とすれ違いざま、美咲はわざとらしく口を開いた。 「社長、そんなに優しくしないでください。奥様がまた怒ってしまいますわ」 司の態度は依然として硬く、雫について語るその口調は、まるで縁もゆかりもない他人について話しているかのようだった。 「あいつは名ばかりの妻だ。俺が求めてるのは、最初からあいつじゃない。 美咲、あの時、M国の暴動から命懸けで俺を救い出してくれたのは君だ。 俺の体も、命も、すべて君のものだ」 過去の出来事を口にする彼を背に、雫が瞬きをすると、堪えていた涙がスマホの画面に音もなく落ちた。 それと同時に、雫がかけた海外の電話がつながった。 スマホの向こうから、男のからかうような声が聞こえてきた。 「おや、M国で助けた男といちゃつくのに忙しいんじゃないのか?俺に電話なんて、何の用だ?」 雫の声には、隠しきれない疲弊と決意が滲んでいた。 「そこは、まだ人手が足りていないわよね? ……急いで彼との関係をすべて断ち切ってから、そちらへ向かうわ」 雫はカレンダーを見上げた。 七日後の日付には、丁寧に赤い印がつけられている。その日は、彼女と司の五周年の結婚記念日だ。 「七日後のフライトよ。必ず、時間通りに行くわ」 第2話 雫は最速で離婚協議書をプリントアウトすると、小野寺グループへと急いだ。 司は一日の大半を会社で過ごす。以前の雫は、それを彼の仕事人間ゆえの性格だと思い込んでいた。 しかし、これまで一度も足を踏み入れたことのなかったこの「禁域」に立った今、雫は、壊れかけた結婚を庇い続けていた自分がどれほど滑稽なのかを、ようやく思い知らされた。 オフィスにはピンク色のラグが敷き詰められた。ミニマリズムを基調としたモノトーンのソファには、オフィスにそぐわない可愛らしいぬいぐるみが山のように積まれている。それどころか、引き裂かれた女性用のストッキング数本がその上に放り出されている。 雫は離婚協議書を握りしめる手に力を込め、冷淡な声で言った。 「司はどこ?急用があるの。この重要な書類にサインしてもらいたい」 アシスタントは気まずそうに咳払いをした。 「社長は西内さんと休憩室にいらっしゃいます。今は……手が離せない状況ですので」 「手が離せない」理由など、もはや説明されるまでもない。 雫は吐き気を堪えながら一度引き返そうとしたが、会社の入り口でボディガードたちに遮られた。 そこへ、泣きじゃくる美咲を抱きかかえた司がやってきた。彼は慈しむように視線を落とし、美咲の涙を拭ってやっている。雫には一瞥もくれない。 「やれ」 雫が反応する間もなく、ボディガードたちが彼女を地面に組み伏せた。無遠慮な手が彼女の体を探り、力を込めて布地を力任せに引き裂いていく。 雫はもがきながら叫び、声はほとんど枯れかけていた。 司は冷徹な眼差しで彼女を見下ろした。 「被害者面をするな。オフィスには君しか入っていない。 その結果、美咲が母親の形見として大切にしていたネックレスが叩き割られ、ゴミ箱に捨てられてた。 どうしても美咲を攻撃するというのなら、こちらも相応の罰を与えるまでだ」 雫はようやく事態を把握し、露出しかけた胸元を惨めな思いで覆い隠した。 血走った瞳に屈辱の涙を浮かべ、雫は顔を上げて司を睨みつけた。 「司、あんたは本当に頭が悪いの?!私がやったのなら、それをオフィスに捨てるわけないでしょ!」 その言葉に、司は初めて雫ををまともに見た。冷酷な黒い瞳に、わずかな驚きが走った。 結婚して五年間、雫がこれほど激しく怒ったのは初めてのことだから。 だがその迷いも、腕の中の美咲の泣き声ですぐに打ち消された。 「あれは母が亡くなる前に遺してくれたものですよ…… 社長が私に優しいから、奥様がずっと私を嫌ってたって分かってます。でも、社長の気を引くためにあんな酷いことをしなくてもいいじゃないですか」 それを聞くと、司の瞳に納得の色が浮かび、先ほどの一瞬の慈悲は嫌悪と皮肉へと変わった。 司がボディガードに罰するようとしたその時、アシスタントが血相を変えて駆け寄り、彼の耳元で何かを囁いた。 常に冷静沈着な司の顔に、珍しく焦りの表情が浮かんだ。彼は大股で歩み寄ると、雫の最後の下着まで引き裂こうとしていたボディガードを蹴り飛ばした。 そして雫を乱暴に引きずり起こすと、開口一番こう言い放った。 「俺の所有してるクラブへ行け。 美咲が実務に慣れておらず、不注意で小数点を見間違えた。 かなりの欠損が出てる。君がカタをつけてこい」 ようやく息を吹き返した雫だったが、その言葉に心臓が激しく痛んだ。 司の顔に思い切りビンタを食らわせてやりたかったが、両手はまだ拘束されたままだ。 「どうしてあなたの愛人の尻拭いをしなきゃいけないのよ」 司は雫の冷笑を浴びても怒りを見せず、声のトーンだけを和らげた。だが、その瞳は依然として冷え切っている。 「これさえ解決すれば、ネックレスの件は水に流してやる。 忘れるなよ。あの日、映画館で撮られた君の写真が、まだ俺の手元にあるんだ」 十数年も愛し続けてきたその美しい顔が、初めて、吐き気を催すほど醜く歪んで見えた。 目尻から涙が静かにこぼれ落ちる。雫はもう抵抗しなかった。彼女は懐に隠し持っていた離婚協議書を取り出した。 「これにサインして。そうすれば、行くわ」 司は即座にアシスタントから私印を受け取った。彼は内容を一瞥することすらなく、署名欄に印を叩きつけた。 そして協議書を床に投げ捨てた。 「分かってる。結局は金が欲しいんだろう? 取引相手がこれ以上責任を追及しないよう収めてくれば、不動産でも車でも宝石でも、望むものは何でもやる」 雫は震える手で離婚協議書を拾い上げ、消え入りそうなほど淡い声で言った。 「いいえ、結構よ。これさえあれば、もう十分」 第3話 美咲が協力会社に与えた損失は、少なくとも二十億円以上にのぼった。 先方の社長は激怒していたが、雫と司の関係に免じて、過度な嫌がらせはしてこなかった。 ただ、テーブルに並べられた十杯の焼酎をすべて飲み干せ、と雫に命じた。 雫の顔から一瞬で血の気が引いたが、司の脅しを思い出し、一杯、また一杯と酒を煽り続けた。 半分ほど飲み進めたところで、胃をナイフで掻き回されるような激痛が走り、意識が遠のきそうになる。 その時、窓の外の夜空に、色鮮やかな打ち上げ花火が次々と咲いた。その美しさに、室内の全員の目が奪われた。 「おい、これは何だ?」 「決まってるだろ。小野寺社長がまた京川市一番高いタワーを買い占めて、愛人を喜ばせようと花火を上げてるのさ。珍しいことじゃない」 雫は痛みに耐えかね、朦朧とする意識の中で司に電話をかけた。しかし、呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに拒絶され、すぐにメッセージが届いた。 【会社だ。手が離せない】 【何かあるなら、アシスタントを向かわせる】 雫は自嘲気味に口角を上げたが、大粒の涙が堪えきれずに地面へこぼれ落ちた。 結局、見かねた協力会社の人に運ばれ、雫は病院へと担ぎ込まれた。 目が覚めると、回診に来た看護師が呆れたように言った。 「仕事の付き合いだとしても、これほど飲むなんて無茶ですよ…… 古泉さんは急性アルコール中毒ですよ。あと少し遅れていたら、胃洗浄をしても助からなかったところだったんです」 雫は何も答えず、ただ疼くように痛む腹部を静かにさすった。 そこへ、聞き覚えのある不快な声が響いた。 「奥様、看護師さんの言う通りですよ。でも、昨夜はあの方たちも、そこまで飲むよう強要はしていなかったはずですけど?」 美咲が、底意地の悪い笑みを浮かべて現れた。 「そういえば、昨夜は商業界の大物たちが何人も同席していたとか。奥様も、あんなにすごい方々を前にして気分が良くなって、ついつい飲みすぎちゃったんでしょうね?」 美咲の悪意ある誘導により、看護師が雫に向ける視線は、同情から軽蔑へと一変した。 雫は、虚ろで生気のない瞳を美咲に向けた。 「何の用?」 美咲はテーブルに置かれたスープを指差し、悪戯っぽく笑った。 「もちろん、社長の代わりに様子を見に来たんですよ。彼は昨夜、とっても『お疲れ』でしたから」 美咲がわざとらしく「お疲れ」という言葉を強調した。 雫は差し出された熱いスープを手に取ったが、そこから漂う異様な臭いを見逃さなかった。次の瞬間、彼女は器ごとスープを美咲に投げつけた。 不意を突かれた美咲は、熱いスープを浴びてしまった。液体が触れた箇所が瞬く間に異常なほど赤く腫れ上がっていく。 美咲の甲高い悲鳴が病室に響き渡った。 美咲が司に泣きつく前に、雫は先に司に電話をかけ、わざとスピーカーモードにして美咲の絶叫を彼に聞かせた。 電話の向こうで、司の怒りに震える呼吸が伝わってくる。 雫の蒼白な顔に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。そして、冷静に言い放った。 「あなたの愛人が持ってきたスープから、鼻を突くような変な臭いがしたから、驚いて手が滑っちゃったの。 私に怒鳴り散らす暇があるなら、誰がそのスープに余計なものを入れたのか、じっくり調べたらどうかしら?」 その言葉が出た途端、先ほどまで悲鳴を上げていた美咲が、まるでミュートボタンを押されたように静まり返った。 司の声が、低く冷たく響いた。 「……そういうことなら、事の経緯は徹底的に調査させてもらう。 だが雫、忠告しておく。君の弱みはまだ俺が握ってる。二度と美咲をいじめるような真似はするな」 雫はスマホを握る手に力を込めた。そして、いつものように従順な声で「ええ」と短く返した。 しかし、その瞳には、骨の髄まで冷え切ったような殺気が宿っていた。 七日後、司にまだ自分を脅せるかどうか、見ものだわ。 第4話 三日間病院で静養し、雫はようやく気力を取り戻しつつあった。 しかし退院するやいなや、彼女は司の差し金で京川市の乗馬クラブへと連れて行かれた。 司が彼女をこうした社交の場に同伴させるのは、これが初めてのことだ。 雫は、使用人たちがすぐさま運んできたブランドのバッグや服を冷ややかな目で見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「司、用があるならはっきり言って」 司の眼差しは冷たく、その整った顔立ちには何の感情も浮かんでいない。 「例のスープの件、調べがついた。美咲に悪気はなかったんだ。 遊び盛りの彼女は、ちょっとした悪戯をしただけだ。 君も彼女を火傷寸前に追い込んだだろ。今回の件は帳消しにする」 あまりにも露骨な偏愛を前に、雫の心臓はまたしても情けなく疼いた。 さらには、五年もの月日をかけて、ようやく愛した男の本性に気づいた自分自身の愚かさに、彼女は腹が立って仕方がなかった。 雫が反応を示さないのを見て、司の目は苛立ちを帯び始めた。それ以上付け上がるな、と言わんばかりだ。 雫は並べられた品々に視線を落とし、嘲笑を深めた。 「司……私がこのブランドのデザインを一番嫌ってることすら知らないのね」 司は虚を突かれたように目を見開き、反射的に口走った。 「まさか、君が一番好きなのは……」 言いかけて、彼はようやく気づいた。これらの品々を好んでいたのは、美咲だ。 雫はもう彼を相手にせず、立ち上がると一頭の馬を選んで跨った。 その無駄のない洗練された動作を見つめ、司の胸中には一瞬、荒唐無稽な考えがよぎった。 ――もし美咲に救われた恩義を返さなくて済むのなら……自分は本当に、雫と静かに暮らす道を選んでいたのかもしれない。 だが、仮定の話に意味はない。 司の瞳に宿ったわずかな揺らぎは、すぐに冷酷な光にかき消された。 雫が走り出して間もなく、美咲が馬に乗って追いかけてきた。 「奥様、プレゼントがお気に召さなかったのかしら? 私が社長と一緒に、わざわざ選んで差し上げたのに」 今の雫にとって、美咲の小細工など眼中にない。一瞥もくれず、馬の腹を軽く蹴って加速した。 美咲の瞳に嫉妬の火が灯った。彼女も速度を上げ、突然、雫の前を遮るように馬を割り込ませた。 雫は目を見開いたが、避ける間もなかった。 二頭の馬が衝突した瞬間、二人は同時に宙へ放り出された。 雫は全身の骨が砕けるような衝撃を感じた。運の悪いことに、一頭の馬が痛みでパニックを起こして暴走し、彼女を目がけて蹄を振り上げた。 痛みで霞む視界の中で、雫は自分の方へ駆け寄ってくる司の姿を見た。 しかし次の瞬間――司は躊躇することなく雫の傍を通り過ぎ、柔らかな芝生の上に落ちて何の危険もない美咲を、必死な様子で抱き寄せた。 雫が必死に助けを求めても、司が視線を向けることはなかった。 荒れ狂う馬が雫の目の前に迫り、その重い蹄が雫の腕を容赦なく踏みにじった。 耐えがたい激痛に、雫は堪えきれず叫び声を上げ、涙を流した。 司はその声を聞いて一瞬迷ったが、腕の中で痛いと泣き叫ぶ美咲に、再び全ての注意がそちらに引き寄せられた。 スタッフと医療チームがすぐに駆けつけたが、司の強い要求により、全員がただの擦り傷しか負っていない美咲を取り囲んだ。 雫は激痛に耐えながら、折れた腕を引きずって、自力で安全な場所まで這い進むしかなかった。そして意識が飛びそうになるのを必死に堪えながら、自らの手で折れた骨を整復している。 ふと振り返った司は、彼女が骨を整復するその手つきを目の当たりにし、一瞬息を止めた。 彼は美咲を置き去りにして、雫の元へ大股で歩み寄ると、切迫した声で問い詰めた。 「その方法……なぜ、君がそれを知ってる?」 かつてM国の暴動の中、折れかかっていた自分の腕を、恩人はまさにその独特なやり方で繋ぎ止めてくれた! 第5話 雫の手が一瞬止まった。しかし、雫が口を開くより先に、美咲の泣き声が再び響き渡った。 「どうしましょう、社長……お医者さんが、手を傷めたって。これじゃあもう、以前のようにあなたの怪我を治してあげることもできなくなっちゃいますよ……」 泣きじゃくりながら、美咲は恨みがましい視線を雫に向けた。 「私、奥様の気分を害するようなことを何かしたのでしょうか。私にこんなに惨い仕打ちをするなんて……」 美咲の意図的な誘導によって、司が雫に向ける眼差しは、再び骨を刺すような冷たさへと変わった。 司はあろうことか、接いだばかりの雫の腕を思い切り踏みつけにした。めりめりと、骨が軋む鈍い音が漏れた。 雫は、あまりの激痛に意識を失いかけた。 額に滲んだ大粒の冷汗が、血の気の引いた頬を伝い落ちた。 雫は荒い息をつきながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。 「司……ここには、監視カメラがあるわ。どっちが先に手を出したか、調べればすぐに分かる……」 司が足を退けた。彼は雫の襟元を乱暴に掴み上げ、無理やり自分と目を合わせさせた。 「雫」 整いながらも冷酷な司の顔が目の前に迫る。わずかにつり上がった目元は、毒を塗った針のように鋭い。 「この件が君と無関係であることを、精々祈っておくんだな」 言い捨てると、司はゴミでも捨てるかのように雫を地面へ放り出した。 病院へ運ばれた後、ほどなくして調査結果が届いた。 アシスタントは顔に愛想笑いを浮かべ、雫に深々と頭を下げた。 「奥様、社長がお詫びを。先ほどは誤解だったと伝えてくれとのことです」 雫は無表情に窓の外を見つめていたが、そのまつげが微かに震えた。 「調べがついたの?」 アシスタントは作り笑いした。 「……監視カメラが、あいにく故障しておりまして。ですが社長は、真相がどうあれ奥様を信じるとおっしゃっています」 「ふん」 雫は、一生後遺症が残るであろう右手を血の滲むような思いで見つめ、憎しみを隠そうともせず掠れた声で言った。 「カメラが『あいにく』壊れていたのか……それとも、誰かさんの責任を隠蔽するために壊したのかしらね」 「雫、どういう意味だ」 言葉が終わるか終わらないかのうちに、司の冷淡な声が耳元に突き刺さった。 雫は臆することなく顔を上げ、もはや情愛など微塵も残っていない瞳で彼を見据えた。 「それなら、説明してくれる?どうしてこれほど都合よく、カメラが壊れていたのかを。 もし、先に仕掛けたのが私だと分かっていたら、あなたはこの結果を私に教えるかしら?」 司は言葉に詰まり、眉間に険しい皺を寄せた。唇は一文字に固く結ばれている。 その時、美咲が突然病室に飛び込んでき、司をかばうように彼の前に立った。 彼女は雫を激しく睨みつけ、愛する人を守る悲劇のヒロインを演じてみせた。 「そうよ!私がわざと馬をぶつけたわ。私があなたを陥れたの。でもそれは、社長があなたに贈り物をしたのが妬ましくて、嫉妬に狂ったからよ! 右腕がダメになったのがそんなに悔しいの?いいわ、なら償ってあげる!」 叫ぶなり、美咲はナイフを手に取り、自分の手首を深く切り裂いた。鮮血が勢いよく噴き出した。 司の顔から冷徹さが消え失せた。彼はなりふり構わず美咲を抱きしめた。 美咲の手首から溢れ出す血、そしてみるみる青ざめていく顔色に、司の呼吸は乱れ、声は激しく震えた。 「医者を呼べ!何を突っ立ってる!」 美咲は血に染まった手で司の頬をなで、力なく微笑んだ。 「社長……かつて私は、この手で社長を救いました。今また、この手で社長の苦境を……奥様からの追及を阻めるのなら、たとえ動かなくなっても本望です」 司は何も答えず、ただ沈黙のまま美咲を強く抱きしめた。 そして雫を振り返った時、その充血した瞳に宿った凄まじい憎悪に、雫は心底冷え込み、恐怖すら覚えた。 第6話 あの日以来、雫の胸には、拭い去れない不安が澱のように溜まっていた。だが、彼女がここを去るまであと三日だ。 退院の許可が下りるやいなや、雫はすぐに荷物をまとめようと帰宅したが、玄関先で何者かに背後から殴られ、意識を失った。 再び目を覚ました時、雫は冷蔵倉庫の中で、椅子に厳重に縛り付けられていた。 全身の服は冷気で湿り、あまりの寒さに呼吸をすることさえ苦しい。 外で見張っていた犯人が、彼女が目覚めたのに気づいて中に入ってきた。 犯人は雫に歩み寄るなり、そのみぞおちを力任せに蹴り上げた。 激痛に襲われ、雫は目の前が真っ白になり、喉の奥から血の味が込み上げてきた。 「ちっ、この女、いつまで寝てやがる。俺の稼ぎの邪魔をしてんじゃねえぞ」 犯人は悪態をつきながら雫の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。 「さっさと家族の電話番号を言え。二億の身代金を用意させろ。金さえ手に入れば、解放してやる」 雫は必死に呼吸を整え、震える声で司の番号を告げた。 電話はすぐに繋がった。 犯人が横柄に要求を突きつけると、電話の向こうの司は即座に答えた。 「分かった。金は出す。その女には手を出すな」 その一瞬、雫の心には、情けなくも切ない感情がこみ上げた。 しかし、彼女と犯人が一日一夜待ち続け、約束の時間を過ぎても、犯人の元に金が届くことはなかった。 焦れた犯人は激昂し、雫を執拗にいたぶりながら罵り続けた。 「このアマ!恨むなら、俺をコケにした旦那を恨むんだな!」 何度も殴打され、雫は意識が遠のきそうになる。 もう助からない――そう諦めかけた時、ようやく警察が雫を救出した。 救急隊員たちが雫の体を検査し、思わず息を呑んだ。 「なんて酷いことを……わざと命に関わらない場所ばかりを狙って痛めつけてる」 誰かがポツリと漏らした。 「それにしても、この方の旦那さん、妙ですね。昨日、彼女がさらわれた後に通報があった時も、警察の調べに対して『あの女は自分とは無関係だ』なんて言い張って捜査を遅らせたそうですよ。そうでなければ、もっと早く救い出せたはずなのに」 その瞬間、雫は心臓を鋭い爪で掴まれたような衝撃を受けた。声を上げて泣きたかったが、喉が詰まって、漏れ出るのは壊れたような嗚咽だけだった。 隊員の一人が心配そうに声をかけた。 「奥様、どうなさいましたか?どこかお苦しいのですか?」 雫は光を失ったような瞳を動かし、消え入りそうな声で答えた。 「……家に、帰りたいんです」 全身の傷は致命傷ではなかったため、簡単な処置の後、隊員たちは彼女を自宅まで送り届けた。 雫は記憶を頼りに、おぼつかない足取りでドアノブを探し当て、鍵を開けて中に入った。 ドアが開いた瞬間、耳に飛び込んできたのは、女の高い喘ぎ声だった。 続いて、男の荒い息遣いと、ソファが壁に当たる鈍い音が聞こえた。 雫はドアを開けた姿勢のまま立ち尽くした。全身の血液が、一瞬にして凍りついたようだった。 美咲は悦楽に身を任せながらも、わざとらしく雫の名を口にする。 「社長……奥様が拉致されたって聞いたけど、いいんですか?私とこんなことしてないで、早く身代金を届けてあげてくださいよ…… でないと、また奥様に怒られちゃいます」 司が低く唸り声を上げ、冷淡に言い放った。 「身代金など必要ない。あの連中は、俺が手配した。 心配するな。死にはしないさ」 第7話 雫は我に返ると、ドアノブを探り当て、力任せにドアを後ろへと叩きつけた。 凄まじい衝撃音がリビングに響き渡る。 今の雫にその光景は見えなくとも、ソファで情を交わしていた男女がどれほど狼狽し、慌てふためいているかは容易に想像がついた。 雫の乾いた唇に、皮肉で冷ややかな笑みが浮かぶ。彼女は壁を伝いながら、ゆっくりと玄関へと歩を進めた。 司の低く抑えられた声が、冬の風ように冷たく刺さった。 「雫、どういうつもりだ?」 一方で美咲は、慌てたふりをしながらも、隠しきれない得意げな口調で言った。 「あら、奥様……ノックもせずに中に入るなんて」 雫の声には、もはや何の抑揚もなかった。 「ここは私の家よ。ノックする必要なんてないわ」 雫は小さく鼻で笑った。 「視神経を傷めて、今は一時的に目が見えないの……何、見られては困るような、汚らわしいことでもしていたの?」 司は大股で雫に歩み寄ると、その手首を力任せに掴んだ。彼女の瞳に生気がなく、嘘をついているわけではないと確信した司は、一瞬だけ呆然とした。だがすぐに冷笑を浮かべた。 「かつてM国で、俺も一時的に失明したことがあった。それを治してくれたのは美咲だ。 雫、自業自得だな。これは、君が無理やり美咲の手をダメにした報いだ。そうでなければ、君の目も助かる見込みがあっただろうに」 雫の口元に刻まれた皮肉な笑みは、さらに深まった。 ……愚か者め。 心の中でそう吐き捨てると、雫は力を込めてその手を振り払った。 「部屋に戻って休むわ」 二階の自室へ戻るまでの道のりを、雫は惨めにも手探りで進み、十分もかかってしまった。 ようやく階段に足をかけた時、背後から美咲の勝ち誇ったような嘲笑が飛んできた。 「奥様、今の階段を這い上がる姿、ぜひご自分でも見ていただきたいですね。 手足を使って這いつくばって、まるで犬みたいですね」 雫の指先が一瞬強張ったが、彼女は冷淡に言い返した。 「犬になる方が、泥棒猫になるよりはマシよ。少なくとも、堂々としてるもの」 美咲は言葉に詰まり、笑い声はすぐさま冷ややかなものへと変わった。 雫がなおも上がろうとすると、美咲の冷たいハイヒールに手が触れた。 嫌な予感がした瞬間、そのヒールが怪我をしている雫の手を容赦なく踏みにじった。 鋭い激痛が骨の髄まで突き刺さり、雫は息をすることさえ恐ろしくなった。 美咲は笑いながら足に力を込め、雫の耳元で小さく囁いた。 「奥様、私、先ほど社長と激しく愛し合ったせいで、喉が枯れてしまいましたよ。 私のために、梨のスープでも作ってくださいませんか?」 拒絶しようとした雫の耳に、異様な音が届いた。 衣擦れの音と映画館の椅子が倒される音だ。 美咲が大げさな悲鳴を上げた。 「あら、いけない。私としたことが、奥様がこの間、映画館で醜態をさらした時の動画を再生しちゃったわ…… うっかり送信ボタンを押してしまったら、どうしましょう?」 雫は屈辱と涙を飲み込み、震える声で答えた。 「……分かった。すぐ作ってあげる」 美咲はようやく足を退け、満足げに雫の横を通り過ぎながら急かした。 「早くしてくださいね。喉を潤したいのです。今夜もまた、社長と約束がありますので」 大粒の涙が、手の甲の傷口にこぼれ落ちた。雫の肩は、抑えきれずに震えていた。 ――明日……明日になれば、ここを去れる。 目が見えず、手も負傷した状態でスープを作る間、腕には数えきれないほどの火傷の水ぶくれができた。 それでも雫は痛みに耐え抜き、完成したスープを手に、音を頼りに美咲を見つけ出した。 しかし、美咲が受け取るよりも早く、司が血相を変えて駆け寄り、雫が持っていたスープを力任せに叩き落とした。 熱いスープが雫の体にかかった。 熱さに悲鳴を上げる間もなく、司の冷酷な怒号が彼女を射抜いた。 「美咲は梨アレルギーなんだぞ!重症なら命に関わることくらい知ってるはずだ!それを承知でこれを作ったのか!貴様、何のつもりだ!」 第8話 美咲の泣き声がすぐに響き渡った。 「これ、これが梨のスープだったなんて…… 社長、あなたが止めてくれなかったら、何も知らずに飲んでしまうところでしたわ。 奥様、喉を潤すものを作ってくれると自分からおっしゃったのに、まさかこんなおつもりだったなんて!」 雫は無感情のまま、光のない瞳を上げた。 二人の表情は見えないが、今この瞬間、彼らがどれほど醜く忌まわしい顔をしているかは想像に難くない。 雫はもう、弁明する気すら起きなかった。新しくできた火傷の跡をそっとなぞり、淡々と言った。 「……それで、今度はどうやって私をいたぶりたいの?」 司は激怒しているはずだった。だが、なぜか感情を失った雫の姿を見た瞬間、彼の心臓は何かに強く締め付けられるような感覚に陥った。 しかし、その理性が働く前に、美咲の悲痛な泣き声がそれをかき消した。 雫へ向けられた瞳から、最後の一筋の温もりが失望へと変わった。 「雫、君には頭を冷やす時間が必要だ。 西山へ送らせる。君が己の過ちを認め、反省するまで、ここへ戻ることは許さない」 その瞬間、雫は自分の耳を疑った。 彼女の感情は激しく昂ぶり、怒りに満ちた声を上げた。 「西山ですって!?司、知ってるはずよ。あそこは未開発で、人が住める場所なんてない。それどころか、野生の獣がどれだけ潜んでいるかも分からない場所よ! 目も見えず、手も動かない私をあんな場所へ送るなんて、死ねと言っているのと同じじゃない!」 司の口調は依然として冷酷で無情だっ。 「君には、本当のことを言っておこう。 今、美咲の腹には俺の子がいる。子が生まれるまで、彼女に万が一のことがあってはならないんだ。 雫、美咲に無事に子を産ませること。それが彼女への恩返しだ。 その後、君とやり直すことも考えてやろう」 施しを与えるようなその物言いに、雫は思わず笑い声を漏らした。 笑い続けているうちに、目元が熱く、激しく疼きだす。 司が美咲の手を引き、雫の横を通り過ぎようとした時――雫は、凍てつくような声で告げた。 「司、あなたはきっと後悔するわ」 司の心に、一瞬の不安がよぎった。 だが、彼はその奇妙な胸騒ぎをすぐに振り払い、ボディガードたちに雫を今すぐ山へ送るよう命じた。 ただ、司は一言だけ付け加えた。 「護衛を多めにつけろ。本当に山で死なせるんじゃないぞ」 ボディガードは承諾したが、立ち去り際に、素早く美咲と視線を交わした。 こうして雫は山へと送り込まれた。 しかし、守ってくれる者など一人もおらず、彼女はわざと狼の群れが頻出する場所へと置き去りにされた。 雫は茫然と地面に座り込み、四方から迫り来る狼の遠吠えを聴いていた。だが、このまま運命に屈するつもりはなかった。 彼女は動く片手だけで、狼の群れと三時間もの死闘を繰り広げた。 ついには限界を迎え、血まみれになって倒れ込んだ。 一頭の狼が雫の喉笛を食い破ろうとしたその瞬間、聞き覚えのある罵声が聞こえた。 男は悪態をつきながら銃をぶっ放して狼の群れを掃討すると、雫を力いっぱい抱き上げた。 彼の言葉は荒っぽかったが、その声は心配のあまり震えていた。 「雫、これで満足か!あの男のために、命まで捨てかけたぞ!」 男は言葉を切ると、奥歯を噛み締め、陰鬱な声で吐き捨てた。 「小野寺司だったな。雫に手を出した報いだ、あいつの命はないと思え」 ようやく一息ついた雫は、手探りで男の胸元を掴み、憎しみを込めて言い放った。 「七年前、私はあいつの命を救った…… 今日、ここを去る前に……あいつにその命を、返してもらうわ!」