愛を灰にして、私は自由になる

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愛を灰にして、私は自由になる

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結婚式の前夜。 瀬戸景一(せと けいいち)から、余命宣告を受けた幼馴染の最期の願いを叶えるため、世界一周旅行に同行したいと言い出した。...

Chương (1)

第1章

結婚式の前夜。 瀬戸景一(せと けいいち)から、余命宣告を受けた幼馴染の最期の願いを叶えるため、世界一周旅行に同行したいと言い出した。私、浅井梨花(あさい りか)に一ヶ月だけ待ってくれ、と。 同じ頃、母の浅井悦子(あさい えつこ)に深刻な心不全が見つかった。 母の唯一の願いは、自ら夜なべして縫い上げたウェディングドレスを着た私の花嫁姿を、この目で見届けることだった。 私は景一に、せめて式だけは挙げてから発ってほしいと、泣いて縋った。 彼は承諾した。しかし、式の中途で望月舞奈(もちづき まいな)と共に逃げ出した。 二人が空港で人目も憚らず抱き合い、口づけを交わす写真がSNSで瞬く間に拡散され、トレンドを埋め尽くした。 それを目にした母は、あまりのショックにその場で事切れた。一方、彼らはA国の都市へと飛び立とうとしていた。 舞奈のSNSが更新される。【大好きな人と、一番大胆なことをしたわ。私たちを祝福してね】 私は空虚な心地で母の遺骨が入った骨壺を抱き、震える指でコメントを打ち込んだ。 【末永くお幸せに】 第1話 結婚式の前夜。 瀬戸景一(せと けいいち)から、余命宣告を受けた幼馴染の最期の願いを叶えるため、世界一周旅行に同行したいと言い出した。私、浅井梨花(あさい りか)に一ヶ月だけ待ってくれ、と。 同じ頃、母の浅井悦子(あさい えつこ)に深刻な心不全が見つかった。 母の唯一の願いは、自ら夜なべして縫い上げたウェディングドレスを着た私の花嫁姿を、この目で見届けることだった。 私は景一に、せめて式だけは挙げてから発ってほしいと、泣いて縋った。 彼は承諾した。しかし、式の中途で望月舞奈(もちづき まいな)と共に逃げ出した。 二人が空港で人目も憚らず抱き合い、口づけを交わす写真がSNSで瞬く間に拡散され、トレンドを埋め尽くした。 それを目にした母は、あまりのショックにその場で事切れた。一方、彼らはA国の都市へと飛び立とうとしていた。 舞奈のSNSが更新される。【大好きな人と、一番大胆なことをしたわ。私たちを祝福してね】 私は空虚な心地で母の遺骨が入った骨壺を抱き、震える指でコメントを打ち込んだ。 【末永くお幸せに】 …… 「梨花!さっきから何を嫌味ばっかり言ってるんだ。 式を一週間延期するだけだろ。やめると言ったわけじゃない! 舞奈は病人なんだぞ。少しは思いやりを持てないのか?」 涙が無意識に零れ落ちる。私は無理やり言葉を絞り出した。 「延期なんてしなくていいわ。婚約は解消するから」 景一が憤慨したように声を荒らげる。「梨花、いい加減にしろ!感情に任せて言うもんじゃない。お前はもう子供じゃないんだぞ! 今日、俺が式に出られなかった。ただそれだけの理由で、婚約破棄だなんて本気で言っているのか?」 「ええ」私は淡々と、静かに答えた。 「そうよ」 景一は鼻で笑った。「梨花、遊びに行ってるわけじゃないんだ。舞奈にはもう、残された時間がないんだよ。 彼女がA国に行きたいと言うから、俺は付き添っているだけだ。それなのに、どうしてそう執念深く責めるんだ。 こんな些細なことで癇癪を起こして……いい大人なんだから、もっと物分かりよくできないのか! 悦子さんも、お前がこんなにわがままだとは知らないだろうな」 彼と口論する気力さえ、もう残っていない。私は掠れた声で問い返した。 「景一……今日は私たちの結婚式だったのよ。出席するって、あれほど約束したじゃない。 お母さんはあの病身に鞭打って、無理をしてまで……」 景一の怒りに、一瞬で火がついた。私の言葉を叩き斬るような、鋭い怒鳴り声が電話の向こう側から響く。 「梨花!よくも悦子さんを口にできたな。そんなに俺と結婚したいのか? 俺を繋ぎ止めるために、悦子さんが不治の病だなんて診断書まで偽造して……どの口がそんなことを言っているんだ。恥ずかしくないのか! 舞奈から全部聞いたぞ。今さら言い逃れしても無駄だ!」 確信に満ちた景一の口ぶりに、視界が瞬時に涙で滲んだ。 お母さん……私はこんな男のために、あなたを死なせてしまった。なんてことをしてしまったの。死んでお詫びしたいのは、私の方だわ。 「景一、誰と電話してるの?」 甘ったるい女の声が聞こえたかと思うと、景一は声を潜め、地を這うような低く冷徹な響きで私に釘を刺した。 「いいか、梨花。その程度のわがままで、俺を脅せるなんて思うなよ。 結婚なんて、したくなければ勝手にしろ! 悦子さんには、俺から直接話をつけておくからな」 電話は無情に切れた。私はただ、涙に暮れるしかなかった。 それから数日間、景一から連絡が来ることは一度もなかった。 代わりに舞奈のSNSが更新され続けた。 北の地方の桜、幻想的に光る青い海、極北の地で眺めるオーロラ。 私はただ麻痺した心で、母の遺品を淡々と整理し続けた。 絶望が深すぎると、人は冷静になれるらしい。心は痛みが極限に達した瞬間に、何も感じなくなった。 数日後、母のスマホに彼から数通のメッセージが届いた。 【悦子さん、北の地方で真珠のネックレスを買いました。気に入ってもらえると嬉しいです】 【先日の結婚式の件は、俺が悪かったです。改めて謝らせてください】 【今日、こちらに戻ります。久しぶりに、悦子さんの作った肉じゃがが食べたいです】 画面を見つめる視界が、一瞬で涙に滲む。 溢れ出した涙が止まることなく画面にこぼれ落ち、文字を無慈悲に塗り潰した。 ガチャリとドアが開く音がして、景一が大きな花束とケーキを手に現れた。 「悦子さんは?メッセージを送ったんだけど、返信がなかった。 梨花、どうして床に座ってるんだ? 冷えるだろう。生理の時はいつも腹痛がひどくなるんだから、もっと自分の体を大事にしなきゃ駄目じゃないか」 彼が私の手を引こうとした瞬間、大粒の涙が彼の手の甲にこぼれ落ちた。彼は狼狽したように、慌てて口を開く。 「どうして泣いてるんだ?悪かったよ、結婚式の件は俺の配慮が足りなかった。 謝るから、な?ごめん。 でも、悦子さんの病気のことで嘘をついたのは、さすがにいただけないな。これで、お互い様ってことにしよう。いいだろ?」 景一。良くない。ちっとも、良くないわ。 「ところで、悦子さんはどこだ?もう仕事から帰っている時間だろう。 プレゼントを持ってきたんだ。ちょっとしたサプライズをしようと思ってさ」 私は冷たく言い放った。「いいえ。あなたのサプライズなんて、お母さんにはもう必要ないわ」 「直接、悦子さんに謝るよ。いいだろ?悦子さんはいつも優しかったから、きっと許してくれるはずだ」 第2話 そうだ。母は景一のことを本当の我が子同然に慈しんでいた。 彼は母の教え子だった。 産まれてすぐに実母を亡くした彼は、幼い頃、いつも継ぎ接ぎだらけの惨めな格好で登校していたという。 母は自分の給料を削って彼に新しい服を買い与え、人並みの自信を持てるよう身なりを整えてあげたのだ。 彼が社会人になってからも、母は彼がコンビニ弁当ばかりで済ませて、栄養を偏らせているのではないかといつも案じていた。だから、わざわざ自分の手で料理をこしらえては、会社まで届けていたのだ。 時には嫉妬してしまうほどだった。母は実の娘である私以上に、景一に尽くしていたのだから。 私は肺の奥まで深く息を吸い込み、込み上げる感情を無理やり押し殺した。 「あなたの謝罪も、贈り物も……お母さんにはもう二度と届かないわ。 ねえ、聞こえているの?」 景一は眉間に深い皺を寄せ、不快感を露わにした。「梨花、いい加減にしろ。いつまでそんな子供じみた駄々をこねているんだ? 婚約を勝手に解消したことだって、俺は根に持たず、改めて結婚してやると言っているんだぞ。 謝ったじゃないか。これ以上、俺にどうしろって言うんだ!」 私は涙に顔を濡らしながら、声を絞り出した。「景一……お母さんを返して。お願いだから、お母さんを私に返してよ!」 彼は、私のことが心底理解できないといった風に、侮蔑の入り混じった視線を向けてくる。 「お前、本当にどうかしてるよ。もう話にならないな。 いいか。悦子さんが帰ってきたら、どっちが理不尽なことを言っているか、はっきりさせてもらおう」 私は自嘲気味に笑った。「お母さんは、もう帰ってこないわよ」 景一は怪訝そうに私を見た。「何を言ってるんだ。悦子さんはどこか旅行にでも行ったのか? 自分の親が旅行に出たっていうのに、連絡一本入れてないのか?それでも実の娘かよ。少しは自分から様子を伺うくらいの気遣いを見せたらどうなんだ」 そう吐き捨てると、彼は苛立ったように自分のスマホを取り出し、母の番号を呼び出そうとした。 その時、特定の相手からであることを知らせる着信音が、静まり返った部屋に鳴り響いた。空気が一瞬で凍りつく。 スピーカーから、か細い女の声が漏れ聞こえた。 「景一……そこにいる?」 「ああ、いるよ」 「……一人で家にいたら、お薬がなくなっちゃって。病院まで、連れて行ってくれないかな……」 景一は迷うことなく承諾し、そのまま部屋を飛び出していった。 母へ電話をかけようとしていたことなど、その時の彼の頭からは、もう完全に消え去っていた。 景一が去った後、私は一人で荷物をまとめ始めた。 この家を出る。もう、決めたことだ。 しばらくして、景一から電話があった。 「梨花、一つ聞きたいんだけど。女の子のナプキンって、どこのメーカーのがいいんだ?」 隣で舞奈が楽しそうに囃し立てる声が聞こえる。 「だめよ、それはカンニングだわ。自分で考えなきゃ。 梨花、教えちゃだめだよ…… 梨花、景一があなたの婚約者だったのに、こんなことも知らないなんて。私がたっぷりしつけてあげる。 安心して、最高な旦那様にして返してあげるから」 挑発に満ちた声。 私は何も答えなかった。二人が睦み合う声が絶え間なく流れ込み、心臓がズキリと疼く。 以前の私なら、独占欲を剥き出しにして怒り狂っていただろう。 けれど今の私は、ただ「ええ」とだけ返し、そのまま通話を切った。 それから長い沈黙の後、再びスマホが鳴った。 私は無意識に指を滑らせて通話ボタンを押していた。 電話の向こう側から、女の甘ったるい声が響いた。 「ねえ景一、私のこと、愛してる?」 「ああ、愛してるよ」 「愛してるのに、どうして梨花と結婚しようとしたの?」 景一の慈しむような声が続く。 「君が言い出したことじゃないか。『まずは梨花と結婚して、予行演習をしてきなよ』って。それが上手くいったら、次は君と一緒になる番だって約束しただろ? まさか、自分が言ったこと、もう忘れちゃったのか?」 私は身代わりですらなかった。ただの「実験体」に過ぎなかったのだ。 十年間、彼を愛し抜いてきた時間はただのサンプルデータだった。なんて滑稽で、惨めな話だろう。 これ以上、一秒たりとも聞いていたくなかった。涙で視界が歪み、私は震える指で通話を叩き切った。 直後、胃の底から激しい不快感がこみ上げた。私はトイレに駆け込み、胃の中が空っぽになるまで、何度も、何度も戻し続けた。 這うようにして戻ったベッドは、氷のように冷たかった。涙が目尻から溢れ、枕をじっとりと濡らしていった。 景一は、その夜一度も帰ってこなかった。私は、母の残したこの家を売る決意を固めた。 第3話 不動産屋の店内に足を踏み入れると、そこには景一と舞奈がいた。 担当者が私に気づき、相好を崩して近寄ってくる。 「浅井様、お待ちしておりました!ようやくあの家を売却してくださる決心がついたのですね」 景一が不審そうに眉をひそめた。「……売却?どこの家のことだ?」 私が制止する間もなく、担当者が母の家の住所を口にする。 「梨花!お前、悦子さんに断りもなく家を売るつもりか?正気かよ! あの家は、悦子さんが一生分の蓄えを叩いて手に入れた、大切な場所なんだぞ!それに、俺たちの……」 俺たちの思い出が詰まった場所だろう。そう言いたげな景一の言葉を、私は冷たく遮った。 困惑する担当者が、おそるおそる尋ねる。 「……あの、結局のところ、売却されるのでしょうか?」 私の声に迷いはなかった。「売ります。この家は彼とは一切関係ありませんから」 舞奈が慌てたふりをして口を挟む。「景一、梨花にもきっと何か事情があるんだよ。そんなに怒らないであげて」 景一は鼻で笑うと、蔑むような視線を私に向けた。「事情なんてあるもんか。どうせまた、結婚式の件で拗ねて当て付けをしてるだけだろ。 今すぐ悦子さんに電話してやる。お前が勝手なことをしないよう、たっぷりお灸を据えてもらえ」 景一は迷わずスマホを取り出し、母に電話をかけた。だが、スピーカーから流れるのは無機質な呼び出し音ばかり。彼は苛立ちを隠さず眉をひそめた。 「おかしいな、悦子さんが出ないぞ」 繋がるはずがない。その番号の持ち主は、もうこの世にはいないのだから。 隣で舞奈が、景一の顔を覗き込むようにして宥めた。 「悦子さん、お忙しいんじゃない?それより、今日はずっと私の家探しに付き合ってくれるって約束したでしょ。あんまり待たされると、私、怒っちゃうよ?」 景一は私を一瞥し、吐き捨てるように言った。「……分かった。先に行ってる。梨花、後で家に戻ったら、もう一度結婚式のことを話し合おう」 けれど私は、この場ですべてに決着をつけるべきだと思った。 ところが、急いで手続きを済ませて店を飛び出した時、そこに景一の姿はもうなかった。 どこかで彼が待っていてくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた自分が、たまらなく惨めで、馬鹿みたいに思えた。 思い出せば、彼だってかつては私の手を引いて二人で住む家を探し、ここでどんな生活をしようかと、幸せな未来を語り合っていた。 帰宅すると、私は用意していた婚礼の品々をすべて火に投げ込んだ。 母が夜なべをして縫い上げたあのウェディングドレスも、無情な炎に呑み込まれた。 背後から、怒鳴り声が響いた。 「梨花、何をしてるんだ!」 景一は激しく燃え上がる火を目の当たりにし、その瞳に明らかな焦燥を浮かべた。 「明日が式だっていうのに、ウェディングドレスを焼くなんて……何を考えてるんだ!」 彼は火の中からウェディングドレスを救い出そうと手を伸ばしたが、あまりの熱さに手を引っ込めた。 純白だったはずのウェディングドレスが、見る影もなく無残な黒い塊へと変わり果てていくのを、彼はただ苦々しく見守るしかなかった。 景一は重いため息をつくと、自分に言い聞かせるように、いらだたしげな声を絞り出した。 「……まあいい、まだ間に合う。今すぐ代わりのドレスを特注させるから」 私は冷ややかな笑みを浮かべたまま、短く答える。 「……結構よ。もう必要ないわ」 景一は突如として私を抱き寄せ、その大きな手で私の腰を強く引き寄せた。 それは、自らの不実さを愛情で塗りつぶそうとするかのような、白々しくも打算的な機嫌取りだった。 「梨花、相変わらず意地を張るんだな。お前は本当に俺を困らせる……」 馴染みのある体温が記憶を呼び覚まし、一瞬だけ鼻の奥がツンとした。堪えきれない涙が視界を滲ませる。 けれど、その温もりは涙がこぼれ落ちるよりも早く、無慈悲に奪われた。 景一のスマホが不意に鳴った。彼は私を放すと、背を向けて電話に出た。その瞬間、彼の横顔に、私にはもう二度と見せることのない甘い慈しみの色が浮かんだ。 「梨花、急に仕事が入った。一度会社に戻らなきゃいけない」 彼は一度も振り返ることなく、部屋を飛び出していった。 私はその背中に向かって、枯れ果てた声を絞り出した。「……本当に会社に行くの?」 嘘をついているのは分かっている。 「ああ」彼は淡々と答えた。 「嘘つき」その言葉を飲み込んだ瞬間、スマホに通知が届いた。 【梨花、後でオークション会場で会いましょう】 舞奈からのメッセージだ。 そのオークションには、母が生前何よりも大切にしていたエマイユのペンダントが出品されていた。 離れる前に、せめて母の形見だけは手元に残したかったのだ。 オークション会場。景一は、隣に座る舞奈の耳元で甘く囁いていた。 「舞奈、今日は君の誕生日だろ。欲しいものがあれば何でも遠慮なく言って」 舞奈は唇を噛み、ペンダントに視線を止めた。 「景一、あのペンダントがいい。すごく綺麗……」 景一は愛おしそうに彼女の頭を撫でた。「分かった。必ず君のために競り落としてあげるよ」 競りが始まった。舞奈が勝ち誇ったような視線をこちらに向けてくる。 「浅井様、二千万円」 景一は私を一瞥することもなく、淡々と札を上げた。 「瀬戸様、四千万円」 私は奥歯を噛み締め、指が肉に食い込むほどの力で拳を握った。 「景一……どうしても私と競い合うつもり?」 私は震える声を絞り出し、彼に縋るように訴えた。 「お願い……あれは、お母さんがこの世に遺してくれた、たった一つの形見なの。これだけは、私に譲ってくれないかな?」 第4話 景一は不機嫌そうに眉をひそめた。「悦子さんは健在だろ。縁起でもない嘘をつくのはよせ。 舞奈がせっかく気に入ったものを見つけたんだ。これ以上、水を差すような真似はやめてくれないか」 隣で舞奈が、不安げな様子で景一の袖をそっと引いた。その瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいる。 「……もういいよ。私、やっぱり諦める。 私のせいで景一と梨花が喧嘩しちゃうなんて……そんなの悲しすぎるよ」 景一は舞奈を甘やかすように宥めると、その瞳には溢れんばかりの情愛が浮かんだ。 「そんなことはない。舞奈、君には世界で一番いいものがふさわしいんだ」 そして、彼は冷徹な声で言った。「一億円」 圧倒的な財力の前に、私はただ、母の形見が舞奈の手に渡るのを、無力感の中で見届けるしかなかった。 受け渡しの直後だった。「あ……っ!」舞奈の手から滑り落ちたペンダントが、床に叩きつけられ、鋭い音を立てた。 舞奈は一瞬、挑発的な笑みを浮かべて私を射抜くと、すぐに泣き崩れて謝罪を始めた。 「ごめんなさい。梨花さん、本当にわざとじゃないの。私のことが憎いなら、どんなに責められても構わない。お願い、許して……」 私は頭が真っ白になり、麻痺した体で這いつくばるようにして、砕け散った破片を拾い集めた。 鋭い破片が指先に食い込み、鮮血が床に滴る。けれど、心の痛みの方がずっと鋭かった。 景一は舞奈を抱き寄せ、慈しむように声をかけた。 「気にするな、舞奈。君のせいじゃない……」 「彼女のせいじゃないなら、私が悪いって言うの?」私の自嘲気味な問いに、景一は深くため息をついた。 「そういう意味じゃない。舞奈だってわざとやったわけじゃないだろ。 ペンダントは俺が腕のいい職人に修理させる。悦子さんにも、俺からちゃんと説明しておくから」 景一に急用を告げる電話が入り、彼は苛立ちを隠さぬままその場を後にした。舞奈は鼻を啜りながら、甲斐甲斐しく破片を拾うふりをして私を手伝う。 だが、彼が見えなくなった瞬間、彼女はあざとい笑みを浮かべ、化けの皮を剥いだ。その声は蛇のように冷たく、毒々しい。 「梨花。母の形見が目の前で粉々になる気分はどう? 病気なんて全部嘘。式の邪魔をするための狂言よ。景一が本当に愛しているのは私。あなたは、私たちの間に割り込んだ不逞な泥棒猫に過ぎないの。 あなたはただのピエロよ。自分の母を死に追いやった、哀れなピエロなの。 私なら恥ずかしくて死を選ぶわ。よくもまあ、のうのうと生きていられるわね」 逆上した私は、理性の糸が切れる音を聞いた。次の瞬間、私の右手が舞奈の頬を激しく打ち抜いていた。 床に倒れ込んだ舞奈の頬を、無残に散らばった破片が深く切り裂く。鮮血がその白い肌を伝い落ちる。 「私の……私の顔がっ!」 そこへ駆け戻ってきた景一が、私を突き飛ばした。 間髪入れず、火が出るような衝撃が私の頬を襲った。口端が切れ、鉄の味が喉の奥まで広がった。 「梨花!お前という女には、底知れぬ嫌悪感を覚えるよ。反吐が出る。 舞奈はうっかりペンダントを壊しただけだ。それを……あろうことか、お前は彼女の大切な顔を傷つけるなんて。なんて浅ましい女なんだ!」 悲しみと怒りが綯い交ぜになり、私は震える声で叫んだ。 「景一、騙されないで!舞奈の病気は全部嘘なの!彼女がわざと……」 「黙れ!お前の口から出るのは、嘘ばかりだ!」 舞奈が顔を真っ青にして景一に縋り付く。 「景一、痛い……痛いよ……梨花を責めないで、私が悪いんだから……」 景一は舞奈を優しく抱き上げると、私には一瞥もくれず、背を向けて歩き出した。 「……悦子さんの顔に免じて、明日の式は予定通り行う。 だが、迎えが来るなんて思うな。お前にはその資格はない。自分一人で来い」 その夜、病院の全スタッフが舞奈一人のために動員されたという。 私は自嘲気味に口角を上げると、原型を留めないほど無残に砕け散ったペンダントの破片を拾い集め、その場を後にした。 その夜、届いたばかりの純白のウェディングドレスを前に、私は一言も発することなく、ただ独りで夜が明けるのをじっと待った。 翌朝、骨壺を抱えて飛行機に乗り込んだ時、挙式会場は大混乱に陥っていた。 あろうことか、景一は式の様子をライブ配信しており、開始時間を過ぎても一向に現れない花嫁に、世間の好奇の目が集まっていた。 ついにしびれを切らしたのだろう。 私のスマホには景一からの着信がひっきりなしに入っていたが、私はそのすべてを拒否した。 母のスマホにまで、景一はなりふり構わず電話を鳴らし続けた。私は自分の手で、その忌まわしい着信を黙らせるように電源を落とした。 電源を切って、すべてを遮断する直前、彼から一通のメッセージが届いた。 【梨花、いい加減にしろ。俺の電話を無視するなんて、いい度胸だな。 さっさと式場へ来い】 私は静かに微笑むと、そのメッセージを削除し、SIMカードを真っ二つにへし折った。連絡先をすべて削除し、この街に残した未練をすべて捨て去る。 一方、式場には田中執事が血相を変えて飛び込んできた。 「景一様、大変です!梨花様がSNSを更新されました。悦子様が亡くなられたと…… それだけではありません。梨花様は悦子様のご遺骨が入った骨壺を抱いて、すでに空港を発たれたようです。 それに、舞奈様の病気がすべて、狂言だったという証拠まで拡散されています」