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花散るころ
結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。 巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっち...
Chương (1)
第1章
結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。
巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっちりと門限を守って帰宅する。
毎朝の出勤は彼がハンドルを握って送り届けてくれるし、記念日ともなれば、趣向を凝らしたプレゼントを用意して私を喜ばせた。彼のSNSのタイムラインは、私への愛を綴った投稿で埋め尽くされている。
ネット上では「恋に狂った男」なんて揶揄されながらも、そんな彼に熱狂するファンが後を絶たない。「尊すぎる夫婦」と、誰もが信じて疑わなかった。
……けれど。
寝室に残されたタブレットは、彼のアカウントにログインしたままだった。
そこへ見知らぬ女から、一本の動画が届く。
第1話
結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。
巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっちりと門限を守って帰宅する。
毎朝の出勤は彼がハンドルを握って送り届けてくれるし、記念日ともなれば、趣向を凝らしたプレゼントを用意して私を喜ばせた。彼のSNSのタイムラインは、私への愛を綴った投稿で埋め尽くされている。
ネット上では「恋に狂った男」なんて揶揄されながらも、そんな彼に熱狂するファンが後を絶たない。「尊すぎる夫婦」と、誰もが信じて疑わなかった。
……けれど。
寝室に残されたタブレットは、彼のアカウントにログインしたままだった。
そこへ見知らぬ女から、一本の動画が届く。
動画の中の女は、ポリス風のバニーガールのコスプレをしていた。
とろんと潤んだ目つき。
野卑に両足を開いてM字に座り込み、服のボタンに手をかけている。はだけた隙間から、雪のような白い肌が目に飛び込んでくる。
【うさちゃん、陸さんに会いたいな。陸さんとチュッてしたい!】
甘ったるく媚びるような声が、鼓膜を撫でる。
最初は気にも留めなかった。陸ほどの人だ、好意を寄せてくる女の一人や二人あっても不思議じゃない。この五年間、彼は私に十分すぎるほどの安心を与えてくれていたから。
だから、またいつもの一方的な誘惑だろう。
そう高を括っていた私の目の前で――陸からの返信が表示された。
【明日は一日中、ベッドから出してやらないからな】
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
ドアが開く気配に、私は慌ててメッセージ画面を閉じ、何食わぬ顔でショート動画のアプリを開いた。
ベッドに入ってきた陸が、背後から音もなく体を寄せてくる。
シャワーを浴びたばかりなのだろう。微かにボディーソープの香りが鼻をついた。
彼は愛しげに私の肩へ顎を乗せ、甘えるように頬を擦り付けてくる。振り向きざま、熱い唇がうなじを優しく掠めた。
「美晴(みはる)、なにをそんなに熱心に見てるんだ?」
陸の視線が手元のタブレットに落ちた瞬間、まとわりついていた体が、ふっと強張るのがわかった。
「……なんで僕のタブレットを?あ、いや、動画を見るなら自分のスマホのほうが楽だろう?」
喋りながら、彼の視線が無意識に泳ぐ。私はその動揺を見逃さなかった。
整った横顔だ。ネットで「芸能界入りすべき」と騒がれるのも無理はない。
私は口元だけで笑って、さらりと答えた。
「自分のスマホ、充電切れちゃって。あなたのを使っちゃだめだった?」
陸はかなりのゲーマーで、家にあるタブレットはほとんど彼が占領している。
今日はなんとなく、つい手遊びに借りただけだった。まさか、見てはいけないものを見てしまうなんて、思いもしなかったけれど。
「もちろん、いいよ。ただこのタブレット、容量がいっぱいで動作が重いんだ。美晴が使うなら、ゲームをアンインストールして空けておくよ」
そう言って、彼はあまりにも自然な手つきで私から端末を抜き取ると、データを整理するふりをした。
しなやかな指先がメッセージアプリをタップする。ログイン画面が私のアカウントに切り替わっているのを確認して、彼は明らかに安堵の色を浮かべた。
「……いいわ。もう使わないから」
陸はふわりと笑みをこぼし、タブレットをサイドテーブルに放り出した。
子犬のように瞳を輝かせ、弾むような声で甘える。「わかった。じゃあ僕が、美晴と『別のこと』して遊んであげるね」
普段はプライドが高く、常に冷静沈着な陸が、こんなにも無防備な柔らかい表情で、愛おしそうに私を見つめている。
私も彼を見つめ返す。けれど、胸の奥がきりきりと締めつけられるようで、苦しい。
高校時代からの付き合いで、もう何年も一緒にいるけれど、彼はいつだって完璧な恋人だった。
いつだって私を不安にさせず、どんな場所でも、誰よりも私を優先してくれた。
女性からの誘いを受けることがあっても、その答えは決まっていた。
左手の薬指をかざして、こう言うのだ。「ごめん。妻といなきゃいけないから」と。
周囲の誰もが、彼を「妻に頭が上がらない夫」だと公認していたし、陸のような一途でハイスペックな男に愛される私を、誰もが羨んだ。
けれど。あの画面の中で繰り広げられていたやり取りが、無数の棘となって心臓に突き刺さる。
……吐き気がするほど、気持ち悪い。
じゃれつこうと寄せてきた男の頭を、私は手で押しやった。
「お水を飲んでくるわ」
陸はニコリと笑う。「僕が汲んできてあげるよ」
スリッパを突っかけ彼の後を追う。リビングのソファに腰を下ろし、彼がウォーターサーバーで湯加減を調整する背中を眺めていた。彼は丁寧にグラスの表面に触れ、熱すぎないか確かめてから、私の前へと差し出した。
その瞳はとろけるように甘く、優しく、見つめられたら溺れてしまいそうなほどだった。
一瞬、気が遠くなる。指先の力がふっと抜け、ガラスのコップが床へと滑り落ちた。派手な破砕音が響き、しぶきが飛び散る。
「大丈夫、大丈夫だよ。ちょうど新しいのに替えようと思ってたんだ。どこか怪我してない?」
陸は慌てて私の手を取り、宥めながら、ガラス片が飛んでいないか必死に確認している。
「美晴はいい子だから、そこに座って動かないでね。僕が片付けるから」
目の前にいる、こんなにも私を愛し、慈しんでくれる優しい夫。
どうして、こんなことになってしまったのか。理解が追いつかない。
目頭が熱くなり、私は鼻をすすって必死に涙をこらえた。
彼はそれを、私がコップを割ったことを気に病んでいると勘違いしたらしい。笑いながら、指先で私の鼻をちょんとつついた。
「たいしたことないよ。僕が、もう一度入れ直してあげるから」
第2話
灯りを消すと、陸は私を抱き寄せ、首筋に顔を埋めてじゃれついてくる。
「美晴、どこか具合でも悪い?なんだかボーッとしてるみたいだけど」
私は寝返りを打ち、彼に背中を向けた。
「……よく眠れてないのかもしれない」
背中の向こうで、彼がくすりと笑うのが伝わってくる。
「そっか。じゃあ、今夜は許してあげる。ゆっくり休もうね」
ほどなくして、陸の寝息が規則正しく聞こえ始めた。深い眠りに落ちたようだ。
私は月あかりを頼りに、彼の寝顔をじっと見つめた。せき止めていた涙が、もう抑えきれない。
彼が片膝をついてプロポーズしてくれた日のことが、遠い記憶のように蘇る。
「僕にチャンスをくれないか。君だけの騎士(ナイト)になりたいんだ。命ある限り、君を愛し、守り続けると誓うよ」
あの瞬間のすべてが、今では滑稽な冗談にしか思えない。
何度も寝返りを打ったけれど、どうしても眠れず、私はタブレットを持ってリビングへ出た。
他のSNSアプリを開き、クラウドストレージまで確認してみたけれど、すべてログアウトされていた。
陸……やましいことがある証拠だわ。
寝室に戻ってベッドに滑り込むと、待っていたかのように陸の腕が伸びてきて、私を抱きしめた。
「美晴……僕をずっと愛しててね……」
耳元にかかる彼の吐息が熱い。彼は目を覚ましてはいなかった。うわ言のように呟き、また深い眠りへと沈んでいく。
慣れ親しんだ彼の匂い。一番安心できる場所だと信じていた、あたたかなぬくもり。
この腕の中に、いつから別の誰かが住み着いてしまったのだろう。
翌朝、陸はネクタイを手にぶら下げて甘えてきた。「美晴に結んでほしいな」
毎朝の日課であるジョギングを終え、シャワーを浴びたばかりなのだろう。彼の体からは、まだ湿った湯気の匂いがする。
いつもはクールな瞳をわざとうるませて見つめられ、私はつい絆されてしまう。
私がネクタイに手を伸ばすと、彼は嬉しそうに私を抱き寄せ、あごを私の頭にすりつけた。
「そうだ。今夜、京雲(けいうん)ホテルのオークションに行かない?一番大きなルビーを落札して、美晴にプレゼントしようと思ってるんだけど」
陸は、子供をあやすように優しく囁く。
オークションの出品リストは、すでに私の手元に届いていた。
目を見張るような宝飾品や希少な宝石の数々。どれでも好きなものを選んでいいと彼は言う。
彼が言うルビーは今回の目玉商品で、驚くほど大粒で価値のあるものだ。
「美晴が気に入ったなら、僕が必ず手に入れてみせるよ」
私はジュエリーデザイナーとして働いている。デザイン画を描くのも好きだし、時折、自分の手で制作することもある。
陸は私の仕事を誰よりも応援してくれた。
大学を出たばかりの頃、彼は惜しげもなく大金をつぎ込み、あらゆる宝石や材料を揃えて私の創作を支えてくれたものだ。
いくつものコンテストに出品し、おかげで私は瞬く間に業界に名を知られるようになった。
けれど本当のところ、私はただ純粋にデザインが好きなだけで、名声よりも静かに自分を磨きたかった。だから最近は、すべてのコンテストへの参加を断っていたのだ。
陸の熱っぽい視線を受け止めながら、私は薄く微笑んでみせた。
「あのルビー、あまり趣味じゃないの。今回はやめておくわ。それにちょうど、少しお休みしたいと思ってたところだから」
陸は眉をひょいと上げ、私の髪をくしゃりと撫でた。
「そっか。いいね、無理せずゆっくり休みなよ。また仕事したくなったら、もっといい石を見つけてくるからさ」
身支度を整えた陸は、いってきますと告げて会社へ向かった。
私はベランダに立ち、彼のマイバッハが屋敷を出て遠ざかっていくのを見送る。
ふと魔が差して、私はスマホを取り出し、彼の車のドライブレコーダーに遠隔アクセスした。
「あのルビーを落札して、愛菜(あいな)に贈ってやれ。腕のいいデザイン会社を探して、フルセットで仕立てさせるように」
スマホから、電話をかける彼の声が聞こえてくる。
「ああ、これから会社に行く。今日は一日中、彼女に付き合うつもりだ」
そこで彼は、くすりと笑った。
「彼女に、あのバニーガールの衣装を持ってくるように伝えておけ」
私はまぶたを閉じた。
頼りなく揺れていた心が、音を立てて断崖の底へと落ちていくのを感じた。
第3話
ソファに崩れ落ちたまま、動けない。頭の中で、さっきの陸の言葉が何度もリフレインする。
彼はあの女を抱くのだろうか。キスをするのだろうか。
彼のオフィスに駆けつけると、そこには普段見かけない若い秘書が一入るだけだった。
彼女は私を見るなり、愛想よく声をかけてくる。
「奥様、社長はいま会議中でして。よろしければ中でお待ちください。
コーヒーでもお持ちしましょうか?」
私は彼女の気遣いを丁重に断り、部屋へと足を踏み入れた。
陸のオフィスは、いかにも彼らしく洗練され、満ち足りた空間だ。
広々とした執務スペースの奥には、専用の休憩室とゲームルームまで完備されている。
心をかき乱されたまま、私は迷わずゲームルームに向かった。何も考えずにゲームに没頭すれば、この胸騒ぎも紛れるかもしれないと思って。
「見ちゃだめ。恥ずかしいもん」
甘ったるい笑い声が聞こえ、私はとっさにヘッドホンを外した。
「はいはい、わかったよ。着替えるまで見ないから」
陸の声だ。
姿は見えなくても、彼がとびきり甘やかした顔で言っているのが、手に取るようにわかる。
ゲームルームのドアが少し開いていた。二人のじゃれあう声が、いやにはっきりと漏れてくる。
私は吸い寄せられるように、隙間から中を覗き込んだ。
背の高い彼が、やれやれと首を横に振りながら後ろを向く。
小柄な女が黒いスーツを脱ぎ捨てると、下からポリス風のバニーガールの衣装が現れた。さらにバッグからウサギの耳を取り出し、頭につける。
女は背後から陸に抱きついた。
「動かないで!あなたを逮捕します。さあ、手を挙げて」
陸はクックッと肩を揺らして笑い、降参だと言わんばかりに両手を挙げ、ゆっくりと振り返る。
女は不満そうに彼の胸に飛び込み、地団駄を踏んで頬を擦り付けた。
「もうっ、笑わないでよぉ」
陸はたまらないといった様子で苦笑し、いとおしそうに彼女を包み込んだ。
「ごめんごめん。可愛いよ、僕のウサギのポリスさん」
勝ち誇ったような顔で、女の悪戯な手が彼のシャツの隙間へとするりと忍び込む。
胸板から腹筋をなぞり、そのまま下へ、下へと。
陸の息遣いが荒くなるのがわかった。瞳の色が暗い熱を帯びる。高く挙げていた両手が下りてきて、女の柔らかいお尻をしっかりと支え、そのまま軽々と抱き上げた。
女はその体勢のまま彼の首に腕を回し、顔をあげて唇を重ねる。
目の前の光景に、目の奥が焼けるように痛い。瞬きをした拍子に、涙が頬を伝い落ちた。
一生私だけを愛すると、幾度となく耳元で囁いてくれた男が、今は理性を失った獣のように、他の女にありったけの情熱を注いでいる。
唇をきつく噛みしめ、漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。
よほど愛しているのだろう。私の前では年々落ち着き払い、冷静になっていった彼が、今はまるで欲求を抑えきれない少年のように焦れている。
彼は猛るままにウサギの衣装を引き裂き、そのままデスクへと押し倒した。
女も彼の首に腕を絡ませ、熱く応えている。
艶めかしい音が、途切れることなく耳を犯す。
全身の血が凍りついたように冷えていく。金縛りにあったように動けず、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
二人の場所はデスクからソファへ、そして最後は休憩室へとなだれ込む。
固く閉ざされた休憩室のドア。そこから漏れ聞こえる激しい音を背に、私は音を立てないようにそっと、ゲームルームの扉を閉めた。
情事が終わるまで、たっぷり一時間はかかっただろうか。
再び姿を現した二人は、何事もなかったかのように身なりを整えていた。女はいつの間にかピンク色のスポーツウェアに着替え、眩しいほどに溌剌としている。
大きな社長椅子に深く腰掛けた陸の膝の上に、女が猫のように甘えて座っている。
「ねえ陸さん、夜も一緒にいてよ。ナース服も用意してあるんだよ?」
陸は女の髪を優しく梳きながら目を細める。「うさちゃん、まだ食べ足りないのかい?」
女は拗ねたように彼の胸を指先でつつく。「もう、陸さんのいじわる。いじめっ子なんだから」
その時、オフィスのドアがノックされた。
陸の友人たちが連れ立ってやってきたのだ。
女は驚いた小動物のように、陸の膝から飛び降りる。
友人たちは二人の様子をねめ回し、意地悪くニヤニヤと笑った。
「おっと、こりゃお邪魔だったか?陸と愛菜ちゃん、盛り上がってる最中だった?」
口ではそう言いながらも、彼らは遠慮なく土足で踏み込んでくる。
「陸、頼まれてたルビー、落としてきたぜ。自分で行かなかったのは、愛菜ちゃんへのサプライズだろ?」
「それにしても愛菜ちゃん、今日もセクシーで可愛いねえ。俺に言わせりゃ、美晴なんかよりずっと若くてピチピチしてるよ」
結婚して数年。陸は私を、彼の友人たちにほとんど会わせようとはしなかった。「あいつらは女癖が悪いから、美晴には近づけたくないんだ。君は僕が守るよ」なんて言って。
けれど彼らは、この女とはずいぶん親しげだ。こんなにも、仲睦まじいなんて。
私が引き合いに出された瞬間、陸の眉間に深い皺が刻まれた。
「美晴は僕の大事な姫君だ。お前ら、口が裂けても彼女の前で余計なこと言うなよ。……もしバラしたら、ただじゃおかないからな」
彼は真剣な眼差しで仲間たちを威圧し、こう付け加えた。
「僕にとっては、美晴が一番だ」
「はいはい、わかったよ。お前の奥さんが世界一だよ」
「それより、晩飯くらい一緒にどうだ?安心しろって、門限までにはちゃんと帰してやるからさ」
「そうだな、今日は愛菜ちゃんに一杯奢らせてくれよ」
陸は強引に女の腰を引き寄せ、彼女はバランスを崩して彼の胸に倒れ込む。
「僕が代わりに飲んでやるよ」
「うわあ、過保護だねえ。はいはい、じゃあ行こうぜ」
賑やかな笑い声を残して、彼らは連れ立って出て行った。
その中には陸の友人や幼馴染みだけでなく、彼の従兄弟まで混ざっていた。
彼らはあの女とすっかり打ち解け、親しげに名前を呼んでいる。
……完璧な愛を手に入れたと信じ込んでいた私が、とんだピエロだったわ。
第4話
オフィスを出る際、陸の秘書が不思議そうに私をちらりと見た。
夫たちと一緒に行かない私を、不審に思ったのだろうか。
私は何も言わず、魂が抜けたようにふらふらと帰路についた。
心が張り裂けそうだ。陸とあの女が絡み合うあの光景が、まるで呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
あの女のことは知っている。陸の会社に新しく入った秘書だ。
タブレットにあの動画を送ってきたのも、彼女だった。
名前は伊東愛菜(いとう あいな)。大学を出たばかりの新卒で、確かに果実のように若く瑞々しい。
彼女が入社した時、陸は「昔のお前みたいだ」なんて冗談めかして言っていたっけ。
そういえば、彼女の連絡先を持っていたはずだ。
私は震える手で、彼女のタイムラインを開いた。
最新の投稿は、あのウサギのコスプレをした自撮り写真だった。豊かな膨らみには、わざとらしくスタンプで隠し加工がしてある。
【ウサギのポリスさん、今日はオオカミさんのハートを逮捕しちゃうぞ♡】
その下に表示された陸の「いいね!」が、私の目を焼く。
彼は堂々とコメントを残していた。
【もちろん、このオオカミのハートはとっくに君のものだよ】
私が彼女の投稿なんて見ないだろうと、高を括っているのかもしれない。
確かに私は普段、タイムラインなんてほとんど見ないのだから。
付き合い始めたころのことを思い出す。あの頃の私は、彼にとって自分はどんな存在なのか、何度も確かめようとしていた。
可愛い女の子を見かけるたびに、彼に聞いたものだ。「ねえ、こういうタイプの子は好き?」
すると彼は、あきれたように笑って私を強く抱きしめるのだ。
「何言ってるんだい?どんなタイプだって関係ないよ。僕が好きなのは君一人だけ。世界にたった一人の美晴だけだ。君以外は、たとえ世界一の美女が現れたって、目もくれないと誓うよ」
あの時どれほど舞い上がったことか。そのぶん、今の悲しみは計り知れない。
五年もの間、私に尽くし、優しく包み込んでくれた夫は、ずっと私を欺いていたのだ。
二時間ほどの間、私はただぼんやりと座り込んでいたけれど、やがて意を決して海外にいる母へ電話をかけた。
「お母さん……私、そっちに行こうかと思うの。うん、向こうで新しい生活を始めようと思って」
母はとても喜んだ。もともと母は私がそばに来ることを望んでいたのに、私が意固地になって国内に残り、彼との結婚を選んだのだから。
「本当の心づもりなのね?陸と喧嘩でもしたの?一時的な感情で決めちゃだめよ」
「ううん、ちゃんと決めたの。喧嘩じゃないわ」
……もう、彼はいらない。
母にチケットの手配と出国の準備をお願いし、電話を切った。
その足ですぐさま弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼する。
夕食は一人で静かに済ませ、ベッドでスマホをいじっていた。
予想通り、陸は門限ぎりぎりに帰ってきた。
いつもより長く時間をかけてシャワーを浴び、ベッドに入ってくると、後ろから私を抱きすくめる。
彼はこの体勢を好んだ。こうして抱きしめていると、幸せで心が満たされるのだと言って。
彼の胸元に、キスマークがついているのがはっきりと見えた。
思わず目頭が熱くなる。それに気づいた陸が、すぐに慌てた声を上げた。
「どうしたんだ、美晴?」
私は鼻をすすり、こみ上げる涙を無理やり飲み込んだ。
「ううん、なんでもない。夫に浮気された奥さんの話を読んじゃって……なんだか悲しくなっちゃった」
陸はふっと優しく笑った。「ばかだなあ、そんなことで悲しまないで。僕は絶対にそんなことしないよ」
私がじっと見つめると、彼は困ったように、けれど力強く言った。
「僕、北城陸は、永遠に美晴を愛している。もしも君を裏切るようなことがあれば、僕は一生苦しみの中で生きることになるだろうね」
私は小さく頷いた。「……ええ、そうね」
陸には、デザイナーの交流会に出席するため、一週間ほど留守にすると伝えた。
当初、彼はついてくるつもりだった。
しかし出発の間際、彼に一本のビデオ電話がかかってきた。
画面の向こうには、ヒョウ柄のタイトなドレスに網タイツ、高いピンヒールをまとった愛菜の姿があった。首には革の首輪を巻き、手には小さな鞭までぶら下げている。
「ねえ、今日のヒョウ柄ガールは、陸さんを捕まえられるかな?」
陸の瞳が一瞬で深く濁る。彼は私を振り返り、言った。
「美晴、会社で急ぎのトラブルが入ったみたいだ。悪いけど先に行っててくれないか?僕も明日には合流するから」
私は笑った。視線を泳がせながら、平気なふりを装う彼の顔を見つめながら。
「大丈夫よ、お仕事が大事だもの。一人で行けるから気にしないで」
陸はほっと息をつき、私を軽く抱きしめた。
その腕の中で、私は小さく呟く。「さようなら」
彼の体が強張ったのが分かった。けれど彼はすぐに力を抜き、「じゃあ、またあとで」と告げて去っていった。
私が空港のラウンジで搭乗を待っていると、愛菜から動画が届いた。
そこには、彼女にのしかかり、甘い言葉を吐き続ける陸の姿があった。
「美晴さん。陸さんが本当に愛してるのが誰か、これでわかった?」
「聞こえる?このまま私の上で死んでしまいたいって、そう言ってるのよ」
「彼がこういう制服や、ムチが好きなの知ってた?……あなたとしたことある?」
私は冷静にスクリーンショットを撮り、執拗にメッセージを送ってくる彼女をブロックした。
そして保存した動画と画像を、陸の友人グループへ送信し、自分のタイムラインにもアップロードする。
最後に、署名済みの離婚協議書のデータを陸に送りつけ――携帯の電源を落とし、出国ゲートへと向かった。