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終わらない夜の果てに
酒井瞳(さかい ひとみ)は、業界では有名な小悪魔だった。彼女の少し上がった赤い唇に、その色っぽい目元はいつも男を誘っているようだった。 ...
Chương (1)
第1章
酒井瞳(さかい ひとみ)は、業界では有名な小悪魔だった。彼女の少し上がった赤い唇に、その色っぽい目元はいつも男を誘っているようだった。
三浦英樹(みうら ひでき)は名家の跡取りの中でも特に優秀で、近寄りがたい雰囲気をまとう、禁欲的な男だった。
そんな正反対の二人が、誰にも知られず情を交わしている。深夜のマイバッハの後部座席で体を重ね、チャリティーパーティーの化粧室で激しく求め合う。そして、プライベートワイナリーの大きな窓の前では、英樹に強く腰を引き寄せられ、キスを交わしていたのだった。
今回も情事が終わったあと、バスルームからシャワーの音を聞きながら、瞳はヘッドボードにもたれながら、父の酒井翔平(さかい しょうへい)に電話をかけた。
「盛沢市の、あのもう先が長くないっていう御曹司のもとへ嫁ぐ件、受けてもいいわ。でも、一つ条件があるの……」
すると電話の向こうから、翔平の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「言ってみなさい!嫁いでくれるなら、どんな条件だって呑むぞ!」
「詳しいことは、家に帰ってから話す」そう言って彼女の声は優しいのに、瞳の奥は凍えるように冷たかった。
そして瞳は電話を切り、服を着ようと体を起こした。その時、ふと、英樹がそばに置いたノートパソコンが目に入った。
ラインの画面はついたままだ。一番上には「百合」という名前の相手からの新着メッセージが表示されているのだ。
【英樹さん、雷が鳴ってる。こわいよぉ……】
それを見て瞳の指先が、ぴくりと震えた。
すると突然バスルームのドアが開き、英樹が出てきた。
まだ濡れたままの鎖骨を、水滴が伝い落ちていき、シャツのボタンを二つほど無造作に開けたその禁欲的な姿に、どこかアンニュイな色気が混じっていた。
「会社で用事ができたから、もう行く」英樹は上着を手に取った。その声は、いつも通り温度感がないものだった。
それを聞いて瞳は、赤い唇の端を上げて笑った。「会社に用事って?それとも、あなたの『初恋の人』にでも会いに行くのかしら?」
第1話
酒井瞳(さかい ひとみ)は、業界では有名な小悪魔だった。彼女の少し上がった赤い唇に、その色っぽい目元はいつも男を誘っているようだった。
三浦英樹(みうら ひでき)は、とある財閥の最も優秀な跡取り。誰もが憧れる高嶺の花であり、禁欲的で知られていた。
そんな正反対の二人が、誰にも知られず情を交わしている。深夜のマイバッハの後部座席で体を重ね、チャリティーパーティーの化粧室で激しく求め合う。そして、プライベートワイナリーの大きな窓の前では、英樹に強く腰を引き寄せられ、キスを交わしていたのだった。
今回も情事が終わったあと、バスルームからシャワーの音を聞きながら、瞳はベッドにもたれかかり、父の酒井翔平(さかい しょうへい)に電話をかけた。
「盛沢市のあの死にかけの御曹司のところへ嫁いであげてもいいわ。でも、条件が一つあるの……」
すると電話の向こうから、翔平の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「言ってみなさい!嫁いでくれるなら、どんな条件だって呑むぞ!」
「詳しいことは、家に帰ってから話す」そう言って彼女の声は優しいのに、瞳の奥は凍えるように冷たかった。
そして瞳は電話を切り、服を着ようと体を起こした。その時、ふと、英樹がそばに置いたノートパソコンが目に入った。
ラインの画面はついたままだ。一番上には「百合」という名前の相手からの新着メッセージが表示されているのだ。
【英樹さん、雷が鳴ってるの、こわいよぉ……】
それを見て瞳の指先が、ぴくりと震えた。
すると突然バスルームのドアが開き、英樹が出てきた。
まだ濡れたままの鎖骨を、水滴が伝い落ちていき、シャツのボタンを二つほど無造作に開けたその禁欲的な姿に、どこかアンニュイな色気が混じっていた。
「会社で用事ができたから、もう行く」英樹は上着を手に取った。その声は、いつも通り温度感がないものだった。
それを聞いて瞳は、赤い唇の端を上げて笑った。「会社に用事って?それとも、あなたの『初恋の人』にでも会いに行くのかしら?」
だが、英樹は聞き取れなかったのか、「何だって?」と聞き返した。
「なんでもないわ」瞳は素足でベッドから降りると、柔らかいカーペットの上に立った。
すると英樹は少し沈んだ目線で、彼女の腫れあがった瞳と唇を親指でなぞった。「いい子にしてろ。面倒は起こすな」
ドアが閉まった瞬間、瞳の顔から笑みがすっと消えた。
彼女はタクシーを呼び、英樹の後を追った。
30分後、タクシーがホテルの前に停まった。瞳は雨の向こうに、白いワンピースを着た酒井百合(さかい ゆり)がホテルの入り口から走り出てくるのを見た。
英樹は駆け寄ると、自分のスーツの上着を脱いで百合の肩にかけ、そしてひょいと彼女を抱き上げた。
「外は寒いぞ。どうして上着も着ないで出てきたんだ?」
その手つきはあまりにも慣れていて、まるで何百回も繰り返してきたかのようだった。
それを見た瞳は車のドアノブを強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどに。
そして、英樹が百合を大切そうに抱えてホテルに入っていく後ろ姿を見ながら、瞳はなぜか、英樹と初めて会った時のことを思い出していた。
あの頃、瞳は翔平とひどく対立していた。また翔平の頭に物を投げて怪我をさせた後、翔平は彼女を親友の息子の元へ預けた。それでわがままな性格を叩き直してやる、と言って。
初めて会った時、英樹は三浦グループの最上階の社長室に座っていた。金縁の眼鏡の奥に潜む目は、氷のように冷たかった。
瞳はもちろん、ここに居たいわけではなかった。
だから、あの手この手で、英樹の邪魔をしていたのだった。
出社初日、瞳は英樹の2000万円はするオーダーメイドのスーツにわざとコーヒーをこぼした。英樹は瞳をちらりと見ただけで、こう言った。「海外で手作りされたスーツだ。賠償金は酒井家に請求しておく」
2日目には、会議の資料をわざとシュレッダーにかけた。それでも英樹は顔色一つ変えず、その場で内容を全て暗唱し、会議室にいた役員たちを驚かせた。
3日目には、英樹のコーヒーに薬を入れ、カメラを仕掛けて彼の無様な姿を撮影し、脅してやろうと考えた。
結果、瞳自身がその盛った薬の責任を取らされることになってしまった。
そして翌朝、全身の痛みで目が覚めた瞳は怒りで気が狂いそうだったが、英樹に窓際に押さえつけられた。
あの時英樹はかすれた声で瞳の耳たぶを甘噛みしながら「瞳」と囁き、「いい子にしてろ」と言ったのだった。
その一言の「瞳」という呼び方だけで、瞳はなすすべもなく英樹の言いなりになってしまった。
母が亡くなってから、そんな風に呼んでくれる人はいなかったから。
それ以来、二人の関係はすっかり変わってしまった。
瞳が問題を起こすたびに、英樹は彼女を社長室に担ぎ込んだ。周りは英樹が瞳を叱っていると思っていたが、実際にはデスクの上である種の「お仕置き」をされていたのだ。
そしていつしか、瞳もそれを快感だと感じるようになっていた。
英樹のテクニックがすごかったから?それとも、ただ自分が孤独だったから?
瞳には分からなかった。
ただ一つ分かっていたのは、自分が英樹に本気で惚れてしまったということだけ。
だから、英樹の誕生日には、丸1日かけて家を飾り付けた。
バラ、キャンドル、音楽。そして、エンゲージリングまで用意した。
しかし、瞳は一晩中待ち続け、キャンドルの火が消え、バラがしおれても、英樹は現れなかった。
さらに追い打ちをかけるかのように、深夜3時、スマホにニュース速報が飛び込んできた。
【速報!財閥のトップが深夜に空港で初恋の人をお出迎え】
写真には、白いワンピースの女性を甲斐甲斐しく守りながら車に乗せる英樹が写っていた。その眼差しは、胸が痛くなるほど優しかった。
コメント欄は炎上していた。
【きゃー!大物と純粋な美少女の組み合わせ、最高すぎる!】
【マジか!これ、三浦社長とミスキャンパスの百合さんじゃん?昔、うちの高校で一番お似合いのカップルって言われてたんだよ!】
【同じ高校だったから本当だって!三浦社長って誰にでも冷たいのに、百合さんにだけは笑いかけてたんだ!百合さんが体の療養で海外に行ってなければ、とっくに結婚してたはずだよ】
それを見て、持っていたスマホが、ぱたりと床に落ちた。
瞳は思わず自分の目を疑うほどだった。
もし英樹の心に決まった人がいたのなら、自分は何?ただの、都合のいいセフレ?
あの時、瞳は震える手で英樹に電話をかけた。彼の答えが聞きたかった。しかし、電話は一向につながらなかった。
最後の着信が切れた後、瞳はスマホを置き、英樹が「絶対に入るな」と言っていた書斎へと向かった。
そして、ドアを開けた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
中には、百合の写真が所狭しと飾られていたのだ。
卒業写真、旅行先での写真。それに、百合の寝顔をこっそり撮った写真まであった。
いつもは冷静沈着な英樹が、こんなことをするなんて。
それらを目の当たりにして、瞳はもう、彼の答えなんてどうでもいいような気がした。
そして彼女は突然、空しい笑い声を上げた。その声は、がらんとした部屋に不気味に響き渡った。
だが、笑っているうちに、熱い涙が堰を切ったように溢れ出し、綺麗な顎のラインを伝って床に落ちた。
それから、瞳は泣きはらした目で、家の中の物を手当たり次第に壊した。
翌日、帰ってきた英樹は、めちゃくちゃになった部屋を見ても、ただ静かに人を呼んで片付けさせただけだった。
その間、英樹は瞳を一瞥もしなかった。まるで、彼女がこんなことをするのは当たり前だと言わんばかりに。
一方、瞳は自分が心を込めて用意したエンゲージリングが、使用人によってゴミとして捨てられるのをただ見ていることしかできなかった。
英樹は、その箱に何が入っていたのか知らなかった。
もちろん彼女が、彼と一生を共にしたいと願っていたことも、そして、指輪がゴミ箱に捨てられたあの瞬間に、瞳がもう英樹を愛するのをやめようと決心したことも、彼は知らずにいたのだった。
そう想いに耽っていると、「瞳様、どちらへ向かいますか?」運転手の声で、瞳は現実に引き戻された。
「家に帰るわ」瞳は目を開けた。その声は凍えるほど冷たかった。「酒井家に」
そして、酒井家の屋敷に戻ると、父の翔平がすぐに出迎えてきた。「瞳、盛沢市に嫁ぐ決心をしてくれたのは本当か?」
彼がそう言っていると、階段の上に立つ義理の母である酒井凪(さかい なぎ)も期待に満ちた顔で瞳を見ていた。
「本当よ」瞳の目線は冷ややかだった。「でも、条件があるって言ったはずだけど?」
「条件だと?早く言え!」
「お父さんとは……」瞳は一語一句、区切るように言った。「親子関係を断ちたいの」
その言葉と共に、空気が、一瞬で凍りついた。
翔平の顔色が変わった。「生意気なことを言うな!自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「そんなのとっくに分かり切っているよ」瞳の声は冷たかった。「お父さんは不倫して、その女を家に引き入れるために、私のお母さんを自殺に追い込んだ。あの日から、お父さんのことなんて父親だと思ったことはないわ」
そう言って、瞳は青ざめた翔平の顔を見据えた。「今、盛沢市のあの死にかけの御曹司の家が、嫁を探すのにいい条件を提示してきたから3ヶ月も私を説得し続けたんでしょ。もし私が断ったら、力ずくで私を嫁がせるつもりだったんじゃない?
どうせそうなら、いっそのこと親子関係も絶ってしまっても同じことでしょ?」瞳は皮肉っぽく口角を上げた。「ちょうどいいじゃない。これで愛人の娘を酒井家のお嬢様として呼び戻せるんだから」
そう言われ、翔平は怒りで体を震わせた。「いいだろう!縁を切ってやる!だが、あの御曹司は今月いっぱいもたないらしい。月末までには必ず嫁いで行けよな!」
それから彼は冷たく笑った。「凪の娘なら、2、3日前にはもう海外から帰ってきて、ずっとホテル暮らしをしているんだ。お前がもうこの家から出て行くつもりなら、明日にでも彼女にここへ引っ越しをさせよう!」
それを聞いて、瞳は思わず笑ってしまった。そして胸もうずくほど痛んだ。「自分の実の娘を愛さないで、他人の子を進んで養おうとするなんて。こんな人、他では見当たらないんじゃない」
そう言って、瞳が背を向けて去ろうとすると、義理の母の凪が彼女を白々しく引き留めた。「瞳、お父さんに対してそんな口の利き方はないんじゃないの」
瞳は、ぴたりと足を止めた。
彼女がゆっくりと振り返ると、その瞳には、長年抑えつけてきた憎しみが渦巻いていた。「何?私が嫁いでこの家を出ていけば、あなたもようやく本物の奥様気取りができるとでも思った?」
そう言いながら、瞳は一歩ずつ凪に詰め寄った。「よく聞きなさい。お母さんが死んだからって、あなたが後ろ指を指されるような愛人だった事実は変わらないのよ!あなたの大事な娘が酒井家のお嬢様になったとしても、その母親が愛人だったっていう汚名は消えないんだから!」
それを聞いて、凪の顔は瞬時に真っ青になり、よろめきながら数歩後ずさった。
だが、瞳は彼女に構わず、背を向けて歩き出した。その踏み出す一歩また一歩、すべてが苦しみを噛み締めているかのようだった。
そして、自分の部屋に戻ってドアを閉めた途端、瞳は全ての力が抜けたようにその場に崩れ落ち、膝に顔を深くうずめた。
翌朝早く、階下から騒がしい物音と笑い声が聞こえてきた。
「何なの?」瞳は勢いよくドアを開けた。「人が寝てるのに、うるさいわね!」
執事が口ごもりながら答えた。「瞳様……その、百合様がお引越しに……」
その言葉が終わらないうちに、見覚えのある姿が階段のところに現れ、白いワンピースを着た百合が、か弱そうにそこに立っていたのだ。
その瞬間、瞳の全身の血が、一瞬で凍りついた。
第2話
まさか、海外でずっと「療養」していた凪の娘が、英樹の初恋の人だったなんて、瞳は夢にも思わなかったから。
これは神様の悪戯なのか。
そう思っていると、百合がこちらへ歩いてきて、甘い笑顔を見せた。「瞳さん、すみません。お騒がせしちゃって……」
だが、百合が言い終わる前に、瞳はドアをぴしゃりと閉めた。
すると、ドアの外から翔平の怒鳴り声が聞こえた。「瞳!お前はなんて行儀が悪いんだ!百合がお前の部屋を気に入ったんだ、だからお前は彼女に譲れ!今日からあそこは百合の部屋だ!」
瞳は鼻で笑うと、すぐにクローゼットを開けて荷物をまとめ始めたが、ドアの向こうから、会話が断片的に聞こえてくるのだった――
「酒井おじさん、瞳さん、怒っているんですか?」百合の声は、とろけるように甘かった。
「あいつのことは放っておけ。小さい頃から甘やかされて育ったからな」
「でも……」
「心配するな。あいつはもうすぐ盛沢市に嫁に行く。そしたらこの家は、百合とあなたのお母さんのものだ」
それを聞いて、瞳の手がぴたりと止まり、そして、さらに冷たい笑みを深くした。
それから、彼女は手際よく月末の盛沢市行きの飛行機のチケットを予約し、荷造りを続けた。
そして、30分後、スーツケースを引いて部屋を出た。
リビングでは翔平と凪、そして百合がソファに座ってテレビを見ていて、テーブルには果物やお菓子が並んでいて、まるで本当に一家団欒した和気あいあいとした雰囲気だった。
そんな中、瞳は彼らに目もくれず、玄関へ向かった。
「待て!」翔平が鋭く叫んだ。「また何かを騒ぎ立てるつもりなのか?約束を忘れたわけじゃないだろうな!」
「安心して、約束は守るわ」瞳は振り返りもせずに言った。「ただ、この2週間、こんな胸糞悪い場所にいたくないだけ」
そして、瞳はそのまま街で一番高級なホテルに向かい、プレジデンシャルスイートを取った。
それからの数日間、狂ったように買い物を始めた。
最高級のウェディングドレスに、オークションで出品されたアンティークジュエリー、彼女は惜しげもなく大金を使ってこれでもかと買いあさった。
たとえ取引のような結婚だとしても、盛大に嫁いでみせるとこころに決めたのだ。
バッグの中でスマホが震え続けていたが、瞳は最後のダイヤモンドのネックレスを買い終えるまで取り出さなかった。
38件の不在着信は、すべて翔平からのものだった。
そして、応答ボタンを押した途端、翔平の怒鳴り声が聞こえてきた。「お前、気は確かか!?1日で600億も使いやがって!俺を破産させるつもりか!」
「何をそんなに焦ってるの?」瞳は鼻で笑った。「私が嫁げば、すぐに1兆が入るじゃない?」
「だが、その金はまだ手元にないんだ!このままでは、明日にも会社が潰れるじゃないか!」
それを聞いて、瞳は鼻で笑った。
そもそも、彼女は破産させるつもりでやっているわけなのだ。
そして、その1兆も、結婚したら中村家から直接自分の個人口座に振り込ませるつもりだった。
その時、百合とあの愛人女が、すべてを失った初老の男にまだ付いていくのか、見ものだ。
みんながみんな、自分の母みたいにお人好しだとでも思ってるのかしら。翔平とゼロから会社を立ち上げて、血を吐くほど働いて倒れたのに。最後は追い詰められて、ビルから身を投げるしかなかった。
そんな母を思うと、瞳の心臓はきゅっと締め付けられるように痛んだ。
そう思っていると、スマホがまた震えた。英樹からのメッセージだった。【また何をごねてるんだ?今日はなぜ会社に来ない?】
瞳は、そのメッセージをじっと見つめた。
この1年、英樹の「おしおき」のせいで、瞳はほとんど毎日、時間通りに会社へ出勤しなければならなかった。
でも、もうすぐ結婚する身なのに、今さら英樹に指図されるいわれはない。
たくさんのショッピングバッグを抱えてホテルに戻ると、自分の荷物がロビーに山積みになっているのが見えた。
「どういうことです?」瞳は冷たく問い詰めた。
フロントのスタッフは気まずそうに説明した。「酒井さんのカードが……ご利用になれませんので。当ホテルの規則によりまして……」
すると、タイミングよくスマホが震え、翔平からのメッセージが表示された。【縁を切りたいなら、俺のカードを使うな。お前の口座はすべて凍結した】
瞳はその画面を長い間見つめた。目の奥がツンとするほど、長く。
やがて、一言だけ返信した。【いいわ】
瞳はスーツケースを引きながら、街を歩いていた。
飛行機は月末だ。今すぐどこかへ行けるわけでもない。この2週間、どこに泊まって、何を食べ、どうやって生活すればいいの?
スーツケースの中身はウェディングドレスと高価なガラクタばかりで、一つも売ることはできない。お金を借りるにしたって……
周りで自分を笑いものにしている連中に頭を下げるくらいなら、野宿した方がましだ。
近くの公園のベンチでなんとか横になれそうだったが、瞳が荷物を置いた途端、酔っぱらった男が近寄ってきた。
「ねぇ、一人かい?」
「あっち行って!」
「そんなに怒るなって。俺と遊ぼうよ……」
男のべたつく手が肩に置かれた瞬間、瞳は平手打ちをしようと手を振り上げた。
すると「うわぁっ!!」
悲鳴が響いた。
いつの間にか現れた英樹が、男の手首を力任せに捻じ伏せていた。
そして、瞳が状況を飲み込む前に、彼女は荷物ごと車に引きずり込まれた。
「離して!」
英樹は暴れる瞳の手首を掴み、押さえつけた。「一体何を騒いでいるんだ?」
彼は低い声で言った。「家を追い出されて、俺を頼ることもできないのか?」
第3話
この言葉に、瞳は鼻の奥がツンとなった。
そういえば、昔も翔平と喧嘩して家を飛び出すと、英樹が車で街じゅうを探し回って、おぶって家に連れて帰ってくれたっけ。
「また、すねてるのか?」あの時も、英樹は決まってこう言ったものだ。
英樹の背中におぶさりながら、爽やかなシダーウッドの香りに包まれていると、彼も少しは自分のことが好きなのかもしれない、なんて無邪気に信じていた。
今思えば――
英樹以上のクズ男なんていない。
自分のことなんて好きでもないのに、体だけ欲しがるなんて。
しかも事が終わった後には、書斎で百合の写真にうっとりと見惚れるなんて。
自分が百合のどこに劣るというのか、さっぱり分からない。
自分は家柄も、ルックスも、スタイルも、百合に負けているところなんて一つもないはずなのに。
他の誰かを好きになるならまだしも、でも、なんでよりによって百合なの。どうして百合じゃなきゃダメなの。
「離して!」瞳は目を赤く腫らし、英樹の手に思いっきり噛みついた。
英樹は眉をひそめたものの、何も言わずに車のエンジンをかけた。
そして、車を停めると、瞳のスーツケースを持ってさっさと家に入ってしまった。
「前と同じだ」英樹はカフスを外しながら、有無を言わせぬ口調で言った。「帰りたくなるまで、ここにいればいい」
瞳は玄関に立ったまま、爪が食い込むほど拳を握りしめた。「泊まるのは2週間だけ。そしたら出ていくから。家賃もちゃんと払うし、もうあなたの邪魔はしない」
「邪魔はしない、か」英樹はゆっくりと顔を上げ、金縁メガネの奥から底知れない視線で瞳を見た。「本当にできるのか?」
その言葉はナイフのように、瞳の胸に突き刺さり、心臓がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
やっぱり、英樹はとっくに気づいていたんだ。
最初はあんなに反発していた自分が、いつの間にか彼なしではいられなくなってしまったことを。
どうしようもないくらい、英樹を愛してしまったことを。
じゃあ、英樹は?心には初恋の人がいるくせに、こっちが溺れていくのをただ冷ややかに見ていたっていうの?
「百合さんは……」瞳は不意に切り出した。「私の継母の娘だって、知ってた?」
そう聞かれ、英樹はネクタイを緩める手を一瞬止め、「今日、知った」と答えた。
しばらく黙っていたが、瞳は堪えきれずに尋ねた。「百合さんとは、どういう関係なの?」
「高校の同級生だ」英樹は水を一杯注ぐと、ゆっくりと一口飲んだ。「生徒会の仲間でね。前に、交通事故のときに百合に助けられたんだ。それから彼女は体調を崩して、ずっと海外で療養していたんだ」
そう言って、英樹は瞳に警告の眼差しを向けた。「君がその義理の母とうまくいってないのは知ってる。だけど、この件は百合とは関係ない。百合を目の敵にするのは筋違いだ」
すると、瞳は、言いたい言葉が全て喉につかえてしまい、何も言い出せなくなった。
「彼女のこと、好きなの?」そう聞きたかったのに、もう何もかもがバカバカしく思えた。
あんなに百合をかばう様子を見れば、答えは聞かなくても分かるじゃない?
瞳はくるりと背を向けるとゲストルームに戻り、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。
その夜、珍しく英樹は瞳の部屋を訪ねてこなかった。
瞳はベッドに寝転がったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
そうよね、英樹の初恋の人が帰ってきたんだもの。もう自分のことなんか、目にも入らないんでしょ。
次の日、瞳は英樹と顔を合わせたくなくて、わざとお昼まで寝ていた。
でも、部屋のドアを開けると、予想外のことにも英樹がまだ家にいるのが見えた。
彼はソファに座り、すっと通った鼻筋に金縁メガネをかけて、経済雑誌を読んでいた。
「起きたか」英樹は雑誌から顔も上げずに言った。
「会社は、行かないの?」
「週末だ」
瞳は「そっか」とだけ言うと、冷蔵庫からデザートをいくつか取り出して、自分の部屋に戻ろうとした。
ところが、英樹が不意に口を開いた。「着替えろ。後でパーティーに付き合ってもらう」
瞳は断ろうとしたが、考え直した。英樹と二人きりでいるより、外の空気を吸った方がずっとましだ。
結局、彼女は言われた通りに着替えて、英樹について行くことにした。
でも、会場に着いてみて、瞳はそれが百合のための歓迎パーティーだと知った。
帰ろうとしたその時、百合が親しげに腕を絡めてきた。「瞳さん、来てくれて嬉しいです。おじさんと喧嘩なんてしないでください。瞳さんが家を出てから、彼は心配で食事も喉を通らないみたいだったんですから」
瞳は鼻で笑った。「あなたも彼がただの『おじさん』でしかないって、ちゃんと分かってるのね。なら、私が家出しようと彼と喧嘩しようと、あなたには関係ないでしょ?余計なお世話だわ」
彼女が百合の手を振り払って個室に入ると、視界の端で、百合が目を赤くして、切なげに英樹を見上げているのが見えた。
すると、英樹は険しい表情で瞳を一瞥し、警告の眼差しを向けた。
そしてすぐに、優しく百合の頭を撫でた。何かを囁くと、彼女は涙を拭いながら、笑顔を見せた。
それを見て、胸に走る鋭い痛みを噛み締めながら、瞳はうつむくと、シャンパンを一気に飲み干した。
第4話
パーティー会場は、グラスが触れ合う音や、楽しげな話し声で満ち溢れていた。
だが、瞳は会場の隅に座り、輪の中心にいる英樹を見つめていた。彼はみんなに囲まれていながらも、その視線はずっと百合のささいな仕草を追っていた。
百合が飲み物を取ろうと手を伸ばせば、その前にキャップを開けてあげる。百合のスカートの裾が少し濡れれば、すぐにハンカチを差し出す。百合が小さく咳払いをしただけで、誰にも気づかれずにエアコンの温度を上げるのだ。
そんな細やかな優しさを、瞳は英樹から受けたことが一度もなかった。
そんな光景を目にしながら、瞳は感覚を麻痺させるように酒をあおった。だが、胸の内はまるで鈍いナイフでじわじわと切りつけられるみたいに痛んだ。
この1年、英樹との関係は、男女の営みだけのものだった。どんなに甘い時間を過ごしても、英樹が我を忘れたような顔を見せることは一度もなかった。
そう思っていると、「ルーレットが三浦社長に当たったぞ!」誰かがはやし立てた。「罰ゲームの時間だ!」
みんなが笑いながらタブレットを差し出した。「三浦社長は業界一淡泊だって有名だから、困らせるようなことはしないよ。二択クイズだ。いちばんときめく人を、パッと答えるだけでいいんだ」
最初の写真は、人気女優と百合だった。
英樹はちらりと目をやり、ためらうことなく言った。「百合だ」
すると、個室内は一気に歓声に包まれた。百合は顔を赤らめてうつむいたが、その口元に浮かぶ笑みを隠しきれずにいた。
そんな光景に瞳は、爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
次々と写真が表示されるが、英樹はいつも迷わず百合を選んだ。
瞳はもう聞いていられなくなり、席を立ってトイレに向かった。
だが、数歩歩くと、後ろからさらに大きな歓声が上がった。振り返ると、タブレットと同期で表示されたモニターにはっきりと、自分と百合の写真が映し出されていた。
「うおー!」みんなが興奮した。「これは面白くなってきたぞ。瞳さんと言えば業界一の美人で、そこらの女優なんて足元にも及ばない!それでも三浦社長が百合さんを選んだら、これはもう紛れもなく本命だってことだな……」
そして、その場にいた全員の視線が、英樹に注がれた。
しかし英樹は、珍しく黙り込んでしまった。
瞳はその場で固まり、心臓が胸から飛び出しそうになるほどだった。
3秒後、英樹の低い声が聞こえた。「百合だ」
その瞬間、瞳の世界はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
個室の割れんばかりの歓声が響く中、彼女はよろめきながらトイレに駆け込んだ。そして、蛇口をひねり、冷たい水を顔に叩きつけたが、それでも、胸が焼けるような痛みは消えなかった。
しばらくして、瞳は顔を上げて鏡を見た。そこに映る自分は息をのむほど美しいのに、恋路をかけた戦いでは完全に敗れていた。
そして、トイレから出ると、廊下は薄暗いオレンジ色の光に照らされていた。
角を曲がると、酔っ払った3、4人の男たちに行く手を阻まれた。
「おねーさん、ライン教えてくんない?」リーダー格の男が、酒臭い息を吐きながら瞳の顔に触ろうとしてきた。
「触らないで!」瞳はとっさに身を引いたが、背中が冷たい壁にぶつかった。
「かっこつけんなよ」別の男が瞳の手首を掴んだ。「そんな格好して、誘ってるようなもんじゃねえか?」
もがく中、瞳の視線は男たちの間を抜け、個室のドアの前に立つ英樹の目と合った。
英樹がわずかに眉をひそめ、こちらへ歩き出そうとした、その時だった。後ろから、百合の痛そうな声が聞こえた。「きゃっ!」
「どうした?」英樹はすぐに振り返った。
「足首をひねっちゃったみたい……」百合は目に涙を浮かべた。「私は大丈夫だから、先に瞳さんを助けてあげて」
しかし、英樹はただしゃがみ込んで、百合の足首を見ながらこう言った。「放っておけ。あいつなら自分でなんとかできるはずだから」
その言葉は、またしてもナイフのように瞳の心に突き刺さった。
その拍子に男の手が腰に伸びてきて、不快な酒の匂いが顔にかかった。「いいから、俺たちと遊ぼうぜ……」
すると、瞳は廊下の飾り棚にあった酒瓶を掴むと、壁に叩きつけて割った。
「死にたくなければ、とっとと消えなさい!」
割れたガラスの破片が手を切り、指先から血が滴り落ちた。
男たちが呆然としている隙に、瞳は足早にその場を離れた。
パーティーがお開きになり、瞳は英樹の車に乗りたくなくて、一人で道端に立ってタクシーを待っていた。
そこへ百合が傘をさして、ハイヒールで水溜まりを踏みつけながら近づいてきた。「瞳さん、車で来てないのですか?送っていきましょうか?」
瞳は百合の手にある最新モデルのスポーツカーのキーを見て、ふと笑った。
翔平もずいぶん気前がいい。血縁関係のない娘に、こんな高級車を買ってあげているんだから。
「大丈夫よ」瞳は赤い唇の端を上げ、あでやかに笑った。「愛人の娘の車なんて、乗ったら気分が悪くなりそうだもの」
それを聞いて、百合の顔つきが、みるみるうちに険しくなった。とうとう猫を被るのをやめ、彼女は瞳の手首を掴みあげて言った。「瞳さん!もう一回言ってみてください!」
「もう一回言ったら、あなたが愛人の娘じゃないってことになるの?離しなさい!」
こうして言い争う二人の間に、突然まぶしいハイビームが差し込んできた。
瞳が顔を向けると、コントロールを失った一台の車が、こちらに向かって突っ込んでくるところだった。
次の瞬間、英樹が飛び出してくるのが見えた。彼は、百合をぐっと腕の中に引き寄せた。
そして瞳は、ドン、という衝撃と共に地面に叩きつけられた。
第5話
瞳は血まみれで倒れ、視界がだんだんぼやけていく。
英樹が百合を大事そうに腕に抱く姿を見ながら、これまでの記憶が次々と蘇ってきた。
初めて会った時、英樹の金縁メガネの奥の目は、氷のように冷たかった。
英樹に歯向かおうとした時、コーヒーに塩を入れたけど、彼は平然とそれを飲み干した。
初めてデスクに押し倒された時、痛くて英樹の肩に噛みついてしまった。
そして、自分がどんどん英樹を好きになっていった。英樹の誕生日には、邸宅中を飾り付けて待っていた。でも、そこで知ったのは、彼と百合のスキャンダルだった……
それから、あの日。自分は泣きながら、5キロも歩いて母のお墓まで行った。ハイヒールで歩いたせいで、かかとは血まみれのマメだらけになっていた。
そんな自分を見つけてくれたのが、英樹だった。彼は何も言わず、自分の足からハイヒールを脱がせると、靴を片手に持って、おぶって家に連れて帰ってくれた。
あの時、瞳は英樹の首筋を伝う涙を流しながら思ったんだ。このまま、一生こうして歩いていけたら、それも悪くないなって。
母が亡くなってから、やっと家に連れて帰ってくれる人が現れたんだ。
でも最後に、全ての思い出の画面は、英樹が百合を腕に抱く、あの光景に塗り替えられてしまった。
……
ピッ、ピッ、ピッ……
医療機器の電子音が、瞳を現実に引き戻した。
ゆっくりと目を開けると、隣から百合の泣きじゃくる声が聞こえてきた。
「私のせいだわ。道端で瞳さんと口論なんてしなければ……私はただ、瞳さんを車で送りたかっただけなのに……英樹さん、どうして私を先に助けたの?瞳さんが知ったら、きっと怒ってしまうわ……」
英樹は百合の涙を指で拭った。「君のせいじゃない」
その声はとても優しくて、瞳が一度も聞いたことのないような声色だった。
「たとえやり直せるとしても、俺は君を先に助けると思う」英樹はそっと言った。「君は体が弱いんだ。これ以上、怪我はさせられないから」
そして、少し間を置いて付け加えた。「それに、瞳が怒る理由もない」
そこまで聞いて瞳の胸が急に締め付けられた。それはまるで見えない手に心臓をわしづかみにされ、ねじ上げられるような感覚だった。
そうよ、自分は英樹にとってそれほど重要な存在でもないわけだから、怒る資格なんてあるわけないのだ。英樹が誰を助けようと、彼の勝手じゃない?
「もう泣かないで。帰ってゆっくり休むんだ」英樹はそう言って百合を優しくなだめた。
そして、彼がしばらく優しくなだめ続けると、百合はそれでようやく帰っていった。
病室のドアが閉まり、英樹が振り返ると、瞳がとっくに目を覚まして、静かに自分を見つめていることに気づいた。
だが、英樹の顔には、やましいそぶりは全くなかった。「かすり傷だけだ。でも、君が見た目を気にするし、痛がりなのも知ってる。だから最高の医療チームを呼んだ。傷跡は残らないよ」
もし以前の瞳だったら、きっと泣いて騒いでいただろう。どうして百合を先に助けたのかと、問い詰めていたはずだ。
でも今は、ただ静かにこう言っただけだった。「わかったわ、ありがとう。治療費は、2週間後に返すから」
英樹は少し眉をひそめた。瞳が礼を言うなんて、少し驚いたようだった。
それに、どうして「2週間」という言葉を何度も口にするんだろう?
しかし、英樹はそれ以上何も聞かなかった。いつもの令嬢特有のヒステリーで、嫌味を言っているだけだろうと思ったからだ。
……
それから数日、英樹は珍しく全ての仕事をキャンセルして、病院で瞳の看病をした。
でも不思議なことに、瞳は以前のようにまとわりついて騒ぐことはなかった。
彼女は静かに治療を受け、静かに食事をして眠った。その静けさが、英樹の心を重くさせた。
「まだ怒ってるのか?」点滴に付き添っていた時、英樹がようやく口を開いた。
「何を怒るの?」
「あの日に、俺が君を助けなかったことを気にしているんだろ」英樹は少し間を置いて続けた。「百合を助けたのには訳がある。俺と彼女は……」
英樹が言い終わる前に、廊下から突然騒がしい声が聞こえてきた。
「どうしたんですか?」と、若い看護師が慌てて走り過ぎていった。
「酒井社長のとこのお嬢様が、階段から落ちたらしいですよ」もう一人の看護師が声を潜めた。「さっき救急に運ばれて、酒井社長が顔面蒼白で、自ら抱きかかえて連れてきたんですって。義理の娘さんにそこまでできるなんて、本当にできた人ですよねぇ……」
瞳が英樹に目を向けると、案の定、彼の表情がわずかに変わったのが分かった。
「ちょっと様子を見て来る」そう言って英樹は立ち上がった。その動きにはいつもより慌ただしいものがあった。「後でまた来る」
瞳は、急いで去っていくその後ろ姿を見つめた。どこへ行ったのか、考えるまでもなかった。
疲れ切って彼女は目を閉じた。そして、心にぽっかりと穴が開いたように感じた。
第6話
次に目を覚ましたときは、看護師に起こされた。
「誰もついてなかったのですか?点滴が逆流してるじゃないですか!もう少しで大変なことになるところだったのですよ!」看護師は慌てて言った。
瞳がそっと手をあげると、手の甲がパンパンに腫れあがっていた。スマホを手に取って、もう7時間も経っていることに気づいた。
英樹はずっと戻ってこなかった。
「あのイケメンの彼氏さんはどうしたのですか?」看護師は薬を替えながら尋ねた。「点滴中は誰かが見てないとダメですよ。さっきは本当に危なかったんですから」
それを聞いて、瞳は唇を歪めて言った。「あの人は、彼氏じゃないです」
瞳は一人で壁に手をつきながら病室に向かった。しかし、廊下から聞こえてくる噂話が、針のように耳に突き刺さった。
「あの百合さんって、すごく幸せそうよね。義理のお父さんにもあんなに優しくしてもらって、それに、すっごくイケメンな彼氏さんまでいるんだから!」
「聞いた話だと、彼氏さんがVIPフロアを丸ごと貸し切って、海外から専門の先生まで呼んだらしいわよ。丸一日、そばを片時も離れなかったんだって。酒井社長にも彼氏さんにも、お姫様みたいに扱われてて……百合さんって、本当に運命を味方にしているのね……」
そんなヒソヒソ話を聞きながら、瞳は、無意識にその病室の前に立っていた。
半開きになったドアの隙間から、英樹が見えた。彼は腰をかがめて、百合の点滴の速度を調節していた。その長い指が、ゆっくりとチューブのつまみを回しているのだった。
一方、翔平はベッドのそばに座って、百合のためにりんごを剥いていた。皮は途切れることなく長く剥かれていき、果肉を一口サイズに切って百合の口へ運んであげていた。
それを目にして、瞳は急に息が苦しくなった。
そして、わけもなく涙がこぼれ落ちてきて、熱い滴が頬を伝った。
瞳は慌ててそれを手で拭った。
「瞳」瞳は誰もいない廊下に向かって、そっと呟いた。「誰のために泣いてるの?誰も心配なんかしてくれないんだから、泣いちゃだめ!」
そして、彼女は踵を返すと、背筋をまっすぐに伸ばし、しっかりとした足取りで足早に歩き去った。
ただ、固く握りしめられた手のひらからは、血が滲んでいた。
それから数日間、英樹は一度も姿を見せなかった。
退院の日になって、瞳は病院の玄関で、見慣れた黒いマイバッハが停まっているのを見つけた。
車の窓が下りて、英樹の整った横顔が現れた。
「乗れ」彼の声は、相変わらず冷たかった。
だが、瞳はくるりと背を向け、違う方向に向かって歩き出した。
「こんなところで、大勢を目の前にして抱き上げられたいのか?」
その言葉に、瞳の足はぴたりと止まった。
英樹がそんなことを言うなんて信じられなかった。昔、しつけるために、彼はよくそんな風に脅してきたけど、それは二人の間のじゃれあいのようなものだと思っていた。でも、今となっては初恋の人も戻ってきたのに。どうしてまだ、そんなことを言うんだろう?
瞳は歯を食いしばって車に乗り込んだ。
すると、英樹はオークションのパンフレットを瞳に渡した。「最近、元気がないみたいだからな。前はよく買い物をしたがっただろう?今日はオークションに連れて行ってやる」
断ろうとした瞳だったが、あるページをめくった瞬間、息を呑んだ。
それは、母の真珠のネックレスだった。
凪が家に来てから、いろいろと口実をつけては、翔平に自分の母の遺品を全て処分させたのだ。
その時、瞳は必死でお願いした。でも、翔平から返ってきたのは「死んだ人間の物なんて、縁起が悪いだけだ」という冷たい一言だけだった。
だからまた、母が一番大切にしていたネックレスを目にすることができるなんて、思いもしなかった。
そう思って彼女はパンフレットを固く握りしめた。紙は手の中でくしゃくしゃになった。
瞳は震える手でスマホを取り出し、顧問弁護士に急いでメッセージを送った。【銀行の貸金庫に預けた財産を、すぐに全部売ってください!】
このネックレスのためなら、そんな財産がなくても構わない。それで笑われたって、もうどうでもいい。
そして、オークション会場は、きらびやかな装飾で輝いていた。
英樹についてVIPエリアに入ると、指定席に座っている百合がすぐに目に入った。
百合は白いワンピースを着ていて、こちらに可愛らしい笑みを向けていた。
「瞳さん!」百合は親しげに瞳の腕に絡みついた。「オークションの場で、瞳さんに謝りたいって言ったら、英樹さんが本当に連れてきてくれました」そう言って彼女は瞬きをした。「お二人って、本当に仲がいいですね」
それを聞いて、瞳の体はこわばった。
彼女はゆっくりと英樹に顔を向けた。
英樹はオークションのリストに視線を落としていた。しかし、その照明の下で彫刻のように美しい横顔は、彼女に向けられることはなかった。
そういうことだったのか。
ここに連れてきたのは、自分が落ち込んでいることに気づいたからでも、機嫌を取るためでもなかった。
ただ、百合が「謝りたい」と言ったから。だからついでに、都合のいい自分を連れてきただけなのだ。
でも不思議なことに、それがわかっても、想像していたような痛みは襲ってこなかった。
胸にぽっかりと穴が開いて、何かをごっそりえぐり取られたような感じがしただけで、それ以上何かを感じることは全くなかった。
第7話
それから瞳は無表情で席に着くと、背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに前方のステージを見つめた。
オークションは中盤に差し掛かったが、彼女はずっと退屈そうにしていた。
そして、いよいよオークショニアがビロードのトレイにかかった赤い布をめくると、スポットライトの下で真珠のネックレスがしっとりとした輝きを放った――
その瞬間、瞳は目を見開き瞳孔がぐっと収縮した。
幼い頃、母がパーティーでいつもこのネックレスをつけていたのを思い出した。真珠が母の細い首筋に沿って、優雅な歩みに合わせてそっと揺れる様子は、まるで柔らかな月光のようだった。
「そんなに気に入ったのか?」英樹の低い声が、耳元で聞こえた。
瞳は答えず、すぐに札を上げた。「10億」
「12億」
すると、横から甘い声が聞こえた。目を向けると百合が瞳に微笑みかけているのだった。「瞳さん、私もこのネックレス、すごく好きなんです。高い値段をつけた方が勝ち、文句はないですよね?」
それを聞いて瞳は、爪が食い込むほど拳を握りしめた。「16億」
「20億」
「40億」
「60億」
……
価格は、あっという間に200億まで跳ね上がった。
資産を売って作ったお金は、もう底をついていた。しかし、百合はまだ余裕の表情で札を上げており、その顔には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。
「200億円、他にございませんか?」オークショニアが瞳を見る。「こちらの方、いかがされますか?」
そう聞かれ瞳の喉が、きゅっと締め付けられた。
たかがネックレス一本のために、誰かに頭を下げなければならない日が来るなんて、今まで考えたこともなかったから。
「上げます」瞳は苦しげにその一言を絞り出すと、英樹の袖をつかんだ。「英樹、お金を貸して……」
声は震えていた。「これは母の形見なの。絶対に手に入れなきゃいけないの」
一方、英樹は明らかに固まっていた。
いつも気高く華やかだった瞳が、こんなにも弱々しく誰かに頼る姿を、一度も見たことがなかったから。
「お願い」瞳は目を赤くし、か細い声でつぶやいた。
英樹の手がスーツの内ポケットに伸び、ブラックカードを取り出そうとした――その時だった。
「英樹さん」百合が突然、英樹の腕をつかんだ。その目は潤んでいた。「私も、このネックレスが本当に欲しいの……」
百合は唇を噛みしめる。「私、何かをこんなにも欲しいと思ったのは初めてなの。お願い、瞳さんに手を貸さないでもらえる?」
その瞬間、まるで空気が凍りついたかのようだった。
瞳は英樹を見つめた。彼はかつては、どんな時も自分を守ってくれた男だ。
だが、今、英樹の眉間に、わずかにしわが寄って、その視線は、瞳と百合の間をさまよっていた。
そして長い沈黙の後、彼はようやく瞳に視線を向け、ゆっくりと口を開いた。「百合に譲ってやれ」
そのたった一言が、まるでナイフのように瞳の心に突き刺さった。
それからハンマーが打ち下ろされてしまった。「落札!こちらの方、おめでとうございます!」
一方、瞳はその場に立ち尽くし、全身が冷え切っていくのを感じた。
彼女は百合がネックレスを受け取るのを見つめた。相手がこちらに得意げな笑みを向けているのを目にして、彼女は更に拳を握りしめ、爪が深く食い込んだ手のひらから血が滴り、カーペットに落ちたが、痛みは感じなかった。
英樹は、こんな瞳の姿を初めて見た。
目は真っ赤に充血しているのに、頑なに涙は流そうとせず、唇は白くなるほど噛みしめているのに、それでも無理に背筋を伸ばしているそんな彼女の姿に、彼にはなぜか、胸に奇妙な痛みがこみ上げてきた。
すると、「英樹さん……」百合が弱々しく寄りかかってきた。「生理で、ちょっと気分が悪くて。ブランケットをもらってきてくれる?」
英樹は少し黙っていたが、やがて席を立って行ってしまった。
一方で瞳は、もうオークションどころではなかった。
席に座ったまま、耳鳴りが止まらない。目の前には、ネックレスをつけて微笑む母の姿が、何度も何度も浮かんでは消えた。
そして、オークションが終わるとすぐに、瞳は百合の行く手を遮った。
「そのネックレスを私に売ってくれない」瞳の声はかすれていた。「条件は何でも飲むわ」
百合はフッと笑った。「本当に何でも?じゃあ、土下座しろって言ったらどうですか?」
瞳の体は、わなわなと震えた。
母が亡くなる間際に、自分の手を握りながら言った言葉を思い出す。「瞳、何があっても、誇りを失くしてはダメよ」
でも今、たった一本のネックレスのために、自分はその最後の誇りまで捨てようとしているのだ。
「いいわ」
その一言は、ほとんど歯の隙間から絞り出されたような声だった。
瞳は目を赤くしたまま、ゆっくりと膝を折ろうとした――
「やめてくださいよ」百合が、突然笑って遮った。「土下座したって、無駄ですよ。
あんなガラクタ、とっくにそこら辺に捨ててやりましたよ」
そう言って百合はスマホを取り出して何度かスワイプすると、画面には汚れた溝にその真珠のネックレスが捨てられていたのだった。
「あなたの母親の物なんて、所詮溝に捨てられる結末よ」百合は瞳の耳元にささやき、一語一句はっきりと告げた。「だって、アバズレには溝がお似合いじゃないですか?」
一方でそれを見た瞳の瞳孔が、再び鋭く収縮した。
体ががたがたと震え、耳鳴りがひどくなり、まるで金槌で頭を強く殴られたかのようだった。
そして、目の前に、死の間際の母の青白い顔がよぎった。母の首元で優雅に輝いていたあの真珠のネックレスが、今は……
「もう一回言ってみなさい」瞳の声は、恐ろしいほど静かだった。
百合は得意げに笑った。「アバズレには溝がお似合いだって言ったのですよ。あら、聞こえなかったのですか?」
それを聞いて瞳はゆっくりと顔を上げた。その目の奥は、真っ赤に染まっていた。「どっちの手で捨てたの?」
「こっちの手ですよ」百合は、見せびらかすように右手を挙げた。「何よ、まさか……」
しかし、彼女がそう言い終える前に、瞳はそばにあったフルーツ皿からナイフをひっつかみ、百合の手のひらに容赦なく突き立てた。
「きゃあああっ!」
第8話
すると凄まじい悲鳴がホールに響き渡った。噴き出した真っ赤な血が、瞳の真っ白なドレスの裾に飛び散り、まるで咲き乱れる彼岸花のようだった。
すぐに周りは一瞬にしてパニックになり、あちこちで悲鳴が上がった。
しかし、瞳は驚くほど落ち着いていた。彼女は冷ややかに周りを見渡し、赤い唇をわずかに開いて言った。「お見苦しいところをお見せしました。私は母を早くに亡くして、しつけられていないもので。ですから、やられたら――」
瞳はそう言いながらナイフを引き抜くと、返り血が顔に飛び散った。「その場でやり返す主義なんです」
すると、百合の苦しそうな泣き声がオークション会場に響き渡った。しかし瞳は、ナイフを投げ捨てると、そのまま背を向けて歩き出した。
出口まで来たとき、突然、何者かに手首を強く掴まれた。
英樹は、知らせを聞いて慌てて駆けつけたようだった。その手には毛布やカイロ、生理痛用の痛み止めの薬が握られていた。
それを見て、瞳の胸に、ちくりと痛みが走った。
これは、百合のために買いに行っていたものだろう。
「気でも狂ったのか!」英樹の顔は恐ろしいほど冷たい。「たかがネックレス一本のために、人を傷つけるとは。もし百合がこれ以上君の気に障ることをしたら、今度は殺すつもりか?」
彼の力は強く、まるで彼女の手首を今にも握り潰してしまいそうだったが、瞳は痛みに耐えながら、目を赤くして言った。「どうして相手が何をしたのか聞かないの?彼女は、私の母のネックレスを……」
「たとえ百合がネックレスを捨てようとどうしようと、君が人を傷つけていい理由にはならない!」英樹は厳しい声でさえぎった。
その言葉は、再びナイフのように瞳の心を突き刺した。
彼女は、ふと笑った。それは涙がこぼれるほどの、悲しい笑みだった。「もうやっちゃったものは仕方ないわ。それで、私をどう『おしおき』するつもり?」
「もう俺の手には負えん」英樹は冷たく言い放つ。「誰か。警察に突き出せ。傷害罪で告訴し、3日間、留置場に入れておけ」
瞳ははっと顔を上げた。自分の耳を疑った。
百合のために、自分を留置場に入れるっていうの?
瞳は血の味がするまで唇を強く噛みしめた。でも、一言も発さず、警察に連行されるがまま連れて行かれた。
そして、立ち去り間際に見た光景は、英樹が百合を横に抱き上げて、「泣かないで、俺がいるから」と優しくなだめている姿だった。
……
留置場での3日間は、瞳の人生で最も地獄のような日々だった。
一番汚い雑居房に入れられた。同室の女たちは誰かに指示されたらしく、あの手この手で瞳をいたぶり続けた。
1日目。丸裸にされ、全身に冷水を浴びせられた。
2日目。食事にはガラスの破片が混ぜられていたから、何も食べられず、空腹で胃がねじれるように痛んだ。
最終日。数人の女にトイレブースに押さえつけられ、ひっきりなしに拳を浴びせられた。
「とんでもないお方を怒らせたそうじゃないか」リーダー格の女が、にやにやと意地悪く笑いながら瞳のあごを掴んで言った。「三浦社長から言われてるんだ。『思い知らせてやれ』ってな」
瞳は床にうずくまり、目を赤く腫らした。
英樹がここまで非道いことをするなんて信じたくなかった。でも、体中の傷が、瞳に現実を突きつけた。
英樹は、本気で自分を痛めつけようとしているんだ、と思い知らせるかのようだった。
3日後、警察がようやく釈放しに来たときには、瞳はもうまともに立つこともできなかった。
満身創痍の体を引きずって留置場を出たが、門をくぐった途端に彼女は気を失ってしまった。
次に目を覚ますと、そこは病院の病室だった。
「これで懲りたか?」ベッドのそばに立つ英樹の声は、ひどく冷たかった。
第9話
瞳は黙って天井を見つめて、一言も発さなかった。
すると、英樹の胸に、理由もなく怒りの炎がこみ上げてきた。何か言おうとしたその時、看護師が慌てて入ってきた。「三浦さん、百合さんがまた痛いと……」
「少しは反省しろ」英樹はそう言い残して、背を向けた。「もう騒ぎを起こすな」
それからの日々、瞳は不気味なほど静かだった。
百合が毎日、英樹に世話をされている写真を送ってきても、瞳は全く動じなかった。
そして退院の日、百合が自ら病室にやってきた。
「瞳さん、たった3日間で退院だなんて」百合は包帯の巻かれた右手をひらひらさせた。「この傷のせいで、私がどれだけ入院しなきゃいけないか分かりますか?もし英樹さんが大金を使って海外から専門家を呼ばなかったら、この手はもう使い物にならなかったのですよ」
「自業自得でしょ」瞳は冷たく言い放った。
百合は、ふふっと笑った。「瞳さん、一体何を偉そうにしてるんですか。あんなに英樹さんのことが好きだったのに、その彼に留置場へ送られた気分はどうです?死ぬほど辛かったでしょう?」
瞳はようやく百合に視線を向けた。「一体、何が言いたいの?」
「別に、ただちょっとした昔話をしたくなっただけです」百合はベッドのそばに腰掛けた。「知らないでしょう。私と英樹さん、高校の同級生でした。あの頃、学校中の女子が彼を追いかけてたけど、彼は誰にも見向きもしなかったんです」
百合は包帯を撫でながら、勝ち誇ったように目を輝かせた。「私以外は、ですね。
英樹さんは私がコーヒーに砂糖を入れないのを覚えてくれてて、雨の日はいつも私のために傘を一本多く持ってきてくれました。生徒会の活動では私が渡す水しか飲まなかったし、全校集会のスピーチでは私がいる方だけを見てました。
学校中の女子が嫉妬で狂いそうになってたけど、英樹さんは私にだけ笑いかけてくれたのですよ。
あと一歩で私たちが付き合うって時に、英樹さんを庇って交通事故に遭ってしまって、海外で療養することになりました。でも、この何年間も、ずっと連絡は取り合ってましたよ」
それを聞いて、瞳は、爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。
「その後、英樹さんに話したんです。母が資産家の男性と再婚したんですけど、その家の娘にいじめられてるって。そうしたら英樹さんはすぐに、あなたのお父さんに電話をかけたのですよ。
なんて言ったと思います?『娘さんのことは、俺が責任をもって躾けます』って」
その事実に瞳は全身が震えた。てっきり、翔平が自分の意思で英樹に躾を頼んだのだと、ずっと思っていたのに……
「英樹さんは学校でも何でも優秀だったけど、人を躾けるのも得意みたいですね」百合は瞳の耳元に顔を寄せた。「いとも簡単にあなたを夢中にさせて、ベッドにまで誘い込んだんですから。
最初はすごく腹が立ったけど、後から知ったのです。英樹さんはあなたと寝るたびに、その様子を隠しカメラで録画してたそうですよ……」百合は軽く笑った。「その時、彼の狙いが分かりました。
だって、あなたはプライドだけは人一倍高いものでしょう。もし自分のあんな動画を私が握っていたら、もう誰にも手出しできなくなるでしょう?
英樹さんがあなたと寝たのは、きっと、その動画を後で私に渡して、私があなたに対抗できるようにするためだったのですよ」
そう言い終えると、百合は血の気を失った瞳の顔を満足そうに眺め、笑いながら病室を出ていった。
瞳は雷に打たれたような衝撃を受け、全身の血が凍りついたようだった。
彼女は半狂乱で病院を飛び出し、タクシーを捕まえて英樹の家へと向かった。
邸宅に戻ると、瞳は狂ったように家捜しを始めた。
書斎の引き出し――ない。
寝室の金庫――ない。
最後に、書斎の奥にあるパソコンの中に、パスワードで保護されたフォルダを見つけた。
フォルダを開いた瞬間、彼女は足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
画面に映し出されていたのは、自分と英樹が体を重ねる姿だった。
最初の行為から最後のものまで、全てがはっきりと、日付ごとに整理されていた。
第10話
瞳は、震える手で翔平に電話をかけた。
「もう連絡しないんじゃなかったのか?」翔平の声は冷たかった。「勘当の書類はもう送ったはずだ。もう月末になる。今日明日中には盛沢市へ行け!」
「ひとつだけ、聞きたいことがあるの」瞳の声はかすれていた。「私を英樹のもとへ行かせたのは、お父さんの考え?それとも、英樹が私を望んだの?」
「そんなことを聞いてどうする?」
「教えて!」
翔平は少し黙ってから、答えた。「彼の方だ。南区のプロジェクトと引き換えにな。どっちみち、お前の顔を見るのも鬱陶しかったしな。一石二鳥だ」
スマホが床に落ち、画面がバキッと音を立てて割れた。
瞳は、突然笑い出した。
がらんとした邸宅に、その笑い声が響き渡り、そして張り裂けそうなほどの笑いと共に彼女の涙がとめどなくあふれてきた。
「英樹……よくやってくれたわね」
しばらくして、瞳はようやく涙を拭った。そして部屋に行くと、荷造りを終えていたスーツケースを引きずり出し、一歩、また一歩と玄関へ向かった。
その足取りは、屈辱を踏みしめているかのようだったが、不思議なほど迷いがなかった。
そして玄関で、彼女は立ち止まった。
無意識に、ポケットの中のライターを指でなぞっていた。
それは英樹からの誕生日プレゼントだった。そこには、彼の手でこう刻まれていた。【瞳へ】
瞳はふと笑った。
次の瞬間、彼女はためらうことなくライターの火をつけ、カーテンに向かって投げつけた。
火は瞬く間に燃え広がり、リビングを真っ赤に染め上げた。
瞳は家の外に立ち尽くし、炎がすべてを飲み込んでいく様子を静かに見つめていた。二人が愛し合ったソファも、キスを交わしたダイニングテーブルも、そして、あの……
英樹もほんの一瞬、自分に心惹かれてくれたのかもしれないと、愚かにも信頼を寄せようという思いが詰まったあのベッドまでもが、炎に包まれていくのだった。
英樹が駆けつけたのは、1時間後のことだった。
甲高いブレーキ音を響かせ、一台の黒い車が邸宅の前に乗り付けた。
車のドアを開けると、目に飛び込んできたのは突き抜けるほどの炎と、スーツケースの上に座っている瞳の姿だった。
瞳は、ただ静かに燃え盛る邸宅を見つめていた。炎の赤い光がその青白い顔を照らし、まつげには、まだ乾ききらない涙の跡がきらめいていた。
英樹は、思わず息を飲んだ。
聞きたいことは山ほどあった。しかし、瞳の真っ赤に腫れた目を見てしまうと、どんな言葉も喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「家まで燃やして」英樹は結局、低い声でそれだけを言った。「これで、満足か?」
瞳はゆっくりと顔を上げた。
かつて愛に満ちていたその瞳は、今や光を失い、静まり返っていた。
瞳は英樹を、まるで見知らぬ人を見るかのように見つめ、一言も発しなかった。
「社長」秘書の山下哲也(やました てつや)が急いで走ってきた。「プライベートジェットの準備ができました。S国での会議は、これ以上延期できません」
英樹は眉間を押さえた。「この家の後始末を頼む」
少し間を置いて、瞳に目をやった。「瞳を南区の邸宅に送れ」
「もういいの」瞳がやっと口を開いた。その声はかすれているのに、どこかきっぱりとしていた。「家に帰るから」
やっと実家に戻る気になったのか。英樹はそう思い、少しほっとした。「そう思ってくれるのが一番だ」
英樹はくるりと背を向け歩き出す。黒いトレンチコートの裾が、夜風に翻った。「俺がいつまでも君の面倒を見てやれると思うな」
瞳はその場に立ち、遠ざかっていく英樹の背中を見つめながら、ふと唇の端に力ない笑みを浮かべた。
「さようなら、英樹」その囁きは、夜風に吹かれて消えてしまいそうなくらい、か細かった。
「なんだ?」英樹は振り返った。
だが、瞳はもうタクシーに乗り込んでしまった。
英樹はまた瞳がかんしゃくを起こしているだけだと思い、それ以上は聞かずに自分の車に乗り込んだ。
しかし、彼は気づかなかった。二台の車が前後して空港に向かっていることに。
プライベートジェットの前で、英樹は哲也から書類を受け取り、そのまま機内へと姿を消した。
一方、ターミナルでは、瞳が英樹にこの2週間分の家賃と治療費を振り込み終えると、スマホをゴミ箱に投げ捨てた。そして、一度も振り返ることなく、盛沢市行きの搭乗ゲートへと歩き去った。
二機の飛行機が同時に離陸し、互いに反対の方向へと、二度と交わることなく飛び去っていった。