円満離婚の裏側

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円満離婚の裏側

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藤宮修也(ふじみや・しゅうや)と結婚して四年目。 女優として頂点に立つ藤宮紗良(ふじみや・さら)は、無名に近い若手女優・水野優花(みず...

Chương (1)

第1章

藤宮修也(ふじみや・しゅうや)と結婚して四年目。 女優として頂点に立つ藤宮紗良(ふじみや・さら)は、無名に近い若手女優・水野優花(みずの・ゆうか)に主演の座を奪われた。 しかも優花は、悪びれることもなく笑って言い放った。 「奥さんだからって、何?私が何か言えば、修也さんはだいたい私の言うとおりだし。 それにね……今、妊活中なの」 半年後、紗良は三度目となる最優秀主演女優賞を受賞していた。 その夜、修也は優花を連れて家に戻ってきた。流産した優花を、この家で静養させるつもりだという。 紗良は取り乱さなかった。 涙を見せることも、声を荒らげることもなく、ただ静かに離婚届へ署名した。 そして優花に言った。 「修也のSNSに入って。三十日後に投稿されるよう設定して。 内容は――『俺たちは円満に離婚した』」 「……約束だよ、紗良さん。ちゃんと守ってね」 「ええ。望みどおりにしてあげる」 三十日後、紗良はフランスへと飛び、修也とのすべての繋がりを、自らの手で断ち切った。 第1話 「紗良、もう決めたか?優花にはうちで流産後の静養をさせたい」 藤宮修也(ふじみや しゅうや)のせかす声が響いた。 藤宮紗良(ふじみや さら)は視線を上げ、指先が掌に食い込むほど握りしめたまま、目を赤くして焦った顔の男を見た。 今夜、紗良は三度目となる最優秀主演女優賞を手にし、修也が帰宅したら一緒に祝うはずだった。 それなのに彼は、流産したばかりの水野優花(みずの ゆうか)を連れ帰り、夫婦の寝室で休ませようとしている。 こんな理不尽な出来事は、今年に入ってから一度や二度ではなかった。 最初は年明けのことだ。修也の醜聞が週刊誌を賑わせ、紗良にどこか似た優花と、駐車場の車内で関係を持っている決定的な写真まで撮られた。 紗良は泣き腫らした目で、離婚を切り出した。 修也は優花を連れて紗良の前にひざまずき、三日三晩その姿勢を崩さなかった。そして彼女の目の前で、自ら髪を剃り落としてみせた。 「紗良……許してくれないなら、俺はこれから先、ずっと仏前で罪を贖う」 床一面に散った黒髪を見つめながら、紗良の心はふっと緩んでしまった。 二度目は、紗良の新作がまだ撮影の途中だったにもかかわらず、監督が突然こう告げたときだ。「ヒロインは優花に交代だ」 納得できず、紗良が修也を問い詰めると、彼はかすれた声で言い訳を並べた。 「紗良、あの夜……優花が妊娠した。俺が中絶に付き添ったんだ。あいつは埋め合わせに、売り出してほしいって俺に頼んできた。 先月、あいつの作品がそこそこ当たって、母さんが『五年前の雪崩で助けてくれた恩人だ』と言い出した。それで、俺は主演の枠を譲った」 彼は恐る恐る紗良を抱き寄せ、声まで震わせて言った―― 「……これが最後だ。もう二度と、あいつに俺たちを邪魔させない。な、頼む」 紗良は、その言葉を信じてしまった。 ――そして今日。 修也は優花を家に入れ、また同じ言葉を口にする。 「紗良、優花は俺のせいで、二度も流産した。ずっと負い目があるんだ。だから……家で休ませるしかない。 少しだけ……目をつぶってやれないか」 紗良は彼をまっすぐ見据え、笑ってしまいそうになるほど、目の奥が熱くなった。 「嫌だって言ったら?」 修也は眉をきつく寄せた。 「紗良、意地を張るな。約束しただろ。俺の妻はお前だけだ。優花が静養を終えたら、ちゃんと出ていかせる。俺たちは……また元に戻れる」 紗良は彼を見つめ、口元にかすかな嘲りを浮かべた。 ――元に戻る? 七年前――白見原の名家で「禁欲の若様」と囁かれていた彼が、紗良に一目で恋に落ち、自らに課していた掟を破った、あの頃に? 四年前。落ち目だと嘲られていた紗良を、世間の悪意ごと抱え込み、妻として迎え入れた、あの頃に? それとも三年前。彼が手を尽くして紗良を再びトップへ押し上げ、受賞の舞台で、誰よりも誇らしげに拍手を送っていた、あの頃に? 「紗良さん……これ、全部あなたのトロフィーなんですか?」 優花の、羨望に満ちた声が、紗良の回想を断ち切った。 振り向くと、優花が彼女のトロフィーに手を伸ばしていて、紗良はわずかに眉をひそめた。 「……それ、私のものだから。触らないで――」 言い終える前に、優花は甘い笑みを浮かべ、トロフィーを持ち上げると床へ叩きつけた。 ――ガラスが裂けるような、耳を刺す音。 紗良が反射的に手を上げた、その瞬間だった。背後から重い力がのしかかり、乱暴に突き飛ばされた。 体ごとテーブルに激突し、腕が鋭い角で切り裂かれる。鮮紅の筋が走り、並べられていたトロフィーが、一斉に床へと落ちた。 痛みに息を呑み、紗良の瞳が赤く潤んだ―― 「修也……どうかしてるの?」 紗良の声にも、修也は振り向かなかった。すすり泣く優花を抱えたまま、そのまま二階へと上がっていく。黒い瞳に浮かぶ庇うような色は、隠しようもないほど露骨だった。 「泣くな。医者にも言われただろ。静養中は、泣いちゃいけない」 その背中を見送りながら、紗良の目の縁に、静かに涙が溜まっていく。 ――修也と優花の間には、二度も子どもがいた。 たとえ優花の静養が終わったとして。修也は、本当に彼女を家から出せるのだろうか。 今回は……もう、元には戻れない。そんな予感が、胸の奥に重く沈んだ。 そのとき、不意にスマホの着信音が鳴り、思考を断ち切られた。 通話を取ると、受話口から修也の母・藤宮美智子(ふじみや みちこ)の嘲るような声が流れ込んでくる。 「優花ね……また修也の子、できたの。もう、あなたが優花を追い出すなんて話、通らないわ。ねえ、現実を考えなさい。いくら出せば、修也から身を引いてくれる?5億?10億?……それとも、まだ足りない?」 紗良は無意識にスマホを握りしめた。 美智子は、優花がついさっき流産したことを、知らないのだろうか? これ以上、関わりたくなかった。紗良は、声を抑えて言った。 「美智子さん……年明けに、修也が署名した離婚届。あれを渡してくれるなら、私も離婚に同意します」 頭を丸めた、あの夜。修也は、先に離婚届へと署名していた。 もし紗良が離婚を望めば、彼の財産の半分は紗良のものになる。 けれど紗良が彼を許したことで、修也はその離婚届を金庫にしまい込み、「次はない」という戒めにした。 美智子は数秒沈黙し、唇をつり上げた。 「紗良……言ったことは、守りなさい」 ツーツーという無機質な音が続き、通話は切れた。紗良は、暗くなった画面を、しばらくぼんやりと見つめていた。 玄関の方で、慌ただしい足音が響く。 ゆっくりと顔を上げると、かかりつけ医が軽く会釈し、そのまま足早に二階へ向かっていった。 紗良も立ち上がり、少し遅れて階段を上る。 扉の隙間から、修也が小声で優花をあやしているのが見えた。 「聞こえたか。今回の流産は、ただの事故だ。俺たち……また子どもを授かれる。だから、泣くな」 「でも……もし、また流産したら……?」 「大丈夫だ。どうしてもなら、体外受精にすればいい。腕のいい医者を呼ぶから……」 二人は、まるで夫婦のように、これからの子どもの話をしていた。 そこに立つ紗良のほうが、まるでよそ者のようだった。 胸の奥が細かく軋み、紗良はくるりと身を翻すと、屋敷の一番奥にあるゲストルームへと逃げ込んだ。 ほどなくして、ノックの音がした。 ドアを開けると、そこに優花が立っていた。怯えたふりをした表情を、わざとらしく貼りつけて。 「紗良さん……修也さんが、私の様子を見やすいからって、主寝室で休めって……怒らないでください。修也さんの気持ち、紗良さんのところにあると思います」 紗良は返事もせず、窓の外を一瞥した。エンジン音を残し、マイバッハがゆっくりと遠ざかっていく。 ――もう、芝居に付き合う気はなかった。 「……わざと修也を外に出したんでしょ。それで?私に何の用?」 優花は驚いたように、二歩ほど後ずさる。 「そ、そんな……何のことか分かりません。ただ……修也さんを怒らせないでほしくて……」 「白々しい」 紗良は視線を逸らさず、この一年で積み重なった華やかさを、淡々と並べていく。 「芸能界に入ってすぐ、ゴシップ垢が『藤宮紗良の再来』だって騒ぎ立てた。 あの夜は、わざとピルを飲まなかった。妊娠して……今度はまた、修也の子まで。 優花。どんな手を使ってでも、上に這い上がりたいんだね」 その瞬間、優花の怯えた表情が、ぴたりと固まった。 睨み返してくる視線。長い沈黙のあと、抑え込んでいた嫉妬と悔しさが、顔に滲み出る。 「……紗良さん。私、修也の奥さんになりたいの。どうしたら……修也から離れてくれる?」 美智子と、同じ言い方。 紗良は優花を見つめたまま、表情ひとつ動かさなかった。 「私に出ていけって言うの?簡単だよ」 そして、はっきりと言い切る。 「修也のSNSに入って。三十日後に投稿されるよう設定して。内容は――『俺たちは円満に離婚した』」 第2話 優花は、紗良があまりにもあっさり頷いたことに面食らった。 ふと何かを思い出し、抑えきれずに声が弾む。 「約束する。紗良さんも、言ったとおりにしてね」 紗良は彼女の横をすり抜け、踵を返して階段を下りた。 それから三十分後、紗良は別棟へ向かった。 修也と付き合って七年、そのうち最初の三年はそこに暮らしていた。 いま、紗良は持ち物を整理するつもりだった。 最初に捨てたのは、黒いスーツだった。 七年前、紗良は仏堂で修也と初めて顔を合わせた。 その日は薄着で、拝礼を終えて立ち上がった瞬間、思わず身震いした。すると修也は何も言わず、黒いコートを脱いで差し出した。 その夜、連絡先を聞いてきたのは修也のほうだった。 次に捨てたのは、一族の印のような指輪。 ある人気俳優に、悪意ある「匂わせ」で絡まれた翌日――修也は紗良の手を引き、報道陣の前に姿を現した。そして、あの指輪を、皆の見ている前で彼女の指にはめた。 「くだらない噂はやめろ。紗良は、俺の女だ」 あのときの修也の目には、隠しきれない独占欲が宿っていた。 三つ目に捨てたのは、二人で写った写真だった。 誕生日の日、周りの反対も押し切って修也がプロポーズし、街の高層ビルの大型ビジョンには『紗良、俺と結婚してくれ』が流れ続けた。 紗良が頷いた瞬間、修也は目を赤くし、言葉を詰まらせた。 「この先の人生で、俺が願ったことは一つだけだ。お前を家に迎える。それだけでいい」 …… もし修也が裏切らなければ、年末には妊活を始めて、二人はすぐに可愛い子を授かったはずだった。 紗良は目を伏せ、少しずつ自分のものを捨てていった。 翌朝早く、美智子からメッセージが届いた。 【来なさい。離婚届を手に入れた】 紗良が邸宅に戻ると、家の中で僧侶がお祓いの支度をしているのが、遠目にも分かった。 紗良が思わず眉をひそめると、そばに控えていた使用人が、声を潜めて説明する。 「旦那さまが……流産のあとでも、次は無事に授かれるようにと、お祓いをしてくださるお坊さまがいると聞いて、昨夜のうちにお呼びしたそうです。……優花さまのために」 紗良は視線を落とし、胸の奥に込み上げる酸っぱさを、静かに飲み込んで中へ入った。 優花は修也にもたれかかり、涙をそっと拭いながら、遠慮がちに口を開く。 「修也さん……ここで静養させてもらえるだけで、十分です。こんな大げさなことまで、しなくても……」 修也はその言い方にすっかり弱く、痛ましげな表情で、優花の頬に触れて涙を拭ってやった。 「泣くな。お祓いが終われば、次はきっと大丈夫だ」 そう言った修也の視線が、ふいに背後へと向けられる。 そこに立っていた紗良と、目が合った。 修也が言い訳を口にしかけたとき、優花が先に出て、テーブルの書類袋を手に取った。 「紗良さん。美智子さんが、さっき来てね。これ、渡してほしいって」 紗良はそれを受け取り、書類袋の中から一枚を引き抜いた。 金庫にずっと閉じ込められていた―― あの、離婚届だった。 右下の欄。 修也の署名が、力強く走っている。 「ねえ、修也さんが金庫の暗証番号を教えた理由、分かる?」 優花の声は弾んでいた。言葉の端々に、隠しきれない得意が滲む。 「今朝、美智子さんが来てね。子授けのお守りをもらってきたって。先生の言うとおり、それを金庫に入れるからって」 そして、さらりと付け足す。 「紗良さんが言ってた、予約投稿も……ちゃんと設定したよ」 紗良は書類袋を強く握りしめ、どうにか笑顔の形だけを保った。 その瞬間、修也が急に距離を詰めてくる。 「紗良。母さんから、何を渡された?いつの間に、そんなに仲良くなった」 紗良は書類袋を背中に隠し、唇の端だけを薄く引いた。 「私だって、知らなかったけど?あなたが……優花さんと、いつからそんなに仲良しだったのか」 修也は眉をひそめ、紗良の手首をがしっと掴む。身を屈め、宥めるような声で言った。 「怒らせたくなくて、黙ってただけだ。紗良……お前が何をしてもいい。だが、離婚だけは考えるな」 ――離婚を、考えるな? でも修也。 私たちは、もうすぐ離婚する。 紗良が目を伏せた、そのとき。優花がそっと近づき、瞳に涙を浮かべた。 「修也さん……私、やっぱり出ていく。美智子さんが、白見原にいてほしいって頼まなかったら……とっくに、身を引いてた……」 そう言って立ち上がり、玄関へ向かう。泣きすぎて息が詰まるほどで、まるで紗良の言葉に胸を抉られたかのようだった。 修也は顔を曇らせ、慌てて優花の手を引き、やさしく宥める。 「どこへ行くんだ。出ていけなんて、誰も思ってない。……泣くな」 紗良はそれ以上見ていられず、背を向けた。だが、修也がすぐに追いかけてくる。 「紗良、どこへ行く」 「……外で、食事する」 「その袋の中身は、何だ」 紗良は振り返らず、静かに言った。 「知りたい?……なら、付いてきて」 第3話 「修也さん、でも……お腹がまた痛くなってきた」 優花が修也の裾をつかみ、唇を噛んだ。 「先生が、ここ数日はあなたがそばにいてって言った」 優花がつらそうに口を結ぶのを見るなり、修也はあっさり折れ、慌てて向き直って宥めにかかった。 修也は使用人に言いつけ、自分がいない間は優花をきちんと看て、風に当てるな、三十分おきに湯たんぽを替えて下腹に当てろと念を押した。 紗良は横で立ったまま、冷えた目で二人のやり取りを眺めていた。 ようやく優花が涙を止め、修也は外へ出ることを許された。 洋食の店。 紗良はスープを小さく口に運びながら言った。 「修也、優花が流産してなかったら、あなたにとってはいい奥さんになってたかもね」 修也はしばらく黙り、今夜の紗良がどこかおかしいとやっと気づいた。 「言っただろ。俺の妻はお前だけだ。優花が休み終えたら、ちゃんと出ていかせる」 紗良は返さず、俯いたまままたスープを少しずつ飲んだ。 空気がさらに冷えていくのを感じ、修也はさっきの話題を切り上げた。 「紗良、母さんは何の書類を渡したんだ?」 紗良が目を上げた瞬間、修也のスマホが鳴った。 受話口の向こうから、女の泣き声がこぼれてくる。 「修也さん……また、胸が張ってきて……どうしたらいいの……」 修也は椅子を蹴るように立ち上がった。 「泣くな。今すぐ戻る」 電話を切ると、修也は紗良を見た。 「ゆっくり食べろ。あとで使用人に送らせる」 「待って」 首筋がむず痒くなり、赤い斑が、波打つように一気に全身へ広がっていくのが分かった。 「修也……私、アレルギーが出たみたい。エビがだめなの、知ってるでしょ。……どうして、エビ入りのスープなんか頼んだの」 最後まで言い切る前に、修也はすでに背を向けていた。 紗良はその背中を見つめ、やがて、ゆっくりと俯く。 こぼれ落ちた涙が、大きな粒のまま、静かに床を濡らした。 修也。 もうすぐ知るだろう。私があなたと離婚したいってこと。 最後の一回のチャンスまで、あなたは捨てた…… 喉が締まるように苦しくて、紗良はまともに息ができない。 腕の力が抜け、身体が右へ傾き、指先がだらりと落ちた。 一時間後、紗良は胃洗浄を終えた。 看護師に車椅子を押され、ちょうど優花の病室の前を通りかかる。 扉の隙間から、紗良は修也が優花を抱き寄せ、気だるい声で話すのを見た。 「医者も言ってただろ。静養中は、母乳が漏れることもある。珍しいことじゃない」 優花は泣き腫らした目で縋りつく。 「修也さん、私、つらいの……もう二度とあなたの子を授かれない気がして」 修也は腕に力を込めた。 「約束しただろ。休み終えたら白見原の評判のいい医者に診せる。一人目どころか、二人目も三人目も……きっと授かる」 狭い隙間越しに、紗良は二人が夫婦みたいに妊娠の話をしているのを見てしまった。 喉の奥で短く呻き、次の瞬間、鮮血を吐き出した。 真っ赤な血が病衣を染め、看護師は顔色を変えて医師を呼びに走った。 入口の騒ぎに気づいた修也が立ち上がりかけたが、優花が袖をつかんで止めた。 さらに三十分後、紗良は病室のベッドに横たわっていた。 ゆっくり目を閉じると、二年前のことが浮かんだ。引退して妊活を始めようとしていた頃。 そのとき修也は紗良を抱き寄せて言った。 「紗良、お前は舞台に立つために生まれてきた。子どもは、まだ先でいい。 紗良との子どもなら、いつ授かっても、大切にする」 どうしても分からない。 あの頃の修也の愛は、熱くて、まっすぐで、本物に見えたのに、どうしてこんなに早く変わる。 紗良は布団をゆっくり頭まで引き上げた。 悔しさが溢れて、涙はもう止められなかった。 翌朝、紗良が目を開けると、天井の蛍光灯が眩しすぎて目が痛んだ。 ベッド脇に修也が座り、黒い瞳に不安をいっぱい詰めていた。 「起きたか。アレルギー出たなら最初に俺に電話しろよ。昨夜ずっと心配した」 紗良は身体を起こし、見上げるように修也を見た。 電話しろって? そんなの、もう無理。 これから先、何があっても、紗良はもう修也に連絡しない。 「怒ってる?ここ数日、俺がちゃんとそばにいなかったせいか」修也は眉をひそめた。 「さっきマネージャーから電話があった。今日の午後、クランクアップの撮影があるんだろ。俺が現場まで一緒に行く、いいか」 紗良が冷たく断っても、修也は引かなかった。 紗良は結局、洗面まで支えられ、朝食を口に運ばれ、いつものように靴下も靴も履かされた。 二人が外へ出ようとしたところで、病室の扉が開いた。 優花がそっと顔をのぞかせ、怯えたような表情を浮かべる…… 第4話 「修也さん、紗良さんの時代劇の撮影に付き添うって聞いた。ワイヤーで吊るアクションもあるんでしょ。私も現場に連れていってもらえない?ワイヤーってやったことなくて、ちょっとだけ体験してみたい」 優花は縋るように修也を見上げ、濡れた瞳に憧れをいっぱい浮かべた。 修也は低い声で言い切った。 「だめだ。今日は暑すぎる。回復に響く」 優花は入ってくるなり、修也の腕を揺らして甘えた。 「ほんの気分転換だよ。五分だけでいい……」 そう言いながら、指先がわざとらしく修也の掌をくすぐった。 紗良は目を伏せ、胸の中で数えた。 「3、2、1……」 1を数えたところで、修也が小さく息をつき、折れた。 「分かった。ただし自分で自分を守れ」 紗良は立ち上がって外へ向かい、口元に皮肉な笑みを引いた。 現場に足を踏み入れた瞬間、空気は異様なほど蒸していた。今日は冬設定の時代劇だというのに。 修也は携帯扇風機で優花に風を送り、時折、ハンカチでその額の汗まで拭ってやる。 ――まるで、壊れ物のように。 優花が衣装に着替え終えると、修也は安全担当に向かって、三度も念を押した。 「メインのロック、ちゃんと確認しろ」 そのすぐ横で待たされ、汗を流している紗良には、修也は一度も視線を向けなかった。 「水野のやつ、急にどうしたんだよ。こんな暑い日に、全員付き合わせる気か?」 「藤宮社長、七年も紗良さん一筋だったはずだろ。あの動き見てると……気持ち、変わったみたいだな」 スタッフの囁きは、刃物のように、もう麻痺したと思っていた紗良の胸を、容赦なくえぐった。 紗良は頭の中で、これからの殺陣をなぞり、意識を無理やり別の場所へ追いやる。 演技に対する自信、その大半は修也がくれたものだった。 どん底だった二年間。修也は毎日現場に付き添い、夜は家に戻ってからも、一緒に反省会をしてくれた。 なのに今、その男は別の女に、殺陣を一つひとつ丁寧に教え、ワイヤーの恐怖をどう乗り越えるかまで、言い聞かせている。ただ、傷つかせないためだけに。 ほどなく、紗良も優花も準備が整った。 秘書が慌てて駆け込み、声を潜めた。 「社長、契約でトラブルが出た」 優花は甘く笑って、気遣うように言った。 「先に行って」 修也は監督に「優花を頼む」と言い置き、秘書と外へ出た。 監督の合図で二人はゆっくり宙へ上がり、地面から二十メートルの高さになった。 優花は紗良を見て、口元に冷たい笑いを刻んだ。 「紗良さん、今ここで事故が起きたら、どうなると思う」 紗良は意味を掴めないまま息をのんだ。 優花は紗良のメインのロックを外し、力いっぱい突き飛ばした。 紗良はロープを掴む暇もなく、身体が傾いて何度か回り、そのまま真下へ落ちた! 「修也、助けて!」 修也が飛び込んできて見上げた、その瞬間―― 優花も宙でバランスを崩し、甲高い声で叫んだ。 「修也さん……!こわい!!」 修也の視線は優花へ吸い寄せられた。 紗良へ駆け出したスタッフに命じ、優花のほうへ向かわせた。 紗良は半ば落ち切り、掠れ声で修也の名を呼ぶ。それでも修也の目に映るのは優花だけだった。 数秒後、紗良は地面に叩きつけられ、背中の激痛で身を丸め、勢いよく血を吐いた。 修也は最初から最後まで、紗良を一度も見なかった。 スタッフが優花を救い上げると、修也はすすり泣く彼女を抱え、すぐ外へ駆け出した。 周りの人間も一斉にそちらへ集まり、誰もが優花の無事ばかり確かめた。 紗良は痛みを噛み殺して起き上がり、初めてワイヤーに吊られた日のことを思い出した。修也はそばで「紗良、安心して飛べ。何かあっても俺が受け止める」と言っていた。 いまも修也はそこにいる。それなのに紗良は無様に落ち、骨まで冷える痛みが全身を満たした。 紗良は堪えきれず、声を上げて泣いた。 …… 「紗良、やっと目を覚ました」 どれほど経ったか分からない。痛みで意識が浮き上がり、視界に入ったのは歓喜に目を見開く修也だった。 「このまま起きなかったら、医者を呼ぶところだった」 紗良は修也を見ても、瞳には何の色もなかった。 宙から落ちたとき、修也は振り向きもしなかった。ただ、危険に晒されていなかった優花のことだけを気にしていた。その光景が、記憶の中で何度も繰り返される。 「紗良、まずいことになった」 修也は紗良の肩を掴み、焦りをそのまま声に滲ませた。 「優花が、さっき手首を切った。誰かがワイヤーの映像をSNSに上げたんだ。今、世間は優花を炎上させてる。悪辣だの、計算高いだの……好き勝手に叩いてる」 紗良の喉は、からからに乾いていた。声を出そうとしても、かすれる。 「それで」 「紗良、頼む。説明してくれ」修也の黒い瞳は、懇願でいっぱいだった。 「お前が優花を流産させたせいで、あいつが安全具を外した――そう言ってくれ」 紗良は、言葉を失ったまま修也を見た。 空気が張り詰め、やがて修也は短く息を吐く。 「ネットで叩かれて、手首まで切ったんだぞ。少しは……目をつぶってやれ。優花が休み終えたら、ちゃんと送り出すから」 紗良は、ただ修也を見つめていた。 その不安げな眼差しは、何度も見てきた。けれど今、その向け先は――紗良ではなかった。 「藤宮さん、大変です。水野さんがまた手首を……」 看護師が勢いよく病室の扉を開けた。 修也はほとんど反射で立ち上がり、足早に外へ出た。 紗良はゆっくりと目を閉じる。塩辛い涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。 ほどなくして、スマホが震えた。 受話口から、親友の沢村真琴(さわむら まこと)の荒い声が飛び込んでくる。 「紗良、正気?SNSにあんな、自分の首を絞めるようなこと書くなんて――」 第5話 紗良はすぐにアプリを開き、上がったばかりのトレンドを確認した。 【ワイヤー事故、形勢逆転!トップ女優・藤宮紗良が新人女優を流産させた】 震える指で、紗良はマネージャーに電話をかけた。 三度目でようやく繋がり、相手は歯切れ悪そうに切り出した。 「紗良……修也さんから、君のSNSのIDとパスワードについて聞かれまして……」 紗良は声が掠れて言葉にならず、立ち上がって修也を問い詰めに行こうとした。 ふらつきながら優花の病室の前まで辿り着いた。 修也はベッド脇に立ち、医師が優花の手首に包帯を巻くのを見つめていた。黒い瞳ににじむ心配は、隠しようがなかった。 「もう衝動で自分を傷つけるな」修也はやさしく宥めた。 「お前の言うとおりにした。トレンドは抑えたし、紗良が痴漢された動画も出した」 スマホがまた震え、一本の動画が一気にトレンド上位へ駆け上がった。 四年前、現場の休憩中に酔っ払った男に襲われ、下着姿まで晒された映像だった。 あのとき紗良は恐怖で高熱を出し、修也は三日三晩つきっきりで看病し、監視カメラも全部押さえた。 「俺がいる限り、この動画は一生外に出ない」 それが今、誰でも見られる場所に放り投げられている。 修也は自分の手で紗良の傷口をこじ開け、別の女を宥める道具にした…… 病室のドアを押す手が力なく落ち、紗良はよろめきながら踵を返した。 涙が溢れてくるのに、喉は詰まり、声が一つも出ない。 人は壊れきったとき、泣くことさえ音にならないのだと知った。 翌朝、紗良は退院の手続きを済ませた。 修也は二日間、家に戻らなかった。 朝、紗良が階段を下りると、執事の武井源治(たけい げんじ)がタブレットを差し出した。 「奥さま、結婚記念日が近づいております。お祝いの案をいくつか用意いたしました」 紗良は受け取らず、冷えた目で言った。 「いらない。全部取り消して」 「取り消し、ですか」 源治は意外そうに瞬きをした。 「奥さまは毎年、記念日を大事になさっていましたが」 紗良は淡々と返した。 「もうすぐ夫婦じゃなくなる。祝う意味がない」 「紗良、何を言ってる」 玄関先から修也の裏返った声が飛び、顔色は真っ青だった。 リビングの空気が一瞬で氷みたいに冷えた。 源治は一礼して下がり、残ったのは二人だけだった。 「紗良、まだ怒ってるのか」 修也は息をつき、紗良を抱き寄せて小声で宥めた。 「優花は流産したばかりで不安定なんだ。俺にもどうしようもない」 紗良は何も言わず、ゆっくり修也を押し返した。 紗良の瞳に宿る拒絶と冷たさを捉えた瞬間、修也の黒い瞳に一瞬の戸惑いがよぎった。 「分かった。俺が悪かった」 紗良は視線を落としたまま、黙っていた。 修也は諦めず、紗良の手を握った。 「紗良、その……明日、時間あるか」 紗良は目を上げ、今日ここへ来たのは別件だと悟った。 「私に会いに来たの、他に用があるから?」 修也は少し迷ってから口を開いた。 「優花が……お前に食事を奢ってほしいって言ってる。お前が流産させたことにして、直接謝ってほしいそうだ」 理解できない。 苦しくて、悔しくて、胸の奥に重たいものが絡みつき、息が詰まりそうになる。 それでも紗良は、修也をじっと見つめたまま、感情を表に出さずに言った。 「……いいわ。明日の夜、私が奢る」 修也は目に見えて安堵し、息を吐いた。そして紗良の手を、宥めるように握り直す。 「紗良……お前は本当に、優しいな」 紗良は何も言わず、音を立てずにその手を引き抜いた。 そう、私は優しい。 優花のせいで右手は骨折し、名声は引き裂かれ、それでもなお、食事を奢って頭を下げろと言われるほどに。 「あなたが言ったとおり。優花は流産したばかりで、心も体も弱ってる。ちゃんと休ませてあげて」 修也は眉を寄せ、紗良が急に別人みたいに感じた。 「紗良、お前、ずっと優花が嫌いだっただろ」 紗良は顔も上げず、口元だけをほんの少し緩めた。 「嫌いだった。でも……今は、もうどうでもいい」 修也と優花がこのままずっと一緒にいて、二度と自分の人生に踏み込まないでくれれば、それでいい。 修也は紗良の顔をじっと見つめ、ふいに、苛立ちを飲み込むような息を吐いた。 三十分ほど経ったころ、アラームが鳴り、修也は時間を一瞥し、慌ただしく立ち上がる。 「時間だ。優花のリハビリに付き添う。先に、あいつのところへ行く」 紗良はその背中を見送り、小さく、笑った。 今回は、紗良の目に涙はなかった。 二人が不在の隙に、紗良はこの家に残していた自分の痕跡をすべて消し、必要な書類だけを手に取った。 夕方、約束どおり海辺のレストランへ向かい、胸の奥を押し殺したまま、優花との食事を終えた。 バッグを取り、席を立とうとしたとき、優花がライターを差し出す。 「紗良さん、一緒に花火しよ」 紗良は少し離れた場所で電話している修也を一瞥し、優花を無視して背を向けた。 その後の二日間、紗良は修也と顔を合わせなかった。 三日目、修也が突然帰宅し、使用人に命じて優花の荷物を運び出させた。 紗良はその光景を見て、首を傾げた。 「荷物?優花はここで静養するって言ってなかった?」 修也は紗良を見据え、瞳の色がひそかに冷えた。 「気が変わった」 「急にどうして?」 紗良は意外で、思わず聞き返した。 修也はしばらく紗良を見つめ、答えずに手を掴んだ。 「この前のバレンタイン、ちゃんと一緒に過ごせなかっただろ。秘書に頼んで、食事を用意させた。今から連れていく」 紗良が答える間もなく、修也は険しい顔のまま腕を掴み、強引に車へ押し込んだ。 ドアが鈍い音を立てて閉まり、修也は無言でシートベルトを引き、紗良の体に固定する。 車が走り出してからも、修也は唇を固く結び、陰った目を前に向けたままだった。 紗良はその横顔を盗み見て、胸の奥に、説明のつかない不安が広がっていくのを感じた。 黒いマイバッハは、やがて一軒のヴィラの前で止まった。 一階のダイニングには、キャンドルの灯りに照らされた食卓が用意されていた。 それでも修也は立ち止まらず、紗良の手を引いて二階へ向かう。やがて、主寝室の前で足を止めた。 修也はふいに、黒いアイマスクを取り出す。 「中に、サプライズを用意してある。先にこれを付けろ」 紗良は抵抗する間もなく、アイマスクを着けさせられた。 部屋へ一歩踏み入れた、その瞬間―― 背後で、ドアが鈍い音を立てて閉まる。 続いて、外から鍵を回す音が響いた。 第6話 紗良は不安を押し殺し、アイマスクを外した。 目の前は真っ暗で、灯りのスイッチも見つからない。手探りでドアを叩くしかなかった。 「修也、開けて。中、真っ暗だ」 返事はない。長い沈黙のあとでようやく、ドアの向こうから冷えた声が落ちてきた。 「鍵をかけた。今夜はそこで反省しろ」 「何の反省?」紗良の声が震えた。 紗良は閉所が苦手だった。闇が迫るだけで心臓が跳ね、息が詰まりそうになる。 ドアの外で、修也の声には抑えた怒りが滲んだ。 「優花と飯を食えと言っただけだ。俺が電話に出ている隙に、海に突き落として、感染まで起こさせた。 紗良……いつから、そんな人間になった」 紗良は呆然として、頭の中が真っ白になった。 「私じゃない」 「まだ言い逃れするのか」修也の声が苛立ちを増した。 「その場にいたのは、お前と優花だけだ。花火しようって誘ったのに、お前がひどいことを言って、突き落としたって言ってる。 二度も流産して、死にたいくらい辛いって泣いてる人間が、自分の体を使ってまでお前を陥れると思うのか」 額に冷たい汗がにじみ、紗良の声は掠れて震えた。 「修也、七年も一緒にいて、私があなたに嘘をついたことがある?」 「どうやって信じろって言う」 修也の声は氷みたいに冷たかった。 「今夜はそこで反省しろ」 足音が遠ざかっていく。闇が紗良を飲み込み、手足が冷え、呼吸が浅く速くなった。 ぼんやりと、プロポーズされた夜が浮かぶ。 あのとき修也は泣きながら言った。「紗良、頼む。一生、俺を愛してくれ」 いま、その手で紗良を暗闇の中に閉じ込める。 闇がさらに重くなり、紗良が崩れそうになったとき、白い壁の一角で火花が散った。 耳を裂くような電流音が走った。 エアコンがショートして燃えた?! 背後から熱い風が押し寄せ、スカートの裾が焦げる寸前だった。 紗良は恐怖を押し殺し、必死にドアを叩き続けるしかなかった。 「修也!火事なの。早く、早く出して!!」 叩きすぎて、手のひらがじんじんと熱を帯びる。 やがて、外から足音が近づいてきた。助かった——そう思った瞬間、返ってきたのは、甘い女の声だった。 「修也さんなら?私が焼き肉食べたいって言ったら、秘書に手配させてるところだよ」 熱気の向こうで、修也のやさしい声が重なる。 「行こう」 優花の甘える声が弾んだ。 「修也さん、別荘選んでくれてありがとう。おかげで安心して暮らせるわ」 炎の轟く中、頭上からの激しい衝撃が紗良を襲い、火は容赦なく彼女の身体を包み込んだ。 意識が途切れる直前、結婚のときに修也が口にした言葉が、ふいに蘇る。 「紗良、誓う。俺は一生お前だけを愛する。もし違えたら……」 その先は、もう思い出せなかった。 …… どれくらい経ったのか分からない。紗良はようやく目を開けた。 ベッド脇には修也が座り、目を赤くしていた。 「……起きたか。中が燃えてるなんて知らなかった。わざと閉じ込めたわけじゃない……」 修也は紗良の手を強く握る。その指先の力に、紗良の瞳がわずかに動いた。 ——冷たい。 その色に気づいた瞬間、修也の表情が揺らいだ。 「紗良……言いたいことは分かってる。欲しいものは何でもやる。だから……それだけは、口にするな」 そのとき、ドアが開き、優花が入ってきた。 彼女はその場に膝をつき、涙を溜めた目で縋る。 「紗良さん……全部、私のせいです。お願い、修也さんを責めないでください。火事だって知ったとき、修也さん……命がけで車を飛ばして戻ってきて……」 「もういい」 修也は眉を寄せ、痛ましそうに優花を立たせた。 「お前のせいじゃない。床は冷える。流産したばかりだろ、そんなことするな……」 紗良は固まったまま、ふっと笑った。 彼女の夫は、全身に残る火傷には目も向けず、別の女が冷えることだけを気にしている。 その光を失った視線に気づき、修也が何か言いかけた——その瞬間。 紗良は枕元のガラスのコップを床へ叩きつけた。 「出ていけ。全員、出ていけ」紗良は目を真っ赤にして叫んだ。 修也は説明しようとしたが、優花に腕を引かれて病室の外へ出された。 扉が閉まった途端、紗良は堪えきれず、声を潰して泣き崩れた。 それから二日間、修也は病室に付き添った。 薬を替え、紗良に昔話みたいな話をし、傷が痛んで堪えられないときには何度も謝った。 以前の紗良なら、きっと心が揺れて許してしまった。けれど今の紗良は、修也が触れようとするたび、静かに手を避け続けた。 退院の日、修也は紗良を家まで送った。 中に入ると紗良の目に入ったのは、ソファに座る美智子が、やさしい声で優花を宥めている光景だった。 優花は紗良を見るなり顔色を変え、小さな顔に怯えた表情を貼りつけた…… 第7話 修也はその場で固まり、どうしていいか分からないまま、冷え切った紗良の顔を見た。 「母さんは……優花が流産したって知って、慰めに来たんだと思う」 紗良は二人の話に関わりたくなくて、そのまま二階へ上がろうとした。 美智子は視界の端に紗良を捉えると立ち上がり、目の前に回り込んだ。 細い指が持ち上がり、紗良の目を突きそうな勢いで突きつけられる。 「ニュース、見たわ。あんた……本当にひどい女ね。私の孫を、二人も殺したのよ」 紗良は足を止め、眉をひそめた。 「私じゃない。あいつが……」 言い終える前に、修也が脇へ回り込み、紗良の腕を掴んで半ば強引に引き寄せた。 「紗良、約束しただろ。外向きには――お前のせいってことにする。落ち着いたら、俺が何とかする」 背後で、美智子の罵声が止まらない。 「修也が、どれだけ子どもを欲しがってたか分かる?生みたくないなら、それでいい。でもね、優花を何度も流産させて……あんた、人として終わってるわ」 紗良は、焦りを隠しきれない修也の顔を、ぼんやりと見つめた。 いったいいつから、こんなふうになってしまったのだろう。 紗良はそれ以上、何も言わず、踵を返して静かに階段を上がった。 修也は、一人で上がっていくその背中を見送りながら、胸の奥のどこかが、ちくりと疼くのを感じた。 何かを察したのか、それから数日間、修也は毎日家で仕事をした。 紗良から、目を離さなかった。 紗良が家にいれば、修也も家にいた。 紗良が外へ出れば、修也も後を追った。 視界から消える時間を、一秒たりとも作らないつもりのようだった。 すべてに区切りをつけ、紗良はその日の午後便で、フランス行きの航空券を取った。 どうやって家を出る口実を作るか、紗良はそればかり考えた。 そのとき、書斎で修也のスマホが突然震えた。 通話を終えると、修也は鍵を手に取り、落ち着かない様子で玄関へ向かった。 「優花がまた母乳のことで騒いでる。様子を見てくる。紗良、すぐ戻るから、家で待っていろ」 修也が出た瞬間、紗良は時間を確認した。 出発まであと五時間。 まず役所で離婚の手続きを済ませ、そのあと真琴と食事の約束を入れた。 「紗良、私を呼んだのって……結婚記念日に付き合ってほしいってこと?」 紗良は視線を落とし、落ち着いた声で答えた。 「真琴。さっき、離婚の手続きを終えた。午後の便で、フランスに飛ぶ」 「……え?」真琴は言葉を失い、紗良の疲れ切った目を見て、ようやく状況を悟ったように息を吐く。 「そっか……実はね、七年前にあいつが撮った動画、見せようと思ってたんだ」 「動画?」 紗良は眉をひそめ、差し出されたスマホで再生を押した。 画面の中の七年前の修也は、輪郭も表情もはっきりしていて、眩しいほど明るかった。 「紗良。この動画を撮るのは、七年チャレンジをしたいからだ。 七年目が、恋人たちの最初の壁だって言う人もいる。でも俺は、信じない」 修也は、紗良の体調を治すこと、近づいてくる女をすべて遠ざけること、紗良の夢を一緒に叶えること―― 七つの約束を、ひとつずつ並べていった。 言い終えると、修也は目を赤くし、一枚のキャッシュカードを取り出す。 「ここに金を入れておく。この先七年の間に、俺が嘘をついたり、裏切ったりしたら……この金を持って、俺から離れてくれ。 今の俺が、お前に渡せる最後の保険だ。 前に進め。振り返るな」 紗良は目の奥が熱くなり、七年前の修也を見つめて、小さく答えた。 「……うん。前に進む。振り返らない」 三十分後、紗良は空港に着いた。 搭乗前、優花に四件のメッセージを送った。 最後の一文は、こうだ。 【これが、私と修也が離婚した証拠。予約投稿に添付して】 ほどなくして、紗良は機内の席に身を沈め、窓の外へ静かに視線を向けた。 初めて身体を重ねた夜、修也が口にした言葉が、ふいに蘇る。 「紗良。お前のためなら、何だって捨てる。だから一生、そばにいてくれ」 あのとき、紗良は頷いた。 ――けれど、先に変わったのは修也だった。 ならば、その約束を守る理由は、もうどこにもないんだ。