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これからは、自分に花束を
時を遡った後藤菫(ごとう すみれ)が、まず最初にとった行動は、1000億円という途方もない金をはたいて、外界から完全に隔絶された島を買い取る...
Chương (1)
第1章
時を遡った後藤菫(ごとう すみれ)が、まず最初にとった行動は、1000億円という途方もない金をはたいて、外界から完全に隔絶された島を買い取ることだった。
手続きを担当した職員は、驚きを隠せない様子だった。その島は全くの無名で、世間にはその存在すら知られていない上に、外界から完全に隔絶され、ナビにさえ載らない。まさに、この世界から完全に切り離されてしまうも同然の場所だったからだ。
「後藤さん、本当にこの島を購入されますか?もし島に住むとなると、外の世界と連絡を取るのは難しくなりますよ」
菫はうなずいた。その声には、どこか重荷を下ろしたような響きがあった。
「ええ、私が望んでいるのは、誰からも連絡がつかないことなんです」
第1話
時を遡った後藤菫(ごとう すみれ)が、まず最初にとった行動は、1000億円という途方もない金をはたいて、外界から完全に隔絶された島を買い取ることだった。
手続きを担当した職員は、驚きを隠せない様子だった。その島は全くの無名で、世間にはその存在すら知られていない上に、外界から完全に隔絶され、ナビにさえ載らない。まさに、この世界から完全に切り離されてしまうも同然の場所だったからだ。
「後藤さん、本当にこの島を購入されますか?もし島に住むとなると、外の世界と連絡を取るのは難しくなりますよ」
菫はうなずいた。その声には、どこか重荷を下ろしたような響きがあった。
「ええ、私が望んでいるのは、誰からも連絡がつかないことなんです」
電話口の職員は少し戸惑った様子だった。菫の言葉を不思議に思ったようだが、仕事柄それ以上は尋ねず、ただ購入手続きと入島できる時期について詳しく説明した。
手続きが数日で終わると聞き、菫は安堵の息をついた。彼女はすぐにカードで支払いを済ませ、その場を後にした。
彼女は頭上に広がる青空を見上げ、ほっと息をついた。
島の購入費用は、黒崎勳(くろさき いさお)がくれた結納金だった。
江川市一の富豪である彼は、いつも気前が良かった。だから結納金として、ぽんと1000億円もくれたのだ。
前の人生では、死ぬまでこのお金に手をつけることはなかった。
二度目の人生は、ちょうど彼と婚約した直後の時期に戻っていた。
今回、もう自分を犠牲にするのはやめよう。菫はまず、そう心に決めた。
彼女が通りに出ると、一台の黒いマイバッハが急ブレーキをかけて目の前に止まった。ドアが開き、勳が降りてきて、足早に菫の方へ歩いてきた。
いつも冷静沈着な勳が、少し慌てているようだ。その瞳には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。
人生をやり直してから初めて彼に会ったので、菫は思わずいつもの呼び名で声をかけた。
「勳さん……」
しかし勳は彼女をよく見ようともせず、ただその手を掴んで車の中へ引っ張った。
「菫、早く、一緒に来てくれ」
菫は後部座席に押し込まれ、ゴンと音を立てて頭をぶつけてしまった。
勳はスマホの画面に目を落としていて、菫のことには全く気づいていないようだった。
車は猛スピードで走り、やがて病院の前に停まった。
勳は車が完全に停まるのも待たずに、急いで菫の手を引き、輸血室へと向かった。
看護師の向かいに座り、自身の血管に注射針が刺し込まれるのを呆然と見つめていた菫は、ようやくそこで勳の説明を聞くことができた。
「静香がうっかり階段から落ちてしまって、血が止まらないんだ。今回はそんなに多くは採らないから、安心してくれ」
彼女が返事をする間もなく、いきなり頬を強く張られた。
「この馬鹿娘!どこに行ってたの!静香のそばを片時も離れるなって、いつも言ってるでしょう!」
頬が火についたように熱く、その痛みに菫は一瞬で目に涙を浮かべた。
彼女は顔を上げ、激怒している母の後藤椿(ごとう つばき)を見つめたが、一言も言い返すことができなかった。
側にいた父の後藤拓海(ごとう たくみ)は椿の肩を抱きながら、菫に向けて同じように怒りに満ちた目をしていた。
「わざと心配させるつもりか!もし静香に何かあったら、タダじゃおかないからな!」
そして兄の後藤仁(ごとう じん)は、菫のことなど見向きもしなかった。
「いっそのこと、紐で縛り付けておけばいいんだよ。そうすれば勝手にうろつかなくなるだろ」
これが自分の家族。姉の後藤静香(ごとう しずか)のためなら、どんなひどいことも平気でする。たった1時間いなかっただけで、この有り様だ。
普段なら、わずかながらも自分の味方をしてくれる勳でさえ、この時は静香への心配で頭がいっぱいだった。
「もうやめろ。静香の輸血に障るだろう」
自分のことなど、誰が気にかけるだろうか。しょせん自分は、静香に血を提供するだけの存在でしかないのだから。
自分がこの世に生まれたのは、静香が幼い頃から血友病を患い、重度の凝固障害のために定期的な輸血を必要としていたからだった。
両親は静香を助けるため、自分を生きた血液バンクとして生んだんだ。
誰も自分を愛さなかった。両親は自分を道具としか見ず、兄の心には静香という妹しかいなかった。自分はいつだって、家族にとって余計な存在だったのだ。
幼い頃から両親は姉ばかりを可愛がり、全ての優しさも愛情も姉に注ぎ込んだ。自分に残されたのは、ただのおざなりな扱いだけ。
誰も自分を愛さなかった。両親は自分を道具としか見ず、兄の心には静香という妹しかいなかった。自分はいつだって、家族にとって余計な存在だったのだ。
ただ一人だけ、自分に優しくしてくれた人がいた。それが勳だった。
黒崎家と後藤家は、両家の親同士が、昔からの友人だったため、6歳年上の勳は菫に、実の兄からも得られなかったような心遣いと温かさを与えてくれた。
誰からも見向きもされない家庭で育った菫が、唯一自分に温かく接してくれた勳を好きになるのは、ごく自然なことだった。
菫が告白すると、勲は驚いていた。顔に喜びは浮かんでいなかったが、それでも告白を受け入れ、必ず結婚すると約束してくれた。
その時の菫がすごく嬉しかった。まさか好きな人が、自分のことを好きでいてくれるなんて。
自分の幸運は、すべて勳の愛を手に入れるために使ってしまったのだと思っていた。
だから、両親や兄が自分をどう思っていようと、気にならなかった。
しかし後になって、勳が本当に好きな人は、なんと静香だったということを知ってしまったのだ。
勳が結婚を承諾したのは、自分が他の男と結婚して、言うことを聞かなくなるのを心配したからだ。そうなれば静香への輸血を断られ、彼女の命が脅かされるかもしれない。それを恐れたのだ。
勳は静香を愛するあまり、彼の人生を犠牲にしてでも、静香の無事を守りたかったのだ。
もうすぐ勳の妻になれると、有頂天になっていたなんて自分はなんて馬鹿だったんだろう。
笑える。本当に、笑える話だ。
救急治療室のドアが開き、静香が看護師たちに囲まれて運び出されてきた。
両親、仁、そして勳は、すぐに自分を置き去りにし、静香のもとへ駆け寄った。
彼らが静香の体調を気遣い、心配している姿を見て、菫はただただ吐き気を覚えた。
彼女は自嘲の笑みを浮かべた。目の前がぐらつくのを必死にこらえ、袖口を直し、立ち上がると外へ歩き出した。
外に出た菫は、薬指でまばゆく輝く婚約指輪を最後にもう一度だけ見つめた。そして、何のためらいもなく指から抜き取ると、ゴミ箱に投げ捨てた。
この人生ではもう、かつてのように両親にわずかな愛を乞うたり、わらにもすがる思いで勳に愛を求めたりはしない。
この人生では、もう誰もいらない。
みんなが静香を愛し、誰も自分を愛さないというのなら、自分で自分を愛するしかない。
第2話
静香への輸血後はいつも、菫は気力を回復するまでに数日かかる。今回も例外ではなかった。
この数日間、後藤家の人たちは病院で静香に付きっきりだったので、家には菫一人が残されていた。
コップを手に部屋を出た菫は、誰が来たのか確かめる間もなく、飛んできた箱が顔に当たり、目がくらんだ。
このお馴染みの痛みに、考えるまでもなく、やって来たのは母だとすぐに察しがついた。
「菫!いったい何してたの、なんで私たちが送ったメッセージを見ないのよ!
わざとでしょ?わざとメッセージを無視して、静香を怒らせようとしたんでしょ!
この役立たず、本当に育て損なったわ!」
怒鳴り声の中、菫は血の滲む額を拭い、ポケットからスマホを取り出してラインを開いた。
今日の早朝、家族グループにメッセージが来ていた。今日は静香の退院日で、彼女の大好物のチョコレートケーキを作って迎えるように、と。
でも、輸血を終えたばかりの菫に、時間も手間もかかるケーキを作る体力なんてあるわけがない。
それに、朝からずっと頭がぼんやりしていて、スマホのメッセージに気づきもしなかったのだ。
説明しようと口を開きかけたが、ふと顔を上げると、勳と仁が静香を支え、ゆっくりとリビングに入ってくるところだった。
二人はこれでもかというほど静香に尽くしていた。クッションを当てて座り心地を良くしたり、水を手に渡したり。まるでお姫様扱いだ。
そして、仁は冷たい視線を菫に向けた。静香に向けられていた優しい眼差しは、瞬く間に嘲るようなものへと変わっていた。
「こいつが静香のためにケーキを作るなんて、夢でも見てるのか。
こいつは一日中、家でぐうたらしてるだけ。世間知らずで、何の趣味もない。くだらない絵を描く以外、静香に勝てるものなんて何一つないじゃないか」
この家に生まれてから、その大半を静香への輸血に費やし、残りの時間は家で休んで過ごすだけだった。
趣味?静香のように、そんなものを育む時間があっただろうか?
そして仁が言う「くだらない絵」とは、自分の何の潤いもない人生において唯一の夢だったのに、それさえも彼は一文の価値もないと貶したのだ。
そんな言葉はもう何度も聞かされてきた。それでも、聞くたびに心がひどく痛んだ。
勳が菫に目をやり、いつものように取りなしてくれた。
「菫、昨日の輸血で疲れて、体調が悪いのか?」
以前なら、彼がこうして庇ってくれるのを聞いたら、感動で胸がいっぱいになっただろう。
少なくとも一人だけは、自分の体や気持ちを気にかけてくれる人がいるのだと。
でも、一度死んで全ての真相を知ってしまった今、その言葉は皮肉にしか聞こえなかった。
勲が自分を庇うのは、ただ自分を愛しているという見せかけを作るためだけに過ぎない。
そして、自分が勲を愛しているから、彼はほとんど苦労することなく、自分を巧みに騙し、深い罠に陥れ、そこから抜け出せなくすることができた。
でも、今回はもう騙されない。
勳の言葉を聞くと、静香はすぐさま物分かりの良いふりをして口を開いた。「大丈夫よ。ケーキはなくても平気。菫はゆっくり休ませてあげて」
仁は菫を忌々しげに睨みつけた。菫の態度が心底気に入らないらしい。
「静香、あんなやつのことなんか気にするな。あいつがお前のために何かするのは、当たり前のことなんだ。
そもそも、あいつがこの世に生まれてきたのは、お前のためなんだから。
お前は優しすぎるんだよ。お前が幸せでいてこそ、あいつの存在価値がある。わかる?」
あまりにも露骨な言葉に、菫の心はまたしても激しく揺さぶられた。
一瞬、まるで無数の細い針が、彼女の胸を突き刺すかのようだった。
自分の体には、彼らと同じ血が流れている。自分は人間で、感情があって、痛みも感じる。
でも、誰も気にかけてくれない。誰も、自分のことなんて気にも留めてくれないんだ。
食事の間も、皆が静香に甲斐甲斐しく世話を焼き続けていた。
拓海と椿はしきりにおかずを静香の皿に取り分けるし、仁に至っては、魚の一番美味しい身をほぐし、彼女の取り皿に入れてあげていた。
テーブルに並んだ料理は、すべて静香の好物ばかり。
菫が黙々とご飯を口に運んでいると、不意にお椀にイカが一切れ入れられた。
隣に座る勳に視線を向け、次にお椀の中のイカを見て、彼女は悲しげに唇の端を上げた。
こんな時でも、まだ自分を愛するフリを忘れないなんて大したものだ。でも、本当に愛しているのなら、イカが静香の大好物で、自分がイカアレルギーなことを知らないはずがないのに。
勲が自分を愛していない証拠なんてそこら中にあった。なのに、ほんの少しの温もりを求めるあまり、今まで気づかないふりをしていたのだ。
食事が終わる頃、拓海と椿が勳と菫の結婚式の話を持ち出した。
静香は箸を置き、いつの間にか赤くなった瞳に涙を浮かべた。「お父さん、お母さん、最近なんだか体が弱っていて、菫と勳さんの結婚式には出られそうにないわ。
でも、二人の幸せはどうしても見届けたいの。だから、結婚式を延期してくれないかしら?私の体がもう少し良くなってからにするというのはどうかな?」
この家では、静香の願いはなんだって叶えられる。わざわざ言いにくそうにして、彼女の優しさをアピールする必要なんてどこにあるのだろう。
拓海と椿、それに仁はもちろん二つ返事で頷いた。でも、勳だけは少し間を置いて、菫のほうをちらりと見て意見を求めてきた。
「菫、お前はどうしたい?」
第3話
前世の時も、静香はそう言って、結婚をずっと先延ばしにしていた。
静香が承諾しない限り、勳は絶対に自分と結婚しないんだ。
そこまで考えて、菫は自嘲気味に笑った。
「いいわ。それで構わない」
断る理由なんてない。どうせ、彼らはもう結婚することなんてないんだから。
菫は箸を置くと、「ごちそうさま」と言った。
そして振り返りもせず、まっすぐ二階の自分の部屋へと上がっていった。
どこか決意を秘めた後ろ姿を見つめ、勳は初めて、菫が変わったような気がした。
どこがどう、とはっきり言えるわけではない。でも、今までの彼女とは明らかに違っていた。
それからの日々、結婚式は無期限延期になったから、二人は式の準備をする必要もなくなった。
勳には、静香と旅行に行く時間がたっぷりとできた。静香は、わざわざ両親と仁も誘ったけど、「貧血気味だからゆっくり休んでね」なんて、もっともらしい理由をつけて、菫だけは誘わなかった。
そうよね、あの四人こそが仲睦まじい「本当の家族」なんだから。
もし自分が行けば、邪魔者にしかならない。わざわざ嫌な思いをする必要もない。
静香は旅行の「楽しさ」をおすそ分けするつもりなのか、行く先々で撮った集合写真を、わざわざ菫に送ってきた。
絵に描いたように美しい景色を背景に、静香はいつも真ん中に立っていた。そして、周りのみんなからの愛情を受けて、満面の笑みを浮かべている。
【菫、一緒に来れなくて残念。ここの景色、本当にきれいよ!】
【お父さんとお母さんがね、ここが気に入ったなら別荘を買ってあげるって。そうすれば、いつでも好きな時に遊びに来れるでしょって】
【菫、お兄さんがね、これから私がどこへ行きたくても、ずっと一緒に付き添ってくれるって言ってたわ】
【勳さんも、ここで素敵なプレゼントをくれたの。それが何か、知りたい?】
菫は送られてくる写真を一枚ずつ削除していった。そしてスマホの電源を切ると、荷物をまとめ始めた。
もうしばらく我慢すれば、完全に自由になれる。
その時、階下から、何やらガサゴソと物音が聞こえてきた。
菫はぴたりと手を止めた。すると、脳裏にいくつかの光景が突然、鮮やかによぎった。
そうだ、前世でも同じことがあった。この家に強盗が入り、高価な宝飾品を盗んだだけじゃない。自分の大事な絵も、すべてめちゃくちゃに破られたんだ。
途端、彼女の胸に強い危機感が走った。
お金なんてどうでもいい。でも、あの絵は心血を注いで生み出したものなのだ。
そう思うと、菫は急いで自分の絵をしまい込んだ。それから警察に通報し、包丁を手に取ると、ドアの陰にそっと身を隠した。
一度経験しているという強みがあったから、今回は警察と協力して犯人を捕まえることができた。
とはいえ、犯人との力の差は歴然としていた。相手の次の動きが分かっていても、その力には敵わなかった。
今回も、彼女は体のあちこちを怪我した。それだけじゃない。階段から転げ落ちて、顔中が血まみれになってしまった。
家族と勳が駆けつけた時、ちょうどパトカーが去っていくところだった。家の中はめちゃくちゃに荒らされ、菫はボロボロの姿でソファに座り込んでいた。
拓海と椿は呆然として、声も上ずっていた。「す、菫……ひとりで、犯人を捕まえたの?」
「どうして俺たちに電話しなかったんだ!空き巣なんて、何をしでかすか分からない連中だぞ!死ぬ気か!」
いつもは冷たい仁までもが、珍しく驚いた顔をしていた。「そうだよ。強盗が入ったのに家族に連絡しないなんて、どういうつもりだ。まるで俺たちが、お前の命をどうでもいいとでも思っているみたいじゃないか!」
菫は疲れ果てて、話す気力もなかった。ソファに座ったまま、さっきまで包丁を握りしめていた手が、まだ震えている。
その様子に気づいた勳が、焦ったように駆け寄って彼女の手を握った。「菫、どうしたんだ。どこか怪我したのか?病院に行くか?
馬鹿だな、どうして俺たちに連絡しなかったんだ!」
菫は、彼の手を振り払った。そして力なく問い返した。「連絡して、何か意味があったの?私のために、わざわざ帰ってきてくれたとでも言うの?」
勲たちの顔色が変わった。図星をさされて動揺したくせに、それでも強がって言い返した。「当たり前だろ!」
菫は自嘲気味に笑った。前世では、彼らがきっと帰ってきてくれると信じて、一人一人に必死で電話をかけたのに。
でも、最後まで誰も電話に出てはくれなかった。
それどころか、こっそり電話をかけたことが犯人に見つかって、酷い目に遭わされたのだ。
後になって知ったことだけど、あの夜、彼らは静香と一緒に花火を見ていたらしい。
彼らが別の場所で穏やかな時間を過ごしている間に、自分はこの家で死にかけていたんだ。
だから今回は、もう誰も頼らない。
菫のあまりに冷静な様子を見て、勳は思わず眉間にしわを寄せた。
彼女は本当に変わってしまった。勳は、それを改めて感じた。
今までの菫なら、こんな目に遭ったらきっと怖くて泣き叫んだはずだ。それに、誰も帰ってきてくれなかったって、駄々をこねていただろう。
でも今の彼女は、まるで他人事みたいに落ち着き払っている。
勳が何かを言いかけた、その時後ろにいた仁が、床に散らばった荷物に気づいた。
「こんなに荷物をまとめて、お前、どこに行くつもりだ?」
第4話
勳ははっとして振り向き、その視線も同じようにこわばった。
「菫、どうしたんだ?」
菫はどきりとした。さっきまでバタバタしていたせいで、スーツケースがまだリビングに置いてあることをすっかり忘れていた。
彼女は袖の中でそっと拳を握りしめ、すぐに平然とした顔を作って微笑んだ。「みんなが旅行に行くのを見て、私もどこかへ気晴らしに行きたくなったの。だから先に荷物をまとめておいて、行き先さえ決めればすぐ出発できるように準備してたんだよ」
拓海と椿は、途端に顔を曇らせた。「気晴らしだなんて!静香のそばを離れるなと、あれほど言っただろう!」
「そうよ。もし静香に輸血が必要になった時、あなたがいないと困るでしょう。何のためにあなたを産んだのか、忘れたわけじゃないわよね。早く荷物を片付けなさい。私たちに黙って、どこにも行くんじゃないよ!」
菫の表情に変わった様子がないのを見て、勳はほっと息をついた。「今度どこかへ行きたくなったら、俺たちと一緒に行けばいい。一人じゃ危ないから、わかったか?」
菫は心の中で乾いた笑いを浮かべた。でも、彼女が行こうとしている場所に、彼らには決して手が届かない。
数日後、静香と菫の誕生日がやってきた。
二人は3歳差だが、偶然にも誕生日が同じ日だった。
ただ、これまでの誕生日はいつも、ケーキは一つしか用意されず、ろうそくを立てるのも一回だけだった。
以前の自分は、二人が同じ誕生日だからケーキを二つ買う必要はない、という両親の言葉を信じていた。
でも、後藤家は裕福なのだから、ケーキ一つを惜しむはずがない。
要するに、自分の気持ちなんてどうでもよかったのだ。それに、自分も誕生日だからといって、主役である静香の輝きを少しでも損ないたくなかったのだろう。
誕生パーティーの飾りつけは、いつも通り静香が一番好きなピンク色だった。
ピンクのバラ、ピンクの風船、ピンクのケーキ。
用意されたプレゼントも、すべて静香ただ一人のためのもの。
静香は注目の的となり、一番輝ける場所でみんなからの誕生日祝いを受けていた。
「静香、お誕生日おめでとう!」
静香は笑いながらプレゼントを開けていく。その瞳はきらきらと輝いていて、まぶしいほどだった。
一方、菫は隅っこに立っていて、まるで部外者のようだった。
「あれ、勳さん。プレゼントが二つあるけど、どうして?」
静香は不思議そうにプレゼントの箱を手に取り、勳の目の前で振ってみせた。
みんなが興味津々な視線を向ける中、勳はその箱を菫の前に差し出した。
「これはお前に」
静香の表情は一瞬で変わった。でも、二人のプレゼントを開けると、彼女の顔にはまた笑顔が戻った。
なぜなら、勳が静香に贈ったのは、有名デザイナーが手掛けた世界に一つだけのネックレスで、とてつもない価値があるものだったからだ。
そして、菫へのプレゼントは、そのネックレスのおまけだった。
周りからくすくすと笑い声が漏れた。
「へえ、おまけか。菫にはお似合いじゃない」
そうだ。菫も静香のおまけみたいなもの。だから、このプレゼントは、まさに菫にぴったりだった。
菫は何も言わず、ただみんなが見ていないところで、黙ってプレゼントをゴミ箱に捨てた。
パーティーが終わり、静香は突然思いついたように言った。最近、運転免許を取ったから、今日は自分が運転してみんなを家に送ると。
そう言うと、静香は嬉々として車庫へ向かった。
拓海と椿、それに仁はもちろん彼女の願いを叶えるつもりだ。三人は玄関先で、静香が車を回してくるのを待っていた。
菫は一人、一番後ろに立っていた。彼女はつま先を見つめながら、ここから逃げ出す計画を練っていた。だから、背後から車がだんだん近づいてきていることに、全く気づかなかった。
耳をつんざくようなブレーキ音と共に、菫は一瞬にしてはね飛ばされ、地面に叩きつけられた。
意識が遠のいていく中、彼女の耳には静香のわざとらしい泣き声だけが聞こえ、そして完全に気を失った。
次に目を覚ました時、菫は病院にいた。
アドレナリンが引いた後、痛みがどっと押し寄せてきた。菫はなんとか目を開けると、自分が手術台の上に横たわっていることに気づいた。
体がふわふわと軽くなっていく。まるで自分の体から抜け出して、宙に浮かんでいくかのようだった。
もしかして、もうすぐ死ぬから、こんな感覚になるのだろうか?
すごく痛い。菫は力なく目を閉じ、暗闇が視界を少しずつ覆っていくのに身を任せた。
壁一枚を隔てたドアの外では、医師が後藤家の人たちと話していた。
「ご家族の方、早く決めてください。患者さんは大量に出血しており、輸血しないと命に関わります。現在、病院の血液バンクの在庫が逼迫しています。もう一人の娘さんも血液型が同じなのに、なぜ献血させてあげないのですか?」
後藤家の人たちは、ほとんど声をそろえて断った。
「だめです!静香にはさせられません!」
意識がますます薄れていき、菫の耳に聞こえる声もどんどん小さくなっていった。
完全に意識を失う瞬間に、彼女は勳の声を聞いた。それは、冷たく、そしてきっぱりとした響きで、彼女の鼓膜を突き刺した。
「その通りです。静香にはさせられません」
第5話
これまでの人生で、静香に何度も血を分け与えてきたというのに、自分が死にかけている時に、誰一人として静香の血で助けようとしなかったなんて、菫は、夢にも思わなかった。
そもそも、自分が事故に遭ったのだって、全部、静香のせいなのに。
みんなの本性はとっくに見抜いていたはずだった。だから、彼らにどんなに傷つけられても、もう悲しくなんてないと思っていたのに。
でも、今この瞬間、みんなの残酷な言葉を聞いて、胸が張り裂けそうなくらい辛かった。
激しい痛みが襲ってきて、菫は完全に意識を失った。
次に目が覚めたのは、もう3日も後のことだった。
今回は、いつも以上にひどく疲れていた。
菫が目を開けて最初に見たのは、勳だった。
勳はベッドのそばで長いこと付き添ってくれていたようで、その顔には少し疲れが見えた。
菫が目を覚ましたのに気づくと、険しい顔が少しだけ和らいだ。「菫、目が覚めたんだね。
どこか痛むところは?何か食べたいものはあるかな?先生が、血が足りないからゆっくり休むようにって言ってた。食べたいものがあったら、何でも言ってくれ」
こんなに心配してくれる様子を見ていると、まるで静香の輸血を冷たく止めたのが彼ではなかったかのようだった。
もしあの言葉をこの耳で聞いていなければ、勳のこの優しさにどれほど感動していただろうか。
勳が病室を出て行った後、菫は注射をしに来た看護師に尋ねた。「最後に、輸血してくれたのは誰ですか」
看護師はため息をつき、しばらく黙ってから答えた。「ご家族も不思議な方たちですね。いくら説得しても、お姉さんの血を使うことを承諾してくれなかったんですよ。
幸い、うちの病院で職員の血液型を登録していましたから。同じRhマイナス血液型のお医者さんがちょうどお休みだったのですが、急いで駆けつけてくれて、それでやっと輸血して、助かったんですよ」
そう言ってから、看護師は不思議そうな顔で菫を見た。
「あなたは、もしかして養女ですか?さっきまでここにいた方は、お姉さんのご主人なんでしょう!」
菫は呆然とし、自嘲するようにフッと笑った。やがて、一筋の涙が音もなく目尻を伝った。
入院中、両親は一度も見舞いに来なかった。看病してくれたのは、勳だけだった。
菫にはわかっていた。こうやって親切にして恩を売るのは、これからも自分に静香の「血液パック」を喜んで続けさせるためなのだと。
それなのに、勳はその芝居すら完璧に演じようとはしなかった。
病院にいる間、彼はいつも上の空だった。
スマホを手に廊下で電話しているか、あるいは画面を眺めては、薄く口元を緩ませていた。
画面の向こうにいるのが、静香だということを、菫には分かっていた。
静香を前にした時だけ、勳はあんな風に笑うのだ。
退院の日、勳は約束通り迎えに来てくれた。
病院の入り口で待っていると、彼に一本の電話が入り、その顔色が途端に変わった。
普段は感情を表に出さない勳が、その時、明らかに怒りを露わにしていた。
スマホを握る長い指が白くなっている。必死で感情を抑えているのが分かった。
「菫、急に会社で用事ができた。タクシーを拾って帰ってくれるか?」
菫は静かに頷き、自分のことは気にせず、会社の用事を優先するよう勳を促した。
勳はホッとしたように車に乗り込むと、すぐに走り去って行った。
彼の車が見えなくなるのを見送りながら、菫は唇の端を歪めた。
彼女は勳が何に怒っているのか、そして、今そんなに焦ってどこへ向かっているのかも知っていた。
ついさっき、静香がインスタにイケメンとのツーショット写真を投稿したのだ。
添えられた文章はこうだ。【連絡先を聞いてきたイケメンさん。どうしようかなあ、教えちゃおうかな?】
静香は、男を夢中にさせる方法をよく知っている。昔の自分なら、きっとヤキモチを焼いて嫉妬しただろう。
でも、今の自分はもう違う。自分にはやるべきことがあるのだ。
菫はスマホを閉じ、タクシーを拾って警察署へ向かった。
第6話
警察署から後藤家に戻った時、家には誰もいなかった。
菫は特に何も考えず、階段を上がろうとした。その時、玄関のほうから足音が聞こえてきた。
ドアが開くと、まず拓海と椿が入ってきた。その後ろでは、仁が震えながら泣いている静香の手を引いていた。
菫の顔を見るなり、拓海と椿は怒りを爆発させた。「菫!一体何がしたいんだ?警察に通報したのはお前だろう」
「静香はアクセルとブレーキを踏み間違えただけよ!わざとぶつかったわけでもないのに、どうして通報なんてしたの!あの子を刑務所に入れたいわけ?」
仁は静香をなだめながらも、菫を責めるのを忘れなかった。「お前はかすり傷を負っただけだろ。静香が警察でどれだけ長い時間、事情聴取されたか分かってるのか?俺たちが示談に応じなければ、静香はもっと辛い目に遭ってたんだぞ!
静香は体が弱いんだ。もし彼女に何かあったら、お前、責任取れるのか?」
そう、自分はただかすり傷を負っただけ。命を落としかけただけ。それに比べて、静香は数時間も事情聴取されたのだから、大変だったことだろう。
菫は怒りのあまり、逆に笑ってしまった。彼女は初めて、反抗的な目つきで両親を見た。「そうよ、私が通報したわ。それが何か?」
いつもは言われるがままだった菫が、まさかこんな反抗的な態度をとる。拓海と椿がそれを許せるはずもなく、思わず手を上げようとした。
「ふざけるな!なんだその態度は!」
「今日は、この親不孝者をしつけてやる!」
その言葉が終わるやいなや、後ろにいたボディーガードが進み出て、菫をロープで縛り上げた。
菫は無表情で、縛られるがままになった。そして、無理やり地面にひざまずかされた。
拓海はそばにあったロープを手に取ると、容赦なく彼女の体に打ちつけた。
「このバカ娘が!本当にどうしようもないやつだ!」
ロープが体に打ちつけられるたびに、真っ赤なみみず腫れができた。
一回、二回、三回……
もう何度打たれたのか分からなかった。聞こえるのは、ロープが空を切る音と、そばで囃し立てる椿の声だけだった。
「こうやるべきだわ。もっと厳しくしつけてやらないと。
こんなことになるなら、最初から産むんじゃなかった!」
菫の体はびくりと震え、はっと顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。
彼女のあまりにも絶望的な眼差しを見て、ロープを振り上げようとしていた拓海の手は、思わず止まった。
菫は唇が強く噛み締め、極度の苦痛と絶望の中で、一語一句を絞り出した。
「あなたたちが私を娘として認めてくれないように、私もあなたたちを親として認めたくて認めてるわけじゃないわ!
私を産んで、静香のための『血液バンク』として扱ってきたくせに、私の気持ちなんて一度でも聞いたことがあった?
小さい頃から、私はいつも静香のお下がりを着て、彼女の嫌いなものを食べてきた。誕生日は同じ日なのに、プレゼントをもらったことなんて一度もなかった。
あなたたちは本当に私のことを娘だと思ってた?私が何が好きで、何色が好みで、何のアレルギーがあって、何を怖がるのか、知ってる?
できることなら、私もこの世界に生まれてきたくなんてなかった。
だって、この世界には、誰も私を愛してくれる人はいないから……」
その場にいた誰もが、完全に言葉を失った。菫の口から過去の出来事が一つ一つ語られるのを聞いていると、なぜだか胸が締め付けられるような気がしたのだ。
その時、ようやく後藤家にたどり着いた勳の目に真っ先に飛び込んできたのは、地面にひざまずき、体中傷だらけになった菫の姿だった。
「この世界には、誰も私を愛してくれる人はいない」という彼女の絶望的な言葉を聞いた瞬間、彼の心は激しく揺さぶられた。
勳は菫に歩み寄り、その体を支え起こした。「菫、俺がいるじゃないか……」
菫は複雑な表情で首を振り、背を向けて奥へと歩いて行った。
勳は思わず後を追いかけようとした。するとその時、後ろで静香が突然頭を押さえ、ふらりと倒れ込んだ。
「勳さん、頭が痛い……」
勳は足を止め、結局、静香のほうへと向き直った。
第7話
ロープで受けた傷のせいで、菫は丸二日、ベッドから起き上がれなかった。
スマホが震えるまで、菫はただじっと横になっていた。島の購入の担当者から、手続きが完了したという連絡だった。人里離れたその島が、ついに彼女のものになったのだ。
彼女は喜びを抑えきれず、急いでその番号に電話をかけた。
電話の向こうの相手は、何度も確認してきた。「後藤さん、3日後に島へ渡られるということで、よろしいでしょうか?」
これほどまでに菫の決意が固まったことはなかった。「はい、間違いありません」
担当者は答えた。「承知いたしました。では3日後、時間通りに島へご案内いたします」
電話を切った途端、不意に勳がドアを開けて入ってきた。
「島ってどう言うこと?」
菫はスマホを隠しながら、話を逸らした。「なんでもないわ。勳さん、私に何か用?」
勳はそれ以上追及せず、こう言った。「お前が前に応募した作品が受賞したそうだ。主催者から、明後日の授賞式に来てほしいと連絡があった」
勳に言われなければ、菫はすっかり忘れていた。1ヶ月前、国内でも権威あるコンクールに応募した作品が最終選考に残っていたのだが、まさか本当に受賞するなんて。
授賞式当日、静香が家族を連れてやってきて、どうしても一緒に行くと言って聞かなかった。
「菫は私の妹なんだから、菫の晴れ舞台を見届けなきゃ!」
しかし、そう言ったかと思うと、静香は少し残念そうにため息をついた。
「私も受賞できたらよかったんだけど。残念ながら、私は体が弱いから、絵を習う時間もなかったの。
でも、大丈夫。あなたが受賞すれば、私が受賞したのと同じだから!」
菫は何も答えなかった。しかし、胸の中に嫌な予感が広がっていた。
授賞式が始まり、ついに金賞受賞者を発表する時がきた。
菫は客席に座りながら、緊張で全身に汗をかいていた。
この賞は彼女にとって非常に重要だった。彼女の作品が認められること、そして、業界の仲間たちから評価されることを意味するからだ。
司会者が受賞者リストを取り出すと、その顔に一瞬、戸惑いの表情が浮かんだ。しかし、すぐに普段通りの表情に戻ると、高らかに宣言した。
「金賞の受賞者は――後藤静香さんです!おめでとうございます!」
会場は騒然となった。誰もがその名前に聞き覚えがなく、皆、声を潜めてひそひそと話し始めた。
「この後藤静香さんって誰だ?業界の新人か?」
「さあな。今回の金賞は『夕日』を描いた菫さんのはずだと聞いていたが!」
その場に凍りついた菫は、しばらく呆然としていたが、ようやく我に返った。主催者に問いただそうと立ち上がろうとした瞬間、仁に腕を掴まれ、引き戻された。
「やめろ。1時間前に俺が主催者に連絡して、受賞者を変更してもらったんだ。静香をステージに上がらせるためにな。
静香は、こうやって脚光を浴びるのが好きなんだ。これからはお前の作品は全部、静香の名前で発表しろ」
信じられない思いで菫が振り返ると、両親はステージ上の静香を誇らしげに見つめていた。そして、菫の方を向くと、気のない様子で言った。「静香のこと、そんなに目くじら立てるんじゃないよ。たかが賞の一つじゃないか」
勳は、深い眼差しでステージの上で輝く静香に全ての注意を奪われていた。菫が血の気の引いた顔をしていることには、全く気づいていなかった。
その瞬間、菫の全身は凍えついた。
またしても、静香に、自分の輝ける場所を奪われたのだ。
そして、それに加担したのは、ここにいる全員だった。
鳴り響く拍手の中、静香はすべての人に感謝を述べたが、菫の名前だけは、そこになかった。
後藤家に戻ると、菫は自分の部屋へ行き、すべての作品を引っ張り出した。
それから、3ヶ月分のお小遣いをこっそり貯めてやっと買ったぬいぐるみ。部屋にこもって一人で彫った手作りの人形。そして、着古してボロボロになった服やスカートも。
菫はそれらを抱えてリビングへ行くと、静香の目の前にすべて投げ捨てた。
静香は驚いて言った。「菫、何してるの?」
菫は床に散らばったものを指さし、落ち着いた口調で言った。「私の作品は、全部あなたにあげるようにって言われたでしょ?作品だけじゃないわ。私のもの、全部あげる」
そう言い放つと、菫は皆を見渡し、心の中で自嘲した。
父も、母も、兄も、勳も。もういらない。全部、静香にあげる。
第8話
菫は夕食も食べずに部屋に閉じこもり、最後の荷造りをしていた。
拓海と椿は、菫がただ拗ねているだけだと思い、ドアの外から文句を言い続けていた。
「最近ますますわがままになったわね。たかが作品のことで、静香にそんな態度をとるなんて!」
「まったくだ。生意気になったんじゃないか!」
家族が口々に責める中、勳がそっと菫の部屋のドアをノックした。
「菫、怒らないで。出てきて何か食べよう?」
菫はドアの方を振り返った。胸は張り裂けそうなのに、瞳に涙はなかった。
もう、あまりにも多くの涙を流しすぎて、泣くことさえできなくなっていたのだ。
ドアの外で、仁が不機嫌そうに勳を引っ張った。「勳さん、放っておけばいいよ。あいつは気を引きたいだけなんだ。いつまで持つか見ものね」
菫は笑った。
たった一晩だけよ。
だって、明日にはもうここを出ていくのだから。
翌日、菫はわざと早起きしたが、予想外のことにも、後藤家の人たちはもう誰もいなかった。
スマホを開いて初めて知ったのだが、みんなは静香を連れて山の上にある神社へ祈願しに行っていたのだ。
そこの神社はとてもご利益があるらしい。でも、彼ら自身の足で登らなければならず、日の出前に絵馬を奉納する必要があるそうだ。
なるほど、だからあんなに早く出発したんだ。静香のために祈願するつもりだったのね。
インスタには、家族それぞれが投稿していた。写真も、絵馬に書かれた願いも、全部、静香のことばかりだった。
【静香が穏やかに、いつまでも幸せでありますように!】
【私の可愛い娘。あなたの願いがすべて叶いますように!】
【静香の人生が、安らかで憂いのないものでありますように!】
勳は静香の写真は載せず、ただ絵馬に書かれた文字だけを投稿していた。
【穏やかな日々が、いつまでも続きますように!】
前世で、勳はこの神社によく来て、たくさんの絵馬を奉納していた。
普段は神様なんて信じない人なのに、ほとんど毎年この神社を訪れて祈願していた。
勳の絵馬に自分の名前が入っていたから、菫はずっと、彼の心にいるのは自分だと思い込んでいた。
でも、死ぬ間際になって、すべての絵馬の裏には、静香の名前が書かれていたことを知ったのだ。
つまり、自分の一方的な感動は何年にもわたって続き、全てが笑い話に過ぎなかったのだ。
幸い、神様はもう一度やり直すチャンスをくれた。そして自分も、すっかり目が覚めて、同じ過ちを繰り返すことはなかった。
スマホがピコンと鳴り、メッセージの通知が来た。
【後藤さん、島へのご移住、心より歓迎いたします。ただちに空港へお向かいください。スタッフがお迎えに上がります。島での毎日が、素晴らしいものでありますようお祈り申し上げます】
菫は微笑んでスマホを閉じると、前から用意していた後藤家との縁を切るための公正証書をテーブルの上に置いた。
家を出る前、彼女は何かを思い出したように立ち止まり、首にかけていたネックレスを外した。
それは昔、勳に告白が成功した時、彼から贈られたネックレスだった。
このネックレスを着ける者が、彼の妻となり、黒崎家の未来の女主人になるのだと勲は言った。
だが今、彼女はもはや、勲の妻だとか黒崎家の女主人だとかに、何の興味もなかった。
菫はそのネックレスを公正証書の上に置き、スーツケースを引いてドアを開け、家を出た。
その時になって、スマホが振動しているのに気づいた。
菫は一瞬ためらったが、やはりスマホを取り出した。
画面には十数件の不在着信が表示されていた。相手は拓海、椿、仁、そして勳だった。
グループチャットを開くと、たくさんのメンションが目に飛び込んできた。
【菫、静香が足を踏み外して山から落ちた!大量に出血してるから、すぐに病院に来て!】
【30分以内よ!今すぐ病院に来なさい!】
【静香に万が一のことがあったら、お前のせいだから!】
菫は少し間を置いてから、無表情でグループを退会し、一人ずつブロックしていった。
これから自分は、静香のための「血液バンク」でも、拓海と椿の次女でも、仁の妹でもない。ましてや、勳の婚約者などでは、断じてない。
自分は菫。ただの、菫だ。
菫は振り返って、20年以上も暮らしたこの場所を最後に一瞥した。そしてスーツケースを引き、迎えに来た車にためらいなく乗り込んだ。
車は走り去り、地面にはただ、真っ二つに折られたSIMカードだけが残されていた……