結婚指輪にバツを刻まれた日、私はすべてを手放した

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結婚指輪にバツを刻まれた日、私はすべてを手放した

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結婚して六年目、周防慎二(すおう しんじ)は「街中を揺るがすほど盛大な結婚式を改めて挙げよう」と言い出した。 そのために、彼はわざわざ...

Chương (1)

第1章

結婚して六年目、周防慎二(すおう しんじ)は「街中を揺るがすほど盛大な結婚式を改めて挙げよう」と言い出した。 そのために、彼はわざわざイギリスまで行き、目も眩むような価値のダイヤの指輪をオーダーメイドした。 胸を躍らせながら指輪を受け取り、指先が内側に触れた瞬間、身体が強張る。 そこには、「蘇原若音(そはら わかね)」という私の名前が、歪んだ文字で刻まれていた。しかも、その上から、荒々しく深いバツ印が無残に引かれている。 デザイナーの江崎清花(えざき さやか)が「きゃっ」と小さく声を上げ、口元を押さえた。その目には、無垢な驚きだけが満ちている。 「若音、そのバツ……刻字の練習してたときに、つい入っちゃったの。慎二の指輪と同じくらい、きれいに仕上げたかったんだけど……」 彼女はおずおずと慎二を見上げる。 「慎二、言ってたよね。本当の芸術には、『偶然の美』があるって。この、たまたま残ったバツも……ちょうど、古いものが終わるって意味なんじゃないかな」 頭の中で、「理性」という名の糸が、ぷつりと切れた。 私は指輪を掴み、力任せに彼女へ投げつける。 硬いダイヤの面が彼女の頬をかすめ、赤い血筋が走った。 清花は顔を押さえて悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさる。 慎二は即座に彼女の前に立ち、私を見る目を氷のように冷やした。 「たかが指輪一つだろ。何を発狂してる」 私は彼の左手を掴み、無理やり彼の指輪を外す。 内側には、丁寧に彫られた文字――「慎&清」。 清花は慎二の腕の陰に寄り添い、見上げながら、悔しそうに涙を滲ませる。 「慎二……『慎』の字を彫ってるとき、どうしても刃先が横にずれちゃって。まるで……勝手に、あるべき場所を見つけたみたい」 第1話 結婚して六年目、周防慎二(すおう しんじ)は「街中を揺るがすほど盛大な結婚式を改めて挙げよう」と言い出した。 そのために、彼はわざわざイギリスまで行き、目も眩むような価値のダイヤの指輪をオーダーメイドした。 胸を躍らせながら指輪を受け取り、指先が内側に触れた瞬間、身体が強張る。 そこには、「蘇原若音(そはら わかね)」という私の名前が、歪んだ文字で刻まれていた。しかも、その上から、荒々しく深いバツ印が無残に引かれている。 デザイナーの江崎清花(えざき さやか)が「きゃっ」と小さく声を上げ、口元を押さえた。その目には、無垢な驚きだけが満ちている。 「若音、そのバツ……刻字の練習してたときに、つい入っちゃったの。慎二の指輪と同じくらい、きれいに仕上げたかったんだけど……」 彼女はおずおずと慎二を見上げる。 「慎二、言ってたよね。本当の芸術には、『偶然の美』があるって。この、たまたま残ったバツも……ちょうど、古いものが終わるって意味なんじゃないかな」 頭の中で、「理性」という名の糸が、ぷつりと切れた。 私は指輪を掴み、力任せに彼女へ投げつける。 硬いダイヤの面が彼女の頬をかすめ、赤い血筋が走った。 清花は顔を押さえて悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさる。 慎二は即座に彼女の前に立ち、私を見る目を氷のように冷やした。 「たかが指輪一つだろ。何を発狂してる」 私は彼の左手を掴み、無理やり彼の指輪を外す。 内側には、丁寧に彫られた文字――「慎&清」。 清花は慎二の腕の陰に寄り添い、見上げながら、悔しそうに涙を滲ませる。 「慎二……『慎』の字を彫ってるとき、どうしても刃先が横にずれちゃって。まるで……勝手に、あるべき場所を見つけたみたい」 慎二は私の指輪を拾い、私の手元に置いた。表情は冴えないが、声だけは抑えている。 「若音、指輪はしまっておけ。帰ってから話そう」 黙って彼を見る。吐き気がして、言葉が出ない。 しばらくして、入口の風鈴がけたたましく鳴った。 「周防社長、奥さま、いらっしゃいましたか!」 声が先に飛び込んできて、会社のパートナー、高橋が笑顔で店に入ってくる。 「今日は指輪の受け取りだと聞いてね。お祝いに来たんですよ!」鈴木も朗らかに続いた。「この遅れてきた結婚式、業界じゃ、相当な美談ですよ」 高橋が豪快に笑い、慎二を指差した。 「昔、現場で食パンかじってた頃から言ってましたよ。『俺の稼ぎは全部、若音のもんだ。将来も全部な』ってね。この気持ち、何年経っても変わっていません。本当に立派ですよ!」 二人は、私の強張った手元を見る。 「指輪は?早く見せてくださいよ」 指が動かない。 店内が、一瞬で静まり返った。 清花が半歩前に出て、少し申し訳なさそうな笑みを浮かべ、柔らかく説明する。 「社長方、どうかお気を悪くなさらず。周防社長は今回のデザインに特別こだわっていて、イギリスにいた三か月間、ほぼ毎晩、私と修正を重ねていて……」 その瞬間、高橋と鈴木の笑顔が固まった。三人の間を視線が行き来し、ようやく異変に気づく。 慎二は眉を強く寄せ、即座に遮る。 「清花!」 そして私に向き直る。顔にはいつもの余裕が戻っているが、声には苛立ちが滲む。 「若音、清花はプロのデザイナーだ。芸術には、少し前衛的な表現もある。お前には、まだ分からないだけだ。 素人が細かく突っ込むな。俺の顔を立てて、ここで騒ぐのはやめてくれ」 この、苛立ちに満ちた顔を見て、ふと七年前の夜を思い出す。 雨漏りする仮設小屋で、彼は同じ目で私を見て、こう言った。 「若音、俺は絶対に、お前に一切の苦労をさせない」 ――本当に、滑稽だ。 私はごく軽く、口角を引いた。 そして、指の力を抜く。 慎二の指輪が指先から滑り落ち、「カラン」と乾いた音を立てて床に落ち、彼の足元まで転がった。 私は拾わない。 代わりに、バッグからウェットティッシュを取り出し、指輪に触れた指を、一本一本、丁寧に拭く。 拭き終えたティッシュを、ゴミ箱に捨てる。 顔を上げ、慎二の険しい表情、清花の呆然とした視線を越え、最後に完全に固まった高橋と鈴木へ、軽く会釈する。 「失礼します」 踵を返し、振り返らずに店を出た。 背後で扉が閉まり、中から、途切れ途切れの人声が微かに聞こえてくる。 第2話 高橋が乾いた笑いを浮かべる。 「周防社長、奥さまが……」 それに続いて、慎二が淡々と口を開く。 「放っておけ。あいつが、どこまで行けるっていうんだ」 閉まった店の扉と、床に落ちた指輪を交互に見やり、鈴木が言葉を選びながら切り出す。 「周防社長、この指輪は、いったい……」 言い終わる前に、清花の声が重なる。軽く、怯えたようで、後悔が滲む声。 「全部、私のせい……慎二の気持ちを、完璧に形にしたくて、誤解させちゃった……慎二、私、若音に謝りに行ったほうがいいかな?」 「必要ない」 慎二は、迷いなく言い切る。 「謝る理由がどこにある。あいつは、楽な暮らしに慣れすぎて、自分の分際を忘れてるだけだ」 そう言いながらも、手に負えない相手を前にしたように声を落とし、労わる。 「清花、お前は優しすぎる。世の中の人間が、みんな分別をわきまえてるわけじゃない。 俺が守らなきゃ、お前はどうする」 …… 店の外、青白い照明の下で、私は俯く。 胸の奥に残っていた、最後の温度が、静かに引いていく。 車に乗り込んだ直後、ウェディングプランナーから電話が入った。 慎重に言葉を選ぶ声。 「蘇原さん……お二人の結婚式の招待状デザインなんですが、江崎デザイナーから新しい提案が出て……全部、差し替えになるかもしれません」 送られてきたデザインを開く。 もともと選んでいたのは、二人のイニシャルをあしらった特注の透かし模様。 それが、わざと古びさせ、縁は擦り切れ、汚れや折り目までつけたカードに差し替えられている。 下には、歪んだ文字。 【物を最大限に活用し、リサイクルに感謝を込めて】 「江崎デザイナーは、こちらのほうが……より『個性的』だと。周防社長も、了承されたそうで……」 声が、どんどん小さくなる。 「もういい」 自分の声が、ひどく落ち着いて聞こえた。 「結婚式は中止。損失はすべて、契約どおりで」 通話を切る。 すぐにスマホの画面が点灯する。ラインだ。 反射的に、慎二とのトーク画面を開く。 最後のメッセージは、今朝送ったもの。 【もう店に着いた?夜、何食べたい?】 既読も、返信もない。 インスタに赤い通知が出ている。普段はほとんど見ないのに、今日はなぜか、指が勝手に動いた。 一番上に表示されたのは、清花。 キャプションなし。写真が一枚だけ。 デザイン台にもたれ、図面に目を落とす慎二。久しく見ていなかった、あの集中した横顔。 隣に立つ清花は、親しげに片手を彼の椅子の背に置いている。 彼女の左手中指には、細身のローズゴールドの指輪。 慎二の薬指は、空っぽだった。あるはずの結婚指輪は消え、代わりに、中指に同じデザインのシンプルなリングがはめられている。 胸が、重く沈んだ。 その指輪のことなら、よく知っている。 何年も前、慎二の机の引き出しの奥に、小さな箱がしまわれていた。 中には、黒ずんで酸化した、古いデザインのペアリング。 片づけ中に触れたとき、彼は血相を変えて奪い返した。 「触るな」 あのときの、必死に守るような声の意味を、私は今日になって、ようやく理解した。 写真の端には、半分だけ写ったデザイン原稿。 そこに残る、力のこもった筆跡。 【俺の清花へ。俺のミューズ】 江崎清花。 その名前は、かつて慎二の胸に深く刺さっていた、一本の棘だった。 七年前、最も貧しかった頃。狭い賃貸で、一杯のカップ麺を分け合っていた夜。 彼は、彼女からの海外電話を受け、トイレにこもったまま、一晩出てこなかった。 夜明け。真っ赤な目で私を抱きしめ、壊れた声で言った。 「清花に、俺みたいな人間は、一生泥の中で這うしかないって言われた。 俺は、あいつを憎んでる。一生、許さない」 その後、彼は必死にのし上がった。 成功した日、酔い潰れて、泣きながら笑いながら、私を抱いた。 「若音、今はもう、世界中が周防慎二を知ってる……でも、あいつは?」 あのときは、やっと氷を溶かせたのだと、思っていた。 違った。 氷は溶けても、中に隠れていたのは、最初からそこにあった、あの棘のままだった。 彼女が戻ってきた途端、慎二は躊躇もなく、かつて自分の胸を貫いた棘を拾い上げ、宝物のように抱え込んだ。 第3話 かつて、彼女に嫌われ、突き返されたあの古い指輪を、慎二は七年間、ずっと大切にしまい続けていた。 今は磨き上げられ、再び、二人の手に戻っている。 私は目を閉じた。泣きもしない。騒ぎもしない。 胸の奥が、急にすっぽり空いた。無理やり、何かをえぐり取られたみたいに。 ――私、蘇原若音の人生は、誰かの笑い話になるためのものじゃない。 スマホを取り出し、長年連絡していなかった番号の上で、指が止まる。 長い沈黙のあと、私は通話ボタンを押した。 ……つながった。 受話口の向こうは、静かな呼吸音だけ。 私は一度息を吸い、低く、声を出した。 「……お父さん」 …… 家に戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。 扉を開けると、室内は明るいのに、異様なほど静かだ。 甘ったるい、知らない香水の匂いが漂っている。 ウォークインクローゼットの隅で埃をかぶっていた古いスーツケースが、部屋の中央まで引きずり出され、蓋が開いたままになっていた。 中身は、すべて荒らされている。 一番上にあったのは、私たちの最初の事業計画書。 黄ばんだ紙は真ん中から引き裂かれ、裂け目は、並んで書いた二人の署名を、ちょうど貫いていた。 「……蘇原さん」 家政婦の声が、ためらいがちに響いた。 私は振り返らなかった。 「誰がやったの?」 「旦那さまが、午後に一度お戻りになって……」 家政婦は言葉を選びながら続けた。 「江崎様が、結婚式のデザインの参考に古い物が必要だとおっしゃって。旦那様ご自身で、いくつか選んでお持ちになりました」 指が、無意識に強く握られる。掌が、痛い。 ポケットの中で、スマホが震えた。 創業当初から一緒だった、古参のエンジニア、孫山泰央(まごやま たお)からだ。 メッセージは短い。 【奥さん、これ……一度見てください】 添付されていたのは、会社設立七周年記念イベントのポスター初稿。 中央には、慎二と清花が並んで立つシルエット。 光の処理は芸術的で、輪郭はぼやけ、どこか艶めいている。 下に、小さな文字。 【初心は変わらず、インスピレーションは永遠に続く。私たちのすべての原点に敬意を込めて】 その一文を見つめて、ふと、思い出す。 七年前。慎二が最初の試作品を掲げ、目を輝かせて言った。 「若音、俺の始まりはお前だ」 泰央から、少し間を置いてメッセージが続く。 【企画は、周防社長が直接決めたそうです。俺たちも、正直ちょっと……と思って。一応、お知らせだけ】 私は息を吐いた。 【ありがとう】 玄関のほうで、物音がした。 部屋を出ると、慎二が立っていた。その隣には、清花。 彼女の甘い香水の匂いが、玄関に残っていたそれと混じり合い、リビングいっぱいに広がる。 慎二は私を見るが、表情はまったく変わらない。夜中に別の女を連れて帰るのが、ごく当たり前だと言わんばかりだ。 「清花が、会場のレイアウトで新しい案を思いついたらしい」 ごく自然に、家政婦へ指示する。 「南向きのゲストルームを片づけてくれ。清花はここに住んだほうが楽だ。行き来させる手間も省ける」 私は二人を見たまま、何も言わなかった。 清花は、私の視線に怯えたように、慎二の背中へ半歩、身を引く。そして、無意識に――片手で、そっと下腹部を庇った。 慎二はそれに即座に気づき、身体をずらして彼女をかばう。再び私を見る目には、露骨な苛立ちが浮かんでいた。 「若音、お前、わざとやってるのか?清花は今、身体が特殊なんだ。少しは分別を持て。皆が困るようなこと、わざわざ起こすな」 その言葉を聞いて、私は、ただ疲れた。 七年。 彼はずっと、同じ姿勢で、背後の人間を守り続けてきた。 ただ、その「背後」に立つ人が、もう私じゃないだけだ。 私は彼を見て、ごく小さく、笑った。 ポケットから、指輪を取り出す。清花のほうへ、歩く。 慎二が眉を寄せる。 「若音、やめ――」 彼を見ることもなく、私は、後ずさろうとする清花の手首を掴んだ。思った以上に力が入って、彼女が小さく悲鳴を上げる。 そのまま、無理やり指輪を、彼女の薬指にはめる。 ――そして。 硬い指輪の輪を支点に、指を、外側へ――一気に、へし折った。 「……ッ」 乾いた、頭皮がざわつくような音。 清花の悲鳴が、途中で裏返る。身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。顔色は真っ白。冷や汗が、止まらない。 不自然に曲がった指を押さえ、もう片方の手で腹を掴み、言葉にならない声で泣き叫ぶ。 「痛い……っ、お腹……お腹が……!」 「若音!正気か!」 慎二が、完全に理性を失った。私を乱暴に突き飛ばし、清花を抱き上げると、そのまま外へ駆け出していった。 第4話 あの血のように赤い目が、最後に私を睨みつけたとき、そこに残っていたのは、骨の髄まで刻み込まれた憎しみだけだった。 私は玄関のドアを閉め、泣き叫ぶ声と混乱を、完全に遮断した。 …… 慎二が清花を抱きかかえて飛び出してから、数日間、何の連絡もなかった。 私はいつも通り、会社へ向かった。 財務部長がノックして入ってきた。気まずそうな表情で、支出申請書を一枚差し出す。 「副社長、周防社長から特別決裁が出ています。『特別プロジェクト』扱いで……江崎さんの新シリーズの開発とプロモーション用だそうです」 一瞬言葉を切り、続けた。 「金額が……かなり大きいです」 私は金額に目を走らせた。それは、今の会社規模で、社員全員の一年分の給与総額に匹敵する数字だった。 「彼は社長よ」 私は淡々と言った。 「別建てで帳簿を作って。証憑の管理だけは徹底して」 「それから……」 財務部長は声を落とした。 「七周年記念の進行が確定しました。周防社長の判断で……主催者と来賓リストに、あなたのお名前が入っていません」 私は小さく頷いた。 「分かった」 午後、会社は七周年記念イベント――『新生』シリーズ発表会を公式に告知した。 ポスターには、慎二と清花のシルエットが、肩を並べて映っている。 そこに、私の名前はなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように。 業界内は、水面下で一気にざわついた。 「見たか?本命が外されて、あっちが表に出たな」 「周防慎二、やることがえげつない。当時一緒に苦労した仲だろ……」 「蘇原若音、結婚式まで中止になったって聞いたぞ。あれだけ金かけて準備してたのに。完全に笑いものだな」 夜八時。記念式典はアートセンターで幕を開けた。 私はスマホでライブ配信を眺めていた。 レッドカーペットの上。慎二は黒のオートクチュールに身を包み、清花は銀白色のドレスを纏っている。手の包帯は、装飾のように巧妙に結ばれていた。 清花は彼の腕に絡み、カメラに向かって伏し目がちに微笑む。 慎二はわずかに身を寄せ、腕で彼女の背後を包み込むように立っていた。まるで、失っていた至宝を抱き戻したかのように。 コメント欄は熱狂していた。 【お似合いすぎる!末永くお幸せに!】 【この守り方……甘すぎ!】 画面を見つめながら、私はふと、会社で最初に開いた製品発表会を思い出した。 古びた講堂に押し込まれ、彼は緊張で手のひらが汗だらけだった。私は客席で拳を握りしめ、口の形だけで伝えた。――大丈夫って。 今、彼はきらびやかなレッドカーペットに立ち、守っているのは、別の女だった。 ライブのカメラは彼らを追い、慎二は囲み取材を受けながら、終始、清花の名を口にしていた。 清花は彼の隣に寄り添い、頬をうっすらと染めている。 ――そろそろだ。 十分後。私はハイヒールの音を響かせ、宴会場のサイドドアを押し開けた。 会場は、ちょうど最高潮に達していた。 周囲から、ひそひそとした声が聞こえる。 「周防社長、完全に新旧交代ってわけか……」 「あの人、今日は来るのかな?」 「来てどうする?自分から恥をかきに来るようなも――」 その言葉は、私を見た瞬間、途中で途切れた。 ステージの上で、慎二がマイクに向かって語っている。 「……そこで、俺は決めた。新たな『新生』シリーズは、すべて江崎清花に任せる。彼女は、俺にとって欠かせない――」 声が、唐突に止まった。 驚愕の視線が人波を越え、影の中に立つ私を、まっすぐに射抜く。 すべてを掌握しているかのような余裕は、まるで一時停止をかけられたように凍りついた。 口元の笑みは残ったまま、視線だけが、先に冷え切っていく。 清花が彼の視線を追って振り返り、顔色が一気に青ざめた。無意識に、彼のスーツの裾をきつく掴む。 その小さな仕草が、慎二を現実に引き戻した。 喉仏が上下し、再び目を上げたとき、彼の顔には氷のような表情が張り付いていた。 「若音」 低い声で、退去を促した。 「今日は、ここにいるべきじゃない」 会場中の視線が、私たち三人の間を行き来する。誰一人、息をする音すら立てなかった。 ――けれど。 私は笑った。 ゆっくりとクラッチバッグから、一通の書類を取り出す。 顔を上げ、ステージ上で顔色を失った男を見据え、淡々と告げた。 「周防慎二、あなたの社長任期、残り三分よ」