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元夫の命令?即再婚
私は鷹宮柚葉(たかみや ゆずは)。 三年の恋をして、三年の結婚をした―― 夫・鷹宮宗一郎(たかみや そういちろう)は、とうに私に飽きてい...
Chương (1)
第1章
私は鷹宮柚葉(たかみや ゆずは)。
三年の恋をして、三年の結婚をした――
夫・鷹宮宗一郎(たかみや そういちろう)は、とうに私に飽きていた。
離婚を盾に脅され、命を懸けて掴んだレースの表彰台を、彼の新しい恋人・一条美緒(いちじょう みお)に譲れと言われる。
私は迷わず、離婚届にサインした。一秒でも早く、この結婚を終わらせるために。
――それなのに。
宗一郎は花束を抱え、私が捨てた指輪を手に、大型ビジョンを使って、復縁を迫ってきた。
その光が消えたのは、一瞬だった。
黒沢晃(くろさわ あきら)が私の腰を抱き、背を向ける。
「俺の妻にプロポーズするなんて、いい度胸だな」
第1話
ランキングレース最終ラップでアクシデントが起きた。マシンは時速200キロを超えたままタイヤバリアに突っ込み、私――鷹宮柚葉(たかみや ゆずは)は、脛の骨を折った。
救急搬送が間に合い、命だけは拾った。
それでも――表彰台の端、かろうじて3位には食い込めた。
病室のベッドに横たわりながらも、胸の奥は不思議と高鳴っていた。この朗報を、夫の鷹宮宗一郎(たかみや そういちろう)に自分の口で伝えたかった。また一つ、彼のクラブに栄誉を持ち帰れたのだと、誇らしく言いたかった。
けれど私の目に飛び込んできたのは、宗一郎が一条美緒(いちじょう みお)を抱き寄せ、満面の笑みで祝杯をあげる写真だった。
【新人ドライバー・一条美緒、鮮烈デビューで3位入賞】
そんな見出しのトレンド記事と、レース速報。
――私が、命を削ってまで掴んだ順位とトロフィー。それは、レースにすら出ていない美緒の手の中で、まばゆく輝いていた。
待っても、待っても来ない。ギプスが外れ、退院できるほど回復するまで、宗一郎は、一度たりとも病院に姿を見せなかった。
退院したその足で、親友の西野梓(にしの あずさ)に付き添われながら、私はチームのクラブハウスへ向かった。
宗一郎専用の個室の前に立つと、扉の向こうから絶え間ない笑い声が漏れてくる。
「なあ宗一郎。柚葉のエントリー情報、書き換えて順位を美緒に回したんだろ?それで、あいつ納得したのかよ?」
宗一郎はグラスを手に取り、ゆっくりと一口含んだ。
「納得も何もねえだろ。俺が右って言えば右、左って言えば左だ。家じゃ犬より素直なんだからな」
場の空気が一気に緩み、どっと笑いが起きた。
「そりゃそうだ。この社交界で知らない奴はいねえよ。柚葉が一番執着してるのは、鷹宮夫人って肩書きだろ。ハハ!」
宗一郎は腕の中の美緒を見下ろし、にやついたまま唇を寄せ、酒を口移ししようとする。美緒は頬を赤らめ、「やだ、もう」と甘くじゃれた。
白い指で彼の胸を軽く叩き、身をよじって逃げるふりをしながら、「宗一郎さん、だめですって……」と、わざとらしく囁く。
結局、最後の一口はそのまま口移しで飲まされ、美緒は真っ赤な顔で身を預けた。
「宗一郎さんってば、ひどい……こんなの、酔っちゃって帰れなくなります……」
宗一郎は頬にキスを落とし、「俺と帰ればいいだろ」と笑う。
扉の外でそれを聞きながら、私は、かつて心から愛したその顔を思い浮かべていた。握った拳を、ほどいてはまた握り直す。
――自分が、どうしようもなく滑稽に思えた。
そのとき、誰かが思い出したように言った。「そういや柚葉、怪我してるんだろ。3位のために脚まで折ったって。病院、見舞いに行かなかったのか?」
宗一郎は鼻で笑い、気にも留めない調子で答える。
「行ってどうすんだよ。脚の一本や二本、折れたって死にゃしねえだろ」
死なない。
けれど――こんなふうに生き続けるわけにもいかない。
私はドアを押し開けた。
個室の空気が、一瞬で凍りつく。
まっすぐ歩いていき、宗一郎の前に置かれていたグラスを掴むと、そのまま中身を顔にぶちまけた。
宗一郎は頬を拭い、たちまち目を吊り上げる。「柚葉、ふざけるのもいい加減にしろ!」
美緒が腕の中から慌てて抜け出し、ティッシュで彼の顔を拭きながら、やけにしおらしい声を作った。「ごめんなさい、宗一郎さん……私のせいで、柚葉さんに誤解させちゃって……また面倒なことになっちゃいますよね……」
私も、もう容赦なんてしない。手元にあったグラスを、そのまま彼女の顔に叩きつけた。
宗一郎は怒りで顔を歪め、バンッとファイルをテーブルに叩きつける。
「脚が折れた?笑わせるな。見てみろよ、ぴんぴんしてるじゃねえか。暴れる元気は十分あるみたいだな。柚葉、選べ。サインするか、それとも美緒に謝るかだ」
――笑える。離婚協議書を、いつでも突きつけられるように持ち歩いているなんて。
私はそれを受け取り、ざっと目を通した。
要するに離婚。私は身一つで出て行き、彼の名義の財産には一切触れるな、という内容だ。
宗一郎はふんぞり返るようにソファへ沈み込み、口元に薄い嘲りを浮かべた。
私が怯えて書類を突き返し、美緒に頭を下げる――そうなると、疑いもしない顔だった。
ふん。
もう、うんざりだ。
六年なんて、無駄にした時間だと思えばいい。注いだものは何ひとつ報われず、最後に傷ついたのは私だった。
私は迷いなくペンを取り、自分の名前を書きつけた。
「いいよ。ちょうどみんな揃ってるし、証人になって。明日の朝いちで区役所に行って離婚届を出すから。逃げないでね」
宗一郎の視線が、私のサインに落ちる。まさか、私が本当に書くとは思っていなかったのだろう。
一瞬の沈黙のあと、彼は歯を食いしばり、「わかった。離婚だ。明日、逃げるなよ!」と吐き捨てた。
第2話
個室を出ると、梓は何も言わずに私へ親指を立て、そしてもう一度だけ念を押した。「柚葉……今回は、本当に離れるつもりなの?」
私はクラブの入口に立ち、宗一郎の車と、彼が美緒に贈った赤い限定モデルのスポーツカーを見つめていた。
二台は肩を寄せ合うように並んで停まっていて――まるで、もともとそう並ぶのが当然だったかのように。
宗一郎は、女を追うときはいつも派手だった。私のときもそうだ。毎日のように花を贈り、食事に誘い、いつも私の前に現れた。周囲に隠す気なんてなく、誰が見ても分かるほど堂々と、そうして私を口説き落とした。
三年付き合い、三年結婚して――
飽きたのは、宗一郎のほうだった。
私への態度は、少しずつ、しかし確実に冷たくなっていった。
「お前みたいな女は、好きじゃない」
そう言われたこともある。
けれど、最初から私は変わっていなかった。宗一郎が私に夢中だった頃の私は、クラブで一番実力のある女性レーサーで、運営側の理事でもあり、クラブの仕事の大半を担っていた。
この二年は、さらにひどかった。宗一郎は、平気な顔で別の女を家に連れてくるようになった。
我慢できず、何度も言い争った。そのたびに、彼は決まって離婚を口にした。
これまでの私は、いつも先に折れていた。宗一郎から離れたくなかったからだ。
彼も、それを分かっていたのだと思う。だからこそ、ますます図に乗った。私の目の前で、堂々と別の女に言い寄るようになった。
花を贈り、バッグを贈り、ついにはスポーツカーまで。
……冗談じゃない。それは、私たちの婚姻中の財産だ。
あんな連中に、好き勝手させるわけにはいかない。
私はバッグからスペアキーを取り出し、宗一郎の車に乗り込んだ。
角度も、踏み込む強さも、すべて計算済み。梓への返事は、言葉じゃなく行動で示す。
――轟音が響いた。
宗一郎の車で、美緒の新しいスポーツカーの後部を強くぶつけた。車体は大きくへこみ、フロントは壁に押し付けられて、ほぼ廃車状態だ。
スペアキーを放り捨て、私は車を降り、そのまま立ち去った。
外の陽射しはやけに眩しかった。それは、私が長い間必死に支えてきた、もう壊れかけていた結婚を、白日の下に晒しているようだった。
その夜、梓から一本の動画が送られてきた。
画面の中で、美緒が宗一郎の胸にすがりつき、声を上げて泣いている。
「私の車……どうして……こんな……」
宗一郎は階段に立ち、苛立った様子で煙草を吸っていた。もう監視カメラは確認したのだろう。
「ひどい……あんまりです……宗一郎さん、車が惜しいんじゃないんです。宗一郎さんが私にくれたものなのに……まだ三日しか乗ってないのに……」
そう泣きながら訴えてから、美緒は言った。
「……通報しましょう、宗一郎さん」
横で、誰かが小声で言った。「通報しても、たぶん無理だな。柚葉さんは奥さんだし、宗一郎さんの車は柚葉さんの車でもある。自分の車で自分の車を壊しただけじゃ、警察も手出しできない……」
別の誰かが、舌打ちまじりに言う。「柚葉さん、やるなあ……」
宗一郎は乱暴に煙草を揉み消し、吐き捨てるように言った。「……ああ、いいだろ。明日、区役所に行く」
……
私は動画を黙って閉じ、離婚に必要な書類を、淡々と揃え始めた。
翌朝、私は早めに区役所へ向かい、宗一郎を待った。
タクシーから宗一郎が降りてきた、その瞬間。なぜか私は、胸の奥でそっと息を吐いていた。
「柚葉、最後に一度だけチャンスをやる……」
私は足を止め、笑うでもなく言った。「順位を美緒に譲って、頭を下げて、それから、もう一台買い直せってこと?」
宗一郎は、冷たい顔のまま言う。「美緒はいい子なんだ。あんな思いをさせるわけにはいかない」
「だったら、どうしてあの子を日陰に置いたままなの。ちゃんと肩書きを与えてあげればいいでしょう。私はもう、邪魔しないわ」
鼻で笑い、私はそのまま窓口へ向かった。
宗一郎は顔を険しくし、離婚届と書類一式を、窓口に叩きつけるように差し出した。
職員も、私たちの空気を察したのだろう。余計なことは何も言わず、淡々と手続きを進める。数分後、出来たばかりの離婚届受理証明書が手渡された。
あまりにも早くて、宗一郎のほうが状況に追いついていない顔をしていた。
宗一郎は証明書を握りしめ、指の関節が白く浮き上がった。
「また駆け引きか?俺の気を引きたいだけだろ。無駄だ。ここまで騒いで、どう始末をつけるつもりだ!」
宗一郎にとっては、私が怪我をして脚を折り、病院でひと月近く寝ていたことさえ、同情を引くための小細工に過ぎなかったのだろう。
離婚を口にしたのも、すべて計算のうえでの芝居――そう、最初から決めつけていた。
私と宗一郎は、いつから、こんなふうになってしまったのだろう。
それでも私は、もう決めていた。
今回は、絶対に振り返らない。
昨夜外した結婚指輪を宗一郎に放り投げ、私は迷いなく、大股で歩き出した。
第3話
車の中で、ギプスを外して間もない自分の脚を見下ろし、私はふと、ひどく自分に申し訳ない気持ちになった。
今回のレースだって、本当は出るつもりなんてなかった。宗一郎が珍しく低姿勢で、「クラブの評判に関わるから」と言ってきたからだ。
数日前に風邪を引いて、頭痛がひどく、薬も飲んでいた。
レースは心臓にも体力にも大きな負担がかかる。そんな状態で走れば危険なのは分かっていたし、だからこそ、あんな事故が起きた。
それなのに――
私が命を削って手に入れた順位は、彼が新しい女の機嫌を取るための、ただの小道具に過ぎなかった。
私は離婚届受理証明書をスマホで撮り、そのまま梓に送った。
梓は「川沿いで気分転換しよう」と誘ってくれた。
現地に着いて、すぐに分かった。彼女、ずいぶんたくさん友達を呼んでいて、どうやらバイクで走るつもりらしい。
人影の少ない川沿いの広い道に、目を疑うほど高価そうなレース仕様のバイクが並び、若い男女があちこちで笑い合っていた。
私は足を止める。「……まだ脚、完全に治ってないんだけど」
「誰が運転しろって言ったのよ。ほら、男の人がこんなにいるじゃない」
そこで初めて、ルールを聞いた。男性が一人につき、女性を一人選び、同じバイクに二人乗りするらしい。
もともとカップルで来ている組も多く、実際に余っている独身はそれほど多くなかった。
梓が私を端に引っ張り、小声で言う。「晃さんはどう?普段誘っても全然来ないのに、今日はついてるよ」
黒沢晃(くろさわ あきら)は背の高い男だった。ライダースーツのまま、川沿いの柵にもたれ、背中を向けて立っている。肩に陽が落ち、その佇まいは、すっと潔かった。
ゆっくり振り返ったその顔を見て、私は思わず目を見開いた。驚くほど、私の好みに合っている。
梓は間髪入れず、私を前に押し出した。「晃さん、柚葉お願いできる?」
彼は軽く微笑み、澄んだ目で私を見て、低く落ち着いた声で言った。「いいよ」
梓がこっそり、私にウインクする。「せっかくのチャンスなんだから、大事にしなよ」
晃はピンク色のヘルメットを取り出し、傷や留め具を一つずつ確認してから、私の頭にそっと被せた。顎ひもを調整し、最後に軽く引いて、きちんと固定されているか確かめる。
「怖い?」
その瞬間、ふと思い出した。宗一郎と一緒になってから、私は何度もレースに出たけれど、こんなふうに扱われたことは一度もなかった。
彼はいつも遠く、観客席の高い場所に立ち、ほかのクラブのオーナーや、いわゆる上流階級の人間たちと話していた。
私の装備がちゃんと点検されているかなんて、気にも留めない。彼が見るのは結果だけ。どれだけ見栄えのいい順位を持ち帰れるか、どれだけ利益になるか、それだけだった。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ、そっと揺れた。
私は小さく首を振る。
「大丈夫。一応、プロのレーサーだから。ただ、バイクはあまり乗らないけど」
晃は少し意外そうな顔をして、声を弾ませた。
「それなら、ちょうどいい。全開でいく、しっかり掴まって」
速度も衝撃も、私は嫌というほど知っている。反射的に、晃の腰に腕を回した。
エンジンが唸り、バイクが跳ねる。ゆったりしたライダースーツの下、彼の腰は細いのに芯が強く、腹の硬さまで伝わってきた。
見た目の静けさとは裏腹に、晃の走りは容赦がない。気づけば、前を塞いでいた相手を次々と置き去りにしていた。
自分で走ることはあっても、誰かに連れられて飛ばすのは、これが初めてだった。
風が耳元で鳴り、晃の体からは、杉のような澄んだ匂いがする。冷たくて、それでいて不思議と落ち着く。
晃が、笑みを含んだ声で言う。「力、抜いて。そんなにきつく――」
そのときになって、自分の腕が彼を締め上げていることに気づいた。これじゃ、息もしづらい。
言いたいことは分かっているのに、なぜか余計な想像が頭をよぎって、私は気まずくなり、慌てて力を緩めた。
その瞬間、前方が急カーブになる。顔が一気に晃の背に押しつけられ、薄いシャツ越しに体温が伝わった。頬が赤くなっているのも、きっと気づかれたはずだ。
案の定、私たちは一位だった。
景品は、まさかのビール一箱。
私は一本開け、晃に向かって軽く掲げる。
レーサーは基本、酒を口にしない。私も酒には弱い。でも今日は、もう独り身だ。嬉しくて、そのまま喉に流し込んだ。
飲み切った瞬間――終わった。
視界がぐるりと回る中、晃の手がすぐに私を支えた。
梓が「あっ」と声を上げ、「晃さん、柚葉あんまり強くないんだ。送ってくれる?」と頼む。
酔いで焦点の合わない目のまま、私は晃を見上げた。ちょうど、視線が重なる。
晃の目が、やけに優しい。逃げ場がなかった。
「いいよ」
声が、ずるいくらいにいい。
胸の奥が、とろりと溶けた。
宗一郎は昔、私みたいな女は色気がないと言った。顔だけ整っていても、喋れば男が逃げる、と。
私は仕事に打ち込み、認めさせようとしてきた。けれど返ってきたのは、宗一郎が、男受けのいい女の子たちを連れてきて、私の目の前でひらひらさせる光景ばかりだった。
こんなふうに見つめられたのは、いつぶりだろう。大切にされている気がして、息が詰まりそうになる。
バイクを降りるとき、私は彼の首に腕を回したまま、なぜかつま先立ちになり、晃の顎に、そっとキスを落としていた。
第4話
晃は頬の筋をきつくこわばらせたまま、表情を崩さずに私の身体を支え、階段を上がらせた。
私は少し気落ちして、自嘲気味に視線を落とす。
――やっぱり、ただ家まで送ってくれただけなんだろう。
ふらつきながら鍵を取り出し、震える手で何度も差し込もうとしても、うまく開かない。その瞬間、晃が私を扉に押しつけ、身をかがめて、激しく唇を塞いだ。
どうしてだろう。それは「初対面で惹かれ合った男女」の軽い衝動じゃなかった。長いあいだ抑え込まれていたものが、ある瞬間に一気に崩れ落ちたような――そんな重さがあった。
晃のキスは熱く、切実で、私を骨の奥まで引き寄せようとするみたいだった。
抱きしめられた胸元で、激しく、荒々しい鼓動が打ち鳴らされているのが分かる。
私は言葉を失い、唇と舌だけで応えた。
長くて、息を奪うほど独占欲に満ちたキスのあと、晃はふいに私を離し、壁にもたれて大きく息を吐いた。胸が上下し、視線を逸らしたまま、こちらを見ようとしない。
「柚葉……」
少し頭はふらついていたけれど、意識はまだはっきりしていた。
足元が頼りなく、目を細めたまま顔を上げて、私は晃を見つめる。
晃は背が高い。宗一郎より、ほんの少し上だ。細い腰に、長い脚。凛とした眉と、澄んだ目。興奮を必死に抑えているのに、隠しきれない男の気配が、静かに滲み出ていた。
――何も感じていないはずがない。そう確信できる空気が、確かにそこにあった。
私は片手を、彼の背後の壁につき、距離を奪うように身体を寄せる。逃げ場のない、狭い空間に閉じ込めるみたいに。
「今さら、後悔するの?」
つま先立ちになり、さっき私が吸って赤くした唇に、もう一度キスを落とした。
晃は息を詰め、私の手から鍵を奪うように取ると、ドアを開け、そのまま私を抱き上げた。大股で寝室へと向かう。
……
目を覚ましたとき、外はすっかり明るくなっていた。
晃は、もうベッドにはいない。
一晩中抱かれて、身体はすっかり疲れ切っている。眠りに落ちたのは昨夜で、気づけば昼近くまで寝てしまっていた。
重だるい身体を起こし、寝室を出た瞬間、ふわりと香りが鼻をくすぐった。
土鍋では出汁の効いたスープが弱火で温められ、テーブルの保温容器には、胃にやさしい薄味の料理がきれいに詰められていた。どれも、私の好物ばかりだった。
キッチンは驚くほどきれいに片づいているのに、使った形跡だけは残っている。
物が足りないこの台所で、よくここまで整えたものだと、思わず感心してしまう。
私は椅子に腰を下ろし、スープを一杯よそった。
昨夜から空っぽだった胃が、温かさにゆっくり目を覚ます。立ちのぼる湯気が、そのまま目に染みるみたいで、視界が滲んだ。
スプーンで一口すくって飲み込んだ、その瞬間。涙が、ぽとりと、器の中に落ちた。
宗一郎は昔から、私のことを「要領が悪い」「女らしさがない」そう責め続けてきた。挙げ句の果てには、外で女を作る理由まで、私のせいだと平然と言い切った。
たった一晩の関係だったはずなのに、私は初めて、甘やかされて、守られていると感じた。
家でさらに一日休むと、ようやく気力が戻ってきた。目を背けていた現実に、そろそろ手をつけなければならない。
私はチームのエースドライバーで、理事も兼ねていた。この数年、時間も神経も、すべてクラブに注ぎ込んできた。
けれど、離婚した今、宗一郎とこれ以上関わるつもりはない。退職して、抱えている仕事を正式に引き継ぎ、それで終わりにする。
服を着替え、私はもう一度クラブへ向かった。
個室の扉を押し開けた瞬間、予想どおり、宗一郎と取り巻き連中が揃っていた。
私の姿を認めた途端、空気がぴしりと固まる。
短い沈黙のあと、誰かが無理に笑って言った。「宗一郎さん、ほら。柚葉さん、戻ってきたじゃないですか。だから言ったのに……」
別の誰かが、慌てて取りなす。「戻ってきたんですし、もうこの話は終わりでいいんじゃないですか。柚葉さん、長いこと一人で入院してたんですよ?ねえ、宗一郎さん」
宗一郎は表情を硬くし、目の奥に薄い嘲りを滲ませたまま、こちらを見ていた。
視線だけを寄こし、鼻で笑う。「柚葉。今さら後悔したって、遅いと思わないのか?」
諦めると決めて、離婚して、そして今、こうして向き合うまで。たった二、三日しか経っていないのに、彼は妙に遠い存在に見えた。
――私は、この男を、六年も愛していたんだろうか。
そう思うと、憎らしくて、滑稽で、思わず笑えた。
何が私を支えて、六年も踏ん張らせてきたのか。自分でも、もう分からない。
「宗一郎さん。退職しに来ました。今日から、クラブの仕事はしません。役職もすべて降ります」
私は手帳を一冊、彼の前のテーブルに置いた。
「担当していた内容は、すべてここにまとめてあります。引き継ぎの人を手配してください。確認したいことがあれば連絡して構いませんが、お答えするのは引き継ぎに関することだけです」
宗一郎は、表情を崩さないまま、妙にゆっくりとした口調で言った。
「お前の契約、十年だろ。途中で抜けるつもりなら、違約金の条項くらい、分かってるよな?」
私は視線を逸らさず、静かに答える。「わかっています。ですが、契約には、クラブ側が業界の慣行や規範を逸脱していないことが前提であると、明記されています」
宗一郎の眉が、ほんのわずかに動いた。
そのとき、誰かがスマホを見て、急に声を上げた。
「宗一郎さん……!この前のレース、主催側がSNSで謝罪を出して、受賞者リストを訂正して……それに――」
一瞬、息を呑んでから続ける。
「美緒を、三年間出場停止にしたそうです!」
第5話
クラブに来る前に、私はすでに関係する申立て資料をすべて主催側へ提出していた。
この主催とは、今回が初めてのやり取りではない。だからこそ、向こうも事の重さを理解し、迅速に動いてくれた。
すべて決着がついたと聞き、私はようやく大きく息を吐いた。これ以上、彼らと関わる気もなく、その場を後にする。
長い廊下を歩いているあいだも、背後からは宗一郎が物を叩きつける音と怒声が響いてきた。
「……ふざけるな!調子に乗りやがって!出てけ、全員出てけ!」
クラブを出る前に、私はトイレに立ち寄った。
出てきたところで、洗面台に突っ伏して、えずいている女の子が目に入る。
声をかけようとした、その瞬間。彼女が顔を上げ、鏡越しに映ったのは――美緒だった。
さっき個室にいなかった理由も、すぐに分かった。
美緒も私に気づき、胸元を押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。
私の視線を追うように、彼女は自分の、わずかにふくらんだ腹に目を落とし、薄く笑った。
「……そう。妊娠したの」
私は感情を挟まず、短く言った。「おめでとう」
美緒は意味ありげに私の腹部へ視線を走らせ、しばらくしてから、くすりと笑う。
「それくらいしか言えないよね。宗一郎さん、もう二年もあなたに触れてないんじゃない?まあ、無理もないけど。あなたみたいにガサツで愛想もない女、どんな男だって疲れるでしょ」
少し間を置いて、追い打ちをかける。「そういえば、宗一郎さんのお母さまも言ってた。女として何も分かってない、って。跡取りの話も、期待できないって」
宗一郎とは、すでに二年別居していた。夫婦関係なんて、とっくに形だけのものだった。
最初は、クラブが伸び盛りで、もっと結果を出したかった。だから、子どもの話を急がなかった。
けれど次第に、宗一郎は私を露骨に疎み、家に帰ることさえ、ほとんどなくなった。
それなのに、ほんの数日で。宗一郎の母親は、浮気相手をあっさり受け入れた。
――あの家に注いだ私の時間も、気持ちも、何だったんだろう。
離婚はしたはずなのに、その言葉は、胸の奥をざらつかせた。
私は自分を嘲るように、静かに笑う。
そのとき、スマホが鳴った。画面には、見知らぬ番号。
「もしもし」
すぐに分かった。晃の声だ。きっと、梓から番号を聞いたのだろう。
「今、クラブの外にいる。今夜、一緒に食事でもどう?」
受話口を隠しもしなかったから、美緒にも聞こえたはずだ。彼女の表情が、はっきりと変わる。
それが、なぜか少し愉快だった。
「分かった。すぐ行く」
通話を切り、私は美緒に視線を戻す。軽く頷いて、言った。「……大事にされる立場になれて、よかったですね。どうか、幸せに」
美緒は怒りで顔をぐしゃりと歪めた。
相手にする気もなく、私はそのまま横をすり抜け、バッグを肩に掛けて、さっさと歩き出した。
外の、少し人目につきにくい場所に、この前、晃が乗ってきた黒いベントレーが停まっていた。
助手席へ回ろうとした、その瞬間。後部座席のドアが開き、大きな手に引き寄せられて、レザーシートへ押しつけられる。熱を帯びたキスが、一気に降ってきた。
男の体温と匂いが、瞬く間に私を包み込む。
晃のキスは迷いがなく、まっすぐだった。視界の先にある世界が、私だけになったみたいに。
「会いたかった……たまらなく」
荒い息のまま、晃は耳たぶや鎖骨に口づけ、掠れた声で耳元に囁く。
会っていないのは、たった一日だけなのに。
それでも、晃の熱は真昼の陽射しみたいに私を焦がし、濃い想いに、逃げ場なく絡め取られていく。
狭い車内は、二人の体温をさらに近づけた。
晃は顔を私の胸元に埋め、抱きしめる腕に、ぐっと力を込める。
「柚葉……もし俺が、一目惚れだったら、どうする?」
一目惚れなんて、正直あまり信じていない。でも、身体が先に落ちるなら、話は早い。
「お前じゃなきゃ駄目だ」そう言わんばかりの態度が、たまらなく心をくすぐった。
宗一郎の冷たさがなければ、こんな出会いが訪れることもなかったのかもしれない――そんな思いさえ、胸をよぎった。
「晃さん……」
私はそっと彼の腰に絡みつき、鍛えられた腹筋をなぞりながら、下へと手を滑らせた。好き勝手に、火を点ける。
うとうとしながら、酒に酔っていたあの夜の記憶が蘇り、身体が、本能のままに彼を欲しているのを感じる。
……
足音が近づいてきて、私ははっとした。さっき、宗一郎の車も、この辺りに停まっていた気がする。
しかも、一人じゃない。さっき個室にいた取り巻き連中まで連れて、こちらへ向かってきている。
美緒は言った。宗一郎は二年も私に触れていない、女らしさがなくて、誰にも好かれない、と。
でも今、晃の目に映っているのは、間違いなく私だけだった。そう言い切れるほど、熱が満ちている。
目の奥が滲み、私は晃の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。「晃さん……私、不器用で、洗濯も料理も得意じゃない。人の世話だって、うまくできない。それでも、どうして私を選ぶの?」
晃は答える代わりに、静かにキスを落とし、私の髪を、そっと撫でた。まるで、手のひらで大事に守られているようで、胸が、きゅっと震えた。
「洗濯と飯炊きなら、金を払えばいくらでも代わりはいる。でも君は、俺が惚れた女だ。金じゃ替えられない。柚葉……一日会わないだけで、気が狂いそうになる」
息も絡まるほど近い距離で、私は弄ばれ、涙が滲み、思わず甘い声が漏れた。
「……晃さん……晃さん……」
宗一郎たちは、私の声を聞き慣れすぎている。
「今の……柚葉の声じゃないか……」
「……たしかに。似てるな」
宗一郎は顔を暗く沈め、足を止めかけた。だが次の瞬間、こちらへ向かって、大股で歩き出した。