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新婚旅行、即離婚
入籍した翌日、私・黒沢文乃(くろさわ あやの)は二枚の航空券を握りしめ、空港で新婚の夫・黒沢修也(くろさわ しゅうや)を待っていた。 や...
Chương (1)
第1章
入籍した翌日、私・黒沢文乃(くろさわ あやの)は二枚の航空券を握りしめ、空港で新婚の夫・黒沢修也(くろさわ しゅうや)を待っていた。
やがて彼が姿を現した。……ただし、一人ではなかった。
修也のすぐ後ろには、幼なじみの西村雨音(にしむら あまね)が立っていた。
「文乃……雨音がさ、つい最近失恋したばかりで」
修也は私の顔色をうかがいながら、言い訳めいた口調で続ける。
「一人で落ち込んでるみたいだから、気分転換に一緒に連れて行ってやりたくて」
雨音は、私とまったく同じデザインのビーチワンピースを身にまとい、申し訳なさそうに微笑んだ。
「文乃さん、ご迷惑じゃないですか?ただ、新婚さんの幸せ、少しだけ分けてもらえたらなって……」
その瞬間、修也の手に握られている航空券が目に入った。それは、私の隣の席のものらしかった。
座席番号は――16B。
私が16A、修也が16C。
つまり、彼は雨音を、私たち夫婦の間に座らせるつもりだったのだ。
その場に立ち尽くしたまま、足元から一気に怒りがこみ上げ、頭の奥がじりじりと熱くなる。
私は修也の腕をつかみ、人目を避けるように脇へ引き寄せ、声を落とした。
「……その子を、今すぐ帰して。それが無理なら――私が帰る」
修也は露骨に困った表情を浮かべ、ため息混じりに言った。「文乃、そんな言い方するなよ。ちょっと大人になれって。
雨音がさ、一人で家にいるのが怖いって言うんだ。だから俺たちと一緒にいれば、少しは気が紛れるかなって……
それに、俺と雨音は小さい頃からの付き合いだし、旅行くらい――」
「もういい」
私はきっぱりと遮った。
「帰ってもらわないなら、今すぐ離婚届を出しに行く」
第1話
入籍した翌日、私・黒沢文乃(くろさわ あやの)は二枚の航空券を握りしめ、空港で新婚の夫・黒沢修也(くろさわ しゅうや)を待っていた。
やがて彼が姿を現した。……ただし、一人ではなかった。
修也のすぐ後ろには、幼なじみの西村雨音(にしむら あまね)が立っていた。
「文乃……雨音がさ、つい最近失恋したばかりで」
修也は私の顔色をうかがいながら、言い訳めいた口調で続ける。
「一人で落ち込んでるみたいだから、気分転換に一緒に連れて行ってやりたくて」
雨音は、私とまったく同じデザインのビーチワンピースを身にまとい、申し訳なさそうに微笑んだ。
「文乃さん、ご迷惑じゃないですか?ただ、新婚さんの幸せ、少しだけ分けてもらえたらなって……」
その瞬間、修也の手に握られている航空券が目に入った。それは、私の隣の席のものらしかった。
座席番号は――16B。
私が16A、修也が16C。
つまり、彼は雨音を、私たち夫婦の間に座らせるつもりだったのだ。
その場に立ち尽くしたまま、足元から一気に怒りがこみ上げ、頭の奥がじりじりと熱くなる。
私は修也の腕をつかみ、人目を避けるように脇へ引き寄せ、声を落とした。
「……その子を、今すぐ帰して。それが無理なら――私が帰る」
修也は露骨に困った表情を浮かべ、ため息混じりに言った。「文乃、そんな言い方するなよ。ちょっと大人になれって。
雨音がさ、一人で家にいるのが怖いって言うんだ。だから俺たちと一緒にいれば、少しは気が紛れるかなって……
それに、俺と雨音は小さい頃からの付き合いだし、旅行くらい――」
「もういい」
私はきっぱりと遮った。
「帰ってもらわないなら、今すぐ離婚届を出しに行く」
修也が慌てて手を伸ばしてくる。私は半歩下がり、その手を避けた。
「こんなことで本気になるなよ。な?」
声だけは優しく、宥めるように落としてくる。
でも、私は何も答えなかった。ただ冷え切った目で、まっすぐに彼を見つめる。
その視線に耐えきれなくなったのか、修也は小さく息を吐いた。
「……わかった。雨音には俺から言う。帰ってもらうよ」
両手を軽く上げ、降参だと言わんばかりの仕草をする。
「文乃が一番大事だ。……これで、いいだろ?」
そう言い残し、修也は踵を返して雨音のもとへ歩いていった。周囲に聞こえないよう、声を落として。
雨音の肩が、みるみるうちに力なく落ちる。
顔を上げた瞬間、目元が一気に潤んだ。
「修也……もしかして、文乃さんが私のこと嫌い?
私、何か悪いことした?失恋したばかりで気持ちが沈んでて……ただ、二人の幸せにあやかりたかっただけなのに」
そう言いながら、彼女はちらりと私を見た。けれどすぐに視線を修也へ戻し、彼の腕に縋りつく。
「修也、文乃さん……私たちのこと、誤解してるんだよね。
ちゃんと説明してくれたんでしょう?それでも……文乃さんは、修也のこと、信じてくれないの?」
――また、その顔。
――また、その言い方。
頭の奥で、ぶつりと何かが切れた。
二か月前のことが、鮮明によみがえる。
雨音は大きなスーツケースを二つ引きずり、私と修也の新居の前に立っていた。
あのときも、今と同じ表情だった。
修也は私を抱き寄せたまま、痛ましそうに彼女を見つめていた。
「文乃、雨音、別れたばかりなんだ。しかも大家に追い出されてさ。この街で一人なんて、可哀想だろ。
仕事と部屋が見つかるまで、うちにいさせよう。見つかったら、すぐ出ていくって」
……結果はどうだった?
住み始めてから、彼女が出ていくと言ったことは、一度もない。
それから、入籍の半月前。結婚前のパーティー。
雨音は皆の前で目を潤ませ、修也を見上げた。
「文乃さんが羨ましい。修也みたいな、こんなに素敵な人と結婚できるなんて。
前に付き合ってた人なんて……修也が私にしてくれたことの、半分もしてくれなかった」
場の空気が、一瞬だけ妙にざわついた。
友だちが無責任に囃し立てる。
「ほらほら、一緒に飲めよ!」
「お祝いなんだから、いいじゃん!」
修也はグラスを手にしたまま、わずかにためらった。
……けれど。
雨音は当然のように彼の腕に絡みついた。
「いいじゃん、修也。新婚前のお祝いだよ。ほんの一杯だけ」
逃げ場を失ったみたいに、彼は周囲の空気に押されるまま、渋々グラスを傾けた。
そのあと、集合写真を撮ることになった。
次の瞬間、雨音は私を押しのけるように前へ出て、修也の隣にぴったりと身体を寄せた。
その夜、私たちはこれまでで一番激しい喧嘩をした。
「修也……距離感ってものが分からないの?」
「文乃、変に考えすぎだって。ふざけてただけだろ。昔から、俺たちこんな感じじゃないか」
その言葉に、身体の奥が怒りで震えた。
それから一週間、私たちはほとんど口を利かなかった。
冷え切った空気の中で、私は静かに荷物をまとめ、この関係を終わらせる覚悟を固めていた。
入籍前夜になって、ようやく修也が私を抱きしめ、頭を下げた。
「文乃、ごめん。俺が悪かった。これからは、ちゃんと距離を取る。
約束する。……もう、これが最後だ」
充血した彼の目を見て、私はその言葉を、信じてしまった。
――けれど今。
この空港のロビーで、その約束は、冗談みたいに軽い。
修也が雨音を見る目には、ただひたすらな痛ましさだけが滲んでいる。
その優しさは、私に向けられたものじゃない。
やがて彼は、私のほうへ戻ってきた。顔には、疲労がべったりと張りついている。
「文乃……ほら……雨音があんなに泣いてるし。だったら……」
最後まで聞く気にもなれず、私はそのまま出口へ向かって歩き出した。
「じゃあ、私は帰る」
振り返らずに、言い捨てる。
「二人で新婚旅行でも行けば?」
第2話
修也は顔色を失い、追いすがるように私の腕をつかんだ。そしてその場で、雨音の航空券を取り消してみせる。
スマホの画面を見せるようにして、必死に謝ってきた。
少し離れた場所で、雨音が目を赤くして、こちらを見ていた。
私は修也を睨みつけ、これが本当に最後だと、冷たく釘を刺す。
そう言い捨てて彼の手を振りほどき、そのまま保安検査場へ向かった。
機内に入ると、私はアイマスクをつけ、眠る準備をした。
ほどなくして、隣から小さなタップ音が聞こえてきた。
アイマスクをわずかにずらし、横目で覗いた。
修也は「あまねちゃん」というトーク画面に向かって、指を止めることなく打ち続けていた。
【泣かないで。全部、俺が悪い】
ただ、体の芯から冷えていく気がした。
視線に気づいた修也は、慌ててスマホを隠そうとする。
「……誰とやり取りしてるの?」氷みたいな声で、私は聞いた。
「……別に。取引先だよ」修也は、目を合わせようとしない。
私は小さく笑った。「あまねちゃんっていう取引先?」
修也の顔から、一気に血の気が引いた。
「文乃、誤解するな。あいつが思いつめないか、心配だっただけだ」
「もし、あいつが死にたいなんて言い出したら……あなたも一緒に死ぬつもり?」
思ったより声が大きくなり、前の席の人が振り返った。
「……声、抑えろよ」
体裁が崩れたのが分かったのか、修也の口調には苛立ちが滲む。
「せっかく新婚旅行に来たのに、いつまで雨音の話してるんだ?」
「……私が悪いっていうの?さっきまでこそこそ彼女にメッセージ送ってたのは、あなたでしょ」
私は静かに言い返した。
修也は眉を寄せた。
「ただの友だちだ。小さい頃からの付き合い、それだけだろ。なのに、なんで信じないんだ?
……少しは、分別ってものを持てよ」
――また、その言葉。
私は目を閉じた。もう、一言も交わしたくなかった。
飛行機が着陸し、ホテルの送迎車が到着する。
修也が私の手を取ろうとした。私は反射的に、それを振り払った。
ドアが開き、乗り込もうとして――
その場で、足が止まる。
車内には雨音がいた。にこにこと笑いながら、こちらを見ている。
その隣には、修也の幼なじみである中村晃(なかむら あきら)と小林健太(こばやし けんた)まで座っていた。
「文乃さん、偶然だな!」
私は勢いよく振り返り、修也を睨みつけた。
彼の顔が、わずかに引きつる。
雨音は車を降りると同時に修也の腕に絡みつき、勝ち誇ったように、私に向かって舌を出した。
「文乃さん、修也があとでこっそり呼んでくれたの。人数多いほうが楽しいし、文乃さんも嫌じゃないって言ってたよ。
文乃さんって、ほんと細かいよね。修也はやっぱり、私のこと放っておけないんだもん」
「……雨音、黙れ」
修也は慌てた様子で、言葉がうまく出てこない。
そのとき、車内から晃の声が飛んできた。
「修也、何とぼけてんだよ。飛行機代だって、お前が払ったんだろ」
血の気を失った修也の顔を見て、私は思わず、笑ってしまった。
――空港でのあの芝居。本当によく出来てた。
ホテルに戻っても、修也は私の後を追い、なおも言い訳を重ねる。
「あいつらが勝手に来たんだ。金だって、晃が俺に借りに来ただけで……雨音が来るなんて、俺も知らなかった」
私は何も言わず、その必死な演技を、ただ眺めていた。
「……言い終わった?」
修也が、言葉を失う。
「終わったなら、出てって」私は静かに、ドアを指さした。
全身の力を込めて、修也を廊下へ押し出す。
ドアを閉め、鍵をかける。
背中をドアに預けたまま、そのままずるずると床に座り込み――
ようやく、涙がこぼれ落ちた。
ドアの向こうからは、雨音たちの取りなす声と、修也の途切れることのないノックの音が聞こえてくる。
私はそれを、まるで聞こえないかのように無視した。
――二時間後。
着替えを済ませ、少し外の空気でも吸おうと部屋を出た。
ドアを開けた、その瞬間。
目の前に、修也が立っていた。
そしてその横で、布地がほとんどないビキニ姿の雨音が、わざとらしく修也の身体にすり寄っている。
「修也、今夜ちょっと泳ぎに行こうよ。大学のころみたいにさ」
雨音はそう言いながら、ちらりと私に視線を投げた。そこには、隠そうともしない挑発が滲んでいる。
修也は困ったように視線を泳がせ、「文乃が……」と言いかけて口をつぐんだ。
「文乃さんなら、別に平気ですよね?」雨音は、何も知らないふりをして、にこっと笑った。
私は二人の前まで歩み寄り、修也を真正面から見据えた。
「……行くの?」
「文乃、俺はただ、雨音の気分転換に付き合おうと思っただけで……」修也は、まだ言い訳を重ねようとする。
「この部屋から一歩でも出たら――私たちは、そこで終わり」
修也ははっとして、雨音を強く突き放した。
「……行かない。俺は行かない」
突然押しのけられた雨音は、よろめき、信じられないという顔で修也を見つめる。
次の瞬間、目元が一気に赤くなった。
悔しそうに私を一度だけ睨みつけ、雨音は何も言わず、その場を駆け去っていった。
第3話
修也は、目に見えてほっとした様子だった。
「文乃……ほら。ちゃんと帰ってもらったんだし、もう怒るなよ」
その口ぶりには、謝罪の気配なんて微塵もない。
これ以上、言い争う気にもなれなかった。私は彼の手を振り払い、そのまま部屋へ入る。
ベッドに横になり、布団を頭まで引き上げた。
修也は、私が眠ったと思ったのだろう。
――どれくらい経ったのか。
突然の振動で、目が覚めた。
枕元に置かれた、修也のスマホだった。
画面が点灯していて、表示された名前が、やけに目に刺さる。
【あまねちゃん】
【修也、文乃さんにまた責められてない?】
私は、そのスマホを手に取った。ロックは、かかっていない。
……ずいぶん、私を信用しているらしい。
LINEを開き、指でゆっくり上へスクロールする。
そこには、私が眠っている間の二人のやり取りが、途切れることなく並んでいた。
雨音:【ごめんね修也。また文乃さんと喧嘩させちゃって】
修也:【気にすんな。文乃はああいう性格だろ。すぐ拗ねるし、面倒くさいんだよ。放っとけ】
――すぐ拗ねるし、面倒くさい。
修也の中で、私はそんな言葉で片づけられる存在らしい。
雨音:【全部私のせいだよ。どうしても行きたいって言ったから】
修也:【違う。呼んだのは俺だ】
修也:【やっぱりお前が一番だ。誰かさんみたいに、空気悪くしないし】
胸を、ぎゅっと掴まれたようだった。息が、うまく吸えない。
二人はそのまま、大学時代に一緒に旅行した思い出まで語り始める。
【あの頃はよかったな。二人きりだった】
……最初から、余計者だったのは、私のほうだったのだ。
私は表情を凍らせたまま、自分のスマホのカメラを起動する。
画面に残るやり取りを、一つ残らず、撮っていった。
それから、修也のスマホを元の位置へ、そっと戻す。
ほどなくして、修也が部屋へ戻ってきた。
修也は、無理に作った笑顔を顔に貼りつけて、「文乃、起きた?」と覗き込んできた。
伸ばされた手を、私はさっと避ける。その手は、さっきまで雨音の髪に触れていたのかもしれない。
「……どこ行くの?」と私は聞いた。
「晃たちに誘われたんだ。バーに行こうって。埋め合わせだってさ」
修也はどこか落ち着かない様子で、私と目を合わせようとしなかった。
私はその目を逃がさずに言った。「修也。私たち、新婚旅行で来てるんだよね」
修也は一瞬、言葉に詰まり――次の瞬間、苛立ちを隠さずに睨み返してきた。
「新婚旅行、新婚旅行って……少しくらい、俺に気を遣えよ。
誰と遊んだって同じだろ。なんで、ずっと二人で縛られてなきゃいけないんだ?」
そう吐き捨てると、修也はドアを乱暴に閉めて出ていった。
私は二分ほど待ち、足音を殺してその後を追った。
ホテルのオープンテラスバー。人混みの中でも、彼らはすぐに見つかった。
笑い声が絶えず、テーブルの中央では、王様ゲームで悪ノリしている。
「王様だー!」
誰かが声を上げ、周囲が一斉にどっと沸いた。
どうやら、王様は晃らしい。
晃はニヤニヤしながら周りを見回し、ゆっくりと雨音を指差した。
「じゃあ雨音。命令な」
一瞬、空気がざわつく。
「修也のベルト、外してみろよ」
「えー……もう、最低」
雨音はそう言って、照れたように笑った。
けれど次の瞬間、彼女はためらいもなく修也の前に膝をついた。
修也は止めるどころか、自然な仕草で雨音の腰に腕を回す。
囃し立てる声が重なり、場の熱が一気に上がった。
雨音は修也のシャツをはだけさせ、指先でゆっくりと腹部をなぞる。
そのまま手を下へ滑らせ、ベルトのバックルに指をかける。
修也は終始、彼女を見下ろしたまま。止める気配もなく、ただ許すような笑みを浮かべていた。
私は、その一部始終を最後まで見届けてから、何事もなかったかのように歩み寄り、空いていたボックス席に腰を下ろした。
その瞬間。
修也の表情が、はっきりと固まった。反射的に雨音から手を離し、わずかに距離を取る。
私が来るなんて、まるで想定外だったと言わんばかりの顔だ。
数秒間、気まずい沈黙が落ちた。晃が乾いた笑いを浮かべて、慌てて場を取り繕う。
「文乃さんも来たならさ、一緒にやろうぜ。王様ゲーム」
私は答えなかった。ただ、目の前のグラスを静かに持ち上げる。
誰かが無理やりテンションを戻そうとして、雨音に向かって声を上げた。「じゃあ次、命令な。ここにいる中で、一番好きなのは誰?」
雨音は一瞬、照れたように視線を伏せ、それから、わざとらしく修也を見上げた。
「私?私は……修也が一番好き」
そう言い切ると同時に、雨音は修也の胸元に顔を埋める。
修也はそれを拒むこともなく、甘やかすように笑って、雨音の髪をくしゃりと撫でた。
周囲から、一斉に囃し立てる声が上がる。
さらに誰かが、面白がるように続けた。「じゃあさ。一番、苦手なのは?」
雨音は首をかしげ、無垢そのものみたいな表情を作る。けれど、その視線だけは、はっきりと私に落ちていた。
「嫌いな人なんて、いないよ」
少し間を置いて、傷ついたみたいな口調のまま、続ける。
「ただね……自分が楽しくないからって、周りまで楽しませない人は、ちょっと怖いかな」
ボックス席の空気が、どっと笑いに包まれた。
その直後、次の王様が指したのは修也だった。
「修也、命令な」
晃が、にやついたまま言う。
「雨音にキスしろ」
雨音は口では、「文乃さんが見てるのに……」と言う。
けれど身体は、さらに修也へと寄り、顎を上げて、期待を隠さない目を向けた。
視線が、一点に集まる。
修也はグラスを手に取り、一口だけ飲んだ。
――それ以上、動かなかった。
空気が変わるのを感じたのか、晃が慌てて割って入る。
「いや、別のにしよう。今のナシ!」
場を取り繕うように、すぐ続ける。
そして、わざと軽い口調で言った。
「なあ修也。もしさ――結婚してなかったら」
一拍置いて、周りの反応を確かめる。
「雨音と、結婚してたと思う?」
第4話
修也の喉仏が上下し、彼は勢いよくグラスの酒をあおった。
「晃、お前……酔ってんだろ。くだらねぇこと言うなよ」
適当に笑って流そうとしたのだと思う。
けれど、囃し立てる声は止まるどころか、むしろ一段と大きくなった。
修也の顔色が、みるみる悪くなる。
それでも――彼は、私を見なかった。一度も。
「……もういいだろ。やめろよ」
そう言うだけで、場を切り上げる気はないらしい。
雨音は引き下がらず、甘ったるい笑顔のまま、修也の腕に絡みつく。
「修也、怒らないで。晃だって、ちょっと気になっただけだよ」
そして、私のほうを見る。
「文乃さん、みんなのこと責めないでね?私たち、修也と小さい頃からずっと一緒だから、こういう冗談も平気で言い合うの」
一拍置いて、無邪気を装ったまま、付け足す。
「……文乃さんみたいに、昔はバーにも入れなかった人とは、違うよね?」
その瞬間、ボックス席の空気が、どっと笑いに包まれた。
修也は何も言わず、ただグラスを持ち上げ、もう一口、酒を流し込んだ。
健太が、ビールをなみなみと注いだグラスを手に、ふらつきながら立ち上がる。
「文乃さん、まあまあ。一杯飲んで、落ち着いてよ」
そう言った次の瞬間、足元がぐらりと揺れた。
冷えたビールが、頭からつま先まで、一気に浴びせかけられる。
白いワンピースが、肌に張りつくほど濡れていった。
「うわ、悪い悪い!わざとじゃないって!」
口では謝りながら、その目は、明らかに面白がっている。
修也が、わずかに眉を寄せた。
「健太、何してんだよ」
叱るというより、形だけの注意だった。責める気配は、どこにもない。
胃の奥が、ぐらりと揺れた。もう、耐えられなかった。
「……続けて。私は、先に戻る」
そう言って、踵を返す。
雨音の横を通り過ぎようとした、そのとき。足元に、ひそかに差し出された足があった。
次の瞬間、体が前につんのめり、膝が床に、鈍い音を立てて叩きつけられる。
鈍い痛みが走り、視界が一瞬、かすんだ。
「きゃっ……文乃さん!」
雨音が、わざとらしく甲高い声を上げる。
修也は眉を寄せた。
「だから、気をつけろって言っただろ」
そう言いながら、かがんで私に手を伸ばしてくる。
「触らないで」
私はその手を振り払い、床に手をついて、自分で立ち上がった。
晃が、また例の調子で口を挟む。
「まあまあ、事故だろ。せっかくだし、ゲームでお詫びしようぜ」
テーブルの中央で、誰かが声を上げた。
「じゃあ、次の命令な」
晃が、いかにも楽しそうに周りを見回し、ゆっくりと視線を止める。
そして、私を指差した。
雨音が、待ってましたと言わんばかりに手を叩く。
「文乃さん、犬みたいに一周ハイハイして、それからワンって二回鳴いたら、クリアでいいよ。ね?」
その場にいる全員が、見世物を見るような目で、私を見ていた。
私は、修也に視線を向ける。
修也は目を逸らし、場を荒立てたくないという気持ちだけが滲んだ、情けない表情を浮かべている。
「文乃」
宥めるように、名前を呼ぶ。
「遊びだろ?ムキになるなよ。
適当にやってさ、早く終わらせよう」
……床を這って、この人たちの笑いものになれと?
私は何も言わず、目の前のグラスを手に取った。そして、一気に喉へ流し込んだ。
「……そんな遊び、付き合う気ない」
雨音はむっとしたように唇を尖らせ、修也の腕を揺らしながら甘えた声を出した。
「修也、ほら。ほんと、空気悪くするんだから」
きらりと目を動かし、今度はバーの中央にある小さなステージを指差す。
「じゃあさ、文乃さん。上で踊ってよ。それなら、もう何も言わないから。
スタイルいいし、きっと映えるよ?」
ステージの上では、露出の多い服を着た女たちが、音楽に合わせて腰をくねらせている。
その様子を眺めながら、雨音は、私に聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「……ほら、あの顔。なに清楚ぶってんの。
今日こそ、分からせてあげる。修也の隣が、誰の席か」
晃が、へらりと笑う。
「さすが雨音。意地悪だな。ここまで来て、あの女まだ澄ましてられるか?」
――なるほど。
私はゆっくりと顔を上げ、修也を見た。
修也は雨音に何か囁いていて、その口元には、甘やかな笑みさえ浮かんでいる。
私の視線には、まるで気づいていない。
彼にとって私は、ただ扱いづらい、面倒な存在でしかないのだろう。
私は、テーブルの上に置かれた、赤ワインがなみなみと注がれたグラスを手に取った。
立ち上がり、そのままステージのほうへ歩き出す。
雨音は、私が折れたと勘違いしたのか、得意げに笑った。
「文乃さん、やっと分かった?ほら、早く行って。みんな、楽しみにしてるんだから」