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彼女のいない世界
佐藤祐介(さとう ゆうすけ)との結婚を2週間後にひかえ、夏川若葉(なつかわ わかば)は結婚をやめると言い出した。 「お姉ちゃん、婚約を解消...
Chương (1)
第1章
佐藤祐介(さとう ゆうすけ)との結婚を2週間後にひかえ、夏川若葉(なつかわ わかば)は結婚をやめると言い出した。
「お姉ちゃん、婚約を解消したいの」
若葉は薄暗いアトリエに座っていた。モニターの光だけが、血の気のない顔をぼんやりと照らしている。
「どうして?9年間も祐介のことが好きだったんじゃないの?結婚式まであと2週間なのに、なんで今さらやめたいなんて言うの?」
第1話
佐藤祐介(さとう ゆうすけ)との結婚を2週間後にひかえ、夏川若葉(なつかわ わかば)は結婚をやめると言い出した。
「お姉ちゃん、婚約を解消したいの」
若葉は薄暗いアトリエに座っていた。モニターの光だけが、血の気のない顔をぼんやりと照らしている。
「どうして?9年間も祐介のことが好きだったんじゃないの?結婚式まであと2週間なのに、なんで今さらやめたいなんて言うの?」
若葉は息を深く吸い込んで、壊れそうな心をなんとか落ち着かせようとした。
「なんでもないの。ただ、急に好きじゃなくなっただけ」
夏川莉子(なつかわ りこ)は一瞬黙り込んだが、最終的には妹の決断を尊重することにした。
「わかったわ。
私が話をつけてあげる」
電話を切ると、若葉は再び動画を再生した。そこには、祐介と平野愛奈(ひらの まな)がキスを交わす姿が映し出されていた。
祐介が、そこそこ有名な自然ドキュメンタリーの監督であることは前から知っていた。仕事と動物への愛情が、なによりも強い人だってことも。
「俺のレンズには、動物以外のものは映らない。
君と俺の仕事を一緒にしないでくれ」
でも、そんな仕事一筋の祐介が、愛奈のために10話にもわたるドキュメンタリーを制作していたのだ。
祐介のレンズを通した愛奈は、甘えたり、はにかんだり、ときには怒ったりと、様々な表情を見せていた。
祐介は愛奈のすべてを記録していた。ベッドの中での姿さえも。
動画のなかで二人が裸で絡み合う姿を目の当たりにして、若葉は全身が凍りつくような感覚に襲われた。
そんなプライベートな動画を、祐介は自分にも撮らせようとしたことがあった。
なぜなら、それが祐介が唯一、愛してると言ってくれた時だったから。
胸の奥に、焼けた鉄の刃で貫かれたような痛みが走る。心は粉々に砕け、その破片が、深く食い込んで抜けない。
涙が止めどなくこぼれ落ちる。なのに若葉は、涙を拭うことさえ忘れ、吐き気をこらえながらそのドキュメンタリーを最後まで見続けた。
そのドキュメンタリーを見て、お見合いの日に、なぜ祐介が、自分の用意していた告白の言葉を遮ったのか、その理由をはっきりと理解した。
あの日、愛奈も実家のお見合いに参加していたからだ。
「結婚しよう」
祐介はたったその一言だけを投げ捨てて、背を向けて去っていった。
まるで、冷たい事務連絡のようだった。
若葉は真っ青な顔で、『愛奈』というタイトルの文書ファイルを開いた。
開いた瞬間、若葉は祐介の愛情あふれる文章に、信じられないほどの衝撃を受けた。
それはまるで、恋愛日記だった。二人が出会ってから恋に落ちるまでの数年間が記録されている。祐介は優しい口調で、愛奈の好みや嫌いなもの、デートした場所などを丁寧に綴っていた。それどころか……
数ページ読んだだけで、若葉は心臓を見えない大きな手で鷲掴みにされたように、息が苦しくなった。
祐介と愛奈は、人のいない公園や大学の教室、階段の踊り場など、ありとあらゆる場所で愛し合った痕跡を残していた……若葉が祐介に資料を届けに来たあの日でさえも、二人はドア一枚隔てた向こうで、体を重ねていたのだ。
胃の底からこみ上げてくる不快感。生理的な吐き気に、若葉は思わず口元を押さえてえずいた。
かつての愛情が激しかった分だけ、今の胸の痛みはより一層強くなる。
「俺の世界は、ずっと夜のままだった。君が現れて、ようやく光が差し込んだんだ」
祐介は愛奈のために30万字もの恋愛日記を書き、10話にも及ぶドキュメンタリーを制作した。なのに、若葉については、何も記録を残していない。
ツーショット写真さえ、一枚もなかった。
若葉がファイルを元の場所に戻し、アトリエを出ようとしたとき、ポケットのスマホが鳴った。祐介の友人からの電話だった。
「大変だ、祐介さんが重傷を負って、今病院に運ばれたんだ!」
複雑な気持ちを抱えながらも、若葉は急いで病院へ向かった。だが、手術室の前で顔を覆って泣いている愛奈の姿を見つけてしまう。
「うぅ……ごめんなさい……私をかばわなければ、祐介先輩が野生動物に襲われて、こんな大怪我をすることもなかったのに……」
愛奈は泣いていた。しかし若葉は、その涙の裏に得意げな色が見え隠れするのを感じ取っていた。
「どうしてあなたが祐介と一緒にいたの?なんであなたをかばって怪我なんて……」
隣にいた人が、若葉が愛奈を責めようとしていると思ったのか、慌てて割って入った。
「愛奈さんは祐介さんのゼミの後輩なんだ。先輩と後輩が一緒に撮影に出かけるなんて、普通のことだろ?」
二人の間のことなんて、若葉は知らなかった。
若葉が何か言い返そうとしたとき、手術室のドアが開き、ストレッチャーに乗せられた祐介が出てきて、彼女の注意を引いた。
祐介の様子を見ようと前に出ようとしたが、愛奈がその前に割り込み、若葉を乱暴に突き飛ばした。
「祐介先輩!」
祐介が重たいまぶたを何とか開けると、涙で目を潤ませる愛奈の姿が目に入り、少し面白おかしくなった。
「もう、泣くなよ。俺が死んだみたいじゃないか」
そばで二人のやり取りを見ていた若葉の心は、傷口に塩を塗られたようにずきずきと痛んだ。
あっという間に、病室は祐介を見舞う人々でごった返した。
皆が帰ったあと、若葉は静かに歩み寄った。
「怪我は……もう大丈夫なの?
祐介、次の撮影には、私も連れて行ってくれないかな?」
祐介は数秒黙り込んだあと、結局はもう数えきれないほど聞いた答えを口にした。
「あそこは危ないから、君を連れて行くのは心配だ」
若葉は声を詰まらせた。「じゃあ、どうして……いつも平野さんはそばにいるの?」
祐介は長いこと黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。「愛奈は俺のゼミの後輩だ。勉強のために連れて行ってるだけだよ」
若葉は息を深く吸い込むと、婚約解消を切り出す決心をした。「祐介、話があるの……」
だが祐介は、くるりと背を向けると、平然と若葉の言葉を遮った。「何のことでも、君の好きにしていい。
疲れたから、もう休むよ」
9年間、ずっとそうだった。祐介の心は、自分に対して高い壁で閉ざされたまま。
でも今回は、もう待ちたくない。
若葉は誰もいない場所に移動し、ある人物に電話をかけた。
「前に言ってたこと、まだ有効?
来月からの世界一周旅行、私も連れて行って」
第2話
電話の向こうから、低い笑い声が聞こえてきた。
「決心はついたか?」
「ええ」
若葉は覚悟を決めた声で言った。「決心した」
「じゃあ、2週間後に迎えに行く」
電話を切って、若葉は病室に戻った。すると、ちょうど愛奈が不満そうに祐介にうどんを渡しているところだった。祐介は困ったように笑いながら言った。
「いま怪我してるんだから、一人でどうやって食べろって言うんだよ」
「あなたの婚約者さんにでも食べさせてもらえばいいじゃない?なんで私がやらないといけないの?」
祐介はため息をついた。「愛奈、わかってるだろ。これは俺たちじゃどうしようもないことなんだ……」
「もういいわ。言い訳は聞きたくない」
愛奈はうどんをサイドテーブルに置くと、背を向けて出ていこうとした。「もう私たちはただの大学の先輩と後輩。それ以上の関係じゃないから」
愛奈は若葉を一瞥すると、鼻で笑って病室から出ていった。
若葉はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、どうしても聞かずにはいられなかった。
「祐介、どうしてあなたの作ったドキュメンタリーのエンドロールに、まだ私の名前がないの?
平野さんが担当したことになっているナレーション原稿、あれは本当は私が書いたのに……」
若葉は悔しさをにじませた。「あなたが作品を作ってきたこの数年間、私は一度も、名前を載せるに値しなかったってこと?」
祐介はいつものように若葉をなだめた。「わかってるよ。だから、次の作品では必ず君の名前を載せるから。
それに愛奈はまだ学生なんだ。もっと経験を積むチャンスが必要なんだよ。だから、今回は彼女に譲ってあげてくれ」
「大学院の推薦の時も、あなたはそう言ったわ」
若葉は力なく笑った。その瞳に光はない。「彼女は家庭の事情が大変だから、このチャンスが必要なんだって。だから私は譲った。
どうして私が、いつまでも譲らなきゃいけないの?」
祐介は長い間黙っていたが、やがて一言、ぽつりと呟いた。
「君が、俺のことを9年も好きだからだよ。
その理由で、十分だろ?」
若葉はぽかんとした。
まるで突然、裸で街の真ん中に放り出されたような羞恥心が、胸を締め付けた。
若葉はとっくの昔に気づいていた。でも、ずっと知らないふりをしていたのだ。
愛されている側は、いつだってこうも強気でいられるものなのだ。
若葉の顔が真っ青になっているのを見て、祐介は少し口調を和らげた。
「まあ、落ち着けよ。来月には結婚するんだ。これ以上に、何の不満があるんだ?」
「でも、もうあなたとは結婚したくない」若葉は真剣な眼差しで言った。
「あなたのこと、もう好きじゃなくなったの」
祐介は一瞬きょとんとして、それから鼻で笑った。「それで?どうしたいって言うんだ?」
「私が本当の作者だって証明する。あなたの作品は全部私が手伝ったもので、平野さんは全く関係ないってことを」
若葉は真顔になると、持っていたタブレットでデータをアップロードしようとした。その時、冷たい大きな手が、そっと彼女の指に重ねられた。
「やめておいた方がいい」
祐介はスマホの画面を見せた。そこには、かつて祐介と若葉がベッドで撮ったプライベートな動画が映っていた。
それを見た若葉は、頭から冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。
声が震える。「何をするつもり?」
「さあ、どうだろうな。君がデータをアップするのが速いか、この動画がネットに広まるのが速いか、賭けてみるか?」
祐介はベッドに身体を預けたまま、感情の無い漆黒の瞳で若葉を見つめた。
「俺が君の立場なら、もっと賢く立ち回るけどな」
深い悲しみと、どうしようもない無力感が、若葉の心を支配した。
「わかったわ。諦める」
「それだけじゃダメだ」祐介は目を細め、脅すような口調で言った。
「すべてのデータを、跡形もなく消すんだ」
若葉は体がこわばった。祐介が愛奈のために、まさかここまで非道なことをするなんて。
抵抗できず、若葉は祐介が見ている前で、元のデータをすべて削除し、作者名を愛奈の名前に書き換えた。
それを見て、祐介はようやく満足そうに微笑んだ。
「ああ、それでいい。聞き分けのいい子は好きだぜ」
これで一件落着したと思ったのに。数日後、若葉は大学の同窓会のグループチャットで、自分のプライベートな動画が拡散されているのを見つけてしまった。
動画に添えられた、見るに堪えない下品なコメントの数々。若葉は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
祐介はもう退院してアトリエに戻っているはずだ。若葉は説明を求めようと、彼のアトリエのドアまで駆けつけた。しかし、ドアの隙間から中の様子を覗き見て、凍りついた。
愛奈が、祐介の胸に顔をうずめて泣いていたのだ。
第3話
「どうして作品にまで私の名前を入れるの?それで私が感謝するとでも思ったの?」
愛奈は祐介の胸に飛び込んで泣きじゃくり、その胸を叩いた。
「祐介のバカ!同情なんていらない!哀れみなんて欲しくない!どうせ若葉と結婚するんでしょ?彼女が大事なんでしょ?だったら、さっさと行けばいいじゃない!」
「動画は君がもうネットにばらまいたんだ。だから、もう怒らないで。ね?」
愛奈の泣き様に、祐介は胸が張り裂けそうだった。どう慰めたらいいのか分からず、ただそっと頬の涙を拭うことしかできなかった。
「本当に若葉のことが大事だったら、君に彼女の動画をばらまかせて、憂さ晴らしなんてさせるわけないだろ?
愛奈、君の将来のため、そして俺たちの夢のために、今は現実を受け入れないと。
たとえ俺が若葉と結婚したとしても、愛してるのは君だけだ。
君と彼女は違うんだ」
その言葉は、まるで無数の棘のように若葉の心に絡みつき、徐々に締め上げていった。逆棘が肉に食い込み、血の滲むような痛みが走った。
そうよね、愛奈と自分が同じなわけない。
愛されていない人間が、どれだけ頑張って気に入られようとしても、祐介の心は動かないんだ。
問い詰める言葉はすべて意味を失い、喉に刺さった魚の骨のように、ちくちくと痛んだ。
以前の気弱で自分に自信のなかった若葉なら、きっとこのまま引き下がっていただろう。でも、今はもう違う。
若葉はドアを押し開けて中に踏み込むと、愛奈の顔めがけて、思いきり平手打ちをしようと手を振り上げた。
「あなたが、私の動画をネットに流したのね?」
祐介は若葉が突然現れるとは思っておらず、とっさに愛奈をかばい、その一撃を受け止めた。
彼はわずかに眉をひそめた。
「何するんだ?
俺が許可したんだ。文句があるなら俺に言え」
若葉が何か言う前に、愛奈は突然自分の頬を何度も叩き、若葉の前に跪くと、怯えたふりをして言った。
「ごめんなさい、若葉。本当にわざとじゃなかったの……」
愛奈は泣きながら自分の髪をかきむしり、哀れな様子で続けた。「私が悪いの。あなたの名前も、作品の権利も、祐介先輩まで奪って……
あの動画を流したのも私なの。ごめんなさい、もう死んでお詫びするよ……」
「愛奈!」
祐介は気絶したふりをする愛奈を抱きしめ、焦った声を出した。
「愛奈、しっかりしろ!」
祐介は顔を上げ、深い嫌悪感を込めた目で若葉を睨みつけた。「一体どうしたいんだ?愛奈はもともと精神的に不安定なんだ。彼女を死に追い詰めないと気が済まないのか?」
若葉はその場に立ち尽くした。「被害者は、私のほうなのに……」
「この件は、俺がなんとかする。でもそれまでは、二度と愛奈にちょっかいを出すな」
そう言うと、愛奈を抱き上げ、振り返りもせずにアトリエを去っていった。そこには、若葉が一人、取り残された。
その夜、若葉のもとに一本の動画が届いた。
数人の男たちが、祐介の部下に殴られ、見るも無残な姿で倒れていた。息も絶え絶えで、地面を這うことさえできないようだ。
祐介からのメッセージが表示された。
【動画を一番拡散してた連中だ。俺が代わりに痛い目にあわせてやった】
【どうだ、これで気が済んだか?】
若葉は激しい怒りに駆られ、すぐに祐介に電話をかけた。
「これは、どういうつもり?
私が怒ってる理由が、このことだと思ってるの?」
祐介はアトリエで素材データの整理をしており、その言葉を聞いて眉をひそめた。
「じゃあ、他に何があるんだ?
これでもまだ足りないって言うのか?
君の相手をしてる暇はないんだ。仕事が残ってる」
「それなら、もういいわ。婚約は解消しよう」
若葉は平静を装った声で言った。「もう、あなたとは結婚しない」
「若葉、君は物分かりのいい子だと思ってたがな」祐介は明らかに怒りをこらえていた。
「本当に嫌なら、お見合いの日に断ればよかっただろ?今さら何を気取ってるんだ?
それで自分がまともだとでも思ってるのか?」
第4話
若葉は口を開いたけれど、何も言えなかった。
そっか、祐介の心の中では、自分は彼を追いかけている、ただそれだけの存在だったんだ。
若葉が黙り込んだのを見て、祐介は彼女が聞き分けが良くなったと思ったのか、穏やかな声で言った。
「若葉、ごちゃごちゃ言うな。今夜、支度してパーティーに来い」
きつく断ってやりたかった。でも、祐介から誘われたのは初めてだったので、結局は感情が理性に勝ってしまった。
夜、若葉はわざわざ白いドレスに着替えて、祐介が迎えに来るのを待っていた。
パーティー会場に入ると、祐介は予想外のことにも、腕を組むよう促した。
「俺のそばにいろ」
ズタズタに傷ついた若葉の心が、少しだけまた脈打った気がした。
でもその直後、若葉は遠くに愛奈がいるのに気づいた。
愛奈の隣には別の男が立っていて、二人はとても楽しそうに話していた。その様子が祐介の目に入り、若葉の手を握る力も強くなっていった。
「痛い……」
祐介は聞こえていないかのように、ただじっと愛奈たちを見つめていた。
祐介は何かに気づいたように、ポケットから輝くダイヤモンドのネックレスを取り出して、若葉の首につけた。
耳にかかる温かい吐息に、若葉の心は高鳴った。
若葉は体をこわばらせながら、祐介がネックレスをつけ終わるのを待った。
祐介は親しげに顔を近づけ、若葉に話しかけた。
「どうだ、気に入ったか?」
若葉は高価そうなネックレスに視線を落とした。そして、「好き」と顔を上げて言おうとした瞬間、祐介がものすごい嫉妬の目で愛奈たちをじっと見ているのに気づいた。
人混みの向こうで、愛奈は挑発するようにその男の首に腕を回すと、頬に軽くキスをした。
次の瞬間、若葉は強い力で、人気のない階段の踊り場に引きずり込まれた。
声を上げる間もなく、祐介の強引で激しいキスに唇を塞がれた。
「祐介……ん……何するの……
誰か来ちゃう……」
「だからなんだ?」
もがこうとすると、祐介はもっと強く若葉を押さえつけた。
祐介は若葉を隅の壁に押し付けた。その目にはどろりとした嫉妬の色だけが浮かんでいて、恐ろしいほど冷静だった。
そのキスは氷のように冷たく、何の感情もこもっていない。これはキスなんかじゃない、ただの八つ当たりだと若葉ははっきりと感じた。
祐介は激しくキスをしながら、もう片方の手はいつの間にか若葉のスカートの下に伸びていた。
若葉は焦りと恥ずかしさと怒りで逃げ出そうとした。その時、階段のドアの隙間から、愛奈と目が合ってしまった。
愛奈は明らかに怒りで目に涙をためており、口を押さえてその場を去っていった。
若葉の心は、一瞬で凍りついた。
じゃあ、祐介は自分を、愛奈に嫉妬させるための道具として使ったってこと?
自分はそんなに安っぽい女だっていうの?
自分の尊厳をここまで踏みにじる祐介の行為に、若葉は激しい怒りと羞恥を覚えた。
理由も言わずに、ただ怒りにまかせて欲望をぶつける道具にするなんて……これじゃあ、お金で買われた女と何が違うの?
もう我慢できなかった。若葉は祐介を突き飛ばし、頬を思い切り平手で打った。
パンッ。
若葉は大きく肩で息をしていた。胸が張り裂けそうで、息もできなかった。
「触らないで!」
祐介は呆然と、赤く腫れた頬を押さえた。その目には、まだキスを続けたかったかのような、ぼんやりとした色が浮かんでいた。
「どうしたんだ?
これが、君の望んだことじゃないのか?」
「私のこと、何だと思ってるの!」
若葉の目に光る涙が、祐介の胸をチクリと刺した。
「あなたは、一度だって私のことを尊重してくれたことなんてない!」
若葉は素早く乱れた髪を直し、何も言わずに会場を去った。
第5話
祐介の胸に、一瞬鈍い痛みが走ったが、すぐに普段の様子に戻った。
彼はゆっくりと身なりを整え、再び発表会へと戻った。
若葉はタクシーで帰る途中、カバンを忘れてきたことに気がついた。中には喘息の薬だけでなく、母の形見も入っていた。
仕方なく引き返したものの、駐車場まで来たところで、少し離れた黒い高級車から甘い声が聞こえてきた。
若葉の心臓がどくんと鳴った。あの車は、祐介のものだ。
「やめて!離して……」
「あの男は、いったい誰なんだ?
俺は怒ってるんだぞ」
車内からは、拒むようでいて、どこか誘うような愛奈の甘えた声が聞こえてきた。
「あなたには婚約者がいるでしょ。あの男が誰だろうと、あなたには関係ないじゃない!大っ嫌い!」
「強がるなよ。体は正直じゃないか」
愛奈はまだ少し理性が残っていた。「あ、あなたは……あの婚約者さんに見られたらどうするの?」
祐介は何も答えず、ただ力を込めるだけだった。愛奈の抵抗は、すぐに甘いあえぎ声へと変わっていった。
「ん……だめ……」
若葉は怒りで呼吸さえ震え、目に涙がたまるものの、なかなか流れ落ちてはこなかった。
録音を止めると、振り返ることなくその場を立ち去った。
邸宅に戻った若葉は、引っ越してきた時に心を込めて飾り付けた部屋を最後に見渡した。思い出がナイフのように心をえぐる。
「君の好きなように、飾っていいよ」
その時の若葉は、祐介の優しさだと思っていた。でも今ならわかる。彼はただ、まったく気にしていなかっただけなのだ。
若葉はたくさんの物を捨てた。心を込めて選んだプレゼントも、祐介が撮影の旅先で買ってきてくれたお土産も……
何もかも、夜の闇に紛れるように捨ててしまい、跡形もなく消し去った。
夜も更けた頃、祐介がようやく発表会から帰ってきた。
彼は頬を赤く染めた愛奈を抱きかかえて、家に入ってきた。
「若葉、愛奈が酔って気分が悪いんだから……」
祐介は若葉が騒ぎ立てるだろうと思っていた。しかし、彼女は顔を青くしただけで、静かに頷いた。
「うん」
祐介の心に、わずかな驚きがよぎった。
深く考えず、彼は愛奈を、若葉が心を込めて整えた新居の寝室へ連れて行った。そして、下の階へ降りると、自ら愛奈のために果物を切り、酔い覚ましの飲み物を用意し始めた。
この時、若葉は祐介がキッチンに立つのを初めて見た。
その手つきは少しぎこちなかったが、とても真剣だった。ほどなくして、温かいスープが出来上がった。
若葉は何も聞かず、ただそばに立って静かに見ていた。まるで祐介の姿を通して、昔キッチンで何度も火傷をした自分の姿を見ているかのようだった。
その視線に気づいた祐介は、何か言いかけたが、結局は黙り込んでしまった。
その沈黙こそが、何よりの答えだった。
真夜中、眠っていた若葉は言い争う声で目を覚ました。階段の踊り場で立ち止まり、書斎のドアの隙間から覗くと、ちょうど愛奈が顔を真っ赤にして、祐介と何かを言い合っているところだった。
「私はただ、自分の目で確かめたかっただけよ!何が悪いの!」
「あの猛獣たちがどれだけ危険か、わからないのか!君に何かあったら、俺はどうすればいいんだ!?」
「あなたに守ってもらう必要なんてない!!」
「愛奈!」
怒り、焦り、心配……若葉は、祐介の顔にこれほど多くの感情が浮かぶのを初めて見た。
まるで愛奈の前でだけ、彼はいきいきとしているみたいだ。
思えば、あの夜を除いて、祐介が自分に感情を見せたことは一度もなかった。喜びも、怒りも。ほんの些細な表情の変化すら、見せてくれなかった。
祐介は、彼はもともとこういう性格なんだと言っていた。
「嫌なら、無理しなくていい」
若葉が思い出に浸っている間に、愛奈が部屋を飛び出してきたことには全く気づかなかった。
愛奈は冷たく笑うと、いきなり若葉を階段から突き落とした。
第6話
「きゃああ!!」
目が回るような浮遊感。そして、無防備だった若葉は、階段から転げ落ちた。全身の筋肉が激しく痛んだ。
愛奈はショックで固まったふりをして、階段の上から謝った。
「ごめんなさい……わざとじゃ……」
物音を聞きつけた祐介が、慌てて飛び出してきた。彼は、とっさに愛奈の手を引いて心配そうに声をかける。
「愛奈、大丈夫か?
どこか怪我はないか?」
愛奈は階段の下を指さして、弱々しく言った。
「私は大丈夫……でも、若葉が……」
その時になって、祐介は階段の下で倒れ、額から血を流している若葉に気づいた。
胸が締め付けられる思いで、慌てて駆け寄って容態を尋ねた。
「大丈夫か?動けるか?」
さっきのやり取りをすべて見ていた若葉は、冷え切った心で祐介の手を振り払った。
「あなたの助けなんていらない。あっちに行って」
「いい加減にしろ。病院に連れて行くから……」
若葉を抱き上げようとしたその時、階段の上にいた愛奈が、頭を押さえて苦しそうにうずくまった。
「祐介先輩、頭が痛い……
すごく苦しい……」
祐介は二人を見比べ、結局、愛奈を病院に連れて行くことを選んだ。
「もう少し待ってろ。救急車がもうすぐ来るから。
ちょうどいい。どうせ、俺なんて必要ないんだろ」
若葉は必死に立ち上がろうとした。でも、視界が血の色でだんだんとぼやけていく。
そして、気を失った。
……
「目が覚めたか?」
どれくらい時間が経っただろうか。若葉が病室で目を覚ますと、ちょうどドアから入ってきた祐介と鉢合わせた。彼はうどんの入った容器を手に、若葉の前に差し出した。
「うどんを買ってきた。温かいうちに食べろ」
若葉は無表情のまま手を振り上げ、その海鮮うどんを叩き落とした。熱くてとろみのある汁が、あたりに飛び散る。
祐介は眉をひそめた。「どういうつもりだ?」
「私、海鮮アレルギーなんだけど。知らなかったの?」
祐介は黙り込んだ。
「すまない。最近、仕事が忙しくて忘れていた……」
パソコンに残っている30万字の原稿を思い出すと、若葉は吐き気がした。
「もう何も言わないで。婚約は取り消すことに決めたから。これは……」
若葉が婚約解消の書類を見せようとした、その時。愛奈から電話がかかってきた。
「ちょっと祐介!あなたの上着、まだ私のところにあるんだけど!届けてあげるほど暇じゃないから、自分で取りに来なさいよ!」
祐介は、優しく目元を緩めて笑った。
「はいはい、今から取りに行くよ。
若葉。本気で婚約を取り消したいなら、そうすればいい。止めはしない」
祐介は立ち去る間際に、若葉に冷たく言い放った。
「君に、好きになってくれなんて頼んだことは一度もない。だから、そんなことを盾に俺を脅したって、無駄だ」
そう言うと、祐介は振り返りもせずに立ち去った。
まだ渡せていない婚約解消の書類を握りしめ、若葉は涙を流しながら、悲惨な笑みを浮かべた。
これでもいいのかもしれない。どのみち、ここを去るまで、あと一週間しかないのだから。
翌日、若葉はひとりで退院手続きを済ませた。胸の苦しみをどう紛らわしていいかわからず、結局バーに駆け込み、隅の席でひとり酒をあおっていた。
お酒を半分ほど飲んだころ、個室の方から男の悲鳴が聞こえてきた。若葉がそちらに目をやると、生涯忘れられないであろう光景が広がっていた。
そこには、青ざめた顔の祐介がいた。彼は重たい酒瓶を、向かいに座る男の頭に力いっぱい叩きつけていた。
派手な音を立てて瓶は砕け散り、周りからは驚きの声が次々と上がった。
祐介の瞳には、若葉が今まで見たこともないような、容赦のない鋭い光が宿っていた。彼は命乞いをする男の声など聞こえないかのように、その顔面に何度も拳を叩きつけた。
男の顔はすぐに血まみれになり、やがて、声も聞こえなくなった……
一体何が起きているのかと若葉が戸惑っていると、祐介は虫の息の男をまたぎ、散乱した床を踏み越えて、隅で縮こまっている愛奈のもとへまっすぐ向かった。
仕事以外のことで祐介が腹を立てるのを、若葉は初めて見た。
いつもどんな時でも余裕があって、飄々としていたこの男が、愛奈のことになると、こんなにも取り乱すなんて。
若葉の胸は、苦くてしょっぱい気持ちでいっぱいになった。自分は、祐介の心の中にこれっぽっちもいなかったんだ。
でも、9年前に自分のことを庇ってくれたあの後ろ姿は、あんなにも大きくて、確かだったのに。
好きになる人を、間違えたのだろうか?
第7話
祐介は一歩ずつゆっくりと愛奈に近づき、頬の涙をそっと拭った。
「なんで俺に電話しなかったんだ?」
愛奈は泣きながら祐介を突き放した。
「もう何回も言ったでしょ!あなたに構われたくないの!」
祐介は何も言わずに、愛奈を引き寄せて強く抱きしめた。彼女がもがくのを許さなかった。
愛奈はすすり泣きながら言った。
「あなたにそんな権利ないでしょ!私がどこかで死んだって、あなたには関係ないじゃない!」
「君は俺の後輩だから……」
「あなたの後輩でなんかいたくない!」
それからの言葉は、すべて祐介の唇に塞がれてしまった。
固く抱き合う二人を見て、若葉の喉を通るお酒は、まるで刃のようだった。そのまま胸の奥まで、ゆっくりと切り裂かれていく気がした。
案の定、夜になると祐介はまた、酔っぱらった愛奈を連れて帰ってきた。
「今日、愛奈が危ない目に遭ってね。一人にしておくのが心配で、連れて帰ってきたんだ」
「ええ、別に説明はいらないわ」
若葉は顔を伏せたまま、一瞥もくれずに階段を上がっていった。
祐介は不思議に思った。今日の若葉は、あまりにも静かで、従順すぎる。
……
「一体、何がしたいの?」
階段の踊り場で、愛奈はクリスタルのトロフィーを弄びながら、面白がるような笑みを浮かべていた。
「あなたが祐介先輩のこと、9年間も好きだったって聞いたわ。
本当に一途なのね」愛奈は笑いながら、トロフィーを手の中で弄んだ。
「まさか、結婚すれば彼を縛りつけておけるなんて思ってないわよね?」
若葉は愛奈を無視し、押し退けて部屋に入ろうとした。その時、愛奈の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。そして、左手の力を抜き、トロフィーが音を立てて床に落ちた。
ガシャンッ。
クリスタルのトロフィーは床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「さあ、当ててみたら?祐介先輩が信じるのは、あなたかしら、それとも私かしら?」
物音を聞きつけて祐介が階段を上がってくると、目の前には悲惨な光景が広がっていた。
「俺のトロフィーが……」
祐介は顔を曇らせ、その声は氷のように冷たかった。
「一体、どういうことだ?」
「祐介先輩、全部、私のせい……」
愛奈は涙を浮かべ、か細い声で言った。「私のせいよ。書斎から持ち出して眺めていなければ、若葉が奪い取ろうとすることもなかったのに……
若葉が『壊してやる』って言うから、渡したくなくて……
若葉、祐介先輩のこのトロフィーを手にいれるのにあなたの協力があったことは知っている。でも、これは先輩にとってすごく大事なものだから、八つ当たりで壊すなんて、ひどいわ……」
「愛奈、よくもそんな嘘を!」
若葉は怒りで全身を震わせながらも、祐介に一縷の望みを託そうとした。
「あなたも……私が壊したと、そう思うの?」
次第に冷たくなっていく祐介の眼差しから、若葉は彼の答えを悟った。
次の瞬間、祐介は何も言わずに若葉の部屋に駆け込んだ。若葉が必死に止めるのも聞かず、タンスや棚をひっくり返し、彼女の母親の形見を高く掲げた。
若葉は焦って涙を流した。
「祐介!あなたのトロフィーを壊したのは私じゃない!私じゃないの……
廊下には防犯カメラがあるわ。それを見れば……」
「今になって怖くなったのか?」祐介は冷たく鼻を鳴らし、ヒスイを床に叩きつけた。
母が残してくれた唯一の形見が砕け散り、若葉の心も一緒に砕けてしまった。
ヒスイの破片が飛び散り、その一つが若葉の足元をかすめ、細い血の筋がにじんだ。
「今度、人が大事にしているものを壊す前に、どうなるかよく考えろ」
そう言うと、祐介は背を向けた。若葉の呼吸が速くなり、顔が真っ青になっていくことには、全く気づいていなかった。
若葉はしゃがみ込んで破片を探そうとしたが、すぐに息ができなくなった。
喘息が、発作を起こしたのだ。
リュックのところまで這っていき、薬を探そうとした。しかし、窒息感はどんどんひどくなり、ほとんど意識を失いかけていた。
「ゆう……すけ……」
最後の力を振り絞って祐介の名前を呼ぼうとした。だが、続く酸欠で声さえも出すことができなかった。
祐介はまだトロフィーのことで落ち込んでいたが、やがて愛奈が叫び声を上げた。
「祐介先輩、若葉を見て……」
意識が遠のく直前、若葉の目に最後に映ったのは、振り返った祐介の、慌てふためく顔だった。
第8話
ベッドで静かに眠る若葉の寝顔を見て、祐介はさっきまでの強い不安からやっと我に返った。
若葉が喘息持ちだということをすっかり忘れていた。
幸い、リュックの中から喘息の薬が見つかった。もし、若葉に本当に何かあったら……そう思うと、背筋に冷たい汗が流れた。
冷静になった祐介は、さっき壊してしまった形見の品を思い出し、少し罪悪感を覚えた。
だから、若葉が目を覚ますと、祐介は真っ先に自分の仕事場を見に来ないかと誘った。
「この間は、君のものを壊してしまって……悪かった。
ヒスイは、俺が弁償する」
「もういいの」
若葉は自嘲するような笑みを浮かべ、何も言わなかった。
「前は、俺の撮影現場にずっとついて来たいって言ってたじゃないか?」
祐介は優しく言った。「今回は、一緒に連れて行ってやるよ」
若葉はうつむいたままで、祐介が想像していたような、飛び上がって喜ぶような反応はなかった。
しばらくして、祐介がもう断られるだろうと思ったその時、若葉が口を開いた。
「うん」
祐介は少し不思議に思ったが、深くは考えなかった。
数日後、祐介は若葉を撮影現場へと連れて行った。しかし、そこに着くやいなや、若葉はカメラを背負って出発の準備をしている愛奈の姿を目にした。
愛奈も若葉に気づき、複雑な表情で言った。
「なんで若葉を連れてきたの?」
「見たいって言うから、連れてきたんだ」
今日の撮影内容は、ハイエナがエゾシカを狩る瞬間だ。一行は車のそばに身を隠し、機材を調整しながらその時を待っていた。
愛奈は度胸があって、カメラを担いで前へ出ようとしたが、祐介にぐいっと腕を掴まれた。
「だめだ。先生から、君の安全には気をつけるように言われているんだ」
「祐介、あなたに指図される筋合いはないわ。
自分の可愛い婚約者さんのお守りでもしてなさいよ。私が撮影するのに、あなたに関係ないでしょ?」
祐介はどうすることもできず、根気よく愛奈をなだめるしかなかった。
若葉は二人のいざこざには関心なく、ただ目の前に広がる大平原をぼんやりと眺めていた。
どおりで、もっと外に出て自然を見たほうがいいなんて、「あの人」が言っていたわけだ。
そんなことを考えていると、不意に手がカメラの三脚に当たってしまった。レンズが少しずれ、すぐに祐介の氷のように冷たい叱責が飛んできた。
「俺の仕事道具に勝手に触るなと、言わなかったか?」
祐介は若葉のもとに歩み寄ると、乱暴に突き飛ばした。若葉はよろけて地面に倒れ込み、手のひらをざらざらした砂で擦りむいて血が滲んだ。
若葉はぐっと唇を噛みしめた。胸は苦しいが、前のような鋭い痛みはもう感じなかった。
「きゃっ!」
声のした方へ皆が目をやると、愛奈がカメラの前で呆然と立ち尽くしていた。
「祐介、ごめん……あなたが前に編集してくれた素材のマスターデータを、間違えて全部消しちゃった……
怒らない……よね?」
周りの皆は息をのんだ。誰もが、祐介が仕事を命のように大切にしていることを知っている。こんなに重大なミスを犯したら、誰だってこっぴどく怒鳴られるはずだ。
しかし祐介は愛奈の前に立つと、軽くその鼻を指で弾いただけだった。
「怒るわけないだろ。データが消えたなら、また編集し直せばいいだけだ。
おっちょこちょいだな。次からは気をつけろよ」
若葉は、自分の擦りむけた手のひらを見つめた。さっきは痛くなかったはずの傷が、今はひどくズキズキと痛んだ。
何日も待ち続けたが、祐介が狙っていた映像はまだ撮れていなかった。そんな中、リュックに入れてきた喘息の薬がなくなりそうになったので、若葉は祐介に、先に帰らせてもらえないかと頼んだ。
すると、祐介は眉をひそめて言った。
「来たいと言ったのも君だし、帰りたいと言い出したのも君だ。
最初から連れてくるんじゃなかった」
「まあまあ、女の子がわがまま言うのは普通でしょ?ねえ、若葉?」
「ふん、あんな女、甘やかすつもりはない」
若葉は悔しかった。でも、心の中の失望はとっくに限界を超えていたから、もう祐介の言葉で傷つくことはなかった。
「今すぐ帰るわ」
祐介が何か言いかけたその時、ファインダーの中に、何日も待ち続けた獲物の姿が突然現れた。
ハイエナの群れが、逃げ惑う一頭のエゾシカを追い詰めていた。
祐介は大喜びした。カメラを担いでゆっくりと近づこうとしたが、愛奈はとっくに彼を追い越し、もっと良い撮影ポジションを探しに行っていた。
「祐介、今回こそあなたより良い映像を撮ってやるんだから!」
愛奈がほくそ笑んでいたその時、一頭のハイエナが彼女の匂いを嗅ぎつけた。
次の瞬間、ハイエナは愛奈めがけて一直線に突進してきた。
第9話
「危ない!」
その瞬間、祐介は愛奈のそばに飛びつき、手に持っていたたいまつを燃やしてハイエナを追い払った。
若葉は、ただ呆然と立ち尽くしていた。こんなにも残酷で血なまぐさい光景は初めてで、恐怖で頭が真っ白になってしまったのだ。
狙っていた獲物を食べ損ねたハイエナは、なんと向きを変え、怪我をしていた若葉に狙いを定めた。
若葉の手のひらの血の匂いがハイエナを刺激したのだ。そいつは大きな口を開け、若葉に飛びかかってきた。
反応する間もなく、ふくらはぎに肉が引き裂かれるような激痛が走った。若葉が下を見ると、ハイエナがそのふくらはぎに食らいつき、力いっぱい肉を食いちぎっていたのだ。
「きゃああああっ!!!」
悲痛な叫び声があたりに響き渡った。若葉は痛みで意識を失いかけ、血が流れ続ける傷口が、さらに多くのハイエナを呼び寄せてしまった。遠くから、ハイエナたちがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「祐介……助けて……」
若葉は絶望しながら狂った獣を叩いたが、ふと振り返ると、祐介が気絶した愛奈を支え、その場を離れていくところだった。
その瞬間、若葉の心は完全に冷え切ってしまった。
激しい痛みが若葉の全身を襲い、大量の出血で顔は血の気を失っていた。
祐介は愛奈を安全な場所に降ろすと、ようやく目を赤くして引き返してきた。
パン!パン!
誰かがハイエナに数発の銃弾を撃ち込んだ。血に飢え狂っていたハイエナは、その場に倒れ込んだ。その銃声に驚き、周りにいた獣たちも逃げていった。
この時、若葉はすでに虫の息で、全身が血まみれになっていた。
「早く!早く病院に運べ!」
全身を噛まれて傷だらけになった若葉は、最寄りの病院に救急搬送された。しかし、出血がひどく、医者はみんなに適合する血液がないか尋ねた。
「血液バンクのAB型の在庫が足りません。この中にAB型の方はいらっしゃいますか?」
人混みの中から誰かが言った。「平野さん、確かO型だったよね?
誰にでも輸血できる血液型じゃない?」
献血と聞いて、愛奈は顔を真っ青にし、思わず祐介の後ろに隠れた。
「やっぱり、ダメ……
わ、私、痛いのはちょっと……」
医者は愛奈の様子を見て、焦りを隠せないようだった。
「患者さんは深刻な貧血状態で、緊急を要します。今すぐ輸血しないと命に関わります!」
医者が言い終わる前に、祐介は愛奈の前に立ちはだかった。
「彼女が痛いのは嫌だって言ってるのが聞こえないのか?」
そして、祐介は振り返って愛菜を慰めるように言った。「大丈夫だよ。君が嫌なら、誰も無理強いはできない」
医者は、人の命をここまで軽んじる人間を初めて見たようで、呆れて首を振りながら手術室へ入っていった。
結局、同行者の中にAB型の人がいてくれたおかげで、若葉はなんとか一命をとりとめた。
若葉は、長い夢を見ていた。夢の中で9年前に戻っていた。クラスで一番ひどくいじめられていた、あの頃に。
それは、初めて祐介と出会った日でもあった。
当時の若葉は病気のため、ステロイド系の薬を服用していた。その副作用でひどく太ってむくんでしまい、クラスでずっといじめられていた。
「大丈夫か?」
絶望の淵にいた若葉に手を差し伸べてくれたのは、あの少年だけだった。
「俺は佐藤祐介。君は?」
あの夏の日、若葉は祐介という男の子に、一目で心を奪われたのだ。
「いつかきっと、祐介は私に振り向いてくれる」
しかし、思い出の中のあの少年は、背を向け、どんどん遠くへ行ってしまう。
若葉は涙を浮かべたまま、ぼんやりとした意識の中で目を覚ました。うっすらと目を開けると、そこには二人が絡み合う姿があった。
「君が他の男と結婚するなんて、俺が許さない」
祐介は目を赤くしながら、愛奈を激しく、情熱的に抱きしめてキスをしていた。
「俺が許さない……」
若葉はしばらくその光景を見ていたが、静かに目を閉じた。ベッドに横たわる彼女の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちたことに、誰も気づかなかった。
第10話
若葉の体がすっかり元に戻ったころには、祐介との結婚式がもうすぐそこまで来ていた。
まだ渡していない婚約解消の書類をながめながら、ちゃんとお別れをしようと決心した。
住所を頼りに祐介のアトリエの前に着き、ドアを開けようとした瞬間、中からくぐもったあえぎ声が聞こえてきた。
若葉がドアの隙間からのぞきこむと、祐介がこちらに背を向けて座っているのが見えた。彼の手はリズミカルに上下していて、目の前のモニターには、愛奈とのベッドシーンの動画が再生されていた……
祐介は愛奈の名前を呼びながら、動画をおかずに自分を慰めていた。
若葉は必死に自分の口をふさぎ、静かに涙を流した。
心はとっくに痛みに麻痺していたはずなのに。それでも若葉は、祐介が愛奈に向ける狂おしいほど深い愛に、胸が張り裂けそうだった。
だったら、どうして自分とのお見合いを受けたの?
どうして、期待させるようなことをしたの?
もし医者から直接聞いていなければ、決して信じられなかった。自分が死にかけている時に、祐介は自分を見捨てただけじゃない。その上、愛奈の気持ちまで心配していたなんて。
ここまで来て、若葉はついに一つの事実を認めざるを得なかった。
心の中にいた祐介、あの頃、自分をどん底から救ってくれた少年は、もういなくなってしまったのだと。
そう思うと、若葉はすぐにその場を立ち去った。
考えてみれば、明後日は「あの人」が迎えに来てくれる日だ。
祐介が帰ってきたのは、もう夜も更けたころだった。若葉が荷造りをしているのを見て、怪訝な顔で言った。
「どこに行くつもりだ?」
「あなたには関係ないでしょ」
「もうすぐ結婚するんだぞ。いつまで機嫌を損ねてるんだ?」
「私が、機嫌を損ねてる?」
若葉は皮肉な笑みを浮かべると、祐介の顔を指さして、はっきりと言った。
「私がハイエナに襲われていた時、あなたは何してたの?
私が死にかけていた時、あなたは何してたの?
あなたは、愛奈に向ける優しさの、ほんの少しでも私にくれたことがあった?
あなたに私をとやかく言う資格なんてない」
「あれは本心じゃなかったんだ。誤解しないでくれ……」
「そう?もしあの時、ハイエナに襲われていたのが愛奈だったら?あなたはどっちを助けた?」
祐介は黙りこくった。
答えは、火を見るより明らかだった。
若葉が出て行こうとするのを見て、祐介は初めて自分から彼女の手を掴み、優しい口調で言った。
「俺が悪かった、それでいいだろ?
機嫌を直してくれよ。次の作品には、君の名前もちゃんと載せるから。それから……
愛奈は今、別のことで忙しいんだ。だから、彼女の代わりに論文を書いてくれないか?」
若葉は、とんでもない冗談を聞いたかのように、目を大きく見開いた。
「今、なんて言ったの?」
「後で、愛菜からちゃんとお礼をさせるから」
その悪びれない様子を見て、若葉はあの胸くそ悪い動画のことを思い出し、にやりと笑って言った。
「いいわよ」
愛奈に、一生忘れられない論文をプレゼントしてやろう。
祐介は満足げに去っていった。若葉は冷たく鼻を鳴らし、翌日には家を出ることを決意した。
翌日、若葉は朝早く起きた。すぐに出発できるように、必要な手続きを済ませに行くつもりだった。
だが、家を出て間もなく、後ろから誰かに口をふさがれた。
……
「な、何するの!?」
若葉が閉じ込められたのは、廃工場だった。犯人の男たちはマスクを外すと、得意げに愛奈に電話をかけた。
「ほら、こいつで間違いないか?」
愛奈は満足そうに、わざとスピーカー越しに聞こえるように甲高い声で言った。
「そうよ。
若葉、あなたみたいな女を、祐介先輩と結婚なんてさせないから!」
その声は、まるでナイフのように鋭かった。
「どう思う?祐介先輩が助けに来るのは、男に弄ばれたそっち?それとも、好きでもない男と無理やり結婚させられる、この私?」
「どういうこと?」
愛奈はクスっと笑って言った。「祐介先輩に電話してみればわかるでしょ?」
犯人はわざとらしく若葉にスマホを渡した。
しかし、若葉が何度かけても、祐介は一向に電話に出なかった。
若葉が絶望に打ちひしがれていると、裕介はポケットの中のスマホに誤って触れてしまい、偶然にも電話がつながった。
「祐介さん、本気で結婚式に乗り込むのか?
明日、あなたは若葉さんと結婚式だろ?彼女が騒ぎ立てたらどうするんだ?」
電話の向こうから、遠くてはっきりしない祐介の声が聞こえてきた。
「愛奈が、どこの馬の骨ともわからない男と結婚するのを、黙って見てるなんて……
俺にはできない。
だけど、若葉は違う。あいつは9年も俺のことだけを想ってきたんだ。問題を起こしたりしない。
昨日だって、愛奈の論文を手伝うって約束してくれたしな」
それを聞いて、周りにいた人たちが口々に言った。
「筋金入りの追っかけだな!」
その言葉を聞いて、若葉は皮肉な笑みを浮かべた。
涙が、予期せずこぼれ落ちた。
若葉は自ら通話を終了した。
電話の向こうで、愛奈が得意げに最後の指示を出した。
「その女はあなたたちで好きにしていいわ。私は祐介先輩が迎えに来てくれるから」
犯人たちは電話を切ると、下卑た笑みを浮かべて襲いかかってきた。
若葉は絶望し、固く目を閉じた。
しかし、しばらく経っても何も起こらない。おそるおそる目を開けると、見慣れた姿がそばに立っていた。目の前には、苦しみもだえる犯人たちが転がっていた。
「どうして、そんなボロボロになってるんだ?」
男は若葉の手錠を外し、心配そうに言った。「若葉、大丈夫か?」
若葉は、命が助かった喜びに満たされながら尋ねた。「どうして私がここにいるってわかったの?」
男は短く答えた。「GPSだよ」
若葉は深呼吸して、興奮をなんとかおさえた。「行こう」
「そうだ、さっきの通話、ちゃんと録音できてる?」
若葉は目を細めて答えた。「もちろん」
愛奈と祐介には、必ず報いを受けさせてやる。
でも、その前に。若葉はあの二人への復讐の始まりとして、ちょっとしたプレゼントを贈ることにした。
若葉は「論文」と動画をひとまとめにし、愛奈のアカウントから大学のサーバーに投稿した。タイトルは『先輩との恋愛日記』だ。
祐介、愛奈を心から愛しているんでしょ?
だったら、その報われない愛を、みんなに祝福してもらいなさいよ。
もう、二度とあなたを愛すことはない。