遠き海原に揺れる灯火

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遠き海原に揺れる灯火

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瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。 たとえば、婚約者の須藤準一(すどう ...

Chương (1)

第1章

瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。 たとえば、婚約者の須藤準一(すどう じゅんいち)が、つい先ほど別の女性と婚姻届を提出したことについても―― …… 美夕はベッドの端に腰を下ろすと、その美しい瞳はうつろに前方を見つめていた。まるで本当に何も見えていないかのように。 ところが、準一のスマホの画面が新しいメッセージで光った瞬間、彼女の視線はぴたりとその内容を捉えた。 【準一!嬉しくて一秒だって待てない。ずっと一緒にいたい】 送信者は河野玲子(かわの れいこ)だ。 心底では冷ややかな笑いがこみ上げる。彼女は手探りで準一のスマホを取り上げ、さりげなく指先で画面をタップした。音もなくロックが解除されると、そのまま彼と友人のトーク画面を開いた。 ほんの一瞥しただけで、頭の中がゴーンと爆発するような衝撃に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。 【体が回復したばかりなのに、こっそり玲子さんと婚姻届を出したなんて、美夕さんに申し訳ないと思わないのか!】 第1話 瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。 たとえば、婚約者の須藤準一(すどう じゅんいち)が、つい先ほど別の女性と婚姻届を提出したことについても―― …… 浴室の中から、絶え間なく水の音が響いている。 美夕は静かにベッドの端に腰を下ろすと、その美しい瞳はうつろに前方を見つめていた。まるで本当に何も見えていないかのように。 ところが、準一のスマホの画面が新しいメッセージで光った瞬間、彼女の視線はぴたりとその内容を捉えた。 【準一!嬉しくて一秒だって待てない。ずっと一緒にいたい】 送信者は河野玲子(かわの れいこ)だ。 心底では冷ややかな笑いがこみ上げる。それでも彼女は、従順で無垢な表情を崩さなかった。 彼女は手探りで準一のスマホを取り上げ、さりげなく指先で画面をタップした。音もなくロックが解除されると、そのまま彼と友人のトーク画面を開いた。 ほんの一瞥しただけで、頭の中がゴーンと爆発するような衝撃に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。 【あの時、もし玲子にそそのかされて暴走運転なんかしなければ、お前が脊椎を損傷して丸四年も寝たきりになることはなかったはずだ!】 【お前が事故を起こした直後、あの女はすぐに海外へ逃げたんだ。ずっとそばで看病してきたのは美夕だぞ。お前を救おうとして彼女は視力まで失ったんだ!】 【ようやく身体が回復したばかりなのに、こっそり玲子と入籍するなんて、美夕に顔向けできるのか!】 相手の怒りに満ちた言葉が今にも画面から飛び出しそうだった。だが、準一の返信は冷ややかで、あまりにも当然のようだった。 【もう、これでいいんだろう?玲子は俺の子を身ごもってるんだ。彼女に立場を与えねばならない……だが、これからも俺はずっと美夕のそばにいるよ】 【一週間後には、これ以上ないほどの盛大な結婚式を挙げてやる。それでも、この四年間の償いにはなりやしないというのか?】 【そもそも、あいつは目が見えないんだ。俺以外の誰が受け入れるというんだ?】 美夕の目はその数行の文字を釘付けにし、やがて視界が霞んで、それ以降の会話は一切頭に入らなくなった。指先から力が抜け、携帯電話がばたりと柔らかい布団に落ちた。彼女の体はぐったりとその場に崩れた。 ――まさか、自分の婚約者がすでに別の女性と籍を入れ、しかも子どもまでいたなんて。 じゃあ、私はいったい何だったの? この四年間、昼夜を問わず寄り添い続けた日々は一体なんだったのか? 一週間後に控えた結婚式に、今さら何の意味がある? 浴室から響いていた水音が、ぴたりと止まった。 美夕は、胸を抉るような衝撃からまだ立ち直れずにいた。そこへ、腰にゆるくバスタオルを巻いただけの準一が現れ、濡れた上半身にはまだ水滴が残り、そのまま一歩、また一歩と彼女に近づいてくる。 彼の温もりを宿した手のひらが、そっと彼女の頬に触れた。懐かしいその感触なのに、今は全身がこわばってしまった。 準一が口を開こうとしたその瞬間、特別な着信音が突然響き渡った。 彼は画面を見下ろすと、表情をほころばせて柔らかく微笑んだ。そして美夕の隣に腰を下ろし、指先をせわしなく動かして返信を打ち始める。すぐ傍で彼女に起きている異変など、全く目に入っていない。 画面には、玲子からのメッセージが浮かび上がり、美夕の目に焼きついた。 【準一!お腹の中の赤ちゃんが、パパに会いたがっているみたい。いつになったら私たちに会いに来てくれるの?】 美夕は両手を無意識に握りしめていた。爪が掌に深く食い込み、鋭い痛みがこれが夢ではなく現実であると、容赦なく突きつけてくる。 準一は返信を終えると、口元にまだ微かな笑みを残したまま、焦ったような口調で言った。 「美夕、ちょっと急用ができた。夜には戻るから、何かごちそう買ってくるね」 彼は言い終わらないうちに服をつかみ、慌ただしく身にまとうと、振り返りもせずに部屋を出ていった。 美夕は、がらんとした寝室に一人取り残された。閉ざされたままの扉を眺めながら、彼女はふっと、嗤うように低く笑った。その笑い声には、自嘲と悲しみがにじんでいた。 彼女の失明が最初から全部演技だということ、準一はまったく知らない。 彼女が準一に密かに思いを寄せるようになったのは、大学一年生のときからだ。 四年前、彼が事故に遭ったと聞きつけるや、彼女はすべてを投げ打って彼の元へ駆けつけ、その後、昼も夜も側を離れず看病に明け暮れた。 彼女は毎日決まった時間に準一の身体を拭き、薬を飲ませ、マッサージを施し、少しずつ彼の氷のように閉ざされた心を溶かしていった。 時が流れるにつれ、二人の心は少しずつ近づいていった。 その後、準一の容体は落ち着きを見せ始めたが、過酷なリハビリが彼を幾度も絶望の淵へ追いやった。 彼は自信を失い、絶望し、何度も心が折れ、命を絶とうとしたことさえあった。 その痛ましい姿を見るたびに、美夕は彼の苦しみをすべて自分が代わって背負いたいと願った。 一年前、準一が階段から転落したとき、助けようと身を挺した美夕の額は、階段の角に激しく打ちつけられた。 その瞬間、彼女の胸をひとつの思いがかすかに掠めた―― もし私も障害者になれば、準一は少しばかり慰められるだろうか。 そう思った美夕は、視力を失って、もう何も見えないと嘘をついた。 案の定、準一は彼女の手を握りしめ、目に涙を浮かべ、声を詰まらせながら言った。 「美夕、これからは俺がお前の目になる。一生、お前を見守っていく……」 その日を境に、彼は再びリハビリへの闘志を燃やし、半年後には奇跡のように健康を取り戻し、普通に歩けるようになった。 その瞬間、美夕はこれまでのすべての努力が報われたのだと感じた。 だが、今になってようやく悟った。四年間のひたむきな想いと、数えきれない夜の見守りは、準一が回復した途端、かつて彼を見捨てた玲子の存在に、あっけなく敗れてしまったのだ。 胸の奥が鋭く痛んだ。息が詰まるほどに。頭の中には一つの思いが渦巻いている――ここを離れよう、準一から離れよう。 美夕は深く息を吸い込み、震える指先で自分のスマホを取り、通話ボタンを押した。 「先生、この前お話があったミラノの仕事、挑戦してみたいです」 第2話 電話の向こうで、先生の声が一気に高まり、驚きと喜びが溢れていた。 「瀬戸さん、やっと決心がついたんだね!あのチームのチーフデザイナーは君の作品を最高評価してたよ。その感性は応募作の中で抜きんでていたよ。本当にミラノでやっていく覚悟、ある?」 美夕はまつげを伏せ、一語一語、噛みしめるように言った。 「もう決心しました」 電話の向こうが一瞬静まり、すぐに抑えきれない興奮した声が伝わってきた。 「よし!すぐにスタジオに連絡する。五日後、盛大な歓迎会を開いてあげるから!」 美夕はベッドの上の壁に飾られた、彼女と準一との写真に視線を向けた―― 五日後、本来なら彼女と準一の結婚式が行われるはずの日だ。 彼女の瞳の輝きが少し色を失い、声に思わず苦味を滲ませながら、そう答えた。「承知しました。五日後にお会いしましょう」 電話を切ると、鼻の奥がつんと痺れ、目頭が熱くなるのを感じた。 この四年間の出来事が、波のように押し寄せてくる。 二人で乗り越えた苦しい日々、彼が耳元でささやいた優しい言葉――それらのすべてが、今では胸に刺さる棘と変わっていた。 ピンポーン―― スマホの通知音が彼女の思考を遮った。 ウェディングドレス店の店員から、音声メッセージが届いていた。 「瀬戸様、店長からお願いがございます。瀬戸様のウェディングドレスデザインの著作権を、市場価格の三倍で購入させていただけませんでしょうか。本日ご主人様がお受け取りになりましたあのドレスの、特にトレーンの独創的なデザインに見入ってしまいまして……ぜひともお譲りいただければ幸いです」 美夕は返信する気にもなれなかったが、その直後、玲子が新しい投稿をアップしたのが目に入った。 彼女の胸が一瞬、ふさがった。指先を震わせながらメッセージを開くと、自分がデザインしたあのウェディングドレスを玲子が着ている姿の写真があった。 3メートルの長さに数えきれないダイヤが散りばめられたマーメイドラインのトレーンは眩い光を放ち、丁寧に整えられた裾は完璧な形を描いていた。玲子は明るく輝く笑顔を浮かべ、片手をお腹に優しく置いている。次のキャプションを添えている。 【彼氏が特製のウェディングドレスでプロポーズしてくれた。今まで最高の贈り物!】 美夕はその写真を見つめ続け、ついに堪えきれず、涙が一筋こぼれた。ぽたりとスマホの画面に落ち、小さな染みを広げていく。 そのウェディングドレスは、彼女が三か月もの間、寝る間も惜しんでやっと完成させたものだ。 準一に気づかれないようにするため、彼が眠りについたあと、毎晩書斎でスタンドの微かな灯りを頼りに図面を描き続けていたのだ。 マーメイドラインの裾にあしらわれたダイヤは、彼女がスーツケースを引きずりながら宝石市場を巡り、丹念に一粒一粒選び抜いたものだ。 このドレスの全ての縫い目に、彼女の未来への希望が込められている。 彼女はデザインを完成させた際には、特にウェディングドレス店に口止めを依頼し、これは店舗専用デザインで、オーダーメイドが必要なものだと伝えていた。 デザイン画を目にした準一は、目を細めて、「……お前にぴったりなデザインだ。視力を失っても、センスは変わらずいいな」と言ってくれた。 だが実際には、彼女が宝物のように大切にしていたデザインは、準一にとって別の女性を喜ばせるための道具にすぎなかった。 彼女が長年夢見てきたウェディングドレスは、玲子にとって、ただのサプライズでしかなかった。 美夕は頬を伝う涙を拭い、立ち上がってクローゼットの前に歩み寄り、スーツケースを取り出して開けた。 もういい。このウェディングドレスは、どうせ私が着ることはないのだから。 準一がそれを玲子に渡そうと、あるいは他の誰かにあげようと、私にはもう関係のないことだ。 荷物を片づけている途中で、スマホが再び鳴った。準一からの音声メッセージだ。 再生すると、男の優しい声には、どこかそっけない響きが混じっていた。 「美夕、大切な取引先の接待がある。俺を待たないで、先に夕食を食べててね」 その後、一本の動画が添付されていた。 動画には、豪華に飾られた個室で数人が輪になって騒いでいる様子が映っていた。 準一は中央に座り、玲子を抱きしめ、手を彼女の腹に添えていた。 玲子の甘ったるい声が画面越しに響いた。 「準一さん、ただ妊娠しただけなのに、そんなに大げさにお祝いしなくてもいいのに。子どものお宮参りの宴を開くときに、みんなを招けばいいじゃない」 動画が最後まで再生される前に、画面は突然消えた――準一がメッセージを取り消したのだ。 続けて、もう一つ音声メッセージが届いた。 「美夕、さっき友人の動画を誤ってお前に転送してしまったんだ。開いてしまった?」 準一の探りを含んだ声を聞きながら、美夕はすぐに画面を消し、スマホを脇に放り出して荷造りを続けた。 スーツケースに服を詰めるたびに、美夕の思考も少しずつまとまっていった。 きちんと整頓された荷物の前に腰を下ろし、スーツケースの中にしまい込まれたパスポートを見つめていると、心が次第に曇りなく晴れていくのを感じた。 あと五日で、完全に離れられる。 窓の外は次第に暮れていき、美夕はベッドに横たわり、何度も寝返りを打ちながら眠れぬ夜が続いた。 彼女はスマホを手に取り、タイムラインを開くと、玲子の新しい投稿が目に入った。 添えられた言葉にはこう書かれている。 【人はいずれは、運命の人と結ばれるものだ】 写真の中で、準一と玲子は固く抱き合い、ペアリングをはめた手を高く掲げていた。 涙で視界がぼやけ、それが果てしなく頬を伝う。ひとしずくごとに、声にならない絶望と、心の破片を運んでいくようだ。 そうか、玲子は準一の運命の人か。 どれほど泣いたのかも分からない。声はかすれ、目は腫れ上がって痛んだ。やがて涙も枯れ、疲れが一気に押し寄せると、彼女は目を閉じ、意識が闇の中に途切れた。 第3話 朝、美夕は強い香水の香りの中で目を覚ました。 その甘く濃厚なフローラルフルーティーの香りが、昨夜、準一が他の女性とどれほど親密に絡み合っていたかを、静かに物語っている。 彼女が指先をわずかに動かした途端、隣のマットレスがかすかに沈むのを感じた。 するとすぐに、温かな腕が懐かしい仕草で、そっと彼女を優しく引き寄せ、指先は軽くはらをくすぐるように愛撫した。 かつては慣れ親しんだあの愛撫も、今の彼女には吐き気をもよおすほどにしか感じられなかった。 美夕は激しく体をよじらせ、躊躇いなくその手を振り払うと、すぐに身を起こして布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りようとした。準一のいるこの場から、一刻も早く逃れ出たかったのだ。 予想外の反応に、準一の顔には一瞬、驚きの色が走った。 彼は慌てて追いかけると、美夕の手首をしっかりと掴んだ。その動作には、本人さえ気づかないような本能的な慰めの色合いがにじんでいた。 「美夕、昨日帰らなかったのは俺が悪かった。お前の好きなあの店の、胃に優しい薬膳スープを買ってきたんだ。許してくれないか?」 そう言って彼は手を放し、ベッドサイドのテーブルから保温容器を取り上げた。蓋を開けると、湯気の立つスープが美夕の目の前に現れ、香りがふわりと広がった。 美夕はそのスープを見つめ、苦々しく口元を引き上げて冷ややかに言った。 「いらない。今は食欲がない」 この四年間、彼女は準一の世話をするため、不規則な食生活を続けた結果、重い低血糖を患っていた。 半年前に準一がその事実を知ってから、常に飴を持ち歩き、自ら料理を作って美夕の食事を見守るようになった。 今でもダイニングの冷蔵庫には、彼が書いた【美夕が食べてはいけないもの】と記したメモが貼られており、一番上には【美夕は海鮮アレルギー!!】という文字を赤ペンで大きく囲んでいる。 この半年の間、家の中には海鮮に関するものが一切現れなかった。 しかし今、準一が手にしているこの海鮮入りの「胃に優しい薬膳スープ」は、それがまるで無言の宣告のようなものだ── 準一はもう彼女に関することをすべて忘れ、もはや気にかけてもいないのだ。 美夕は目の前の準一を振り払うように押しのけ、まっすぐにリビングへ向かった。その足取りは速く、ただできるだけ早く準一との距離を取ろうとしているかのようだ。 しかしリビングに足を踏み入れた途端、彼女はぐらりとめまいを覚えた。頭全体がぎゅっと締めつけられる風船のように、今にもはじけそうな感覚だ。額に冷たい汗がにじみ、両手の震えが止まらない。 彼女は部屋に戻り、常備しているフルーツキャンディを取ろうとしたが、足に力が入らず、今にも膝をつきそうだ。 準一は彼女の背中が小さく丸まっているのを見て眉をひそめ、歩み寄ろうとした。 そのとき、外からはっきりとした大きなノックの音が響き、彼の足が止まった。 「準一!早く開けて!あなたが一番好きな羊羹を買ってきたの!」 準一は振り返って美夕を一瞥し、ほんの二秒ほどためらっただけで、すぐに玄関へと駆け出した。 美夕は必死で体を支えながら、準一が玲子の手から袋を受け取り、親しげに言葉を交わす様子を見つめていた。頭の痛みは、ぼんやりと遠のいていくのを感じた。 彼女は身をかがめ、足を引きずりながら一歩一歩部屋へ戻った。震える手でキャンディーの包みを開け、甘さが舌の奥に広がる。しかし、その甘味では、体の奥深くに根を張った苦みを覆い隠すことはできなかった。 美夕は冷たいベッドの隅で身を縮こませ、目を固く閉じ、両手で耳をふさいだ。外の世界のあらゆる音を遮断しようとして。 それでも、リビングから聞こえてくる玲子の甘えた声は、針のように彼女の耳を刺しつづけた。 「あなたって本当に冷たいわね。朝っぱらから姿を消すなんて、私、すっかり寂しくなっちゃったの」 「やめてくれ……美夕はまだ部屋にいるんだ……もし気づかれたらまずい……」 準一の声は低く押し殺されていたが、それでもはっきりと聞こえてきた。 玲子は軽く笑うと、まるで何でもないことのように言った。 「何をそんなに怖がってるの?声さえ出さなければいいんでしょ。どうせ見えないんだから……」 続いて、衣擦れのかすかな音と、胸がむかむかするような湿った接吻の音が響いた。 美夕の身体は硬直し、爪が掌に深く食い込んだ。 突然、準一は何かを感じ取ったかのように顔を上げ、半開きの寝室の扉を見つめた。 彼はほとんど反射的に、身にまとわりつく玲子を押しのけると、慌てて襟元を整え、足早に寝室へと歩み入った。 ベッドサイドのテーブルに置かれた破れたキャンディの包み紙を見つけ、準一の顔には思わず、心配と罪悪感が入り混じった表情が浮かんだ。 彼は急いで外から温かい蜂蜜水を淹れて持ってきて、優しくスプーンで少しずつ美夕の口元へ運んだ。その甘い味は、かつてとまったく同じ。 美夕は彼を見つめながら、ふとした瞬間、時が半年前へと巻き戻ったような錯覚にとらわれた。 あの頃、彼女が低血糖の発作を起こすたびに、準一は必ず温かい蜂蜜水を淹れ、ベッドのそばに片膝をついて、優しく一口ずつ飲ませてくれたのだ。 ふと、その瞬間、死んでいたはずの彼女の心に、微かな波紋が広がった。消えかけた火種が、再びかすかな光を灯すかのように。 しかし次の瞬間、準一のスマホがチンと音を立て、画面がぱっと明るくなった。美夕がさりげなく目をやると、そのメッセージがくっきりと目に入ってきた。 【旦那さん、この目の見えない人にそこまで優しくするなんて、私が嫉妬しちゃうよ!】 準一はそのメッセージを見た途端、反射的にカップを置き、スマホを手に取って、指先で素早く返信を打ち始めた。 【玲子、もうやめるから、これからは玲子だけに優しくするから、ね?】 メッセージを送信し終えると、彼は美夕に一瞥もくれず、足早にリビングへ向かい、玲子をなだめに行った。 ドアが勢いよく閉まり、鈍い音が響いた。その音とともに、美夕の胸の中に残っていた最後の微かな光も完全に消え去った。 美夕はスマホを手に取り、画面に映る日付を見つめた―― あと三日で、この場所を永遠に離れられるのだ。 めまいが再び襲い、胸の奥に痺れるような虚ろな痛みと溶け合っていく。 心身を限界までむしばむ疲労と苦痛に視界が暗転し、意識は徐々に遠のいていった。やがて彼女は、不穏な眠りの底へと沈みこんでいった。 第4話 どれほど眠っていたのかもわからないまま、美夕はかすかな物音に目を覚ました。 ゆっくり目を開けると、寝室はもう暗くなっていて、窓の外から差し込むわずかな明かりが床に細い光の筋を作っていた。そのほのかな光が、部屋の片隅をかすかに照らしている。 美夕はがらんとした部屋を見つめながら、まるで胸の奥まで少しずつ空洞になっていくような感覚を覚えた。 そのとき、静まり返った寝室に突然、スマホの着信音が鳴り響いた。 準一からの音声メッセージだ。その声には、どこか不自然で、作りもののような優しさがこもっていた。 「美夕、昼間は怒らせて悪かった。お詫びにサプライズを用意したんだ。迎えの者を手配したから、もうすぐそっちに着くよ」 音声が途切れるとほぼ同時に、外から騒がしい声が聞こえてきた。 美夕がリビングへ向かうと、準一といつもつるんでいる友人たちが勢いよく部屋へ押し入ってくるのが見えた。彼らは美夕を真ん中に囲み、からかうような笑みを浮かべた。 「瀬戸さん、ぼうっとしてないで。準一さんが向こうで待ってるぞ!」 美夕は着替えをしたいと言う間もなく、左右から二人に腕を取られ、半ば引きずられるようにして玄関の方へと連れ出された。 腕を掴まれたところが痛くて、彼女は必死にもがき、振りほどこうとした。しかし、そのうちの一人が苛立ったように彼女を押した。 「ぐずぐずすんなよ、瀬戸さん。準一の気持ちを無駄にするな」 車は猛スピードで走り抜け、瞬く間に豪奢な内装の会員制クラブの前で止まった。 車から引きずり降ろされると、男たちは美夕の抵抗を押し切り、そのまま個室の前へと連れて行った。 次の瞬間、そのうちの一人が勢いよく扉を開け、美夕の背を押して中へと押し込んだ。 状況を理解する間もなく、耳元で一斉に破裂音が炸裂した。風船の破片がぱらぱらと顔に降りかかり、その音は鼓膜を突き破るかのように響いた。美夕はその場に凍りつき、耳鳴りの中に人々のどっと湧く笑い声が混ざり合った。 「ようこそ、瀬戸さん!これは俺たちが特別に用意した歓迎のプレゼントだ!」 準一が口元に微笑を浮かべながらゆっくりと歩み寄り、指先で彼女の髪に絡んだ破片をそっと取り除いた。 「みんながただふざけてるだけだよ。お前が穏やかな性格だって知ってるから、つい調子に乗ってしまったんだ。気にしないで」 その言葉が終わらないうちに、周りの人々は目配せを交わしながら一斉にスマホを取り出し、指先でせわしなく画面を操作し始めた。 準一は美夕の手を引いて空いた席に腰を下ろし、自分もスマホを取り出してうつむき加減にメッセージを打ち始める。 美夕は何気ないふりをしながら、ちらりと彼の画面を覗いた。 【まったくつまらないな、失明者と一緒じゃ、いちいち解説役でもつけてやらなきゃならないんじゃないか?ははは】 【そうだよな、あんな調子で、ベッドの上で相手が変わっても気づくのかね?】 個室の一同は、堰を切ったように嘲笑が沸き起こった。 準一はまるで何も見なかったかのように、スマホを卓上に放り出し、眉間に皺を寄せながら言った。 「もういいだろ、やりすぎだ。お前ら二人、俺と一緒に車に行って荷物を取ってこい」 美夕は喧噪に包まれながらも、ただ体の芯まで冷えていくのを感じていた。 彼女はテーブルに手をついて立ち上がり、出口へと歩き出そうとした。 一秒たりとも、ここにはいたくない。 「ねえ、行かないでよ、美夕さん!」 玲子が慌てて彼女の前に立ちはだかり、言葉をかけながら、美夕の手にそっと寿司を乗せた。 「たとえ準一さんのことがどんなに腹立たしくても、自分の体を粗末にしちゃだめよ。少しでもいいから食べなきゃ」 玲子がそう言い終えると、残りの数人に目配せをすると、後ろの人たちはすぐに冗談半分に騒ぎ立てた。 「そうだよ、瀬戸さん、少しは食べなよ」 「そうそう、低血糖なんか起こしたら大変だぞ」 彼らの顔には悪意が隠そうともなく浮かんでいたが、美夕はまるで見えないふりをして、そのまま出口へ向かって歩き出した。 しかし一歩踏み出したところで再び数人に行く手を塞がれた。玲子の声には挑発めいた響きが混じっていた。 「美夕さん、せっかく来てくれたのに、すぐ帰るなんてさ……私たちと一緒にいるの、楽しくない?」 美夕は視線の端で寿司の上のエビを捉え、氷のように冷たい声で言った。 「それを食べたら、帰してくれるの?」 玲子は口元に得意げな笑みを浮かべ、瞳の奥には冷たい計算が光っていた。 「あなたの体が心配なのよ、美夕さん。食べたらもう帰っていいわ」 言葉が宙に消えるより早く、美夕は寿司を一口で飲み込むと、いきなり玲子を押しのけた。後ろも振り返らず、ためらうことなく扉に向かって歩き出す。その背中には、一片の逡巡もなかった。 個室の扉を出た途端、美夕は指先を喉に押し当てた。胃液が逆流し、喉元に灼熱感が走る。体は意志とは無関係に震え始め、止めようがない。 壁に身を寄せると、顔が青ざめていくのを感じた。幾度かむせ返るように嘔吐を催したが、空っぽの胃が痙攣するだけで、何も出てこない。 皮膚の下を無数の蟻が這いずり回るような、疼くような感覚。やがて腕に、ぽつりぽつりと赤い発疹が浮かび上がってきた。 全身の力が抜け、美夕は壁にもたれたまま、ゆっくりと崩れ落ちるように床に座り込んだ。小さく身を丸めると、意識は次第にかすみはじめる。 耳元で響いていた玲子や周囲の嘲りの声は、遠くへと消えていった。残されたのは、耳鳴りのようなかすかなざわめきだけ。身体は鉛のように重く、意識が完全に闇に沈むその瞬間―― 彼女の目の前に、準一の顔がふっと浮かび上がった。あの懐かしい呼び声が、まるで現実のように、しっかりと響きわたる。 「美夕!」 第5話 鼻腔を刺すような消毒液の臭い。手の甲に鋭い痛みが走り、まるで細い針で皮膚を繰り刺されているようだ。美夕は苦しげに眉をひそめ、重く閉ざされた瞼をようやくこじあけるように上げた。 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、準一の顔をやわらかく照らしている。 ぼんやりとした意識の中で、美夕の思いは一年前へと引き戻された―― あのとき、彼女は準一を受け止めた直後に意識を失った。目を覚ましたときには、まだ癒えきらぬ身体を引きずりながら、彼が頑なに傍を離れずにいる姿を見た。 彼の真剣な、時に誤解を招きかねないほどの気遣いを見て、美夕はふとした衝動から、盲目を装うことにしてしまった。 彼女の「失明」を知ったとき、準一はその手を強く握りしめ、涙をこぼしながら見つめて言った―― 「美夕、どうしてそんなに馬鹿なんだ。安心してくれ。俺たちのために、これから必ず真剣にリハビリを続ける。これからの日々は、俺がお前の目になるから」 だが今、その喜びはもう跡形もなく消えていた。 美夕の視線がゆっくりとベッド脇をなぞった。そこには、準一の腕が点滴のチューブを押しつぶすように載っている。透明なチューブの中を、暗紅色の血が管壁を伝ってじわじわと逆流し、小さな塊を作りつつある。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、美夕はそっと手を伸ばして、押さえられていたチューブを腕から抜き取った。動作は極めて慎重だったが、それでも眠っていた準一を覚醒させてしまった。 準一ははっと目を見開くと、瞳に溢れんばかりの心配を浮かべて言った。 「美夕、目が覚めたのか?どこか痛むところはない?」 準一の言葉が終わらないうちに、スマホの特殊な通知音が突然鳴り響いた。 美夕はその音を聞いても、心には何の動きもなかった。確かめようとする気持ちもなく、ただ虚ろな目で天井を見つめている。まるで何も聞こえていないかのように。 準一は届いたメッセージを見て、一瞬だけ目を泳がせた。ためらいがちに病床の美夕をちらりと見ると、口早に言った。 「ちょっと食べ物を買ってくるね」 彼はそう言い終わると、上着をひっつかんで大股で病室を去った。その間、美夕の手の甲が逆流した血で腫れ上がっていることには、最後まで気づかなかった。 その慌ただしい背中を見送りながら、美夕は深く息を吸った。点滴針の刺さっていない方の手で必死に体を起こし、枕元のナースコールボタンを押した。 看護師がドアを開けて入ってくると、彼女の手の甲の状態を一目見て、思わず声を上げた。 「点滴がこんなに逆流してる!ご家族の方か誰か、付き添いはいらっしゃいませんか?点滴の様子、誰も見ていなかったんですか?」 美夕は看護師の問いには答えず、静かに言った。 「すみません、点滴の針を抜いてもらえませんか。それと、退院の手続きをお願いしたいんです」 帰りのタクシーの中で、美夕は窓にもたれ、指先で無意識にスマホの画面をなぞっていた。 タイムラインを開くと、玲子の最新投稿が目に飛び込んできた。 写真の中では、準一が地面に片膝をつき、慎重に玲子のふくらはぎをマッサージしている。 添えられた言葉にはこう書かれている。 【妊娠中のちょっとした不調でも、この人は大慌てするの】 美夕は無表情で投稿画面を閉じ、スマホの画面を消そうとしたちょうどその時、玲子からの音声メッセージがポップアップ表示された。 彼女は一瞬ためらったが、やはり再生ボタンを押した。 玲子の甘く柔らかな声がスマホのスピーカーから流れてくる。 「美夕さん、準一さんがさっきあなたが入院してるって言ってたけど、今はもう大丈夫?本当にあの人ったら大げさなんだから。私なんてちょっとしたことなのに、すぐ大騒ぎするのよ」 その不自然に誇らしげな口調が、細い針のように美夕の胸を刺した。けれど、もはや怒る気力さえ残っていない。彼女はスマホをポケットにしまい込み、静かに窓の外へ視線を向けた。 車の速度に合わせて街路樹が後退し、木漏れ日が葉の隙間から零れ落ちてはきらめく。その眩い光に、思わず目を細めた。 車を降り、家の前まで歩いていくと、玄関先に大きな宅配の箱が置かれていた。 開けた瞬間、その中身を見た美夕の身体は、まるで時間が止まったかのように固まった。それは、彼女が自らデザインしたウェディングドレスだ。 ドレスは想像以上に美しかった。しかし、彼女はすぐに気づいた。ウエストラインが大きく緩められ、最も美しい曲線を強調すべき部分のデザインが変えられていることに。 裾のトレーンには、いくつか濃い汚れが目立ち、まるで何かに擦りつけられたかのようだ。 このドレスをデザインしていた頃、彼女は幾度となく、自分がそれを身にまとって準一の腕を取り、結婚式の聖堂へと歩んでいく姿を夢想していた。 あの時の彼女は、ただ一心にドレスの完成を待ち望み、一日も早く結婚式当日が訪れることを願っていた。 けれども、まさか自分のすべての期待を託したこのドレスが、先に別の女の手に渡り、こんなにも無残な姿にされてしまうとは、夢にも思わなかった。 美夕はウェディングドレスをぼんやりと見つめ、背後に響く足音にさえ気づかなかった。突然、誰かの手が彼女の目の前に差し出された―― 第6話 準一は美夕の手からウエディングドレスを受け取り、彼女の腕をそっと支えながら食卓へと導いた。 彼の声にはわずかに後ろめたさが漂い、できるだけ優しい口調を装っている。 「美夕、どうしてひとりで帰ってきたんだ?薬膳スープを買って来たら、お前がもう退院したって聞いて、慌てて戻ってきたんだよ。ひとりで何かあったらどうする?」 そう言いながら、彼は温かい薬膳スープを美夕の前にそっと押し出し、さらにスプーンを取って彼女の手に渡した。 「病み上がりなんだから、まずはこれで体を温めて。体が完全に回復したら、お前の好きな料理を作ってあげるよ。ドレスは俺がしまっておくね」 そこで少し間を置いてから言い続けた。 「美夕がこのドレスを纏ったら、きっと誰よりも美しい花嫁になるぞ」 美夕が何も言わず、ただ静かに食事をしているのを見て、準一はそれ以上声をかけず、そっと寝室へと向かった。 美夕のあの青ざめた顔色を思い浮かべると、準一の胸の奥に後からじわりと罪悪感が染み渡ってきた。 明後日は俺と美夕の結婚式だ。この二日間は、せめて彼女のそばにいてやろうか。 そう心に決めながらクローゼットの扉を開けた瞬間、準一は息をのんだ。 そこに並んでいたはずの美夕の服は、すっかり姿を消していた。中には、かつて自分が買い与えた三、四着のワンピースだけが寂しく掛かっている。 クローゼットの横にはスーツケースが置かれていた。準一は近づいて、その蓋を開けた。中には衣類や、様々な書類がきちんと整理されていた。 ここ数日の美夕の冷たい態度を思い返すと、胸の奥からどうしようもない不安が湧き上がってきた。ウェディングドレスをかける間もなく、準一はよろめくようにダイニングへ駆け込み、美夕の両肩をぎゅっと掴んだ。声には焦りがにじんでいた。 「美夕、荷物をまとめてどうするつもりだ?どこに行くんだ?何かあったのか?」 美夕は海外に出る話で騒ぎを起こしたくなくて、心の中の動揺を押し殺し、できるだけ穏やかな声を装った。 「落ち着いて。あと二日で私たちの結婚式でしょう?そのとき慌てないように、先に新婚旅行の荷物をまとめておこうと思ったの」 そう言って、彼女はそっと手を上げ、準一の手の甲を軽く叩いた。 「それに、今の私には何も見えないのよ。あなたがそばにいなければ、どこへ行けるというの?」 掌に伝わる温かな感触が、準一の胸の中の不安を少しずつ溶かしていった。彼は心の中で思った。 「そうだな、今の彼女は俺がそばにいなければ、どこへも行けないだろう」 かつて自分が階段から落ちた時、美夕は一瞬のためらいもなく駆け寄り、自分を盾にして受け止めてくれた。そのせいで彼女は傷を負い、目が見えなくなってしまった。それなのに、彼女は一度も俺を責めることなく、ただ静かにそばに寄り添い、惜しみない愛情を注ぎ続けてくれた。 そのことを思い出すと、準一の唇に確信を帯びた微笑が浮かんだ。彼はそっと腕を伸ばし、美夕を抱き寄せ、柔らかな声で言った。 「美夕、心配しないで。俺は約束しただろう、一生お前の目になるって。これからお前がどこへ行きたいと思っても、俺が一緒に行くよ。 明後日は俺たちの結婚式だ。そのとき、みんなの前で誓う。お前はこの世で一番大切な人だって。一生、お前を守り続けると」 美夕の胸はその瞬間、かすかに震えた。だがすぐに静けさを取り戻した。 準一とは、結婚式も、未来もないのだ。 その後の数時間、準一はまるで昔、彼女に優しかった頃に戻ったかのようだ。 彼は美夕と一緒に新居を飾りつけ、慎重に彼女にウェディングドレスを試着させた。ドレスはすでに形を崩していたが、彼は絶えず褒め言葉を口にした。 「きれいだよ。美夕は世界で一番美しい花嫁だ」 そんな穏やかな時間は夕暮れまで続いた。突然、準一は上着を手に玄関に立った。 「美夕、家で待ってて。ちょっと牛肉買ってくる。お前の大好きな牛肉の煮込み作ってあげるから」 彼が背を向けて去っていく姿を見送りながら、美夕の胸の奥には、ただ空しい笑いしかこみ上げてこなかった。どうして、元カノとの甘い時間を楽しんだ後で、まるで何事もなかったかのように今の彼女に優しくできるんだろう。 その偽りの優しさが、美夕には胸がむかむかするほど不愉快だった。 準一が出かけたばかりで、美夕のスマホが鳴った。玲子からのメッセージだった。開いてみると、挑発するような内容が目に飛び込んできた。 【美夕さん、準一さんがこの前、私にペンダントをくれたの。あなたには見えないかもしれないから、親切に教えてあげるね。翡翠でできたペンダントで、とても上質なの。裏にはあなたの名前が刻まれているの――美夕って。ねえ、覚えてる?】 音声を聞き終えた瞬間、美夕の身体は凍りついた。 それは亡きおばあちゃんが彼女に遺した大切な形見だ。以前、準一がそれを見て「大事に預かるよ」と言っていたのに、今、そのペンダントは玲子の手の中にあるとは―― 第7話 おばあちゃんは、この世で一番彼女を可愛がってくれた人だった。このペンダントも、おばあちゃんが長い時間をかけてお金を貯めて買い、結婚祝いとして贈ってくれたものだ。 けれど今、そのおばあちゃんの形見が玲子のような女の手にあり、しかもそれを見せびらかす道具にされている。 胸の奥から込み上げる怒りをもう抑えきれず、美夕は何も考えずに飛び出した。タクシーを拾い、玲子が指定した場所へ向かった。 公園の人工湖に着くと、ちょうど食事時だった。公園には散歩している数人しかいなかった。 湖畔のベンチに玲子が座っており、美夕の姿を見つけるとすぐに立ち上がり、嘲るような笑みを浮かべた。 「あら、よくここまで来られたね。盲目でも意外と自立できるんだ」 美夕は彼女と無駄話をする気などなかった。拳をぎゅっと握りしめ、抑えきれない怒りを声に込めて言った。 「くだらないこと言わないで、さっさと返しなさい!」 玲子はその言葉に、顔の軽蔑の色をさらに濃くした。ポケットからあのペンダントを取り出し、指先でつまんでひらひらと見せつける。 「へぇ、そんなガラクタがそんなに大事なの?でも、一応これは準一さんが私にくれたものよ。たとえ気に入らなくても、あなたには渡さないわ」 彼女は二歩ほど前に進み、美夕の顔にぐっと近づく。声を少し低くしたが、その響きは悪意に満ちていた。 「目の見えないあんたが私と準一さんを奪おうなんて、夢見てんじゃないわよ!四年間も彼のそばでまるで家政婦みたいに尽くしてきたのに、結局どうなった?彼は私と結婚したの。しかも今、私は彼の子を身ごもってる!あんたなんか、いてもいなくても同じよ!」 言い終えると、玲子は手の中のペンダントに一瞥をくれ、手首をひらりと返して、そのまま人工湖へと投げ捨てた。ペンダントは空中で弧を描き、ポチャンという音を立てて水の中へ落ち、すぐに姿を消した。 「欲しかったんでしょ?じゃあ自分で湖に入って探せば?」 そう言い捨てると、玲子は嘲るように笑った。 「そんなに自立してるなら、自分で見つけられるんでしょ?ねえ?」 その瞬間、美夕の頭の中で張り詰めていた糸がブツンと切れた。考える間もなく、彼女は飛びかかるようにして全身の力を込め、玲子の頬を平手打ちした。 玲子の顔が一瞬で歪んだ。咄嗟に反撃しようと手を上げかけたが、美夕の背後に立つ人影を見た途端、動きが止まった。次の瞬間、その目に陰湿な計算めいた光が走った。 彼女は素早く美夕の手首をつかむと、思い切り引き寄せ、美夕を湖の方へ引きずり込んだ。 準一が遠くから駆け寄ってきて湖畔にたどり着いた時には、もう二人はもつれ合い、欄干に寄りかかって今にも湖へ落ちそうに揺れていた。 彼は焦りのこもった声で叫んだ。「やめろっ!」 玲子はその声を聞くと、口元に勝ち誇った笑みを浮かべた。 彼女は美夕の耳元に顔を寄せ、冷たく囁く。 「あんたみたいな目の見えない女が、準一さんを奪えると思うなよ」 そう言い放つと、遠くに向かって叫んだ。 「助けて!」 声が終わらないうちに、玲子は全身の力を込めて美夕を巻き込み、湖へと飛び込んだ。 ドボンッと二つの水音が響き、二人の姿は水面に飲み込まれた。 準一はその様子を見るなり、一瞬の躊躇もなく湖へ飛び込み、必死に二人の方へ泳いでいった。 周囲を散歩していた人々も騒ぎに気づき、ためらいながらも次々と湖に飛び込んで助けに向かった。 美夕が湖に落ちた瞬間、頭に浮かんだのはたった一つ――おばあちゃんのペンダントを探さなくては。 だが、人工湖の水は深く濁っており、ペンダントの形すら見えなかった。 その時、彼女は準一がこちらに向かって泳いでくるのを目にした。しかし彼は美夕のそばを通り過ぎ、まっすぐ玲子のもとへ向かい、彼女をしっかりと抱き上げて岸へと連れていった。 冷たい湖水が美夕の体の奥深くに染みわたり、内臓まで凍りつくようだ。体は自由を失い、ゆっくりと沈んでいく。 その瞬間、美夕の心は完全に冷え切った。 冷たい湖水が内臓の奥まで凍えさせるように浸透し、意識が少しずつ薄れていく。体はもう自分に従わず、ただ深みへと沈んでいくばかりだ。 心に浮かんだのは、ただ一つの思いだけだ―― この人生でいちばんの過ちは、準一を好きになったことだったんだ…… 息が途切れそうになったその瞬間、力強い両手が彼女を水面へと引き上げた。 胸を激しく押されるたびに、美夕の意識は少しずつ戻ってきた。 周りに集まっていた人々は、二人が無事だと分かると、次第にその場を離れていった。 準一は玲子を落ち着かせてから駆け寄り、美夕を強く抱きしめ、涙混じりの声で言った。 「美夕、ほんとに怖かったんだ!俺……さっき、本当にお前を永遠に失うかと思ったんだ、分かるか?」 美夕は彼の胸に寄りかかりながら、体を震わせていたが、心の中はもう何の感情も湧かなかった。 準一が真っ先に玲子を助けに向かうのを見たあの瞬間から、美夕の心は空っぽになっていた。今はただ、この気まずい場所から逃げ出したい――それだけだった。 ぼんやりと家に戻ると、美夕はバスルームに入り、シャワーを浴び始めた。 温かい水が頭上から降り注ぎ、頬を伝って流れ落ちる。そのぬくもりに包まれて、ようやく少しだけ生きている実感が戻ってきた。 だが、湖の中で味わったあの息苦しさは、まだ頭から離れない。ドアの外から時折聞こえてくる準一の表面だけの気遣いが、彼女にはひどく皮肉に響いた。 美夕は浴室の壁にもたれ、ゆっくりと考えを巡らせた。 この四年間、彼女はずっと自分が準一の救いであり、彼の最も苦しい時期を支えてきた恋人だと信じてきた。 けれど、もしかしたら準一は最初から彼女の救いなど必要としていなかったのかもしれない。二人の始まりは、最初から間違いだったのだろう。 シャワーを終えた美夕が浴室から出てきた瞬間、準一が駆け寄ってきた。手には乾いたタオルを持ち、おずおずと彼女の髪を拭い始めた。 「美夕、お前が落ちたあと、すぐに俺も飛び込んだんだ。でも泳ぎが下手でさ、助けに行くのが遅くなって……本当にすまなかった」 準一は一呼吸置いて、続けた。 「明日は俺たちの結婚式だろ?体調は大丈夫か?もし無理なら、数日延期することだってできるんだ」 準一の止まらない嘘を聞きながら、美夕はふいに、もうこれ以上は嘘に付き合いたくないと思った。 「大丈夫よ、準一。あんなに楽しみにしていた結婚式だもの、延期なんてできないわ。予定通りに挙げるよ」 美夕の揺るがない表情を見て、準一は何か言いかけたが、突然鳴り響いた着信音に遮られた。 彼は「妻」と名を登録した番号を見て、すぐに立ち上がり、その場を離れて通話に出た。声を落として数言交わすと、戻ってきて美夕の頭をそっと撫でた。 「そこまで言うなら、予定通りに進めよう。お前には最高の結婚式を贈るよ。 明日の式の準備のために、今夜はホテルで泊まるから、いい子で家で待っててね」 そう言い残し、準一は美夕の冷たい表情に気づかないまま、大股で立ち去った。 美夕はスマホを取り出し、画面のフライト情報を見つめると、スーツケースを引っ張ってタクシーを拾い、空港へ向かった。 朝の光が差し始めるころ、準一は迎えに家の前に到着した。 家に入った瞬間、彼は呆然と立ち尽くした。 家中を見渡しても美夕の姿はなく、あのスーツケースさえ消えていた。 虚ろな目で何度も確認した後、混乱と焦りが一気に押し寄せた。周囲に声をかけられてようやく我に返ると、慌ててスマホを取り出し、美夕に電話をかけた。 美夕は今まさに離陸しようとする飛行機の中で着信表示を見ると、一瞬のためらいもなく通話を切った。 短いメッセージを打ち終えると、準一のすべての連絡先を素早くブロックし、削除した。 【準一、もうあなたの顔を見るのも嫌。結婚なんて、とうに諦めていたの】