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過去の恨みと心中した日
私は、業界にその名を轟かせる超一流のボディーガードだ。 唯一の任務は、財閥の御曹司、菊川渡(きくがわ わたる)を護衛すること。 渡は傲岸...
Chương (1)
第1章
私は、業界にその名を轟かせる超一流のボディーガードだ。
唯一の任務は、財閥の御曹司、菊川渡(きくがわ わたる)を護衛すること。
渡は傲岸不遜で、私が彼のために死線を潜り抜け、無様な姿を晒すのを何よりの愉しみとしていた。
かつて、私は渡に放たれた銃弾を胸に受け、生死の境を彷徨ったことがある。だが彼は、愛しい幼馴染を抱き寄せ、病室の外で冷ややかに言い放った。
「ただの犬だ。死んだら替えればいい。躾のいい犬など、いくらでもいる」
その後、私は自ら「事故」を演出し、渡の前から完全に姿を消した。
後になって、私は耳にした。渡が狂ったという噂を。
世界中を血眼になって探し回っているらしい。死んだはずの、あの「忠犬」を。
第1話
私は「死んだ」。
念入りに計画された「事故」によって。
車ごと深い海へと沈み、遺体すら見つからなかった。
それは私のキャリアの中で、最も完璧な任務遂行だった。
潮の満ち引きと風向きを計算し、人里離れた、海底の暗流が最も複雑なルートを選んだ。
車が海に落ちる寸前、運転席に仕掛けておいた小型エアバッグを爆発させた。
凄まじい推進力が、あらかじめ割っておいた窓から私を弾き出し、海中へと放り投げた。
冷たい海水が全身を包み込み、背後では鋼鉄の塊が深淵へと沈んでいく轟音が響いた。
水中から、遠ざかっていくヘッドライトの光を見つめた。まるで、これまでの人生が、あの光と一緒に消えていくのを見ているようだった。
あの日、この世から「小椋由真(おぐら ゆま)」は消え、「浅野凛(あさの りん)」だけが残った。
私は南方の辺鄙な海辺の町で、小さな整形外科クリニックを開いた。
町は静かで安らぎに満ち、近代化の荒波から取り残されたような場所だった。
長い黒髪をなびかせ、金縁の眼鏡で瞳の鋭さを隠した。
任務中に負った頬の薄い傷跡も、特製の薬用クリームで覆い隠した。
歩き方さえも変えた。
かつての、いつでも攻撃に転じられるしなやかな動きを捨て、今はゆったりとした余裕のある足取りを意識している。
私の正体を知る者も、過去を知る者もいない。
隣人は、町の診療所の医師である宮成風人(みやなり ふうと)だ。
彼は穏やかで、いつも笑みを絶やさず、落ち着いた口調で話す。
私の店の花壇を手入れしてくれたり、忙しい時には手を貸してくれたりもした。
「浅野先生、女性一人でこの仕事は大変でしょう?」
私は首を振り、淹れたてのコーヒーを差し出した。
「いいえ、慣れましたから」
風人は探るような視線を向けてきたが、最後には穏やかな微笑みを浮かべた。
「何か手伝いが必要なら、いつでも言ってください」
「はい」
私は短く返事をした。
午後の日差しが心地よく降り注ぐ中、こんな日々がずっと続くのだと思っていた。
あの日、クリニックのドアが激しく押し開けられるまでは。
風人が血相を変えて飛び込んできた。
「浅野先生、早く!重傷者だ、すぐに応急処置を!」
私は彼に続いて入り口まで走った。
一台の黒いクロスカントリー車が、横暴な様子で道の真ん中に止まっていた。
数人の黒服の男たちが、血まみれの男を車から運び出している。
男は高価なオーダーメイドのスーツを纏っていたが、今は血に汚れ、無残な姿を晒していた。
意識はないようだが、眉間に深く皺を寄せ、激痛に耐えている。
その顔は、血に塗れていても驚くほど美しかった。
そして、私の全身の血を凍りつかせるほど、極めて馴染み深い顔だった。
菊川渡(きくがわ わたる)?!
なぜ、彼がここに?
心臓がどくんと大きく跳ね、沈んでいく。
脳裏には、場違いにも数年前の冬の夜の記憶が蘇った。
コーヒーをこぼしたというだけの理由で、私は一晩中、別荘の外に立たされる罰を受けた。
渡は言った。「自分の間違いがどこにあるか気づくまで、入ってくるな」
翌日、私は高熱による肺炎で死にかけた。
それなのに、渡は私の診断書を冷淡に眺め、こう言い放っただけだった。
「しぶとい奴だ」
けれど、朦朧とする意識の中で、彼が医者に怒鳴り散らしている声を聞いたような気がした。
「最高の薬を使え。絶対に生かせ。こいつが死んだら、お前たちも道連れだ」
それはきっと、熱にうなされた私の幻聴だったのだろう。
私の異変に気づかない風人は、焦った様子で指示を飛ばしている。
「早く、中に運んで!足を骨折してるし、軟部組織の損傷もひどい。すぐに固定が必要だ!」
ボディーガードたちが渡を部屋の中へと運び込んだ。
私はその場に立ち尽くし、一歩も動けなかった。
この三年間、全力を尽くして彼を人生から切り離してきた。
だというのに、今また、彼はこんなにも唐突に私の世界へと踏み込んできたのだ。
第2話
私は無理やり自分を冷静にさせた。
マスクとニトリル手袋をつけ、渡の傷の手当てを始める。
怪我はひどいものだった。
肋骨が二本折れ、左足は粉砕骨折。
体中には鋭利な刃物で切り裂かれたような大小の傷が散見された。
隣で助手を務める風人が、眉をひそめた。
「どれほどの事故に遭えばこうなるんだ?それとも、誰かと争ったのか?」
私は何も答えなかった。
渡という男に、掃いて捨てるほど敵がいることは誰よりも知っている。
傲慢で残忍な彼が恨みを買い、こんな無様な姿を晒すことになっても、何ら不思議ではない。
傷を処置する際、指先がどうしても渡の肌に触れてしまう。
熱を帯びた、かつての記憶を呼び起こす感触。
私の手が、わずかに震えた。
彼のそばを去る一ヶ月前、私は彼を庇って銃弾を受け、集中治療室で十日間も生死の境を彷徨った。
病室の外で、彼の愛しい幼馴染である吉永貴和(よしなが きわ)が甘ったるい声で尋ねていた。「渡、あの人、死んじゃうの?」
渡は彼女の腰を引き寄せ、無造作に笑った。
「死んだら替えればいい。躾のいい犬など、いくらでもいる」
だが、後になって渡のアシスタントの風張良太郎(かざはり りょうたろう)から聞いた話では、私が手術を受けていたあの日、海を見に行きたいという貴和の願いを渡は聞き入れなかったという。
渡はすべての予定をキャンセルし、一晩中集中治療室の外に立ち尽くしていたそうだ。
ただの一度も、病室の中に足を踏み入れることはなかったが。
「浅野先生、何か……」風人が鋭く察した。
「いえ……」私は心を落ち着かせ、抑揚のない声で答えた。「傷が深くて、少し手こずっているだけです」
風人は疑わなかった。彼は意識を失っている渡を見つめ、溜息をついた。
「見るからに育ちの良さそうな男だが、なぜこんな田舎町にやってきたんだろうね」
私には答えようがなかった。
ただ一つ確かなのは、私の穏やかな日常がここで終わったということだけだ。
翌日の午後、渡が目を覚ました。彼が目を開けて最初に見たのは、ベッドの傍らに立っている私だった。
私はマスクをつけたまま、点滴のボトルを交換していた。
渡の瞳に一瞬、戸惑いが走った。
だがすぐに、それは鋭い警戒の色へと変わった。
「……誰だ、お前は」かすれた声。だが、染み付いた命令口調は健在だった。
「あなたの担当医です」私は手短に言った。
渡は周囲を見渡した。
質素な部屋、古びた設備。
その眉間には、隠そうともしない嫌悪感が浮かんだ。
「ここは、どこの掃き溜めだ?」
「クリニックです」
彼は体を起こそうともがいたが、傷口に響いたのか、苦悶の声を漏らして倒れ込んだ。
私は歩み寄り、彼を押し留めた。
「重傷です。動かないでください」
衣類越しに、指先が渡の肩に触れた。
彼の体が強張った。その深い瞳が、射抜くように私を凝視した。
「聞いてるんだ。ここはどこだと」
「宮間(みやま)町です」
渡は記憶の中からその地名を探し出そうとしているようだったが、結局何も見つからなかったらしい。
「俺の部下たちは?」
「外にいます」
渡はようやく視線を外し、ベッドの背もたれに身を預けて目を閉じた。
これ以上一言も喋りたくない、という態度だ。
私としても、清々する。
部屋を出ようとしたその時、彼が不意に口を開いた。
「おい……」
少しの間を置いて、低い声が響いた。
「……ある女を見かけなかったか?」
心臓が一瞬、止まったようだった。
私は振り返り、彼を見つめた。
「どんな女性ですか?」
「背が高くて、痩せていて……」
渡は追憶に耽るように、遠くを見つめた。
「短髪で、狼のように鋭い目をしていた」
自嘲気味な笑みが、彼の口元に浮かんでいる。
「名は小椋由真。俺の……ボディーガードだった女だ。
だが、海に落ちて行方不明になった。おそらく、もう死んでいるだろうがな」
傍らに下ろした私の拳が、静かに握りしめられた。
「死んだのなら、なぜ探すのですか?」私の声は、至って平穏だった。
「生きていようが死んでいようが、この目で見届けるまでは終わらん」
渡は執念深い声で言った。
「三ヶ月間、人を雇ってあの海域を底までひっくり返したが、何も出なかった……
奴らは、遺体は魚の餌になったんだろうと言った。
だが俺は信じない。あいつほどしぶとい女が、そう簡単に死ぬはずがない!
それに……あいつの命は俺のものだ。俺の許しもなく、勝手に死ぬことなど許さん!」
その当然と言わんばかりの独占欲は、どんな言い訳よりも吐き気がした。
死んでさえ、小椋由真は彼の所有物でなければならないというのか。
私は冷ややかに鼻で笑った。
「あいにくですが、心当たりはありませんね」
背を向け、足早に立ち去ろうとした。
これ以上ここにいたら、手にしたトレイをその偽善に満ちた顔面に叩きつけてしまいそうだったからだ。
だが、渡は唐突に私を呼び止めた。
「待て」
第3話
私は足を止めたが、振り返りはしなかった。
「そのマスクを外せ」渡の声には、拒絶を許さない命令の響きがあった。
背中の筋肉が一瞬にして強張った。
「私はあなたの部下ではありません。医者です」
「外せと言ってるんだ!」渡が突然声を荒らげた拍子に傷が響いたのか、激しく咳き込み始めた。
私は深く息を吸い、ゆっくりと向き直った。
探るような、鋭い彼の視線とぶつかった。
渡は私を射抜こうとするかのように、じっと見つめてきた。
「その目……」
彼は独り言のように呟いた。
「あいつに似てる。
三年間、ずっとあいつを捜してきた。
この三年間、何千人もの目を見て、あいつと同じ瞳を捜し続けてきたんだ。
だが、お前ほど似てる奴は一人もいなかった」
心臓がドクリと跳ねた。
彼は獲物を吟味する狩人のような目で私を凝視している。凄まじい威圧感だ。
諦めてくれるかと思ったその時、彼の視線が私の胸元に掛かったネームプレートに落ちた。
そこには、新しい私の名前が刻まれている――「浅野凛」。
彼はその名を一度口の中で転がし、さらに深く眉をひそめた。
不意に、何かに気づいたかのように彼は猛然と手を伸ばし、私の手首を掴んだ。
万力のような力で、痛みが走る。
「動くな!」
もう片方の手で、私の首元から小さなものを引きずり出した。
それは肌身離さず持っていた、薬莢で作ったペンダントだ。
初めて任務に出た時の記念品であり、小椋由真という人間に残された、唯一の個人的な印だった。
私の顔色が変わった。
渡はその薬莢を掲げ、恐ろしいほどの眼光を向けた。
「これを持ってる人間は、世界に一人しかいない」
彼の視線が、ナイフのように私の顔をじりじりと削っていく。
「そして、その女は……死んだはずだ」
彼は強引に顔を近づけてきた。熱い吐息が顔にかかる。
「お前は、一体何者だ?」
空気が凍りついたようだった。
至近距離にある彼の顔を見つめ、心臓が狂ったように鼓動する。
――しまっ、た。バレた。
頭の中が真っ白になったその時、入り口から風人の声が聞こえた。
「浅野先生、仕事は終わりましたか?浅野先生の好きなものを買ってきました……」
部屋の光景を目にした途端、彼の言葉が止まった。
風人は呆然としていたが、渡に手首を掴まれている私を見て、すぐに顔を険しくした。
「この方、浅野先生を離してください!」
渡は風人に一瞥もくれなかった。
その視線は、いまだに私を捕らえて離さない。
私は渡が気が緩めた隙を突いて、力任せにその手を振り払った。
「……少し、感情が高ぶっていらっしゃるだけです」
私は風人にそう説明すると、渡に向き直り、冷徹な声を出した。
「菊川さん、これ以上このような真似をされるなら、出て行っていただくしかありません」
私は彼の手から薬莢のペンダントを取り返した。
「これは海辺で拾ったものです。お気に召したのなら、差し上げても構いませんよ」
私はペンダントをベッド脇のテーブルに放り投げた。
そして風人を促し、振り返ることなく部屋を出た。
背中に、焼けるような視線を感じた。
ドアを閉めて初めて、私は安堵の息を漏らした。
全身から力が抜け、崩れ落ちそうだった。
「浅野先生、大丈夫?」風人が心配そうに覗き込んできた。「あの男、何か乱暴をしたんじゃ……」
私は首を振り、泣き出しそうなのをこらえて笑みを作った。
「大丈夫です。少し気性の荒い患者さんなだけですから」
それからの数日間、渡は異様なほど大人しくなった。
私を問い詰めることも、探りを入れることもなくなった。
ただ毎日、あの複雑な眼差しで私を見つめている。
まるで、私を通して別の誰かを見ているかのように。
私は極力、渡と接触する時間を減らした。
大半の業務を風人に任せるようにしたのだ。
だが、渡は風人をひどく拒絶した。
風人が近づこうものなら、彼は途端に気性を荒らした。
「失せろ!お前の顔など見たくない!あの女医を呼んでこい!」
風人はすっかりお手上げといった様子で、私のところへやってきた。
「浅野先生、あの患者の菊川さん、君以外は受け付けないみたいです」
仕方がなく、私は覚悟を決めて部屋に入った。
薬を替え、体温を測る。その間、一言も発さなかった。
渡もまた、沈黙を守っていた。
部屋には、医療器具が触れ合う冷たい音だけが響く。
私が立ち去ろうとしたその時、彼がようやく口を開いた。
「……なぜ、医者になった?」
私の足が止まった。
「個人的な選択です」
「由真も、医者になりたいと言っていたことがあった」
彼の声は微かで、自分に言い聞かせているようだった。
「そうすれば、たくさんの人を救えるから、と。あの時のように、ただ黙って見ているしかできない自分は嫌だと言っていた」
胸を深く刺されたような気がした。
それは、私が彼のボディーガードになりたての頃に漏らした言葉だった。
目の前で心臓病の発作を起こした母を、知識がないために助けられなかった。
それは一生拭い去ることのできない後悔だ。
まさか、彼がそれを覚えていたなんて。
「……あいにく、あいつにそんな知能はなかったがな」
渡はそう付け加えた。その口調には、いつもの蔑みが混じっている。
私は拳を握りしめた。
そうだ。
彼にとって、小椋由真という女はいつだって頭が弱く、体だけが取り柄の愚か者に過ぎない。ただ命令に従うだけの、一匹の犬なのだ。
私は振り返らず、冷ややかに言い放った。
「菊川さん、もう意味がわからないことを言わないでください」
第4話
渡の怪我は、次第に快方へと向かっていた。
そしてついに、彼の部下たちがこの町を突き止めた。
一行を率いていたのは、彼のアシスタントである良太郎だ。
良太郎は渡の姿を見るなり、その目頭を熱くした。
「やっとお会いできました、社長!社長が行方不明になっていたこの数日間、会社がどれほどのパニックに陥っていたか……!」
渡は煩わしそうに手を振った。
「黙れ」
彼の視線は良太郎を通り越し、私へと向けられた。
良太郎もまた、私の存在に気づいた。
彼は一瞬呆気に取られたようだったが、その瞳に驚嘆の色を浮かべた。しかしすぐにプロの冷静さを取り戻す。
「……失礼ですが、あちらの方は?」
「俺の主治医だ。浅野凛先生」渡が私の代わりに答えた。
淡々とした口調だったが、私の名を呼ぶ時だけ、妙に含みを持たせていた。
良太郎は察しのいい男だ。
すぐに状況を理解したようで、私に丁寧だが距離を置いた微笑みを向けた。
「浅野先生、この度は社長がお世話になりました。
これは心ばかりの品です。どうかお受け取りください」
差し出されたのは小切手、並んだゼロの数に目をやる。この小さな町の住人なら、一生遊んで暮らせるほどの額だ。
私はそれを押し返した。
「人を助けるのが私の仕事ですから」
良太郎は意外そうに目を丸くしたが、渡は薄く笑った。
その笑みには、すべてを見通したような愉悦が混じっている。
「こいつは金なんて欲しがらない」渡は良太郎に言った。「もっと別の、面白いものが好きなんだ」
そう言いながら、彼は私がベッド脇に放り出したあの薬莢のペンダントを手に取り、指先で弄んだ。
私の心臓が、またしても跳ね上がる。
幸い、彼はそれ以上何も口にしなかった。
渡が退院することになった。
彼のプライベート医療チームが到着し、十数人ものスタッフが私の小さなクリニックを埋め尽くした。
彼らは迅速に引き継ぎを済ませていく。
私は傍らで、まるで部外者のように立ち尽くしていた。
それでいい。渡が去れば、すべては元通りになる。
隣に立つ風人が、複雑な表情で呟いた。
「浅野先生、菊川さんは……行ってしまうんですね」
「ええ」
「また何か、酷いことを?」
「いいえ」
風人は何かを言いかけ、最後には溜息をつくだけだった。
「行ってくれて、よかった……」
そうだ。これでいいのだ。
大勢に付き添われ、車に乗り込もうとする渡を見送る。
渡はやはり、雲の上の存在、選ばれし人間だった。
この町での無様な姿は、まるで幻だったかのように。
車に乗り込む寸前、渡は不意に振り返った。
その視線が私を捉える。
彼は声を出さず、口の動きだけで告げた。
――「待ってろ」
私の体は一瞬で硬直した。
ドアが閉まり、黒い車列が砂埃を上げて去っていく。
残されたのは私と、漂う排気ガスの匂いだけだった。
風人が私の肩を優しく叩いた。
「怖がらなくていい。あの人はもう二度と戻ってこないですよ」
そうであってほしいと願う。
だが私の直感は、事態はまだ終わっていないと告げていた。
……
渡が去った後、町にはいつもの静寂が戻った。
何事もなかったかのように日々は過ぎていったが、風人だけは以前よりも増して私を気遣うようになった。
毎朝、私の朝食を届けてくれ、店を閉める時も付き添ってくれる。
彼の想いには気づいている。
だが、私は応えることができない。
私の過去は、巨大なブラックホールのように、私自身と周囲の人間をいつでも飲み込みかねないものだからだ。
風人を巻き込むわけにはいかない。
ある日、私が薬棚を整理していると、また風人がやってきた。
その手には、大きなひまわりの花束があった。
「これ、君に」
風人は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「店の前の花が枯れていたから、新しいのを買ってきたんだ」
陽の光を浴びて輝くひまわりを見つめながら、私の心は複雑に揺れた。
「宮成さん、あなたは……」
「凛」
彼は私の言葉を遮り、勇気を振り絞るように私の目を見つめた。
「僕は君のことが好きだ。君が何かを隠しているのはわかっている。話したくないなら無理に聞くつもりはない。
ただ、これだけは伝えておきたかった。何があっても、僕は君の味方だ」
私は呆然と立ち尽くした。
そんな言葉を、今まで誰にも言われたことがなかったから。