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愛の終止符、それぞれの明日へ
「中絶手術を受けろ」 つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと...
Chương (1)
第1章
「中絶手術を受けろ」
つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと沈んだ。
「……今、なんて言ったの?あなた、この子は私たちの子供なのよ……」
「幸人がお前の妊娠を知って、さっき飛び降りようとしたんだ。あの子はまだ新しい母親としてお前を受け入れていない。それなのに、その腹の子を認められるわけがないだろう」
幸人。また、葛西幸人(かさい ゆきと)のこと……
葛西圭(かさい けい)と結婚して以来、美陽は彼の息子――幸人に精一杯の愛情を注いできた。だが、幸人は執拗に美陽を嫌い続けた。
そして今、その悪意は美陽の子供にまで及ぼうとしている。
「圭、幸人があなたの子供なら、この子だってそうじゃないの?」
美陽の目から涙が溢れ出し、喉の奥にこみ上げる酸っぱい苦みとともに、声は途切れ途切れになった。
圭は沈黙した。
長い沈黙の後、ただ一言だけ告げた。
「子供ならまた作ればいい。聞き分けよくしてくれ。今は幸人を最優先にすべきなんだ」
第1話
「中絶手術を受けろ」
つい先ほどまで妊娠の喜びに浸っていた森美陽(もり みはる)が、夫のその言葉を聞いた瞬間、心は底知れぬ絶望の淵へと沈んだ。
「……今、なんて言ったの?あなた、この子は私たちの子供なのよ……」
「幸人がお前の妊娠を知って、さっき飛び降りようとしたんだ。あの子はまだ新しい母親としてお前を受け入れていない。それなのに、その腹の子を認められるわけがないだろう」
幸人。また、葛西幸人(かさい ゆきと)のこと……
葛西圭(かさい けい)と結婚して以来、美陽は彼の息子――幸人に精一杯の愛情を注いできた。だが、幸人は執拗に美陽を嫌い続けた。
そして今、その悪意は美陽の子供にまで及ぼうとしている。
「圭、幸人があなたの子供なら、この子だってそうじゃないの?」
美陽の目から涙が溢れ出し、喉の奥にこみ上げる酸っぱい苦みとともに、声は途切れ途切れになった。
圭は沈黙した。
長い沈黙の後、ただ一言だけ告げた。
「子供ならまた作ればいい。聞き分けよくしてくれ。今は幸人を最優先にすべきなんだ」
その言葉が美陽の導火線に火をつけた。抑え込んでいた感情が、激流のように溢れ出す。
「聞き分けがない?ええ、そうね。
聞き分けがなかったから、あなたと結婚なんてしたのよ。
聞き分けがなかったから、守られもしない約束を信じて待ち続けた。
聞き分けがなかったから、この子を産めるなんて幻想を抱いたのよ!」
ガシャン――!
美陽はナイトテーブルのランプを床に叩きつけ、続いてドレッサーや机の上にあるものを次々となぎ倒した。
圭はベッドの端に座り、ヒステリックに荒れ狂い、崩れ落ちて号泣する美陽を、ただ重苦しい視線で見つめていた。
泣いて、泣き続けて……美陽の心は死んだ。
……
美陽と圭の出会いは、あるビジネスカンファレンスだった。
当時の美陽は社会人になったばかりの新人。一方圭は、大勢の人に囲まれて現れた注目の的だった。
十二歳年上の圭が纏う、歳月を重ねた落ち着きと余裕のある物腰に、美陽は強く惹きつけられた。
資料にコーヒーをこぼして慌てふためく彼女に、彼は清潔なハンカチを差し出し、穏やかな声で言った。
「焦らなくていい。ゆっくりやりなさい」
その目元に宿る優しい微笑みを見た時から、美陽は引き返せないほど圭にのめり込んでいった。
離婚歴があり、息子がいることも知っていた。彼の周りにはもっと成熟した美しい女性がいくらでもいた。それでも美陽は、飛んで火に入る夏の虫のように圭を求めた。
圭は当初、良き先輩としての距離を保っていた。だがある雨の夜、深夜まで残業した彼女を家まで送ってくれた時のことだ。
薄暗い車内で、美陽は勇気を振り絞って尋ねた。
「葛西社長……私のような、身の程知らずな想いは……迷惑ですか?」
長い沈黙の後、圭の手がそっと彼女の頭に置かれた。
「美陽、お前はまだ若すぎる」
「私、後悔はしません」
それから二人は結ばれた。
圭は美陽の好みをすべて把握し、彼女が残業で夜更かしすれば胃に優しい食べ物を密かに注文してくれた。幼い悩み事にも辛抱強く耳を傾け、豊かな人生経験から適切な助言をくれた。
美陽は、圭の成熟した大人の包容力に心酔した。彼さえいれば、世の荒波もすべて防いでくれるような気がしていた。
交際して一年後、二人は正式に結婚した。
だが、結婚後の現実は一変した。
圭は出張で多忙を極め、美陽の誕生日を祝う余裕もなく、病気の時でさえ看病してはくれなかった。
息子の幸人は美陽を敵と見なし、泣き喚いては嫌がらせを繰り返した。そのたびに、美陽が折れることで場を収めてきた。
そして今……自分の子を殺すことまで、譲歩しろというのか。
――なんて滑稽なのだろう。
床にうずくまる彼女を見て、圭の瞳にある静寂が、ようやく微かに揺れた。
彼は彼女のそばに歩み寄り、その肩を抱き寄せた。
だが、美陽は力任せに圭を突き放した。
「触らないで!」
圭はなおも彼女を強く抱きしめた。
「約束する、譲歩するのはこれが最後だ。幸人がもう少し……」
なだめるような言葉を最後まで言わせず、美陽は冷たい声で遮った。
「圭、子供はおろすわ。決めたの。自分の子を、幸人みたいな人間にはしたくないもの」
赤く腫らした目で圭の視線を真っ向から見据えた。この瞬間、かつて彼に抱いたときめきは、もう欠片も感じられなかった。
「圭……離婚ましょう」
第2話
美陽はそっと圭を押し戻すと、震える足取りで立ち上がり、そのまま浴室へと向かった。
静まり返った部屋にドアの閉まる音がひどく鮮明に響く。それはまるで、外にいる圭との間に引かれた、明確な境界線のようだった。
シャワーを浴びながら、美陽は冷たいタイルの壁に寄りかかった。顔を叩く水流が、水なのか涙なのか、もう判別がつかなかった。
長い時間をかけて体を拭き、清潔で柔らかいパジャマに着替えてから、美陽はようやくドアを開けた。
リビングには薄暗いスタンドライトが一際灯っているだけだった。ソファに座る圭は寝室に背を向け、微動だにしない。
その指に挟まれた火のついていないタバコが、彼が懸命に何かを堪えていることを物語っていた。
美陽は圭に視線を留めることなく、そのまま主寝室へと歩を進めた。
カチャリ――
再び響いた鍵をかける音。
圭はそのままの姿勢でしばらく座り続けていたが、やがて寝室のドアの前まで歩み寄った。手を上げ、ノックしようとしたのか、あるいはただドアに触れようとしたのか。
だが結局、その手は力なく垂れ下がった。
彼は背を向け、バルコニーのガラス戸を開けた。
冬の夜の冷気が一気に流れ込み、全身を刺す。
圭は手すりに掴まり、ぼやけたネオンとまばらな車の流れを見下ろした。冷たい風が胸を通り抜けていく。
自分が今、どんな感情を抱いているのかさえ分からなかった。ただ、今の局面をコントロールできず、どう解決すべきかも分からない。
これほどの窮地に立たされることは、彼の人生において稀だった。進むも退くも、そこには深淵が広がっている。
心のどこかで、まだ期待していた。彼女がもう少し待ってくれることを。以前のように、怒り、泣き喚いた後には、また笑顔で腕の中に収まってくれることを。
美陽は散らかった床を避け、乱れたシーツを整えると、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
暗闇が視界を塗りつぶしていく。狂乱の後のひどい疲弊感に襲われ、彼女はただ、このままずっと目を開けたくないと思った。
不思議なことに、今夜の眠りはひどく穏やかだった。まるで音のない深い淵のように。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む重苦しい光に、美陽は抗うように目を開けた。
圭に対するわずかな期待も、眠りとともに闇に葬り去られていた。身支度を整え、ゆったりとした清潔な服に着替えてドアを開けると、リビングの冷気に思わず身震いした。
圭はまだバルコニーに立っていた。凍りついた彫像のように、その背中は強張っている。
美陽は俯き、足音を忍ばせて彼を避けようとした。もう、彼の顔も見たくないし、言葉も聞きたくなかった。
「どこへ行くつもりだ?」
圭が振り返った。その目は血走り、顔には一夜を明かした疲労が色濃く滲んでいた。
「病院よ」
圭の喉仏が大きく動いた。
「……俺も行く」
「必要ないわ」
彼は数歩で詰め寄り、崩壊寸前の固執を込めた声で言った。
「意地を張るな。中絶手術は軽いことじゃないんだぞ」
その言葉に、美陽の心は完全に氷結した。
彼は疑いもしなかった。自分が「当然のように」子をおろしに行くのだと。自分は彼の心の中で、最初から大した重みを持っていなかったのだ。
美陽はそっと目を閉じ、沈黙したまま歩き出した。圭は上着を手に取り、その後ろを追った。
病院の中は、消毒液の匂いが冷たく鼻を刺した。
受付、待ち時間、検査……流れが不気味なほど淡々と進んでいく。
手術台に横たわると、背中から冷たい感触が伝わってきた。
静脈に麻酔薬が流し込まれ、ひんやりとした眠気が血管を伝って広がっていく。
意識が遠のく中、美陽の心だけは麻酔を拒むように、異様なほど冴えわたっていた。
父親に望まれず、あるいは人生の重荷を背負わされて生まれてくるような不運を、この子に与えるわけにはいかない。
圭が悪いのではない。間違っていたのは、自分なのだ。
愛があればすべてを乗り越えられると信じた甘さも、飛んで火に入る夏の虫のような愚かさも、この子が産まれる機会を奪ったのも。
おそらく、最初から始まらなければよかったのだ。
そうすれば、こんな無残な結末を迎えることもなかった。
自分はこの恋に、持てる力のすべてを使い果たした。
甘い期待から始まり、待ちわび、すり減り、そして狂乱へ……
今の自分は、自分でも見知らぬ誰かのようだった。
張り詰めすぎた糸が、ついに断ち切られる限界に達した。
もう、こんな生活は続けられない。
すべてを静寂に戻さなければならない。間違いをここで止め、泥沼から抜け出さなければ、本当に気が狂ってしまう。
火に飛び込むこともできるけれど、注いだ感情を一つ一つ取り戻すこともできるのだ。
麻酔が切れ、意識が混沌とした深海からゆっくりと浮上してくる。
美陽が目を開けると、天井がぐるりと回った。
「気がつきましたか?気分はどう?観察室で三十分ほど休んでくださいね」
看護師の声が、遠くから響いた。
美陽は無意識に下腹部へ手を添えた。体の奥底から、引きずり込まれるような鈍い痛みが伝わってくる。
彼女は何も言わず頷き、看護師に支えられて移動用ベッドに移された。
三十分後、世界は形を取り戻し、混沌としていた意識がようやく完全に引き戻された。
「もう行っても大丈夫ですよ」
看護師に支えられてベッドを降り、冷たい床を踏む美陽の足元はふらつき、胸の奥から突き上げるような痛みに視界が眩んだ。
観察室のドアが開くと、そこにはひどく顔色の悪い彼女が、下腹部を押さえながら一歩ずつ這い出すように現れた。
ドアの外でずっと待っていたのだろう、圭は美陽を見るなり眉を険しく寄せ、慌てて駆け寄ってきた。
「痛むんだろう……まずは家に帰って休もう」
彼が手を差し伸べた。だが、美陽はその手を強く払い除けた。
「触らないで!」
美陽は冷たい壁を支えに、一歩、また一歩と前へ進んだ。
――自分の足で歩かなければならない。
この三年間、自分はあまりにも圭に依存しすぎた。彼の世界、そして「待つこと」という檻に自分を閉じ込めていた。
今、ようやく目が覚めたのだ。たとえ骨身にこたえる痛みがあろうとも、耐えて、一人で歩いていく。
第3話
圭は、美陽の半歩後ろを黙ってついてきた。何度か差し伸べた手は、そのたびに彼女に拒絶された。
彼はただ、壊れやすいガラス細工を見守るかのように、慎重に距離を保って寄り添うことしかできなかった。近づくことも、離れることもできずに。
病院の入口に差し掛かった瞬間、冷たい風が細かな雪を巻き込んで吹きつけた。薄着の美陽の体が思わず縮こまり、その顔色は雪景色に溶け込みそうなほど白くなった。
「風邪を引くぞ」
圭はすぐに自分のコートを脱ぎ、美陽の肩にかけようとした。
「いらないわ!」
美陽は腕を振り上げ、差し出された服を拒んだ。厚手の生地が手の甲をかすめ、わずかな冷たさが走る。
「美陽、意地を張るな。手術の直後なんだ、体を冷やしてはいけないぞ」
圭の声には、焦燥と痛みが混じっていた。
美陽は足を止め、彼を振り返った。その瞳はまだ赤く腫れていたが、もう涙がこぼれることはなかった。
「意地を張ってるわけじゃない」
風にさらわれそうなほど、か細い声だった。
「……ただ、もう必要ないの」
圭の瞳がわずかに揺れ、コートを握る指先に力がこもった。
「あなたの看病も、心配も、全部いらない」
美陽は一度言葉を切り、彼の傍らを通り過ぎて、どんよりとした灰色の空を見つめた。
「……そして、あなたも。もういらないのよ」
圭が何かを言いかけたその時、鋭い着信音が、二人の間に流れる冷え切った空気を切り裂いた。
画面を見た彼の眉間が、ぴくりと跳ねる。
電話の向こうからは、聞き覚えのある女性の声が響いた。
「圭!早く幼稚園に来て!幸人がずっと泣き止まないの。パパがいいって叫んで、先生が何をしてもダメ、私もお手上げよ。早く来て、あの子の様子が普通じゃないわ!」
圭の瞳に、嵐の前の暗雲のような陰りが落ちた。
スマホを握る指の関節が白く浮き出る。視線は、目の前の青ざめた美陽と、風雪の向こうにいるであろう、胸を締め付けるほど愛おしい息子の姿との間で激しく揺れ動いた。
板挟みになり、進むことも退くこともできない。
冷え切った空気の中で時間が引き延ばされ、刃のように神経を削っていく。
彼は一度目を閉じ、全身の力を振り絞るように、重苦しい声で答えた。
「分かった。すぐに行く」
美陽の心に、小さな痛みが走った。けれどその痛みは一瞬で消え去った。静かな水面に投げ込まれた小石のように、波紋さえろくに広げられない。
美陽は圭を見つめ、血色のない唇をわずかに動かした。
「圭、弁護士に離婚協議書を作らせて。私たち、離婚しましょう」
「美陽、離婚なんて冗談を言うな。お前は今、冷静じゃないんだ。落ち着いてからまた話そう、いいな?」
「いいえ、冷静よ」
美陽の声は低く、けれど確かな響きを持っていた。
「今までの人生の、どの瞬間よりも冷静だわ」
彼女は淡々と、言葉を紡いでいく。
「私たちは、最初から間違いだったのよ。
私が世間知らずだった。こんなに複雑で困難なことだと見抜けずに飛び込んで、二人を逃げ場のないところまで追い詰めてしまったの」
喉の奥が震えるのを、美陽は自覚していた。
「あなたを崖っぷちに立たせ、私自身も細い綱の上で怯えながら過ごす。そんな状況に追い込んでしまった。
あなたの苦しみは理解できるわ。幸人に対する責任も、罪悪感も。あなたの立場なら、それ以外の選択肢はなかったのかもしれない」
美陽の視線は、残酷なほど澄んでいた。
「……理解できることと、受け入れられることは別なのよ。
自分の結婚生活が、常に別の子供の機嫌の後に回されるなんて耐えられない。リスクがあるからという理由で、私の子が切り捨てられることも。
そして、自分自身が永遠に『待ちぼうけ』と『妥協』、そして『いつ犠牲にされるか分からない』の中で生きていくなんて、もう無理なの」
美陽は静かに息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を突き刺す。
「もう終わりにしましょう。二人とも、疲れ果ててしまったわ」
言い終えると、彼女はゆっくりと歩き出し、通りがかったタクシーを止めた。
ドアが開いた。美陽は一度も振り返ることなく、車内へと身を沈めた。
マンションの入り口でタクシーが止まった。
代金を払い、ドアを開けた。
吹き付ける寒風と細かな雪に、美陽の細い体はよろめいた。無意識に下腹部を押さえた。
そこには依然として重苦しい痛みが残り、たった今失ったものの存在を突きつけていた。
一歩また一歩、這うようにしてエレベーターに乗り込み、鍵を開けた。
部屋の中は静まり返り、朝出かけた時のままだ。
昨夜の狂乱の跡も寝室に残されたままで、空気の中にはまだ、言い争いや涙、そして砕け散った心の欠片が漂っているようだ。
かつて希望に満ちて飾り立てたこの空間が、今は巨大で冷たい墓穴に見えた。三年の青春、愛、そしてこの世に出ることのなかった命を埋葬するための墓穴に。
明かりを点ける気にもなれず、窓からの薄暗い光が家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるに任せた。
美陽はクローゼットへ向かい、一番大きなスーツケースを引き出すと、荷物をまとめ始めた。
麻痺したような手つきで、自分の持ち物を一つ、また一つと剥がし取っていく。この部屋から自分の痕跡を、少しずつ消し去っていく。
物がなくなるたびに、家の中にぽっかりと穴が開き、見知らぬ場所へと変わっていく。
半分ほど片付けたところで、息が切れ、美陽は冷たいクローゼットの横に座り込んだ。
下腹部の鈍痛が波のように押し寄せ、体の芯が凍りつくような虚無感に襲われる。
二年間過ごしたこの寝室を見渡した。荒れた床、そして大きいダブルベッド。
幾晩、ここで圭の帰りを待ち続けたことだろう。期待に胸を膨らませていた日々から、いつしか孤独に慣れてしまった日々まで。
幾朝、圭の腕の中で目を覚まし、これこそが永遠だと信じ込んでいたことだろう。
二十二歳の時、自分は飛んで火に入る虫のように、彼の深く落ち着いた瞳の中に飛び込んだ。彼こそが一生の拠り所だと信じて。
二十四歳の時、幸福と不安を胸に抱き、彼の花嫁になった。ようやく自分たちの巣を築けたのだと思った。
この部屋は、自分が大人へと変わる中で抱いた最も熱い感情の証明であり、同時に、この不対等な関係の中で、自分の情熱と期待と勇気がいかに削り取られていったかの目撃者でもあった。
彼が帰るのを待つ。彼の手が空くのを待つ。幸人が受け入れてくれるのを待つ。不確かな未来を待つ。
自分は敬虔な信者のように、決して訪れることのない奇跡を待ち続けていた。
けれど今、夢は覚めた。奇跡は起きず、訪れたのは鮮血の滲むような決別だった。
棚を支えに、美陽はゆっくりと立ち上がった。
もう、一刻もここにはいられない。一秒ごとに、空気が重くのしかかり息ができなくなる。
美陽は速度を上げ、最後の数着を詰め込んでスーツケースを閉じた。
立ち上がり、最後にもう一度だけ部屋を見渡す。
未練はなかった。ただ、極限の疲労から解放されたような、静かな諦念だけがあった。
スーツケースを引き、玄関へと向かう。荒れ果てた部屋を最後に一瞥した。
靴箱の上に鍵を置くと、彼女は外へと踏み出した。
背後には、閉ざされた過去と、散らかった残骸、そして、二度と戻ることのない歳月が取り残されていた。