白髪の誓い、運命の相手は……

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白髪の誓い、運命の相手は……

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谷口絢香(たにぐち あやか)は、夫の谷口健吾(たにぐち けんご)に内緒で、彼の愛人を海外へ追いやった。 するとその夜、健吾は絢香の両親を...

Chương (1)

第1章

谷口絢香(たにぐち あやか)は、夫の谷口健吾(たにぐち けんご)に内緒で、彼の愛人を海外へ追いやった。 するとその夜、健吾は絢香の両親を拉致し、愛人の居場所を教えなければ両親の命はないと絢香を脅す。 健吾が絢香の目の前に突きつけたスマホの画面に映し出されているのは、椅子に縛りつけられた絢香の両親。二人の胸には時限爆弾が取り付けられ、タイマーの数字が刻一刻と減っていた。 第1話 谷口絢香(たにぐち あやか)は、夫の谷口健吾(たにぐち けんご)に内緒で、彼の愛人を海外へ追いやった。 するとその夜、健吾は絢香の両親を拉致し、愛人の居場所を教えなければ両親の命はないと絢香を脅す。 健吾が絢香の目の前に突きつけたスマホの画面に映し出されているのは、椅子に縛りつけられた絢香の両親。二人の胸には時限爆弾が取り付けられ、タイマーの数字が刻一刻と減っていた。 00:59:59。 00:59:58。 スーツ姿で絢香の向かいに座っている健吾が、その長い指で軽くテーブルを叩く様子は、まるで重要でもない契約書のサインを待っているかのようだった。 「絢香、お前にはあと59分ある」その声は穏やかで、優しささえ感じられる。「教えてくれよ。莉子はどこだ?」 絢香は全身の血の気が引いていくのを感じた。喉を締め付けられたように、一言も声が出せない。 健吾がこう尋ねるのは、これで三度目。 一度目、絢香は黙ったままで答えなかった。 二度目、健吾は絢香の顎を掴み、指の腹で唇をなぞった。そして、低い声で囁く。「絢香、そんな意地を張るな」 そして三度目の今…… 健吾は自分の両親の命を盾に取った。 「健吾……」絢香の声は震えていた。「あの二人は、私の両親なの。私にとって、何よりも大切な人たちなのに……」 健吾はふっと笑ったが、その目は恐ろしいほど冷たい。「そうか?だったら莉子を追い出した時、あいつが俺にとってどれだけ大事か、考えなかったのか?」 絢香はじっと健吾を見つめていたが、なんだか全てが馬鹿らしく思えてきた。 大事? 外の女はただの遊びで、飽きたら捨てればいいと、そう言っていたのは健吾だったのに。 本当に愛しているのは自分だけ、そう言ってくれていたはずだ。 それなのに今、健吾は青木莉子(あおき りこ)のために、自分の両親を殺そうとしている。 「健吾……」絢香の声はひどく掠れていた。「もし私が言わなかったら、本当に二人を殺すつもりなの?」 少し身を乗り出し絢香を見つめる健吾の漆黒の瞳に、絢香の青ざめた顔が映る。「試してみればいい」 絢香の体は震え、大粒の涙がテーブルに落ちた。 どうしてこんなことになってしまったのか、絢香には理解できなかった。 健吾はあれほど深く、自分を愛してくれていたはずなのに。 当時、絢香はごく普通の家庭の娘だったが、一方の健吾は東都でもトップクラスの財閥の跡取りで、生まれながらの選ばれた人間だった。だから、健吾はプライドが高く、誰かに頭を下げることなど決してなかった。 しかし、そんな男は絢香に一目惚れしたのだった。 健吾の猛アタックは街中の噂となり、99回もの告白はその都度、世間を騒がせた。 ヘリコプターから巨大なバラの花束を降らせたり、街中の大型ビジョンをジャックして告白したり。絢香の誕生日には、街中の花火を彼女一人のために打ち上げさせたこともあった。 絢香の心は動かされたが、彼女の両親は結婚に猛反対した。 財閥一家がどんなものか、よく分かっていたからだ。妻という本宅がありながら、外には愛人を囲う。お金持ちの愛なんて、おとぎ話のようにはいかない。 両親は同じような家柄の相手と結婚させたいと考えていた。しかし健吾は全てのプライドを捨て、絢香の実家の前で丸一日土下座を続け、結婚の許しを求めた。 結局、絢香の両親もそんな健吾の行動に心を打たれたのだった。 結婚後、健吾は絢香を溺愛し、何事も彼女を優先してくれた。 絢香が生理痛で苦しんでいると聞けば、海外出張から夜通しで飛んで帰り、絢香のために温かい飲み物を作ってくれた。 絢香がふと「街の西側にある店のモンブランが食べたい」と口にすれば、健吾は街を半周してでも車を飛ばして買いに行った。 絢香は、本当に素晴らしい人と結婚できたと思っていた。 そう、初めて「青木莉子」という名前を聞くまでは…… それは、秘書との雑談の中でのことだった。ある女子大生が、健吾の講演中にわざと転んで、気を引こうとしたらしい。なんて使い古された手口だろう。 だから、絢香は笑って気にしなかった。それに、健吾に言い寄る女は星の数ほどいたし、何より健吾はこれまでスキャンダルが全くなかったから。 しかし、二度目にその名を聞いたのは、ベッドの中だった。 絢香の体に覆いかぶさった健吾が、昂りのなかでぽつりと「莉子」と呟いたのだ。 その瞬間、絢香は氷の底に突き落とされたような衝撃を受けた。 絢香が問いただすと、健吾は絢香を抱きしめて説明し始めた。確かに莉子を愛人としようと思ったが、それはただの遊びに過ぎないのだと。 「絢香、俺の周りだってみんなそうなんだよ。でも、俺が一番愛しているのはお前だけ。それは永遠に変わらないよ」 しかし、それからの健吾はますます大胆になっていった。 莉子に宝石や別荘を買い与え、プライベートなパーティーにまで同伴させるようになった。健吾と莉子のスキャンダルは、あっという間に街中に広まった。 絢香は泣きながら健吾を責めた。しかし、健吾が昔のように優しく慰めてくれることはなく、ただ冷たく「馬鹿なことを言うな」と言い放つだけだった。 ついに我慢の限界が来た絢香は、莉子を国外に追いやった。 でもまさか、健吾がこれほどまでに激しく反応するとは思ってもみなかった。なにせ、絢香の両親を拉致し、爆弾まで取り付けて、莉子の居場所を言わせようとしているのだから。 「彼女はS国にいる」絢香は震える声で口を開いた。「S国にある私名義の別荘に住まわせてるの」 健吾は数秒間絢香をじっと見つめ、話の真偽を確かめているようだった。やがて健吾はスマホを手に取り、どこかへと電話をかけた。 確認が取れたのか、健吾はジャケットを手に取ると、急いで莉子を迎えに行こうとした。 「私の両親は?」絢香はとっさに健吾の袖を掴む。「話せば解放してくれるんじゃないの!」 健吾は冷え切った目で絢香を振り返った。「街の南にある廃工場だ。自分で探しに行け」 絢香はよろめきながら部屋を飛び出し、車で南の工場へと向かった。 絢香が二人を見つけ出した時、爆弾のタイマーは残り10分を切っていた。 両親は椅子に縛られ、口を塞がれている。絢香の姿に気づいた両親は必死に首を振り、早く逃げろと訴えてくる。 しかし、絢香は駆け寄り震える手でなんとか縄を解こうとした。しかし、爆弾のカウントダウンの音は、無慈悲に鳴り響き続ける。 00:03:21。 00:03:20。 縄は固くどうしても解けない。焦りで涙が溢れてきた。 突然、父親の中山竜之介(なかやま りゅうのすけ)が絢香に体当たりした。絢香はよろめいて後ろに下がる。次の瞬間、竜之介は爆弾に向かって、自らの体を激しくぶつけた―― 「お父さん――!!!」 耳をつんざくような爆発音が響き渡り、熱風が絢香の体を吹き飛ばす。 地面に強く叩きつけられ、絢香の目の前が真っ赤に染まった。 …… 目が覚めると、絢香は病院のベッドの上にいた。 両親は二人とも重傷を負ったが、幸いにも命に別状はなかったようだ。 絢香は病室のベッドの前で崩れ落ち、泣きながら謝った。「ごめん……私の見る目が無かったばかりに……」 母親の中山明日香(なかやま あすか)は弱々しく手を伸ばし、娘の髪を撫でる。「何馬鹿なこと言ってんのよ。またやり直せばいいでしょ」 絢香は首を振った。「あの人は私を自由にはしてくれない」 莉子の存在を知った当初、絢香はそれを受け入れられなかったため、もちろん離婚を考えた。 しかし、絢香が離婚協議書を作るたびに、健吾はそれを破り捨てたのだった。 莉子はただの遊び相手で、飽きたら捨てるつもり。本当に愛しているのは絢香だから、絶対に手放さない、と。 すると、竜之介が絢香の手を握った。「いや、絢香。お前も知らないだろうし、あいつも忘れているだろうけど……実は、お前の結婚を許したあの夜、俺とお母さんはあいつに離婚協議書を書かせたんだ」 絢香はきょとんとした。 「もしあいつがお前を裏切ったのならば……」竜之介は静かな声で言う。「その協議書が効力を持つはずだよ。お前はすぐに離婚できるし、俺たち家族も……あいつの前から永久に姿を消すことになる」 絢香は一瞬呆然としたが、次の瞬間には涙が止めどなく溢れてきた。 そうだったのか。両親は、とっくに逃げ道を用意してくれていたのだ。 …… 翌日、絢香は二つのことを実行した。 一つ目は両親と共に、署名済みの離婚協議書を携えて弁護士事務所へ向かった。 書類を確認した弁護士は頷く。「協議書は有効です。離婚はただちに成立するでしょう」 二つ目。絢香たち一家は、戸籍を抹消する手続きを取った。 この手続きが完了すれば、この世から絢香という人間は存在しなくなる。 そして健吾は、永遠に絢香を見つけ出すことはできなくなるのだ。 第2話 戸籍を抹消する手続きが終わるまで2週間かかると聞き、絢香は両親と話し合った結果、まずは谷口家に戻ることにした。 この2週間は、健吾の傍にいなければならないし、絶対に怪しまれるわけにはいかなかった。 もしバレたら、あの人のことだから、きっとただでは済まさないだろう。 家に戻ると、絢香は身の回りのものを整理し始めた。 宝物だった二人で撮った写真や、健吾がくれたラブレター、それに旅行先で買ったお土産も……全部暖炉の中に放り込んだ。 炎が思い出を飲み込んでいく。まるで、馬鹿馬鹿しい夢を燃やしているようだった。 次の日、絢香は裏庭に向かった。 そこには健吾が絢香のために植えてくれたプラタナスの並木がある。「プラタナスは忠実さの象徴なんだ。俺のお前への愛みたいに、永遠に枯れないんだよ」と、彼は言っていた。 だから、絢香は斧を手に取ると、その木を一本また一本と切り倒していった。 遠巻きに見ていた使用人たちは、近寄ることも止めることもできなかった。木の幹が折れる鈍い音が響き渡る。それはまるで、しがみついていた想いを無理やり断ち切る音のようだった。 三日目、絢香は山の頂上にある恋人岬へと行った。 そこには、二人の名前が刻まれた南京錠がかけてあった。昔、健吾が絢香を抱きしめながら鍵を崖の下へ投げ捨て、「これで俺たちは一生離れられないな」と言ったのだった。 今、絢香はその南京錠をペンチで無理やり断ち切った。 南京錠が地面に落ち、カランと乾いた音を立てる。 そして、絢香はくるりと翻すと、一度も振り返ることなく立ち去った。 家に戻ると、リビングには二人の男女がいた。 ソファに座る健吾と、その腕の中に寄りかかる莉子。莉子はなんだか顔色が悪く、風が吹けば倒れてしまいそうなほど病弱そうに見えた。 絢香はそんな二人の横を無表情で通り過ぎ、そのまま階段を上がろうとした。 「待て」と、健吾の冷たい声が響く。 絢香は足を止めたが、振り返りはしなかった。 「俺がなぜ莉子を連れて帰ってきたか分かるか?」と、健吾が言った。 「興味ない」 「莉子は、お前に外国へ追い出されてから、環境が合わずに体調を崩したんだ。だから、何日も眠れていない」健吾の声には責めるような響きがあった。「だから、絢香。莉子に謝れ」 絢香はようやく振り返り、二人の方を見る。 莉子はおびえたように健吾の袖をつかんでいたが、その目には一瞬、勝ち誇ったような光が宿った。 「もし謝らなかったら、どうする?」絢香は静かに尋ねた。 「もう、大丈夫だから……」莉子がか細い声で言う。「私が我慢すればいいの。だって、この家は絢香さんと健吾さんのものなんだから……」 すると、健吾がすぐに莉子を抱きしめた。「そんな気ばっかり使わなくていいって言っただろ?」 さらに、莉子の髪にキスを落とす。「これからは俺が甘やかしてやるから、思う存分好きにしていいんだよ」 あまりの茶番に呆れ、絢香は口の端を歪めた。 使用人が気持ちを落ち着かせるためのハーブティーを一杯運んできた。莉子のために特別に用意したものだそうだ。 その時、健吾のスマホが鳴った。 健吾は相手を確認すると、莉子を見つめた。「仕事の話を聞くと頭が痛くなるだろ?だから、俺は外で電話してくるから、そのハーブティーでも飲んでて」 そう言うと、健吾は立ち上がって部屋を出ていった。 心臓を斧で殴られたような衝撃で、絢香はその場に立ち尽くした。 健吾は昔、仕事の機密が漏れるといけないからと、決して家の外で仕事の話はしなかった。しかし今、莉子のためなら、そんな習慣さえも変えてしまえるのだ。 リビングには絢香と莉子だけが残された。 すると途端に、莉子の顔から病弱さが消え、代わりに勝者の傲慢さのようなものが浮かび上がる。 「見た?」莉子がくすりと笑った。「本妻のあなたは、その立場を利用して私を追い出したみたいだけど、健吾さんの体も心も、今は私のものなの」 しかし、絢香は冷ややかな視線を莉子に向けるだけだった。「あの人が欲しいなら、あげるわ」 莉子は一瞬きょとんとしたが、すぐに怒りを露わにする。「あなたからもらう必要なんかない!健吾さんは遅かれ早かれ私のものになるんだから!あなたのその座も、いずれは私のもの!」 絢香が平然としているのを見て、莉子はさらに逆上した。 その時、外から健吾の足音が聞こえてきた。 すると莉子は突然、熱々のハーブティーを手に取ると、自分自身の体めがけてぶちまけた。 「きゃあっ!」莉子は悲鳴をあげ、みるみるうちに目に涙を浮かべる。 健吾が駆け込んできた時、目に飛び込んできた光景は悲惨だった。 ハーブティーでずぶ濡れになった莉子の服からは、液体が滴り落ちていて、目を真っ赤にして泣いていた。 「絢香!」健吾の眉間に怒りが浮かぶ。「謝らないだけならまだしも、こんなことまでするなんて!」 「私じゃないから」絢香は冷静に言った。「防犯カメラを確認すれば分かるよ」 「いいだろう、調べてやる!」健吾は鼻で笑った。 しかし、莉子がすぐに健吾へ縋りつき、声を詰まらせた。「健吾さん。絢香さんのせいじゃないの……私が健吾さんの傍にいたいなんて、我が儘を言ったから。私、今すぐ出ていく……」 莉子が一歩踏み出した途端、健吾がその腕をぐいと引き戻す。 「せっかくお前を探し出したのに、また俺の前からいなくなるのか?お前は俺を殺す気なのか?」 失った宝物を取り戻したかのように、健吾が莉子を強く抱きしめた。 そして絢香に向けるその眼差しは、恐ろしいほど冷え切っている。 「こいつには、俺が罰を与えてやる」 その後、絢香は冷凍倉庫に閉じ込められた。 ボディーガードに引きずられ、中に押し込まれる時、綾香は必死にもがいた。「健吾!防犯カメラを調べて!私じゃないってば!」 しかし、健吾は絢香をちらりとも見ずに、ただ冷たく言い放つ。「調べる必要なんかない。俺は莉子だけを信じるから」 冷凍倉庫の重い扉が閉ざされた。 暗闇と冷気が一瞬で絢香を飲み込む。 隅で体を丸め震える綾香の心は、冷凍倉庫よりもずっと冷え切っていた。 これが、絢香を一番愛していると言った男のすることなのだろうか。 絢香の目からは涙がとめどなくあふれ出た。 絢香はもともと冷え性で、寒さがとても苦手だった。 だから結婚後、健吾は家を全館空調にしてくれ、庭でさえも一年中春のように暖かかった。 冬になると、健吾は冷たくなった絢香の手足を自分の手で温めながら、笑ってこう言ったものだ。「一生、こうしてお前を温めてあげるよ」 それが今では…… 誓いの言葉なんて、口にしたその瞬間だけが真実なのかもしれない。 第3話 次の日、絢香が寒さで意識を失いかけていた頃、ようやく冷凍倉庫のドアが開けられた。 無表情のボディーガードがドアの前に立っている。「社長からです。次に同じことをしたら、こんなものじゃ済まない、と」 絢香は壁に手をつき、よろよろと外に出た。全身が震え、歯までガチガチと鳴っている。 次なんて、もう二度とない。 もうすぐあの男を自分の世界から完全に追い出してやる。 夜、健吾の秘書の安藤翔平(あんどう しょうへい)が、ドレスと宝飾品一式を届けにきた。チャリティーパーティーへ出席しろ、とのことだった。 絢香はパーティーへ向かった。 すると、会場の入り口で、莉子の姿を見かけた。 莉子はオーダーメイドのドレスを着ていて、首元のダイヤモンドネックレスは、先月、健吾がオークションで高額で落札したものだった。 絢香は立ち止まり、健吾を見つめる。「彼女もいるのに、どうして私まで呼んだの?」 健吾は平然とした様子だった。「連れてくるつもりはなかったんだけど、こういう場に来たことないって言ってたから誘ったんだ」 健吾は一呼吸おいて、何でもないように続ける。「絢香、そんなにヤキモチ焼くなよ」 絢香の体が微かに震えた。 ヤキモチなんかではない。 本妻と愛人を同席させたら、自分がどれだけ後ろ指を指され、笑いものになるか、健吾はまったく考えていない。 健吾は莉子を連れて、まっすぐ会場へ入っていく。莉子は健吾の腕に親しげに絡みつき、甘い笑顔を浮かべていた。 周囲からはひそひそ話が聞こえてくる。 「谷口社長と奥さんは、本当に仲睦まじいですね。とってもお似合い」 「違うわよ。奥さんはあちらで、隣の人は……ただの愛人」 莉子を本妻と勘違いした人は気まずそうに絢香をちらりと見ると、ばつが悪そうに言った。「でも、谷口社長があちらの方にだけ親切なんだもの。愛人には本物のブランド品を着せて、奥さんのは……そのおまけみたいなものだし。間違えても仕方ないと思うんだけど……」 絢香は爪が手のひらに深く食い込むほど、ぎゅっと拳を握りしめる。 オークションが始まると、絢香は適当にいくつかの品に札を上げた。 しかし、絢香が何に札を上げようと、莉子は必ずその値段にほんの少しだけ上乗せしてくるのだった。 周囲からはくすくすと嘲笑が漏れ聞こえてくる。 「本妻が愛人にやられてるなんて、初めて見たよ……」 絢香は無表情のまま、オークショニアにある合図を送った。 それは、いわゆる「青天井」だ。この品の値段がいくらまで上がろうと、全て自分が引き受けるという意思表示だ。 莉子は顔がさっと青ざめさせ、不満そうに健吾の袖を引く。「健吾さん、私、あれが本当に欲しいの……」 健吾は眉を顰め、絢香を見た。「絢香、莉子に譲ってやれ」 「嫌よ。 彼女に青天井なんて真似はできない。でも、私にはできるの。なぜなら私はあなたの妻で、夫婦の財産は共有のものだから」絢香は莉子の方を向くと、皮肉を込めて言い放つ。「健吾があなたにいくら貢ごうと、私には敵わないの」 莉子の瞳が、みるみるうちに潤んで赤くなった。莉子は勢いよく立ち上がり、声を震わせる。「あなた……」 次の瞬間、莉子は急に顔を覆って泣き出した。「そうよ、私は公には出てはいけない関係なんだから、高望みなんてするべきじゃなかったの……健吾さん、もう、私たち終わりにしよう!」 そう言い残すと、莉子は身を翻して走り去っていった。 健吾の表情がみるみる険しくなり、絢香の手首を骨が砕けんばかりの力で掴む。「言ったはずだろ?少し遊んだら飽きるって。なのに、お前はどうしても莉子を追い出したいのか?」 絢香は冷静に健吾を見つめ返す。「あの女がどこへ行こうと、私には関係ない」 健吾は暗い目つきで絢香の手を振り払い、大股で後を追っていった。 絢香がその場に立ち尽くしていると、周囲から嘲笑と憐れみの視線が突き刺さる。 けれど、絢香は気にもとめなかった。 どうせ、もうすぐここからいなくなるのだから。 しかし翌朝、絢香はスマホに届いたニュース速報で叩き起こされた。 【#速報!谷口グループ社長夫人のプライベート写真、大量流出か?サザビーズにて緊急オークション開催!】 全身の血が一瞬で凍りつく。 あんな写真……健吾しか持っていない。 第4話 絢香は震える手で健吾に電話をかけた。声が掠れる。「写真……あなたが流したの?」 電話の向こうで、健吾は冷たく笑っていた。「高い買い物が好きじゃなかったのか?」 健吾の口調は残酷だった。「あの写真を見られたくないなら、さっさとオークションに行って一枚残らず、全部買い戻してくればいい」 電話の奥から、莉子の甘えた声が聞こえてきた。「健吾さん……もしかして絢香さんから?私……やっぱり帰るよ。あなたの傍にいるべきじゃないもの……」 「馬鹿なことを言うな」健吾の声が急に優しくなる。そして、電話越しにキスをする生々しい音が聞こえてきた。「お前のためにやったことなんだぞ。もう一度帰るなんて言ってみろ……」 いつの間にか、電話は切れていた。 絢香は全身が凍りつくようなショックを受け、すぐにオークション会場へと急いだ。 ドアを開けた瞬間、絢香は全身が震えた。 会場は男たちで埋め尽くされ、巨大なスクリーンには自分のプライベートな写真が次々と映し出されている。 健吾がかつて「可愛い」と言って、わざわざ保存してくれていた寝顔の写真だ。 シャワーを浴びているときの後ろ姿を写したものもあった。撮るとき、健吾は「お前に会いたくなった時に見たいから」と甘い言葉で頼み込んできたのだ。 それから、裸の体にキスマークがたくさんついた写真も。あの時、彼は「これは俺がお前を愛している証拠だ」と言っていた。 オークション会場にいた男たちの、いやらしい視線が絢香にまとわりつくき、ひそひそ話す声が、ナイフのように彼女の耳に突き刺す。 「この体……たまらないな。谷口社長は幸せもんだぜ」 「昔は谷口社長も奥さんを溺愛してたって話じゃなかったか?なんで今さら奥さんのプライベートな写真を売りに出したんだろ?」 「そりゃ、飽きたんだろ。表向きは綺麗だけど、裏ではさ……」 その一言一句が、ナイフのように絢香の心を抉った。 ふと、昔の健吾がいかに独占欲の強い男だったかを思い出した。 あの年、南の島へ旅行に行った時のこと。絢香が背中の開いたワンピースを着ていると、他の男がちらりと視線を送ったのだが、それだけで健吾は自分をホテルに連れ帰り、窓に押し付けて体を重ねながら「お前は、俺のものだ」と何度も言っていた。 それなのに今は、別の女の機嫌を取るために、自分の写真を男たちの見世物にしたのだ。 絢香は一枚ずつ写真を落札していく。ボタンを押すたびに、心が冷え切っていくのを感じた。 最後の写真を落札し終えたときには、健吾への愛情もすっかり消え果ててしまった。 オークション会場を出ると、スマホが鳴った。 「高い買い物は存分に楽しめたか?」健吾の声は、あからさまな皮肉に満ちている。 絢香は爪が手のひらに食い込むほど、スマホを強く握りしめた。「こんなことをしたら、私が離婚を切り出すとは思わなかったの?」 健吾はまるで子供に言い聞かせるように、平然と言う。「離婚なんて無理に決まってるだろ?俺が判を押さなければ、離婚なんてできないんだから」 絢香は何も言わなかった。 健吾は確かに忘れているようだった。自分の署名と捺印が入った離婚協議書を絢香が持っていることを…… 絢香が黙り込んでいるのを見て、健吾は少し口調を和らげた。「今日はただお灸を据えただけだからさ」 少し間を置いて健吾が続ける。「それに、言ったはずだろ?お前が莉子に手を出したりしなければちゃんと家に帰る、って。 もうすぐお前の誕生日だろ?埋め合わせにパーティーでも開いてやるよ」 絢香が「結構」と言いかける前に、電話は切られてしまった。 それからというもの、莉子のインスタが毎日のように更新されるようになった。 最新の投稿はクルーザーの上で健吾に抱きしめられているツーショット。コメントはこうだった。【海が見たいって言ったら、島をまるごとプレゼントしてくれた】 その下にも、投稿は続いている。 【彼ったら猫アレルギーなのに、私のためにラグドールを飼ってくれたの】 【彼のスマホのアルバムは、私の写真でいっぱいなんだ。えへへ】 以前の絢香なら、息もできないほど胸が苦しくなっただろう。 しかし今の絢香の心には、何の波も立たなかった。 健吾は最近、ずっと莉子のところに入り浸っていた。だから、たまに家に帰ってきても、物がいくつかなくなっていることに気づかない。 たぶん、自分がこの家からいなくなったとしても、彼は気づきもしないのだろう。 第5話 絢香の誕生日パーティーの日、健吾が自ら車で絢香を迎えに来た。 車の中には健吾一人だった。 「青木さんは一緒じゃないの?」絢香は感情のこもっていない声で尋ねる。 健吾が眉を顰めた。「これからはお前たちを会わせないようにする。お前がいつも怒ってばかりいるからな」 絢香は口の端を歪めた。 健吾が気にしているのは自分が怒ることじゃなくて、自分が莉子をいじめられないようにということだろう。 健吾の心の中で、自分はとっくに根性の悪い女として映っているようだ。 パーティーはとても盛大だった。健吾は終始絢香の手を繋ぎ、宝石や有名な絵画を贈った。それどころか、「これで機嫌は直ったか?」と低い声で彼女の機嫌を取ってくる。 絢香は健吾を見ながら、ふと昔のことを思い出した。 健吾はいつも自分を怒らせると、こうして下手に出て機嫌を取ってきた。そして自分はいつも、情にほだされて許してしまっていた。 でも、今回は違う。 健吾は自分の両親の命を取引材料にし、自分のプライドを踏みにじり、プライベートな写真をオークションに出した…… たとえ健吾が世界の全てを差し出したとしても、埋め合わせにはならない。 絢香が口を開こうとした、その時だった。パーティーホールの大きなドアが突然開けられたのだ―― そこには、白いドレスを着た莉子が、おどおどした様子で立っている。 健吾の顔色がさっと変わった。「家で大人しく待っているように言ったはずろ?」 莉子は目を赤くする。「私、私は……絢香さんのお誕生日をお祝いしたくて。それで、プレゼントも持ってきたの……」 「私はあなたの顔なんて見たくない」絢香は冷たく言い放った。 しかし健吾はすでにウェイターに手招きして莉子の席を用意させると、絢香にささやいた。「莉子は親切心でお前の誕生日を祝いに来てくれたんだ。この間のことは、これで水に流してやれ」 パーティーは絢香の誕生日を祝うためのものだったのに、健吾の意識は全て莉子に向けられていた。 バンドがダンスミュージックを奏で始めた時、健吾は一度絢香の手を取ったが、涙ぐむ莉子の姿が視界の端に入ると、結局彼は背を向け、莉子のほうへ歩いていった。 絢香は隅に立ち、抱き合って踊る二人をただぼんやりと眺めていた。しかし、心は何も感じない。 ダンスが終わると、莉子はハイヒールで足が痛いと甘えた声を出した。 健吾はすぐ莉子のために、自ら階下へフラットシューズを買いに行く。 その隙に、莉子は絢香の前に来てスマホをひらひらと振った。「絢香さん、知らないと思うけど、健吾さんがあなたに贈ったプレゼント、全部私が要らないって言ったものなの。 それに、あなたの誕生日パーティーに来ることだって、いちいち私に報告してくれてさ。一分おきにメッセージを送ってきたり……」莉子は得意げにトーク履歴を絢香に見せつける。「ほら見て。『莉子、もう少しだけ我慢して。すぐ戻るから』って」 絢香の心はとっくに冷え切っていた。「それで、一体何がしたいの?」 「あなたにその場所を譲ってほしいの」 「すぐにそうなるから」絢香は静かに莉子を見つめる。「きれいさっぱり、譲ってあげる」 莉子は目を細め、何かを考えていた。絢香が莉子は信じたと思った、まさにその次の瞬間、莉子は突然絢香の手を掴むと、その手で自分の頬を思い切り殴りつけたのだ。 パンッ――乾いた平手打ちの音が響く。 健吾が駆けつけてきたとき、目に映ったのは、頬を押さえて涙をぽろぽろとこぼす莉子の姿だった。 「絢香!」健吾は激怒した。「また莉子にひどいことをしたのか!」 「私は何もしてない」 「この目で見たぞ!」健吾は絢香の手首を掴んだ。それは、骨が砕けるかと思うほどの力だった。「まだ懲りていなかったのか?言ったはずだぞ。お前が莉子にしたことは、十倍にして返すと!」 莉子は泣きじゃくりながら首を横に振る。「もういいの……気にしないで……」 「俺がいる。何を怖がる必要があるんだ?」健吾は痛ましげに莉子の涙を拭った。「言っただろ?お前は何をしてもいい。たとえ天と地がひっくり返るようなことをしても、俺がなんとかしてやるから。 それに、いつまでもそうやってビクビクしてると、いじめられるだけだぞ」 言い終わると、健吾はボディーガードに絢香を押さえつけさせ、莉子に言った。「こいつがお前を殴ったように、今度は十倍にして殴り返せ」 莉子は怖がるふりをした。「わ、私、そんなことできない……」 「俺が教えてやる」 健吾は莉子の手を握り、絢香の頬に思い切り振り下ろした。 パンッ。 「この一発は、やり返すことを教えるためだ」 パンッ。 「この一発は、ビクビクするなという教えだ」 パンッ。 三発目、四発目…… 絢香は痛みで目の前が真っ暗になった。口の端からは血がにじみ、耳鳴りもした。それでも歯を食いしばり、一言も声を発しなかった。 十発目を殴り終えたところで、健吾がようやく手を止める。 周囲の客たちは小声で話していた。「谷口社長の奥さん、可哀想に。今日、誕生日なんでしょ……」 「自業自得よ。人をいじめるから……」 健吾は莉子の手を優しく包み込んだ。「痛むか?薬を塗りに行こう」 そう言うと、健吾は莉子を横抱きにして、振り返りもせずに去っていった。 ボディーガードが手を離すと、絢香は床に崩れ落ちた。頬が燃えるように痛い。 でも、心はその何倍も痛かった。 健吾、私は後悔してるの。あなたを好きになったことを…… 本当に後悔している。 第6話 絢香は、ふらつく足取りでパーティー会場を後にした。頬はひりひりと痛み、口元の血は乾き固まってしまっている。 絢香は運転手を呼ばず、自分で車を運転して病院へと向かった。 医師に薬を塗ってもらいながら、絢香は鏡の中の自分をじっと見つめる。 顔の半分は赤く腫れ上がり、口の端は切れ、目はすっかり充血していた。 なんて惨めな姿なんだろう。 口の端を少し上げてみたが、傷口が引きつり息をのむほど痛い。 手当てを終え、車で帰ろうとしたところ、駐車場である二人の人物に引き止められた―― 莉子の両親だった。 二人は絢香の車のドアを左右から塞ぐと、懇願するように言った。「お願いですから、谷口社長と離婚してください。どうか私たちに情けをかけて、どうかうちの莉子に譲っていただけませんか……」 絢香は冷ややかに二人を見つめ、「どいて」とだけ言った。 「莉子は本気で谷口社長のことが好きなんです。どうか、あの二人を一緒にしてあげてください……」 「どいて、と言っているでしょ」 これ以上関わりたくなくて、絢香は二人を突き飛ばすようにして車のドアを開けた。 しかし、絢香がアクセルを踏んだ瞬間、莉子の父親・青木康弘(あおき やすひろ)が突然車の前に飛び出してきたのだ―― ドンッ。 鈍い音がして、何が起こったのか絢香が理解するより先に、康弘が地面に倒れて足を押さえ、うめき声をあげていた。 莉子の母親・青木直美(あおき なおみ)は甲高い悲鳴をあげ、泣き叫びながら夫に駆け寄る。「康弘?!」 絢香はその場で固まり、指が白くなるほどハンドルを強く握りしめた。 あの人、自分からぶつかってきた。 わざとやったんだ。 でも、深く考えている暇はなかった。絢香はすぐに車を降りて、康弘を救急へ運ぶしかなかった。 病院の廊下に、莉子が慌てて駆けつけてきた。莉子は絢香の顔を見るなり、問答無用でその頬を叩く。 バシンッ。 絢香の顔が横に向き、耳の奥がキーンと鳴った。 「なんてことしてくれたの!」莉子が涙でぐしゃぐしゃの顔で叫ぶ。「私には何したっていい!でも、どうして私の両親にまでこんなことをするの?!」 手当てしたばかりの傷がまた開いて血がにじみ出た。しかし、不思議と痛みは感じなかった。 「あなたのお父さんが、自分から飛び出してきたのよ」絢香は冷静に言う。 「嘘をつくなら、もっとましな嘘をつけよ!」背後から、健吾の鋭い声が飛んできた。「莉子のお父さんが、自分から車に飛び込むわけないだろ? 絢香、いつからそんなに性根が腐っちまったんだ?」 絢香は健吾を見つめる。心は、とっくにずたずたに引き裂かれていたのでなんの痛みも感じない。 今の健吾は調べもせずに、自分がわざとやった決めつけるのか。 健吾はかつてどれほど深く絢香を愛してくれていたか、すっかり忘れてしまったかのようだった。 すると、医師が慌ただしく出てきて言った。「患者さんは出血多量で、緊急輸血が必要なんです。A型なんですが、どなたか献血してくださる方はいらっしゃいませんか?」 莉子はしゃくりあげながら首を振る。「私は直系の親族だから、輸血できないんです……」 健吾が絢香に視線を移し、冷たく言う。「先生、この女はA型なので献血させます」 絢香ははっと顔を上げた。「嫌よ」 「お前がはねたんだから、責任を取るのが当然だろ?」健吾は鋭い眼差しで続ける。「もし莉子のお父さんに万が一のことがあれば、お前を許さないからな」 全身が凍りついたように感じ、絢香は声を震わせた。「また、この前みたいに……私の両親を追い詰めたように、今度は私を殺す気なの?」 健吾の瞳孔が微かに動く。まるで絢香のその言葉に、胸を突かれたかのようだ。 しかし次の瞬間には、心を鬼にしてボディーガードに命じていた。「こいつを押さえつけて、採血しろ」 絢香は献血用の椅子に無理やり押さえつけられた。針が血管に突き刺さる痛みに、指先が震える。 採血パックが血で満たされていくにつれ、絢香の意識も次第に朦朧としていく。 昔は、貧血気味だった自分がほんの少し膝を擦りむいただけでも、健吾は死ぬほど心配してくれたことを思い出した。 それが今では、無理やり自分を押さえつけ、当たり屋のような男を助けるために自分の血を抜いている。 目の前が真っ暗になっていくと、絢香はついに耐えきれずに意識を失ってしまった。 第7話 目が覚めると、外はもう暗くなっていた。 絢香は弱った体に鞭打ってベッドから起き上がり、退院の準備をした。 ある病室の前を通りかかった時、中から莉子の甘ったるい声が聞こえてきた。 「お父さん、お母さん、この人が健吾さん。私の彼氏なの」 絢香は思わず足を止める。 半開きになったドアの隙間から、健吾が莉子の腰を抱いているのが見えた。健吾は優しい声で「おじさん、おばさん、安心してください。莉子を絶対に悲しませたりしませんから」と言っている。 直美も満面の笑みを浮かべた。「まあ、まあ。うちの莉子にあなたみたいな素敵な彼氏ができるなんて、なんて幸せ者なんでしょう……」 ドアの外に立ったまま、絢香はふと、何年も前のことを思い出していた。 あの時も、健吾はこうやって自分の腰を抱きしめて、真剣な顔で自分の両親に言っていた。「おじさん、おばさん、安心してください。絢香を絶対に悲しませたりしませんから」と。 しかし、今は全く同じ言葉を別の女のために言っている。 健吾。あなたの誓いの言葉って、こんなに簡単に破られるものだったのね。 絢香は唇を強く噛みしめた。血の味が滲むのを感じて、やっとその場を離れることができた。 病院を出ると、絢香は時間を確認した​。戸籍抹消の手続きが受理されるまで、あと3日。 3日後には、両親とここから完全にいなくなれる。 そうなれば、健吾がいくら探しても、もう自分たちを見つけることはできない。 家に帰ると、絢香は急いで荷造りを始めた。数枚の着替え、マイナンバーカード、パスポート…… それ以外の物は、一つだって持っていきたくなかった。 パスポートを鞄に詰め込んでいた、その時だった。突然、部屋のドアが勢いよく開けられた。 ドアの前に立っていたのは健吾で、彼の後ろには涙に濡れた顔の莉子がいた。 「お父さん、一応峠は越したみたいなんだけど、もう年だから本当に大変だったみたいで……」莉子はしゃくりあげながら言った。涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちている。 健吾は莉子の涙を指で拭い、優しく言った。「もう泣くな。今、ちゃんとこいつに償わせようとしてるだろ?」 健吾は少し間を置いて続ける。「こいつにどう謝ってほしい?あまり無茶な要求でなければ、何でも聞くよ」 莉子はおどおどした様子で絢香を一瞥し、小声で言った。「私……絢香さんを、何日か留置所に入れてほしい」 健吾はすぐに眉を顰めた。「莉子、それはやりすぎだ」 「可哀想だって思うよね」莉子は彼の袖をつかみ、目を真っ赤にしながら言った。「でも、お父さんはあんなにひどい目に遭った。ここで少し懲らしめておかないと、絢香さんは、また私たちに酷いことをするかもしれないでしょ……」 莉子は唇を噛むと、さらに声を潜める。「ほんの数日だけ、もう二度とあんなことができないように……健吾さん、絢香さんがあなたの本命だってことは分かっているし、私はただの遊び相手。でも、もしどうしても彼女が可哀想でできないっていうなら……もう、私たちは終わりにしよう」 健吾は数秒黙り込んだ後、結局あきらめたように莉子を抱き寄せた。「別れるなんて言うな。お前の言う通りにするよ」 こうして、絢香は留置所に送られることになった。 健吾は去り際、絢香の方を見ようともしなかった。 一方、健吾が遠ざかったのを確認した莉子は、振り返って絢香に冷たい笑みを浮かべた。 第8話 その後の3日間は、絢香の人生で最も長い悪夢になった。 突き飛ばされたり、罵られたり……わざと足をかけられて転んだ膝からは、だらだらと血が流れた。 しかし、傷の手当てもしてもらえず、きれいな水も一口ももらえなかった。 絢香は部屋の隅で体を丸め、歯を食いしばりながら、ただ時間が経つのを待っていた。 3日経てば自由になれる。 3日目の夕方、ついに鉄の扉が開いた。 ドアのところに健吾が立っていたが、逆光で絢香には彼の表情がよく見えなかった。 しかし、絢香の姿を間近で見てた健吾はわずかに息をのんだ。「一体、どうしたんだ?」 絢香の服は元の色が分からないほど汚れ、腕や膝は青あざと擦り傷だらけ。口の端には、乾いた血の跡までついていた。 莉子はすぐに健吾の腕に絡みつき、優しい声で言う。「絢香さんは、わざと自分を傷つけて、同情を引こうとしてるのよ、きっと」 莉子は口を曲げた。「たった数日、閉じ込められていただけじゃない。そんな中で何があるって言うの?」 健吾は数秒間、絢香を見つめていたが、やがて冷たい顔で言った。「絢香、いい加減にしろよ」 絢香は口の端を歪めたが、もう言い訳する気力さえ残っていなかった。 家に戻っても、健吾は珍しくすぐには帰らなかった。 健吾はソファに座り、落ち着いた口調で言った。「これから、月曜日と火曜日はお前といてやる。それ以外の日は莉子と一緒にいるから」 絢香は階段の途中で立ち止まったまま、何も言わなかった。 「今日は水曜日だから、莉子のところへ行くよ」健吾は立ち上がって上着を手に取る。「これから数日間は、邪魔するなよ」 健吾はドアまで歩いて行くと、こう付け加えた。「来週の月曜日には帰るから」 絢香は健吾を見て、淡々と言う。「分かった。さようなら」 馬鹿みたい。この男は自分が戻ってくるのを、まだ待っていてもらえるとでも思っているのかしら? 絢香の態度が予想外のことだったようで、健吾は眉を顰めたが、結局何も言わずに背を向けて出て行った。 玄関のドアが閉まった瞬間、絢香のスマホが震えた。 【中山さん、お手続きが全て完了いたしました】 絢香はそのメッセージをじっと見つめる。目の縁が熱くなり、心臓が胸から飛び出しそうなくらい激しく高鳴った。 自由になれたのだ。 絢香はすぐに、とっくにまとめておいた荷物をつかむと、振り返ることなく家を出た。 空港。 搭乗口ではすでに両親が待っていた。絢香の姿を見ると、明日香は目を赤くして彼女を強く抱きしめる。 「頑張ったわね。もう全部終わったのよ」 絢香も目を赤くしながら頷いた。 そうだ、全て終わったのだ。 6年前、雪が降りしきるあの夜。健吾は絢香の家の前にひざまずき、「一生守り抜く」と誓った。 しかし今、絢香は自分自身を健吾の人生から消し去るのだ。 搭乗のアナウンスが流れると、絢香はスマホからSIMカードを抜き取り、パキッという音とともに、指の間で真っ二つに折った。 「お客様の搭乗券でございます」係員が丁寧な口調で言う。 絢香は折れたカードを傍のゴミ箱に投げ捨て、搭乗券を受け取ると、両親の手を引いて迷いなく搭乗口へと向かった。 その背筋はまっすぐに伸びていて、足取りに躊躇いは一切なかった。 今日から、絢香の世界に健吾という人間はもう存在しない。