眠らない夜の約束

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小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。 五歳で施設から彼に引き取ら...

Chương (1)

第1章

小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。 五歳で施設から彼に引き取られ、十二歳までに名門の礼儀作法を習得。十六歳のときには、香江市の社交界で最も理想的な花嫁候補と言われる存在になっていた。 十八歳の誕生日の夜、修二が誤って薬を盛られ、彼女は一晩中そばを離れず看病した。 それ以来、香江市中の誰もが、晴美が修二の最も大切な存在であることを知るようになった。 二十歳の誕生日前夜、彼は自らの手で彼女の手首にダイヤモンドのブレスレットをはめ、低い声で言った。 「晴美、やっと君と結婚できるようになったな」 彼女はその胸に顔をうずめ、激しい鼓動に身をまかせた。 だが翌日、修二の父である小山悟(こやま さとる)が公に政略結婚の発表をした。 彼女は取引の駒として扱われ、修二の宿敵である藤原悠斗(ふじわら ゆうと)に嫁ぐことを約束された。 修二は藤原家の令嬢、藤原雨子(ふじわら あめこ)を妻に迎えることになる。 晴美の頭が真っ白になり、血の気が一瞬で引いた。手足は冷たくなっていった。 彼女は勢いよく顔を上げ、隣にいる修二をじっと見つめ、何か言ってほしいと願った。 第1話 小山晴美(こやま はるみ)は、小山家の御曹司である小山修二(こやま しゅうじ)が自宅に囲っていた愛人だった。 五歳で施設から彼に引き取られ、十二歳までに名門の礼儀作法を習得。十六歳のときには、香江市の社交界で最も理想的な花嫁候補と言われる存在になっていた。 十八歳の誕生日の夜、修二が誤って薬を盛られ、彼女は一晩中そばを離れず看病した。 それ以来、香江市中の誰もが、晴美が修二の最も大切な存在であることを知るようになった。 二十歳の誕生日前夜、彼は自らの手で彼女の手首にダイヤモンドのブレスレットをはめ、低い声で言った。 「晴美、やっと君と結婚できるようになったな」 彼女はその胸に顔をうずめ、激しい鼓動に身をまかせた。 だが翌日、修二の父である小山悟(こやま さとる)が公に政略結婚の発表をした。 彼女は取引の駒として扱われ、修二の宿敵である藤原悠斗(ふじわら ゆうと)に嫁ぐことを約束された。 修二は藤原家の令嬢、藤原雨子(ふじわら あめこ)を妻に迎えることになる。 晴美の頭が真っ白になり、血の気が一瞬で引いた。手足は冷たくなっていった。 彼女は勢いよく顔を上げ、隣にいる修二をじっと見つめ、何か言ってほしいと願った。 だが、彼はただ沈黙していた。 祝福と拍手の中、その沈黙は耳をつんざくほどに激しく響いた。 晴美は、自分の心臓が見えない手に強く握りつぶされるような痛みに襲われ、呼吸すらままならなかった。 あの夜更けのぬくもりも、あの特別な優しさも、結局は家族の利益の前では何の重みも持たなかったのだ。 晴美は唇を強く噛みしめ、口の中に鉄のような血の味が広がるまで放さなかった。 そして勢いよく手を振り上げ、つい先ほどまで宝物のように大切にしていたダイヤのブレスレットを力いっぱい引きちぎった。 細かなダイヤが彼女の繊細な肌をかすめ切り、鋭い赤い痕をいくつも残した。 パチンという小さな音とともに、ブレスレットは彼女の手から離れ、つややかな床の上にためらいもなく投げ捨てられた。 修二の顔色がわずかに変わり、すぐに手にしていたグラスを置くと、身を乗り出して彼女の冷え切った手を取ろうとした。 彼の声は低く抑えられ、諦めを含んだため息がこぼれた。 「晴美……聞いてくれ。これは一時しのぎなんだ。父を落ち着かせるためで、待っていてくれれば……」 「一時しのぎだと?」 晴美はさっと手を引き、顔を上げた。目尻は真っ赤に染まっていたが、涙をこらえて一滴もこぼさなかった。 「一体いつまで待てっていうの?私が結婚してからもってこと?」 彼女は彼を見つめた。かつて笑みをたたえていた柔らかな目は、今では冷たい嘲笑と、心が枯れ果てたような虚無だけをたたえていた。 「修二、晴美ちゃん、ここにいたのね」 甘ったるい声が、二人の会話を突然遮った。 雨子はふたりの姿を見つけると、ぱっと目を輝かせ、手にしたグラスを軽く掲げながら、花のような笑顔で近づいてきた。ごく自然な仕草で、修二の腕に手を絡めようとした。 「何を話して……」 まだ言い終えぬうちに、何かにつまずいたらしく、手に持ったグラスがぐらりと傾いた。 赤い液体が晴美の白いドレスに飛び散り、高価な布地にたちまち嫌なほど鮮明なシミを広げた。 「あらっ!ごめんなさい、ごめんなさい!晴美ちゃん、本当にわざとじゃないの!」 雨子は悲鳴を上げると、何度も謝りながら、無垢そうな美しい顔に動揺を浮かべて、慌てて二人の方を見た。 修二はわずかに眉をひそめ、すぐに自分のジャケットを脱いで晴美に差し出した。 「大丈夫?着替えようか?」 しかし晴美は二人を一瞥もせず、上着も受け取らなかった。ただうつむいたまま、スカートの裾に広がる汚れを見つめている。それは今の彼女の心そのもののように、濁り、淀んでいた。 そして、彼女はゆっくりと顔を上げ、目の前の二人を見つめながら、ふっと笑った。 「いらないわ」 修二が驚きで目を見開く刹那、彼女は酒に濡れてねっとりしたスカートの裾をつかみ、勢いよく引きちぎった。 ビリッ! 澄んだ布の裂ける音が、ややざわめく宴会場の中でひときわ耳障りに響いた。 彼女の身にまとっていた豪奢なトレーン付きのロングドレスは、一瞬にして裾が不揃いに裂け、どこか壊れた美しさを宿した軽やかなショートドレスへと変わり、その下からは彼女の長くまっすぐな脚があらわになった。 彼女は手に残った破れた布切れを、まるで忌まわしいゴミでも捨てるかのように床へと放り投げた。 晴美は顎を少し上げ、顔色を一瞬で険しく曇らせた修二をまっすぐ見つめながら、一語一語を噛みしめるように言った。 「ちょうどよかったわ。この服も、贈った人も…… 別に好きじゃなかったし」 そう言い終えると、晴美はもう修二に一瞥もくれず、まっすぐ宴会場の扉の方へ歩き出した。 修二は手にしたスーツの上着をぎゅっと握りしめ、晴美が去っていく背中を見つめながら、その瞳に複雑な光を宿していた。 宴会場の息苦しいほどの喧騒は完全に背後へと遠ざかり、晴美はそのままタクシーを拾って、小山家の別荘の住所を告げた。 夜の闇を切り裂き、車は走り出した。窓には香江市のネオンがぼやけた光の輪となり、血の気の引いた彼女の顔を、微かに浮かび上がらせている。 胸の奥の、未だ癒えぬ空洞に疼きがこだまし、晴美はその痛みと寒さに震えた。 深く息を吸い込み、バッグからスマホを取り出すと、これまで一度も自分からかけたことのない番号を探し出し、発信した。 電話は一秒も鳴らないうちに繋がり、受話器の向こうからは優しく親しげな女性の声が聞こえてきた。 「晴美?」 「お母さん」その晴美の声は静かで、どこか疲れているように聞こえた。「一緒に海外に行くわ。条件は一つだけ。これからは、私の生活に一切干渉しないこと」 電話の向こうの女性は少し驚いたようだったが、それでも嬉しそうに応じた。 「わかったわ。では七日後、例の施設の前であなたを迎えに行くわ」 「うん」 第2話 晴美は電話を切り、安堵とも深い茫然ともつかない、複雑な思いに捉われていた。 ふと視線を上げ、無意識にバックミラーを見た彼女は、ちょうど運転手の目と合ってしまった。その目は明らかに卑わいな色を帯び、こっそりと彼女の脚を眺めていた。 晴美の胸の奥が一瞬むかついたが、表情には一切出さなかった。 車はやがて、豪奢な別荘地の入り口で止まった。 運転手は手をこすりながら、愛想笑いを浮かべて言った。 「お嬢さん、ここにお住まいなんですか?すごいですねぇ。中に入ったことないんですよ、ちょっと見学がてら、水でも一杯いただけませんか?」 晴美はその目つきに隠された下心を見透かし、静かに内心で嘲笑った。 彼女は静かにドアを開け、車を降りた。そして、柔らかく、弱々しい少女のような声で言った。 「いいですよ、ついてきてください」 運転手は思いがけない幸運に慌て、エンジンを切り、車から飛び降りた。そして晴美の側へ回り込むと、卑しい笑みを浮かべ、肩に手を回そうとした。 次の瞬間、晴美の目が鋭く光った。素早く体を捻り、伸ばされた腕を掴みとると、重心を落として――見事な一本背負いを決めた! ドンッ! 鈍い衝撃音が、静まり返った夜にくっきりと響き渡った。 運転手は痛みに顔をゆがめ、地面に倒れたまま動けない。恐怖に満ちた視線の先には、あの可憐な花のような女が一転、凄まじい修羅神と化していた。 晴美は見下ろすように冷ややかに一目投げかけると、後ろを振り返ることなく歩き去った。微塵の未練も感じさせない。 彼女の護身術は修二が手取り足取り教えてくれたものだ。動きのひとつひとつ、力の入れ方のすべて、そして姿勢を直してくれるとき、背後から包み込むように支えてくれたその感触まで、晴美は今も鮮明に覚えている。 あの時、彼は笑いながら言った。「晴美、無理して覚えなくても大丈夫。俺がちゃんと守るから」 彼女はその時、恥ずかしそうに小さくうなずいただけで、何も言わなかった。 今思えば、あの時やめなくて本当によかった。やっぱり人に頼むより自分を信じるべきだ。 一方その頃、宴は終盤に差しかかっていたが、修二の胸の中の苛立ちはますます高まっていた。 晴美が去る時に見せたあの決意に満ちた眼差しが、棘のように心に刺さって離れない。 その時、スマホが震え、一通のメッセージが届いた。 添付されていたのは、数枚の意味深な写真。 そこには、別荘地の入口でタクシー運転手と「親しげに」話す晴美の姿が写っており、中にはまるで彼女がその男を中へ誘っているかのような一枚もあった。 撮影者の意図的なアングルが、二人の関係をあたかも深い仲であるかのように見事に演出していた。修二の顔色がたちまち曇り、顔面から血の気が引いたかと思うほどだった。 彼はほとんど迷うことなく、急ぎ足で宴会場を後にし、車を飛ばして別荘へと向かった。 晴美の部屋に飛び込んだとき、彼女はちょうど風呂上がりで、シンプルなルームウェア姿のまま、タオルで濡れた髪を拭いていた。 「その男は誰だ?」 修二の声には怒りが抑えられていて、スマホの画面を彼女の目の前に突きつけた。 晴美は写真を一瞥しただけで、誰かが二人の仲を引き裂こうとしていることをすぐに悟った。 ただ、修二がこんなにも簡単に信じ込み、自分を疑うとは思ってもみなかった。 心の中で冷たく笑いながらも、表情は穏やかで、むしろ邪魔されたことへのわずかな苛立ちさえ滲んでいた。 「ただのタクシーの運転手よ。まさか、私がタクシーに乗ることまで口出しするつもり?」 「タクシーの運転手?あんなに近づく必要があるのか?家まで連れ込む気だったのか?」 修二が一歩詰め寄った。声には嫉妬と疑念が隠しきれず滲んでいた。 彼は、どんな男であれ晴美に近づくことを許せなかった。ましてや、彼女が自分の支配から抜け出そうとしているこの時に。 「言ったでしょ、知らない人だって」晴美は顔をそらし、冷たく言い放った。「信じようと信じまいと、どうぞご勝手に」 本気で調べる気があるなら、別荘地の入り口の監視映像を確認すれば一目瞭然だ。 けれど、彼女は説明する気などなかった。 家族の利益となれば彼女を躊躇なく切り捨てたくせに、彼女の私生活に口を出す権利があるとでも? 彼女はわざと彼を翻弄し、疑念を抱かせ、いら立たせてやろうと考えた。 全身で拒絶する様に鋭く構える晴美を見て、修二の胸中にくすぶっていた怒りが一気に燃え上がった。 しかし、それ以上に、彼を飲みこみそうな巨大な不安が奥底から湧き上がってくる。 思わず腕を伸ばし、晴美を力任せに抱きしめた。骨の軋むほどの強さで。 顎を彼女の頭に押し付け、声を詰まらせながら、かすかな懇願をにじませた。 「晴美……そんなふうにしないで。俺のそばから離れないでくれ」 彼は一瞬ためらい、顔を彼女の首筋に埋めた。吐息は熱かった。 「もう、俺には君しかいないんだ」 その瞬間、彼はもはや小山家の気高く穏やかな御曹司ではなかった。嫉妬と恐怖に取り込まれた、ただの一人の男でしかない。 そのか細い言葉は、小石のように晴美の凍てついた心の湖面に落ち、かすかな波紋を走らせた。胸の奥に、痛いような切ない温もりが、じわりと広がっていった。 彼に強く抱きしめられ、彼の体が微かに震えているのをはっきりと感じたが、彼女はもう何も言わなかった。 かつて、こんな抱擁も、こんな言葉も、彼女にとっては当たり前のものだった。 けれど今は――ただ、もの悲しさだけが胸に残った。 その束の間の静けさも、長くは続かなかった。 第3話 翌日の午後、雨子が小山家を訪れ、悟に会った。表向きは、政略結婚の詳細を打ち合わせるためだった。 リビングにはお茶の香りがほのかに漂っている。 雨子は悟としばらく談笑していたが、いつの間にか話題は晴美のことへと移っていった。 彼女は何気なくスマホを取り出して何かを見ていたが、突然「あっ」と小さく声をあげた。 「どうした?」悟は尋ねた。 雨子は慌てて画面を隠し、頬をうっすらと染め、視線を泳がせながら悟を見上げた。 「おじさん、いえ……なんでもありません……たぶん、見間違いかと……」 その取り繕うような態度が、かえって悟の疑念を深めた。 何度も問いただされ、雨子は「仕方なく」スマホを差し出した。画面には、巧妙な角度で撮られた一枚の親密な写真が映し出されていた。 「これは……」悟は眉をひそめた。 「おじさん、誤解なさらないでください!」雨子は慌てて弁解したが、その声は柔らかながら、どこか鋭い刃のような切なさを帯びていた。 「晴美ちゃんはきっと、兄との婚約のことを知って、気持ちが落ち着かなくて……気分転換に出かけたら、ろくでもない人に出会ってしまったのでしょう…… 彼女も決して悪気があってしたわけではないと信じています。どうか彼女を叱らないでください……まだ若いですから、分別がつかないのでしょう……」 彼女の言葉の一つ一つは「弁解」を装いながら、実は晴美の行いの不正や私生活の乱れを、これ以上なく確かなものとして印象付けていた。 悟の顔色は完全に沈み込んだ。 彼は晴美が何をしたかなど、どうでもよかった。ただ、小山家の名誉だけは守る必要がある。特に今は藤原家との政略結婚が進められている肝心な時期だ。 家族の名声を傷つけかねない火種は、早急に絶たねばならない。 その夜、悟は冷たい表情のまま晴美に命じた。 「明日から、俺の許可なしに一歩たりとも家の外へ出るな。 お前名義のすべてのカードは一時的に凍結する。家で自分の行いをよく反省しろ」 晴美は書斎の中央に立ち、目の前の、自分を育てながらも終始駒としてしか見なかった「父親」を見つめていた。心は少しずつ底へと沈んでいく。 悔しいか?当然だ。 しかしそれ以上に、現実を突きつけられたような、茫然自失の状態が彼女を包んだ。 悟の一言で、晴美は実質的に小山家の別荘に軟禁されることになった。外出の自由は奪われ、経済的な手段もすべて断たれてしまった。 彼女はまるで翼を折られた鳥のように、この豪華絢爛な檻の中に閉じ込められた。 その知らせを聞いた修二は、すぐに彼女のもとへ向かった。 彼が部屋のドアを開けたとき、晴美は窓辺に座り、無表情のまま外を見つめていた。 夕陽の残光が彼女の体を柔らかく包んでいたが、その温もりは冷え切った瞳の奥まで届くことはなかった。 「晴美……」修二の声にはかすかな疲れが滲んでいた。彼は彼女のそばに歩み寄り、そっと腰に腕を回した。「父さんは、かなり怒っている」 晴美は振り向かず、感情を込めない声で答えた。 「それで?」 「ここには当分住めない」修二は少し間を置き、決意を固めたように言葉を続けた。 「郊外に俺の別荘がある。静かで落ち着いた場所だ。しばらくそこに身を置いて、父さんの怒りが収まるまで様子を見よう……」 「行かない!」 晴美が振り向くと、目には怒りの炎が燃え上がっている。 「修二、これじゃああの人が直接私を閉じ込めるのと何が違うの?ただもう少し豪華な牢獄に変えただけじゃない!」 彼女は立ち上がり、興奮しながらドアを指さした。「出てって!そんな偽善みたいな言葉、聞きたくない!」 「晴美!」修二は彼女の手首を掴んだ。その力の強さに、骨がきしむほど痛みが走る。 修二は一歩踏み込み、深く複雑な感情が渦巻く瞳で彼女を強く見据えた。その目元はわずかに赤みを帯び、声は低くかすれ、うつむき加減に、哀願にも似た響きを込めて語った。 「頼む……俺のためだと思って、少しだけ我慢してくれないか?」 彼は彼女の手首をしっかりと握りしめていたが、次第に力を緩め、その小さな一片の肌を指先で細やかに撫でるようにした。低く沈んだ声で言い続けた。 「閉じ込めようとしてるわけじゃない。ただ君を守りたいんだ。父さんがもっと激しい手段で君を傷つけるのを防ぎたいだけなんだ、分かってくれないか?」 晴美は、彼の赤く染まった目の縁を見つめ、声ににじむ普段とは異なる脆さを耳にして、胸の奥がぐっと締め付けられるような痛みを覚えた。あれほど必死に抗おうとしていた意地が、ふと、すっかり萎んでしまった。 もう、どうすればいいというのだろう。 この巨大な小山家の中で、彼女には頼れるものなど何もない。唯一の拠り所は、目の前のこの男だけだ。 時に従う者こそ、賢者。 結局、晴美は修二の車に乗り込み、郊外にあるあの別荘へと向かった。 別荘は確かに環境が優雅で、まるで世間から隔絶された別世界のようだ。しかし、その分だけかえって空虚で、不気味にすら感じられる静寂に包まれていた。 修二は彼女を落ち着かせると、穏やかな声でメイドにいくつか指示を出した。 修二は毎晩のように訪れては、彼女の好きな小さなケーキを持ってきて、夕食を共にし、夜が更けると彼女をぎゅっと抱きしめた。その温もりにすがりつくようにして、ただそうすることでしか、彼女がまだ手の届く場所にいると確認できぬかのように。 情熱が高まるにつれて、彼は幾度も彼女の耳元で何度もかすれた声を漏らした。 「晴美、君は俺のものだ。俺だけのものだ……」 しかし、たとえ前夜の抱擁がどんなに激しく、情熱がどんなに骨身にしみるほど深くとも、夜明け前には決まって彼はベッドを離れ、去っていく。服を着る動作は無駄がなく冷淡で、夜の帳の中で陶酔していた彼とはまるで別人のようだ。立ち去る前、彼はいつもの、使い古された理由で彼女を宥めるのだ。 「晴美、俺は長くはいられない。今はまだ、父さんと藤原家にこの関係を知られてはいけないんだ」 彼女はただ黙って彼を見つめ、何も言わなかった。 そっと閉じられたドアの音が、鈍い刃のように晴美の心をゆっくりと切り裂いていく。 彼の温もりがまだ残るベッドの上で身を丸めながら、彼女は一人きりの時よりも、いっそうの冷たさを感じていた。 第4話 彼女が別荘の二階で、長いあいだ使われていなかった一室のアトリエを見つけた。 キャンバスも絵の具もイーゼルも、すべてが揃っている。ただ、薄い埃が静かに積もっているだけだ。 まるで感情の吐け口を見つけたかのように、晴美は待ちきれないほど慌ててその中へ駆け込んだ。 彼女はありったけの怒り、悔しさ、無念さ、そして絶望を、キャンバスに注ぎ込んだ。 彼女は重く沈んだ色調と、歪み、もがくような線で、見えない檻に閉じ込められた鳥たちを描き出した。 その鳥たちは鋭い眼差しをたたえ、屈しない誇りをにじませながら、見えぬ壁にひたすら身を打ちつけていく。羽は乱れ、暗紅色に染まり、まるで血の涙を流しているようだ。 彼女はこのシリーズに「囚われの鳥」と名づけた。 創作に没頭している時だけ、彼女は現実の一切を忘れ、芸術の世界で束の間の息抜きを得ることができた。 一筆一筆が、運命への無言の抗議でもあった。 修二が彼女を訪ねて来たとき、時折アトリエの入り口に立ち、晴美がほとんど決死の覚悟で筆を走らせる背中を、そして彼女の筆先から生まれる痛みと葛藤に満ちた絵を、静かに見つめていた。 彼の瞳の色が深く沈んでいったが、結局、何も口にはしなかった。 そんなある日の午後、雨子が予告もなく現れた。 彼女は高価なスキンケア用品とお菓子の袋をいくつか手に提げ、晴美に向かって心配そうな笑みを浮かべた。 「晴美ちゃん、一人でここにいたら退屈してしまうでしょう?様子を見に来たの。いろいろ持ってきたわ」 晴美は冷ややかに一瞥をくれただけで、そのままアトリエへと戻っていった。 雨子はメイドたちに苦笑を向けると、自分のペースで別荘の中をひと回りし、そして偶然、そのアトリエへと足を踏み入れてしまった。 イーゼルに掛けられた、まだ完成していない暗く沈んだ色調の「囚われの鳥」を目にした瞬間、彼女の瞳の奥に一瞬、鋭い光が走った。 「まあ、晴美ちゃん、まだ絵を描いているのね?本当に……個性的だわ」 雨子はスマホを取り出し、何気ないふりをして別荘の内部を撮りながら言った。 「ちょっと写真を撮っておくわ。帰ったらうちも少し模様替えしようかしら。修二さんのセンスって、本当に素敵ね」 晴美は彼女に背を向けたまま、相手にする気もなく、雨子のカメラのレンズが長いあいだ絵に向けられていることに気づかなかった。 その夜、悟は雨子から送られてきた写真を眺めていた。そこには、陰鬱で怒りに満ちた、抗いの気配すら感じられる絵の数々が写されていた。 続いて表示された雨子の音声メッセージは、一見心配げな口調でありながら、その一言一言が鋭く胸を突くものだった。 「おじさん、本来なら余計な口出しはするつもりなかったんですけど…今日、晴美ちゃんのところに行ったら、彼女が描いてる絵がどれも恨みや不満に満ちていて……どうやら、両家の決めたことに納得していないみたいなんです」 「ちょっと心配で……おじさん、彼女にもう少し話を聞いてあげた方がいいんじゃないでしょうか?」 「何と言っても私たちは政略結婚で協力するのであって、争うためじゃありませんから。もし彼女が婚約の席で何か問題を起こしたら、それこそ大変なことになりますので……」 悟の命令は容赦なく、そして驚くほど迅速に下された。 修二が手下を率いてアトリエに押し入った時、晴美はちょうどイーゼルに立てかけた「囚われの鳥」の未完成画に、最後の筆を入れているところだ。 手元の絵の具が尽きたのに気づき、取りに振り返った瞬間、彼女の背後には黒々とした人影の群れが立ち並んでいるのを見て、息をのんだ。 「何をするつもりなの!?」 晴美は彼らの手に握られたハンマーを見た瞬間、鋭い視線で先頭に立つ修二を睨みつけながら、勢いよく両腕を広げてイーゼルの前に立ちはだかった。 「私の絵に触らないで!」 修二の目に一瞬、ためらいが見えたが、父の厳しい言葉が頭をよぎると、無理に心を閉ざした。 彼は彼女の問い詰めるような視線を避け、低く、しかし逆らうことを許さぬ声で言った。 「晴美、どいてくれ」 「いやよ!」 晴美の声は涙で震えていた。「修二、触ってみなさいよ、できるものなら!」 だが、彼女の抵抗など圧倒的な力の前ではあまりにも無力だった。 修二が連れてきたメイドたちは、あっさりと彼女の身体を押さえつけた。どんなに暴れても、泣き叫んでも、晴美はその場に立ちすくみ、無情に振るわれるハンマーや棒がイーゼルを打ち壊し、キャンバスをずたずたに引き裂いていくのを、ただ目を見開いて見つめることしかできなかった。 ドン! ガシャーン―― イーゼルが倒れ、キャンバスは無残に引き裂かれ、絵の具が飛び散った。それはまるで、今まさに砕け散った彼女の心そのもののようだ。 彼女が宝物のように大切に育て上げた作品は、わずか数分のうちに、無残な破片と木屑の散らばる有様へと化した。 「いやっ!やめて!!」 晴美は声を枯らして叫び、絶望が冷たい潮のように彼女を飲み込んでいった。 崩れ果てた残骸を見つめ、そしてその破壊を静かに指揮した男を見やると、血が一気に頭に上り、視界が暗転した。次の瞬間、彼女の身体は力を失い、柔らかくその場に崩れ落ちた…… 第5話 晴美が目を覚ましたとき、目に入ったのは病院の天井だった。 「目覚めたか?」低く、聞き慣れた男の声が耳元で響いた。 晴美が顔を横に向けると、修二が病床のそばに座っている。目の下には薄い隈が浮かんでいるが、彼女を見つめるその瞳には、長い間見たことのない、ほとんど燃えるような光が宿っている。 彼はそっと、布団から出ていた彼女の手を取った。その手つきは驚くほど優しく、まるで壊れやすい宝物を扱うようだ。 「晴美……」抑えきれない興奮がその声に滲んだ。 「医者が言ってた。君は妊娠してる。俺たちの子どもだ」 晴美の瞳が一瞬で細くなり、手が自然と下腹部に触れた。そこはまだ平らなままなのに、彼女がこれまで一度も望まなかった命が、静かに宿っていた。 衝撃が過ぎた後、胸に込み上げてきたのは喜びではなく、むしろ滑稽なほどの冷たい虚無だった。 修二は彼女の異変に気づくこともなく、一人で有頂天になっていた。 彼はかがみ込むと、そっと額を彼女の額に触れ合わせ、温かい吐息を頬に感じさせながら、真剣な声で誓った。 「晴美、心配するな。俺は絶対に君を裏切らない。 藤原家の件はすぐに片付ける。堂々と君と結婚して、俺たちの子にきちんとした家庭を築く」 もしこの約束を二十歳の誕生日の前に聞いていたなら、きっと幸せで気を失っていたかもしれない。 かつて彼も、同じように耳元で「君と結婚する」と囁いた。その直後、何の説明もなく黙って、彼女を別の男の元に押しやってしまったのだ。 彼女は勢いよく手を引き抜き、氷のような視線を向け、唇の端にかすかな嘲りを浮かべた。「誰があなたの子どもを産むなんて言ったの?この子を産まないよ」 修二の顔に浮かんでいた喜びが一瞬で凍りついた。彼は晴美の蒼ざめた頑なな表情を見つめ、その中にある拒絶と憎しみをはっきりと感じ取った。 彼がその手を取ろうとするが、彼女はすっと身を引いた。 「アトリエのこと、怒ってるのは分かってる」彼は声を和らげ、少し困ったように続けた。 「でも父さんの態度も強硬でさ……今度、もっと広くていいアトリエを用意するから、それでいいだろ?」 償いか?晴美は心の中で冷笑した。 彼は一生理解できないだろう。あの絵は、この牢獄のような生活の中で、彼女が唯一心を寄せられるものだった。苦しみと抗い、声にならない叫びをすべて託した存在だ。 それらを乱暴に破かれ、叩き壊された瞬間、彼女がようやく取り戻しかけていた「自分」という欠片は、また粉々に踏みにじられたのだ。新しいアトリエ一つで償えるようなものじゃない。 彼女は目を閉じ、これ以上彼を見ようとしなかった。 疲れと、心の底から込み上げる虚しさが、押し寄せる波のように彼女を包み込んだ。 修二は、何を言っても反応しない彼女の様子にいらいらしながらも、どうしようもなかった。 彼は彼女が何に怒っているのか分かっていた。何か言おうとしたその瞬間、スマホが突然鳴り響いた。 着信を確認した彼は、窓際へ歩み寄り、低い声で数言やり取りを交わした。 通話を終えると、再び病床のそばに戻り、複雑な表情で目を閉じたままの晴美を見つめ、少し間を置いて口を開いた。 「父さんが折れた。外出禁止は解除だ」 晴美のまつげがわずかに震えたが、目を開けることはなかった。 修二は続けた。「今夜、藤原家で食事会があるんだ。俺と雨子の婚約前の……いわば前祝いだ。準備して。今夜、君を連れて行くから」 晴美ははっと目を見開いて修二を見つめた。その美しい切れ長の目には、もはや怒りも冷たさもなく、ただ虚ろな静寂と、ほんのわずかに嘲りの色が残っているだけだ。 修二はその視線に胸を刺されるような痛みを覚え、思わず目を逸らした。それでも声には逆らえない強さが滲む。 「晴美、行かなきゃならない。これは父さんの意向でもある」 言い終えると、彼は一目たりとも彼女を見る勇気もなく、振り向いて慌ただしく病室を後にした。まるで後ろから何かが追いかけてくるかのように。 病室のドアが軽く閉まり、外界の音を遮った。 晴美は手を上げ、まだ平らなままの下腹部にそっと触れた。そこには何の変化もないようだ。 彼女は窓の外の曇り空を見つめ、目には虚ろな色を浮かべていた。 第6話 夜、藤原家の食事会は相変わらず華やかで、香水の匂いと笑い声、グラスの触れ合う音が入り混じっていた。 晴美は控えめな黒のロングドレスに身を包み、静かに隅に立っていた。その姿は、周囲の賑わいからぽつりと切り離されたように見えた。 彼女の視線の先では、修二と雨子が並んで立ち、人々の賛辞を受けながら、完璧で穏やかな笑みが浮かんでいた。その光景は、彼女の目が痛むほどまぶしかった。 ふと、砕かれた絵の数々が彼女の脳裏によみがえってきた。心血と感情のすべてを注ぎ込んだあの一枚さえも、結局は無残に壊されてしまったのだ。 「晴美ちゃん、どうしてこんなところで一人なの?」 背後から甘ったるい声が響いた。その過剰な親しげな調子に、思わず眉をひそめてしまった。 晴美は振り向かなくても、誰の声かすぐに分かった。 彼女は応えもせず、ただグラスを手に取り赤ワインに口をつけた。冷たい液体が喉を通り過ぎても、胸の奥に渦巻く苛立ちは少しも和らぐことはなかった。 雨子は、晴美が明らかに会話を拒んでいる様子を理解していないかのようだ。いや、そもそも彼女は晴美の表情など気にも留めていないのだろう。 彼女は勝手に晴美の傍らに立ち、いかにも心配そうな声で言った。 「顔色があまり良くないわね。ここ、少しうるさすぎるのかしら?それとも……体の具合でも悪いの?」 晴美はワイングラスを握る指先に力を込め、何も言わなかった。赤ワインを彼女の顔に浴びせたい衝動を、必死に抑え込む。 その後、およそ一時間もの間、雨子はまるで影のように、いつも一定の距離を保ちながら彼女につきまとい、変わらず穏やかな口調で、執拗に話し続けた。 食事会の話題からインテリアの話へ、そして晴美のドレスの話へと移り変わり、やがて彼女はさりげなく、修二から受けた行き届いた気遣いについても口にした。 晴美が一言も応じなくても、彼女は飽きることなく、独り言のように語り続けていた。しかし、晴美の忍耐はすでに限界に達していた。 彼女は勢いよく身を翻し、雨子を見据えた。その瞳の奥には、抑えきれない冷ややかな嫌悪が宿っている。「藤原さん、よければ上で話しませんか?」 雨子の目に一瞬、策略がうまくいったような鋭い光が走った。だが顔には、相変わらずの無邪気で何の悪意もないような表情を浮かべ、うれしそうにうなずいてみせた。 「ええ、ちょうど私もここは少し息苦しいと思っていたところよ」 二人は、一人が先に立ち、もう一人が後に続くように、比較的静かな二階の休憩スペースへと向かった。 立ち止まった途端、雨子のほほえみがひっそりと引っ込んだ。彼女は晴美を見つめ、それまでになく確信に満ちた口調で言った。 「妊娠しているんでしょ、あなた?」 晴美の心臓が高鳴り、思わず両手が腹部に当たった。 まさか雨子がこの秘密を知っているとは、夢にも思わなかった。 彼女は唇を固く結び、肯定も否定もせず、ただ相手を警戒するように見つめていた。 その無意識のしぐさを目にした雨子は、自分の推測が正しかったことを確信した。 彼女は一歩前に進み、声をひそめて、哀れみを含みつつも、むしろ脅しに近い口調で言った。 「小山晴美、この子が無事に生まれてくると思う? 小山おじさんと修二さんが、こんな『予定外』の出来事を許すと思う?」 晴美の顔から一瞬で血の気が引いた。 雨子の言葉は、晴美が最も恐れ、最も悩んでいることを、鋭く突いた。 そのとき、雨子の目の端に、廊下の奥からゆっくりと歩いてくる修二の姿が映った。 彼女の顔は一瞬でまたあの無力な表情に戻り、晴美に向かってほほえみかけた。 そして晴美が反応する間もなく、彼女は鋭く叫び声を上げると、その場から後ろに倒れ、階段口で大きく転んだ! 「きゃっ!」 鋭い悲鳴が瞬時に階下の人々の視線を引きつけた。 修二はすぐさま駆け上がり、床に倒れたまま痛々しく身を震わせる雨子を抱き起こした。 「どうしたんだ?」 雨子は修二の胸に寄りかかると、たちまち目尻を赤く染めた。涙に曇った瞳を上げ、呆然と立ち尽くす晴美を一瞥しながら、声を詰まらせつつも思いやるような口調で言った。 「修二さん……晴美ちゃんを責めないで。きっと、うっかり私を押してしまっただけよ。それより、私が足元をふらつかせたからだわ……」 一瞬にして、すべての視線が晴美に注がれた。 修二は顔を上げ、複雑な表情で晴美を見つめた。しかし、大勢の人の面前、しかも藤原家の年長者たちが見守る中、彼は藤原家との表面上の和を保たなければならない。 深く息を吸い込み、冷たく沈み込んだ声で、抗いようのない命令の響きを帯びて言い放った。「晴美、さっさと雨子に謝れ」 晴美は、懐かしくもどこか見知らぬ彼の顔を見つめ、胸の奥が一瞬で凍りつくのを感じた。 かつて彼は、今の雨子を守るように、彼女を自身の背後に引き寄せ、彼女を少しでも辱めようとする者があれば冷たく睨みつけ、そして笑顔で彼女を慰めていたものだ。「俺の晴美を、誰にも傷つけさせはしない」 けれど今、彼は婚約者のため、小山家のために、迷うことなく彼女を疑う側に立ち、敵となってしまった。巨大な理不尽と鋭い痛みが、彼女の全身を飲み込んだ。 晴美は修二を見つめて、ふっと笑った。その笑みは虚ろで、冷たい氷のようなものだ。 驚きのあまり無意識に伸ばしていた、雨子の手を掴もうとした腕を、彼女はゆっくりと引き戻した。 そして、誰も――修二も雨子も――予想していなかった視線の中で、彼女は一歩前へ進み、足を振り上げ、まだ床に座り込んでいる雨子の腹部めがけて、勢いよく蹴りつけた。 「きゃっ!」 その瞬間、雨子の声には、紛れもない恐怖と驚きが混じっていた。彼女の身体は階段を転がり落ち、無様な姿をさらけ出した。 場内は一瞬にして水を打ったように静まり返った。 晴美は階段口に立ち、高みから、下で転び、髪を乱してもはや完璧な仮面を保てなくなった雨子を冷ややかに見下ろしていた。それから、手につくはずのない埃を軽く払うと、何事もなかったかのように雨子へと謝った。 「ごめんなさい」 そう言い終えると、晴美は顔を真っ青にし、瞳を震わせている修二へと視線を向けた。首をかしげた彼女の目には、すべてを諦めた後の静けさと、どこか挑むような光が宿っていた。 「これで満足?お兄ちゃん」 第7話 修二は驚愕のあまり目を見開いて、慌てて階段を駆け下り、雨子を支えた。 顔を上げ、信じられないという目で晴美を見つめるその様は、まるで初めて彼女の真実を知った瞬間のようだ。 腕の中の雨子が苦痛にうめく声で、彼は我に返った。周囲の視線を一身に浴びながら、彼は表情を硬くして、泣きじゃくる雨子を抱き上げ、さっと会場から立ち去った。 晴美はその場に立ち尽くし、二人の背中が遠ざかっていくのを黙って見送った。 胸の奥では、鈍器で何度も叩かれるような痛みが広がり、極限まで疼ききった末に、ただ麻痺した虚しさだけが残されていた。 彼女は口元を歪ませ、泣くよりも痛々しい笑みを浮かべると、背筋を伸ばし、好奇の視線を一心に浴びながら、この息苦しい宴会場を振り返ることなく後にした。 翌日、香江市の主要ゴシップ誌の一面を飾ったのは、【小山若様の婚約者、パーティーで受けた屈辱!養女・小山晴美の傲慢無礼な振る舞い】という見出しだった。 添えられた写真には、階段から無様に転げ落ちる雨子と、階段の上で無表情に立つ晴美の姿が映っていた。 悟はそのニュースを目にした瞬間、怒りに顔を真っ赤にし、帰ってきた修二の目の前にスマホを叩きつけた。 「お前の可愛い妹がよくやってくれたな!小山家の面目は丸潰れだぞ!」悟は怒りで肩を震わせながら叫んだ。 「さっき藤原家から苦情の電話があった!結婚式はすぐに前倒しだ!三日後に執り行う!そして晴美の件は……」その目が冷たく光った。 「お前が直接、藤原家へ連れて行け。雨子と藤原家の目上の方に土下座して詫びを入れさせろ。誠意を見せるんだ。藤原家の怒りが収まるまでな!」 修二は眉間に深い皺を刻み、必死に制止しようとした。「父さん、晴美はただ一時の衝動だった。藤原家に送るなんて、悠斗の方が……」 「衝動だと?俺は、あの子がわざと藤原家との政略結婚をぶち壊そうとしているとしか思えん!」 悟は鋭い声で彼の言葉を遮ると、濁った瞳を鷹のように光らせた。 「修二、会社の現状を忘れるな!いくつもの大型プロジェクトが藤原家の投資にかかっているんだ!たかが一人の女のために、小山家の未来すべてを棒に振るつもりか!」 「小山家の未来」――その一言が、重い山のように修二の胸にのしかかり、彼のあらゆる抵抗と反論を押し潰していった。 彼の脳裏に浮かんだのは、書斎に積まれた危うい財務報告書、そして取締役会で虎視眈々と機会を狙う株主たちの顔だった。 彼は目を閉じ、喉仏が苦しげに動く。再び目を見開いたとき、その奥にあったのは疲れ切った諦めだけだった。 「……わかったよ」 その夜、郊外の別荘。 修二は珍しく自らキッチンに立ち、丁寧にキャンドルディナーを用意していた。 揺れる灯りが彼の端正な横顔を照らすが、眉間の陰りだけはぬぐい去ることはできなかった。 彼は晴美の椅子を引いて、不自然なほど優しい声で言った。「晴美、こっちにおいで。君の好きなものばかりだよ」 テーブルに並ぶのは、彼女の大好物であるフォアグラとミディアムウェルのステーキ。晴美はふと、初めて洋食を食べた日のことを思い出した。 あの時、彼女はナイフとフォークの持ち方さえ間違え、刃がお皿に当たってキンと耳につく音を立てた。それでも彼は一瞬も嫌な顔を見せず、自分のステーキを切り分けてそっと差し出した。その目には、彼女を包み込むような温かな笑みが浮かんでいた。 「俺の晴美は、俺が守る」 だが今、同じ料理、同じ人間でありながら、すべてが変わってしまった。 修二はステーキを切りながら、何げなく低く口を開いた。 「父さんのご意向だ。しばらく藤原家で過ごしてくれ。気分転換だと思って……」 晴美の手がナイフとフォークを握ったまま凍りつくように止まり、ゆっくりと顔を上げて彼を見つめた。その瞳は底なしに静かな沼のように澄み切っていた。「気分転換?それとも……お詫び?」 修二はその視線を避け、ナイフとフォークを置いて、彼女の手を取ろうとした。 「晴美、言うことを聞いてくれ。ほんの少しの間だけだ。約束する、三日だけ! 三日後には必ず迎えに行く。雨子との結婚式が終わって、状況が落ち着いたら……」 ガシャッ! 言葉が終わらないうちに、晴美は勢いよく手を振り上げ、食卓を丸ごとひっくり返した! 繊細な薄手の陶器の皿が砕け、料理と赤ワインが床一面に飛び散った。高価なカーペットはたちまち染みだらけになり、その散らかった光景は、まるで二人の崩れかけた関係そのものを象徴しているかのようだ。 「迎えに来るって?それで?また、あなたの秘密の愛人としてこっそり生きろって?雨子と仲睦まじく並ぶあなたを、じっと見てろって?」 晴美は立ち上がり、修二を見下ろした。目の縁は真っ赤に、なのに涙は一滴もこぼれない。 「修二、あなたの約束なんて、もう私には何の値打ちもないわ!私をあの時欺いたくせに!」 その決意に満ちた彼女の姿に、修二の胸の奥で激しい恐怖が込み上げてきた。彼は勢いよく立ち上がり、足元の散らかった食器も気にせず、晴美を力任せに抱きしめた。腕に全身の力を込め、まるで彼女を自分の骨肉に溶け込ませたいかのように―― 「晴美……もう一度だけ俺を信じてくれ。これが最後だ。俺たちの未来のために、あと少しだけ……耐えてくれないか?」 彼の声はわずかに震えていた。まるで幼い頃、彼女が病に伏せた時、ベッドの傍でどうすることもできずに見守っていたあの時の彼の姿そのものだった。 けれど、思い出が甘ければ甘いほど、今この瞬間が残酷に感じられる。 晴美は修二の腕の中で、身体を強張らせたまま、何の返事もしなかった。 彼の腕の温もりをはっきりと感じながらも、全身が凍りつくように冷たかった。 私たちの未来?そんなもの、もう存在しない。 彼女はかすかに笑った。その笑いには尽きることのない悲しみと嘲りが滲んでいた。 修二はもう彼女の瞳を見つめることができない。ほんの一瞬でも見てしまえば、必死に積み上げてきた決意が崩れ落ちてしまう気がした。 彼は深く息を吸い込み、扉の外に向かって低く言い放った。「誰か来い!」 黒いスーツを着た二人のボディーガードがすぐに入ってきた。 「お嬢様を車に乗せてくれ」彼はそっと目を逸らすと、冷たく硬い声で指示した。 晴美は抵抗することもなく、ボディーガードに両脇を軽く支えられ、甘さと痛みを無数に刻み込まれた檻のような場所から静かに連れ出されていった。 半ば強引に車の後部座席へ押し込まれたとき、彼女は異様に平静なまま、まだ平坦な自分の下腹にそっと手を当てた。 晴美はふと、昼間に母から届いたメッセージを思い出した。 【明日の午後、施設の前で――香江市を離れ、遠くへ逃げよう】 心の中にかすかに残っていた未練と迷いは、この瞬間、完全に霧のように消え去った。 心が死んだ後、かえってこれまでにない解放感に包まれた。 彼女は窓の外を流れる夜景を見つめ、そっと目を閉じた。 頭の中では、もう冷徹な計算が動き始めている。藤原家に着いた後、どうすれば最も良いタイミングを見計らって、この牢獄から完全に抜け出せるか――ただそれだけを考えていた。 第8話 車はついに藤原家の別荘、その冷たく無機質な鉄製の門の前で止まった。 夜の闇に沈む藤原家の屋敷は、沈黙する巨獣のように蹲り、不穏な気配を漂わせている。 晴美はボディーガードに「案内される」形で車から降ろされ、ほぼ強制的にリビングへと通された。 リビングは明るい灯りに包まれていたが、人の気配はなく、暖炉の炎が虚ろに揺らめき、わずかな温もりを放つだけだった。 「小山さん、若様がお部屋でお待ちです」 執事らしき男が無表情のまま淡々と告げた。 晴美の胸が一瞬で重く沈んだ。 部屋へ行く?これは絶対にいい兆しじゃない。 彼女は二階の広々とした寝室へと案内された。冷たく硬質な雰囲気――まさにこの家の主人を思わせる空間だった。 彼女がようやく立ち止まった瞬間、背後で扉が閉まり、鍵のかかる音がはっきりと響いた。ほどなくして、扉が再び開き、藤原悠斗が中へ入ってきた。 深い色合いのベルベットの寝室着を纏った彼は、胸元をわずかに緩めていた。その視線には観察めいた戯れが滲み、晴美に向けられたとき、彼女はまるで商品の値踏みでもされているかのような感覚に襲われた。 「修二がよくも吹っ切れたな!本当にお前をここへ送ってくるとは」 悠斗はゆっくりと歩み寄りながら、声には一切感情の色が見えなかった。 晴美は警戒して下がったが、背は壁に押し付けられた。もう逃げられない。 「何をそんなに怯えている?」悠斗は軽く笑い、手を伸ばして彼女の頬に触れようとした。 「もうすぐ結婚するというのに、まだそんなに恥ずかしがるのか?俺の存在には慣れてもらわないとな……」 その指先が頬に触れようとした瞬間、晴美は鋭く顔をそむけ、氷のような声で言った。「触らないで!」 「ふっ」 悠斗は彼女の拒絶にむしろ興味をそそられたらしく、さらに一歩踏み込み、腕を彼女の耳元の壁に突っ張った。わずかな空間に彼女を閉じ込め、吐息が耳の縁をかすめた。「ここでは、お前のイヤだなんて、通らないよ」 濃厚な男の匂いと圧迫感に、晴美は胃がむかむかとざわめくのを感じた。 彼女は、修二もこんな風に自分を腕の中に閉じ込めるのが好きだったことを思い出した。でも彼の息遣いは清冽で、安心感を与えるものだった。 彼は鼻先で彼女の頰をこすり、恥じらって赤く染まったその頬を見て、笑いながら言っていたのだ。 「晴美、俺の晴美、なんて可愛いんだ」 今、この彼女を他人の寝床に送り込んだのも、まさにその修二だ。彼女は一瞬目を閉じ、再び見開いた時には、もはやその男への未練は瞳の底に微塵もなかった。 悠斗が無理やり唇を奪おうと頭を下げた刹那、晴美の目には鋭い色が走った。 夕食の席から密かに隠し持っていたナイフを、ずっと握りしめていた掌から繰り出し、一瞬にして悠斗の頸動脈へと押し当てた! 「離して!」晴美の声は極度の緊張でかすかに震えていたが、その眼差しは驚くほど鋭く、揺るぎなかった。 「さもないと、本当に切ってしまうかもしれないわよ!」 悠斗の動きがぴたりと止まった。首筋に微かな痛みと冷たさを感じたが、怯えるどころか、瞳の奥に一瞬、純粋な驚きが浮かび、やがてさらに深い興味へと変わっていった。 彼はゆっくりと体を起こすと、低く笑いを漏らし、両手を上げて降参のポーズを見せた。 「わかった、わかった、もう動かないよ」 彼は二歩ほど後ずさりしながらも、視線はなおも晴美の蒼ざめた顔に釘づけになっている。その声音には、どこか感嘆の色が混じる。 「さすが修二に幼い頃から育てられた女だ。気性の激しさは折り紙付きだな」 晴美は刃を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めていた。気を抜くことなど到底できない。 だが、悠斗の次の言葉が、彼女の動きを一瞬止めさせた。 「実は、お前を逃がしてやってもいいんだぞ」 彼は、天気の話でもするように、ゆっくりと言った。 晴美は眉をひそめ、まったく信じようとしない。 「そんな目で見るなよ」悠斗は両手を軽く広げてみせた。 「俺は女に無理強いする趣味はない。それに、修二が逆上する姿を眺める方が、お前をものにするよりずっと面白い」 彼はベッドの縁に腰を下ろし、気だるそうに話を続けた。 「よし、こうしよう。お前は俺の芝居に付き合い、あいつに電話をかけて苛立たせてみろ。修二の理性が吹っ飛ぶ声をこの耳に聞かせてくれれば、藤原家の誰もお前の行く手を阻まないと保証する」 晴美の心臓は激しく脈打ち、彼女は扉の方へと視線を向けた。そこには、ぼんやりとボディーガードの影が見える。 力ずくで突破するだけでは、勝ち目はない。明日の午後、施設での約束がふと脳裏をよぎった…… 晴美は歯を食いしばった。 「……わかったわ」 悠斗は満足げに笑みを浮かべ、自分のスマホを差し出した。そこにはすでに修二の番号が発信されていた。 悠斗は満足そうに微笑むと、自分のスマホを彼女に手渡した。画面には既に修二への発信画面が表示されている。 晴美はそれを受け取り、耳に当てた。胸が張り裂けそうに鼓動する。 何を話せばよいのかわからない。しかし、コール音が切り替わった瞬間、その不安は消えた。 受話器から聞こえてきたのは、今この瞬間、彼女が最も聞きたくない甘ったるい女の声だった。 「もしもし?修二は今シャワー中よ。何か用事なら、私が伝えておくわ」 それは雨子の声だった。 その声には隠しようもない親密さがにじみ、まるで氷の刃のように、晴美の胸の奥にわずかに残っていた希望と甘い幻想を一瞬で貫き通した。 修二は彼女を謝罪の意味でよこしておいて、自分は婚約者と夜を共にしているのか? 晴美は喉の奥に鉄臭い味が込み上げ、目の前が次々と暗転していくのを感じた。胸の内に言葉がことごとく詰まり、一言も声にならなかった。 その瞬間、悠斗は彼女の手からスマホを乱暴に奪い取り、即座に通話を切った。 真っ白に血の気を失い、今にも崩れ落ちそうな晴美の顔を見つめながら、悠斗は口元をわずかに吊り上げた。まるで、悪戯が成功した子供のように。 「もういい、行っていい」 晴美ははっと我に返った。悠斗の行動も、この出来事そのものも、どこか不気味に噛み合わない違和感を放っていたが、それでも逃げ出したいという衝動がすべてを押し流した。 彼女はもう迷わない。身を翻し、扉を開け放つと、ずらりと並んだボディーガードたちの視線を背に、よろめきながら藤原家の別荘を飛び出し、濃く沈む夜の闇に紛れ込んだ。 晴美は必死に走った。振り返る余裕もなく、誰も追ってこないと確信できるまで走り続け、ようやく一台のタクシーを止めた。 車に乗り込むなり、彼女は幼いころから育った施設の住所を、息を切らしながら告げた。 予定より早く到着した晴美は、闇に包まれた荒れ果てた施設を目の当たりにし、緊張と期待で胸の鼓動を激しく高鳴らせた。 時が一秒、また一秒と過ぎていく。その一瞬一瞬が、まるで永遠にも思えるほど長く感じられた。 ついに、暁の光がまぶしく差し込み、黒いセダンが彼女の目の前に静かに停まった。 ドアが開き、上品で洗練された服装の、晴美とどこか似た面差しの女性が車から降り立った。 女性は明るい陽射しの中に立ち、そっと彼女の冷えきった身体を抱きしめた。 その瞬間、晴美の瞳に長い間こらえてきた涙が、今にもあふれ出しそうになった。