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彼に捧げた恋の終わりに、月は静かに輝きだす
上場企業の社長である彼氏は、初恋の相手の機嫌を取るために、億単位の契約を放り出して彼女との旅行を優先した。 その責任を全て私に押し付け...
Chương (1)
第1章
上場企業の社長である彼氏は、初恋の相手の機嫌を取るために、億単位の契約を放り出して彼女との旅行を優先した。
その責任を全て私に押し付け、私を降格させ、あろうことかその元カノを私のポジションに据えたのだ。
以前の私なら泣きわめいて抗議しただろうが、今回は静かに彼の指示に従った。
苦労して取ってきたプロジェクトをすべて彼女に譲れと言われれば、気前よく譲った。
ボーナスを全額カットされ、彼女の車の購入費に充てられても、「素晴らしい車を買ってね」と相槌を打ってあげた。
挙げ句の果てに、彼女をウチに住まわせると言い出した時でさえ、私は黙って寝室を譲り、書斎へ移った。
彼は「やっと可愛げが出てきたな」と満足げに笑い、五年間待たせた挙句、恩着せがましく「結婚してやる」と言い放った。
でも彼は忘れていた。
彼が元カノと甘い旅行を楽しんでいる間に、私の退職届は、とっくに受理されていることを。
そして私の手元には、海外の有名研究所からのオファーが届いている。
一週間後、私はこの国を去る。
これで、彼とは赤の他人だ。
第1話
上場企業の社長である彼氏・神崎徹(かんざき とおる)は、初恋の相手・白石玲奈(しらいし れいな)の機嫌を取るために、億単位の契約を放り出して彼女との旅行を優先した。
その責任を全て私・江藤茜(えとう あかね)に押し付け、私を降格させ、あろうことかその元カノを私のポジションに据えたのだ。
以前の私なら泣きわめいて抗議しただろうが、今回は静かに彼の指示に従った。
苦労して取ってきたプロジェクトをすべて彼女に譲れと言われれば、気前よく譲った。
ボーナスを全額カットされ、彼女の車の購入費に充てられても、「素晴らしい車を買ってね」と相槌を打ってあげた。
挙げ句の果てに、彼女をウチに住まわせると言い出した時でさえ、私は黙って寝室を譲り、書斎へ移った。
彼は「やっと可愛げが出てきたな」と満足げに笑い、五年間待たせた挙句、恩着せがましく「結婚してやる」と言い放った。
でも彼は忘れていた。
彼が元カノと甘い旅行を楽しんでいる間に、私の退職届は、とっくに受理されていることを。
そして私の手元には、海外の有名研究所からのオファーが届いている。
一週間後、私はこの国を去る。
これで、彼とは赤の他人だ。
……
「江藤先輩、さすがに神崎社長はやりすぎですよ。
先輩のミスじゃないのに降格だなんて、あんまりです」
「あのプロジェクトのためにあんなに尽くしたのに……
高熱をおして点滴打ちながら企画書を作ってた先輩の姿、私たち見てましたよ。
社長には人の心がないんですかね?」
「そうですよ。先輩は創業メンバーなのに、あの白石玲奈は入社してたった数ヶ月でしょ?
副社長に抜擢なんて、いくらなんでも不公平ですよ!」
デスクの私物を片付けていると、同僚たちが周りに集まってきて口々に不満を漏らした。
表向きは同情しているように見えるが、腹の底では他人の不幸を面白がっているのが透けて見える。
あのプロジェクトのために一ヶ月も徹夜を続け、接待で吐血するほど酒を飲んだ。
ようやく契約に漕ぎ着けたというのに、徹は玲奈との旅行を優先し、土壇場でクライアントをすっぽかしたのだ。
帰国後、彼はその失敗を私の能力不足のせいにし、私を降格させ、適当な理由をこじつけて、玲奈を副社長に特例で昇進させた。
私はもう抗議もしないし、理由も問わない。
ただ静かに荷物をまとめ、彼らの望み通りにしてあげるだけだ。
片付けが終わった頃、玲奈が姿を現した。
さっきまで私を囲んでいた同僚たちは、示し合わせたように彼女のもとへ駆け寄り、ゴマをすり始めた。
「玲奈さん、昇進おめでとうございます!
入社早々重要なプロジェクトを任されるなんてすごいです!
私たちも玲奈さんを見習って頑張ります!」
「さすが海外帰りのエリートですね!これから、会社がもっと飛躍すること間違いなしです!」
玲奈に媚びなければ社長に睨まれる。それが彼らなりの生き残り術なのだそうだ。
玲奈は我が世の春とばかりに得意満面で、就任前だというのにすっかり上司気取りだ。
彼女は私が抱えるダンボール箱をちらりと見て、白々しく慰めの言葉をかけた。
「茜さん、そんなに落ち込まないでくださいね。
誰だって失敗はありますよ。
もっと努力して実力をつければ、また昇進できるチャンスはありますよ」
私は顔を上げ、冷ややかに言い放った。
「そういうイイ子ぶる演技、疲れないでしょうか」
彼女の笑顔が引きつった。
一瞬怒りを露わにしようとしたが、周囲の目に気づいてすぐに悲劇のヒロインを演じ始めた。
しおらしく俯いてみせた。
「降格したばかりの茜さんのポストに私が就くことになって……面白くないのは分かります。
でも、もしそれが気に障ったのなら、謝ります」
私は呆れてため息をついた。
まるで私が理不尽に彼女を恨んでいるかのような言い草だ。
「玲奈、そんな役立たずに謝る必要はない!」
徹が玲奈の荷物を持って入ってくると、私を軽蔑しきった目で見下ろした。
「お前のせいで会社がどれだけ損をしたと思ってるんだ?
降格は自業自得だ。
玲奈は俺のそばで献身的に支えてくれたんだ、昇進して当然だろう」
献身的に?
自称「海外帰りのエリート」の彼女は、企画書一つまともに書けないくせに、毎日コーヒー片手に社長室に入り浸っては一日中彼に媚びを売っていた。
難しい仕事はすべて私に押し付け、自分は手柄だけを横取りできるよう、徹を甘い言葉で言いくるめていたのだ。
以前の私なら泣き叫んで反論していただろう。
だが今はもう疲れたし、退職も決まっている。
こんな無意味な言い争いをする気力もない。
私はオフィスを見渡し、忘れ物がないか確認すると、平社員のデスクの方へ歩き出した。
玲奈の横を通り過ぎる際、社交辞令として一言だけ残した。
「副社長就任、おめでとうございます」
私の予想外の態度に、徹は虚を突かれたように口を半開きにした。
何か言いたげに唇を動かす。
玲奈が彼の袖を引いた。
その表情は怯えているように見えた。
「徹くん……今の、皮肉ですよね?
茜さんはやっぱり、降格されたことを私のせいだって恨んでるんだわ。
ねえ、追いかけてなだめてあげたら?
私は平気だから……」
徹はすぐに驚きを隠し、鼻で笑った。
「放っておけばいい。あいつみたいな女は、こうやって厳しくしつけないと分からないんだよ」
彼は手を振って野次馬を散らすと、甲斐甲斐しく玲奈のオフィスの整理を始めた。
私は足を止め、五年間も彼に尽くしてきた自分を嘲笑った。
徹は私に「徹」と呼ぶことを許さず、会社では徹底して「神崎社長」と呼ばせた。
「公私混同はしない主義だ」などと、もっともらしい理屈を並べてと言い張っていた。
だが玲奈が帰国して分かった。
「徹」という呼び方は、彼女だけの特権だったのだ。
デートの時、彼は慣れた手つきで彼女のバッグを持つ。
彼の身に着けているもののほとんどは、彼女が選んだものだ。
酔い潰れた時にかける電話の相手も、いつだって彼女だった。
二人が何度肌を重ねたかなんて、もう数える気にもなれない。
翌日帰宅した彼は、「酔って記憶がない、何もしてない」と白々しい嘘をつくのが常だった。
私が少しでも不満を漏らせば、「俺が信用できないのか」、「器が小さい女だ」、「また被害妄想か」と逆ギレされた。
旅行から帰ってきて以来、二人の常軌を逸した行動に対して、私は一切口出ししなくなった。
彼はそれを、私がついに従順になり、彼の「調教」が成功した証だと勘違いしているようだ。
第2話
担当プロジェクトもなくなったことだし、あとは退職手続きが終わるのを待って会社を去るだけだと思っていた。
だが翌日、徹は玲奈を連れて怒鳴り込んできて、書類の束を私の顔に投げつけた。
鋭い紙の端が頬をかすめ、赤い筋が走る。
どうやらプロジェクトでトラブルが起きたらしい。
玲奈が承認した薬剤が検査基準を満たしておらず、結果として患者を死なせかけた。
「この始末、どうつけるつもりだ!
今すぐクライアントに土下座してこい!」
徹は怒号を飛ばした。
私は床に散らばった書類を拾い上げ、淡々と答えた。
「この案件はとっくに私の手から離れてます。
承認印を押したのは副社長ですよね?
彼女が頭を下げるべきでは?」
「玲奈のような育ちの良い人間に、土下座なんてさせられるか!
彼女は海外帰りのエリートだぞ!」
彼の言葉に、私は思わず失笑してしまった。
卒業した後、教授は私を高く評価し、海外の研究室へ誘ってくれた。
だが私は徹に夢中で、彼の起業を支えるために全てを捨てて国内に残ったのだ。
今や彼は、私がその海外帰りのエリートに劣ると言いたいらしい。
「彼女はダメで、私ならいいってわけですって?」
冷たく言い返しながらも、胸の奥がズキリと痛んだ。
徹は忘れているのだろうか。
私の膝は、かつて彼のために土下座して怪我をし、今でも冷え込む夜には痛んで眠れないことを。
玲奈は徹の袖を掴み、しおらしく言った。
「いいの、徹くん。会社のためだもの、私が行くわ。
でも……」
彼女はチラリと私を見上げ、諭すような口調で言った。
「茜さん、引き継ぎはもっと漏れなくやっていただかないと。
こんなミス、困りますよ」
業務内容はマニュアル化して誰が見ても分かるようにしてある。
字が読める人間なら、ミスなど起こりようがない。
責任転嫁は彼女の得意技だ。これが初めてではない。
そして徹は、いつだって彼女を盲信している。
「玲奈に罪を被せる気か?どう考えたってお前のミスだろ!
彼女がどれだけ会社のために尽くしていると思ってるんだ。
それに比べてお前は……自分の保身ばかりで。
玲奈を陥れることしか考えていない!
どんな手を使ってもいいから、クライアントの許しを得てこい。
でなければ、本社に居場所はないと思え。
一から出直してこい!」
愛されている人間は、いつだって勝ち気で傲慢だ。
徹は私が彼を愛していて、絶対に離れられないと高を括っている。
だから平気で私を踏みにじり、玲奈を持ち上げるのだ。
心という天秤は、最初から彼女の方に傾いている。
玲奈は彼の背後に隠れて私に眉をひそめてみせ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
私は退職手続きを滞りなく進めるため、反論を飲み込んで書類をまとめた。
それを見て、徹はようやく満足げに玲奈を連れて去っていった。
二日間、不眠不休で事後処理に追われ、ようやく帰宅した時のことだ。
書斎のドアを開けた瞬間、徹が慌てて玲奈の体から離れるところに出くわした。
二人の唇は赤く腫れ、不自然なほど艶めいている。
服もひどくだらしなく乱れている。
私は見なかったことにして、無表情のまま荷物を置いた。
この前に、徹は「玲奈の家は会社から遠くて通勤が大変だ」と言って、彼女を私たちの家に住まわせた。
玲奈が私の部屋の日当たりの良さを気に入ったというので、私は素直に寝室を明け渡し、書斎へ移ることにした。
ちょうど海外の研究所からオファーが届いていた。
私にとって、彼らと争う時間はもはや無駄でしかなかったからだ。
徹は玲奈を部屋に戻らせると、私がいつものように嫉妬して騒ぐと身構え、先手を打つように不機嫌そうに言った。
「玲奈は徹夜で仕事をして疲れてたんだ。
少しマッサージをしてやってただけだ。
変なことを考えるなよ」
「ああ、そうですね」とだけ短く返した。
私の反応が薄いのが気に入らないのか、徹は眉をひそめた。
「また無言の抗議か?降格させたことをまだ根に持ってるのか?」
長年、一方的に無視を決め込み、私が下手に出て機嫌を取るのを待っていたのは彼の方なのに。
「別に、ただ疲れてるから、もう寝ます」
あまりに素っ気ない態度に、逆に私が従順になったと勘違いしたのか、彼の口調が少し和らいだ。
「俺だって鬼じゃないんだ。
だが今回はお前のミスでプロジェクトが飛んだんだ。示しがつかないんだよ。
結婚するって言ったじゃないか?来週にはドレスを見に行くぞ。
これ以上ゴネるなら、ただのワガママだからな」
私は彼を見上げた。少し腫れたその唇が、視界に入る。
滑稽な話だ。
あなたのようなクズと結婚なんて冗談じゃないと心の奥でそう告げた。
「分かりましたわ」
疲れ果てた私はパジャマを手に取り、さっさとシャワーへ向かった。
徹は満足そうに頷いて部屋を出ようとしたが、ふと思いついたように立ち止まった。
「そうだ、玲奈が一晩中資料を読んで目が疲れてるらしい。
ホットアイマスクでも買ってきてやってくれ」
彼は返事も待たずに去っていった。
私が彼の命令に背くはずがないと信じ込んでいるのだ。
第3話
当然、買いに行くわけがない。
すると、玲奈がわざわざ書斎までやってきた。
顔を合わせるなり、彼女は言った。
「徹くんには、もう私がいれば十分なのよ。
いつまで居座るつもりか?
みんな気まずいだけじゃない?
目障りなんだけど、消えてくれない?」
私は眉をひそめたが、冷静に言い返した。
「私は別に気まずくないわよ。
気まずいのは、人の男に手を出してる泥棒猫の方でしょ?」
玲奈の顔色が変わる。
「誰が泥棒猫よ!」
「心当たりがある人こそ泥棒猫じゃない?」
「愛されてないほうが、本物の泥棒猫だわ!」
玲奈はスマホの画面を突きつけ、保存された写真や動画を見せつけてきた。
そこには徹との生々しい写真や、イチャついている動画が溢れていた。
「私が海外へ留学しに行ってなかったら、徹くんがあんたなんかと付き合うわけなかったのよ。
まさか、本気で愛されてるとでも思った?
彼は私の帰りを待つ間の埋め合わせに、あんたみたいな便利な女を使っただけ。
彼の心は私だけのものよ。たとえあんたと結婚しても、彼が一番愛してるのは私なの」
度重なる挑発に、さすがに私も我慢の限界だ。
手を振り上げ、その頬を張ろうとした瞬間。
「茜!何をしてる!」
ドアの方から怒鳴り声がした。
私が振り返った瞬間、ガシャンと何かが割れる音が響いた。
玲奈がテーブルのポットを倒し、熱湯を左腕に浴びたのだ。
彼女は悲鳴を上げ、手首を押さえてうずくまった。
徹が血相を変えて駆け寄り、彼女を抱き締めた。
「玲奈!大丈夫か!?」
「茜さん……私と徹くん、やましいことなんて何もないのに……
どうして信じてくれないの?わざと熱湯をかけるなんて……」
玲奈は生まれながらの演技派だ。
大粒の涙をボロボロとこぼし、誰が見ても庇いたくなるような可憐な被害者を演じている。
徹は彼女のこの手に弱い。
彼は玲奈の赤くなった腕を見て心底胸を痛めた様子で、私を睨みつけた。
「茜!さっき説明しただろ!
どうしてそうやって玲奈をいじめるんだ!
文句があるなら俺に言え!」
どう見ても悲劇の恋人同士だ。
私は二人の仲を引き裂く悪女というわけか。
玲奈は涙目で、震える声で言った。
「徹くん、平気よ。茜さん、ヤキモチ妬いちゃっただけなの。
私が徹くんと仲良しだから……」
何か言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。
何を言っても無駄だ。徹はいつも、迷わず玲奈の肩を持つ。
まるで私の方が部外者で、二人の愛を引き裂く悪役であるかのように。
いつだって、そうだった。
だから私は、淡々と彼に告げた。
「徹、もう終わりにしましょう」
玲奈の目が微かに動き、隠しきれない喜びが滲み出る。
徹は一瞬呆気にとられたが、すぐに軽蔑の眼差しを向けた。
「そんな手で俺の気を引こうなんて、ガキかよ!
嫉妬して喚き散らすしか能がないのか?少しは玲奈を見習ったらどうだ?」
「本気よ」私は遮った。
私の真剣な眼差しに、徹はようやく動揺を見せた。
「茜、ふざけるのもいい加減にしろ。
来週はドレスの試着だぞ。
これ以上ダダをこねるなら、結婚の話はなかったことにするぞ!」
「好きにすれば」と言いかけた時、玲奈が「痛いっ!」と声を上げた。
「徹くん……腕が痛いよ……」
彼女は火傷した腕を抑え、潤んだ目で訴える。
徹はすぐに慌てふためき、私への言葉など忘れて彼女を支えた。
「大丈夫だ、すぐに病院へ行こう」
二人は慌ただしく上着をひっつかんで、出て行った。
しょぼつく目をこすりながら、壁の時計を見上げる。
ちょうど零時を回ったところだ。
新しい一日の始まり、そして、私の新しい人生の始まりだ。
第4話
あれから二日経っても、徹と玲奈は帰ってこなかった。
玲奈の火傷なんて大したことないはずだ。
病院へ行ったとしても、薬を塗って済むのだろう。
玲奈が何かと理由をつけて、徹を引き止めているのは明らかだ。
私はスマホを出して、徹に最後の別れのメッセージを送ろうとした。
トーク履歴は、プロジェクトの失敗を一方的に責め立てられたあの日から更新されていなかった。
彼とはもう、こんなに長い間まともに会話すらしていなかったのか。
メッセージを入力しては消し、入力しては消し……結局、「さようなら」の一言すら送れなかった。
うっかり指が触れて、彼のタイムラインが開いてしまった。
最新の投稿は昨夜のものだった。
写真の中の徹は部屋着姿で、慣れた手つきで料理をしていた。
背景は見覚えのないキッチン、おそらく玲奈の家だろう。
【玲奈が、俺の料理の腕は落ちてないって褒めてくれた】
スマホを握りしめたまま、私は呆然とした。
徹は、料理なんてしないはずだ。
付き合って五年、彼がキッチンに立ったことなど一度もなかった。
彼は常々こう言っていた。
「時給数万円の俺に台所仕事なんて、完全なる時間の無駄で、この俺への冒涜だ」と。
彼は出前が嫌いだったから、まだ家政婦を雇う余裕がなかった頃は、私が毎日三食作っていた。
「そうか……彼は元々料理ができるのね」
ふと、乾いた笑いが込み上げてきた。
いつかデートで手料理を振る舞ってくれるのをずっと夢見ていたけれど、彼は五年前から、他の女のためにそれをしてあげていたのだ。
がっかりした後に、不思議なほどの解放感が押し寄せた。
私はその投稿に「いいね」を押し、画面を閉じた。
荷物をまとめ終え、私は会社へ向かい、退職手続きを済ませた。
人事担当は目を丸くして、何か言いたげにしながらも、戸惑いを隠せないまま手続きを終えてくれた。
退職願の受理通知を手にすると、足がふっと軽くなった気がした。
これでようやく、自分のキャリアに専念できる。
人事が気を利かせて、最後に同僚たちへ挨拶する場を設けてくれた。
予想外だったのは、そこに徹と玲奈もいたことだ。
玲奈のためでもなければ、徹がわざわざ一般社員たちのオフィスに姿を現すはずもなかった。
玲奈は私を見るなり徹の後ろに隠れた。
まるで私が食ってかかるとでも言うように。
徹は彼女の手をポンポンと叩いて安心させると、私に向き直った。
「ちょうど探してたんだぞ。
なんでまた音信不通なんだ?
俺が玲奈に飯を作ったくらいで、また嫉妬して拗ねてんのか?
そういうとこだぞ、お前と玲奈の決定的な違いは」
私は退職願の受理通知を持ったまま、無言で彼を見つめた。
彼が私を探しに来る時なんて、いつも決まって厄介な話ばかりだ。
案の定、徹は咳払いを一つして宣言した。
「みんな聞いてくれ。よく考えた結果、江藤を営業の最前線へ異動させることにした。
これからは現場で一から根性を叩き直させることにした。
二度と他の社員に手を出さないようにな」
そう言い放つ彼の目は、嫌悪に満ちていた。
創業から五年間、彼を支え続けてきた私が、今さら新人のように現場へ飛ばされる。
あまりに滑稽で笑えてくる。
「社長、江藤さんはもう……」人事が私が退職したことを伝えようとしたが、徹は冷たく遮った。
「社長命令だ!反論があるなら、お前もセットで飛ばしてやるぞ!」
人事は青ざめて口をつぐんだ。
私は静かに徹を見つめている。
私が怒りもせず黙っているのを見て、徹は私が反省したと思い込んだらしい。
私のそばに歩み寄り、諭すように言った。
「茜、仕事に私情は挟めない。
いくら彼女でも特別扱いはできない。
これ以上玲奈を傷つけさせないため、そして職場の和を守るためにも、お前を異動させざるを得ないんだ。
数ヶ月、頭を冷やして戻ってきたら、予定通り結婚してやってもいいぞ」
彼の背後から玲奈も顔を出し、調子を合わせる。
「そうですよ、茜さん。徹くんもあなたのためを思って言ってるんですから」
二人の茶番劇を見て、私は思わず吹き出した。
手元の退職願の受理通知を徹の目の前に広げて見せる。
「結婚?何言ってるのですか?
私たちはもう別れたし、会社も辞めますよ。
あなたとはもう、何の関係もない赤の他人です」