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君の知らない愛の跡
高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。 同窓会の席、...
Chương (1)
第1章
高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。
同窓会の席、湊人は十人目となる現在の恋人を連れて現れ、私たち一人ひとりに招待状を配り歩く。
周囲ははやし立て、ニヤニヤしながら私、佐藤夏海(さとう なつみ)に目配せを送った。
私は胸を締め付けられるような痛みを感じながらも、毅然とした態度で立ち上がり、彼らを祝福する。
湊人は鼻で笑った。「俺の結婚式当日、お前の口から直々に祝いの言葉を聞かせてもらいたいもんだな」
私は微笑んでそれに応じたが、背を向けた瞬間に、バッグの中の診断書をそっと指先でなぞった。
来月の二十日か。
どうやら、そこまで私の命は持ちそうにない。
第1話
高校時代、浅井湊人(あさい みなと)を振ってからというもの、彼は絶え間なく恋人を替え続け、その数は九人にものぼっていた。
同窓会の席、湊人は十人目となる現在の恋人を連れて現れ、私たち一人ひとりに招待状を配り歩く。
周囲ははやし立て、ニヤニヤしながら私、佐藤夏海(さとう なつみ)に目配せを送った。
私は胸を締め付けられるような痛みを感じながらも、毅然とした態度で立ち上がり、彼らを祝福する。
湊人は鼻で笑った。「俺の結婚式当日、お前の口から直々に祝いの言葉を聞かせてもらいたいもんだな」
私は微笑んでそれに応じたが、背を向けた瞬間に、バッグの中の診断書をそっと指先でなぞった。
来月の二十日か。
どうやら、そこまで私の命は持ちそうにない。
……
個室のドアが勢いよく開いた。
私は無意識に顔を上げる。
六年という歳月は、学生時代特有の青さを湊人から完全に削ぎ落としていた。仕立てのいい黒のスーツが、その広い肩幅と長い足をいっそう際立たせ、立ち姿は以前よりもずっと凛々しくなっている。
けれど、かつて私を優しく包み込んでくれたあの微笑みはどこにもなく、今のその顔には、ただ凍てつくような冷徹さだけが宿っていた。
彼の隣には、一人の女性が寄り添っている。
室内が一瞬の静寂に包まれたのも束の間、直後、それまでを遥かに凌ぐ喧騒が沸き起こった。
「よっ、湊人様のお出ましだ!遅刻したんだから、まずは駆けつけ三杯いっとけよ!」
「湊人、隣の美人は誰だよ。紹介してくれよ」
湊人は何も答えず、ただ視線を私に固定し、射抜くように釘付けにした。
対照的に、隣の女性は屈託のない笑みを浮かべる。大輪の薔薇のように華やかで、自信に満ちた笑顔だった。
「皆さん、初めまして。森下莉奈(もりした りな)だよ。
湊人の婚約者なの」
婚約者。
コップを握る私の手が、自分でも気づかないほど微かに震えた。
莉奈はそう言い終えると、バッグから金の箔押しが施された豪華な招待状を取り出し、にこやかに配り歩く。
「来月の二十日、湊人と結婚することになったんだ。みんな、絶対に来てね!」
私は目を伏せ、チクリとした胸の痛みを感じた。鏡を見なくても、今の自分の顔が死人のように青白いことは分かっている。
先週、病院から戻ったばかりだ。
主治医からは、長くても一ヶ月の命だと告げられた。
他の誰かにとっての一ヶ月は、盛大な結婚式を準備し、幸福な未来へ向かうための時間。
けれど私にとっての一ヶ月は、定められた死を待つための時間でしかない。
胸に馴染みのある圧迫感がこみ上げ、喉の奥に鉄錆のような生臭い味が広がった。
私は必死にコップを握りしめ、口元までせり上がってきた血を、強引に飲み下す。
今回の集まりには、本当は来るつもりはなかった。
親友の羽田真由(はだ まゆ)が電話で「夏海、おいでよ。湊人も来るから。
……これが湊人に会える最後のチャンスかもしれないと思って、会いにきなよ」と誘った。
最後のチャンスか。
そうだ、今会わなければ、もう二度と……
しかし、この「最後のチャンス」がこれほど残酷なものになるとは思わなかった。
私と湊人にも、穏やかで幸せな時間があった。
高校二年の頃、彼は誰もが憧れる秀才で、私はただの目立たない普通の女子生徒だった。
放課後の居残り勉強中、彼は広い校舎をわざわざ横切って、私に温かいココアを差し入れてくれた。
体育の授業でバスケットボールが当たった時は、周囲の目も気にせず、慌てて私をお姫様抱っこして保健室まで走った。
冬のグラウンドでは、私の冷え切った手を自分のコートのポケットに入れ、温かい掌で包み込んでくれた。
「夏海、ずっと一緒にいよう」
私はその言葉を信じていた。母が机の引き出しから、彼からのラブレターを見つけるまでは。
母は初めて私に激昂し、手紙をズタズタに引き裂いて警告した。「夏海、自分が何をしてるか分かってるの?受験も近いっていうのに、学生の分際で色恋沙汰なんて絶対に許しない!」
生まれて初めて母に反抗し、大喧嘩の末に荷物をまとめて家を飛び出した。
学校の向かいにある小さなビジネスホテルで一晩を過ごした。
翌日、母が私を見つけ出した。
母は叱ることもせず、ただ目を真っ赤にして、一通の診断書を私に突きつけた。
「先天性心疾患。
医師は、二十六歳までは生きられないと言っているわ」
母は私を抱きしめ、張り裂けんばかりの声で泣いた。
「お母さんが、どれほど多くのお医者さんに縋ってきたと思っているの……でも、結局は全部、無駄だった。
夏海、あなたは恋をしてはいけないの。誰かの人生を台無しにするのも、いつかあなたが病気を理由に捨てられる姿を見るのも、お母さんには耐えられない……」
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
ようやく理解した。なぜ幼い頃から激しい運動を禁じられてきたのか。なぜいつも私だけが病弱だったのか。そして、なぜ母がいつも私を見ては、あんなにも深く溜息をついていたのか。
私の寿命は、最初から決まっていたのだ。
いつも待ち合わせていた大きな木の下で、私は湊人に別れを告げた。
彼は呆然とした顔で理由を尋ねた。
星を散りばめたような彼の瞳を見つめると、医師の宣告と母の涙が脳裏をよぎり、心臓を直接刃物で抉られるような痛みを感じた。
私は、ありったけの酷い言葉を彼に投げつけた。
「湊人、もう飽きちゃったの。
あなたと一緒にいても退屈。ただ、学年一の秀才と付き合うのがどんな感じか、ちょっと好奇心で試してみたかっただけ。
もう終わりにしましょう」
一言一言が、彼の心を、そして私の心さえも、容赦なく切り裂いていく。
湊人の瞳から、光が少しずつ、確実に消えていった。
「夏海」彼は歯を食いしばり、一文字ずつ噛みしめるように言った。「お前、大したもんだよ」
その日から、湊人は何かに取り憑かれたように次から次へと恋人を替え続けた。
別れてから数ヶ月もしないうちに一人目の彼女ができ、それからの大学四年間で、彼は九人もの女を乗り換えてきた。
その一つひとつの恋は、ことごとくが周囲を騒がせるほど派手に噂になった。
分かっていた。彼はわざとやっているのだ。
そうすることで、私に復讐しているのだと。
そして今、彼は十人目の、本物の婚約者を連れて招待状を渡しに来た。
私は、自分への報いがついに訪れたのだと感じた。
第2話
招待状が、ひらひらと舞い落ちる花びらのように一人ひとりの手元へと配られていく。
最後の一通が、私の手元に届けられた。
眩いほどに煌めく黄金の箔押しが、目を逸らしたくなるほど残酷に私の視界を刺し貫く。
隣に座る真由が、心配そうに私の手を握りしめた。
彼女の掌は驚くほど冷たく、私の手よりも凍えているように感じられた。
私は大丈夫だと伝えるように、彼女にそっと微笑み返す。
その時、耳障りなほど甘ったるい声が響いた。
「ねえ、ずっと気になっていたことがあって」
莉奈は手にしたワイングラスを軽く揺らし、楽しげに湊人を見つめている。
「湊人、高校時代に初恋の人がいたって聞いたわ。すごく大事にしていたのに、最後は彼女に振られたって……それって本当なの?」
彼女の声は決して大きくなかったが、個室の中は一瞬で水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、まるで合図でもあったかのように一斉に私へと注がれる。
コップを握る私の指先に、いっそう力がこもった。
真由が勢いよく立ち上がった。「莉奈さん、済んだ話を掘り返してどうするのよ。ほら、せっかくの料理が冷めちゃう、食べて食べて!」
けれど、莉奈は聞こえないふりをして、グラスを手にヒールの音をカツカツと響かせながら、一歩ずつ私の方へと歩み寄ってきた。
私の前で立ち止まった彼女は、値踏みするような視線で居丈高に私を見下ろす。
「夏海よね?湊人から聞いたことがあるわ。
この一杯、あなたに捧げるわね。
あの時、彼を振ってくれてありがとう。おかげで私、こんなに素敵な人を独り占めできたんだもの」
その言葉が放たれた瞬間、会場に大きなどよめきが広がった。
私の心臓は見えない手に握りつぶされたかのように、呼吸がうまくできなくなる。
無邪気さを装いながら、剥き出しの敵意を向けてくる彼女の瞳。
私はそれを真っ向から見据え、ゆっくりとコップを持ち上げた。
「おめでとう……」
泣き出しそうな顔を笑顔で誤魔化し、コップの中の水を一気に飲み干した。
隅の席で、酒の勢いを得たある同級生が茶化すように口を開いた。
「湊人はこれまで九人も女を取り替えてきたんだぜ。莉奈さん、怖くないのか?今回もただの遊びだったらってさ」
それは、その場にいる全員が喉元まで出かかっていた疑問だった。
再び沈黙が流れる。
誰もが莉奈の答えを待った。
私も、例外ではない。
しかし莉奈は怒るどころか、口元を押さえて笑った。
「皆さんは分かっていないわ」
彼女は湊人のもとへ戻り、熱烈な眼差しを彼に送る。
「今の湊人は、私に一途なんだから」
彼女は自慢げに続けた。「彼は毎日、私のために手料理を振る舞ってくれるのよ」
その一言に、周囲は一瞬にして静まり返り、次の瞬間、誰かが息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「それにね」彼女は一度言葉を切ると、会場全体を見渡すように視線を走らせた。「彼がどうしてあんなに頻繁に恋人を替えていたか、皆さんは知ってる?」
答えを待つまでもなく、彼女は陶酔したような面持ちで独り言のように語り続ける。
「私、こっそり歴代の彼女たちの写真を見たことがあるんだけど、面白い共通点を見つけちゃったの。
みんな、目や鼻、あるいは口元のどこかが私にどこか似ていたのよ」
莉奈の頬が、幸福感とほのかな羞恥で桃色に染まる。
「後で湊人に聞いたら、教えてくれたわ。
ずっと、一人の女性の影が夢に出てくるのに、どうしても顔だけが思い出せないんだって。だからこの数年、人混みの中でずっと、その影の欠片を探し続けていたらしいわ。
私に出会って、ようやくその欠片が一つに繋がって、夢が完成したんですって。
私が、彼がずっと探し求めていた『運命の人』だったのよ」
言い終えると、彼女は幸せそうに湊人の腕に寄り添った。
湊人は終始無言のまま目を伏せていた。
その沈黙は、今や何より雄弁な肯定として響く。
「すごい!ロマンチックすぎるだろ!」
「湊人が手料理を?本気なんだな……」
「羨ましすぎる。まさに理想のカップルじゃないか!」
周囲の歓声と羨望が、津波のように私を飲み込んでいく。
頭の中ががんがんと鳴り響いた。
――手料理。
私は悲鳴が漏れるのを防ぐように、下唇を強く噛みしめた。
今でも鮮明に覚えている。高校時代、湊人は胃が弱いくせに朝食を抜く癖があった。
だから私は毎日五時に起きて、おにぎりを握り、だし巻き卵を焼いた。それらを丁寧に保温弁当箱に詰めて、朝の授業が始まる前に彼の教室まで届けた。
あの頃、彼は私の髪を撫でながら、満ち足りた笑顔で言った。「夏海は本当に優しいな」
それなのに、今の彼は莉奈のために甲斐甲斐しく台所に立ち、腕を振るっているというのか。
……なら、あの頃の私は一体何だったの?
きっと、二人は本物の真実の愛で結ばれているのだわ。
私はうつむき、長年の投薬でパンパンにむくんだ自分の手を見つめて、自嘲気味に笑った。
いいじゃない。
どうせ、もうすぐ死ぬのだから。
第3話
そう思った瞬間、胸の奥で渦巻いていた苦しみと痛みが、奇跡のように少しだけ凪いだ。
死を目前にした人間が、今さら何に執着するというのか。
昔の同級生たちが、代わる代わる二人のもとへ挨拶に足を運ぶ。
話題は仕事から家庭、そして子供のことへ。
私は隅の席で、別世界の出来事を眺める幽霊のように、ただ静かに座っていた。存在を消して、誰の邪魔にもならないように。
けれど、ずっと感じていた。熱を孕んだ視線が、絶え間なく私に注がれているのを。
それが湊人だということは分かっていた。
けれど、私は一度も彼を見ず、言葉を交わすこともなかった。
今日ここへ来たのは、ただ、最後にもう一度だけ彼の姿を見るため。
こうして目に焼き付けることができた今、この世に思い残すことはもう何一つない。
宴がお開きとなった。
外は雨が降っていた。
真由の恋人が車で迎えに来て、彼女は去り際に私を強く抱きしめ、耳元で小さく囁いた。
「夏海、あんな奴のことは気にしないで。あいつはもう、正気じゃないわ」
私は微笑んで頷いた。「早く行きなよ。彼氏を待たせたら悪いわ」
同級生たちのほとんどが帰路につき、何人かが「送っていこうか?」と気遣ってくれたけれど、私はそのすべてを笑顔で断った。
莉奈は宴の途中で急用が入り、会社に呼び出されて先に帰っている。
ホテルの車寄せは、あっという間に人気がなくなった。そこに残っているのは、数えるほどの人影。
私と湊人も、そのわずかな人影の中にいた。
彼は黒塗りのマイバッハに背を預け、指の間に挟んだ煙草を燻らせていた。火影が夜の闇に明滅する。
雨糸が彼の額に垂れる髪を濡らし、その瞳は漆黒の闇に沈んでいた。
私は視線を逸らし、俯いて配車アプリで車を呼ぶ。
すぐに一台のタクシーが予約を受け付けた。
到着した車のドアを開けようとした、その瞬間。湊人が背後からそのドアを力任せに押さえつけた。
驚いて振り返ると、底の見えない暗い彼の瞳と目が合った。
「俺の車に乗れ」
私は眉をひそめる。「湊人、何の真似よ?」
彼は答えず、私の手首を問答無用で掴んだ。
そのまま助手席のドアを乱暴に開けると、慈しみなど微塵も感じられない仕草で、私を車内へと押し込んだ。
「どこへ連れて行くつもりなの?」
湊人は聞こえないふりをして、ただ前方の一点を見つめている。その顎のラインは、怒りを押し殺すように硬く強張っていた。
不安に駆られる中、車が止まったのは誰もいない海辺だった。
重苦しい沈黙が流れた後、ようやく彼がこちらを向いた。
「俺が結婚すると聞いて、何か思うことはないのか?」
その言葉は、まるで私の心臓を刃で削り取るような残酷な響きを帯びていた。
けれど、私は顔に完璧な微笑を貼り付けた。
「おめでとう。幸せにね」
ドンッ、と湊人の拳がハンドルを激しく叩いた。
「おめでとうだと?」
彼は低く唸るように声を絞り出すと、座席に私を押し込めるようにして、強引に距離を詰めてきた。
「夏海……お前の口から出るのは、そんな言葉だけか!」
彼は私の手首を力任せに握りしめ、血走った目で私を射抜く。
「別れた後……なぜお前は、一度も他の男と付き合わなかった?」
全身が凍りついた。
私は視線を逸らし、震える声を押し殺して答えた。
「……そんな気分になれなかっただけ」
突然、彼のスマホが鳴った。
電話の向こう側から、莉奈の甘ったるい声が漏れ聞こえてくる。「湊人、お仕事終わったわ。今どこにいるの?迎えに来てほしいな」
湊人は一瞬、呼吸を止めるような沈黙を置いた。
やがて、「分かった」とだけ短く答えた。
電話を切ると、彼はエンジンをかけ、無言のまま私の自宅マンションの前まで車を走らせた。
雨は小降りになっていた。
私はシートベルトを外し、ドアノブに手をかける。
「夏海」
突然、彼の掠れた声が響いた。
「お前……あの時、本当は俺のこと、好きだったのか?」
私は、ぴたりと動きを止めた。
一瞬のうちに、数えきれないほどの感情が濁流となって胸に押し寄せる。
好きだったか?
そんな言葉では、到底足りない。
私の青春のすべてを捧げ、命を削ってまで愛した唯一の人なのだ。
けれど……今の私に、一体何が言えるというのか。
「いいえ。一度も」
私は自分でも驚くほど冷徹な声で告げた。
空気が、一瞬にして凍りつく。
長い沈黙の後、彼は吐き捨てるように自嘲の笑い声を漏らした。
「そうか。なら、最高にいい返事だ」
私は逃げるようにドアを開け、外へ飛び出した。
ドアを閉めようとしたその刹那、彼の氷のような声が背中に突き刺さった。
「夏海。俺の結婚式、絶対に来いよ。
俺が別の女のものになる瞬間を、その目にしっかりと焼き付けてもらうからな」
第4話
あの同窓会以来、私は一度も湊人に会わなかった。
クラスのLINEグループも退会した。
真由以外のすべての連絡先を削除した。
私は自らを絶海の孤島に閉じ込め、ただ独りで生きる道を選んだ。
心臓の機能は、日に日に衰えていった。
最初は胸が苦しい程度だったのが、やがて鈍い痛みが絶え間なく続くようになり、ついには呼吸をするたびに生臭い鉄の味が混じるようになった。
私は大量の血を何度も吐き出した。
熱を帯びた、鮮やかな赤。
真由は私の家に移り住み、寝食を共にしてくれた。
私の前では、いつも太陽のように明るい笑顔を絶やさずに。
「夏海、見て。新しいお花屋さんができてたから、あなたの好きな白バラを買ってきたよ」
「夏海、新しいレシピを覚えたんだ。肉じゃが、早く食べてみてよ」
けれど、彼女は私が眠りについたのを見届けると、洗面所へ駆け込むのだ。
蛇口を全開にし、激しい水の音で、崩れ落ちそうなほどの泣き声を必死に押し殺していた。
私は、すべてを知っていた。
けれど、ただ目を閉じて、深く眠っているふりをするしかなかった。
死を待つだけの人間には、誰かを慰める気力さえ、もう残っていなかった。
湊人の結婚式まで、あと三日。
昨日、主治医から「覚悟をしておいてください」と告げられた。
いわゆる、看取りの準備というやつだ。
分かっている。私は……そこまで持たない。
ベッドに横たわる私の横で、真由がりんごの皮を剥いている。
窓から差し込む陽光はどこまでも弱々しく、まるで薄いヴェールのように部屋を包んでいた。
私は力なく首を巡らせ、彼女の顔を見つめた。
彼女の目は、また赤く腫れている。
「ねえ、真由」
掠れた声で、私はそっと語りかけた。
「……湊人は結婚式の日、何色のタキシードを着ると思う?」
りんごの皮を剥く真由の手が、激しく震えた。
刃が指先をかすめたが、彼女は痛みすら感じていないようだった。
私は、遠い日の記憶を辿るように、独り言を続けた。
「きっと、白よね。
肌が白いから、白がすごく似合うもの。
彼は昔から言ってたわ。黒は重苦しくて嫌だって。
綺麗で、明るいものが好きだったから。
ねえ、真由……そう思わない?」
「もうやめて!」
真由はりんごとナイフを放り出し、泣き叫んだ。
「お願いだから夏海、もう……一言も喋らないで!」
真由は私に縋りつき、溢れ出した大粒の涙が、私の手の甲を激しく叩いた。
「耐えられない……もう見てられないよ……っ!
今すぐあいつに電話する!全部、全部ぶちまけてやるんだから!」
震える手で、彼女は必死にスマホを探り当てようとする。
「あなたがもう死ぬんだってことも、あの時なんで別れたのかも、全部教えてやるのよ!」
「ダメよ」
私は残された力を振り絞って、彼女の手首を掴んだ。
泣きじゃくる彼女をじっと見つめ、ゆっくりと首を振る。
「彼はようやく……新しい人生を歩み始めたのよ。
一生に一度の晴れの日に、私が彼の幸せを壊すわけにはいかないわ。
真由……そんな自分勝手なこと、私にはできない」
この数年、彼は次から次へと恋人を替えてきた。
分かっていた。
そうすることで私に復讐し、自分自身の心を麻痺させていたのだと。
けれど、私に何ができたというのか。
未来を与えられない私が、彼を道連れに地獄へ落ちるわけにはいかなかった。
「……ねえ、なんでよ!納得いかないよ!」
真由は私に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「なんであなたが病気にならなきゃいけないの!どうしてあなたばっかり、こんなに苦しまなきゃいけないのよ!
あのバカは何も知らないで……今だってあなたを恨んでるっていうのに!
不公平すぎるよ……っ!」
私は手を伸ばし、彼女の涙を拭ってあげようとした。
けれど、指先を動かす力さえ、もう残っていなかった。
湊人の結婚式の前日。
私は死んだ。
風が白いカーテンを静かに揺らす、どこにでもある、穏やかな午後のことだった。
私が真由に残した最期の言葉はこうだ。
「私のキャッシュカードの暗証番号……湊人の誕生日なの。
お願い、私のかわりに……彼に、ご祝儀を包んであげて。
残ったお金は……全部寄付してね」
魂となった私の身体は、驚くほど軽かった。
壁をすり抜け、重力さえも忘れて、どこまでも遠くへ。
気がつけば、私は湊人の結婚式場に辿り着いていた。
チャペルの天井は高く、ステンドグラスが陽光を受けて幻想的な光を放っている。
列席者で埋め尽くされた会場。
莉奈は純白のウェディングドレスを纏い、花が綻ぶような満面の笑みを浮かべている。
そして、私は湊人の姿を見つけた。
バージンロードの先に立つ、真っ直ぐな背中。
彼がゆっくりと振り返る。
予感は当たっていた。
彼は、一点の曇りもない白のタキシードを着ていた。
完璧な仕立てが、彼の端正な顔立ちと、隠しきれない気高さをより一層引き立てている。
その姿は、私の記憶の底で今も輝き続けている、あの頃の白シャツ姿の少年よりも……ずっと、ずっと綺麗だった。