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夕風はもう吹かない
野口由理恵(のぐち ゆりえ)はこれまで、野口真司(のぐち しんじ)と一生愛し合っていくのだと信じていた。 でも、その運命的な恋は、結局、...
Chương (1)
第1章
野口由理恵(のぐち ゆりえ)はこれまで、野口真司(のぐち しんじ)と一生愛し合っていくのだと信じていた。
でも、その運命的な恋は、結局、幼馴染との絆には勝てなかった。
真司が、彼の幼馴染の母親の最期の願いを叶えるため、その子と結婚式を挙げた日、由理恵は、自らデザインした新居をめちゃくちゃに壊し、二人で暮らした街を永遠に去った。
それから、由理恵と全く連絡がつかなくなったと気が付くと、真司は慌てふためいていたのだった。
その後、真司は必死に由理恵に許しを請うたが、その頃には彼女はもうお見合い相手と婚約していたのだった。
人生とは何事もずっと変わらずにいられることはなく、特に感情のことになると、なおさらだ。
第1話
午前2時。野口由理恵(のぐち ゆりえ)は、お腹の激痛で目を覚ました。
ふと隣のシーツに手を伸ばすと、ひんやりと冷たい感覚を覚えた。どうやら夫の野口真司(のぐち しんじ)がまだ帰ってきていないようだ。
しかし、下腹部の痛みはどんどん強くなるので、由理恵はスマホを手に取ると、震える指で真司に電話をかけた。
そして、コール音が長く続いた後、ようやく電話が繋がった。
由理恵が何かを言うより先に、受話器から若い女の声が聞こえた。
「由理恵さん、真司さんはもうお休みになりましたから、何か用があるなら、また明日にしてください。じゃあ、切りますね」
「待って、ちょっと待って……」
そう言いかけたが、締め付けられるような下腹部の痛みで、由理恵は一言しゃべるのもやっとだった。
だが、相手は聞く耳を持たず、一方的に電話を切ってしまった。
由理恵は諦めきれず、痛みに耐えながらもう一度電話をかけた。しかし、今度はもう繋がらなくなってしまった。
すると、ベッドの上で、由理恵は荒い息をついた。そしてこのまま死ぬかもしれないという恐怖で全身が震え、涙が勝手にあふれてくるのだった。
死にたくない。まだ26歳なのに。両親もいるし、それに、真司だっている。
その思いから、由理恵はなんとか気力を振り絞って救急車を呼んだ。そして意識が遠のく前に、リビングまで這っていって玄関のドアを開けた。
すぐに、救急車のサイレンがマンションの敷地内に響き渡った。
由理恵は、すぐに病院へ運ばれた。
だが、病院に着くなり医師の診断では、子宮外妊娠とのことで、すぐに手術が必要だということだった。
その時、由理恵は意識を取り戻していて、看護師に真司の電話番号を伝えた。
でも、看護師が何度かけても、電話は繋がらなかった。
「ほかにご家族か、ご友人の連絡先はありますか?」若い看護師は、ベッドで青ざめている由理恵を気の毒そうに見つめて尋ねた。
由理恵は力なく笑って、首を横に振った。
両親は東都にはいない。始発の飛行機で来てもらったとしても、着くのは明日の午後だ。
それに、母親の松田泉(まつだ いずみ)は心臓が弱いから、こんなことで驚かせられない。
一番の親友である今井凪(いまい なぎ)は市内にいる。それに、凪はもう臨月で、いつ生まれてもおかしくない状況だから、こんなことで煩わせるわけにはいかないのだ。
そう思って、由理恵は言った。「手術の同意書は……自分でサインします」
これはたぶん、由理恵の人生で一番みじめな瞬間なのだろう。
自分で救急車を呼んで、自分で手術の同意書にサインして、たった一人で手術を受けるなんて。
幸い、病院は親切で、すぐにヘルパーを手配してくれた。
手術は夜通し行われた。由理恵が目を覚ましたのは、もう翌日の午前中だった。
由理恵が起きたのに気づくと、ヘルパーが急いで水を一杯持ってきてくれた。
「野口さん、やっと目が覚めましたね。本当に危なかったんですよ。先生の話だと、着床した場所がすごく悪かったみたいで……手術がもう少し遅れてたら、助からなかったかもしれません」
由理恵は自分のお腹をそっと撫でた。残念な気持ちと、悲しい気持ちで胸がいっぱいになった。
真司と2年もの間、ずっと待ち望んでいた赤ちゃんだったのに。やっと授かったと思ったら、まさか子宮外妊娠だったなんて。
由理恵は涙をぐっとこらえて、このことを真司に伝えなければと思った。
そして、スマホを取り出すと、彼女はもう一度、真司に電話をかけた。
今度は、電話に出たのは真司本人だった。
「真司、私……」
「由理恵、最近お前のことを構えなかったのは分かってる。でも、こっちだって本当に疲れてるんだ。昨日は蘭おばさんが拒絶反応を起こして、容態がすごく悪かったんだよ。
それに、翠とは何もない。あの子は妹みたいなものだ。それでお前の立場が脅かされることはないから、もう騒ぐのはやめてくれないか?」
真司の声はひどく苛立っていた。由理恵はスマホを握りしめたまま、一瞬、何を言えばいいか分からなくなった。
数秒ほどの沈黙の後、真司が再び口を開いた。
「何か言えよ、由理恵?」
「私、子宮外に……」
由理恵が言い終わらないうちに、電話の向こうから、長谷川翠(はせがわ みどり)の焦ったような泣き声が聞こえてきた。
「真司さん、早く!お母さんの様子を見に来て!」
「じゃあ、また後で」
彼がそういうと電話は、切れた。
取り残された由理恵は天井を見上げた。もともと赤く腫れていた目に、再び涙があふれたのだった。
8年……真司と付き合って、もう8年になる。
この8年間、二人は受験も乗り越えた。大学の4年間、遠距離恋愛だって頑張った。そして2年前に、結婚して以来二人でずっと、赤ちゃんが授かるのを待ちわびていたのだった。
それなのに、真司の幼馴染が帰国して、たった3ヶ月。今ではもう、自分は彼の目には、理不尽に騒ぎ立てる嫉妬深い妻にしか映っていない。
そう感じて由理恵は「フッ」と笑った。彼女は自分の目を手で覆って、笑いながら涙を流した。
第2話
由理恵は1日冷静に考えてみたけど、やっぱり子宮外妊娠の手術のことは、真司に伝えるべきだと思った。
8年も付き合ったんだから、そう簡単に割り切れるものではない。
だが、由理恵も翠と彼女の母親・長谷川蘭(はせがわ らん)が、真司にとってどんなに大切な存在なのかをよく分かっていた。
真司が子供の頃、両親は仕事が忙しくて残業も多かった。だから彼はよく、お隣の蘭の家でご飯を食べさせてもらっていた。
蘭はシングルマザーで、女手一つで翠を育てていた。
小さい頃から、真司と翠は周りからお似合いのカップルだと思われていた。
誰もが、この幼馴染はこのまま結婚するだろうと思っていた。
でも、真司が高校3年生になったばかりの頃、翠は蘭と一緒に海外へ引っ越して、それきり8年も帰ってこなかった。
その詳しい事情までは、由理恵は知らなかった。
だが、3ヶ月前に翠が膵臓がんを患った蘭を連れて国内に戻ってきて、真司に連絡を取ったのだ。
そして、彼女たちが帰国してからというもの、真司は家に帰らないことが頻繁になった。
理由を聞いても、彼はいつも「病院にいる」としか言わないのだ。
真司とあの親子の関係を知っていたから、由理恵も今までは文句ひとつ言わなかった。彼の幼馴染が帰ってきたくらいで、二人の関係にひびが入るはずがないと信じていたからだ。
最初の頃なんて、由理恵は自ら蘭に専門家の医師を探してあげようとさえした。
でも、彼女が関わることが、真司と翠の二人を不快にさせたようだった。
しまいには、由理恵が顔を見せるたびに、翠が不満そうに泣き出すようになった。
そしてついに、真司から「もう病院には来ないでくれ」と言われてしまった。
そんな状況で由理恵は自分がいけないのかが分からなかった。でも、幼い頃から身につけてきた教養によって彼女は感情のコントロールが上手だった。
だからそんな状況においても彼女は騒いだりせず、辛抱強く持ちこたえようとしたのだった。真司がすべてを片付けたら、きっとまた自分の元へ帰ってきてくれると信じていたから。
だけど、今回の子宮外妊娠の件において真司が取った態度は、彼女が心の支えにしてきた信念を揺るがしたのだった。
そう感じたが、由理恵は一旦頭にあった疑念を追い払って、真司にメッセージを送った。そこには子宮外妊娠と書かれたカルテの写真も一緒に添付した。
一方で、同じ病院にあるもう片っぽの病室で、真司は眉をひそめながらスマホのメッセージを見ていた。
すると、隣に座っていた翠も、顔を寄せてきて一緒に画面を覗き込んだ。
しかしメッセージを見た翠は、真司が何か言う前に、目がみるみる赤くなり、涙をぽろぽろと流しながら、口を開くと声を詰まらせた。
「ごめん、真司さん。あなたに頼るべきじゃなかった。由理恵さんは、きっと私にあなたを奪われるのが怖くて、それでこんなありえない嘘をついたのよね。私と母のせいで、あなたと由理恵さんが仲違いしてしまうなんて、本当にごめんね」
それを聞いて真司は一瞬どきりとしたが、でも、よく考えてみれば、この3ヶ月は蘭の病気のことで、ほとんど家に帰れていないんだから、由理恵とはもう長いこと、そういうことをしていなかったはずだ。
それに、由理恵が浮気するなんてありえない。だからこれは、ただ理不尽に騒ぎ立てて、自分の気を引こうとしているだけなんだろう。多分自分が愛されているかどうかを確かめたいだけの、くだらない芝居だ。
そう思って、真司は愛おしそうに翠の頭を撫でながら、ひときわ優しい声で言った。
「君のせいじゃないよ。俺が普段、あいつを甘やかしすぎたんだ。だから、こんな嘘までつくようになった」
「ありがとう、真司さん。あなたがいなかったら、私、本当にどうしたらいいか分からなかった」
そう言って泣きながら、翠は真司の胸に飛び込んだ。
真司もまたそんな翠の背中を優しく叩きながら、力強く彼女を慰めた。
しばらく翠をなだめてから、真司はようやく時間を見つけて由理恵に返信した。
【由理恵、蘭おばさんはもう長くないんだ。俺が子供の頃彼女に、どれだけお世話になったかお前も知ってるだろ。もう少し、物分かりよくしてくれよ。もう騒ぎ立てるのはやめて、自分と未来の子供を呪うような根性の悪い嘘もつくな。落ち着いたら、必ずちゃんと埋め合わせはしてあげるから】
第3話
8年間、由理恵と真司は愛し合ってきた。由理恵にとって、世界で一番自分を分かってくれるのは真司だけだと思っていた。
でも、結局、それは全部自分の独りよがりだった。
誰かを精神的に追い詰めるのは、一瞬の出来事じゃない。
二人の関係も失望が積み重なって、止めを刺された時こそ、終わりが近づくわけだ。
だから、真司からのメッセージを見た由理恵は涙を拭うと、一言だけ返信した。
【うん】
――
3日後、由理恵は退院した。
その間、真司から連絡は一切なく、由理恵も彼に連絡しなかった。
けれど、由理恵の心はすでに決まっていた。
「野口さん、子宮外妊娠でしたけど、これも立派なお産みたいなものですからね。家に帰ったらなるべく栄養をたくさんとって、ゆっくり休んでくださいね」
ヘルパーは、まるで自分の娘を見るように、優しく由理恵に言い聞かせた。
それを聞いて、由理恵は微笑んで、彼女を抱きしめた。
「本当にありがとうございます。自分のことは、ちゃんとできますから、安心してください」
本当は、旦那とちゃんと話した方がいいと言いたかった。でも、自分の妻が子宮外妊娠で大変な時に一度も顔を見せないなんて、ろくな男じゃないのだろうとヘルパーは思ったが、これ以上は何も言えなかった。
こうして、ヘルパーに別れを告げると、由理恵は一人で病院の出口へ向かった。
しかし、数歩も歩かないうちに、後ろから声をかけられた。
「由理恵?」
由理恵が振り返ると、大きなお腹を抱えた親友の凪が立っていた。
「どうして病院にいるの?すごい顔色悪いけど、どうしたの?」
凪は、由理恵の顔色が悪いのにすぐ気づいた。そして、急いで数歩駆け寄り、彼女の前に立った。
一方で、「私、妊娠したの」そう言って由理恵は普段と変わらない落ち着いた様子だった。
凪は、由理恵がずっと妊活をしていたことを知っていた。だからお祝いを言おうとしたけど、由理恵の次の言葉に遮られた。
「でも、子宮外妊娠だったの。もう手術も終わったから、今日が退院なの」
「どうして教えてくれなかったのよ!」それを聞いて凪は少し怒った。でも、由理恵のことだから、きっと妊娠中の自分を気遣って言わなかったんだろうと分かっていた。
そう思って、凪は由理恵の手をぎゅっと握りしめ、心配そうに辺りを見回した。
「あれ?真司は?」
普段友人たちの間では、真司はいつも由理恵を愛してやまない様子で、彼女にほんの少しでも辛い思いをさせまいとする、完璧な夫の姿を貫いていたのだった。
だから、こんな時に真司がいないことを、凪はとても不思議に思った。
「彼の幼馴染のお母さんが入院しているから、その付き添いで私のことなんて構ってられないみたい」
「えっ?」
凪も、真司とその幼馴染の噂は少し聞いていた。でも、だからって、自分の妻が子宮外妊娠で手術したっていうのに、顔も出さないなんていうのはあまりにも並外れているのでは?
「大丈夫、もう終わったことだから。それより、あなたこそ一人なの?」
「今日が最後の検診で、夫がちょうど会計に行ってるの」
凪は、由理恵と真司のことをもっと聞きたかった。でも、彼女の顔色があまりにも優れないのを見て、それ以上は聞けなかった。
それでも、由理恵が呼んだタクシーがもうすぐ着く頃だったが凪は、彼女を一階まで送ると言ってきかなかった。
ところが、二人でエレベーターを降りたとたん、翠が真司の腕に絡みついているのが目に入った。
ふいに顔を合わせた四人は、誰もがきょとんとしてしまったのだ。
次の瞬間、真司は何かやましいことでもしたかのように、すぐに翠の手を自分の腕から振り払った。しかし、彼はまたすぐさま厳しい顔になった。
「由理恵、俺がここにいる理由はもうラインではっきり言ったはずだ。なのに、お前はそれでも俺をこんな風に尾行したり監視したりしているのか?いつからお前はそんな話の通じない女になったんだ」
「由理恵さん、お願いですから、もうやめてください」
一方で翠もそう言って、人通りの多い病院のロビーであることを顧みず、由理恵の前で涙ながらに訴え、泣き崩れた。
「翠、泣くな。こんなやつに構うことないさ」真司はすぐさま翠を支えようとした。
「真司さん、止めないで。私と母のことで由理恵さんが嫌な思いをしたんだから、ちゃんと話さないと」翠はそう言って、さらに続けた。「でも由理恵さん、母はもう長くないんです。だから、ほんの少しの間だけ真司さんに手を貸してもらいたいの、お願い、分かって」
そう言って、彼女はまた由理恵に頭を下げようとした。
一方で、真司は翠を止められず、由理恵を責め立てるしかなかった。
「由理恵、翠たちはお前に悪いことなんて何もしてない。お前の悪口ひとつ言ったこともないんだぞ。なのに、お前はこんな風に彼女らに辛く当たって、心が痛まないのか?お前ってこんなにも意地汚いやつだったんだな」
第4話
こうして、彼らが縺れ合っているうちに野次馬はどんどん増え、誰もが由理恵を指さして口を揃えて責め立てた。
その様子を見ていた凪は、考えるより先に真司の頬を平手で打った。
「真司、あなたって頭がおかしいんじゃないの?」
だが、生まれてから一度も人に殴られたことのなかった真司はその一発にさらに腹が立った。彼は、冷たく笑いながら由理恵を睨みつけて言った。
「たいしたもんだな。妊婦を連れてきて騒ぎ立てるとは。由理恵、お前はいつからこんなえげつない手段を使うようになったんだ?」
それを聞いて、凪はもう一度真司を殴ろうとしたが、由理恵に止められた。
「もう行こう。車が来たから」
そう言って由理恵は真司と、まだわざとらしく痛々しい真似をしている女には目もくれず、怒りで発狂しそうになった凪を連れてその場を去ろうとした。
しかし、初めて由理恵にこれほどあからさまに無視された真司はさらにかっとなって、由理恵の腕をつかみ、鋭い声で言った。
「待て、翠に謝れ」
そして、由理恵が何の反応も示さないのを見て、真司はさらに強く彼女の手首を掴んだ。
「翠に謝れと言っているんだ」
一方で、手首の痛みよりも心の痛みのほうをずっと強く感じた由理恵は深く息を吸い込み、ようやく真司のほうを振り向いた。
「なぜ私が謝らなきゃいけないの?私が彼女を傷つけるようなことを何か言った?それとも何かしたかしら?それに、この病院はあなたのテリトリーってわけでもないでしょ?あなたが来られるなら、私が来てもいいはずじゃない?そんな屁理屈を並べるあなたこそ、教養や品格がないんじゃない?」
そう言う、由理恵の眼差しはあまりにも冷たく、まるで見知らぬだれかを見ているようで感情がこもっていなかった。
その目を見て、真司はなぜか心がヒヤッとするのを感じ、彼女を掴んでいた手の力をすっと緩めた。
一方で、真司とはもうこれ以上関わりたくないと思った由理恵は凪を連れてそのまま病院の出口へと向かった。
真司の不安そうな様子を見て、翠はおずおずと彼の手を取った。
「真司さん、私、また何かいけないことをしたかしら」
そう言われて、真司は我に返り、なだめるように翠の手をぽんと叩いた。
「君のせいじゃない。俺が最近、彼女を構ってやれなかったからだ」
そうだ、きっとそうに違いない。最近忙しくて由理恵を放っておいたから、彼女の機嫌が悪くなって、こんな騒ぎをおこしているんだ。
あとで、家に帰ってちゃんと機嫌を取れば、由理恵は誰よりも物分かりがいいから、きっと分かるはずだ。
そう自分に言い聞かせると、真司は心によぎった一瞬の不安を打ち消し、翠を連れてエレベーターに乗り込んだ。
その晩、真司は蘭と翠の世話を済ませてから家に帰った。
そして、帰り道、彼は由理恵が一番好きなピンクのチューリップも忘れずに買っていった。
すると、ドアを開けて家に入るなり、由理恵がちょうど電話で話しているのを聞いた。
「はい。では協議書を作成して、送ってください。ええ、なるべく急ぎでお願いします」
そう言って、由理恵は電話を切った。
「何の協議書だい?」真司は、今日の病院での気まずい出来事などなかったかのように、できるだけ普段通りに振る舞った。
だが、「仕事のことよ」由理恵は真司の方を見ようともせず、そう言うと部屋へ向かった。
片や、それを見た真司は慌てて数歩前に出て、後ろから由理恵を抱きしめた。
「由理恵、ただいま」
もし以前の由理恵なら、きっと振り返って、優しく彼の頬に触れ、微笑みながらキスをしてくれただろう。
しかし今の彼女は、真司と口をきく気にもなれないようだった。
由理恵は、抱き着いてきた真司の腕を力強く振り払うと、さっさと寝室に入りドアを閉めてしまったのだ。
一方で取り残された真司は、どうすればいいのか分からずその場に立ち尽くした。
まだ怒っているのか?こっちはもう帰ってきてやったというのに、どうしていつまでもそんな不機嫌な顔をするんだ。
真司は少し腹が立った。彼はリビングで何度も深く息を吸い込んで、ようやく冷静さを取り戻した。
由理恵はどんなに学歴が高くても、所詮は女だ。女というのは嫉妬深くて、やきもちを焼くものなんだ。これは普通のことだ。
そう考えると、真司はすっと気が楽になり、フンと鼻で笑うとバスルームへ向かった。
この3日間、由理恵は病院でまったく眠れなかった。目を閉じれば、真司が長谷川親子をかばう光景ばかりが目に浮かぶのだった。
結局、離婚すると決めたものの、長年の愛情を捨てることに、彼女は身も心も引き裂かれるような苦しみを感じていたのだった。
そんな想いを巡らせながら、涙を拭くと、由理恵はひどい疲労感に襲われ、ただ眠りたいと思った。
ちょうどその時、シャワーを浴びてきた真司が寝室に入ってくると、布団をめくりあげ、彼女の隣に滑り込んできた。
そして、真司がすらっとした長い腕で、背後から由理恵の腰に抱き着くと、彼はやつれてはいたものの相変わらず端正な顔を、彼女のうなじにすり寄せた。
「由理恵、ここ数ヶ月、寂しい思いをさせてごめんな。お前も俺に会いたかっただろ?」
そう言いながら真司は彼女にキスをしようとする一方で、布団の中の手もなにやら怪しく動き始めた。
8年も愛し合ってきた二人なんだから、これまで数え切れないほど体を重ねてきたのだった。しかし今回ばかりは、由理恵にとってなんとも吐き気がするように思えた。
彼女はそのキスを避けると、嫌悪感をあらわにしながら真司の手を振り払った。
「私に触らないで」
第5話
そう言われて、真司は、自分はこれだけ下手に出ているのに、由理恵が一体何に腹を立てているのか、さっぱり分からなかった。
だから、苛立たしげにため息をつくと、彼はベッドから身を起こして問い詰めた。
「由理恵、一体俺にどうしろって言うんだ?お前が翠に送ったメッセージ、全部見たぞ。
確かに、俺と翠は幼馴染だ。でも、俺はあの子を妹としか思っていない。どうして俺たちをそんな風に疑うんだ?
蘭おばさんも、俺にとっては母親同然の人なんだ。
お前が子宮外妊娠だって嘘をついた時も、俺は怒らなかった。今日、病院まで俺を監視しに来たことだって許してやろうと思ったんだ。だからもう、いい加減騒ぐのはやめてくれないか」
それを聞いて、先ほどまで離婚という決断に迷いがあった由理恵だったが、今、その心に残っていたわずかな未練さえも、完全に消え去ってしまったのだった。
「もう疲れたの。だから出て行ってくれない」
「俺に出て行けって言うのか?」
真司は信じられなかった。出て行けとはどういう意味だ?ここは二人の家なのに、彼女は自分に一体どこへ行けと言っているんだ?
しかし彼がそう問い詰めた途端、そばに置いてあったスマホが鳴った。
真司は湧き上がる感情を抑え、電話に出た。
すると、「真司さん、母が血を吐いたの!早く来て、私は怖くて……」
電話の向こうから聞こえる翠の切羽詰まった声に、真司はすぐさまベッドを飛び出した。
「落ち着け、今すぐ行くからな」
そう言って、真司が慌ただしく服を着て、ドアを開けて出て行った。一方でその一連のやりとりを聞きながら、由理恵は静かに目を閉じた。
ほどなくして、病院に着いた真司は心配そうな顔でベッドに横たわる蘭の手を握っていた。
蘭は濁った目を開け、真司に懇願するように見つめた。
「真司、私がこの世で唯一心残りなのは、翠のことだけなの。無理なお願いだって分かってる……でもお願い。翠と結婚して、私のかわりに、彼女を一生面倒見てくれないかしら」
その言葉に、真司は固まった。
翠の面倒を一生見ることはできても、結婚なんてできるはずがない。それに、自分は由理恵と一生連れ添うと誓ったのだった。
真司が困惑しているのを見て、蘭は突然激しく咳き込み始めた。
すると、真司が差し出したティッシュが、またもや真っ赤な血で染まった。
その傍らで、翠は泣きながら、母親をなだめていた。
「お母さん、真司さんはもう結婚してるのよ。彼を困らせないで」
「でも、あなたたちこそお似合いの二人なのに。全部、私のせいよ。あなたを連れて海外へ行ったりしなければ……私のせいで……」
そう言って息も絶え絶えになりつつも、やりきれない様子の蘭を見て、真司はもう迷わなかった。彼はすぐさま翠の手を固く握って言った。
「おばさん、約束します。俺は翠と結婚して、一生彼女の面倒を見ます」
「誓って、誓ってちょうだい」
真司の言葉に奮い立たされたのか、蘭は力を振り絞り、彼のシャツを強く掴んだ。
真司は仕方なく、誓いの言葉を口にした。
「俺は必ず翠と結婚します。この誓いを破るようなことは決してしないと約束します」
その言葉を聞いて、蘭はようやく手を離した。やつれた顔に、安堵の笑みを浮かべて言った。
「もう私は長くないから、私が死ぬ前に、結婚式を挙げるのよ」
力を振り絞って話しすぎたせいか、蘭は再び意識を失った。
その後、病院の外のベンチで、真司は珍しくタバコを吸っていた。
そこへ、翠がコーヒーを手に、彼の隣に座った。
「真司さん、母の頼みが無茶だってことは分かってる。でも、もう長くない母に、心残りを抱えたまま逝ってほしくないの。安心して、ただ式を挙げるだけでいいから。本当に入籍する必要はないわ。由理恵さんには、私がちゃんと説明するから」
「いや、いい。俺から話すよ。由理恵は優しいから、きっと怒らないはずだ」
「本当に怒らないかな?だって、彼女……」
翠は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
「由理恵がどうかしたのか?また何かメッセージでも送ってきたのか?」
翠が答える前に、真司は彼女のスマホを奪うようにして手に取ると、ラインを開いた。
すると、そこには由理恵からのメッセージがあった。【翠、このクズ女。あなたの母親なんて、早く死ねばいいのに】
このメッセージを見て、真司はスマホを叩きつけそうになった。由理恵がここまで根性の悪い人間だったとは彼は信じ難かった。だって、昔の彼女は、こんなではなかったはずなのに。
「真司さん、怒らないで。由理恵さんは、ただあなたのことを愛するあまりにしたことだから」
そう言って、ぽろぽろと涙をこぼす翠を見て、真司はタバコの火を消して、彼女をそっと抱き寄せた。
「自分を責めるな。これはあいつがいけないんだ。必ず、君に謝らせるからな」
それを聞いて、翠はしゃくりあげながら頷いた。しかし、真司の見えないところでは、その瞳には画策に満ちた光が輝いていた。
第6話
一方で弁護士の動きも早かった。その翌日には、由理恵が依頼していた離婚協議書は出来上がったのだ。
由理恵はざっと目を通したが、なんの不満もなかった。
そもそも彼女と真司は財産上での縺れ合いはなく、ただ二人が住んでいる家だけは、真司が結婚前に買ったものだが、家の内装にかかったお金は彼女が担っていたのだった。
そして、当初彼女は内装のお金を出しただけでなく、インテリアデザイナーとして、デザインから施工、家具選び、隅々まですべてを自ら手がけてきたのだった。
この家には由理恵の二人の愛の巣への思いが込められていて、彼女はこのインテリアデザインで、初めて国際的な賞まで受賞したのだ。
そんな思い入れがあったのだろう。この家の至る所に、由理恵が夢見た二人の未来が映し出されていた。
特に、早くから子供のために用意したあの部屋は、由理恵の人生で最も満足のいく傑作でもあるのだ。
でも今となっては、この家中の全てを見渡してみると、由理恵はただひどく滑稽に感じてやまないのだった。
もうこれ以上思い出に浸りたくなくて、そして仕事の引き継ぎも済ませようと思った彼女は休みを切り上げて会社へ向かった。
そう、由理恵は会社を辞めるつもりだ。地元から遠く離れたここでの結婚生活を終わらせて、彼女は両親の元へ帰ろうとしているのだ。
だが、会社のビルの下で、由理恵が車を停めると、一番会いたくない二人の姿が目に入った。
そこにいた真司は心底がっかりしたという顔をしていて、その後ろには翠が、目に涙を浮かべていたのだった。
「由理恵、翠にちゃんと謝ってほしい。お前が送ったあんな言葉は、本心じゃないと俺は信じてるから」
真司は由理恵を見るなりそう言ったが、もちろん彼女に謝罪させるためだけに会いに来たわけではないのだ。彼は、蘭の最後の願いを叶える彼女の手助けが必要だったから、それについても相談しようとしたのだった。
真司からしてみれば、由理恵は学歴も高く、性格も穏やかだから、何があっても無条件で自分を支えてくれるものだとずっと思っていた。
だから彼女が最近、少しわがままを言っているのも、ただのやきもちからだと思っていた。ただ、あの悪意に満ちた呪いのメッセージは、さすがにやりすぎだから、見逃すわけにはいかなかった。
外は明るい日差しが降り注いでいたが、それでも由理恵の病的なまでに青白い顔色を明るく映し出すことはできなかった。
彼女は真司から責めるような視線を受け、どうにも滑稽に思えて口の端を上げて笑った。
「あなたにわざわざこんな所まで駆けつけさせるなんて、私がどんな悪意に満ちた呪いのメッセージを送ったっていうの?」
「まだ認めないのか?翠、スマホを見せてやれ」
だが、翠は切なげに首を振ると、由理恵に駆け寄って、その腕をぎゅっと掴んだ。
「由理恵さん、私のことはどんなに罵っても構いません。私が我慢すればいいんです。でも、母はもう長くないんです。死ぬ前に、私と真司さんが結婚するところを見たいって……」
「ちょっと待って」由理恵は翠の手を振り払い、彼女の言葉を遮った。
「私があなたを罵ったって、どういうこと?はっきり言ってちょうだい」
「私……」由理恵の詰問に、翠は怯えた子ウサギのように、慌てて真司の後ろに隠れた。
一方で、翠が傷つけられたように思えた真司はすぐに一歩前に出た。
「由理恵、いい加減にしろ。翠はお前の顔を立ててやってるんだぞ。これ以上どうしたいんだ?蘭おばさんに早く死ねと呪いをかけたり、『クズ女』だのと罵ったり……由理恵、これがお前の教養だっていうのか?ご両親はお前に一体どんな躾をしてきたんだ!」
すると、その言葉と同時にパシンと乾いた音が響き、由理恵はありったけの力で真司の頬を平手打ちした。
真司は、まさか由理恵に殴られるとは思ってもみなかった。その瞬間、彼の目は驚きで見開かれた。
「俺まで殴るのか?」
「ええ、痛かった?」由理恵は冷たく笑った。
「そうよ。私が彼女を『クズ女』だのって罵ったわ。彼女の母親なんて早く死ねばいいって思ってる。それが何?どうせ私の親じゃないんだから、どうなろうと知ったことじゃないし。
さっき、あなたたちの仲を取り持ってほしいって言ってたわね。いいわよ。役所に行くなら、いつでも付き合うわ」
そう言ってもう真司を一瞥もせず、由理恵は背を向けてその場を去った。
一方で、そんな彼女のどんどん遠ざかっていく華奢な後ろ姿を見つめながら、真司はなぜか胸騒ぎがした。
なぜ彼女はあんなに平然とした顔をするようになったんだ?なぜ自分が翠と結婚すると聞いても、あっさりと受け入れたんだ?
これは、以前のように毎日自分に甘え、笑いかけてくれた由理恵なのか?
そう思っていると、翠が心から心配した様子で、彼の頬に手を添えて言った。
「真司さん、由理恵さんはあなたのことがあんなに好きなんだもの。殴ったのもわざとじゃないはずよ。言ってたことも全部、腹立ちまぎれに決まってるわ。しばらくしたら、私がちゃんと彼女に説明して、謝るから。あなたたち、きっと元通りになれるわ」
翠の優しい声に、真司の張り詰めていた神経が少しずつほぐれていった。
真司は頷き、翠の言葉に納得した。そうだ、どんなことがあっても、由理恵が自分と離婚するはずがないんだから、心配をすることはないのだ。
第7話
その頃会社では、「本当に決めたの?」
そう言って社長の奥山茜(おくやま あかね)は由理恵の退職届を手に取り、やはり少し残念に思った。
由理恵は微笑んで頷いた。
「ええ、私には兄妹がいませんので。それに、両親とも最近あまり体調が良くなくて、だから、やっぱり実家に帰って落ち着こうと決めました」
「じゃあ、ご主人は?彼のお仕事はどうするの?」
由理恵の恋愛事情は、茜も知っていた。
大学の4年間は遠距離恋愛で、卒業後に由理恵ははるばる東都に嫁いできた。だから、二人の絆はとても強いものだと思われていた。
なにより真司は聖東大学で最も若い教授で、将来は約束されているのだから、彼が仕事を辞めるなんてあり得ないだろう。
「離婚するんです」
「離婚?」
それを聞いて驚いた顔をする茜を見て、由理恵はかすかに笑った。
「ええ、もう手続きを進めています」
由理恵は落ち着いていて朗らかな性格だ。だが、普段は穏やかに見えても、彼女の芯は強くて、一度決めたらそう簡単に信念を曲げることはないのだ。
そう感じたから、「わかった。それなら、あなたが今後ますますご活躍されることを心より期待しておくわ」
茜はそれ以上多く言わずに、退職届にサインした。
それから、由理恵は一日かけて仕事の引き継ぎをした。そして、夕方近くになると、離婚協議書が会社に届いた。
由理恵はそれを受け取ると、すべての条項を注意深く読んだ後、ためらうことなく署名した。
その晩、茜がみんなを食事に誘い、由理恵の送別会を開いてあげたのだった。
食事の後、誰かがカラオケに行こうと言い出したので、由理恵も断らずに一緒に行った。
以前は真司が嫌がるから、彼女は同僚との集まりにほとんど参加しなかった。
これまで、彼の好みをすべて尊重してきたのに、結局こんなみじめな結末を迎えるなんて、由理恵がなんだか空しい気分になっていると、ちょうどその場の雰囲気に合うかのように、今回の集まりは同僚の離婚をテーマにした歌で幕を閉じた。
それから由理恵が家に帰ったときには、もう夜中の12時を過ぎていた。
ドアを開けて中に入ると、真司がソファに座ってタバコを吸っていた。
由理恵が帰ってきたのに気づくと、彼は慌ててタバコを消して立ち上がり、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、つい家の中で吸ってしまった」
「別にいいわ」
由理恵は、もうこの家すら手放そうとしているのだから、真司がリビングでタバコを吸おうが、どうでもよかった。
そう思って、靴を履き替えると、由理恵はバスルームに向かった。
しかしその行く手を真司が阻んだ。どうやら、彼は今日、どうしても彼女とちゃんと話さなければならないと思っているようだった。
「由理恵、話があるんだ」
由理恵は少し疲れていたし、喧嘩する気力もなかったので、彼女はその場に立ち止まり、まっすぐに真司を見つめた。
「ええ、どうぞ」
一方で、真司は今朝の自分がとった態度のせいで、由理恵は怒って口も利いてくれないだろうと思っていた。だから、彼女の帰りがこんなに遅いのも、意地を張っているからだと彼は考えたのだ。
でも、目の前の由理恵は驚くほど落ち着いていた。
そんな彼女を目の前にして、心の中ではまだ漠然とした不安があったが、この話はもう先延ばしにできないので、ついに彼はそれを口にした。
「蘭おばさんの容態はもうあまりよくないんだ。先生によると、いつどうなってもおかしくないって……それで、彼女、彼女に最後の願いがあって、その……」
真司は自分が悪いことをしているとは思っていなかった。それでもその言葉を続けることはなかなかできなかったのだ。彼は妻に、自分が別の女性と結婚しようとしていることをどう伝えればいいのか、分からなかった。
「それで彼女はあなたに翠の一生の面倒をみてほしい、あなたたちが結婚するのを見届けたい、とかお願いをしてきたってこと?」
今日、翠が言った言葉を、由理恵はまだ覚えていた。その場で何も言わなかったのは、真司自身の口から聞きたかったからだ。
今の状況からすると、どうやら彼もこの話がどれだけ人を傷つけるか、分かっているようだ。
「もう知ってたのか?」真司は少し驚いた。でも、話がここまで進んだ以上、彼も腹を割って由理恵に事情を説明するしかなかった。
「由理恵、俺が子供の頃、両親はいつも忙しくてさ。ある土砂降りの夜、病気になった俺を蘭おばさんが背負って病院に連れて行ってくれて、それから3日間、寝ずに看病してくれた。
彼女は命の恩人なんだ。だから、彼女に心残りがあるまま逝かせるわけにはいかないんだ。分かってくれるかな……」
しかし、そう話す真司が言い終える前に、由理恵が彼の言葉を遮った。
「もういいわ。分かった、同意する」
そう言って、由理恵は口角を上げて微笑んでみせた。
その笑顔を見て、真司の心にかかっていた暗い雲が、少し晴れた気がした。
彼は嬉しくなって、由理恵を腕の中に引き寄せ、力強く抱きしめた。
「やっぱりお前は分かってくれると思ってたよ。お前は本当に物分かりがいい。
あ、そうだ由理恵。翠とはただ式を挙げるだけだから。友達もたくさんは呼ばないつもりだが、それでも、もし誰かが変な噂をしたら、お前から説明してくれないか?」
一方で、彼にそう頼まれて、愛する人に抱きしめられているのに、由理恵は少しも温もりを感じることはできなかった。
彼女は胸の鈍い痛みをこらえ、「うん」とだけ返事をした。そして真司を押し退けると、寝室に向かって歩き出した。
第8話
その後の3日間、真司が家に帰ってくることはなかった。
由理恵も自分の荷物をまとめると、すべて実家へと配送した。
そして、しばらくためらった後、由理恵はやはり母親の泉に電話をかけることにした。
「お母さん、何日かしたら、そっちに帰るね」
「あら、お休みがとれたの?真司さんも一緒に帰ってくるの?」
電話の向こうで、泉はとても嬉しそうだった。
「由理恵、妊活は順調?ちゃんと栄養のあるものを食べるのよ。体が元気じゃないと、赤ちゃんも健康に育たないわ。それと、真司さんにも言っておいて。タバコもお酒もダメだし、夜更かしもいけないって。
あなたは知らないでしょうけど、下の階の山下さんが毎日孫の自慢ばかりするのよ。孫は本当に可愛いって。まったくもう!うちの娘は美人で、婿はハンサムなんだから.あなた達二人の赤ちゃんが生まれたら、絶対に彼女の孫なんかより可愛いはずなのに」
こうして、電話をするたび、泉はいつも由理恵にたくさんのことを話したがるのだ。
でも今回ばかりは、母親のおしゃべりや小言を聞いているうちに、由理恵は思わず涙が浮かんできたのだった。
娘がすすり泣く声に気づいたのか、泉の口調が急に変わった。
「由理恵、どうしたの?泣いてるの?何があったのよ」
そう聞かれて、由理恵は涙をぬぐい、正直に話すことにした。
「お母さん、私、真司と離婚しようと思ってる」
その一言で、電話の向こうは長い沈黙に包まれた。
しばらくして、泉の優しい声が再び聞こえてきた。
「それなら、帰ってくればいいさ。ちょうど新しい寝具を買ったところなの。きっとあなたが好きな柄よ」
「うん」
そこまで聞いて、由理恵はもう感情を抑えきれなくなり、「まだ用事があるから」と言って、急いで電話を切った。
そして、ソファに身を預け、彼女は壁にかかってある真司との結婚式の写真を見つめながら、その目には、涙と共に冷たい光を宿った。
ほら見て。真司。あなたがいなくても、この世界には無条件で自分を愛してくれる人がいるんだから。
そう想いに耽っていると、ピロン、というラインの通知音が、由理恵を現実に引き戻した。
彼女が開いてみると、それは翠から送られてきた写真だった。
写真は、翠と真司の和装の結婚写真だった。
翠は金色の着物を着て、真司の隣に可愛らしく寄り添っていて、真司もまた紋付袴に身を包み、知的で洗練された雰囲気を醸し出していた。
それを見た由理恵はもう一度、自分と真司の結婚写真を見上げた。そして彼女は8年間かけて築いてきた二人の関係が、とんだ笑い話のように思えた。
結婚した当時、由理恵も和装の写真を撮りたいと提案したことがあったのだが、真司は反対した。あの時、彼は和装は準備が大変だし、自分には似合わないと言っていたのだ。
それなのに今、彼は和装することを了承しただけでなく、他の女とウエディング写真まで撮っているのだ。
やっぱり、気にかけている場合とそうでない場合はこれほどにも違うんだ。
すると、ピロン、翠からまたメッセージが届いた。
【由理恵さん、私と真司さん、明日結婚するんです。本当はあなたも招待したかったんですけど、母の機嫌が悪くて、あなたに会いたくないって言うんです。だから明日は来ないでくださいね。式が終わったら、改めて真司さんと一緒に食事に誘いますから】
なんて見え透いた自慢と挑発だろう。由理恵は冷たく笑って、【おめでとう】とだけ返信した。
そして、それを送り付けた後、由理恵は翠をブロックし、すぐさま以前に依頼したことのある内装の解体業者に電話をかけた。
この家にあるものすべてが、彼女の愛情と努力の結晶だった。でも、自分が出ていくなら、こんなものをここに残しておく必要はない。
翌日、結婚式の会場。
式に参加しているのは、ほとんどが翠の親戚や友人たちだった。
真司はずっと由理恵の姿を探していたけれど、式が始まってから終わるまで、彼女を見かけることはなかった。
そして夜になって、蘭を病院に送り届けた後、真司が家に帰ろうとすると、翠も由理恵に直接お礼を言いたいという理由で一緒について行きたいとお願いをしてきたのだった。
それには真司も断る必要がないと思った。なにせ、彼からすれば自分と翠はやましい関係ではないのだから、何も隠すことはないという考えがあったからだろう。
しかし、家に着いて、ドアを開けた瞬間、真司は雷に打たれたかのように立ち尽くした。
広々とした家の内装はすべて取り払われ、壁も床も殺風景なコンクリートが剥き出しになっていた。そして、リビングの中央には彼の私物が入った段ボール箱がいくつか置かれている以外、由理恵と暮らしたこの家には、もう何も残っていなかったのだ。
それを見て、呆然と立ち尽くす翠が見つめる中、真司は段ボール箱に歩み寄り、震える手でその上に置かれたファイルを手にした。
開封してみると、中には由理恵が署名した離婚協議書と、彼女の子宮外妊娠の手術に関するカルテが入っていた。