枕元の結婚写真が消えた日

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枕元の結婚写真が消えた日

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寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。 だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。 その瞬...

Chương (1)

第1章

寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。 だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。 その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。 晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。 「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」 私は静かに頷いた。 もういい。すべて手放してしまおう。 手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。 彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。 第1話 寝室の枕元。そこには長年、私たちの結婚写真が飾られていた。 だがその日、夫はそれを研究室の先輩が描いたという油絵に掛け替えた。 その瞬間、私の心の中でぷつりと、何かが切れた。 晴彦の前に離婚届を突きつけたとき、彼は氷のように冷たい瞳で私を見上げ、吐き捨てた。 「たかが絵を一枚掛け替えたくらいで、何を言っている。離婚だと?正気か。あれほど可愛がっている息子の親権まで放棄するつもりか」 私は静かに頷いた。 もういい。すべて手放してしまおう。 手塩にかけて育ててきた息子もまた、父親と同じ穴の狢だったのだ。 彼らの心の一等地に居座っているのは、私ではなく、別の女なのだから。 …… 上原晴彦(うえはら はるひこ)はテーブルの向かいに座り、能面のような顔で離婚届に目を滑らせている。 真面目に読む気などないのだろう。ざっと一通り眺めただけで、すぐに放り出した。 「絵を変えた程度で離婚とはな。頭を冷やせよ。俺はお前のヒステリーに付き合ってる暇はないんだ。それに、大事な息子はどうする。置いていくのか?」 私はふと、視線の先に目をやった。 そこには、とっくに就寝時間を過ぎているにもかかわらず、ソファでテレビに夢中になっている息子の上原薫(うえはら かおる)の姿があった。 私は告げた。 「いらないわ」 晴彦は何の躊躇なくペンをさらさらとペンを動かし、サインを済ませた。 その目は、私がまたいつもの癇癪を起こしているだけだとでも言いたげに、冷めきっていた。 今日の午後のことだ。 私はいつものようにキッチンに立ち、夕食を用意した。メニューは肉じゃが。あの二人の大好物だ。 壁の時計が時を刻む音を聞きながら待ち続けたが、玄関が開く気配はない。 晴彦に電話をかけても、たった二コールで通話が切れた。着信拒否だ。 時計の針が十時を回った頃、ようやく二人が帰宅した。 父子は、厳重に梱包された絵画を、まるで壊れ物を扱うかのように慎重に運び込んでくる。 私が三度も温め直された料理には目もくれず、二人は打ち合わせたかのように食卓を通り過ぎ、足早に寝室へと消えていく。 寝室のドア越しに、晴彦が枕元の結婚写真に手をかけ、取り外そうとしているのが見えた。 「どうして、急に外すの?」 私の問いかけにも、晴彦の手は止まらない。 「絵を変える。ただそれだけのことが、そんなに気に入らないのか」 薫がその隣に立ち、小さな体で精一杯背伸びをして、新しい絵を手渡そうとしている。 その横顔は目を細め、嬉しさで綻んでいた。 「パパ、また雅子さんと一緒にハンバーガー食べに行けるよね?」 晴彦は慌てて薫の口を塞ぎ、気まずそうに私を睨んだ。 「……黙っていたのは、お前に変な誤解をされたくなかったからだ」 武藤雅子(むとう まさこ)。晴彦の研究室の先輩であり、かつての私の先輩でもある女性だ。 最近の異動で彼と同じ職場になったとは聞いていたが。 私は視線を落とし、すっかり冷え切ってしまった食卓の料理を見つめた。 「……次からは、薫をファストフードには連れて行かないで。あの子、胃が弱いんだから」 「ああ」 晴彦は素っ気なく答えると、薫から絵を受け取り、満足げに枕元へ飾った。 位置を微調整し、スマホで写真を撮る。その顔には笑みが浮かんでいる。 「パパ、雅子さんって、すごいんだね!絵も描けるんだ」 薫は憧憬の眼差しで、壁に掛けられた西洋画風の油絵を見上げている。雅子の作品だという、その絵を。 晴彦はにこやかな表情を崩さず、スマホの画面を何度もタップしている。 薫は待ちきれないといった様子でベッドに這い上がると、小さな顔を突き出して晴彦のスマホを覗き込んだ。 「パパ、何話してるの?僕も雅子さんとお話したい!」 晴彦がサインを終えたのを見届け、私はその夜のうちに家を出る決心をした。 だが、八年近く暮らした部屋を見渡すと、何から手をつければいいのか分からず、途方に暮れる。 「今日はもう遅い。明日でもいいだろう」 晴彦が私を見ている。 私は首を横に振った。 「いいえ、今日行く」 必要最低限の荷物だけをまとめた。結婚指輪は元の場所に戻し、それ以外は何一つ持たない。 スーツケースを引き、玄関で靴を履いていると、薫が近寄ってきた。 何も言わず、どこか怯えたような瞳で私を見つめている。 六年間、この手のひらで慈しみ育ててきた小さな命。 胸の奥が、勝手にきしんで痛んだ。 私はしゃがみ込み、彼に告げた。 「パパと離婚することになったの。これからはパパの言うことをよく聞くのよ。お菓子ばかり食べては駄目。それから、魚介類のアレルギーがあるから、絶対に食べちゃ駄目よ」 だが薫は視線を泳がせ、私の言葉などまったく気にしていない様子で口を開いた。 「ふうん。でもパパ言ってたもん。どうせママはすぐ帰ってくるって。だってママ、ここには友達もいないし、僕とパパしかいないんだから」 そして、彼はつま先立ちになると、私の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁いた。 「ママ、もう帰ってこなくていいよ。僕、ママのこと嫌いなんだ。雅子さんの方がずっと好き。ママがいなくなったら、雅子さんが僕のママになってくれるんだから」 薫の言葉が、心に残っていた最後の拠り所を、無慈悲に削り取っていった。 「子供は嘘をつかない」という。だからこそ、彼らは遠回しな言い方などせず、残酷な本音をそのまま刃として突き立てる。 小さい頃から大切に、大切に育ててきた息子は、ただの一度だって、私を好きではなかった。 私はもう何も言わなかった。 ただ静かにスーツケースを引き、夜の街へと踏み出した。 第2話 薫の言葉は、残酷なほど正しかった。 私にはこの街に、友達と呼べる存在なんて一人もいなかったのだから。 晴彦と遠距離恋愛をしていたあの頃。 私はただ、彼を失いたくなくて、彼と共に歩む未来を築きたくて必死だった。 住み慣れた故郷を捨て、やりがいを感じていた仕事も辞めた。 当時の私は愛に溺れ、盲目になっていたのだと思う。 運命の相手はまさに彼であり、二人の未来は輝いているものだと信じて疑わなかった。 その後、私たちは確かに幸せだった。 愛する息子、薫も授かった。 薫は人一倍手がかかる子供だった。一方で晴彦は、自身のキャリアを諦めることを拒んだ。 「結婚っていうのは、どちらかが犠牲にならなきゃいけないものだろう?」 彼の言葉に含まれた暗示を理解するのは、そう難しくはなかった。 それに、この街で見つけた私の新しい仕事は、晴彦のそれと比べて将来性も待遇も劣っていた。 だから私は、家族が幸せでさえあればそれでいいと、自ら進んで彼の「内助の功」に徹する道を選んだ。家事を完璧にこなし、息子の世話に明け暮れる日々。 けれど、雅子が晴彦の研究室に異動してきてから、私たちの関係は音を立てて冷え切っていった。 かつてあった温もりは薄れ、壊れ、形を失っていく。 あろうことか薫でさえ、何度も無邪気に口にした。「雅子さんをママにしたい」と。 深夜の冷たい街角。スーツケースを引きずりながらタクシーを拾う。 吹き抜ける夜風は、凍りついた私の心よりも冷たく感じられた。 …… 小さなアパートを借りた。 日当たりの良い、暖かな部屋だ。 主婦業の傍ら、私は密かに研究を続け、論文の執筆を進めていた。 今日、その論文が賞を取ったという知らせが届いた。 賞金は決して大金とは言えないが、私一人が一年半ほど慎ましく暮らしていけるだけの額はある。 今朝は目覚めてから、驚くほど心が軽かった。 目覚まし時計の不快な音で飛び起きる必要も、薫の登校準備に追われて髪を振り乱す必要もない。 鏡に向かい、時間をかけて丁寧にメイクをし、髪を整える。 見違えるほど、表情が明るくなった自分がそこにいた。 ジムにも通い始めた。 家にいた頃は、薫の相手や際限のない家事に追われ、運動量は足りていたかもしれない。 世間では私のことを、「仕事もせずに家にいる、潰しの利かない主婦」だと噂していたかもしれない。 でも、そんなことはどうでもよかった。 事実は違うと、私自身が一番よく分かっていたから。 晴彦の稼ぎだけでは、薫にあのような贅沢な暮らしをさせることは到底不可能だったのだから。 頭をよぎる雑念を振り払う。 そろそろ、履歴書を書こう。 もう一度働きたい。パソコンの画面の前ではなく、あの懐かしい実験室に立ちたい。 午後、大好きな激辛料理を食べに行った。 父子二人の好みに合わせていた頃は、食卓に辛い料理が並ぶことなどほとんどなかった。 久しぶりに口にする真っ赤なスープは、刺激が強すぎて頭がくらくらするほどだった。 いつの間にか、私の味覚や生活習慣まで、彼らに合わせて変わってしまっていたのだと気付かされた。 夜、晴彦から電話がかかってきた。 いつもと変わらない、感情の読めない淡々とした声。 「お前の荷物で、封がしてある箱が残ってる。中は見てない。住所を教えれば送るが」 少し考えてから、私は答えた。 「見てもいいわよ。昔取っておいた、どうでもいいガラクタばかりだから。もういらないわ。捨てて」 電話の向こうで、晴彦が何か言いかけて口ごもる気配がした。 「それと、これから私の荷物が出てきたら全部処分して。わざわざ電話してこなくていいから」 そう言い捨てて、電話を切った。 あの箱には、晴彦と共に過ごした日々の思い出が詰まっていた。 愛のこもったメモや、彼から贈られたささやかなプレゼント。 当時は捨てるのが惜しくて、一つ残らず大切に保管していたのだ。 だが今となっては、それらはただのゴミの山でしかなかった。 …… 面接を経て、ある化学メーカーの研究職が決まった。 専用の実験室まで提供してくれるという、破格の待遇だ。 午後の退勤後、スーパーで食材をカゴに入れる。 これまでは、あの手この手で料理のレパートリーを増やし、偏食気味な父子の好みに合わせて献立を考えていた。 もう、自分の胃袋のためだけに料理をしても、バチは当たらないはずだ。 カートを押していると、スマホが鳴った。 画面には、薫の通う幼稚園の名前が表示されている。 「薫くんのお母さんですか?お迎えがまだのようですが……他のお子さんは皆さん帰られて、薫くんだけが、まだお迎えがいらしていないんです」 第3話 時計を見ると、薫の降園時刻からすでに一時間が経過していた。 だが私はカートを押し続け、歩調を緩めようとはしなかった。 「先生、実は私、薫の父親とは離婚しまして。親権はあちらにあるんです。父親の方に連絡していただけますか?電話番号をお伝えします」 「あ、そうだったんですね。いつもお母様がお迎えにいらしていたので、薫くんも『ママに電話して』と言うものですから……失礼いたしました」 先生が恐縮した様子で謝る。 「いえ」と短く返し、電話を切ろうとしたその時、薫が先生からスマホをひったくった気配がした。 「ママのいじわる!パパは仕事で忙しいんだよ。ママは暇なんだから迎えに来ればいいでしょ!ふん、雅子さんだったら、絶対迎えに来てくれるのに!」 その喚き声を聞いても、私の胸にはさざ波ひとつ立たなかった。 「薫、よく聞きなさい。ママはパパと離婚したの。これからはもう迎えには行かない。もし誰も迎えに来なかったら、先生にパパの電話番号を教えなさい。雅子の番号でもいいわ」 一方的に告げ、通話を終了した。 私は薫をあんな子に育てた覚えはない。 幼い頃、仕事に忙殺され薫と過ごす時間が持てなかった晴彦のことを、私はいつも庇っていた。「パパはお仕事頑張ってるんだから、優しくしてあげようね」と教え諭していた。 子供というのは、家にいる大人が自分の世話をするのを、空気のように当たり前だと思ってしまう生き物なのだろうか。 こめかみを指で揉む。 もういい。好きにすればいい。 しかし、電話は鳴り止まなかった。 夕食を終えた頃、またしても晴彦から着信があった。 「木村紗智(きむら さち)、薫の胃の調子が悪いんだ。家中探したのに薬が見つからない。どこに置いてある?」 湧き上がる怒りを抑え込み、冷静さを装って答える。 「テレビ台の下の棚よ」 「ああ、あった」 「あの……今日、薫の先生から電話があっただろう。午後は少し立て込んでて迎えが遅れたんだ……悪かったな」 晴彦が何を言いたいのか理解に苦しむ。まるで無理やり話題を探しているかのようだ。 「ええ、いい迷惑だわ。だから、もう二度と電話してこないで」 以前、私がかけた電話は着信拒否されていた。彼から電話がかかってくることなんて、天地がひっくり返ってもありえなかったはずだ。 それなのに、この数日で次から次へと。 私は電話番号を変えた。それ以来、晴彦からの連絡は途絶えた。 私は実験室での研究に没頭した。一日中そこに籠もることも珍しくなかった。 ここにいると、自分の原点に立ち返ることができる。 まるで、夢多き大学時代に戻ったかのようだ。 かつての私も、研究を愛し、実験を愛する一人の学生だった。 いつから私の夢も、初心も、生活の雑事という名の泥濘に飲み込まれてしまったのだろう。 自ら手放してしまったのだろう。 …… ある日、主任が実験室に来て、プロジェクトの引き継ぎがあると告げた。 実験用の手袋をゴミ箱に放り、実験室を出る。 応接室には、見慣れた二つの影があった。 晴彦。その隣には薫がいる。 ガラス越しに、晴彦が子連れで来た理由を、主任に対して決まり悪そうに説明しているのが見えた。 応接室に入ると、私に気づいた晴彦が微かに眉をひそめた。 「パパ……」 薫が晴彦の服の裾をギュッと掴み、小さく呟く。 「ああ、こちらがこのプロジェクトの責任者です。彼女が引き継ぎを担当します」 主任が私を紹介する。 私は余裕を持って微笑んだ。 「主任、ご紹介は不要です……面識がありますから。ここは私に任せてください」 主任は戸惑ったように苦笑いを浮かべ、そそくさと応接室を後にした。 資料に目を通しながら、私は口を開く。 「確か、チームにはもう一人いるはずですよね」 言いかけたその時、ドアがノックされた。 雅子が入ってくる。 「遅れてすみません」