愛を知った時には、君はもういない

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愛を知った時には、君はもういない

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「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいな...

Chương (1)

第1章

「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。 結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。 無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。 初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)は車の窓すら開けず、「立て込んでいる」と一言残して去った。 後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。 九度目の今回、哉治のほうから離婚届を差し出してきた。 「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ」 哉治のその声は、かつてと変わらず優しかった。 「詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結婚させられそうなんだ。彼女をそんな泥沼に突き落とすわけにはいかないんだ」 六年もの歳月を捧げて愛したこの男を、心美は静かに見つめていた。そして、不意に自嘲的な笑みを漏らした。 結局、哉治の妻である自分の存在は、唐沢詩織(からさわ しおり)という女の涙一粒にすら、及ばなかった。 第1話 「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。 結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。 無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。 初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)の車は彼女の傍らを無情に通り過ぎていった。 固く閉ざされた窓の向こうから、電話越しに投げ捨てられたのは、氷のように冷淡な「立て込んでいる」という一言だけだった。 後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。 心美が離婚を切り出すと、哉治はリビングを埋め尽くさんばかりのバラを贈り、彼女の胸に宿ったばかりの決意を、言葉にする前に無理やり封じ込めてしまった。 二度目のこと。彼は気温四十度の炎天下、車が飛び交う高架道路に彼女を置き去りにした。 心美は虚脱状態で歩き続け、意識を失った。 ようやく目覚めた時――その腹の中に宿っていた赤ちゃんの命は、すでに音もなく消えていた。 彼は後悔に満ちた顔で彼女の手を握り、言い訳を並べた。 「詩織は……妹のような存在なんだ。身寄りもなく、一人で苦労しているから放っておけなくて」 心美は血走った目で問い返した。 「ただの妹なの?それとも、愛人なの?」 悲しみと憤りのまま、彼女は再び離婚届を哉治の前に叩きつけた。 すると彼はオークションで競り落とした宝物を差し出し、優しく囁いた。 「夫婦なんて、一人がわがままを言って騒ぎ、もう一人がそれを笑って受け流す。その繰り返しじゃないか。 離婚が成立しない限り、君の気が済むまで僕がいくらでも付き合ってあげるよ」 心美はまるで絶望に駆られたギャンブラーのように、自らの身を削るような自滅的な振る舞いで、彼からのほんの僅かな慈しみを繋ぎ止めようとしていたのだ。 だが今回、哉治は初めて、自ら離婚届を彼女の前に差し出した。 「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ。 詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結婚させられそうなんだ。彼女をそんな泥沼に突き落とすわけにはいかないんだ。 彼女を助けたら、すぐに君のところへ戻るよ」 心美は静かにその言葉を聞いていた。すでにズタズタになった心は、今この瞬間、完全に凍てついた。もはや最後にあがこうとする気力さえ、今の彼女には残っていなかった。 彼女は泣きもせず、騒ぎもせず、ただ静かに頷いた。 区役所の窓口で、職員は手慣れた様子で離婚届を受け取り、冗談めかして言った。 「今回は、何日後に取り下げに来る予定ですか?」 心美は顔を上げ、幾年もの月日をただ一途に愛し続けてきたその男を見つめた。 彼は穏やかな態度で職員へ謝罪していた。端正な横顔は相変わらずで、その生まれ持った余裕は、あまりに容易く見る者の心をかき乱す。 かつて、彼女もその恋の虜となった大勢の中の一人だった。 六年前、父親の帰国に同行した際、哉治に一目惚れした。 海外の名門校への進学を投げ出し、三年間なりふり構わず彼を追いかけ回した。 そして、彼の祖母が病床に伏し、いよいよ最期という時に結婚を急かした――そんな切迫した状況の中で、ようやく、片膝をつく彼からのプロポーズを勝ち取った。 結婚後、哉治は確かに心美をこの上なく甘やかした。 生理の日になれば、彼はどんな時でも仕事を放り出して駆けつけ、その掌の温もりで彼女の痛みを和らげた。 彼女が喜ぶ顔が見たい一心で、山一面を埋め尽くすほどのバラを植えた。 彼女が嫌いだと言えば、長年の喫煙習慣さえ断った。 ようやく苦難の果てに、本当の幸せを掴んだのだ。彼女はそう信じて疑わなかった。 あの日、酔った哉治に抱きしめられ、「詩織」と何度も名前を呼ばれるまでは。 その瞬間、彼女は理解した。自分は彼にとって、手に入らなかった最愛の人の代わりを埋めるための、ただの妥協の産物でしかなかったのだと。 「受理されて正式に離婚が成立するまで、しばらく時間がかかります」 職員の声が、冷え切った回想から彼女を現実に引き戻した。 彼女は静かに頷いた。 「ありがとうございます」 区役所を出ると、下腹部になま暖かい何かが溢れ出す感覚が走った。彼女は無意識に眉をひそめた。 「どうした?」 哉治が気づき、相変わらず優しい声で尋ねた。 「具合が悪いのか。トイレまで付き添おうか?」 「いいえ、結構よ」 バッグを握りしめる指先が白く強張るほどに力んでいたが、それでも心美は、差し出された哉治の手を拒むようにして避けた。 トイレの個室でどうにか身なりを整え終えたその時、ドアの外から職員たちの話し声が漏れ聞こえてきた。 「ねえ、聞いた?沢田社長がずっと想い続けていたあの人、唐沢詩織(からさわ しおり)、今日帰国したんだって」 「道理でね。あんなに愛妻家を演じておいて、あの人が戻ってきた途端に即離婚なんて」 「噂じゃ、今の奥さんは略奪愛だったらしいわよ。彼女さえ割り込まなければ、沢田社長と唐沢……」 「ずいぶんと、お暇なお仕事のようね」 心美は勢いよくドアを開け、水音の中で鏡に映る怯えた二人の職員を冷たく見据えた。 「今の言葉だけで、あなたたちを名誉毀損で訴えるには十分よ。やってみましょうか?」 二人は瞬時に顔面蒼白になり、一言も返せぬまま、逃げるようにその場を後にした。 トイレに彼女一人取り残される。 鏡の中に映っていたのは、血の気が完全に引き、雪のように真っ白になった心美の顔だった。 結局、すべてを捧げたこの感情の中で、自分が何をしようとも、周囲の目には滑稽な笑い者にしか映っていなかったのだ。 彼女はスマホを取り出し、父親の江崎凌久(えさき りく)に電話をかけた。 「お父さん、F国に行きたいの」 凌久は弾んだ声で答えた。 「ようやく来る気になったか。今回は何日くらい泊まるんだ?」 「もう、戻りたくないの」 彼女はそっと目を閉じ、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。 「お父さん、私、もうここには戻りたくない」 電話の向こうで沈黙が続き、やがてため息が聞こえた。 「……そうか。便が決まったら教えなさい。迎えに行く」 「離婚の手続きが正式に完了したら、すぐに行くわ」 「手続きが正式に完了だと?」 地を這うような低い声が、トイレの入り口から響いた。 第2話 心美が通話を終えて振り返った瞬間、視線の先にあったのは、狼狽の色を隠しきれない哉治の瞳だった。 彼は大股で歩み寄ると、彼女の手首を強引に掴み上げた。 「心美、僕たちが本当に離婚するわけないだろう! 何度も説明したはずだ。これは、急場を凌ぐための一時的な方便に過ぎないんだって。離婚が成立するまでに、必ず唐沢家の問題を片付けると約束する」 彼の声は微かに震えていた。長い腕を伸ばし、心美を抱き寄せようとする。 「今回が最後だ。このあとの埋め合わせは、今の何倍にもして君に尽くすと誓うから」 心美は静かに一歩下がり、彼の抱擁をすり抜けるように避けた。そして、冷淡な声で言った。 「聞き間違いよ。さっきのは、お父さんの友人の話よ。つい最近、離婚の手続きが完了したんだって」 哉治の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。彼は安堵のため息をついた。 「なんだ、そうだったのか。驚かせないでくれ。本当に、心臓が止まるかと思ったよ」 その夜、哉治が碧水苑の屋敷に戻ることはなかった。 心美には分かっていた。彼が今、詩織のそばにいることを。 案の定、夜。枕元でスマホの画面が淡く光った。詩織からのメッセージだった。 そこに添えられていたのは、仲睦まじい二人のツーショット写真。 写真の中の彼女は、満面の笑みを浮かべていた。その後ろで哉治が、慈しむような眼差しを彼女に注いでいる。 その熱を帯びた瞳は、心美が三年の月日の中で一度として向けられたことのないものだった。 続いて届いたのは、追い打ちをかけるような一文だった。 【心美、これまで哉治を支えてくれてありがとう。そして……彼を私に返してくれて、本当に感謝するわ】 心臓を針で不意に突き刺されたような、鋭い痛みが走る。 凍えるように冷たくなった指先の震えを抑え込み、心美は突き放すような一言を撃ち返した。 【忘れないで。まだ離婚の手続きは終わっていないわ。今の私は、まだ哉治の法的な妻よ】 詩織からの返信は、ほぼ即レスだった。 【私が戻ってきて、哉治を奪ったって怒っているのね。でも、私は本気で哉治を愛しているの。どうすれば、あなたの気が済むのかしら?】 その被害者ぶったあざとい言葉に、反吐が出るほどの嫌悪感が込み上げた。 心美の指先が画面を叩く。 【なら、死ねばいいんじゃない?あなたが死んだら、許してあげるわ】 それきり、返信は途絶えた。 彼女はスマホの電源を切り、自分を殻に閉じ込めるように毛布を被った。 今夜は、これまでのように、帰らぬ人を待ち続けて夜を明かすことはしない。 だが深夜、心美は乱暴に体を揺さぶられ、無理やり引き起こされた。 夢うつつのまま目を開けると、血走った目で自分を覗き込む哉治の、血相を変えた顔が飛び込んできた。 半睡半醒の意識の中で、余裕を失い彼の声が耳を打つ。 「心美!詩織に何をしたんだ!」 哉治は彼女の両肩を掴み、骨が砕けるかと思うほどの力で激しく揺さぶった。痛みで唇から血の気が引き、心美はようやく、彼が何を問い詰めているのかを理解し始めた。 彼女は力任せに彼を突き飛ばす。 「二人で一緒にいたんでしょう?私に何ができるっていうのよ」 哉治の瞳に、縋るような哀願の色が混じる。 「詩織は……僕たちが偽装離婚だなんて知らないんだ!本当に僕が君と別れるんだと思い込んで…… 彼女は根が真っ直ぐなんだ。今は罪悪感に押し潰されそうで、君に合わせる顔がないって、自分を責めてばかりで」 「もういい」 心美は鋭い声で彼を遮った。 「真夜中に乱暴に叩き起こされて、あなたの幼馴染がいかに清らかで心優しいかなんて、そんな惚気話を聞かされる身にもなってよ」 哉治は数秒間呆然とし、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。 「彼女に、『死ね』と言ったのは本当か?」 確かに、そう送った記憶がある。 心美は顔を上げると、真っ向から彼の視線を射抜いた。 肯定を意味する彼女の眼差しに、哉治は拳を握りしめ、喉を詰まらせた。 「いいか、詩織は遺書を残したんだぞ!僕たちの仲を裂くべきじゃなかった、君に申し訳ない……そんな言葉まで遺して!今、行方不明なんだ!」 心美は鼻で笑った。 「ふうん。なら、一刻も早く探しに行って、死ぬ気で引き止めればいいじゃない。こんなところで油を売ってないで、さっさと行ったら?」 哉治の態度は、なりふり構わぬほど卑屈になっていく。 「今、詩織の居場所に心当たりがあるのは君だけなんだ! 心美、お願いだ。教えてくれ……頼む!」 心美はこれ以上言葉を費やすのも馬鹿々々しくなり、スマホをひったくるように掴んだ。 詩織とのトーク画面を開くと、彼の顔に叩きつけるような勢いで画面を突き出した。 「自分の目で確かめなさいよ。私は彼女の居場所なんて知らないわ」 哉治は食い入るように画面を掠め、心美が嘘をついていないと確信するや否や、すぐさま部屋を飛び出そうとした。 だが、ドアの前で彼は不意に足を止め、振り返った。 その眼差しは凍てつくように冷たく、剥き出しの憎悪と脅迫の色を帯びていた。 「もし詩織に万が一のことがあったら、君を……」 「命で償わせる、とでも言いたいの?」 心美は、乾いた笑みを浮かべた。 「安心して。彼女は絶対に死なないわよ。だって――」 心美は視線を上げ、最後の一撃を静かに放った。 「まだ『沢田夫人』の座を手に入れていないんだもの」 かつてあれほど穏やかで、誰に対しても温厚だった人が、詩織のために「命で償え」とばかりに妻を脅すようになるとは。 凄まじい轟音を立ててドアが閉められ、一人残された心美を、毒が回るような鈍い痛みが四肢の先までじわじわと蝕んでいった。 第3話 「嘘でしょ?離婚して、F国に戻るっていうの?」 コーヒーカップを持つ安藤遥(あんどう はるか)の手がぴたりと止まった。彼女は目を見開き、信じられないといった様子で心美の顔を覗き込む。 心美は視線を落としたまま、手元のラテを静かにかき混ぜ、小さく頷いた。 遥は身を乗り出し、声を潜める。 「あんなに死ぬほど愛してたじゃない。それを今さら、そんな簡単に吹っ切れるわけ?」 心美は唇を噛み、喉の奥に込み上げてきた苦い感情を無理やり押し殺した。その声は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。 「……もう、愛してないの」 「どうして?」 遥が畳みかけるように問う。 心美は視線を上げ、窓の外のどんよりとした曇り空を見つめた。その声は、驚くほど穏やかだった。 「私の居場所がない世界に、無理やり入り込もうとするのはもうやめたの。疲れちゃったし……もう、いらないかなって」 遥はいたたまれなそうに心美の肩を叩き、深く溜息をついた。 「そうね。前から言っていたけど、あの頃のあなたは哉治一筋で、何を聞いても耳に入らなかったもの。 あの男のために国内に残って、家族も友達も遠くにやったまま、四六時中あの男の顔色を窺って……見てよ、今のあなた。瞳の輝きが消えかかってるわ」 心美は鼻をすすり、無理やり口角を上げて笑ってみせた。けれど、その瞳には隠しきれない涙が滲んでいた。 「大丈夫。正式に離婚の手続きが終わって、全部吹っ切れたら……きっと、昔の私に戻れるから」 言い終えた直後、何気なく視線を向けたカフェの片隅で、心美の体は凍りついたように動かなくなった。 その席に座っていたのは、哉治と詩織だった。 二人は肩が触れ合うほど身を寄せ合い、哉治は慈しむような手つきで、そっと詩織の頬をなぞっている。 彼が低く何かを囁くと、詩織は顔を赤らめて愛らしく俯き、恥ずかしそうに微笑んだ。 心美の視線を追った遥が、その親密な光景を捉える。次の瞬間、遥の心の中で怒りの火が勢いよく燃え上がった。 「やっぱりね!あなたが急に踏ん切りがついた理由が分かったわ。あのクズ男、外でこんな不潔な真似をしてたわけ?」 心美が止める間もなく、遥は二人のもとへ突き進んでいった。 「哉治!白昼堂々、家庭がある身で他の女とベタベタして、恥ずかしくないの!」 哉治の顔が一瞬で土気色に変わる。 詩織は慌てて立ち上がり、必死に弁解を始めた。 「違うの、誤解だよ! さっきまで絵を描いていて、顔に絵の具がついちゃったから……哉治は、それを拭いてくれていただけなの!」 客の少ない店内だったが、好奇の視線が次々と四人へと注がれる。 心美は、なおも食ってかかろうとする遥を制止した。そして、暗く沈んだ哉治の瞳を真っ向から見据え、嘲笑を浮かべて言い放つ。 「私の言った通りでしょ?狂言自殺なんて……結局は同情を引くための演技だったわけね」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、詩織の瞳には涙が溢れ、今にも零れ落ちそうな悲劇のヒロインを完璧に演じてみせた。 哉治はまず優しく詩織を宥め、彼女が落ち着くのを待ってから、冷酷な眼差しを心美に向けた。 「詩織は、君が世間から後ろ指を指されないようにと、あの時必死に思い留まったんだ。心美、いい加減にしろ。今の無礼な言い草、彼女に謝罪してほしい」 あまりの言い草に、心美は呆れ果てて乾いた笑いを漏らした。遥を連れて立ち去ろうとするが、詩織が急にその手首を掴んだ。 「心美、待って!せっかくこうして会えたんだもの、一緒に食事でもどうかな?それで、わだかまりを解きたいの」 哉治もそれに同調するように、ごく自然に言葉を添えた。それはまるで、慈悲でも与えるかのように逃げ道を作ってやっているという、ひどく恩着せがましい態度だった。 「大人になると『ごめん』の一言が難しいのは分かっている。せめて一緒に食事をすることで、詩織への謝罪に代えてくれ」 これ以上騒ぎを大きくしたくない。たかが食事、それくらい受けて立とうじゃない。 心美は憤る遥の手をそっと握って落ち着かせると、堂々と二人の向かいに腰を下ろした。 食事の間、哉治の関心はすべて詩織に注がれていた。絶え間なく料理を取り分け、喉は渇いていないか、寒くないかと細やかに気を配る。 何より心美の神経を逆撫でしたのは、重度の潔癖症であるはずのこの男が、自ら海老の殻をいくつも剥き、詩織の小皿に丁寧に並べていたことだった。 遥は耐えきれず、箸を叩きつけるように置いた。 「ねえ、哉治。私の記憶が確かなら、私の隣に座っているのがあんたの妻なんだけど?」 詩織の顔に一瞬だけ気まずそうな色がよぎったが、すぐに取り繕うような柔和な笑みを浮かべた。そして、自分の皿にある海老の一尾を、心美の皿へと移した。 「心美、気にしないで。私と哉治はずっと一緒に育った幼馴染だから。彼は私を世話するのに慣れてるだけで、私のことも妹だと思ってるのよ」 ……妹。 二人揃って、示し合わせたように同じことを言う。 心臓を直接握りつぶされるような激痛に、心美は呼吸さえままならなくなった。 食後、遥は仕事の急用で先に店を出た。 心美は至急確認が必要な書類を取りに一度家に戻る必要があり、哉治も碧水苑の屋敷へ帰ると言うので、二人は同じ車に乗り込むことになった。 車内は、耳を刺すような静寂に包まれていた。 突然、哉治のスマホ画面が光った。一目内容を確認すると、彼は運転手に告げた。 「路肩に止めろ」 そして、心美に向き直る。 「会社で急用ができた。君はここから自分で帰ってくれ」 心美が窓の外を見ると、そこは人里離れた郊外だった。碧水苑まではまだ十キロ以上ある。 あいにくの空模様さえも、彼女に追い打ちをかける。激しい雷鳴が轟き、重苦しい黒雲が空を飲み込もうとしていた。今にも豪雨が降り出しそうだ。 だが心美は何も言わなかった。無言でバッグを手に取り、ドアを開けて車を降りる。 走り去る車のタイヤが跳ね上げた砂埃が、彼女の視界を濁らせた。 タクシーを呼ぼうとスマホを取り出したが、間の悪いことにバッテリーが切れ、画面は真っ暗なままだった。 歩き出してわずか十数メートル。大粒の雨が、バケツをひっくり返したような勢いで叩きつけ始めた。 ずぶ濡れになり、足元もおぼつかない惨めな姿。氷のように冷え切っていく身体とともに、かつてあれほど熱く燃えていた彼女の心も、今はもう、完全に冷え切ってしまった。 第4話 心美は高熱に倒れた。 丸三日三晩、体中の節々が軋むように痛み、頭は割れるように重い。意識は混濁し、微睡みと覚醒の狭間を彷徨い続けた。 意識を保つのさえ辛いほどの苦しみの中で、ふと、あの冬の記憶が蘇った。 あの時、彼女は重いインフルエンザにかかり、高熱が引かずにいた。 それを知った哉治は、進行中だった数十億円規模のプロジェクトを放り出し、海外から夜通し飛んで帰ってきてくれた。 彼は五日もの間、寝る間も惜しんで心美のそばに付き添い、薬を飲ませ、汗を拭き、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。 ようやく熱が引いたとき、彼は見る影もなくやつれ、血走った目で「もう大丈夫だ」と笑って、彼女の頭を優しく撫でてくれた。 あの眼差しに宿っていた、狂おしいほどの不安と慈しみ――あれは、決して偽物などではなかったはずだ。 心美は熱に浮かされながら、ぼんやりと考えていた。きっと、あの頃のあなたは、心から私を愛してくれていたのね。 熱い涙が目尻から溢れ、髪の生え際へと静かに吸い込まれていった。 喉は焼けるように乾き、心美は震える手でサイドテーブルのコップに手を伸ばした。 だが、力が入らない指先が冷たいガラスに触れた瞬間、コップは床に落ち、鋭い音を立てて砕け散り、床に水が広がった。 ふらつく体で起き上がろうとしたその時、隣の部屋から詩織の甘ったるい声がはっきりと聞こえてきた。 「ねえ、哉治。心美、この数日いくら電話しても出てくれないみたいだけど……もしかして、気づいちゃったのかな。 あの日、私をイベント会場に送るために彼女を道端で降ろしたこと。やっぱり、怒ってるのかな?」 あの日、彼が言った「会社の急用」は、詩織をイベント会場へ送るためだったのだ。 心美は自嘲気味に口角を上げた。最後の気力が抜け落ち、体は制御を失って前方へと崩れ落ちる。 反射的に床へ手を突いた先には、先ほど砕け散ったコップの破片が散乱していた。手首に鋭い感触が走り、破片が深く肉に食い込む。 あまりの激痛に視界が真っ暗になり、背中にはどっと冷や汗が流れ出した。 だが、壁の向こうからは、哉治の穏やかで優しい声が容赦なく突き刺さってきた。 「まさか。心美はそんなに心の狭い女じゃないよ。 それに、僕は君を一生守ると約束したんだ。僕の前で、詩織が気を使う必要なんてどこにもない」 かつて、同じ言葉を心美も聞いた。 新婚の夜、彼は彼女の手を強く握り、情熱的な瞳で言った。「心美は僕の妻だ。一生愛し、守り抜く」と。 けれど今、その「一生」は別の女に捧げられている。 彼が心美に与えたのは、度重なる拒絶と、この打ちひしがれた惨めな姿だけだった。 手首の傷は深く、鮮血がどくどくと溢れ出す。デザイナーにとって、手は命そのものだ。 すぐに病院へ行かなければならない。 魂が悲鳴を上げるほどの激痛を必死に押し殺し、心美は無事な方の手を振り上げ、最後の力を振り絞って床を叩きつけた。 廊下から慌ただしい足音が近づき、ドアが勢いよく弾け飛ぶように開いた。 飛び込んできた哉治の目に映ったのは、蒼白な顔で倒れ伏し、手首から鮮血を流す心美の姿だった。彼は愕然として息を呑み、その瞳には隠しきれない動揺と痛ましさが走った。 「心美!どうしたんだ!」 彼はなりふり構わず駆け寄り、必死な形相で彼女を覗き込む。 「わ……」 心美は何かを言おうとしたが、焼け付くように乾いた喉からは、声にならない掠れた吐息が漏れるだけだった。 哉治が彼女の額に手を触れると、その指先に驚くほどの熱が伝わる。 「ひどい熱だ!すぐに病院へ運ぶ!」 彼は焦燥に駆られた様子で、床に倒れる彼女を腕の中に抱きかかえようと、その体に手を回した。 「――きゃあぁっ!」 背後で詩織が悲鳴を上げた。雪のように顔を白くし、そのまま力なく床へ崩れ落ちる。 「詩織!」 哉治の動きがぴたりと止まった。 彼は躊躇うことなく、指先が触れていたはずの心美を突き放し、詩織のもとへと駆け寄った。 彼の目は腕の中の女に釘付けで、放り出された心美が鋭い破片が散らばる床に背中から叩きつけられたことなど、微塵も視界に入っていなかった。 「……っ」 悲鳴すら出なかった。コップの破片が深々と肉に食い込み、心美の背中は一瞬で血にまみれた。床にどす黒い赤が広がり、無惨な光景を描き出す。 「哉治……私……血を見ると、めまいが……」 詩織は哉治の腕にすがりつき、消え入りそうな声で呟くと、そのまま意識を失った。 哉治は死に物狂いの形相で詩織を抱き上げると、床に伏したままの心美には目もくれず、部屋を飛び出していった。 遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、心美の目から大粒の涙が溢れ落ちた。 …… 心美の意識を引きずり戻したのは、身体を貫くような鋭い激痛だった。 重い瞼を開くと、目に飛び込んできたのは眩いばかりの白、そして鼻を突く消毒液の匂い。 背中と手首の傷が神経を逆撫でし、激しい眩暈に襲われる。 閉め切ったドアの向こうから、看護師たちの潜められた話し声が漏れ聞こえてきた。 「18番ベッドの患者さん、本当に気の毒よね。運ばれてきた時は40度近い高熱で、三日三晩うなされて、ようやくさっき熱が引いたのよ。 手首は5針も縫ったのよ。もう少しで腱まで達するところだったし、背中なんて……摘出した破片が十数枚もあったわ。見ているだけで痛々しくて」 「そうそう、旦那さんとは離婚の手続き中らしいわよ。あんな怪我をしてるのに一度も顔を見せないなんてね。 入院の手続きや支払いも、彼女がフラフラになりながら自分一人で済ませたんだって。 それに比べて、隣の部屋の女性は幸せものよね。ほんの少しショックを受けただけなのに、彼女の旦那さんが片時も離れずに付き添って、院中の専門医を呼び集めて診察させてるんだから。 機嫌を取るためにブランドバッグやジュエリーをこれでもかって買い与えて、さっきも自らお粥を食べさせてあげていたわよ」 耳に届くのは、あまりにも鮮明で残酷な格差。心美はゆっくりと口角を上げ、声もなく笑った。 第5話 入院して三日目、ようやく哉治が姿を現した。 「すまない、心美。詩織の情緒がずっと不安定で、どうしても付きっきりにならざるを得なかったんだ」 心美は何も答えず、ただ静かに窓の外を眺めていた。睫毛の一筋さえ動かさない。 点滴の雫が規則正しく落ちていく。彼女はその一滴一滴に、自由を手にするまでの時間を重ね、心の内で静かにカウントダウンをしていた。 そこへ看護師が処置に現れ、包帯をゆっくりと解いていく。露わになったのは、目を背けたくなるほど無惨で生々しい傷跡だった。 哉治は息を呑み、その瞳に痛ましさが走った。 「こんなにひどい怪我だったのか。僕が君を守ってやれなかったせいだ。心美、本当にすまない」 処置の痛みに、心美の額にはじわりと冷や汗がにじむ。唇からは完全に血の気が失せ、雪のように白く乾ききっていた。 「……だが」 哉治の声が不意に低くなった。そこには隠しきれない失望の色が混じっている。 「こんな真似までして気を引こうとする必要はなかったはずだ」 「私が好き好んでこんな目に遭ったと思っているの?」 心美はあまりの言い草に、思わず吹き出しそうになった。 だが次の瞬間、彼の言葉の真意に気づき、弾かれたように顔を上げた。 「私が、わざとやったと思っているの?」 哉治はまっすぐに彼女を見つめ、確信に満ちた口調で言った。 「違うのか?ただ僕を呼び戻したかったんだろう。 電話一本くれれば戻ったのに、なぜこんな真似をする」 「出ていけ」 心美はサイドテーブルのグラスを掴み、床に叩きつけた。 「今すぐ出ていって!二度と私の前に現れないで!」 それでも、哉治は去らなかった。 それが罪悪感からくるものなのか、あるいは別の執着ゆえなのか。彼はその日一日、病室に留まった。 彼は以前のように、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。S国から取り寄せた彼女のお気に入りのアンティークブローチは、世界に一点しか存在しない極めて希少な品だった。 さらには最新機種のスマホを買い与え、データの移行まで細心の注意を払って済ませていた。 しかし、新しいスマホを手にした心美が真っ先にしたのは、十日後に発つF国行きの片道航空券を予約することだった。 トイレから戻った心美の目に飛び込んできたのは、彼女のスマホを握りしめて立ち尽くす哉治の姿だった。画面には、予約完了を知らせるメッセージが表示されている。 「どこへ行くつもりだ?」 心美は顔を背け、淡々と答えた。 「少し、気晴らしに行きたくて」 哉治は露骨に安堵し、声に優しさを取り戻した。 「退院したら僕も一緒に行くよ。君の行きたいところなら、どこへだって連れて行く」 返事のない彼女をよそに、彼はなおも夢を語るように言葉を重ねた。 「オーロラを見に行こう。B国でダイビングをするのもいいし、C国で夕日を眺めるのもいい。世界中のあらゆる場所を二人で巡りたいって、以前はそう言っていたじゃないか」 かつての彼女なら、その言葉に狂喜乱舞しただろう。だが今の心美には、滑稽な皮肉にしか聞こえなかった。 この男を六年間、全身全霊で愛してきた。 自分の真心を尽くせば、彼の真心が返ってくると信じていた。だが、自分が舞台の上で独り相撲をとるピエロに過ぎなかったことも知らずに。 幕が下りようとしている今、ようやく気づいた。自分の心は、とっくに修復不可能なほどボロボロに傷ついていたのだと。 「沢田さん!」 看護師が慌てた様子で駆け込んできた。 「唐沢さんがひどい頭痛を訴えて、ずっとお名前を呼んでいらっしゃいます」 林檎を剥いていた哉治の手が止まり、その顔に苦渋の色が浮かぶ。 「行ってあげて」 心美が代わりに決断を下した。 「もういらないから」 彼は彼女の額にかかった髪をそっと払い、眉間に優しいキスを落とした。 「ゆっくり休んでいて。すぐ戻るから」 退院の日まで、哉治が再び姿を現すことはなかった。 一方で、隣の病室からは絶えず、親密で楽しげな笑い声が漏れていた。 退院の日。心美は車の窓を下げ、長年その指に馴染んでいた結婚指輪を、躊躇いもなく外へと放り捨てた。 不要なものを抱え続けるのは、ただの重荷でしかない。 それは、哉治を深く愛していた、かつての自分を捨てるのと同じだった。 第6話 心美はすべての手続きを滞りなく済ませた。仕事の引き継ぎ、クレジットカードの解約、パスポートの更新。 その一つ一つの手順をこなしていくことは、まるで過去との繋がりをナイフで切り離していく儀式のようだった。 帰宅の途中、哉治からメッセージが届いた。 【唐沢グループへの融資は三日後に実行されることになった】 続いて送られてきたのは、オーロラの映像だ。 【いつか二人で見に行こう】 彼女は無造作にその通知をスワイプして消した。 この六年間、彼は数え切れないほどの「いつか」を口にしてきた。けれど、彼女にはもう、それを待つ時間は残されていない。 返信がないことに焦れたのか、哉治から直接電話がかかってきた。 執拗に繰り返される着信を、彼女は無言のまま拒絶し続けた。 家に戻ると、詩織が我が物顔で、使用人たちに心美のトロフィーや表彰状を捨てさせているところだった。 「こんなガラクタ、いつまでも残しておいてどうするの!」 「誰の許可で、私のものに触っているの?」 心美がトロフィーを奪い返すと、その瞳には鋭い光が宿っていた。 詩織は鼻で笑った。 「離婚が決まったっていうのに、まだこの家にしがみついているわけ?いつまでもここの女主人ぶるのもいい加減にしてほしいわ」 「少なくとも、私は妻として堂々と胸を張ってここにいたわ。あなたは?一生世間の目を盗んで、コソコソ隠れて生きるだけの泥棒猫じゃない」 詩織の瞳に一瞬、明らかな動揺が走った。だが彼女はすぐさま表情を塗り替えると、何事もなかったかのように別の話を切り出した。 「ねえ……あなたが流産したあの子、たしか『秋(みのる)』って名付けるつもりだったんでしょ?」 心美の全身が、微かに震えた。それは彼女と哉治の間だけの秘密だった。 「驚いた?」 詩織は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「私が飼っていた犬の名前も『秋』なのよ。あの犬が死んだとき、哉治が言ってくれたの。この犬はいつか、僕たちの子供として生まれ変わってくるって」 その一言一言が毒を塗った刃となり、心美の心を容赦なく切り刻む。 「それから」 詩織が一歩、詰め寄った。 「あの日、わざと哉治を呼び出したのも私よ。 一度はプロポーズを断ったけど、やっぱり後悔しちゃって。どうしても彼に証明させたかった。彼は、私を一生手放せないんだってことを」 「哉治はあなたと結婚なんて絶対にしない!」 心美は詩織を真っ向から睨みつけ、叫ぶように言い放った。 詩織の視線が泳ぎ、何かを企むように細められた。 次の瞬間、その瞳にどす黒い狂気が宿った。 「なら、もう一度だけ証明してあげる!」 言い放つやいなや、詩織は両手を突き出し、力任せに心美を突き飛ばした。 不意を突かれた心美は大きくよろめき、派手な水音を立てて背後のプールへと真っ逆さまに落ちた。 凍てつくような水が鼻や口に流れ込む。必死にもがく視界の先で、詩織が勝ち誇ったように笑っていた。意識が、次第に遠のいていった。 「心美!」 朦朧とする意識の中で、駆け寄ってくる哉治の姿が見えた。 「しっかりしろ!」 哉治が彼女の顔を叩き、震える声で叫ぶ。 心美は激しく水を吐き出し、喉がちぎれんばかりに咳き込んだ。肺を直接火で炙られているような、張り裂けそうな激痛が走る。 「心美、大丈夫か!僕を怖がらせないでくれ」 哉治は上着を彼女に巻きつけ、その腕をガタガタと震わせていた。 「詩織が……押したの」 心美は弱々しく、詩織を指差した。 すると詩織は瞬時に顔を覆い、涙を流して崩れ落ちた。 「哉治、違うの!心美が自分から飛び込んだのよ!私を陥れようとして……」 哉治の視線が心美と詩織の間で激しく揺れ、その表情は次第に複雑で重苦しいものへと変わっていった。 長い沈黙の後、彼は疲れ切ったように口を開いた。 「心美……いい加減にしてくれ」 彼が最初から自分を信じないことは分かっていた。心美は無表情のまま、スマホを高く掲げた。 「録音したわ。自分の耳で確かめなさい」 第7話 だが、哉治は心美の濡れた髪をいたわるように整えながら、こう言い放った。 「心美、辛いのはわかる。だが、詩織を陥れるために自分を傷つけるなんて……正直、見損なったよ」 凍てつくような寒さが一瞬にして全身を駆け巡った。 心美は詩織の勝ち誇ったような視線を受け流し、掠れた声で問いかけた。 「そこまで、あの女を信じるのね」 「すまない」 哉治の顔に苦渋の色が浮かぶ。 「詩織を連れてくるべきじゃなかった。誤解を解こうと思ったんだが、まさか……」 心美は力なく、自嘲気味に笑った。 「哉治。あなたは薄情なだけじゃなく、見る目まで腐っているのね」 二人が去った後、心美は迷わず警察へ通報した。 「殺人未遂で通報します」 翌日、哉治が心美のオフィスに怒鳴り込んできた。 「心美!ここまで騒ぎを大きくしなきゃ気が済まないのか!警察署なんて場所に詩織を置いておけるわけがないだろう。今すぐ被害届を取り下げろ!」 彼は心美の手首を痛むほどの力で掴み上げた。 心美はそれを必死に振り払う。 「録音データはもう警察に渡したわ。私を信じないなら、法に裁いてもらうだけよ」 「偽造証拠を提出すれば、刑務所に入るのは君の方だぞ!」 哉治は鋭い声で言い放った。 「勝手に思っていればいいわ」 頑なな彼女を見て、哉治はついに最後の切り札を切った。 「……遥がどうなってもいいのか?」 心美は冷徹な眼差しで彼を睨みつけた。 哉治の権力をもってすれば、遥をこの街から社会的に抹殺することなど、造作もないことだった。 結局、心美は警察署へ向かい、被害届を取り下げる手続きを済ませた。 警察署を出た直後、哉治は冷ややかな声で心美に命じた。 「謝れ」 心美は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを耐えた。親友を守るため、彼女は深く頭を下げた。 「……ごめんなさい」 詩織はこれ見よがしに寛大な態度を演じてみせた。 「いいのよ、心美。冗談だったって分かっているから。でも、次はもうしないでね。私、本当に怖かったんだから」 哉治は愛おしそうに詩織を抱き寄せ、「少しは頭を冷やせ」と言い捨てて去っていった。 三日後、哉治から電話が入った。 「唐沢グループへの融資が完了した。明日の夜、和奏レストランに来てくれ。詩織との間には、そこではっきり決着をつける」 行くつもりはなかったが、詩織が敗北する瞬間をこの目で見届けたいという思いが勝った。 約束のレストランに着くと、詩織の姿はまだなく、哉治は心美の前に丁寧に盛り付けられた和牛のすき焼きを差し出した。 「すべては終わったことだ。僕が悪かった」 心美は目の前のすき焼きを見つめながら、ふと確かめたくなった。 「哉治。私を愛したことがあった?」 彼は沈黙を貫いた。 「私、本当は牛肉なんて食べられないの」 心美は自嘲気味に笑った。 「昔、家でよくすき焼きを作っていたのは、それがあなたの好物だったから」 哉治の表情に、わずかな動揺が走った。 「し……知らなかった」 「そうよね」 笑いながら、心美の目から涙がこぼれ落ちた。 「でも、詩織の好みなら、あなたは隅から隅まで覚えているんでしょう?結局、何を愛しているかは、費やした時間と注いだ心がすべてを物語っているのよ」 言うべきことを終え、心美は席を立った。 詩織は現れないだろう。あの女が、これほど簡単に自分を不利な状況に置くはずがない。 だが、レストランを出て間もなく、数人の男たちが彼女を取り囲んだ。 首筋に激痛が走り、視界が急速に暗転していく。彼女はそのまま、意識を失った。 第8話 目を覚ましたとき、心美は自分が詩織とともに断崖絶壁に吊るされていることに気づいた。 足下には鋭利な暗礁が牙を剥き、一瞬でも気を抜けば、真っ逆さまに落ちて粉々に砕け散た。 「貴様!彼女たちを放せ!女を拉致するのが貴様のやり方か!」 崖の上から、聞き慣れた男の怒号が響く。 心美が必死に顔を上げると、そこには端正なスーツ姿の哉治が立っていた。 いつもは冷静沈着なその眉間には深い皺が刻まれ、対峙する男を今にも射殺せんばかりに睨みつけている。 相手は九条蓮也(くじょう れんや)。この街でその名を知らぬ者はいない、非情で冷酷な男だ。詩織の父が娘の嫁ぎ先として、なかば強引に決めていた相手こそがこの男だった。 蓮也は、一点の濁りもない白髪を風に揺らしながら、冷徹な殺気を隠そうともせず低く笑った。 「哉治、人聞きが悪いな。唐沢グループも詩織も、元はと言えばわしのものになるはずだった。 そこに横槍を入れ、強引に奪っていったのはお前の方だ。先に仁義を欠いたのは、どちらかな?」 蓮也の言葉が終わるか終わらないかのうちに、心美を縛るロープがさらにきつく食い込んだ。 激痛に思わず息を呑むが、胸をざわつかせる嫌な予感は、痛みなど忘れるほどに強烈だった。 案の定、蓮也は追い打ちをかけるように告げた。 「両方とも手に入れようなんて、いくらなんでも虫が良すぎると思わないか? よかろう。唐沢グループの経営権についても、これ以上とやかく言うつもりはない。だが、女は一人、ここに置いていってもらうぞ」 「ふざけるな」 哉治は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、怒りに身を震わせた。 だが、蓮也はどこ吹く風で、氷のように冷ややかな声でカウントダウンを始めた。 「一人を選べ。選ばれなかった方は、わしの好きにさせてもらう。わしの忍耐も長くは持たん。十秒で決めろ。十、九、八……」 心美の心は、一瞬にして底なしの淵へと沈んだ。 哉治の瞳を見ただけで、答えが分かってしまったからだ。 哉治の瞳が潤み、微かに揺れた。宙吊りにされた心美を凝視するその唇はわななき、断腸の思いを込めて声を絞り出す。 「……詩織を、選ぶ」 その言葉が零れた瞬間、堪えていた涙が決壊し、彼の頬を伝って激しく流れ落ちた。 すぐさま詩織が安全な場所へと下ろされる。 それとほぼ同時に、心美を繋ぎ止めていたロープが冷酷に断ち切られた。糸の切れた凧のように、彼女の体は暗礁へと真っ逆さまに落ちていった。 視界の端を、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡る。耳元では風の音が獣の咆哮のように鳴り響いた。 心美は絶望のままに瞼を閉じ、全身を粉々に砕くであろう、その衝撃の瞬間を待った。 だが、予期した衝撃は訪れなかった。 再び瞼を開いたとき、心美はざらついた網の上に横たわっていた。 全身を大型車に轢き潰されたかのような凄惨な痛みに襲われ、呼吸を一つするたびに、全身の骨がきしんで悲鳴を上げている。 震える腕でどうにか体を支え、上身を起こした。ようやく視界が捉えたのは、暗礁のわずか数メートル上、岩の影に巧妙に隠された救助ネットだった。 深い闇に紛れ、崖の上からはその存在を誰も発見しなかった。 生きている……私はまだ、生きている。 その事実が、混濁していた意識を強引に引き戻した。 這うようにして救助ネットの上を移動すると、隅の方で何かが鈍く光を反射した。 指先を伸ばし、触れたのは折れたカッター替刃だった。 その時、不意に近づいてくる足音が静寂を破った。心美は反射的に網の端の暗がりに身を潜め、息を殺した。 「わしの救助ネットも、なかなかの優れものだったようだな」 蓮也のからかうような声が聞こえた。 「あの高さから落ちて生きていようとは。心美、お前は本当に運の強い女だ」 心美は答えず、手の中の刃を強く握りしめた。 蓮也がその場に膝をつき、泥と傷にまみれた彼女の姿をなめるように見回す。その濁った瞳には、どろりとした下劣な欲が混じり始めていた。 「これほどのいい女を、哉治はあっさり捨てるとはな。全く、宝の持ち腐れもいいところだ」 言い終わるが早いか、蓮也は獣のような勢いで心美に躍りかかった。 心美は胃の底から込み上げる激しい嫌悪感を必死に抑えつけ、身をかわすこともせず、ただその瞬間を待った。 蓮也の手が心美に触れようとしたその瞬間だった。彼女は弾かれたように腕を跳ね上げ、手の中に隠し持っていた刃を迷いなく彼の喉元に突き立てた。 「行かせて。さもなければ……あんたを道連れにして、ここで死ぬわ」 刃をさらに深く食い込ませる。蓮也は首筋に走る確かな刺痛を感じ、目を見開いた。 心美の瞳に宿る凄み。それが単なる脅しではなく、本気で自分の喉を掻き切る覚悟であることを、彼は瞬時に悟った。 数秒後、蓮也は忌々しげに奥歯を噛みしめた。 「よかろう、行け」 心美は一瞬たりとも警戒を解かず、下ろされた梯子を伝って這うように岸へ上がった。 安全な距離まで離れたことを確認するやいなや、彼女は市街地へ向かって無我夢中で走り出した。 どれほど走っただろうか。哉治の邸宅が見えたところで、ようやく足を止めた。 だが、扉を開けるよりも先に、中から漏れ聞こえる声が彼女の足を凍りつかせた。 「詩織、もう怖がらなくていい。僕が守ってあげるから。誰にも、君を傷つけさせはしない」 溶けるような、甘く優しい哉治の声だった。 心美は奥歯を噛み締め、荒々しく扉を押し開けた。ソファで眠る詩織の傍らに座り、愛おしそうにその手を握る哉治の姿が目に飛び込んでくる。 片や自分は、服は引き裂かれ、掌からは血が滴り、まるで浮浪者のような惨めな姿だ。 哉治は驚愕に目を見開いたが、すぐに立ち上がり、心美の手を取ろうとした。 「心美……!無事だったのか。今、ちょうど探しに行こうとしていたところで……」 「私の遺体でも回収しに来るつもりだったの?」 心美はその手を激しく振り払い、声には隠しきれない軽蔑と嘲笑が混じっている。 哉治の顔が、不機嫌そうに歪んだ。 「なんて言い草だ。無事に戻れたんだろう?」 「ええ、戻ったわよ。戻らなければ、あなたのこんなに情愛深い姿を拝むこともなかったものね」 心美は彼を射抜くように見つめた。溢れそうになる涙を必死に堪え、震える声で言った。 「ねえ、哉治。どうして私じゃなく、あの女を選んだの?」 「心美!」 哉治の声が怒りで跳ね上がった。 「いい加減にしろ。 詩織はあんなに恐ろしい目に遭って、今も震えが止まらないんだ。彼女をこんな目に遭わせたのは、元はと言えば君のせいだろう?」 「……私のせい?」 心美は信じられないものを見るかのように彼を凝視した。心が音を立てて凍りついていくのをはっきりと感じた。 「あなた……本気で言っているの?」 「本気で言っている?」 哉治は鼻で笑った。 「この茶番、面白いか?君、とっくに九条と裏で繋がっていたんだろう。 唐沢グループを窮地に陥れたのも、すべては君の差し金か。九条を使って僕に究極の選択を迫れば、自分を選んでもらえるとでも思ったのか?」 乾いた音が響いた。 心美は全身の力を込め、哉治の頬を打ち抜いた。 「哉治」 震える声で彼女は告げた。 「私を愛さないことも、あの女を選ぶことも勝手よ。けれど、こんな風に事実を捏造して、あいつの手から生き延びたからって、勝手に私を中傷することだけは、絶対に許さない」 彼女は二度と振り返ることなく、その場を後にした。 掌の傷口から溢れた鮮血が床に滴り、彼女の足跡に沿って、長く、赤い一筋の道を作っていった。 第9話 ついに、離婚が成立する日だ。 心美は身を清め、新調したばかりの服に袖を通した。 全身を包むのは、一点の曇りもない白。 それは、死に絶えた愛情への、そしてこの馬鹿げた婚姻生活への、彼女なりの弔いの装束だった。 何も持たず、ただ身分証明書だけを手に取ると、彼女はタクシーを拾った。 「区役所まで」 運転手は、これから婚姻届でも出しに行く幸せな客だと思ったのだろう。縁起を担ぐように「おめでとうございます」と笑顔を向けた。 心美は窓の外へ視線を流し、自嘲気味に口角を上げた。 「ええ、そうね。離婚だもの、本当におめでたいことだわ」 運転手は気まずそうに口を噤んだ。 区役所に到着して間もなく、最後の手続きは滞りなく完了した。心美は受理証明書に記された「離婚」という文字をそっとなぞりながら、言いようのない恍惚感に包まれていた。 三年間で、この場所に十八回も足を運び、九回も離婚を切り出した。 今日、ようやくこの離婚届受理証明書を手に入れた。 彼女はそのままタクシーで空港へと向かった。その道中、遥に電話をかける。 「私、行くわ……次はF国で会いましょう」 電話を切った後、ふと詩織のSNSが目に留まった。 投稿されたばかりのメッセージには、「二十五年。いつもそばにいてくれてありがとう」と綴られている。 数枚並んだ写真のそこかしこに、哉治の姿が映り込んでいた。 心美は画面を閉じ、窓を下げた。吹き込む風と砂に目を細める。霞んでいく景色とともに、これまでの執着さえも風化させていくようだった。 空港は、行き交う人々で溢れかえっていた。 ふと、雑踏の中に哉治の後ろ姿を見つけた。もう長いこと、この男をまともに直視していなかったことに気づいた。 グレーのシャツが彼の引き締まった体躯を際立たせ、行き交う旅客の誰もが、思わずその姿に目を奪われていた。 哉治という男は、いついかなる場所でも、周囲の視線を独占してしまう天性の主役だった。 彼が何かに気づいたように振り返った。 心美は素早くサングラスをかけ、人混みの中へとその身を隠した。 その時、スマホが震えた。哉治からのメッセージだった。 【明日、区役所に行って離婚申請の取り下げをするのを忘れるな。 心美、前の問いへの答えは、僕が戻ってから話す】 心美の表情に揺らぎはなく、その心は凪いだ湖面のように、一点の波紋も立っていなかった。 九度にも及んだこれまでの離婚騒動の中で、彼が自ら取り下げを促してきたのは、これが初めてだった。 だが、離婚の手続きがすべて完了し、もはや引き返せなくなる決定的な期限は、今日だというのに。 たった一度のことでさえ、彼は日付すら覚えていなかった。 「私を愛したことがあった?」 かつて投げかけたあの問い。哉治がまともな答えを返したことは一度としてなかった。 喉から手が出るほど渇望していたその答えも、今の彼女には、もう知りたくない。 搭乗直前、心美はSIMカードを引き抜いた。そのままスマホを初期化し、まとめてゴミ箱へと投げ捨てた。 機体が滑走を始め、重力を振り切るように空へと舞い上がる。耳の奥で轟音が鳴り響く中、心美は静かに瞼を閉じた。 過去のすべては、昨日とともに死んだ。 これからのすべては、今日、この瞬間に生まれる。 哉治。あなたとは、この一生、二度と相まみえることはない。