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繁花散りて、君への愛も消え果てた
病弱な兄を救うため、広瀬時乃(ひろせ ときの)はわずか七歳にして、梶本家が運営する暗殺者訓練キャンプの門を叩いた。 九歳であらゆる武器...
Chương (1)
第1章
病弱な兄を救うため、広瀬時乃(ひろせ ときの)はわずか七歳にして、梶本家が運営する暗殺者訓練キャンプの門を叩いた。
九歳であらゆる武器を自在に操り、十六歳になる頃には、百人の少女たちが殺し合う訓練キャンプを、たった一人生き抜いてみせた。
その修羅場を潜り抜けた実力を買われ、時乃は梶本克樹(かじもと かつき)の前に立つ。彼の身を護る盾――「専属護衛」として。
あの日から時乃は、克樹にとって最も使い勝手の良い「懐刀」だった。
底が見えないほど複雑な梶本家の勢力争い。彼に実権を握らせるためならと、時乃はこの両手を幾度となく血に染めてきた。
昼は背中を預け合う相棒として、夜は熱を分かち合う愛人として。
時乃はこの幸福が、永遠に続くのだと疑いもしなかった。
あの日、克樹を庇って銃弾を受け、意識を失うまでは。
昏睡から目覚めた時乃の耳に飛び込んできたのは、克樹の冷え切った声だった。
「どうだ来幸(こゆき)、この賭けは俺の勝ちだ。言っただろう?多少の隙を見せたところで俺は死なない。時乃は必ず、我が身を挺して俺を救いに来るとな」
第1話
病弱な兄を救うため、広瀬時乃(ひろせ ときの)はわずか七歳にして、梶本家が運営する暗殺者訓練キャンプの門を叩いた。
九歳であらゆる武器を自在に操り、十六歳になる頃には、百人の少女たちが殺し合う訓練キャンプを、たった一人生き抜いてみせた。
その修羅場を潜り抜けた実力を買われ、時乃は梶本克樹(かじもと かつき)の前に立つ。彼の身を護る盾――「専属護衛」として。
あの日から時乃は、克樹にとって最も使い勝手の良い「懐刀」だった。
底が見えないほど複雑な梶本家の勢力争い。彼に実権を握らせるためならと、時乃はこの両手を幾度となく血に染めてきた。
十八歳の時。裏切り者の奇襲に遭い、絶体絶命の窮地に陥った時乃を、克樹が身を挺して庇った。
自らの体で銃弾を受け止めてまで救ってくれたその瞬間、時乃の心は彼に囚われた。
それからの三年間。昼は背中を預け合う相棒として、夜は熱を分かち合う愛人として。
数え切れないほどの夜を共にし、抱き合って眠りにつく度、克樹は耳元で甘く囁いた。
「時乃、お前なしでは生きていけない」
その言葉を、時乃は本気で信じていた。この幸福が、永遠に続くのだと疑いもしなかった。
だが、克樹が敵に狙われたあの一件で、全てが変わってしまう。数時間にわたる死闘の末、ようやく脱出の糸口を見つけたその時だった。
時乃が必死に彼を庇って退路を切り開き、克樹が落ちた銃を拾い上げようとしたその瞬間。
バンッ!
乾いた銃声が響く。
時乃は反射的に彼の前に飛び出し、その腹部に三発の鉛玉を受けた。
薄れゆく意識の中、目に映ったのは、目を真っ赤にして「時乃!」と絶叫する克樹の姿。
最後の力を振り絞り、彼の目尻に浮かんだ涙を拭う。
「大丈夫……です。痛く、ありませんから」
そう言い残し、時乃は深い闇へと堕ちていった。
どれほどの時間が経ったのだろう。重い瞼を持ち上げると、そこには病院の無機質な白い天井があった。
体に力が入らない。誰かを呼ぼうと口を開きかけたその時、カーテンの向こうから、克樹の冷ややかな声が鼓膜を打った。
「どうだ来幸、この賭けは俺の勝ちだ。言っただろう?多少の隙を見せたところで俺は死なない。時乃は必ず、我が身を挺して俺を救いに来るとな」
続いて、岡山来幸(おかやま こゆき)の甘ったるい声が響く。
「はいはい、わかったわよ。私の要求通りに演じて、無事に生き残ったんだものね。それで?ご褒美は何がいいの?」
「お前なら、わかってるだろう?」
男の声には、隠しきれない情欲が滲んでいた。
強張る首をゆっくりと巡らせると、カーテン越しに、男女が絡み合うシルエットが浮かび上がっていた。
叫びたいのに、声が出ない。
そうか、全てはただの「賭け」だったのか。
自分が負った傷の痛みなど、彼にとっては取るに足らないこと。それどころか、この命さえも、彼は賭けのチップとして使った。
カーテン越しに、克樹が来幸を押し倒し、深く唇を重ねるのがはっきりと見て取れた。
「克樹……彼女がすぐそばにいるのに」
「構うものか」
克樹の声は低く、熱を帯びている。
「それとも、お前は欲しくないのか?」
「んっ……」
来幸は抗えないように、甘い吐息を漏らした。
時乃は全身の血が凍りつき、心臓を鷲掴みにされたかのように息が詰まる。頭の中が真っ白になった。
四年前、まだ克樹が実権を握っていなかった頃。彼の幼馴染である来幸は、両親に強いられて海外へ嫁いだ。
そして一ヶ月前、離婚して帰国したばかりだった。
時乃の脳裏に、自分と克樹が初めて結ばれた夜の記憶が蘇る。あれは確か、来幸の結婚式の当日だった。
酔った彼に抱きしめられ、耳元で縋るように懇願された。
「行かないでくれ……俺のそばにいてくれないか?」
時乃は拒むことなどできず、その想いに溺れた。
一夜の過ちを経て、時乃は彼の日陰の愛人となった。
昼間は冷淡な主従関係。けれど夜になると、彼は狂ったように情熱的になり、貪るように体を求めてきた……
今、ようやく悟った。自分はただ、克樹の鬱憤を晴らすための「代用品」に過ぎなかった。
心が引き裂かれ、粉々に砕け散る音が聞こえた気がした。
情事の余韻が漂う中、来幸の声が聞こえる。
「ねえ克樹。私と結婚するなら、時乃はどうするつもり?」
克樹の声は淡々としていた。
「三年間尽くしてくれたんだ、相応の金は渡すつもりだ。だが、護衛としては確かに優秀だ。このまま俺のそばに置いておく……」
「時乃はプライドが高そうだけど、そんな扱い、承知するかしら?」
来幸が探るように聞く。
「するさ」
克樹の口調には、時乃を完全に支配しているという自信が滲んでいた。
「あいつの兄が、俺の手元にいる限りな」
瞳から光が消え、喉の奥に苦いものがこみ上げる。
そうか、兄さんさえも、自分を縛り付けるための鎖だったのか。
顔からは血の気が失せ、無意識に握りしめた拳に爪が食い込む。だが、その痛みなど少しも感じなかった。
克樹が身支度を整える気配を感じ、時乃は顔を背けて狸寝入りを決め込んだ。
数分後、タイミングを見計らって、今目覚めたかのように装う。
時乃が目を開けたことに気づくと、克樹は手でその頬を撫で、気遣わしげに言った。
「時乃、気分はどうだ?どこか痛むところはないか?」
時乃は首を横に振り、必死に平静を装った。
「今回はお前のおかげで助かった。欲しいものがあれば何でも言ってくれ……」
克樹は眉を寄せ、その瞳に痛ましさを浮かべてみせる。
時乃は乾いた唇を開いた。
「何でも、よろしいのですか?」
「ああ、もちろん」
「……兄に会いたいんです。お願いできますか?」
その瞬間、克樹の瞳に複雑な色が過ぎる。一瞬の硬直。頬から手が離れていく。
鋭く違和感を察知した時乃は問いかけた。
「……どうなさいましたか?」
その時、傍らに立っていた来幸が口を挟んだ。
「絢斗なら、最近うちの兄さんとバカンスを楽しんでいるわよ。戻ってくるのは一ヶ月後かしらね」
息を呑んだ時乃は、激痛に耐えて起き上がろうともがいた。
「何ですって……?」
東都市で、来幸の兄・岡山輝良(おかやま あきら)の異常性は公然の秘密だ。
男女を問わず弄び、残虐な行為を好むサディスト。彼に目をつけられた者は皆、死ぬか廃人同然になって捨てられる。
兄の広瀬絢斗(ひろせ あやと)は生まれつきの病で体も弱い。兄が受けているかもしれない仕打ちを想像し、時乃の目から涙が溢れそうになる。
「克樹様、さきほど何でも願いを聞くと仰いましたよね!今すぐ人をやって兄さんを連れ戻してください!」
克樹が口を開く前に、来幸が割って入る。
「自分の立場をわきまえなさい。たかが護衛の分際で、主人に指図するつもり?
あんなお荷物の病人に、梶本家がどれだけ金をかけたと思ってるの?うちの兄さんの相手をするくらい当然でしょ。別に殺しはしないわよ」
時乃は怒りで声が震える。
「……あれは私の兄です!あなたたちが貸し借りする玩具じゃありません!」
克樹は目を細め、重苦しい視線で彼女を睨みつける。有無を言わせぬ冷徹な口調だった。
「もういい、その話はやめろ。お前も絢斗も、梶本家の所有物だ。どう処遇するかは俺が決める。お前に決定権はない。
まずは大人しく怪我を治せ。他の要求なら、回復してから聞いてやる」
そう言い捨てると、彼は来幸を連れて病室を出て行ってしまった。
克樹は知っているはずだ。
絢斗が、この世に残されたたった一人の肉親であることを!
彼らに懇願しても無駄だと悟った時乃は、胸の内の動揺を必死に押し殺す。
二人が去った後、震える手である番号に電話をかけた。
「以前、私に命を救われた借りがあると言いましたよね。お願い……岡山輝良の手から兄を救い出して。そして私たちを、梶本家から逃がしてください」
第2話
電話を切った後も、心臓を鷲掴みにされたような痛みが引かない。
時乃にとって、この世界で唯一無二の大切な存在、それが兄の絢斗だ。
幼い頃、兄妹二人は路頭に迷い、野良犬と饅頭を奪い合い、物乞いたちと喧嘩をして生き延びた日々。どんな時でも、絢斗はその痩せこけた体で時乃を庇い、守ってくれた。
兄を失うわけにはいかない……絶対に。
絢斗に電話をかけた。たとえ一言でもいい、彼がまだ生きているという証が欲しかった。
一度目、切断。
二度目、またしても……
こめかみが激しく脈打ち、どす黒い不安が視界を覆っていく。
時乃は祈るようにメッセージを打ち込んだ。
【兄さん、必ず助けるから。絶対に生きていて】
送信ボタンを押した。
三十分後、唐突に絢斗からビデオ通話が入る。
時乃は縋るように通話ボタンを押した。だが、画面に映し出された光景を見た瞬間、全身の血が凍りつくような衝撃が彼女を貫いた。
上半身裸で麻縄に縛られた絢斗の体は、血の滲む傷跡で埋め尽くされていた。
顔色は紙のように白く、妹に惨めな姿を見られまいとしているのか、力なく顔を背けている。
画面の外から、輝良の下卑た笑い声が響いた。
「なんだ、恥ずかしがってるのか?妹にお前の今の姿をじっくり見せてやろうぜ。
なあ時乃ちゃん、初日はこいつに九十九回鞭を入れてやったよ。陸に上げられた魚みてぇに、無様に命乞いしてやがったぜ。
二日目は、氷水の中に放り込んでやった。凍えて気絶しちまったがな。
さて今日は、どうやって遊んでやろうか?」
言い終わるや否や、彼は火のついた蝋燭を手に取り、絢斗の肌に蝋を垂らし始めた。
時乃はカッと目を見開き、怒りで視界が赤く染まる。
だが、どうすることもできない。ただ震える声で懇願するしかなかった。
「……輝良様。お願いです、兄さんを放してください!」
「チッ、まだ遊び足りねぇんだよ」
輝良は人を馬鹿にした口調で嘲笑う。
「だが、お前が俺の相手をしに来るっていうなら、こいつを早めに解放してやってもいいぜ?どうだ?」
その言葉を聞いた瞬間、絢斗が弾かれたように顔を上げ、枯れた声で叫んだ。
「時乃、やめろ!そいつの言うことを信じるな!」
ドカッ、と鈍い音が響く。輝良が絢斗の腹を思い切り蹴り上げた。
「誰が喋っていいと言った?」
ドスの利いた怒号が飛ぶ。
「時乃ちゃん、安心しろよ。こいつはまだ殺しはしねぇ。じっくり時間をかけて壊してやるからな」
ブツン。通話は一方的に切られた。何度かけ直しても、応答はない。
時乃は堪えきれず、獣のような咆哮を上げた。絶望と憎悪が心に絡みつき、涙が止まらない。
心が、今にも壊れてしまいそうだった。
……
傷口が塞がっていないのも構わず、腕の点滴を引き抜き、時乃は梶本家へと走った。
屋敷に戻ると、リビングには克樹と来幸が並んで座っていた。取り乱した時乃の姿に、克樹は冷淡な視線を向ける。
「傷も治っていないのに、血相を変えて何事だ?」
時乃は冷たい床に膝をつき、額を擦り付けるようにして震える声を絞り出した。
「克樹様、お願いします、兄を助けてください!彼は輝良様に殺されかけているんです!お願いです、彼を助けて!」
無関心だった克樹の瞳が、瞬時に氷点下まで冷え切った。彼はゆっくりと口を開く。
「……また、兄のことか?
お前の心の中では、あいつがそんなに重要なのか?」
時乃が答えようとしたその時、克樹はふと冷笑を漏らした。
「主であるこの俺よりも、重要だと?」
来幸が克樹の腕に絡みつき、甘ったるい声で猫なで声を出す。
「兄さんがそんな酷いことするわけないじゃない。ねえ克樹、私を信じて?」
そして時乃の方を向き、口元を歪めて嘲笑った。
「たかが護衛の分際で、克樹に指図できるとでも思ってるの?」
克樹は来幸の髪を愛おしげに撫で、甘い声で囁いた。
「わかっているよ」
そして、いつもの淡々とした無慈悲な表情に戻り、時乃を見下ろして告げた。
「療養の必要がないほど元気なら、ちょうどいい。来幸がこれからチャリティー晩餐会に出席する。お前が彼女の専属護衛につけ。
もし来幸に何かあれば、全てお前の責任だ」
第3話
チャリティー晩餐会の会場。
そこでは、克樹は来幸に優しく寄り添う振りをしていた。
彼女が寒そうに肩をすくめれば、自らのジャケットを脱いで優しく掛け、酒が飲めないと言えば、代わりにグラスを空ける。
彼女が気に入った宝石があれば、金に糸目をつけずに競り落とし、その場で贈ってみせた。
時乃は二人の背後に控え、その光景をただじっと見つめていた。あの傲慢不遜な男が、来幸を掌中の珠のように慈しみ、大切に扱っている。
これが……克樹が誰かを愛する時の姿なのだ。
では、自分は?
いつでも捨てられるただのナイフ。
使い潰されて死んだとしても、克樹は眉一つ動かさないだろう。
招待客たちの羨望の声が、さざ波のように耳に届く。
「梶本社長があんなに女性に尽くすなんて、初めて見たわ。こりゃ岡山さんが奥様におさまるのも時間の問題ね」
「ああ。以前は隣にいるあの護衛がお気に入りなのかと噂されていたが、勘違いだったようだ」
「あんな女が梶本社長に釣り合うわけないだろう?やっぱり岡山さんのような、守ってあげたくなる女性がお似合いだよな」
時乃は無表情でその言葉を聞き流していた。何の感情も湧いてこない。
克樹の心に自分の居場所がないことなど、もう痛いほど理解していたからだ。
だが、この場で輝良に遭遇することは予想外だった。
時乃は隙を見て彼に近づき、低い声で詰め寄った。
「兄はどこですか?」
輝良はグラスの赤ワインを飲み干すと、獲物をなぶるような視線を向け、鼻で笑った。
「こんな華やかな場所に、あいつが来られるわけないだろう?犬小屋の中で大人しく待ってるさ」
心臓が早鐘を打つ時乃は、目元が熱くなるのを堪え、震える声を必死に抑え込む。
「どうすれば……兄を解放してくれますか?」
輝良は時乃を頭からつま先までねっとりと品定めし、耳元に顔を寄せた。
「上の客室で、俺と一回やろう……どうだ?」
時乃は一瞬の迷いもなく答えた。
「分かりました」
兄を救えるなら、死ぬことだって厭わない。
……
ホテルの客室。
輝良の顔には、歪んだ興奮が張り付いていた。彼は時乃の服をめくり上げると、鞭を振り上げ、彼女の生傷めがけて容赦なく打ち据えた。
時乃の体は痙攣したが、苦痛の呻き声を喉の奥で押し殺した。
輝良は苦痛に歪む彼女の顔を鑑賞し、カメラを構えてシャッターを切る。
「いいぞ時乃ちゃん。お前みたいな強情な女が俺に甚振られて、そんな無様な姿を晒すなんて……たまらなくゾクゾクするぜ」
輝良が得意げに言い放った、その時だ。
ドアが激しい音を立てて蹴破られた。
現れた克樹は輝良を一蹴りで吹き飛ばすと、眉間に凄まじい殺気をたぎらせて仁王立ちになった。
「誰の許可を得て、その女に触れた?」
輝良は慌てて這い上がり、彼の足元に跪いて首を振った。
「梶本さん、違うんです、誤解です!これは彼女が自分から望んで……」
克樹の瞳が暗く沈む。時乃の前に歩み寄ると、顎を強く掴んで無理やり上を向かせた。
「こいつの言っていることは、本当か?」
克樹の背後で、輝良が首を掻っ切る仕草をし、陰湿な笑みで脅しているのが見えた。
時乃は一度目を閉じ、覚悟を決めて歯を食いしばる。
「……はい。兄が彼の手元にいますので……」
心のどこかに、僅かな希望があった。ここまで酷い仕打ちを受けている自分を見れば、克樹が情けをかけ、兄を救ってくれるかもしれないと。
しかし、克樹は長い間彼女を見つめた後、冷たく鼻で笑っただけだった。
「あいつのためなら、本当に何でもするんだな。
本当に浅ましい女だ……
来幸がお前の護衛不足のせいで、さっき会場で転んでしまったぞ。さて、どう罰してやろうか?」
克樹は彼女を引きずって屋敷に連れ帰ると、浴室に突き飛ばした。服を剥ぎ取り、バスタブに放り込む。そしてシャワーの温度を最高に上げて、熱湯を全身に浴びせかけた。
「輝良に触れられたんだろう?穢らわしい。よく洗って落とせ」
熱湯が傷だらけの体に降り注ぎ、瞬く間に皮膚が赤く爛れていく。だが時乃はその場に立ち尽くし、眉一つ動かさなかった。
体の痛みなど、引き裂かれた心の痛みに比べれば、何の意味もなかった。
彼女の無反応さに苛立ったのか、克樹はようやくシャワーを投げ捨て、低く、どこか狂気を含んだ声で囁いた。
「お前は俺だけのものだ……」
服を着て浴室を出た頃には、克樹はいつもの無関心な様子に戻っていた。
「来幸が足を捻挫した。罪滅ぼしにスープを作ってこい」
時乃は何も言わず、黙ってキッチンへと向かった。
出来上がったスープを来幸の部屋に運び、一秒たりとも留まらずに出てきた。しかしその直後、来幸の悲鳴が屋敷に響き渡った。
時乃が足を止める間もなく、克樹が彼女を来幸の前に引きずり戻し、陰鬱な顔で怒鳴りつけた。
「吐け!来幸のスープに何を入れた!」
来幸の顔には無数の赤い発疹が浮かんでいた。時乃は一瞬目を見開いたが、すぐに冷徹な表情に戻り、淡々と告げた。
「何もしておりません」
わかっている。これは来幸の自作自演だ。
だが、克樹にはそれが見えない。彼はスープを一口舐めると、冷ややかに言い放った。
「来幸がアルコールアレルギーだと知っていて、スープに酒を混ぜたのか?」
来幸は彼の胸に飛び込み、顔面蒼白で肩を震わせて泣きじゃくる。
「克樹、この人、わざと私を……っ」
ガシャンッ!
克樹がスープが入った器を払い落とした。煮えたぎる液体が時乃の手に跳ね、瞬時に火傷の水膨れを作る。
だが彼はそれを一瞥しただけで何も言わず、来幸を抱き上げると、大股で部屋を出て行った。
去り際に、ただ一言だけ残して。
「来幸に何かあれば、ただでは済まないと思え」
静まり返った部屋で、時乃は不意に笑い出した。
やがて涙がこぼれ落ちた。
克樹を愛してしまったことが、この人生で最大の後悔だ。
第4話
病院に連れて行かれた時、克樹の視線は傷ついた来幸だけに注がれていた。
時乃は自嘲の笑みを噛み殺す。
ふと、克樹が振り返った。その瞳は、氷のように冷酷だった。
「謝れ」
「私はしておりません。本当に……真実が見えていらっしゃらないのですか、克樹様」
時乃は頑として頭を下げることを拒んだ。
「克樹、もういいの」
来幸は彼の胸にもたれかかり、あからさまに被害者を演じて見せた。
「ただ、今は体が弱っていて……聞いた話だと、城北区の谷川家の大奥様が、衰弱した体を劇的に回復させる家伝の秘薬を持っているそうなの。譲ってくれるといいのだけど……」
城北区の谷川家と梶本家は、長年血で血を洗う抗争を続けてきた犬猿の仲だ。
克樹が眉をひそめる。
「俺が直接行く」
彼が立ち上がろうとすると、来幸がその袖を引いた。
「克樹、行かないで。私、怖いの……」
克樹はすぐに時乃へ視線を移した。
「お前が行け」
時乃は動かず、来幸を抱きしめる彼をじっと見つめた。
克樹の眼差しに温度はない。
「俺の命令に背けば、どうなるかわかっているな?」
時乃はようやく視線を外し、声を絞り出した。
「……承知いたしました」
谷川家から戻った時、時乃の全身は血まみれで、立っているのが不思議なほどだった。唇を噛みしめ、意識を繋ぎ止める。例の秘薬を入れた箱を克樹に差し出した。
彼女の惨状を見て克樹は思わず眉を寄せ、喉仏を動かして何か言いかけた。
「ご所望の……品でございます。
これで……兄を見逃して……いただけますでしょうか?」
時乃は、彼の中に僅かでも憐れみが残っていることを願って、弱々しく懇願した。
克樹は手で彼女の血に濡れた頬を撫でたが、その口から出たのはあまりにも残酷な言葉だった。
「だがな時乃。お前があいつを気に掛ければ掛けるほど、俺はこの世からあいつを消し去りたくなるんだ……」
時乃は全身の血が凍りつくような絶望に襲われ、プツリと糸が切れたように意識を失った。
……
重い瞼を開けると、ベッドの脇に克樹が座っていた。
彼が何を考えているのか読めない。
だが、迂闊に兄の話題を出す勇気はなかった。克樹が何をするか分からないからだ。
時乃が目覚めたのを見て、克樹は安堵の息をついた。
「谷川のババアめ、お前が俺の所有物だと知っていながら、これほど手酷い真似を……
必ず十倍にして返してやる」
そう言うと、彼は時乃に顔を寄せ、優しく囁いた。
「大人しく俺の言うことだけを聞いていれば、もう二度と傷つけたりしない」
入院中、克樹は甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。専門医を呼び寄せ、高級な滋養品を取り寄せ……
まるで、彼がまだ彼女を大切にしていた頃に戻ったかのようだった。
一週間後、ようやく退院の日。
機嫌が良さそうな克樹を見て、時乃は意を決して尋ねた。
「兄が何か……お気に障ることをしたのでしょうか?もし彼に非があるなら、私が代わりに謝罪いたします……」
ずっと考えていたが、なぜ克樹が急に絢斗を敵視し始めたのか分からなかった。
役に立たないから?それとも梶本家の金を使いすぎたから?
彼女は唇を噛みしめた。
「もし治療費の問題なら、これからは私の給料から差し引いてください。ですから……」
克樹の表情が一変した。
キキーッと急ブレーキの音が響く。
彼は助手席の時乃に覆いかぶさると、その唇を奪い、容赦なく噛みついた。
長い時間が流れた。
彼女の血の味を飽きるほど味わい尽くしてから、ようやく唇を離した。
「今日は、来幸の番犬を選びに行くぞ」
……
地下闘犬場。
檻の中には、土佐犬やピットブルなど、凶暴な大型犬たちがひしめき合っている。
鼻をつく強烈な獣臭に、時乃は思わず身震いした。幼い頃、野良犬に追い回され、噛みつかれた記憶が脳裏をよぎる。
克樹は知っているはずだ。自分が何よりも犬を恐れていることを……
時乃は必死に自分を落ち着かせようとしたが、指先の震えは止まらなかった。
突然、ガシャンと音を立てて、すぐ脇の鉄檻が開いた。
巨大なドーベルマンが檻をこじ開けて飛び出し、猛然と時乃たちへ襲いかかってくる。
時乃は本能的に腕を上げて身を護った。目前に迫る獣の口から、生臭い血の匂いが漂ってくる。
悲鳴と怒号が飛び交うパニックの中、時乃は信じがたい光景を目の当たりにした。
克樹が来幸をしっかりと抱き抱え、時乃を一瞥することさえなく、出口へと去っていった。
恐怖と激痛に体が震える。ドーベルマンの鋭い牙が腕に食い込み、肉を無残に食いちぎった。
その瞬間、彼女は腰のナイフを抜き、渾身の力で犬の首に突き立てた。
意識が遠のく中、薄れゆく視界に焼き付いたのは、来幸を守りながら去っていく、克樹の背中だった。
第5話
消毒液の鼻をつく臭いで目を覚ますと、腕から伝わる激痛で、時乃は瞬時に意識を覚醒させた。
次の瞬間、来幸の声が聞こえた。
「ごめんなさい……私が変な場所に行きたいなんて言わなければ、時乃もこんな大怪我しなかったのに……」
克樹が優しく彼女を宥める気配がした。
「気にするな。こいつは怪我には慣れている。大したことはない……
目が覚めたか?」
克樹の視線が時乃に落ちる。彼女の意識が戻ったのを確認すると、穏やかな声で言った。
「お前の腕なら、たかがドーベルマン一匹殺すのにこれほどの深手を負うはずがない。
俺がお前を守らなかったことへの当て付けか?わざと噛まれたな?」
時乃は彼の言葉を冷笑で遮った。その拍子に、以前彼を庇って撃たれた腹部の古傷が引きつり、顔色が紙のように白くなる。
「私はただの護衛です。主人が私を守ってくれるのを待つなど、あり得ません。
私のような使い捨ての駒など、壊れれば新しいのと取り替えればいいんです。その方が便利でしょう?」
克樹は静かに彼女を見つめ、低い声で問うた。
「俺を恨んでいるのか?
あの時は緊急事態だったんだ。来幸は体が弱い。修羅場をくぐり抜けてきたお前とは違う。お前なら大丈夫だと……」
時乃の声は、零度まで冷え切っていた。
「滅相もございません」
彼女は顔を背け、もう克樹を見ようとはしなかった。
……
三日後。
克樹は時乃の機嫌をとるためか、自ら音楽会へ連れて行くと提案した。
その言葉を聞き、時乃は瞳の奥の複雑な感情を長い睫毛で隠す。
幼い頃から訓練キャンプで叩き込まれたのは、殺人術と格闘術のみ。音楽など解さないし、興味すらなかった。
逆に、来幸が興奮した様子で声を弾ませた。
「克樹、私のために数千万も払って藤崎(ふじさき)マエストロを呼んでくれたのね!本当に優しい……」
結局、そういうことか。
全ては来幸のためだった。
音楽会が終演を迎える頃、一発の銃声が会場に炸裂した。
時乃は反射的に克樹の前に立ちはだかり、懐の銃を抜く。
パニックに陥った群衆が逃げ惑い、怒号と悲鳴の波が時乃と克樹を引き離した。
克樹を見つけた時、彼は胸を撃たれ、純白のシャツが赤に染まっていた。
来幸は傍らでオロオロと立ち尽くし、ただ「克樹!克樹!」と泣き叫んでいるだけ。
時乃は迷わず克樹を背負い、病院へと疾走した。
ICUの前。
時乃は焦燥感に眉をひそめて待っていた。
しばらくして、医師が出てくる。
「患者が出血多量で危険な状態です!すぐに輸血が必要ですが、どなたかA型の方は?」
傍らにいた秘書が言った。
「岡山様と広瀬さんが、確かA型だったと記憶しておりますが……」
それを聞いた来幸は、即座に口を開いた。
「私、貧血気味で……献血なんて無理よ」
言い終わらぬうちに、時乃を睨みつけた。
「梶本家があんたを長年養ってきたのは何のためだと思ってるの?今こそ恩返しの時でしょ」
時乃は何も言わず、ただ冷ややかな目で彼女を見つめ、心の中で自嘲した。
しかし来幸は、その沈黙を拒絶と受け取ったらしい。
「何その態度は?克樹を助ける気がないの?誰か、早くこいつを押さえつけて!血を抜きなさい!」
秘書が困惑していると、来幸が金切り声を上げた。
「誰があなたたちの未来の女主人か、わからないほど馬鹿じゃないわよね!?」
数人の護衛たちが躊躇いを捨て、時乃を取り押さえる。
医師が躊躇していると、来幸は高慢に言い放った。
「もし克樹に何かあれば、あなたたち全員ただでは済まないわよ!」
鋭い針が時乃の静脈に突き刺さる。
一本、二本、三本……
いつまで経っても止まる気配がない。
時乃は、自分の命が血液と共に一滴ずつ流れ出ていくのを感じた。
やがて視界が暗転し、深い闇へと落ちていった……
……
再び意識が浮上した時、彼女はあろうことか、海辺の断崖絶壁に吊るされていた。
冷たい海風が吹き荒れ、体は落ちそうに揺れている。
状況が飲み込めないまま、克樹の声が頭上から降ってきた。
「よくも俺が意識がない間に、無理やり来幸の血を抜こうとしたな?彼女は体が弱いと言ったはずだぞ。
それだけじゃない。お前、よくも俺を裏切って谷川家に居場所を教えたな?
あの病人の兄のために、そこまで俺が憎いか?」
時乃は悟った。また、来幸に嵌められた。
今回は弁解すらしなかった。ただ沈黙を選んだ。
どうせ何を言っても、彼は信じない。
この命は元々、克樹に拾われたものだ。ならば、彼に返せばそれでいい。
彼女の沈黙を見て、克樹の怒りはさらに燃え上がった。
「いつまでその口を閉ざしていられるか、見ものだな!」
第6話
深夜。
海風は刻一刻と強さを増し、時乃を宙吊りにするロープは今にも千切れそうに軋んでいた……
長い夜が明け、ようやく引き上げられた時乃は、克樹の足元に放り出された。逆光の中に立つ男の表情は、陰鬱そのものだった。
「梶本家を裏切った者に与えるのは死だけだ。俺がお前を殺せないとでも、高を括っていたか?
お前が死ぬなら、あの兄を生かしておく必要もないな」
時乃は脱水でひび割れた唇をようやく開き、乾いた声で訴えた。
「本当に……私じゃ、ありません……
殺すなら……私を、殺して!」
必死に体を起こそうとするが、その声は掠れ、震えている。
克樹は冷ややかに鼻を鳴らすと、部下たちに彼女を屋敷へ連行するよう命じた。
モニター画面の前。時乃の髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
画面には、絢斗がベッドに力なく横たわり、目を閉じている姿が映し出されていた。
輝良がカメラのアングルを調整し、下卑た笑い声を上げた。
「よう時乃ちゃん。梶本さんを裏切ったんだって?
じゃあ、お兄ちゃんにはたっぷり痛い目を見てもらわねぇとなあ!」
言うが早いか、彼は棘のついた鞭を振り上げ、絢斗の背中を無慈悲に打ち据えた。
ビシッ!
時乃の瞳孔が収縮し、耳元で激しい轟音が鳴り響く。
彼女は克樹の足元に跪き、なりふり構わず懇願した。
「本当に裏切ってなんていません!信じて……きっと誰かが私を陥れたんです……
そうだ、監視カメラを確認してください!病院で血を分けたのは私です……!
お願い、兄を助けてください!」
顔色は蒼白になり、耳には兄の苦悶の呻き声が響き続ける。
克樹は冷え切った眼差しで彼女を見下ろした。
「俺が病院で目を覚ました時、そばにいたのは来幸だけだった。医師も護衛も、俺を救ったのは来幸だと言っていたぞ。
絢斗のために谷川家に媚びを売る。それが裏切りでなくて何だ?」
彼は一枚の写真を放り投げた。そこには、時乃が谷川家の門前に跪いている姿が写っていた。
「違う!私はやってません!
採血の後に気絶して……何が起きたのか知らないんです……」
克樹は怒りのあまり乾いた笑い声を漏らした。
「そんな言い訳を信じるとでも思っているのか?」
部下に時乃を押さえつけさせ、絢斗が拷問される一部始終を強制的に見せつけた。
ピシッ!
鞭が振り下ろされるたび、時乃の心臓も引き裂かれるようだった。
「やめて、いっそ私を殺して!
私を殺してえぇッ!」
時乃は目を見開き、全身を震わせた。
「言ったはずだ。お前は死ぬまで俺から離れられないとな……」
その時だった。
画面の中で、輝良が目を離した一瞬の隙をつき、絢斗が動いた。
最後の力を振り絞って近くの花瓶を割り、その鋭利な破片で自らの喉を一気に切り裂いた。
微かな嗚咽は噴き出す血に飲み込まれ、彼の瞳から光が消え失せた……
……
輝良の不満げな声が響く。
「チッ。まだ遊び足りねぇのにくたばりやがって。つまらねえな」
プツンと画面が消える。
同時に、時乃の全身の血液が逆流し、胸が激しく波打った。
「兄さんッ――!!」
彼女は拘束していた護衛を瞬時に振りほどき、黒い画面の前へ駆け寄った。
喉が裂けんばかりの絶叫。
傍らで来幸が、ふわりと軽い口調で毒を吐く。
「あんなにあっさり死ぬなんて、安上がりで助かったわ。
克樹を裏切っておいて、お荷物の兄の命一つで許されたんだから、感謝しなさいよ」
時乃の中で、理性の糸が完全に切れた。
目にも止まらぬ速さで卓上の花瓶を叩き割り、その破片を握りしめて来幸に向かって突進した。
瞳は深紅に染まり、そこにあるのは冷え切った殺意のみ。
命には命を!
繰り出す必殺の一撃は、間に入った克樹に阻まれた。
来幸が彼に守られているのを見て、時乃は迷うことなくその破片を彼の腕に突き立てた。
克樹が痛みに顔を歪めたその隙に、時乃は来幸の首に手をかけ、死に物狂いで締め上げた。
克樹は腕を押さえながら、時乃の狂気に満ちた表情を見て息を呑んだ。
心臓が激しく跳ねる。
彼女が自分を傷つけたのは、出会ってからこれが初めてだった。
一瞬、克樹は金縛りにあったように動けなくなった。
来幸は白目を剥き、顔色がドス黒い紫色に変色していく。
「たす……け……」
彼女が事切れる寸前、ようやく我に返った克樹が背後から時乃の首筋に手刀を打ち込み、気絶させた。
第7話
克樹はすぐに時乃に鎮静剤を打たせ、厳しく監視するよう命じた。
眩暈から覚めた来幸は、驚きと恐怖がない交ぜになった悲鳴を上げた。
「克樹!あいつ、私を殺そうとしたのよ!」
克樹は優しく彼女の背を撫で、宥める。
「大丈夫だ。俺がしっかり管理する」
死の淵を覗いた恐怖が消えない来幸は、パニック状態で訴え続けた。
「だめよ!時乃はもう克樹の言うことなんて聞かないわ。兄を殺されたのよ?必ず報復に来る!
ねえ克樹、今すぐ彼女を殺して!」
克樹の手がふと止まった。その表情から優しさが消え失せ、瞬時に氷のような冷徹さへと一変した。
「……あいつに触れていいのは、俺だけだ。
来幸。お前の長所は『物分かりの良さ』だったはずだが?忘れたのか?」
来幸はハッと我に返り、すぐに甘えた声色を作って縋り付いた。
「ごめんなさい克樹……ただ、怖かったの。怒らないで……」
克樹の顔色が少し和らぎ、秘書に命じた。
「絢斗の遺体を回収しろ。腐っても時乃の実兄だ、きちんと弔ってやらねばな」
……
闇の中で、時乃は目を開けた。
その瞳は光を失い、ただ虚ろに天井を見つめている。
脳裏には、絢斗が自ら命を絶つ光景が焼き付いて離れない。
「兄さん……必ず仇は討つから」
克樹が自分の裏切りを信じているなら、本当にそうしてやろうじゃないか。
岡山兄妹が兄を殺した。ならば、血の代償を払わせてやる。
時乃の瞳の奥には、狂気じみた憎悪だけが渦巻き、指先が殺意に震えていた。
三日後、克樹が病室を訪れ、何事もなかったかのように優しい顔をした。
「時乃、明日はお前の兄の葬儀だ。見送ってやれ」
時乃は従順に頷き、一言も発さなかった。
彼女が大人しくなったのを見て、克樹は心の底で安堵したようだ。ベッドサイドに歩み寄り、手を挙げて彼女の頭を優しく撫でる。
「最初からそうやって聞き分け良くしていれば、こんなことにはならなかったんだ」
時乃は穏やかな声で言った。
「克樹様。明日の葬儀に輝良様を呼んでいただけませんか?彼から直接、兄に謝罪させてほしいのです……」
やつれた顔と、胸が締め付けられるほどか細い声。
それに絆されたのか、克樹は無意識に頷いていた。
……
翌日。
時乃はシートに身を沈め、顔を横に向けて車窓の外を見やった。
墓地の入り口に車が止まると、克樹と来幸が先に降りた。
その一瞬の隙を突き、時乃は素早く後部座席から運転席へと移動し、ドアロックをかけた。
彼女の視線は、墓地の入り口に立つ男に釘付けになる。場違いな派手なアロハシャツを着て、ヘラヘラと笑っている男――輝良。
長い間溜め込んでいた憎悪が爆発し、全身を駆け巡る。時乃はアクセルを床まで踏み込み、一直線に輝良へ向かって突っ込んだ。
エンジンの咆哮に気づいた輝良が逃げようとした瞬間、車体は猛スピードで彼を跳ね飛ばした。
ドンッ!
輝良が地面に激しく叩きつけられる。
時乃は即座にハンドルを切り、車首を向け直してさらに突撃しようとした。
数台の黒いSUVが慌てて進路を塞ぐが、彼女は躊躇なくアクセルを踏み続け、何度も、何度も衝突を繰り返した。
車のフロントがひしゃげ、自身の額から血が滴り落ちても、止まらなかった……
克樹が部下に命じて無理やりドアをこじ開けさせ、彼女を取り押さえる。
薄れゆく意識の中で、時乃は呪詛のように吐き捨てた。
「……私が生きている限り、一分一秒たりとも……絶対に諦めないから……」
視界が闇に沈む直前、克樹の呟きが聞こえた。
「どうしていつも……俺の期待を裏切るんだ?」
……
次に目が覚めた時、克樹は気怠げにまぶたを上げ、淡々と彼女を見下ろした。
「輝良は肋骨三本と片足を折った。これで気は済んだか?
昨日、絢斗を弔ってやった。この件はこれで終わりだ」
時乃は憎しみを込めて彼を睨みつけた。
「あり得ない」
克樹の瞳が冷たく光る。
「兄を、死んでも安らかに眠らせないつもりか?」
時乃は息を呑み、信じられないという表情で彼を見た。
克樹は読めない瞳で彼女を見つめ、口調を和らげた。
「輝良が退院する日、彼に謝罪しろ。そうすれば、全て水に流してやる。
今後、二度とこの話を蒸し返すな」
輝良が退院した日は、ちょうど克樹の誕生日パーティーの日だった。
豪華客船のデッキは、招待客で溢れかえっている。
時乃は深い青色のドレスを身に纏い、髪を高く結い上げていた。
来幸が近づき、嘲笑を漏らす。
「着飾ればそれなりに見えるじゃない。どうりで克樹の心を繋ぎ止められるわけね!
後でしっかり兄さんに謝りなさいよ。さもないと、絢斗の遺骨を海に撒いて魚の餌にしてやるから!」
時乃は冷ややかに彼女を一瞥したが、何も答えなかった。
宴もたけなわの頃、車椅子に乗った輝良が現れた。時乃は赤ワインのグラスを手に、ゆっくりと彼に近づいていく。
輝良は彼女を見ても慌てる様子はなく、むしろ鼻で笑った。
「お前ごときが俺を殺そうなんて、百年早いんだよ」
時乃は淡々と言った。
「ええ。確かに、車で轢くべきではなかった……」
輝良の背後に回ると、瞬時に髪から金属製のヘアスティックを抜き取り、流れるような動作で輝良の喉に深々と突き立てた。
血が彼女の顔に飛び散る。時乃の唇が、悦びの弧を描いた。
「こうやって、殺すべきだわ」
悲鳴と共に、招待客たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
時乃は手の甲で唇の血をぬぐうと、狂ったように笑い出した。その声は壊れた楽器のように不協和音を奏で、会場の人々を戦慄させた。
彼女の瞳は漆黒の闇に染まり、すべてを飲み込もうとしていた。
ふと、恐怖に引き攣って悲鳴を上げる来幸の姿が目に入った。
瞳の奥に、再び殺意が宿った。
来幸に向かって猛然と突進した。
振り上げたヘアスティックが、来幸の首筋に食い込もうとしたその瞬間――
パンッ!
乾いた銃声が轟いた。
克樹が放った銃弾が、時乃の体を貫いた。
衝撃で彼女の体は木の葉のように宙を舞い、そのまま手すりを越えて、暗い海へと落下していった。
冷たい海水に飲み込まれる瞬間、走馬灯のように七歳の頃の記憶が蘇る。
痩せこけて、野良犬と骨を奪い合っていた自分。
そこへ現れた克樹がフライドチキンを差し出し、優しく尋ねた。
「うちに来るか?」
時乃はゆっくりと目を閉じ、心の奥底でそっと呟いた。
……行かない。