あなたのいない景色

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桐島蓮(きりしま れん)が視力を取り戻して五年。彼は名家の令嬢である婚約者を連れて、結婚のために帰国した。 同じ日、私は末期の白血病と...

Chương (1)

第1章

桐島蓮(きりしま れん)が視力を取り戻して五年。彼は名家の令嬢である婚約者を連れて、結婚のために帰国した。 同じ日、私は末期の白血病と診断され、治療を放棄することを選んだ。 病院の正面玄関で、母が押す私の車椅子が、偶然にも蓮とぶつかってしまった。 かつては虚ろだった彼の瞳は、今は光を宿して輝いている。だが、私だと認識した瞬間、その眼差しは氷のように冷え切った。 それは、私の目だった。 彼は車椅子に座る枯れ木のように痩せた私を見下ろし、口角を上げた。 「瀬戸紬(せと つむぎ)。たかが一億円のために盲人の俺を手術台に捨てておいて、まさか自分がこんな姿になるとは思わなかったか?」 私は鼻梁に乗ったサングラスを押し上げ、空洞の左目を隠した。 「そうね、バチが当たったのよ。お金も使い果たして、体もこのザマ」 蓮の瞳に宿る嫌悪感がいっそう深まる。彼は懐から小切手を取り出し、私の胸元に投げつけた。 「金に困ってるんだろ?来月、俺と百合子の結婚式がある。お前、ブライズメイドをやれ。この二百万円をやる、俺の幸せを指をくわえて見ていろ。十分だろ?」 長い沈黙の後、私は枯れ葉の上に落ちた小切手に視線を落とし、首を横に振った。 「遠慮するわ。私が行く場所は暗すぎて、あなたたちに穢れを持ち込みたくないの」 そう言って、私は母に急ぐよう合図した。 もう私には生きられる日がほとんど残っていない。この目も、もうすぐ閉じられるのだから。 第1話 桐島蓮(きりしま れん)が視力を取り戻して五年。彼は名家の令嬢である婚約者を連れて、結婚のために帰国した。 同じ日、私は末期の白血病と診断され、治療を放棄することを選んだ。 病院の正面玄関で、母が押す私の車椅子が、偶然にも蓮とぶつかってしまった。 かつては虚ろだった彼の瞳は、今は光を宿して輝いている。だが、私だと認識した瞬間、その眼差しは氷のように冷え切った。 それは、私の目だった。 彼は車椅子に座る枯れ木のように痩せた私を見下ろし、口角を上げた。 「瀬戸紬(せと つむぎ)。たかが一億円のために盲人の俺を手術台に捨てておいて、まさか自分がこんな姿になるとは思わなかったか?」 私は鼻梁に乗ったサングラスを押し上げ、空洞の左目を隠した。 「そうね、バチが当たったのよ。お金も使い果たして、体もこのザマ」 蓮の瞳に宿る嫌悪感がいっそう深まる。彼は懐から小切手を取り出し、私の胸元に投げつけた。 「金に困ってるんだろ?来月、俺と百合子の結婚式がある。お前、ブライズメイドをやれ。この二百万円をやる、俺の幸せを指をくわえて見ていろ。十分だろ?」 長い沈黙の後、私は枯れ葉の上に落ちた小切手に視線を落とし、首を横に振った。 「遠慮するわ。私が行く場所は暗すぎて、あなたたちに穢れを持ち込みたくないの」 そう言って、私は母に急ぐよう合図した。 もう私には生きられる日がほとんど残っていない。この目も、もうすぐ閉じられるのだから。 …… 母が私の車椅子を押していたとき、手が震えて、車から降りたばかりの蓮にぶつかってしまった。 「どこの盲人だ? 死にたいならよそでやれ。ホイールが汚れる」 その聞き覚えのある声が響いた瞬間、全身の血液が凍りついたようだった。 私は反射的にサングラスを抑え、この変わり果てた顔を隠そうとした。 だが、遅かった。 かつては焦点の定まらなかった、しかし今ははっきりと見える蓮の瞳が、私を射抜くように見据えていた。 その瞬間、彼の瞳孔が激しく収縮した。 その瞳にあるのは、私の角膜だった。 「紬……か?」 彼は骨の髄まで恨んでいるその名前を呼び、顔に嘲笑を浮かべた。 「どうした、その無様な姿は。 一億円のために身体を売ったときは、まさかこんな将来が待ってるとは思わなかったか?」 母は恐怖で震え上がり、私の前に立ちはだかった。 「申し訳ありません、わざとではないんです……」 「失せろ!」 蓮の後ろに控えていたボディガードが、母を乱暴に突き飛ばした。 母はよろめいて地面に倒れ込み、掌を擦りむいて血が滲んだ。 「お母さん!」 助け起こそうとしたが、体は重く、指一本動かせない。 蓮が歩み寄り、私の車椅子の前で足を止めた。 彼が身を屈めると、高級なシダーウッドの香りが、私に染み付いた消毒液の臭いを覆い隠した。 彼は私の窪んだ頬を凝視し、その瞳の奥に一瞬、読み取れない感情が走った。 だが即座に、その感情は激しい憎悪に飲み込まれた。 「因果応報だな」 彼は冷たく吐き捨てるように言った。 私はサングラス越しに、貪るように彼の目を見つめた。 これが最後だ、蓮。 「そうね、因果応報よ。 お金も使い果たして、体もボロボロ。ざまあみろ、でしょう?」 蓮の顔色が瞬時に鉄のように硬くなった。 彼は、私が金のために恥を捨てたこの姿を何よりも憎んでいるようだった。 「そんなに急いで俺にぶつかってきたのは、当たり屋で金を稼ぐためか?」 彼はスーツの内ポケットから小切手帳を取り出し、素早く数字を書き込むと、それを私の懐に乱暴に叩きつけた。 紙の端が首筋を掠め、赤いミミズ腫れを残す。 「二百万円だ」 私を睨みつける彼の声には、歯ぎしりするような冷たさが混じっていた。 「来月、俺と百合子の結婚式でブライズメイドをやれ。 その目でよく見ておけ」 「かつてお前が捨てたゴミが、今ではお前が逆立ちしても届かない存在になったことをな! 結婚式の席で、参列者全員に自分の口で言うんだ。金目当てで、どうやって盲目の男を捨てたのかを!」 懐の小切手を見つめ、心臓が引き裂かれるように痛んだ。 「遠慮しておくわ、蓮」 私は小切手を拾い上げ、埃まみれの地面にそっと置いた。 「あなたたちの晴れ舞台に、泥を塗りたくないわ」 そう言って、私は母に早く行くよう目配せした。 余命はあと数日。この目も、永遠に閉じることになる。 彼の一生に一度の晴れ舞台。その目の前で死ぬことだけは、避けたかった。 「待て」 背後から、地獄の底から響くような声。 「瀬戸紬、その二千万円はお前の母親の命綱だろう? 興信所に調べさせたぞ。重度の心臓病だとな。 バイパス手術をしなければ、この冬を越すことはできない」 車椅子のタイヤが軋んで止まる。 母の背中が、凍りついたように強張った。 第2話 蓮は優雅な足取りで私の前まで回り込むと、革靴で地面の小切手を踏みつけ、グリグリと汚すように擦り付けた。 「結婚式に来るか。 それとも、今すぐお前の母親への薬の供給をストップさせるか」 彼は上体を低くし、その整った顔に悪意に満ちた愉悦を浮かべた。 「紬、取引は得意だろう? 今回は、お前のプライドを買ってやる」 車椅子の肘掛けを握る手に力がこもる。爪が割れ、血が滲んでも痛みすら感じない。 母のため。 そして、あの目のため。 私はうつむき、涙が手の甲に落ちるのを黙って見つめた。 「わかった……行くわ」 翌日、蓮の使いがドレスの試着のために迎えに来た。 連れて行かれたのは、都心の一等地に構える最高級のオートクチュールサロン。 エントランスには、威圧的な黒塗りの高級車が鎮座していた。 母は泣き崩れ、私の足にしがみついて離れなかった。 「紬、行っちゃだめ!母さんは治療なんてどうでもいい! 今すぐ田舎に帰ろう、ね?」 私は笑顔を貼り付けて母の涙を拭い、サングラスのズレを直した。 「お母さん、ちょっと二千万円稼いでくるだけよ。 お金があれば、海外で私の病気だって治せるかもしれない。待っててね」 あまりに稚拙な嘘。けれど母は信じた。いや、縋るしかなかったのだ。 車内には蓮と、婚約者の遠藤百合子(えんどう ゆりこ)が座っていた。 百合子はその名の通り、清楚で可憐な百合のような女性だった。 彼女は蓮の腕に絡みつき、乗り込んできた私を一瞥して嫌悪感を滲ませたが、すぐに女神のような微笑みを仮面に貼り付けた。 「蓮、この人が瀬戸さん? こんな曇りの日にサングラスなんてかけて…… 事情を知らない方が見たら、お葬式に来たのかと勘違いされてしまうわ。縁起が悪い」 そう言いながら、彼女は無遠慮に私のサングラスへ手を伸ばしてきた。 私は弾かれたように顔を背け、頭を窓ガラスに激しく打ち付けた。 「触らないで!」 自分でも驚くほど鋭い悲鳴が車内に響く。 空気が一瞬で凍りついた。 百合子の手が空中で止まる。彼女は目元を赤く染め、今にも泣き出しそうな顔で蓮を見上げた。 「蓮……私はただ、瀬戸さんを心配して……」 蓮はバックミラー越しに、絶対零度の視線を私に向けた。 「貴様、何様のつもりだ? 未来の桐島夫人に大声を上げるとはな。自分の立場をわきまえろ」 冷笑が降ってくる。 「なんだ、その目が醜すぎて人に見せられないとでもいうのか?」 私はうつむき、服の裾を指が白くなるほど絞った。冷や汗が背中を伝い、身体中の痣を隠すために着込んだ厚手の服を濡らしていく。 「ええ、醜いよ。奥様を怖がらせてしまうから」 サロンに到着すると、百合子はまるでお姫様のように店員たちにかしずかれ、次々とドレスを試着し始めた。 蓮はソファに深く腰掛け、適当に選んだ背中の大きく開いた純白のドレスを私に放り投げた。 「着替えてこい」 足元に落ちたそのドレスを見て、血の気が引いた。 バックレス。背中が露わになるデザイン。 私の背中は骨髄穿刺の痕で蜂の巣のようになっている。 それに加え、血小板減少によるどす黒い痣が広がっているのだ。 「蓮、別のものにできない?私、寒がりで……」 「あ?何を隠している。 金のために男に媚びてついた傷でも見られたくないのか?百合子の目が汚れるから?」 遠巻きに見ていた店員たちが口元を隠してクスクスと笑い、侮蔑の視線を送ってくる。 私は唇を噛み締め、ドレスを拾い上げて試着室に入った。 狭い個室。震える手で服を脱ぐ。 鏡に映ったのは、骨と皮の餓鬼のような身体。肋骨が浮き出し、背中の針跡はまだ生々しく、血が滲んでいる箇所もある。 背中のファスナーに手を伸ばす。 半分まで上げたところで、布が噛んでしまった。 無理やり手を回そうとした瞬間、激しい骨の痛みが電流のように走り、目の前が真っ暗になった。力が抜け、私は試着用の三面鏡に激突した。 ガシャン―― カーテンが乱暴に引き開けられた。 「ただの着替えに何分かけている。死んだのか?」 蓮の苛立ちを含んだ声。しかし次の瞬間、彼は石像のように硬直した。 見られた。 背中一面に広がる、目を背けたくなるような痣と無数の針跡を。 時が止まったようだった。 蓮の瞳孔が激しく揺れる。彼は大股で踏み込んでくると、私の肩を鷲掴みにした。骨が砕けそうなほどの力。 「この身体中の針跡はなんだ!? 金のために薬に手を出したのか、それとも汚い病気でも移されたか!?」 第3話 蓮はこれが病気だとは認めたくないのだ。 彼のシナリオの中で、私は金に汚い売女でなくてはならない。薬物中毒か売春の果てに落ちぶれた姿だけが、今の私に許された結末なのだ。 激痛で脂汗が止まらない。私は慌ててドレスを引き上げ、その惨状を隠そうともがいた。 「ち……違う!見間違いよ!これはアレルギー……ただの皮膚病なの!」 「皮膚病で針の穴が開くか!」 蓮は目を血走らせ、私を食い殺さんばかりに睨みつけた。 不意に、彼の手が伸びた。その傷跡に触れようとするかのように。 だが、指先が触れる寸前、穢らわしいものでも見たかのように手を引っ込めた。 「失せろ。その汚い病気を俺に移すな」 歯を食いしばり、そう吐き捨てた彼の瞳の奥には、血が滲むような葛藤が見え隠れしていた。 「紬、どうして自分をこんな化け物みたいな姿にした? そこまで金が好きか?命がいらなくなるほどにか?」 肩を揺さぶられるたびに世界が回り、胃の中がひっくり返るような吐き気に襲われる。 「ええ……大好きよ」 私は瞼を閉じ、涙を飲み込んだ。 「あなたが一番よく知っているでしょう? お金さえ積まれれば、何だってする女だって」 「そうか。上等だ」 蓮は怒りのあまり乾いた笑い声を上げた。彼が乱暴に私を突き放すと、支えを失った私は無様に床へ崩れ落ちた。 衝撃でサングラスがずれ、落ちそうになる。 私は悲鳴に近い声を上げて手で押さえた。 蓮はその動きを見逃さなかった。目が鋭い刃物のように光る。 「そのサングラスの下に、一体何を隠している?」 彼は身をかがめ、サングラスを剥ぎ取ろうと手を伸ばしてきた。 「外せ!」 「やめて!」 私は床を這って後ずさり、両手で目を死守した。 「お願い、見ないで!見ないで!」 それは私の尊厳。 この世界に残された、最後のプライド。 そして何より、彼に一生消えない罪悪感を背負わせたくないという、私の最後の願い。 彼の指先がフレームに触れようとした、その時―― 「蓮!見て、このドレスどうかしら?」 試着室の外から、百合子の弾んだ声が響いた。 蓮の手が空中でピタリと止まる。 彼は私を深く一瞥した。その瞳には、私には解読できない複雑な色が混じっていた。 結局、彼は手を引っ込め、汚いものでも触ったかのようにスーツで指を拭った。 「服を着て出てこい。ここの床が汚れる」 試着が終わっても、蓮は私を解放しなかった。 彼は百合子を連れて結婚指輪を受け取りに宝石店へ向かい、私にも同行を強要した。 指輪選びという名の公開処刑。 カウンターの上で、支配人が恭しくビロードの箱を開ける。 巨大なピンクダイヤモンドの周りを、海のようなサファイアが取り囲む、贅を尽くした指輪。 それを見た瞬間、心臓が雑巾のように絞られた。 これは……私が描いたデザインだ。 五年前、まだ蓮の目が見えなかった頃。海辺の湿気たボロアパートで、二人でカップラーメンをすすりながら。 私はチラシの裏に鉛筆で落書きをし、冗談めかして言ったのだ。 「蓮、もし大金持ちになったら、こんな指輪が欲しい。 ピンクは私の乙女心で、青は海。あなたが私をその大きな掌で守ってくれるの」 あの時、彼は私の指にキスをして誓った。 「紬、必ず買ってやる。世界で一番でかいやつをな」 今、彼はそれを買った。 別の女性の指にはめるために。 「本当に綺麗ね、蓮」 百合子が手を掲げ、照明の下で指輪を煌めかせた。 「どうして私がピンクと青の組み合わせが好きだってわかったの?」 蓮は優しげに彼女を見つめたが、その視線は彼女を通り越して、どこか遠い過去を見ているようだった。 「死んだ人間が教えてくれた。気にするな」 そう言うと、彼は顔を背け、陰鬱な視線を部屋の隅にいる私に向けた。 「紬、いい指輪だろう?」 指輪の感想を聞いているようで、あの頃の誓いを踏みにじっているようだった。 私はサングラス越しに、その指輪を貪るように見つめた。 本当に綺麗。 五年前だったら、狂喜乱舞して泣いていただろうに。 「素敵」 私はうつむき、消え入りそうな声で言った。 「遠藤さんにとてもよく似合うよ」 蓮の顔色が瞬時に沈んだ。 彼は私のその従順さが何よりも気に入らないようだった。 「その汚い目でジロジロ見るな。視線についたゴミが落ちたら、お前を売り飛ばしても弁償できないぞ」 蓮は突然ポケットから何かを取り出し、カウンターの上に放り投げた。 チャリ、と乾いた音がした。 それは、缶ジュースのプルタブだった。 すでに酸化して黒ずみ、ひどく歪んでいる。 それは彼がまだ無一文だった頃、道端で私にプロポーズした時の「指輪」だった。 第4話 あの日、彼は雪の中に跪き、凍えて真っ赤になった手でこのプルタブを私の指にはめ、いつか本物に替えてやると誓ったのだ。 「このゴミ、返してやるよ」 蓮は冷たく言い放った。 「俺のところにあっても、反吐が出るだけだ」 私は震える手で、そのプルタブを拾い上げた。 掌に強く握りしめると、金属の硬さが痛いほど食い込み、微かな痛みだけが私の生を実感させた。 「ありがとう」 百合子は蓮の情緒が不安定なことに気づいたようで、狡猾な光を瞳に宿すと、蓮の腕に甘えるように絡みついた。 「ねえ蓮、今夜のバチェラーパーティー、瀬戸さんも呼びましょうよ」 彼女は天真爛漫な笑顔を作った。 「私の友達も、瀬戸さんに興味津々なの。 だって、蓮の昔の女なんでしょう?」 蓮は私が握りしめているプルタブをじっと見つめ、その瞳の奥に暴虐な光を宿した。 「いいだろう」 彼は口の端を歪めた。 「紬、今夜、会員制のラウンジに来い。 友たちを数人呼んだ。 お前が金のために身につけた男への奉仕テクニックとやらを見せてもらおう。 来なければ、明日の母親の薬はストップだ」 夜の会員制ラウンジ。重低音が響く店内は、高価な酒と欲望の匂いで満ちていた。 VIPルームには、財閥の御曹司たちがたむろしている。 サイズの合わない安物のTシャツを着て、場違いなサングラスをかけた私は、あまりにも異質だった。 蓮は中央のソファに王のように座り、琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしている。 百合子がぴったりと彼に寄り添っていた。 「へえ、これが噂の元カノ?干物みたいにガリガリじゃん」 金髪に染めた派手な男が歩み寄り、私を品定めするように舐め回した。 「こんなの、金をもらっても抱きたくねぇな。汚らわしい」 周囲からドッと下卑た笑い声が上がる。 蓮は笑わなかった。 ただ冷たい目で私を見据え、テーブルに並べられたショットグラスの列を顎でしゃくった。 「紬、ここに十杯の酒がある。 一杯二百万円だ。全部飲み干せば、この二千万円はお前のものだ」 彼はブラックカードをテーブルに叩きつけた。硬質な音が部屋の空気を切る。 「暗証番号は俺の誕生日だ。 飲みきれれば、金を持って失せろ」 並べられた酒を見て、胃が反射的に痙攣し始めた。 今のこのボロボロの体では、十杯どころか、一杯でも命取りになる。 でも……二千万円。 母の手術代になる。 母が穏やかな老後を送るには十分な額だ。 「わかったわ」 私は歩み寄り、最初の一杯を手に取った。 手が激しく震え、酒がこぼれて手の甲にかかる。氷のように冷たく、そして焼けるように熱い。 「頂くわ」 顔を上げ、喉が焼けるような液体を流し込む。 食道を火が走り、脆い胃袋を瞬時に焼き尽くす。 激痛が脳天を突き抜け、目の前が暗転し、足元がふらついた。 「いいぞ!もっとやれ!」 金髪男が横で囃し立てる。 五臓六腑を吐き出したい衝動を必死に抑え込み、二杯目、三杯目と手を伸ばす…… 五杯目を飲み干した時、意識が朦朧とし始めた。 冷や汗が髪を濡らし、頬を伝って首筋に流れ落ちる。 蓮はソファに座り、グラスを握りしめていた。指の関節が白くなるほど強く。 彼の目は私に釘付けになっていた。私が泣いて許しを乞うのを期待しているようでもあり、あるいは何か巨大な苦痛に耐えているようにも見えた。 「蓮……」 五つ目の空のグラスを置き、私は虫の息で懇願した。 「先に……一千万円だけ、頂ける?」 「全部だ」 蓮の声は鉄のように冷酷だったが、彼の手が微かに震えているのが見えた。 「吐いても飲み込め。一滴でも残せば、金は一円もやらん」 私が六杯目に震える手をかけた時、VIPルームのドアが破壊されたかのような音を立てて開いた。 「紬!」 悲痛な叫び声が、騒々しい音楽を切り裂いた。 母だった。 どうやってここを見つけたのか、顔面蒼白で酒を煽る私を見て、狂ったように駆け寄ると、私の手からグラスを叩き落とした。 ガシャンッ―― ガラスの破片が飛び散る。 「もう飲まないで!紬!お金なんていらない!死んでしまう!」 母は私を抱きしめ、身を引き裂くような声で泣き叫んだ。 そして振り返り、憎悪を込めて蓮を指差した。 「桐島蓮!この恩知らずの悪魔!必ずバチが当たるわよ! 紬がどんな病気か知っているの!? この子があなたのために……」