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野口亮太(のぐち りょうた)は、野口柚(のぐち ゆず)のことを命がけで愛している。周りの誰もがそう言っていた。 亮太は10年かけて柚を口説...

Chương (1)

第1章

野口亮太(のぐち りょうた)は、野口柚(のぐち ゆず)のことを命がけで愛している。周りの誰もがそう言っていた。 亮太は10年かけて柚を口説き落とし、ずっと大事にしてきた。彼女が少しでも眉をひそめると、心配でたまらなくなるほどだった。 それなのに、そんな亮太は、柚を三度も裏切ったのだ。 一度目は、取引先のパーティーでライバルに薬を盛られ、女子大生と一夜を共にしてしまった。 柚が離婚を切り出すと、亮太はその女子大生をすぐに海外へ行かせ、家の前で3日間も雨に打たれ続けた。 「柚、俺が悪かった。お願いだ、今回だけは許してくれ」 亮太の青ざめた顔を見て、柚は結局、彼を許してしまった。 第1話 野口亮太(のぐち りょうた)は、野口柚(のぐち ゆず)のことを命がけで愛している。周りの誰もがそう言っていた。 亮太は10年かけて柚を口説き落とし、ずっと大事にしてきた。彼女が少しでも眉をひそめると、心配でたまらなくなるほどだった。 それなのに、そんな亮太は、柚を三度も裏切ったのだ。 一度目は、取引先のパーティーでライバルに薬を盛られ、女子大生と一夜を共にしてしまった。 柚が離婚を切り出すと、亮太はその女子大生をすぐに海外へ行かせ、家の前で3日間も雨に打たれ続けた。 「柚、俺が悪かった。お願いだ、今回だけは許してくれ」 亮太の青ざめた顔を見て、柚は結局、彼を許してしまった。 二度目は病院でのこと。柚は、亮太があの女子大生と産婦人科にいるところを見てしまったのだ。 彼は目を赤くして説明した。「柚、2週間前に海外出張で事故に遭ったんだ。爆発しそうな車からあの子が助け出してくれて、それで命拾いした。 その後、彼女の妊娠がわかったんだ。おばあさんが命を盾に、赤ちゃんを残せって言ってきたんだ……」 亮太は柚を強く抱きしめ、震える声で言った。「頼むから、俺のそばを離れないでくれ。あの子が子供を産んだら、すぐに追い出すと誓う。子供は屋敷に預けて、二度とお前の前に現れさせないから」 柚は、その言葉を信じた。 三度目は、オークション会場でのことだった。亮太は柚と、彼女の母親の形見を競り合ったのだ。 そのサファイアのネックレスは、柚の亡き母親が一番気に入っていたものだった。そして、娘に残されたたった一つの形見でもあった。 だが、亮太はどんどん値段を釣り上げていく。そして最後にはとんでもない高値で競り落とし、ネックレスをあの女子大生に贈ってしまったのだ。 柚が個室に駆け込んで問い詰めると、亮太は疲れたように眉間をもんだだけだった。「佳奈は最近マタニティーブルーで、このネックレスが気に入ったらしい。 柚、彼女に譲ってやってくれないか?」 その瞬間、柚は不意に笑ってしまった。だが、それは涙がこぼれ落ちるほどの、悲しい笑みだった。 「もし、私が譲らなかったら?」 亮太は眉をひそめた。「柚、もうやめろ。佳奈はもうすぐ出産なんだ。子供が生まれれば、すべて元通りになる」 柚は彼を見つめた。心臓を斧で叩き割られたような衝撃だった。「元通りに?」 「元通り」って、どんな風に?亮太の目に自分しか映っていなかった頃のこと?それとも、大雨の夜に3時間も車を走らせて、自分のために苺のケーキを買いに行ってくれた時のこと? 彼は本当に、まだ覚えているのだろうか。 「亮太さん……」 後ろから村上佳奈(むらかみ かな)のうめき声が聞こえた。彼女はお腹を抱え、青ざめた顔で壁に寄りかかっている。「足を捻挫しちゃった……痛い……」 亮太は顔色を変えた。ほとんど反射的に柚を突き飛ばし、佳奈の元へ駆け寄ると、その体を横抱きにした。 彼の肩が強くぶつかり、柚はよろめいて後ろに下がる。そして、テーブルの角に額を強く打ち付けてしまった。背中には、一瞬で冷たい汗が噴き出した。 「亮太!」柚は震える声で亮太の名を呼んだ。 しかし彼は振り返りもせず、佳奈を抱いたまま大股で去っていく。柚には、慌ただしい後ろ姿だけが残された。 柚はその場に立ち尽くした。笑えば笑うほど、涙が溢れてくる。 命の恩人に加え、二人の間にできた子供。亮太、あなたはもう一生、あの女から逃れられない。 あなたと、どうやって元通りになれるっていうの…… 柚はよろめきながら立ち上がり、こめかみの血をそっと拭うと、車に乗り込んだ。 運転手がおずおずと尋ねる。「奥様、家に戻られますか?」 「ううん」彼女は目を閉じた。「弁護士事務所へ」 2時間後、柚は出来上がったばかりの離婚届を手に、病院へ向かった。 最上階の特別病室の前。ボディーガードは彼女を見ると、気まずそうに顔を伏せた。 柚は廊下の突き当りに立った。亮太が佳奈のためにフロアを丸ごと貸し切っているのが見える。医師も看護師も、呼べばすぐに駆けつける体制だ。そして亮太は、片時も離れずに佳奈のベッドのそばにいる。彼女が眉をひそめただけで、まるで世界が終わるかのように緊張していた。 「西町のあのケーキ屋さんのティラミスが食べたいな……」佳奈が甘えた声でねだる。 亮太は一瞬もためらわなかった。車のキーを手に取ると、すぐに外へ向かう。「待ってろ、すぐ戻る」 柚は物陰に立ち、心臓をえぐられるような痛みに耐えていた。 亮太が去った後、彼女は病室のドアを押して入った。 佳奈は柚を見るなり、たちまち目を赤くした。「私を責めにいらしたんですか?ごめんなさい、わざとじゃなかったんです。ただ、あのネックレスが本当に欲しくて……」 佳奈は涙を浮かべ、声を詰まらせて言う。「亮太さんはあなたから奪って私にくださいましたけど、あれは私が無事に出産して、あなたと元通りになるためなんです。さっきも私の世話をしてくれていましたけど、心の中はあなたのことでいっぱいでした。私にはわかります」 「二人きりなんだから、芝居はやめて」柚は、彼女の見事な演技を観る気にはなれなかった。「昔、亮太はあなたに10億円を渡して縁を切ろうとした。それでもあなたは妊娠して彼の前に現れた。何を望んでいるか、私にはよくわかる」 佳奈の顔から涙が消え、表情が凍りついた。 「もう、あなたたちのゲームに付き合うのはうんざり」柚は離婚届を差し出した。「この離婚届、私が直接渡しても亮太はサインしないでしょ。あなたが、彼に気づかれないようにサインさせて」 佳奈は唇を噛んだ。「誤解です。お二人の仲を壊そうだなんて、一度も思ったことは……」 「チャンスは一度きり」柚は彼女の言葉を遮った。「よく考えて」 佳奈はその書類をしばらく見つめていたが、やがて手を伸ばして受け取った。「……私たち家族三人のために、ありがとうございます」 家族三人。 柚の胸は、まるで鈍い刃物でえぐられたようだった。痛みで呼吸さえも震える。 「それじゃあ……あなたたち家族三人が、ずっと幸せに暮らせますように」 家に戻ると、柚は段ボール箱を一つ抱え、亮太に関するものを片付け始めた。 彼女と亮太は幼い頃から一緒に育った。思い出は、数えきれないほどある。 最初に箱に入れたのは、一冊のアルバムだった。 最初のページを開くと、子どもの頃の二人の写真があった。小さなスーツを着た亮太は、無表情で柚の隣に立っている。でも、その手はこっそりと彼女のスカートの裾を掴んでいた。 亮太の母親の野口由美(のぐち ゆみ)が言うには、あの日彼はどうしても一人で写真を撮りたがらず、柚と一緒じゃなきゃ嫌だと駄々をこねたらしい。 それが、亮太が初めて柚への独占欲を見せた時だった。 二つ目は、中学の制服のボタン。 卒業式の日、クラス中の女子が男子の第二ボタンを欲しがっていた。でも、柚は席に座ったまま動かなかった。すると放課後、机の中に亮太のボタンがそっと置かれていたのだ。そこには【俺のしかもらっちゃダメ】というメモが添えてあった。 あの頃の亮太は、もう野口家の跡取りという立場を利用して、他の男子を彼女に近づけさせないようにしていた。 三つ目は、ダイヤモンドの指輪。 柚が結婚できる年齢になったその日、亮太は待ちきれないとばかりに、街の巨大モニターでプロポーズした。ヘリコプターから降り注ぐバラの花びらの中で、彼の手にあったその指輪はただ静かに光っていた。 亮太はその指輪を自ら柚の指にはめ、愛情のこもった瞳で言った。「柚、これからの人生、俺はずっとお前のものだ」 …… もし佳奈がいなければ、本当に二人で添い遂げられると思っていたのに。 柚は自嘲気味に笑い、それら全てを段ボール箱に詰め込むと、ゴミ箱にまとめて捨てた。 翌朝、彼女は下の階の物音で目を覚ました。 部屋を出ると、使用人たちがブランドものの紙袋を次々とリビングに運び込んでいるのが見えた。 エルメスのバッグ、カルティエの宝飾品、シャネルのオートクチュール…… 佳奈はホールに立ち、か弱そうに首を振っていた。「亮太さん、こんなにたくさん……私、こんなものが欲しいなんて一度も……」 亮太は優しく彼女を見つめた。「いいから、受け取って。お前が喜んでくれれば、お腹の子も元気に生まれてくる」 亮太が言い終わるか終わらないかのうちに、柚の姿が目に入った。 彼の表情がこわばり、すぐに口を開いた。「柚、すまない。今回は佳奈のプレゼントしか買ってこなかった。お前が欲しいものは、今度買ってやるから」 柚が口を開く前に、佳奈が優しい声で言った。「亮太さん、私は柚さんが一番欲しいプレゼントをもう用意してあるわ」 そう言って、彼女は柚に近づき、書類封筒を手渡した。 柚が開けると、中には署名済みの離婚届が入っていた。 亮太のサインは、流れるような筆跡だった。昔、彼がラブレターに書いてくれた文字と、寸分違わぬ筆跡だった。 第2話 柚はサイン済みの離婚届を見て、心臓を見えない手でぎゅっと握りしめられるようだった。 佳奈は本当にやってのけたのだ。 いいわ。 これからあの三人は幸せに暮らすでしょ。そして自分は、今日から自分のためだけに生きる。 「柚、お前が一番欲しいプレゼントって何だ?」亮太が突然顔を近づけ、少し眉をひそめた。「どうして俺が知らないんだ?」 彼はそう言いながら手を伸ばしてきたけど、柚はさっとそれを隠した。 亮太は眉を上げて言った。「俺にも秘密か?」 柚は皮肉っぽく笑った。「あなただって、他の女を妊娠させて3ヶ月も私に隠してたじゃない」 亮太の顔色が変わった。思わず佳奈の方に目をやり、声を潜める。「この話はもうしない約束だろう?どうしてこの子を産んでもらうことにしたか、説明したはずだ……」 彼は少し言葉を切ると、急に優しい口調になった。「お前に隠していたのは、俺から離れていってしまうのが怖かったからだ」 自分が離れるのが怖い? でもね、亮太。人って、一番失いたくないものほど、簡単に手放してしまうものなのよ。 佳奈が突然、目を赤くした。「柚さん、全部私のせいです……あの夜、亮太さんの力になろうとした私がいけないんです。彼のおばあさんに妊娠がバレてしまったのも……お二人の仲を壊すつもりなんて、本当になかったんです……」 そう言って、目に涙をにじませ、この世の終わりのような顔をする。 亮太はすぐに佳奈の方を向いてなだめた。その声は、とろけるように甘い。「馬鹿なこと言うな。お前のせいじゃない」 柚は見ていられなくて、その場を去ろうと背を向けた。 亮太はそこでようやく気付いて、慌てて追いかけてきた。「柚、どこへ行くんだ?」 「ちょっと用事があるの」 亮太は眉をひそめた。「外はどしゃ降りだ。送ってやるよ」 言うが早いか、彼は使用人に振り返って指示を出した。「佳奈に冷たいものは触れさせないで。部屋の温度を2度上げてくれ。彼女は最近食欲がないから、スープに刺激物は入れないように……」 10分もの間、亮太は妊婦が避けるべきことを一つも漏らさないよう、細かく指示を出し続けた。 柚は玄関に立ち、静かに彼の姿を見つめていた。 ようやく指示を終えた亮太が、車に乗り込んできた。 柚は彼を見つめ、ふっと笑った。「亮太、あなたはきっと、良い父親になるわね」 亮太は、柚がそんなことを言うとは思わなかったのか、はっとした顔をした。 彼は柚の手首を掴んだ。その声には、痛みを堪えるような響きがあった。「柚、俺が自分の子だと認めるのは、お前が産んでくれた子だけだ。俺だって好きでこうしてるわけじゃないって、お前も分かってるだろ?だからそんな言い方はしないでくれよ……」 亮太の手のひらは相変わらず温かい。でも、もうその温もりは柚の心には届かなかった。 彼女は何も答えず、ただ黙って窓の外を眺めていた。 車の中は、一瞬にしてしんと静まり返った。 車が静かに走り出す。重い沈黙の中、空気を変えようと亮太が口を開いた。「柚、こんなに雨が強いのに、星見坂通りで何の用事だ?」 柚が答えようとしたその時、彼のスマホが鳴った。 「亮太さん……急にお腹がすごく痛くて……」スピーカーから、佳奈の泣きそうな声が聞こえてきた。 亮太の顔色が一瞬で変わった。「心配するな、すぐ戻る!」 電話を切るなり、彼は柚の方を向いた。「柚、ここから星見坂通りはもうすぐだ。タクシーで行ってくれるか?」 「うん」柚は静かにそう答え、ドアを開けて車を降りた。 叩きつけるような雨が、一瞬で柚の全身を濡らした。道端に立ち、亮太の車が走り去るのを見送りながら、彼女はふっと笑った。 もう少しだったのにね。自分が何をしに行くか、あなたも知ることができたのに、亮太。 風雨はあまりに強く、タクシーは全く捕まらない。柚は一人、嵐の中を歩いた。傘は突風にあおられて壊れ、雨と涙で視界がにじむ。 ようやく役所にたどり着いた時、彼女はすっかりずぶ濡れで、みすぼらしい姿になっていた。 「こんにちは、離婚します」柚は大事に抱えていた離婚届を差し出した。紙は少しも濡れていない。 職員は彼女の姿と離婚届を交互に見比べた。「こちらは本日お預かりします。戸籍の反映まで、通常一か月ほどかかりますのでご了承ください」 役所を出ると、雨はもう止んでいた。 柚は、急に晴れ渡った空を見上げた。胸の痛みが、少し和らいだ気がした。 離婚した後の毎日も、きっと今日みたいに晴れるだろう。 家に帰ると、リビングには誰もいなかった。 二階から亮太の優しい声が聞こえてくる。「星の王子さまは一匹のキツネに出会った……」 彼は佳奈のお腹の子に、読み聞かせをしているのだ。 柚は熱でぼーっとする頭のまま、布団に潜り込んだ。どれくらい眠っただろうか。ふと、喉が焼けつくような渇きで目が覚めた。 「水……」何度か呼んでみたが、隣の部屋からは読み聞かせの声が聞こえてくるだけだった。 「亮太さん、この子があなたに似て、かっこよくて頭の良い子に育ってくれたらいいな……」佳奈の甘ったるい声が聞こえる。 「そんなこと言うなよ」亮太が優しく笑う。「お前に似るのもいい。優しくて、純粋で……」 姿は見えなくても、今ごろ佳奈が恥ずかしそうに顔を赤らめている様子が、柚には目に浮かんだ。二人はまるで本当の夫婦のように、生まれてくる子どものための美しい夢を語り合っている。 柚はなんとか体を起こしてコップに手を伸ばしたが、力が入らずにひっくり返してしまった。 ガラスのコップは粉々に割れて散らばった。破片を拾おうと屈んだ瞬間、めまいがして床に倒れ込んでしまう。 そのせいで、手のひらは破片で血まみれになった。彼女は歯を食いしばって、一つひとつ破片を取り除き、解熱剤を探し出して飲み込んだ。 その間もずっと、隣の部屋からは楽しそうな笑い声が聞こえていた。 再びベッドに横になると、柚はふと大学時代を思い出した。熱を出した自分のために、亮太が夜中に女子寮の壁を乗り越えて、3日間もそばにいてくれたことを。 あの時、彼は目を真っ赤にして言った。「柚、お前が苦しんでると、俺はもっと苦しいんだ」って。 今はどう?亮太、あの言葉をまだ覚えてる? 涙が静かに枕に吸い込まれていく。 柚は目を閉じ、意識が闇に飲まれていくのに身を任せた。 第3話 「柚!やっと目が覚めたんだね!」 次の日、目が覚めると、柚の隣には亮太が寝ていた。 彼は柚のおでこに手を当てた。その目には心配の色が浮かんでいた。「どうして熱があるのに、俺を呼ばなかったんだ?俺が帰ってきた時、お前が気を失ってるのを見て、どれだけ焦ったか分かってるのか?」 あなたを呼んで、何になるの?あの時、あなたは佳奈と、そのお腹の子のそばにいたじゃない? 「もう大丈夫よ」柚は亮太の手を振り払いながら、かすれた声で言った。 亮太は眉をひそめた。「機嫌、悪いのか?」 「別に」 「別にって顔じゃないだろ」亮太は身をかがめ、柚の髪にキスをした。「前、乗馬クラブに行きたいって言ってただろ?一緒に行かないか?」 そう言いながら、彼は昔みたいに優しく、柚が起き上がるのを手伝おうとした。 変に思われたくなくて、柚はされるがままになっていた。 服を着替えて出かけようとした時、佳奈がおどおどした様子でドアの前に現れた。「亮太さん、柚さん、乗馬に行かれるんですか?私は乗馬はしたことなくて、一緒に行ってもいいですか?」 彼女は大きなお腹を撫でながら、期待に満ちた目で亮太を見つめた。 「だめだ、妊娠してるだろ」亮太は眉をきつく寄せ、有無を言わせない口調で言った。 佳奈は下唇を噛んだ。「でも、行きたいよ……毎日家にこもっているのは、赤ちゃんにもよくない……」 彼女の声はどんどん小さくなり、甘えているようにも聞こえた。 柚はもう聞いていられなくなり、くるりと背を向けてドアへと歩き出した。 彼女は亮太のことをよく知っていた――この男は、こんないじらしいお願いを断れないのだ。 案の定、柚が外に出たところで、後ろから亮太の折れたようなため息が聞こえてきた。「分かったよ。でも、俺の言うことを絶対に聞くんだぞ」 車に乗ってから、柚は佳奈が本当についてきたことに気づいた。 亮太は自ら佳奈を支えて車に乗せ、その腰にはずっと手を添えていた。まるで、壊れ物を扱うみたいに。 車を降りてからも、彼は至れり尽くせりだった。もともと誰を気晴らしに連れてきたかなんて、すっかり忘れてしまったかのようだ。 「段差に気をつけて」 「日差しが強いから、帽子をかぶれ」 「もっとゆっくり歩いて。疲れちゃうだろ」 その一言一言が、なまくらな刃物のように、柚の心をじわじわと切り刻んでいった。 彼女は黙って厩舎へ行き、おとなしそうな牝馬を一頭選ぶと、手慣れた様子で鞍をつけた。 これも、亮太が自ら教えてくれたことだった。20歳の誕生日を迎えた年、彼は自分をプライベートな乗馬クラブに連れて行き、一日中一緒に走り回った。 かつて自分に乗馬を教えてくれたその男は、今、別の女しか見ていない。そして、その女のためにプロテクターを着けてやり、自ら鐙を調整して、少しでも不快な思いをさせまいと気を配っている。 亮太は、佳奈が乗る馬の手綱をずっと握っていて、一瞬たりとも離さなかった。 やがて、彼のポケットでスマホが鳴った。 亮太はそれを取り出してちらりと見ると、少し眉をひそめた。 佳奈はすぐに気を利かせて言った。「亮太さん、仕事でしょ。私はもう慣れたから、一人で大丈夫」 亮太は心配そうに、彼女がしっかりと馬に乗っていることを何度も確かめてから、ようやく電話に出るために少し離れた場所へ歩いて行った。 柚は馬を止め、乗馬クラブの端から静かにその光景を見ていた。 日差しが亮太の背中を長く伸ばしている。彼は電話をする時、癖で人差し指でスマホの裏を叩く。それは、柚がよく知っている夫の小さな仕草だった。 「柚さん」佳奈が突然、馬に乗って近づいてきた。甘い笑みを浮かべている。「ねえ、馬が二頭ぶつかったら、どうなるんでしょうね?私、見たことないんです」 答えを待たずに、彼女は力いっぱい馬の腹を蹴った。二頭の馬は瞬時にぶつかり合い、驚いた牝馬が同時に前脚を高く上げた―― 柚は必死に手綱を握りしめた。しかし、彼女の馬はすっかり興奮してしまい、呻き声を上げながら柵に向かって突進していった。 視界の隅で、佳奈が「うっかり」手綱から手を放し、馬の背から落ちていくのが見えた。 「佳奈!」 亮太は、ほとんど飛びかかるように駆け寄り、佳奈が地面に落ちる寸前で受け止めた。 それと同時に、驚いた馬の大群が柵を突き破り、柚の方へ猛然と突進してきた。 「亮太……助けて!」 柚は揺れる馬の上で叫んだが、その声は激しい蹄の音にかき消された。 彼女の目に入ったのは、気を失った佳奈を抱きかかえて立ち上がり、一度も振り返ることなく乗馬クラブの外へと走り去る亮太の姿だった。 蹄が巻き上げた土埃で目がかすむ。手綱が手から滑り落ち、体が宙に投げ出されたその時、柚はふと思い出した。20歳のあの日、同じ乗馬クラブで亮太が言った言葉を。「柚、お前が俺を呼べば、必ず振り返る」 風切り音の中、彼女は地面に強く叩きつけられた。 意識が遠のく中、最後に見たのは、亮太が佳奈を抱えて車に乗り込む後ろ姿だった。それは、ひどく慌てていて、切羽詰まっていた。 肋骨のあたりが鋭く痛んだけれど、心が引き裂かれる痛みには敵わなかった。 柚は砂の上にうずくまり、だんだん近づいてくる蹄の音を聞きながら、そっと目を閉じた。 第4話 柚は、鋭い痛みで目を覚ました。 目を開けると、そこは病院だった。少し顔を横に向けると、亮太がベッドのそばに座っていた。目の下にはうっすらとクマができている。 「柚、目が覚めたか」彼はすぐに身を乗り出し、心底ほっとしたような声で尋ねた。「どこか具合が悪いところはない?」 柚は口を開こうとしたけど、喉がからからで声が出なかった。 最後に見た光景を思い出す。亮太が佳奈を抱きかかえ、慌てて走り去る後ろ姿と、自分に迫ってくる馬のひづめ。 「佳奈が怪我をしたんだ」亮太が突然、焦った様子で口を開いた。「あの子は血が止まりにくい体質で、今も出血がひどい。でも病院の血液が足りなくて……」 柚の心は、底なし沼に沈んでいくように、どんどん重くなっていった。 「唯一、血液型が合うのがお前なんだ」亮太は彼女の手を握りしめて言った。「柚、あの子に血を分けてやってくれないか。お願いだ」 ありえない。そんなの、あんまりだ。 柚は、思わずその手を振り払う。すると肋骨の傷が痛み、息をのんだ。 自分を馬に踏まれるまま放置したくせに、説明一つない。それなのに、第一声がこの怪我だらけの体で佳奈を助けろ、だなんて。 「行かないわ」声はかすれ、一言一言がまるで刃物のようだった。 亮太は眉間にしわを寄せた。「彼女のお腹の子どものためだと思って、我慢してくれ。赤ちゃんが産まれたら、すべて終わるから」 柚は全身が凍りつくのを感じた。 彼女は亮太の瞳を見つめ、そこに少しでも罪悪感やいたわりの気持ちを探した。でも、20年間も愛し続けたその瞳に映っていたのは、焦りと苛立ちだけだった。 「野口さん、村上さんの容態があまり……」ドアの隙間から看護師が小声で告げた。 亮太はすぐさま立ち上がると、ほとんど無理やり柚を抱き起こした。「柚、お願いだ」 柚は、なすすべもなく採血室へ連れていかれた。 注射針が血管に入る瞬間、息が詰まるほどの痛みを感じた。 「すごく痛みますか?」看護師が不思議そうに聞いた。「そんなはずは……できるだけそっと刺したんですが」 柚は首を横に振った。でも、涙は止まることなく流れ落ちた。 昔から注射がいちばん苦手だった。以前は採血のたびに、亮太が自分の目を手で覆って「柚、いい子だ。すぐ終わるからな」って、優しくあやしてくれたのに。 今も同じように血を抜かれているのに、彼は採血室の外でひっきりなしに時計を気にして、こちらを見ようともしない。 400ミリリットルの血を抜き終わると、柚の目の前は真っ暗になった。 看護師に支えられて椅子に座ると、亮太がこちらを振り返りもせず、佳奈の病室へ駆け込んでいくのが見えた。 柚はふらつく足で後を追い、少しだけ開いたドアの外に立った。 ベッドの上では、佳奈が真っ青な顔をして横たわっていた。手首には分厚い包帯が巻かれている。 亮太はベッドサイドに座り、彼女の手を固く握っている。その眼差しは、とろけるように優しかった。 「怖がらなくていい。もう大丈夫だ」彼は優しく声をかける。「お腹の赤ちゃんも無事だよ」 柚の視線は、佳奈の手首に釘付けになった。 そこには、見覚えのあるお守りの数珠が巻かれていた。 あれは3年前、自分が神社でいただいてきたお守りだ。その時、亮太は大切そうにそれを手首につけて、「一生外さない」と言ってくれたのに。 それが今、別の女の手首にあるなんて。 自分が心を込めて祈願してきたお守りを、こともあろうに佳奈に渡してしまったのだ。 柚は胸が張り裂けそうになり、もう見ていられなかった。さっと背を向け、その場を離れた。 病室に戻ると、彼女はベッドの上で体を丸め、枕が濡れるのもかまわずに泣き続けた。 心が張り裂けそうになると、本当に息もできないくらい苦しいんだと、初めて知った。 翌朝、看護師が回診にやって来た。 「このカルテの空欄を埋めていただけますか」看護師が書類を差し出した。 柚は機械のようにペンを走らせる。そして婚姻状況の欄で一瞬手が止まると、そこに力強く「未婚」と書き込んだ。 「ここ、書き間違えていませんか?」看護師が驚いて尋ねる。「既婚じゃなくて未婚にチェックが入っていますが……野口さんは、ご主人ですよね?」 「違います」柚は静かに答えた。「もうすぐ、夫ではなくなりますから」 「柚、何を言ってるんだ?」 その時、病室のドアが勢いよく開けられた。亮太が戸口に立ち、信じられないという表情で彼女を見つめている。 第5話 病室の空気が、一瞬にして凍りついた。 気まずそうな看護師は、カルテを抱えて足早に立ち去った。病室には柚と、ドアの前に立つ亮太が取り残され、二人は視線を交わした。 「もしかして、まだあのことで怒っているのか?」亮太は何かに気づいたように、柚に近づき、その頬に触れようと手を伸ばした。「人の命がかかっていたんだ、柚。仕方がなかったんだ」 柚が顔を背けて避けると、彼の指は宙をさまよい、一瞬こわばった。 亮太は手を引っ込め、優しい口調になった。「この忙しさが落ち着いたら、埋め合わせに雪山リゾートへ行こう。それでいいだろ?」 彼女は疲れたように目を閉じ、何も答えなかった。 亮太はしばらく待っていたが、柚が口を開かないので、こう尋ねた。「いつ退院できるんだ?」 柚はかすかに何かを察して、目を開けて彼を見た。「なにか用?」 亮太は少し躊躇してから言った。「佳奈が、鶏と野菜の煮込みスープを飲みたがっていて……お前のが一番うまいんだ。他のやつが作ったんじゃ、どうも信用できなくてな」 柚は呆然とした。一瞬にして、あらゆる感情がこみ上げてきた。 悲しみ、怒り、苦痛、そしてあまりのばかばかしさ……亮太に問いただしたかった。自分のことを一体なんだと思っているの?妻?それとも、佳奈専用の料理人? でも結局、彼女はただ静かにこう言っただけだった。「わかったわ。退院したら、作って届けてもらうから」 亮太はぱっと顔を輝かせると、身をかがめて柚の額にキスをした。「柚、お前は本当に物分かりが良くて助かる」 柚は無感覚にそのキスを受け入れた。ええ、自分は本当に物分かりがいい女よ、と心の中で呟いた。 亮太の愛人のせいで肋骨を折られたのに、それでも起き上がってその女のためにスープを作るほど、物分かりがいいんだから。 「ただ、赤ちゃんが無事に生まれてきてほしいだけよ」柚は静かに言った。 亮太はようやく異変に気づき、眉をひそめて彼女を見た。「お前……前は、あの子のことをすごく嫌がってなかったか?」 柚は唇の端をかすかに持ち上げた。「今はもう、なんとも思わないわ」 だって、自分も望んでいるもの。彼ら家族三人、誰一人欠けることなく、幸せになってほしいと。 亮太は柚の顔から何かを読み取ろうとするかのように、じっと見つめていた。だが、結局は腕時計に目を落とし、立ち上がっただけだった。「佳奈が薬を飲む時間だ。また後で様子を見に来る」 ドアが閉まった瞬間、柚はゆっくりとベッドに横たわり、天井を見上げながら、ふっと笑みを漏らした。 それから丸5日間、亮太は姿を見せなかった。 柚は退院して家に帰ると、約束通りスープを作り、運転手に頼んで病院へ届けさせた。 それから、荷造りを始めた――パスポート、マイナンバーカード、そして普段着を数枚スーツケースに詰めていく。 ベッドサイドには二人の写真が飾ってあった。彼女はしばらくそれを見つめていたが、やがて写真を裏返しに伏せた。 6日目の夜、亮太が突然帰ってきた。しかし、佳奈の姿はなかった。 「佳奈さんは、一緒じゃないの?」柚は思わず尋ねた。 亮太は彼女をじっと見つめ返した。「まだ病院で休んでいる」 「まだ退院できないの?」柚は眉をひそめた。 亮太は静かに頷くと、彼女の前に立った。「いない方が好都合だ。柚、前に雪山リゾートへ連れて行くと約束しただろう。もう手配は済んでいる。今から行くぞ」 柚が返事をする間もなく、亮太はすでに彼女の手首を掴んで、外へと歩き出していた。 彼の力はとても強く、柚はよろめいた。そして、かすかな不安を感じた。 亮太の表情はどこかおかしい。その瞳には、まるで氷が張っているかのようだった。 道中、車の中は不気味なほど静かだった。 亮太はハンドルを強く握りしめ、その指の関節は白くなっていた。 柚は、窓の外を猛スピードで流れていく景色を眺めながら、どんどん速くなる胸の鼓動を感じていた。 雪山リゾートに着いた頃には、もう夕方だった。 さらに山の上へ向かおうとした時、亮太が突然言った。「柚、忘れ物をした。車に取ってくるから、ここで待っていろ」 柚は頷いた。 しかし、冷たい風が吹き荒れる中、コートをきつく体に巻きつけて待ったが、3時間経っても彼は戻ってこなかった。 あたりがすっかり暗くなった頃、ようやく亮太の電話が繋がった。 「いつ戻ってくるの?」柚の声は吹雪の中で震えていた。 だが、電話の向こうはただ沈黙が続くばかりだった。長い沈黙の後、雪よりも冷たい亮太の声が響いた。「もう戻らない。車は引き揚げた。帰りたければ、自分でなんとかしろ」 「どういうこと?」 「お前への罰だ」彼の声は、柚が聞いたこともないほど冷たかった。「子供が生まれるまで我慢すればいいと言ったはずだ。なのに、お前は佳奈のスープに流産させる薬を入れた。彼女はもう少しで流産するところだったんだぞ。柚、どうしてお前はこんな人間になってしまったんだ?」 亮太の声色に含まれる、底冷えのするような失望に、柚は全身の血が凍りつくのを感じた。 流産させる薬?もう少しで流産するところだった? 「やってないわ!」 「まだ言い訳するのか!」亮太はついに声を荒らげた。「スープはお前が作ったんだ。お前じゃなければ、他に誰がいる?まさか佳奈が自分で自分を流産させようとしたとでも言うのか?彼女は、自分の命より赤ちゃんを大事にしているんだぞ!」 吹雪はますます強くなり、柚のまつ毛には霜が降りた。「つまり、あなたは私を信じてくれないのね……」 「どうやって信じろと?」亮太は低い声で言った。「自分で歩いて帰ってこい。そして、よく反省するんだな」 電話が切れた瞬間、柚は雪の中に立ち尽くした。スマホを握る指先は、すでに凍えて紫色になっていた。 亮太の声がまだ耳の奥で響いている。まるでナイフのように、彼女の全身を突き刺し、痛みを走らせた。 ふと、入籍した日のことを思い出した。役所の壁に自分を追い詰めて、亮太は言った。「柚、もし逃げようものなら、一生俺のそばに閉じ込めてやる」と。 その彼が今、自らの手で、自分をこの雪山に置き去りにしたのだ。 吹雪がますます激しくなる中、柚はコートを固く合わせて山を下りようとした。その時、遠くから地鳴りのような轟音が聞こえてきた。 電話が切れた後の無機質な音と、風雪の音が混じり合う。 雪崩だ。 振り返って逃げようとしたが、天を覆うほどの雪の波に飲み込まれてしまった。全身が雪に埋もれた時、右足に耐えがたい痛みが走った。 柚は震える手でスマホを取り出し、必死に亮太に電話をかけた。 7回目のコールで、ようやく繋がった。 「亮太!雪崩が、私――」 「もしもし?」受話器から佳奈の甘ったるい声が聞こえてきた。「今なんて言いましたか?よく聞こえませんね」 吹雪の音に混じって、背景から聞こえる亮太の優しい声が耳に入った。「誰からの電話だ?」 「間違い電話よ」佳奈は軽く笑った。「亮太さん、あなたのお味噌汁、本当に美味しいわ。この前、誰かさんに薬を盛られてから、あなたがこうして直接作ってくれるようになって、私もずっと安心よ」 雪の塊が背中にぶつかり、柚はもう体を支えきれず、ゆっくりと雪の中に倒れていった。 意識が遠のく最後の瞬間、彼女はぼんやりと結婚式の光景を見た。亮太は自分の前にひざまずき、こう言ったのだ。 「柚、この人生でもしお前を裏切るようなことがあれば、俺は……」 雪が、降り積もる。 言い終えることのなかった誓いの言葉を、すべて覆い隠すように。 第6話 柚が目を覚ますと、ベッドのそばには亮太がいた。彼の目は、怖いくらい真っ赤だった。 亮太は柚の手を握り、ひどく震える声で言った。「柚、雪崩が起きるなんて、本当に知らなかったんだ……ごめん、本当にごめん……」 指先は冷たいのに、手のひらは汗でびっしょりだった。まるで、彼女がいなくなってしまうのをひどく怖がっているかのようだった。 「俺を殴れよ。罵ってくれ。なんでもいいから……」 バンッ―― 病室のドアが突然開けられ、佳奈が飛び込んできた。その目は赤く腫れあがっていた。「柚さん、ぜんぶ私のせいです。どうか亮太さんのことは責めないでください……」 彼女は可憐に泣きじゃくりながら、まるで自分がひどく傷ついたかのように言った。「亮太さんはあなたのことがどれだけ心配で……雪崩のことを聞いて正気を失ったみたいに、危険もかえりみずあなたを探しに飛び込んでいったんですよ。今も体中、傷だらけで……」 「もういい!」亮太は佳奈の言葉をさえぎると、彼女をくるりと腕の中に抱き寄せた。「これはお前のせいじゃない。それに先生が言ってたろ、泣いちゃだめだって。お腹の子によくない」 柚はその光景を見て、ふっと笑った。 なんて皮肉なの。自分は死の淵から戻ってきたばかりだというのに、亮太は別の女が「泣いていないか」を心配しているなんて。 「出ていって」柚の声はかすれていた。「二人とも、出ていって」 亮太はぽかんとした。「柚……」 「出て行ってって、言ってるの!」 柚はベッドサイドのコップをひっつかむと、床に思い切り叩きつけた。ガラスの破片が飛び散る。 亮太はとうとう佳奈を連れて部屋を出ていった。ドアを閉めるときも、しきりに彼女の方を振り返っていた。 それからの日々、亮太は手を変え品を変え、柚のご機嫌をとろうとした。 空輸された花束、限定品のバッグ、それに心づくしの優しい言葉……でも、柚はただ黙っているだけだった。 もう、亮太に腹を立てることも、笑いかけることもしなくなった。 彼を見る目は、まるで知らない人を見るかのようだった。 退院の日、亮太が自ら柚を迎えにきた。 柚はスーツケースを引きずり、まっすぐタクシーの方へ歩いていった。 しかし、亮太は朝早くから病院の入り口で待っていた。 柚は彼の車に乗りたくなくて、くるりと背を向けて立ち去ろうとした。 だが亮太は、突然トランクから鞭を取り出すと、彼女の前に差し出した。「柚、これで俺を叩け」 柚はぽかんとした。 「俺を叩いて、お前の気が晴れて、俺を許してくれるなら……」亮太の声は低くかすれていた。「好きなだけ叩けばいい」 彼は一瞬ためらうと、今度は口調を和らげた。「今日は身内だけの食事会があるんだ。もう機嫌を直してくれよ、な?」 柚は亮太を見て、急におかしくなってきた。 この男はまだ、自分たちが昔と同じだと思っているのだろうか? 過ちを犯して、自分が怒って、彼がなだめたら、それで許してもらえる。そんな関係だと? 亮太は間違っていた。完全に、間違っていた。 柚は鞭を受け取らず、くるりと向き直って亮太の車に乗り込んだ。 彼を許したわけじゃない。ただもう……どうでもよくなっただけ。 道中、亮太はひっきりなしに話題を振ってきた。 会社の近況、子供の頃の面白い話、しまいには初めてのデートで柚が噴水に落ちた時の失敗談まで持ち出した。もし昔の柚だったら、とっくに顔を真っ赤にして亮太の口をふさいでいたはずだ。 でも今の彼女は、ただ窓の外を眺めて、一言も口をきかなかった。 野口家の屋敷は、煌々と明かりが灯っていた。 柚がリビングに足を踏み入れた途端、ソファに座る佳奈の姿が目に入った。亮太の祖母・野口撫子(のぐち なでしこ)が、親しげに佳奈の手を取って話しかけている。 亮太はとっさに柚の手首をつかんだ。「おばあさんがどうしても彼女に会いたいって言うから……お前が怒ると思って、言えなかったんだ」 柚はそっと手を引き抜いた。「平気よ」 彼女は、本当に、もうどうでもよかったのだ。 撫子は佳奈の手を握り、慈愛に満ちた笑みを浮かべていたが、柚に目を向けた途端、その顔は冷え切ったものに変わった。「嫁に来てずいぶん経つのに、子供の一人も産めないなんて!佳奈ちゃんは違うわねぇ、本当に可愛らしい。いつでも私に会いに来てね……」 柚の手が、ぴくりと止まった。いつだったか、撫子は自分のことも実の孫娘のように可愛がってくれていたのに。 いつから変わってしまったんだろう?たぶん、自分が「子供は欲しくないです」と言った、あの瞬間からだ。 でも、子供を望まないというのは、決して自分一人で決めたことではなかった。 プロポーズの後の、あの雨の夜を覚えている。マリッジブルーで親友の家に隠れて、亮太に会うのが怖かった。 彼は雨の中、街中を探し回り、とうとう午前3時に親友の家のドアを叩き破らんばかりの勢いで開けると、ずぶ濡れのまま自分の前にひざまずいた。「柚、俺が何か間違ったことをしたか?」 自分は息も絶え絶えに泣きじゃくった。「怖い……痛いのが怖い……結婚するのも怖い……子供を産むのは、もっと怖い……」 あの時、亮太はなんて言ったんだっけ? 彼は自分の顔を両手で包み込み、一語一語、噛みしめるように約束した。「じゃあ、子供は作らないでおこう。家から何か言われたら、俺の方に原因があるってことにするから」 それなのに今、「俺の方に原因がある」とまで言ってくれた男が、佳奈のために、甲斐甲斐しくマタニティミルクを用意している。 第7話 柚はもう聞いていられなくなり、裏庭のプールへと向かった。 夜風が少し肌寒い。柚がプールサイドに腰を下ろすと、すぐに佳奈がついてきた。 「柚さん」佳奈は膨らんだお腹を撫でながら、甘く微笑んだ。「亮太さんは、赤ちゃんが生まれたら、私に一戸建てを買ってくれるって言っていましたわ。 あ、そう、あの夜、亮太さんが薬で朦朧としてた時、なんで私を抱いたか知っていますか?」彼女は柚の耳元に顔を寄せた。 「あのパーティーの夜、私が着ていたのは、あなたがいつも着ているのと同じデザインの白いワンピースでした。彼はあなたと見間違えたんです。だから、今の私があるのは、あなたのおかげというわけですね……」 柚はゆっくりと振り返り、何かを言いかけた。 ザブン。 佳奈が突然プールに真っ逆さまに落ち、大きな水しぶきが上がった。 「助けて!赤ちゃんが――」彼女は水の中でもがき、悲痛な叫び声を上げた。 その声を聞きつけた皆が駆けつけたとき、目にしたのはこんな光景だった。 水の中でもがく佳奈と、そのそばで無表情に立ち尽くす柚。 野口家は大騒ぎになった。 亮太がプールに飛び込んで佳奈を助けようとしたとき、撫子の平手打ちが柚の顔に飛んだ。「なんてことを!謝って!」 殴られた衝撃で柚の顔が横を向き、口の端から血がにじんだ。 彼女はゆっくりと顔を戻し、ふいに笑った。「ええ、謝ります」 そう言うと柚は、助け上げられたばかりの佳奈の腕を掴み、再びプールの中へ突き落とした。 「きゃあ――」 撫子が悲鳴を上げた。 柚は腕にはめていた野口家に代々伝わるヒスイの腕輪を外した。それは彼女が嫁いだ時に、撫子が自らの手ではめてくれたものだ。そして、それを地面に叩きつけた。 パリン。 腕輪はいくつかに砕け、月明かりの下で冷たく光った。 背を向けてその場を去ろうとすると、後ろから亮太が信じられないといった様子で柚の名前を呼ぶのが聞こえた。 でも今度こそ、彼女は振り返らなかった。 柚が家に帰ってまもなく、ドアが勢いよく開けられた。 嵐のような勢いで亮太が入ってきた。スーツの上着はずぶ濡れで、髪の毛からはまだ水が滴っている。慌てて追いかけてきたのは明らかだった。 彼は息を切らし、その瞳には怒りのような、それでいて怯えているような、複雑な感情が渦巻いていた。 「私は悪くないわ」柚は亮太を冷ややかに見つめた。「それでも謝れって言うなら、離婚しよう」 「離婚」という言葉が出た途端、亮太の顔はみるみるうちに青ざめていった。 「そんなこと言うな!」彼はすっかり狼狽し、足早に駆け寄ると、柚を強く抱きしめた。「分かってるだろ、お前と離婚したら、俺は死んだも同然なんだ!」 亮太の赤くなった目元を見て、柚はなんだかおかしくなった。 「じゃあ、私の気持ちは?」彼女は静かに尋ねた。「ねぇ、亮太。あなたは私のこと、考えたことある?」 亮太は固まった。 「佳奈とあの子のことで、お前が傷ついてるのは分かってる。でも、おばあさんは死ぬとまで言って聞かないし、佳奈は俺の命の恩人なんだ。中絶しろなんて、言えるわけないだろ?」彼の声はかすれていた。「柚、頼むから、俺のことも分かってくれよ」 「だからあなたは皆のことを考えていたのね……」柚は口の端を歪めた。「でも、私のことは考えてもみなかったんだね?」 亮太は何かを言おうと口を開きかけたが、結局はただ柚を強く抱きしめることしかできなかった。 「もういい、もういいから」彼は低い声でなだめるように、子供をあやすように柚の背中を軽く叩いた。「この話はこれでおしまいだ。おばあさんには俺から説明しておく。あの子が生まれれば、きっとすべて元通りになるから……」 亮太の腕に抱かれ、慣れ親しんだモミの木の香りを嗅ぎながら、柚はひどい疲れを感じていた。 亮太の腕の中は相変わらず暖かく、心臓の音も落ち着いている。でも、彼女の心は少しずつ冷えていった。 もう、元には戻れない。 永遠に。 亮太、自分は新しい人生を始める。そしてそこには、もうあなたの居場所はない。 第8話 その日から、亮太は何かを察したのか、柚のそばから片時も離れなくなった。 一日中柚にべったりで、彼女がバスルームに行く時でさえドアの外で待っているほどだった。 時々、隅の方で佳奈が目を赤くして立っているのが見えたけど、亮太は眉をひそめるだけで、気づかないふりをした。 「柚」ある朝、亮太は急に金の箔押しがされた招待状を取り出した。少年のように目を輝かせながら言う。 「今日は母校の創立百周年記念パーティーがあるんだ。みんなで集まろうって話になっててさ。お前はずっと家にこもりきりだったから、いい気分転換になると思う。懐かしい友達にも会えるし、行ってみないか?」 招待状に箔押しされた校章を見つめていると、柚はふと10年前のことを思い出した。あの時も彼はこうやってバスケの試合のチケットを手に、教室の入口で自分を待っていたっけ。「柚、一緒に行かないか?」って。 じゃあ、行ってみようかな。 どのみち、これが最後になるんだから。 パーティー当日、亮太は最初から最後まで柚の手を離さなかった。 昔のクラスメイトたちは「学校のスターカップルは今も健在だな」なんて囃し立てた。中には、亮太が柚のために限定版のCDを買おうと、一晩中お店に並んでくれた話を持ち出す人もいた。 亮太は笑顔で柚の腰を抱き寄せると、指先でそっと撫でた。それはまるで、言葉にならないご機嫌取りのようだった。 「俺たちのタイムカプセル、覚えてるか?」突然、委員長が箱を一つ持ってきた。「10年前のみんなが書いた手紙だ。今、持ち主に返すぞ」 みんな、我先にと自分の手紙を受け取りに行った。 柚が自分の手紙を開けようとした、その時。亮太の体が急にこわばった。 彼のスマホが鳴ったのだ。 着信画面には「佳奈」と表示されていた。 亮太はためらうように柚のことを見て、結局、廊下に出て電話に出た。 1分もしないうちに、彼は青ざめた顔で戻ってきた。「柚、佳奈が転んだらしくて、今、病院にいるって……」 「行ってあげなよ」柚は亮太の言葉を静かに遮った。「赤ちゃんの方が大事でしょ」 亮太はほっとしたように彼女の額にキスをした。「すぐ戻るから」 柚は、急いで去っていく亮太の後ろ姿を見送ると、タイムカプセルの箱の前に歩み寄り、彼の手紙を探した。 封筒には【26歳の亮太へ】と書かれていた。柚は少しだけためらったが、思い切って封を開けた。 便箋は黄ばんでいたけれど、そこに書かれた文字ははっきりと読むことができた。 そこには、16歳の亮太の、勢いのある字が並んでいた。 【26歳の亮太へ: 今頃はもう、柚と結婚してるよな?お前のことが心底うらやましい。だってお前が送っている毎日は、俺がずっと夢見てたものなんだから。 だから、柚のことを絶対に大切にしろ。骨の髄まで愛してやれ。もしそうしなかったら、俺が絶対にお前を許さないからな。 毎日、温かい牛乳を飲ませてやれよ。あの子は胃が弱いから。 オーロラも見に連れて行ってやれよな。彼女もう何年も前から見たいって言ってるんだから。 柚が雨の日を嫌いなことも、桃アレルギーなのも、ちゃんと覚えておけよ。 それから、暗いところが苦手なのも忘れるな。だから、絶対に一人で夜道を歩かせたりするなよ】 そして手紙の最後に、小さな文字で、柚へのメッセージが一行だけ添えられていた。 【柚、もし10年後の俺がお前を大事にしていなかったら、俺のもとを去ってくれ。そして、二度と俺を許さないでほしい】 柚はその文字を指でそっと撫でた。こらえていた涙が、ついにこぼれ落ちた。 「うん」彼女は誰もいない空間に向かって小さく呟いた。「あなたの言う通りにするね」 パーティーが終わると、柚はクラスメイトたち一人ひとりとハグをして別れの挨拶をした。 委員長は目をうるませながら言った。「次の同窓会も、またみんなで集まろうぜ!」 もう、次なんてないのに。 会場を出た柚は、そのままタクシーを拾って役所へ向かった。 今日は切り替わる日だ。彼女はついに新しい戸籍を受け取り、この婚姻関係に終止符を打つことができる。 役所の職員は、「こちらが新しい戸籍になります。内容にお間違いはありませんか?」と念を押すように尋ねてきた。 「はい」受理印が押されるのを見つめながら、柚は答えた。胸にぽっかりと穴が空いたような感覚と、不思議なほどの解放感が同時に押し寄せてきた。 役所を出る前に、彼女はこれまでの自分と決別するように、全ての連絡先とアカウントを消した。そして、一枚の片道航空券を買った。 飛行機に乗り込むと、窓の外は血のように赤い夕焼けだった。 外を眺めながら、柚はふと18歳の日のことを思い出した。下校途中の自分を待ち伏せして、亮太は言った。 「柚、お前は俺のものだ。絶対に逃がしたりしない」 亮太、あなたは間違ってた。 今回、自分はちゃんと逃げられたんだから。 そして、もう二度と帰ってくることはない。