Đang tải thông tin quảng bá...
昨日を脱ぎ捨て、自由の海へ
「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」 その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった...
Chương (1)
第1章
「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」
その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。
「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」
佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。
「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか?
受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」
「唯織を一生支えると約束したんだ。食言はできない」
瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。
「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」
唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。
羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。
あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、このところに遊びに来ただけだ」と説明していた。
唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。
第1話
「千隼、本当に唯織と結婚する気なの?なら、星奈はどうなるのよ」
その言葉を聞いた浅井唯織(あさい いおり)の手がドアノブの上で止まった。
「もう八年だ。千隼、君は唯織に対して、もう尽くすだけ尽くしただろう」
佐藤奏翔(さとう かなと)が口を挟む。
「でも、星奈は別だ。君が毎年二ヶ月もわざわざ遠出するのは、彼女に会って息を抜くためじゃないのか?
受験が終わるなり、君を追ってはるばるやってきたんだ。その想いを無下にできるのかよ」
「唯織を一生守ると約束したんだ。食言はできない」
瀬戸千隼(せと ちはや)の冷ややかな声が響く。
「これは俺が唯織に背負っている負い目だ。だが、星奈はまだ若くて世間を知らない。何も分かっていない星奈を、傷つけるわけにはいかないんだ」
唯織は全身の血が凍りつくのを感じた。
羽田星奈(はねだ せな)。一ヶ月前、大きなスーツケースを引いてふらりとゲストハウスに現れたあの女の子。
あの時、千隼は彼女のことを「友人の娘が受験を終えて、A県に遊びに来ただけだ」と説明していた。
唯織は爪を手のひらに深く食い込ませた。まるで一瞬にして魂が抜け落ちた抜け殻のように、その場に釘付けになり、身動き一つ取れなくなった。
ここ数年、毎年春と秋になると、千隼は二ヶ月間A県を離れていた。
仕事の打ち合わせだとばかり思い込んでいたが、本当は星奈に会いに行っていたのだ。
工藤大町(くとう おおまち)の声が一段と低くなった。
「唯織は気の毒だが、これほど長い年月が経ったんだ。たとえ罪滅ぼしだとしても、もう十分だろう?」
罪滅ぼし。
その言葉は刃となって、唯織の心臓を真っ向から貫いた。
八年前のあの火災を思い出す。彼女は千隼を突き飛ばし、自らの背中全体に重度の火傷を負った。
知らせを受けて夜通し車を走らせた両親が、大型トラックに追突され、形見一つ残らないほど無惨な姿でこの世を去ったことも。
一夜にして、彼女は健康も両親も、すべてを奪われた。残されたのは千隼と、「一生守る」というあの日の約束だけだった。
今やあの約束は、単なる「罪滅ぼし」に成り下がってしまったのか。
唯織は無意識に胸を押さえた。
階下での会話はまだ続いている。
「じゃあ、君は唯織を愛しているのか?」
奏翔が問いかける。
バルコニーは長い沈黙に包まれた。千隼は答えなかった。
唯織の瞳から溢れ出した涙が、焼けるような熱さを伴って頬を滑り落ちた。
大町が溜息をついた。
「俺たちには分かるよ。星奈を前にした時の君は、唯織といる時とは……まるで別人のようだ」
その一言が、唯織が必死に守り続けてきた自分への欺瞞を、粉々に打ち砕いた。
ああ、そうだ。あまりにも、違いすぎる。
先月の両親の命日。彼女が墓地で日が暮れるまで待っていた時、ようやく駆けつけた千隼からは、これまで一度も嗅いだことのない、甘く清らかな香水の匂いが漂っていた。
「立て込んでいて、つい忘れた」
あの時、彼はそう言った。
付き合った記念日に用意した、冷めきった料理。
彼からのメッセージには、ただ短くこうあった。
【星奈の案内に連れ出している。帰りは遅くなる】
そして今朝。再診に付き添ってほしいと小声で頼んだ時、彼は一度は承諾した。しかし昼前になると「用事ができたから一人で行ってくれ」と断られた。
彼女は彼のために理由を探し続けていた。ゲストハウスが忙しいのだろう、客が多くて手が離せないのだろう、と。
今思えば、あの「用事」も、やはり星奈のためだったに違いない。
ドアが開き、冷気を纏った千隼が入ってきた。暗闇の中に立つ唯織を見て、彼は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
「どうしてまだ起きてるんだ?」
「毎年、B県へ行っていたあの二ヶ月間は」
唯織の声が、自分でも驚くほど小刻みに震えている。
「星奈に会うためだったのね?そうでしょう?」
照明を点けようとした千隼の指先が、その言葉に凍りついたように止まった。
「そうだ」
彼は上着を脱ぎ、淡々と言った。
「だが唯織が考えているようなことじゃない。星奈はまだ子供だ。そんな風に――」
「子供?」
唯織は彼の言葉を遮った。
「十八歳にもなって、子供だっていうの?受験が終わるなり、あなたを追ってはるばるやってきた子供が?あなたが毎年欠かさず会いに行っていた子供が?」
千隼の表情が険しくなる。
「盗み聞きか?」
「盗み聞きでもしなきゃ、この八年間、自分がどれほど滑稽なピエロだったか気づけなかったわ!」
唯織の声が荒らげられ、背中の傷跡が再び火を噴いたかのように熱く疼きだした。
「今日の再診、あなたは用事があるって言ったわよね」
唯織は彼を凝視し、一言ずつ噛みしめるように問うた。
「その用事っていうのは、星奈の付き添いをすることだったの?」
千隼は沈黙した。その肯定にも等しい沈黙は、どんな刃物よりも鋭く彼女を切り裂いた。
その時、彼のスマホが鳴った。画面には「星奈」が表示されている。
千隼は唯織を一瞥すると、電話に出た。
「もしもし?」
「千隼」
電話の向こうから女の子の声が漏れる。
「耳がすごく痛いの。今日開けたピアスホールが膿んじゃったみたい。消炎剤の軟膏とか、持ってないかな?」
唯織はその場に釘付けになり、全身の血が引いていくのを感じた。
今日の再診に付き添えなかったのは、星奈のピアスを開けるのに付き合っていたからだった。
何年も前、唯織もアクセサリーショップのショーウィンドウを指さして、ピアスを開けたいとねだったことがあった。
千隼は眉をひそめて言った。
「やめておけ。痛いし、化膿しやすいから」
当時の彼女は、その言葉に胸を熱くしていた。彼は自分が痛い思いをするのを耐えられないのだと、それほどまでに大切にされているのだと、疑いもせずに信じ込んでいたのだ。
だが、今ようやく残酷な真実に気づいた。彼は彼女の痛みを案じていたわけではない。
ただ、彼女のためにその手間をかける気がなかっただけなのだ。
千隼は電話を切ると、唯織が常備薬を入れている引き出しを迷わず開けた。
慣れた手つきで探し出したのは、一本の消炎剤の軟膏。かつて千隼がわざわざ海外から取り寄せた輸入品で、唯織自身、もったいなくて滅多に使えなかったものだった。
「私の薬を星奈に渡すの?」
唯織の声は消え入りそうだった。
「明日、新しいのを買ってくる」
千隼は振り返りもせず答えた。
「少し頭を冷やせ。すぐ戻るから」
彼は薬を手に階下へ降りていった。
唯織は窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から外を覗いた。
下の庭では、星奈が顔を上げ、千隼に耳元を委ねている。千隼の指先は驚くほど慎重で、そこには慈しむような優しさが湛えられていた。
星奈が何かを言うと、彼は微かに微笑んだ。
その笑顔を、唯織はもう何年も見ていなかった。
彼女はじっとその光景を見つめ続けた。涙が枯れ、瞳が乾ききって痛み出すまで。
やがて静かに身を翻すと、バッグの奥底からスマホを取り出した。ずっと登録したまま一度もかけたことのない番号を呼び出した。
三度のコールの後、相手が電話に出た。
「小林先生、浅井唯織です」
彼女の声は、恐ろしいほどに凪いでいた。
「以前お話しくださったC市での仕事の件ですが。まだ間に合いますか?」
第2話
電話の向こうで小林先生は一瞬だけ沈黙し、やがて温かくも確信に満ちた声で答えた。
「もちろんですとも、唯織さん。ようやく決心がついたのですね。ポストはずっと空けてあります。いつでも、遠慮なくいらっしゃい」
決心がついたのだろうか。唯織には分からなかった。
ただ、先ほど下の庭で繰り広げられた光景を目の当たりにした瞬間、心の中で何かがパキリと音を立てて壊れたことだけは、はっきりと分かった。
それはもう、二度と元には戻らない。
電話を切ると、唯織は冷たい床の上に力なく滑り落ちた。
小林先生は彼女の主治医だった。八年前、生死の境をさまよう状態で病院に運び込まれた彼女の背中は、焼傷面積の二割に及ぶ重度の熱傷に覆われていた。
傷口を洗浄し、壊死した組織を取り除く処置のたびに、生きたまま身を削がれるような地獄の苦しみが全身を突き抜けた。
小林先生はそんな彼女を支え、ことあるごとに外の世界へ踏み出すよう励まし続けてくれた。傷跡はいずれ薄くなる。人生を過去という名の檻に縛り付けてはいけないのだ、と。
「もう少しだけ待って。千隼が落ち着くまで。私が、もう少しマシになったら……」
彼女はそう自分に言い聞かせ続けてきた。
彼女はそっと、背中にある傷跡の縁をなぞった。
かつては、この傷こそが二人の愛の証であり、死に物狂いで愛する人を守り抜いた勲章なのだと自負していた。
だが今指先に触れるのは、氷のように冷たく硬い皮膚の感触だけ。その下には、とうの昔に膿み、腐り果てた想いが無残に横たわっている。
観光シーズンと天候の影響で、航空券は一週間後になった。
それでいい、と唯織は思った。この七日間で、丁寧にお別れをしよう。
千隼にではなく、一人の男に人生のすべてを預け、惨めに愛を乞うていた自分自身に対して。
スマホが再び光った。
千隼からのメッセージだ。
【薬は星奈に渡した。余計なことは考えず、早く寝ろ】
なんと簡潔で、上司が部下に出す指示のような事務的な文面だろう。
唯織は返信しなかった。
すでに深夜だが、眠気は来ない。彼女は物干しロープにかけてある服を取り込もうと、階下へ降りた。
庭に足を踏み入れた瞬間、隅の空き地から闇を切り裂くゴォッという不気味な音とともに、鮮烈な火柱が夜空へと燃え上がった。
キャンプファイヤーだ。
唯織の呼吸が一瞬止まり、巨大な恐怖が彼女を捕らえた。
彼女は悲鳴を上げ、無我夢中で後ずさった。そのままドア枠に背中を激しく叩きつけられ、古傷が弾けるような激痛が全身を駆け抜ける。
彼女の叫び声は、和やかな笑い声に満ちていた庭の空気を無残に引き裂いた。
火を囲み、星奈を主役として盛り立てていた千隼と友人たちが、一斉にこちらを振り返った。
千隼がすぐさま立ち上がり、駆け寄ってくる。
「唯織?どうして降りてきたんだ」
「なんで……火を点けたの?」
唯織の声は、自分でも制御できないほど小刻みに震えていた。膝の震えは止まらず、今にも崩れ落ちそうだ。
肌を舐める劫火の熱さ、鼻を突く肉の焼けるような焦げ臭い、そしてその後に見た両親の冷たい骸。抑え込んでいた恐怖の記憶が、火光とともに溢れ出してきた。
千隼が手を貸そうとしたが、彼女は反射的にそれを拒絶した。
差し出された彼の手は行き場を失い、気まずく宙を泳いだ。
「星奈がキャンプファイヤーを体験したいって言うからな。ちょうど奏翔たちも来たし、景気づけだ」
千隼は説明したが、その口調は淡々としており、単なる事実を述べているに過ぎなかった。
「お前が降りてくるとは思わなかった」
「ごめん、ごめん!」
星奈が小走りで駆け寄ってくる。その顔は申し訳なさそうに歪んでいた。
「全部私のせいだ。こんなに火を怖がるなんて知らなかったの……
せっかくみんなが集まったんだから、キャンプファイヤーをして盛り上がりたかっただけなの。怖がらせちゃって、本当にごめん」
彼女はそう言うと、火を消そうと駆け出した。
「今すぐ消すから!」
「いい。消さなくていい」
千隼がそれを遮った。
「せっかく点けたんだ。わざわざ消す必要なんてないだろ」
唯織は、じっと千隼の瞳を見つめた。
八年前、あの地獄のような炎がすべてを焼き尽くした後、集中治療室に横たわる自分を、目元を真っ赤に腫らして食い入るように見つめながら、「一生お前を守る」と誓った、あの瞳。
あの瞳に湛えられていた、胸を締め付けるような痛々しさは、偽りのない真実だった。
その後、このゲストハウスに移り住んだばかりの頃。
客の一人が夜にキャンプファイヤーをしたいと言い出した時、千隼は迷わず断った。「彼女が火を怖がるから」と。
あの時の庇護も、また本物だった。
だというのに今は、彼女が火に対して重度のトラウマを抱えていることを知りながら、その火光が彼女に皮膚の焼ける臭いや両親の死を想起させることを知りながら、星奈が「体験したい」と言っただけで、いとも簡単に禁を破ったのだ。
「……あなたが許可したのね?」
唯織は掠れた声で問うた。
千隼は視線を逸らした。
星奈が慌てて取りなす。
「唯織さん、よかったら一緒に遊ばない?火から少し離れていれば、大丈夫だよ」
「いいえ」
唯織は彼女の言葉を遮り、千隼の手を振り払った。
「皆さんで楽しんで」
唯織は階上へ戻った。背筋を真っ直ぐに伸ばしていたが、その一歩一歩は、まるで研ぎ澄まされた刃の上を歩いているかのようだった。
背後から、星奈の潜めた声が聞こえてくる。
「唯織さん、怒っちゃったかな?私がキャンプファイヤーなんて言い出したせいだよね……」
続いて、千隼の友人の無神経な慰めが聞こえた。
「星奈ちゃん、自分を責めることないよ。君のせいじゃないんだから。
唯織は少し臆病なだけさ。放っておけばすぐ機嫌も直るよ」
そして、千隼の低く抑えた声が響いた。
「気にするな。少し頭を冷やさせればいい」
唯織は部屋のドアを閉め、ドアに背を預けてゆっくりと床に崩れ落ちた。
窓の外では火が踊り、楽しげな笑い声が微かに届いてくる。
彼女は不意に思い出した。ずっと昔、満天の星空の下で、二人きりで小さな焚き火を囲んだことがあった。
まだ怪我を負う前、両親も健在だった頃。千隼は彼女の手を握り、薪のくべ方を教えてくれた。
火の光が彼の若々しい顔を照らし、その瞳の中には彼女の姿が映っていた。
後に、火は彼女からすべてを奪った。
そして今、彼は別の女の子のために、再びあの忌まわしい火を灯した。
唯織は重い体を引きずるようにして立ち上がり、鏡の前へと歩んだ。
彼女は背を向け、上着の裾をまくり上げた。
鏡の中に映し出されたのは、肩甲骨から腰にかけて醜く這いずり回る、凄惨な火傷の痕だった。
ひきつり、歪み、斑に変色した皮膚。それが彼女の背中に、拭い去れない絶望のように盤踞している。
これは彼女が愛のために支払った代償であり、この八年間の不安の根源でもあった。
だが今、この傷を見つめていると、不意に、ある思いが芽生えた。もはやこの傷跡は、一生自分を縛り付ける枷であってはならないのだと。
第3話
翌朝早く、階下から星奈の弾んだ笑い声と、荷物を整える騒がしい音が聞こえてきた。
階段を下りたところで、唯織は出発の準備を終えた彼らと鉢合わせる。
星奈は唯織を見るなり、パッと顔を輝かせた。
「唯織さん!一緒に行きましょうよ。ずっと部屋にこもってたら息が詰まっちゃう!」
唯織は反射的に断ろうとした。
背中の傷が痛み、昨日ドア枠にぶつけた膝にも違和感があった。
けれど、彼女が口を開くより早く、千隼が言葉を被せた。
「一緒に行こう。星奈が来てほしいって言ってるんだ。気晴らしだと思ってな」
それは、星奈の興を削がないための命令だった。
彼にとって、唯織の意志など最初からどうでもよかったのだ。重要なのは、星奈が楽しめるかどうか。ただそれだけ。
唯織は数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……分かった」
車内には、何とも言えない不協和音が漂っていた。
助手席に座った星奈は、道中ずっと興奮気味に質問を浴びせ、千隼は珍しく根気強く、その一つ一つに応じている。
窓際の後部座席で、唯織は流れる景色をただ黙って見つめていた。
かつて、助手席は彼女だけの特等席だった。空の雲を指さして「何に見える?」と尋ねれば、彼は笑って彼女の髪を撫で、「お前に似て、ちょっと抜けてるな」と答えてくれた。
だが今になって、千隼が道中、唯織にかけた言葉は、車を降りる際の一言だけだった。
「遅れずについてこい。具合が悪くなったら言え」
トレッキングが始まって間もなく、唯織は息が上がった。
長年の鬱屈とした生活と運動不足で、体力は底を突いている。険しい山道を進むにつれ、背中の古傷と膝の痛みが、容赦なく彼女を蝕んでいく。
気づけば、彼女は列の最後尾に取り残されていた。
誰も、振り返って彼女を待とうとはしなかった。
見知らぬ友人の一人が彼女を追い抜く際、社交辞令のように声をかけただけだ。
「唯織さん、頑張って」
千隼は当然のように先頭を歩き、星奈のために道を切り拓いている。
急斜面や足場の悪い場所では、ごく自然に星奈の手を取った。
「星奈、勝手に走るなよ」
大町が茶化すように笑う。
「じゃないと、千隼の目が釘付けになって、離れなくなっちゃうからな」
周囲から笑いが漏れる。
星奈は唯織をちらりと一瞥すると、大町に向かって「変なこと言わないで!」と拗ねたふりを見せた。
千隼はザックのベルトを調整するふりをして、聞こえていないかのように視線を落としたままだ。
唯織は足を止め、靴紐を結び直すふりをしてその場に屈み込んだ。けれど、指先が言うことを聞かずに震え、何度やり直しても結び目は完成しなかった。
ようやく、視界の開けた絶壁の展望台に到着した。
その時、唯織はすでに疲労困憊で、立っているのが精一杯だった。
汗が背中に滲み、衣類と古傷が擦れるたびに、火を噴くような灼熱の痛みが走る。
眼前に広がる絶景に、皆が次々と写真を撮る。
唯織は少し離れた場所で、風に乱れる髪を必死に押さえていた。
千隼がスマホを掲げる。そのレンズの先には、星奈の弾けるような笑顔があった。
二人の間に流れる、言葉を介さない阿吽の呼吸。それを、彼女はただ遠くから見つめることしかできなかった。
星奈がより良いアングルを探そうと、不用心に崖の縁へと数歩踏み出した。
「星奈、あまり端に寄るな!」
千隼が注意した、その瞬間だった。
事態は、音を立てて急転する。
星奈の足元の岩が不意に崩れ、彼女は短い悲鳴を上げ、仰け反るようにバランスを崩した。
「星奈!」
千隼の怒号が、吹き荒れる風を切り裂いた。
全員が立ち尽くす中、彼は獲物を狙う豹さながらの反応で、一瞬の躊躇もなく飛び出した。
間一髪のところで星奈の腕を掴んで引き寄せ、その身を盾にして彼女を強く抱きしめる。
そのまま、慣性に逆らわず安全な内側へと転がり込んだ。
だが、星奈が踏み外した斜面の岩が、彼らの激しい動きによって崩れ、礫となって転がり落ちた。
強風に煽られ、一歩後ろで立ち尽くしていた唯織は、逃げる間もなかった。容赦なく振り下ろされた一枚の岩が、彼女の膝をまともに強打する。
「あ……っ!」
鈍い衝撃と共に、目の前が真っ白になるほどの激痛が走った。膝の力が抜け、バランスを崩した彼女の体は、より切り立った急斜面へと滑落していった。
第4話
「星奈!大丈夫か? 怪我はないか!」
頭上から千隼の焦燥に満ちた声が降ってくる。彼は未だ恐怖に震える星奈をきつく抱きしめ、食い入るように彼女の状況を確認していた。
友人たちもすぐさま駆け寄り、口々に星奈を案じる。
一方、唯織は剥き出しの荒い斜面を数メートル滑落し、せり出した岩の角に辛うじて引っかかった。
鋭い石に切り裂かれた腕や足には、いくつも生々しい裂傷が走り、ヒリヒリとした熱い痛みが全身を駆け抜ける。
だが、何よりも耐え難いのは、岩に強打した膝だ。突き刺すような激痛が走り、さらには激しい摩擦によって背中の古傷が、再び火を噴くような灼熱に包まれていた。
視界がチカチカと暗転する。唯織は耐えきれず、小さな呻き声を漏らした。
数秒が経ち、ようやく誰かが悲鳴を上げた。
「唯織!唯織が下に落ちたぞ!」
千隼が弾かれたように顔を上げた。斜面の下、無残にうずくまり、ボロボロになった唯織の姿が、ようやく彼の目に映る。
彼の表情を掠めたのは、驚愕、そしてありありとした後悔だった。今の今まで、唯織がそこにいたことさえ、彼は完全に忘れていたのだ。
だが、その後悔はすぐに、重苦しく、どこか疲れ切った「責任感」に取って代わられた。
彼は星奈をそっと地面に下ろし、周囲に手短に告げる。
「星奈を頼む」
千隼が助けに降りてきた時、唯織は痛みで意識が飛びかけていた。
彼はプロフェッショナルな手つきで彼女の膝や足首を確認した。
「動けるか?」
彼の声には、焦りも慈しみもなかった。ただ目の前の問題を片付けようとする、淡々とした響き。
「骨は大丈夫そうだ。靭帯の捻挫と擦り傷だろう。背負うから、捕まれ」
唯織は、至近距離にある彼の顔を見つめた。八年間愛し続け、一生を添い遂げると信じて疑わなかったあの顔。
千隼の額には汗が浮いている。星奈を救った時の緊張のせいか、あるいは急いで斜面を降りてきたせいか。
彼が近づいた瞬間、唯織の鼻腔を星奈の残り香と思われる、甘く爽やかな香水の香りが突いた。
それが自分自身の傷口から漂う生臭い血の匂いと混ざり合い、眩暈を覚えるほどの吐き気を催させる。
唯織は何も言わず、彼に抱え上げられるまま、その背中に身を預けた。
広く、逞しい彼の背中。かつては、世界で一番安らげる場所だと思っていた。だが今はただ冷たく、強張った塊にしか感じられない。
彼の足取りは確かだったが、一歩ごとに伝わる筋肉の緊張は、彼女を案じる慈しみからくるものではなかった。
それは、逃れられない重荷を背負わされた者が抱く、忌々しいまでの「負担」そのものだった。
唯織は、残酷な現実を突きつけられていた。あの刹那の窮地において、彼の本能も、心も、その身のすべては星奈へと捧げられていた。
自分に向けられているのは、事が終わった後に果たさなければならない、事務的な「補償」という名の義務の残滓に過ぎないのだ。
平坦な場所まで戻ると、星奈が真っ赤な目で駆け寄ってきた。
「唯織さん!血が……ごめんなさい、全部私のせい……」
彼女は青ざめ、今にも泣き出しそうだった。
千隼は唯織を慎重に下ろすと、星奈を宥めるように穏やかな声を出した。
「自分を責めるな。これはただの事故だ」
そして、血に染まった唯織の腕に視線を移すと、「……応急処置を済ませたら、すぐに下山して病院へ行くぞ」と短く告げた。
下山の道中、唯織は友人たちの背を借り、交代で運ばれた。
星奈の手にも擦り傷があった。千隼は手早く手当てを済ませると、その後はほとんどの時間、星奈の傍らに寄り添って低い声で励まし続けていた。
友人の背に揺られながら、唯織はただ黙って、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。
膝と背中の痛みが波のように押し寄せる。けれど、心の奥底に広がる寒さに比べれば、そんな痛みなど無に等しかった。
八年前の、あの火災を思い出す。
彼を突き飛ばしたあの瞬間。振り返った彼の顔に浮かんでいたのも、今と同じ驚愕と、そしてありありとした後悔だった。
その後、彼を支配したのは、底知れない罪悪感と、一生を懸けた誓約。
そうか。あの日からずっと、私は彼にとって、ただ背負い続けなければならない「責任」という名の重荷に過ぎなかったのだ。
病院の夜間救急は混み合っていた。
星奈の傷はごく軽微なもので、看護師によってすぐに消毒と絆創膏の処置が済まされた。
一方、唯織の傷は深く、傷口を洗浄し、縫い合わせる処置が必要だった。
千隼は、星奈の処置がすべて終わるまで彼女に付き添い、落ち着くのを見届けてから、ようやく唯織のもとへと足を向けた。
医師が唯織の膝の深い傷口を洗浄している最中、消毒液の強烈なしみるような刺激に、彼女の体はガタガタと震えた。
「この子がショックを受けて、情緒が不安定なんです。先生、なるべく急いでいただけませんか」
千隼が医師にそう告げるのが聞こえた。
医師は唯織をちらりと見たが、何も言わずに処置の手早さを上げた。
背中の古傷は、激しい摩擦と感情の昂ぶりのせいで赤く腫れ上がり、酷い炎症を起こしていた。失血と精神的なショックも重なり、真夜中、唯織は激しい高熱にうなされた。
朦朧とする意識の中で、彼女は両親を亡くしたあの夜の記憶に引き戻されていた。手術室の前、沈み込む彼女の手を強く握り、千隼はこう言った。「怖がるな、唯織。俺がいる」
そうか。「俺がいる」の意味は、「愛している」ではなく、「責任を取る」だったのだ。
すべてが燃え尽き、ただの灰に帰すその時まで。
第5話
唯織は目が覚めたとき、喉が焼けるように乾いていた。ベッド脇の椅子では、千隼が座ったまま眠りに落ちていた。
顎には青々とした無精髭が浮き、目の下にはうっすらと隈ができている。一晩中、ここで自分を見守っていたのだろう。
頑なだった心の片隅が、わずかに揺らいだ。
だがその時、千隼が目を覚ました。彼は眉間を揉みながら、彼女へと視線を向けた。
「目が覚めたか?気分はどうだ?」
「……だいぶ、マシになったわ」
唯織の声は掠れていた。
「そうか、よかった」
千隼は立ち上がり、強張った肩を動かした。
「星奈がお前のことを心配してな。この数日、彼女もずっと一緒に付き添っていたんだ」
その瞬間、唯織の胸に灯りかけた微かな温もりは、一瞬で凍りついた。
「千隼」
自分の口からこぼれたのは、驚くほど温度のない、うつろな声だった。
「私たち、別れよう」
千隼の動きが止まった。眉間に深い皺が刻まれ、顔には見慣れた、苛立ちの混じった疲労感が浮かぶ。
「……唯織、いい加減にしろ。まだ熱があるんだ、今は大人しく休んでいろ」
「わがままを言っているわけじゃない」
唯織は必死に声を平坦に保とうとした。
「本気なの。もう、終わりにしましょう」
千隼は彼女を見つめた。その瞳には、今の唯織には読み解けない複雑な感情が渦巻いている。
「またその言葉か。八年間、何かあるたびに別れると言い出す。唯織、いい加減大人になれないのか?
星奈はまだ十八歳だ。分別のつかない子供なんだよ。その子に譲って、少しは俺の立場も考えてくれないか。俺だって、もう限界なんだ」
唯織は、思わず笑い出しそうになった。八年間愛し続け、残りの人生を託せると信じていた男を見つめる。
自分はこの男のことを何も分かっていなかったのではないか。そんな気がした。
「私は二十八歳よ、千隼」
自分の声が、驚くほど凪いでいることに唯織は気づいた。
「八年という歳月をかけて、ようやく思い知らされたわ。あなたの目には、私はずっと物分かりの悪いお荷物として映っていたのね。
『分別のつかない子供相手』に意地を張って、あなたを困らせるだけの存在に」
彼は、彼女がなぜ別れを切り出したのか、その理由すら問おうとはしない。ただ星奈への嫉妬や理不尽な八つ当たりだと、最初から決めつけている。
付き合い始めたばかりの頃、彼女が少し拗ねて別れると口にすると、彼は黙って彼女を見つめ、優しく抱きしめて「バカなことを言うな」と笑ってくれた。
両親を失い、消えない傷を負い、彼女が臆病になった頃。不安に押し潰され、「私を見捨てるの?」と縋るように問えば、彼はただ沈黙し、「考えすぎだ」と短く宥めた。
そしていつしか、彼女は「別れ」という言葉を口にすることさえ恐れるようになった。それが現実になるのが怖かったから。
けれど、ようやく覚悟を決めて口にした今、彼はそれを単なる「機嫌取りのわがまま」だと思っている。
「ただ、疲れただけよ、千隼」
彼女は目を閉じ、もう彼を見ようとはしなかった。
「あなたも、疲れているんでしょ?」
病室のドアが静かに開き、星奈が顔を覗かせた。目は赤く、泣き腫らしたようだ。
唯織が起きているのに気づくと、彼女は消え入りそうな声で言った。
「唯織さん、具合はどう? あの、入ってもいいかな……」
千隼の顔に張り付いていた苛立ちは、星奈の姿を認めた瞬間に、まるで霧が晴れるように和らいだ。
彼は腰を上げ、「入りなよ。ちょうどお湯を汲んでくるところだったんだ」と声をかけた。
彼は魔法瓶を手に取り、病室を出て行った。
病室には彼女たち二人だけが残っていた。
星奈はベッドサイドまで歩み寄ると、持ってきたフルーツの詰め合わせの箱をサイドテーブルにそっと置いた。
包帯に巻かれた唯織の手に視線を落とし、静かな声で言った。
「唯織さん、ごめんなさい。私のせいで怪我をさせてしまって」
星奈は椅子に腰を下ろした。その声は囁くように低かったが、研ぎ澄まされた刃の切っ先のように鋭く、唯織の心をえぐった。
「分かってるよ。私のこと、嫌いなんでしょ」
唯織は目を開けて、彼女を見た。
十八歳の無垢な瞳。だがその奥に、どれほどの計算が隠されているか、今の唯織には分かっていた。
「嫌ってなんていないわ」
唯織の声は、凪いでいた。
「ただ、哀れだと思っているだけ」
星奈は一瞬呆然としていた。
唯織は続けて言った。
「十八歳。人生で一番輝いているはずの時期を、彼女がいる男への打算に費やすなんて。星奈、疲れないの?」
星奈は数秒の間、唯織をじっと凝視していたが、やがてふっと、くぐもった笑い声を漏らした。彼女は果物ナイフを手に取ってリンゴを剥き始めた。
「打算?
唯織さん、信じようと信じまいと勝手だけど、私は一度も裏で汚い真似なんてしてないし、二人の仲を裂くような立ち回りもしたことはないわ」
彼女はふっと顔を上げ、その視線で唯織を突き刺した。
「自分を高く見積もりすぎだよ。私のことも見くびりすぎ。もし二人の絆が本当に揺るぎないものだったら、私が入る隙なんてどこにもなかったはずでしょ」
ナイフの先で、リンゴの皮が螺旋状に繋がったまま落ちていく。
「最初はただの卒業旅行のつもりだった。ついでに唯織さんに会って、千隼の彼女がどんな人か見てみたかっただけ」
星奈の声が少し和らいだ。
「あなたたちの仲を壊すつもりなんてなかった。でも、この一ヶ月見てきて分かったの。彼はあなたと一緒にいても全然楽しそうじゃない」
唯織の指先が、シーツを固く握りしめた。
「あなたといる時の彼は、私の家にいる時とは別人みたい。あなたと向き合っている時の彼は、ちっともリラックスしてないし、楽しそうでもない。
遊びに連れて行ってってせがんだのは、彼を少しでも解放して、笑わせてあげたかったから。それのどこがいけないの?」
リンゴを剥き終えると、星奈は手際よく実を切り分け始めた。
「結局のところ、あなたたちの仲はとっくに限界だったのよ。私の存在なんて、その綻びをあぶり出した触媒に過ぎないわ。
あなたの心の中に募った疑念や恨み……それに、いつまでも執着し続けるあの呪縛のような過去が彼を窒息させて、外の世界へと追いやったのよ。
私が今身を引いたって、あなたたちの仲はもう元には戻れない。だったら、どうして私が頑張っちゃいけないの?泣きながらこの旅を終えるなんて、絶対に嫌だもん」
彼女は身を乗り出し、さらに声を潜めた。一言一言が、残酷なほど明瞭に唯織の鼓膜を突く。
「唯織さん、私を言い訳にするのはもうやめなよ。二人の愛が破綻した責任を、たまたま居合わせただけの私に押し付けないでくれる?」
「黙って……」
怒りと虚弱さで、唯織の声は震えた。
「本当のことを聞くのが怖いの?」
星奈は畳みかける。
「自分に聞いてみなよ。この八年、あなたは幸せだった?彼のことを幸せにできた?
あなたたちの間に、あの重苦しい過去以外に何が残ってるの?あなた、彼を道連れにして泥沼に沈んでいくつもり?」
「出て行って!」
唯織は枕元のグラスを掴み、ありったけの力で投げつけた。
グラスは星奈の肩をかすめて壁に当たり、激しい音を立てて砕け散った。
ほぼ同時にドアが開き、千隼が立ち尽くしていた。床に散らばる破片と、涙を浮かべた星奈。
彼の表情が一瞬で険しくなった。
第6話
「唯織!」
千隼の声には怒りが混じっていた。
「いい加減にしろ!ここまで騒ぎ立てなきゃ気が済まないのか!」
彼は星奈に向き直ると、低く抑えた声で告げた。
「星奈、先に出てろ。ドアの外で待っててくれ」
星奈は心配そうに唯織を一瞥したが、素直に頷いて外へ出た。閉まるドアの音が、静かに響いた。
病室に死んだような静寂が訪れる。
千隼は窓辺に歩み寄り、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
唯織の前で彼が煙草を吸うことは、これまでほとんどなかった。
ゆらりと立ち上る紫煙が、彼の横顔をぼやけさせる。
彼は一口深く吸い込んでから、ようやく口を開いた。低く掠れたその声には、澱みのような疲労がまとわりついていた。
「……唯織、話をしよう」
ベッドの背もたれに体を預けた唯織は、指先から芯まで凍りついていくような感覚に囚われていた。
「この八年、俺はお前を世話し、責任を果たしてきた。せめて平穏に暮らしていけると思っていた」
彼は彼女を見ようともせず、指先で灰を落とした。
「だが今のお前は、俺を疲れさせるだけだ。身体的にも、精神的にもな」
彼は一度言葉を切り、何かを決意するように続けた。
「お前が俺のために怪我をしたことも、お前の両親のことも……片時も忘れたことはない。八年間、ずっと背負い続けてきた。
だが、それを盾にしていつまで俺を縛り付けるつもりだ?星奈のこともそうだ。なぜ、もう少し寛大になれない?
彼女はまだ子供だし、十分に悔やんでいる。これ以上、彼女を追い詰めて何になるんだ」
唯織の指先が手のひらに深く食い込んだが、痛みは感じなかった。
彼女は目の前の男を見つめる。この命を削るようにして愛し、守り抜いてきたはずの男。
その彼がいま、最も無慈悲な言葉を刃にして、彼女の八年間の愛も、犠牲も、耐え難い痛みも、そのすべてを、自分を縛り付ける「呪縛」へと貶めていく。
「星奈といると、心が軽くなるんだ。俺を笑わせてくれるし、彼女の両親も……俺に『家族の温もり』というものを思い出させてくれた」
千隼の声は次第に低くなり、そこには隠しきれない渇望と苦い後悔が滲んでいた。
「それなのに、お前と俺の間には、重苦しい責任と過去の暗影以外、一体何が残っているっていうんだ?
八年だぞ、唯織。俺なりに……精一杯やってきた。でも、俺だって一人の人間に過ぎない。息がしたいんだ。光が欲しいんだよ」
光が欲しい。
そうか、彼にとって星奈は「光」で、私は彼を暗い泥沼に引きずり込む「闇」でしかないのだ。
唯織の体は、抗いようもなく震え始めた。それは怒りなどではなく、足元の世界が音を立てて崩落し、底なしの虚無へと堕ちていくような、おぞましい浮遊感だった。
彼のために燃やした青春も、失った両親も、この体に刻まれた醜い傷跡も、夜な夜な彼女を苛む痛みも。彼にとってはすべて、窒息しそうなほどの「重荷」に過ぎなかった。
彼女は顔を上げ、残された力を振り絞って、かつて愛してやまなかったその瞳を直視した。
その声は恐ろしいほどに凪いでおり、そこには奇妙なほど空虚な響きが混じっていた。
「千隼……この八年、あなたは一度でも私を愛したことがあった?責任でも罪悪感でもなく、ただ一瞬でもいい。心から私を求めたことがあったの?」
その問いを、彼女は幾度となく自分に投げかけてきた。けれど、彼に直接問う勇気だけは持てなかった。
拒絶という答えが返ってくるのが、死ぬほど怖かったから。けれど、今はもう怖くない。
失うものなんて、もう何一つ残っていないのだから。
千隼は長い沈黙に沈んだ。唯織が、このまま答えは得られないのだろうと諦めかけた、その時だった。
彼は視線を窓の外へと逸らし、溜息のような掠れた声で言った。
「……かつてはあったよ。でも今は……責任の方が重いんだ。結婚はするし、一生面倒も見る。それが俺の負うべき義務だと思っている」
彼は一呼吸置いて、最後の一撃を放った。
「だがそれ以上のことは……唯織、もう求めないでくれ」
負うべき義務。
その言葉が、研ぎ澄まされた刃となって、唯織の剥き出しの心臓を無慈悲にえぐり取った。
命そのものだった愛も、共に困難を乗り越えてきたという自負も、青春を燃やして守り抜いた絆も。すべては死ぬまで返し続けなければならない「負債」に過ぎなかった。
彼女の抱えるすべての苦しみも、依存も、臆病なまでの執着も。今の彼の目には、それらすべてが「取立て」の姿に映っていたのだ。
なんて滑稽なんだろう。
唯織の口から、乾いた笑いが漏れた。体が震えるほど笑い、涙がとめどなく溢れ出す。
「……わかったわ」
彼女の声は、恐ろしいほどに凪いでいた。
「よく、わかった」
千隼は彼女を一瞥した。その瞳には、申し訳なさと疲労が浮かんでいたが、愛の色は微塵もなかった。
彼は背を向け、部屋を出ようとする。
「ゆっくり休め。夜、飯を買ってくる」
ドアが閉まり、静寂が戻る。
唯織はベッドに座ったまま、長いあいだ動けなかった。
陽が落ち、部屋が次第に闇に包まれていく。
彼女は明かりを灯すこともせず、ただ静かに、その暗闇に身を委ねた。
背中の傷が疼き、膝の痛みも引かない。だが、そんな肉体の苦しみなど、今の心の中心にぽっかりと穿たれた空虚に比べれば、無に等しかった。
それは、自分という存在を繋ぎ止めていた全ての拠り所が消え失せ、ただ暗闇のなかに放り出されたような、ひどく寒々しい虚脱感だった。
八年の歳月。八年の想い。八年の執着。そのすべてが、この一瞬で惨めな笑い話に変わった。
星奈の言う通りだった。
私は負けた。完膚なきまでに。星奈に負けたのではない。時間に、現実に……そして、自分を愛さなくなった男に負けたのだ。
第7話
千隼が去った後、唯織は病室のベッドに座り、最後の残光が夕闇に飲み込まれていくのをただ眺めていた。
涙は出なかった。ただ、骨の髄から染み出すような、ひどい疲労感だけがあった。
それから三日間、病室は異様なほど静まり返っていた。
星奈は二度と姿を見せなかった。
千隼は毎日欠かさず見舞いに訪れた。その様子は、以前よりもずっと「献身的」でさえあった。
彼は消化に良い栄養食を運び、傷の痛みはないか、夜は付き添いが必要かと細かく尋ねた。
その振る舞いには、どこか犯した過ちを埋め合わせようとするような、危うい慎重さが漂っていた。まるで、最後の大役を全うしようとする義務感のように。
唯織は運ばれてくる食事や問いかけには淡々と応じたが、彼が差し出す手や、深夜の付き添いだけは断固として拒んだ。
そのあまりに凪いだ態度は、千隼を困惑させた。それどころか、彼は「唯織はようやく吹っ切れて、もう騒ぎ立てることもないだろう」という都合のいい錯覚にすり替えた。
三日目の午後、医師から退院の許可が下りた。あとは定期的に薬を塗り替え、静養すればいい。
千隼が車で迎えに来たが、道中の車内は重苦しい沈黙が支配していた。
ゲストハウスに戻ると、唯織は目も合わせず真っ直ぐに階段を上がり、千隼は何かを言いよどみながら、その背中を追った。
ドアのところで彼は立ち止まり、唯織が散らばった日用品を一つ一つ片付ける背中をじっと見つめていた。不意に、彼は乾いた声で切り出した。
「唯織、具合がよくなったら……日を改めて、籍を入れに行こう」
それは、大きな決意のようでもあり、長く放置していた宿題をようやく片付ける事務的な宣言のようでもあった。
「一生面倒を見ると約束した。それは守る。これからは二人で、穏やかに暮らしていこう」
彼は、これが精一杯の譲歩であり、責任を取るための誓いなのだと思っていた。
彼女をなだめ、自分の心の中の後ろめたさに終止符を打つための、これ以上ない「正解」だと信じて疑わなかった。
服を畳んでいた唯織の手が、一瞬止まった。だが、振り返ることはない。
「好きにすれば」
感情の欠片もないその声は、まるで明日の天気でも話しているかのようだった。
その一言を聞いて、千隼の胸に淀んでいた微かな不安が霧散した。
やっぱり唯織は、この約束を求めていたんだ。たとえそれが「責任」という形であっても。
彼は安堵し、声のトーンをわずかに上げた。
「……それじゃあ、少し休んで。夜にまた来るから」
ドアが閉まる。
唯織は動きを止め、何年も過ごしたこの部屋を見渡した。
この部屋の隅々にまで、過ぎ去った日々の気配と、彼女が薄氷を踏む思いで守り続けてきた「家」という名の幻影がこびりついている。
けれど今の彼女にとって、そこはあまりにも余所余所しく、ただ息を詰まらせるだけの空間に成り下がっていた。
夜の帳が降り、唯織は荷造りを始めた。
持ち物は少なかった。小ぶりなスーツケース一つに、彼女のすべてが収まった。数着の古い服と両親の遺影、身分証明書及びキャッシュカード。
千隼に買い与えられた服も、ジュエリーも、化粧品も。彼女は一つとして手に取らなかった。
それらはかつての「贈り物」であり、彼女を縛り付ける「印」でもあった。今の彼女には、もう何の関係もないものだ。
深夜、彼女はスーツケースを引き、静かに部屋のドアを開けた。
二階のバルコニーを通りかかったその時、下の庭から押し殺した話し声が微かに聞こえてきた。
聞くつもりはなかった。だが、静寂に満ちた夜の空気は、その声をあまりにも明瞭に運んでくる。
「本当に……結婚しちゃうの?」
星奈の声だった。
「ああ」
千隼の声は低く、重い決意に満ちていた。
「俺と唯織は、結婚する」
堪えきれなくなった、細く震える啜り泣きが漏れ、その後に掠れたような溜息が重なった。
「千隼、どうして。どうしてあなたには……彼女がいたの?」
それは詰問でも執着でもなく、ただ理不尽な運命に戸惑う子供のような、純粋な悲しみだった。
まるで、答えのない問いを空に投げかけているかのように。
数秒の静寂。
やがて、千隼のかすかな溜息が聞こえた。彼は星奈の頭にそっと手を置くと、優しくて、残酷なほど慈しみに満ちた手つきでその髪を撫でた。
「……すまない」
彼の口から出たのは、その一言だけだった。
階下から、星奈の押し殺した泣き声が漏れてくる。
階段の影に立ち尽くす唯織の手の中で、スーツケースのハンドルが氷のように冷たかった。
彼女はもう、足を止めることはなかった。
音を立てぬよう慎重に階段を下り、静まり返った庭を横切って、ゲストハウスの重い扉を押し開ける。そのまま、夜の中へと溶け込んでいった。
一度も、振り返ることはなかった。
空港の朝は、肌を刺すように冷たかった。
唯織は待合ロビーのベンチに座り、窓の外の空がゆっくりと白んでいくのを眺めていた。
早く着きすぎた。出発まで、まだ三時間もある。
背中の傷がじくじくと疼き、膝の腫れも熱を持って痛む。けれど、心は驚くほど凪いでいた。
それは感情が麻痺しているのではなく……すべてが、終わるべき形に収まった後の、純粋な空白だった。
アナウンスが流れ、搭乗手続きの開始を告げる。
唯織は立ち上がり、スーツケースを引いてカウンターへと向かった。身分証明書を差し出す。
スタッフが端末を操作し、やがて怪訝そうに眉を寄せた。
「お客様。申し訳ございませんが、こちらの航空券は既にキャンセル手続きが完了しているようです」