雪と共に消えた

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雪と共に消えた

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「ねね、ねね……」 耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。 蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。 彼女との結婚を叶える...

Chương (1)

第1章

「ねね、ねね……」 耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。 蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。 彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。 大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。 つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。 初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。 この幸せは、永遠に続くのだ、と。 しかし、結婚記念日の夜。 あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。 転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。 【琴音】 それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。 「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。 降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、二人は、ただの他人に戻る…… 第1話 「ねね、ねね……」 耳元で囁かれるその名は、初音への愛の証だと信じていた。 蓮は、初音を狂おしいほど愛していた。 彼女との結婚を叶えるため、彼は肌身離さず身につけていた高僧の数珠を彼女に贈った。 大雪の日には、霊峰寺への険しい山道を越え、願掛けのお百度参りまでして、彼女のために安産祈願の御守りを求めた。 つわりで彼女が「酸っぱいもの」を欲した夜は、季節外れの最高級の果物を国中から取り寄せた。 初音は思っていた。彼は全身全霊で私を愛してくれている、と。 この幸せは、永遠に続くのだ、と。 しかし、結婚記念日の夜。 あの日、彼から贈られた数珠の糸が切れ、床に散らばった瞬間、残酷な真実が露わになる。 転がった珠の一つ一つ、その内側に刻まれていたのは、初音の名ではなかった。 「琴音」 それは、十八歳でこの世を去った、彼の初恋の少女の名前。 「ねね」とは、初音の愛称ではなかった。琴音の「ねね」だったのだ。 降り積もる雪が、真実を覆い隠していただけ、雪が溶けた今、彼女と彼は、ただの他人に戻る…… …… 「琴音……」 雪見初音(ゆきみ はつね)はその名を乾いた声で呟いた。 葛城蓮(かつらぎ れん)は彼女を「ねね」と呼ぶ。情欲に溺れ、彼女の耳たぶを甘噛みする時も「ねね」と。 そして、仏壇の前の座布団に深く跪き、懺悔するようにその名を唱えていた。 「……ねね」 彼女はずっと、それが自分のことだと思っていた。初音の「ねね」だと。 だが違った。それは、白川琴音(しらかわ ことね)の「ねね」だったのだ。 初音はリビングの掃き出し窓の前に歩み寄った。眼下には帝都の煌びやかな夜景が広がっているが、冷え切ったこの別荘の中までその光は届かない。 彼女は携帯電話を取り出し、ある番号をダイヤルした。 「加藤先生、私です」初音の声は恐ろしいほど冷静だった。「中絶の手術を予約したいのですが」 携帯の向こうで、相手が三秒ほど絶句した。 「……冗談でしょう?葛城さんがどれほどこの子を待ち望んでいたか、今五ヶ月で下ろすなんて、母体にも……」 「もう、いらないんです」 初音は平坦な口調で医師の言葉を遮った。 「それと、医療廃棄物はすべて先生の手で処分してください。DNAサンプルは一切残さないで。費用は現金で三倍払います」 電話を切ると、初音はウォークインクローゼットへと向かった。 目立たない段ボール箱を見繕い、この三年間、蓮から贈られたプレゼントをすべて無造作に放り込む。 最後に、彼女は書斎の机に向かい、十分ほどで離婚届を書き上げた。 すべてを終えた時、壁の掛け時計が午前零時を指した。 結婚記念日が、終わった。 蓮は、まだ帰ってこない。 初音は連絡先のトップに固定されている【蓮】の文字を見つめた。親指が空中で長く迷っていたが、やがて画面をタップした。 プー、プー、プー…… 一度目、出ない。 二度目、出ない。 …… 十三回目にして、ようやく通話が繋がった。 だが、電話に出たのは蓮ではなかった。 「奥様?」 携帯から聞こえてきたのは、蓮の秘書である鈴木賢治(すずき けんじ)の声だ。 背後からは雑多な話し声と、微かに響く寺の鐘の音が混じって聞こえる。 「蓮は?」初音は短く尋ねた。 「あ、あの……社長……社長は今、本堂でご祈祷中でして!どうしても席を外せないんですよ」 賢治の口調には、隠しきれない焦りが混じっていた。 「奥様もご存じでしょう、今日は大安吉日ですから。社長は奥様とお子様のために、ご祈願を……」 賢治が電話を切ろうとしたその瞬間、操作を誤ってスピーカーモードになったらしい。 軽薄な男の声が響いた。蓮の友人の高村宏臣(たかむら ひろたか)だ。 「いやあ、さすが蓮だよな。あの手腕には恐れ入る。あのバカ女も『愚か者に福あり』ってやつか?三年間もただの『器』にされてるのに、帝都中の笑い者になってるとも知らず、蓮に愛されてると思ってるんだからな」 「しっ、声がでかいぞ」誰かが声を潜めて笑う。「しかしマジな話、琴音が本当に目覚めたら、初音の腹の中のガキはどうすんだ?」 「どうするも何も、あの女はただの生贄だろ?蓮が大先生に占わせたんだよ。初音と琴音の魂の波長がピタリと合うってな。初音という器を通せば、神仏から賜った生命力を琴音に絶えず流し込めるらしい。本命が目覚めたなら、中継ぎの器なんざ用済みさ」 「くくっ、蓮も琴音を目覚めさせるために必死だな。すべての祈願とエネルギーを一旦初音に集めてから、それを転送するなんて……まったく、エグい手使いやがる」 初音は携帯電話を握りしめた。指の関節が白く浮き上がり、全身の血液が逆流して頭に上るような感覚に襲われる。 そうか。彼が女色を断ち、私にだけ異常なほど執着して求めてきたのは、私の身体にある生命力を、あの琴音という女へ送るためだったのか。 「貸せ」 電話の向こうから、聞き慣れた涼やかな男の声がした。 瞬時に雑音が消える。 蓮が携帯電話を手に取ったのだ。 「ねね?」 彼の声は変わらず優しく、綻び一つない。「ごめん、お勤めの最中で着信に気づかなかった。まだ起きてたのか?いい子だからもう寝なさい。夜更かしは体に障るよ」 以前なら、この温かく甘い囁きを聞くだけで、初音の心は溶けていただろう。 だが今は、胃の底から吐き気が込み上げてくるだけだ。 「蓮」初音は努めて平静を装った。「どこにいるの?」 「霊峰だよ。君のために祈祷してる。こっちは雪がひどいんだ。明日帰る時に、君の好きな精進料理を買っていくからね」 「そう……」初音は窓の外で同じように降り始めた雪を見つめた。「蓮、私……」 「ゴホッ……ゴホッ……」 極めて微弱な咳き込む音が、唐突に携帯の向こうから漏れ聞こえた。 女の声だ。 蓮の常日頃の沈着冷静さが、その一声で音を立てて崩れ去った。 携帯電話が激しく揺れる音が、初音の耳に生々しく響く。 「琴音!?医者だ!早く病院に連絡しろ!目が覚めたぞ!! ねね、急用ができた、切るぞ!」 プツッ――ツーツー…… 初音はゆっくりと携帯を下ろし、再び窓の外へと視線を向けた。 帝都にも、雪が降り始めていた。 舞い散る雪片が、夜空を蹂躙するように荒れ狂っている。 三年前の冬を思い出す。蓮は今日のような大雪の中、一歩進んでは額を地面に打ち付け、血まみれになりながら祈り続けていた。安産祈願のお守りを一つ手に入れるために。 当時の彼女は涙を流して感動し、この男の深い愛情に一生をかけて報おうと誓ったのだ。 今思えば、なんと滑稽な話だろう。 彼が額を擦り付けて祈っていた内容は、恐らくこうだ。 御仏よ、願わくはこの女の寿命と運勢を代償に、我が愛しき琴音を、一日も早く目覚めさせたまえ。 初音は視線を落とし、掌で優しく隆起した腹部を撫でた。 胎児が母親の感情を察知したのか、ぽこりと小さく蹴った。 「赤ちゃん、ママを恨まないでね…… あなたが彼に望まれた生贄だと言うのなら、私たち一緒に……この悪縁を断ち切りましょう」 彼女は署名捺印済みの離婚届を手に取り、引きちぎられた数珠の下に置いた。 大雪が舞うこの結婚記念日に、蓮は最愛の人を取り戻した。 そして初音は、自らの愛情を葬り去った。 第2話 午前二時。帝都に降り注ぐ雪は、その激しさを増していた。 初音はガランとしたリビングに座っていた。テーブルの上には、署名欄だけが露わになるよう巧みに折られた離婚届が置かれている。 玄関から、携帯が解除される電子音が響く。 蓮が帰ってきた。 その手には保温容器が提げられている。顔には、初音が三年間見続け、そして愛し続けてきた温和な表情が張り付いていた。 「ねね、まだ起きてたのか?」 蓮は靴を脱ぎ、数歩で初音の前に歩み寄ると、保温容器をテーブルに置いた。その声はあまりに優しく、数時間前に高嶺の花のために電話を切った男と同一人物だとは到底思えない。 「霊峰寺の精進料理だ。大先生が直々に作ったもので、『巾着』が入ってる。君と子供に食べさせたくて、わざわざ持って帰ってきたんだ」 蓋が開けられると、料理はすでに冷めかけていた。青菜の端は変色し、「巾着」には一口かじった跡がある。 初音の胃の中で、何かが激しく逆流した。 彼の言う「わざわざ」とは、琴音の食べ残しを処理することだったのだ。 「どうした?黙り込んで」 初音の沈黙を見て、蓮は自然な動作で、彼女のふくらんだ腹を撫でようと手を伸ばす。 「赤ちゃんが暴れてるのかな?パパに見せてごらん……」 指先が服に触れるか触れないかの刹那、初音は反射的に身を引いた。背中が椅子の背もたれにぶつかり、ガタンと大きな音が響く。 蓮の手が空中で止まる。眉をひそめたが、すぐに慈悲深い仮面を被り直した。 「どうした?驚かせちゃったか?」 「静電気よ」 初音は冷ややかに言い放ち、全身を強張らせた。 つい先ほど霊峰で琴音の手を握り、彼女の涙を拭ったであろうその手。想像するだけで、肌の上を無数の蟻が這いずり回るような悪寒が走る。 蓮は手を引っ込め、疑う様子もなく、ただ呆れたように苦笑した。 「まったく。妊娠してから神経質になったな。冷めないうちに食べろ。この料理には俺が祈祷した功徳が込められてるんだから」 初音はその料理には手を付けず、手元にあった折られた書類を彼の方へ滑らせた。 「蓮、ここにサインして」 「なんだこれは?」蓮は一瞥しただけで、手に取ろうとはしない。 「保険の書類と、産検の免責同意書よ」初音は顔色一つ変えず、淡々と言った。「加藤先生が、来週の手術に家族のサインが必要だって。急ぎなの」 蓮が詳細を確認しようと手を伸ばした瞬間、ポケットの中の携帯が狂ったように震えだした。 画面には【病院】の文字。 彼の顔色が瞬時に変わる。通話ボタンを押す指先は、微かに震えていた。 「もしもし?なんだと!?心拍数低下?呼吸器のアラートが鳴ってるだと? すぐ行く!専門医を総動員しろ!いいか、あいつの身にもしものことがあってみろ……病院ごと潰してやるからな!」 電話を切るや否や、蓮は踵を返して飛び出そうとする。 二歩進んだところで、まだそこに座っている初音の存在を思い出し、足を止めた。 彼は振り返り、焦燥しきった表情で早口にまくし立てる。 「ねね、急用ができた。俺が直接行かなきゃならない。大人しく飯食って、早く寝ろよ」 初音は陰影の中に座ったまま、テーブルの上の紙を指先で軽く叩いた。 「サインがまだよ」 「あとでいいだろう……」 「加藤先生が今夜中に送らないとカルテ作成に間に合わないって」初音は彼の言葉を遮り、拒絶を許さない口調で告げる。 蓮は腕時計に目をやった。一秒遅れれば、それだけ琴音の危険が増す。 その書類が本当は何なのか、確認する余裕など彼にはなかった。大股で戻ってくると、テーブルの上のペンをひったくる。 「ここに書けばいいんだな?」彼は空白の欄を指差した。 「ええ」 紙の上をペン先が走り、サラサラという音が響く。 三年間の枷が、一瞬にして断ち切られた音だった。 蓮はペンを放り出し、コートを羽織りながら投げやりに言った。 「保険でも最高級の医療チームでも、好きなだけ使えばいい」 初音は、慌ただしく去っていくその高大な背中を見送り、遠ざかるエンジンの爆音を聞いていた。 彼女はサインが記された離婚届を手に取り、ゆっくりと口角を上げた。 「蓮、これでおしまいね」 第3話 彼女は立ち上がり、すっかり冷え切った料理を手に取ると、そのままゴミ箱へと流し込んだ。 初音は身を翻して書斎に入り、本棚の最上段から埃を被った道具箱を下ろした。 中には精密なピンセット、連筆、そして骨刀が入っている。 三年前、彼女は帝都博物館で最も若い絵画修復士だった。 当時、蓮はよく寺へ参拝に訪れており、脇殿で古文書の修復をしていた彼女と偶然出会ったのだ。 彼は仏像の落とす影の中に立ち、彼女の指先に注ぐ陽光を見つめながらこう言った。 「雪見さんの手は、時を修復しているんですね」 それは御仏が結んでくれた縁だと、彼女は思い込んでいた。 まさか自分が、病床に伏す彼の高嶺の花の命を繋ぐための、ただの生贄として選ばれただけだとは知らずに。 初音は携帯を取り出し、久しくかけていなかった番号をダイヤルした。 ワンコールで相手が出る。携帯の向こうから、老いた、しかし興奮した声が響いた。 「初音?お前なのか?やっと先生に連絡する気になったか?」 「先生、お久しぶりです」 初音は窓の外に舞う大雪を見つめた。その瞳は次第に冷徹な光を帯びていく。 「以前おっしゃっていたあのプロジェクト、まだ人は足りていますか?」 「古龍寺の壁画修復のことか?あれは過酷だぞ。古都に数年は缶詰めになるし、世間とはほぼ隔絶される。それに技術的な要求も極めて高い……」 「行きます」 初音は先生の言葉を遮った。その声は玻璃のように澄んでいた。 「壁画を修復したいんです。帝都を離れたい。できるだけ遠くへ」 「よし!よく言った!」 先生は喜びを露わにした。 「お前が来てくれるなら、枠はずっと空けておくつもりだった!我々の修復界からお前がいなくなるなんて、どれほどの損失かと思っていたんだ!」 通話を終えると、初音はかつてない解放感を覚えた。 帝都を離れるまで、カウントダウン七日。 古都へ向かう最短のフライトは、七日後の便しかなかったのだ。 その時、携帯の画面が明るくなった。 知らない番号からのメッセージだ。 初音はそれを開いた。 写真はICUの病室を写していた。 蒼白く痩せ細った手首に、見覚えのある沈香の数珠がかけられている。 昨日、砕け散ったはずのあの数珠だ。 すべての珠の亀裂が、最高級の金継ぎによって修復されていた。ひび割れには金粉が埋め込まれ、灯りの下で煌めき、以前よりもさらに高価な品に見える。 昨夜の彼の無断外泊は、徹夜で愛しい人のために数珠を直していたからだったのか。 写真の下には一行、こう添えられていた。 【真実の愛だけが、一度壊れたものを完全にする】 続いて、同じ番号から動画が送られてくる。 動画の中の蓮は、ワイシャツの袖を肘まで捲り上げ、薬椀を手に病床の縁に座っていた。 彼は匙ですくった煎じ薬をふーふーと冷まし、琴音の唇へと運ぶ。 琴音は微かに眉をひそめ、蓮の手から一口飲むと、すぐに嫌そうに顔を背けた。 「苦い。もう飲みたくないの」 「いい子だ」 蓮は極めて根気強くあやす。 「これを飲み干さないと、身体が良くならないだろう」 間髪入れず、もう一つのメッセージがポップアップする。 【彼はあなたと子供のために徳を積むと言って、天蔵山へ七日間の籠りに行ったそうね。本当は、私のリハビリに付き合ってくれているのよ】 初音が返信する間もなく、今度は蓮からのメッセージが画面に弾け出た。 【ねね、霊峰の大先生から言われたんだが、君と子供の無事を祈願するために、天蔵山で七日間、籠って祈祷する必要があるそうだ。山中は電波が悪いから、連絡がつかなくても心配しないでくれ。家で大人しく養生して、俺の帰りを待っていてほしい】 初音はその文面を三秒間見つめ、ただ一言、返した。 【了解】 一日目、帝都の雪は降り止まなかった。 蓮との連絡も、本当に途絶えた。 初音は彼を探そうともせず、ただ静かに別荘で過ごした。 そして四日目。宏臣がSNSにある写真を投稿した。 雪が舞い散る梅園での一枚だ。 痩せた琴音を背負った蓮が、雪道を一歩一歩踏みしめて歩いている。 琴音は彼の広い背中に身を預け、手には手折った紅梅を持ち、あでやかに笑っていた。 蓮はわずかに顔を横に向け、その眼差しは溺愛と献身に満ちている。 宏臣の投稿文にはこうある。 【結局、彼女の元へ戻るんだな。この満開の紅梅も、やはり真実の愛で結ばれた二人が見てこそお似合いだ】 初音は思い出した。自分も梅園に行きたいと言ったことを。 当時、妊娠初期でつわりが酷かった彼女は、少し外の空気を吸いたかったのだ。 だが蓮は眉をひそめ、手の中で数珠を繰りながら言った。 「梅園は陰の気が強い。胎児に障ったらどうするんだ?ねね、我が儘を言うな」 梅の花の陰気が強かったわけではない。花を愛でる相手の心の中に、別の誰かが住み着いていただけだったのだ。 初音は携帯を置き、蓮が普段最も大切にしている仏間へと足を踏み入れた。 経机の上には、この三年間、蓮が彼女のために手ずから写経した心経や、各地で求めたお守りが積み上げられている。 仏間の中央に立ち、彼女はマッチを擦った。 炎が和紙を舐め、パチパチと音を立てる。 【妻・ねねの、幾久しい安寧を願う】と書き連ねられた経文は、火光の中で急速に丸まり、灰へと変わっていく。 次は茶室へ向かい、蓮が特注した茶器の「静寂」を一つ、また一つと床に叩きつけた。澄んだ破砕音は、彼女の心が砕ける音に似ていた。 さらに衣裳部屋へ戻り、蓮が厳選した地味な着物を引っ張り出すと、鋏で一寸また一寸と切り刻んだ。 彼にとっての理想の妻の象徴である高価な布地も、彼女にとっては枷でしかなかった。 最後のお守りを燃やし尽くすと、初音は窓を押し開けた。 吹き込んだ寒風が、部屋に充満していた灰を巻き上げ、彼方へと散らしていった。 第4話 蓮が帰ってきたのは、ちょうど七日目の夕暮れ時だった。 旅の埃をまとい、その端正な眉目には隠しきれない疲労が滲んでいる。 「ねね、ただいま」 彼はコートを脱ぎながら、空っぽになった仏壇の経机に目をやり、一瞬だけ動きを止めた。 「お経の本が少し湿気っていたみたいだから、松島さんに頼んで手入れに回してもらったの」と、初音は説明した。 蓮は疑いもしなかったし、そもそも経典の行方になど関心がない。深情けな夫を演じるのに支障がなければ、それでいいのだ。 「そうか」 蓮は歩み寄り、ポケットからベルベットの小箱を取り出した。中には精巧な瑪瑙のブレスレットが鎮座している。 「天蔵山の住職に直々に祈祷してもらったんだ。安産のお守りだよ」 蓮は初音の手首を掴むと、有無を言わさずその数珠を彼女の腕に通した。 そのブレスレットは酷く趣味が悪く、蓮のいつもの洗練された美意識とはかけ離れていた。 初音の脳裏に、昨日見た琴音のSNSの写真がよぎる。 そこにはこう添えられていた。 【大先生のご祈祷済みアイテムとか、ダサすぎて無理。私のキャラじゃないし、必要な人にあげちゃおっと】 テーブルを拭いていた家政婦の松島(まつしま)が、その光景を見て感嘆の声を漏らす。 「旦那様は本当に慈悲深いお方ですね。奥様のことを心の底から愛していらっしゃる。奥様とお腹のお子様のために、あんな遠くまでお参りに行かれるなんて、まさに理想の旦那様ですわ」 初音は手首の瑪瑙を見つめ、胃の奥から込み上げる吐き気を必死で抑え込んだ。 「ええ、本当に……骨身に染みるわ」 突然、チャイムが鳴り響いた。 蓮が玄関に向かうよりも早く、松島が来客を招き入れる。 「ご旧友だというお嬢様がいらっしゃいました」 大理石の床を車椅子が転がる音が、やけに鮮明に響いた。 琴音は車椅子に座り、膝に厚手のカシミヤのブランケットを掛け、子猫を抱いてアシスタントに押されていた。 顔色は青白かったが、初音に向ける視線には明らかな挑発が宿っている。 「蓮……」 琴音の声は甘ったるく、どこか病的な弱々しさを帯びていた。 「お医者さんがね、もっと人の気配がある場所にいた方がいいって。病院にはもう居たくないけど、行くあてもなくて……蓮を頼るしかなかったの」 蓮は眉を寄せ、反射的に初音を盗み見た。何か言い訳しようとしたその時。 琴音は勝手に車椅子の向きを変え、豪華で典雅なリビングルームを物欲しげに見回し始めた。 「こちらが初音さんね?」 彼女は初音に愛想よく微笑みかけたが、そこには敬意のかけらもない。 「琴音よ。葛城家の支援で育った孤児で、蓮はずっと実の妹みたいに可愛がってくれたの」 「妹?」 初音はその言葉を咀嚼し、口元に皮肉な笑みを浮かべた。 琴音は初音の反応など意に介さず、飾り棚を指差して、驚きと懐かしさをない交ぜにした声を上げた。 「あら、この紫檀の飾り棚、それにあの琴を置くスペース、部屋中に漂うお香の香りまで……全部、蓮が私の好みに合わせて設えてくれたものだわ」 琴音は車椅子の上からリビングの調度品を一通り眺めると、最後に強張った表情の蓮に視線を戻し、天真爛漫に笑った。 「蓮、私がいつ住むことになってもいいように、わざと変えずに残しておいてくれたんでしょ?」 蓮は慌てて初音を見た。彼女が無表情なのを見て、こめかみをひきつらせながら、ぎこちなく遮った。 「琴音、それは昔の話だ。君は体が弱いんだから、医者の言う通り静養しなさい。余計なことは考えなくていい」 彼は話題を逸らそうとしたが、琴音はすでに修復を終えたばかりの絵の前に移動していた。 「この絵、直ったのね?」 琴音は指先で宙をなぞるように、絵の中の女性の顔に触れる真似をして、初音を振り返った。 「初音さんって、本当に腕がいいのね」 彼女はくすりと笑い、自慢げに言った。 「当初、蓮が十億円も出してこの残欠を競り落として、わざわざ初音さんに修復させたのは、この描かれた女性の目元が私にそっくりだからなんですって」 琴音は口元を手で覆い、わざとらしく拗ねてみせた。 「どこが似てるのかしら、私こんなに太ってないのに。でも蓮ったら、これが私への想いの証だなんて言うのよ。初音さん、蓮ってば本当に過去に執着する人だと思わないの?」 初音は彫刻刀を道具入れにしまい込んだ。留め具がパチンと乾いた音を立てる。 蓮はそばで視線を泳がせていたが、否定はしなかった。 初音は心の中で冷笑した。 十億円。三ヶ月の徹夜作業。 結局のところ、私は夫の想い人のためのグッズ作りを手伝わされていただけだったのだ。 「ええ、執着心が強いわね」 初音は道具箱を持ち上げ、蓮を一瞥した。 「家のゴミ箱ひとつ換えるのさえ惜しむくらいだもの。たとえ中身がゴミで溢れかえっていたとしてもね」 琴音の笑顔が凍りつく。 蓮は顔色を変え、とりなすように言った。 「ねね、なんて言い草だ。琴音は亡き友人の遺児で、身寄りのないかわいそうな子なんだぞ。もっと理解してやれ」 慈悲深い言葉ばかり並べ立てるこの男を見て、初音は再び強烈な吐き気に襲われた。 「食事にしましょう」 彼女は背を向けてダイニングへと歩き出した。これ以上、一文字たりとも言葉を交わすのは億劫だった。 食卓には、異様な空気が漂っていた。 蓮が上座に、左手に琴音、右手に初音が座る。 テーブルには海老のボイルが並んでいた。 蓮はごく自然に一尾手に取り、殻をむき、背ワタを取り除く。その手つきは流れるように滑らかだ。 そして、その海老を初音の皿に置いた。 「たくさんお食べ。妊婦にはタンパク質が必要だからね」 蓮の声は優しい。 続いて彼は、琴音の皿からパクチーを丁寧に箸でつまみ出し、殻入れに捨てた。 「君は小さい頃からこれが苦手だったね。松島さんも、もう歳で気が回らなくなったかな」 琴音は甘く微笑んだ。 「ありがとう蓮、覚えててくれたんだ」 初音はうつむき、皿の上に置かれた剥き身の海老を見つめた。 結婚して三年。 自分はこの男のせいで、海老アレルギーを引き起こして二度救急搬送され、一度はショック状態に陥ったこともある。 彼は、すっかり忘れているのだ。 いや、そもそも覚える気など、最初からなかったのかもしれない。 第5話 「どうして食べない?」蓮は箸を動かそうとしない彼女を見て、眉をひそめた。「さっきのことをまだ根に持っているのか?ねね、君は昔もっと物分かりがよかったはずだぞ」 初音は無表情のまま箸を置いた。 「お腹いっぱい。お二人はごゆっくり」 蓮の顔色がさっと曇り、何か言いかけたその時、琴音がいきなり手元の湯呑みを持ち上げ、しおらしい声で言った。 「初音さん、怒らないで。全部私が悪いの。勝手に入ってきたりして……料理、口に合わないなら、これ飲んでみて?奮発して買ったいい茶葉なの。すごく美味しいから」 彼女は車椅子を初音のそばまで進め、熱々の茶を差し出した。 初音はその茶番を冷ややかに見下ろすだけで、受け取ろうとしない。 だが琴音は強引に湯呑みを彼女の手に押し付けようとした。 二人の指先が触れ合った、その瞬間。 琴音が突然悲鳴を上げ、車椅子ごと後ろへ倒れ込んだ。 ガチャン! 湯呑みが砕け散り、熱々の茶が床にぶちまけられる。 「きゃあっ!初音さん、押さないで!!」 悲鳴が別荘の静寂を引き裂く。 初音はその場に立ち尽くし、琴音が後ろへ倒れていく様をただ見ていた。 蓮が猛然とダッシュし、間に立っていた初音を乱暴に突き飛ばすと、琴音が床に激突する寸前、自らがクッションとなって彼女を死守した。 ドサッ! 二人は激しく床に倒れ込む。 一方、蓮に力任せに突き飛ばされた初音はバランスを崩し、そばにあった木製の階段の手すりに勢いよく身体を打ち付けた。 腹部が、硬い角に直撃する。 「うっ……」 初音はくぐもった声を漏らし、手すりに沿ってずるずると座り込んだ。 股に生温かい液体が伝い落ち、淡い色のルームパンツが鮮血に染まっていく。 「琴音!琴音、大丈夫か?頭は打ってないか?」 蓮は琴音を抱きしめ、取り乱した様子で彼女の身体を確認する。その視線は、初音の方へは一瞥も向けられない。「怖くないぞ、俺がいる。もう大丈夫だ、大丈夫だから……」 琴音は彼の腕の中でガタガタと震え、初音を指差して泣きついた。「蓮、初音さんが……私を突き飛ばしたの……」 初音は床にへたり込み、腹部の激痛で視界が霞んでいくのを感じていた。 救急車はすぐに到着した。 蓮は腫れ物に触るように琴音を抱き上げ、ストレッチャーに乗せると、救急車の広いスペースを彼女に独占させた。 彼は振り返り、床に座り込んだまま出血している初音を見下ろした。その瞳にあるのは、明らかな苛立ちだった。 「ねね、お前のせいでこうなったんだぞ。少しは我慢して、助手席に乗ってくれ」 氷のような言葉が初音の心に突き刺さる。彼女はただ、約束の七日後が早く来ることを願うしかなかった。 …… 病院、救急救命室。 空気には消毒液の匂いが充満している。 蓮はベッドの脇に立ち、顔色の悪い初音を見ていた。その目には、苛立ちの後に湧き上がった罪悪感が混じっている。 「ねね、不注意にも程がある」蓮は怒りを押し殺すように言った。「琴音はあんなに身体が弱いんだ。どうして突き飛ばしたりしたんだ?彼女が無事だったからいいようなものの、もし何かあったら、亡くなった彼女の両親にどう顔向けすればいい?俺は彼女を一生守ると誓ったんだぞ!」 初音は目を閉じていた。点滴の滴だけが、ポタリ、ポタリと落ちている。 そこへ、年配の産婦人科医が検査結果を手に現れた。眉を寄せ、どこか不可解そうな表情を浮かべている。 「葛城蓮さん、ですね?」医師は眼鏡の位置を直し、蓮と初音の顔を交互に見比べた。「患者さんのお腹ですが……少しおかしな点があります」 蓮の心臓がドクリと跳ねた。「子供に何か?」 初音の出血を見た瞬間、彼も内心では焦っていたのだ。 琴音を助けるためとはいえ、まさか本当に子供を殺すつもりなどなかった。 医師はエコー写真を指差し、疑惑に満ちた口調で言った。「流産?いや、そうは見えませんね。患者の子宮内膜は滑らかで整っています。これはどちらかと言うと、正規の手順で行われた……」 初音の脳裏に、三日前の手術室での記憶がフラッシュバックする。 彼女はたった一人で冷たい手術台に横たわっていた。麻酔なしで。 加藤先生は見るに見かねた様子だった。「本当によろしいのですか?もう一度考え直してみては……」 初音はうつろな目で天井を見つめた。「始めてください」 冷たい器具が体内に侵入し、身を切り裂くような激痛が襲う。 彼女は唇をきつく噛み締め、うめき声一つ漏らさなかった。 あれは彼女の子供であり、同時に蓮が琴音のために求めた生贄でもあった。 自らの手で宿した命ならば、この苦界から自らの手で解き放ってやるしかない。 第6話 「……人工中絶手……」 医師の言葉は、途中で遮られた。 激しい破砕音が、医師の言葉を遮った。 初音が、薬の入った湯呑みを床に叩きつけたのだ。 飛び散った飛沫が蓮のスラックスの裾を黒く濡らす。その染みを見下ろす彼の表情は、苛立ちと失望で曇っていた。 「初音、正気か?」 蓮の声が低く沈む。それは上位者特有の、威圧を含んだ叱責だった。 「医師が病状を説明している最中に、何の癇癪だ。ここは病院だぞ。お前がわがままを通す場所じゃない」 「疲れたわ」 初音は手を引っ込め、掠れた声で言った。 「その人を出して。聞きたくないの」 医師は額の冷や汗を拭い、濡れてしまった検査表を拾い上げた。 「コ、ホン……葛城さん、患者様は情緒不安定でいらっしゃいます。確かに刺激は避けた方がよろしいかと。大量出血の兆候も見られませんので、まずは安静にして経過観察を……」 そう言い残すと、医師は逃げるように病室を出て行った。 救急処置室には、二人だけが残された。 医療機器が刻む単調な電子音だけが響く。それはまるで、この結婚生活の終わりを告げるカウントダウンのようだった。 蓮は初音の蒼白な横顔を見つめ、こみ上げる怒りを辛うじて押し殺した。 彼は歩み寄り、ポケットからハンカチを取り出して、点滴の逆流で汚れた彼女の手の甲を拭おうとした。だが、初音は身を翻してそれを避けた。 蓮の手が空中で止まる。彼は諦めたように溜息をついた。 「ねね」 彼は声のトーンを和らげ、いつもの温厚な表情を取り繕った。 「腹が立つのもわかる。さっき俺が琴音を先に助けたことを恨んでるんだろう。だが道理を考えてくれ。あの状況、琴音は車椅子生活で、自衛能力なんて皆無だ。俺が守らなければ、彼女は命を落としていたかもしれない」 初音は目を閉じたまま、睫毛を微かに震わせた。 黙り込む初音を見て、蓮は彼女が聞き入れたのだと解釈した。 「琴音は不憫な身の上だ。幼くして両親を亡くし、身体もあんな状態になってしまった。お前は仏門に帰依する家の嫁であり、この蓮の妻だ。普段から写経や念仏を嗜んでいるのだから、もっと寛容さを持つべきだ」 病院特有の消毒液の臭いが、蓮の身に纏う白檀の香りよりも鼻につく。 初音が入院していた三日間、蓮は「良き夫」という役を見事に演じきった。 彼は病室にわざわざ執務机を運び込ませ、そこで仕事をこなし、片時も彼女とお腹の子から離れずに守っているという体裁を整えた。 だが実際には、個室のドアは一時間おきに静かに開かれた。 「琴音が暗いと怖がるから、電球を見てくる」 「琴音の薬の時間だ。看護師の手際が悪いと心配だから、見てくるよ」 「琴音が悪夢を見たようだ……」 初音はベッドに横たわり、蓮が出入りするのを静かに見つめていた。 あの転倒は、琴音が以前から画策していたことだ。 だが初音にとっては、これ以上ない好機だった。 それが流産の原因――中絶手術を受けたことを覆い隠し、すべてを理にかなった「不慮の事故」へと変えてくれたのだから。 だが、蓮はそれを知らない。 「ねね、会社の方で案件が山積みでね」 蓮がドアを開けて戻ってきた。眉間には焦燥の色が滲み、その体からは隣の病室の百合の香りが漂っている。 「琴音の方には特別看護師を手配した。今日は退院だ。雲水軒を予約したから、何か美味いものでも食べて、厄落としといこう」 初音の視線は、彼の襟元に付着した一本の長い髪に注がれた。 「わかったわ」 …… 雲水軒は帝都で最も名高い料亭であり、蓮が以前よく彼女を連れてきた場所でもあった。 「これらは全部、君の好物だろう」 蓮は慣れた口調で店員にメニューを渡した。 「ここの豆腐は絶品だ。油も塩も控えめで、体に一番いい」 料理はすぐに運ばれてきた。 味気なく、どこか苦渋さえ感じる「絶品」の豆腐。それはまるで、仏壇に供えられた御霊供膳のようだった。 初音は目の前に並ぶ料理を見つめ、口元に自嘲の笑みを浮かべた。 彼女は本来、辛いものがなければ食が進まない質だ。 彼に合わせるために、三年間も無理やり淡白な食事を続けてきただけだ。 そのせいで、彼はこれが初音の大好物だと信じ込んでいる。 「どうした、食べないのか?」 蓮は優雅な所作で青菜を摘み、彼女の器に入れた。 「まだ数日前のこと、構えなかったことを根に持っているのか?」 初音は一口分を箸で摘み、口に運んだ。 苦い。 その苦味は、心の底まで染み渡るようだった。 「蓮」 初音は箸を置き、消え入りそうな声で言った。 「この豆腐、琴音も好きなの?」 蓮の箸が止まる。彼は平然とした顔で答えた。 「彼女は体が弱いから、こういうさっぱりしたものしか口にできないんだ。どうしていつも琴音の話をする?さあ、食べなさい」 初音はそれ以上何も言わず、ただ機械的に椀の中の白米を一粒ずつ飲み込んだ。 食事が終わる頃には、日はすっかり落ちていた。 蓮はどこからかスカイランタンを取り出した。 「今夜は流星群だそうだ。見えなくても、灯りを飛ばすのも悪くないだろう」 蓮は初音の手を引き、テラスへと連れ出した。 凛冽な寒風が吹き荒れ、初音は厚手のカシミヤコートをきつく合わせる。 蓮は彼女の背後に立ち、両腕を彼女の腰に回すと、筆を持つ彼女の手に自分の手を重ねた。そしてスカイランタンにこう書き記した。 【妻と子が、いつまでも幸せでありますように】 書き終えると、蓮の大きな掌がコートの隙間から滑り込み、セーター越しに初音の下腹部に触れた。 初音の身体が強張り、無意識に身を捩る。 「動かないで」 蓮は頭を下げ、顎を彼女の肩の窪みに乗せた。温かい吐息が耳元にかかる。その口調は、未来への期待に満ちていた。 「今回は危なかったが、こいつが無事なら御仏のご加護だ。子供が生まれたら霊峰へお礼参りに行こう」 彼の手のひらは温かく、優しく下腹部を撫でている。 五ヶ月の身重なら、本来ならふっくらとしているはずだ。 だが今、そこは平坦だった。 少しでも心を配っていれば、掌の下が空っぽであることに気づくはずなのに。 だが、彼は気づかない。 彼は自分自身が作り上げた深情けな夫という幻想に浸り、中身を失った虚ろな揺り籠に向かって、未来の願いを捧げているのだ。 「蓮」 初音はゆっくりと夜空へ昇っていくスカイランタンを見上げた。揺らめきながら暗闇へと消えていく灯りを見つめ、唐突に問いかけた。 「結婚したのは、私のことが好きだったから?それとも、琴音の延命のため?」 第7話 蓮は初音の腹部に置いていた手をふと止め、すぐに引っ込めた。 彼は背を向け、新調したばかりの紫檀の数珠を指で繰り始めた。 「初音、最近の君は心が乱れている」 蓮の声は冷え冷えとしており、どこか高みから教え諭すような響きを帯びていた。 「邪念が強すぎる。それゆえ、業を引き寄せてしまうのだ。後で写経用の経典を何巻か届けさせよう。家で二度ほど書き写し、心を鎮めなさい」 初音は彼の背中に向かって振り返り、常に波風一つ立たないその瞳を真っ直ぐに見つめた。 その瞳には彼女の姿が映ってはいたが、そこに彼女自身は存在していなかった。 「そうね、心を静めなきゃいけないわね」初音は口元だけで笑った。「だって私は、あなたが生命力を移し替えるための『生贄』なんだもの。私に怨念が混じっていたら、その力が濁ってしまうでしょう?そうよね?」 「初音!」 蓮は低く叱責し、その眉間に怒りの色を滲ませた。 「衆生は平等、慈悲の心を持てとあれほど……お前はどうしてそう人の心を闇の方へと解釈するのだ。琴音への想いは、単なる兄妹の絆みたいなもんに過ぎない。俺が愛しているのはお前だけだ……」 彼は初音の頬に触れようと手を伸ばし、上体をわずかに前へ傾けた。その唇が、彼女の額に落ちようとする。 初音は顔を背け、避けた。 蓮の唇は彼女の髪をかすめて空を切り、虚しく宙に浮く。 場の空気が、氷点下まで凍りついた。 彼が感情を爆発させようとしたその時、琴音専用の着信音が鳴り響いた。 蓮は慌てふためいて携帯を取り出し、通話ボタンを押す指さえも震わせていた。 「琴音?どうした?」 電話の向こうから、琴音のヒステリックな泣き叫ぶ声が聞こえてきた。スピーカーにしていなくとも、静まり返ったテラスではその声がはっきりと聞き取れた。 「蓮……痛いよぉ……生きてるのが辛いよ……初音さんに疎まれて、私の存在が蓮を苦しめるだけなら、いっそこの命、御仏にお返しする…… 血……血がいっぱい……」 「琴音!バカなことを言うな!!」 蓮は絶叫した。平時の冷静沈着な姿は見る影もない。 彼は電話を切ると、踵を返して走り出した。ほとんど全力疾走に近い勢いだ。 初音の横を通り過ぎる際、彼は足を止めることすらせず、振り返りもせずに冷たい言い訳だけを投げ捨てた。 「琴音の持病が悪化した。精神状態も不安定だ、助けに行かねばならん。帰りは自分でタクシーを拾ってくれ」 そう言い残し、その背中は階段の陰へと瞬く間に消えていった。 初音はコートの襟をかき合わせたが、タクシーを呼ぼうとはしなかった。 彼女は携帯を取り出し、位置情報アプリを開く。 蓮の車には、GPS発信機を取り付けてある。 二十分後。 一台のタクシーが、琴音が仮住まいとしている山手の療養所の前に停まった。 いつの間にか空は暴雨に見舞われていた。帝都の冬の雨はみぞれ交じりで、肌に当たると痛いほどだ。 初音は黒い傘を差し、療養所の装飾が施された鉄格子の門の前に立った。柵の隙間から、敷地の中を覗き見る。 琴音の車椅子は、渡り廊下の下に停まっていた。 彼女の手首には分厚い包帯が巻かれ、そこから鮮血が滲んでいる。彼女は背もたれに弱々しく寄りかかり、顔は涙で濡れていた。 そして蓮は、泥濘んだ雨の地面に跪き、琴音の傷ついた手首を捧げ持っていた。 彼は頭を垂れ、卑屈なほど恭しく、包帯の縁に口づけを落としている。 だが、蓮の口づけも琴音を鎮めることはできなかった。 「もう生きていたくない!私が死ねば、蓮はもう私と初音の間で板挟みになって苦しまなくて済むんでしょ!」 琴音は泣き叫び、蓮を突き飛ばした。 彼女は狂ったように両手で車椅子のハンドリムを回し、門の外へ続く山道へと突進した。 蓮は突き飛ばされてよろめいたが、泥水で汚れるのも構わず、叫びながらその後を追った。 「琴音!止まれ!!危ない!!」 その時、物資を運ぶ大型トラックが正面から迫ってきた。 耳をつんざく急ブレーキの音が雨のカーテンを引き裂き、ヘッドライトが闇を貫いて、無数の雨粒を白く照らし出した。 車椅子は濡れた路面で制御を失い、強烈な光の中へと真っ直ぐに突っ込んでいく。 初音は傘の柄を握る指に、わずかに力を込めた。 蓮は一瞬の躊躇もなく、その身を投げ出した。 巨大な衝撃音が響き、二つの人影が吹き飛ばされた。ひしゃげた車椅子もろとも、数メートル先まで転がっていく。 蓮の衣服は瞬く間に鮮血に染まり、この暴雨の夜において、その赤さは驚くほど鮮烈だった。 傘の縁が初音の視界を遮ったが、漂ってくる濃厚な血の匂いまでは防げない。 私のためにお守りを貰いに行く時でさえ、膝が痛むからと膝当てをつけていた男が。 他の女のためになら、命さえ惜しくないというのか。 第8話 病院の手術室前は、まさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。 葛城家のボディガードたちが厳重な包囲網を敷く中、長椅子に座り込んだ琴音は全身ずぶ濡れで、顔を覆うのが雨なのか涙なのか判別もつかない。膝には血に染まった毛布がかけられ、手には引きちぎられた数珠が固く握りしめられていた。 初音の姿を認めるや否や、琴音は車椅子の肘掛けを激しく叩き、彼女を指差して絶叫した。 「全部あんたのせいよ!あんたが葛城夫人の座に居座ってるから、蓮は私の気を引こうとして事故に遭ったのよ!全部あんたが悪いんだわ!」 彼女は泣きながら笑い、狂気を帯びた表情を見せた。 「彼はあんたのことなんて愛してない!少しでも分別があるなら、さっさと葛城家から出て行ってよ!その場所を譲りなさい!」 「譲る?」初音の声は冷ややかだった。「それには相応の資格が必要だけど、あなたにそれがあるの?」 「あんた……」 その時、手術室の扉が開いた。 執刀医が危篤通知書と手術同意書を手に飛び出してくる。 「ご家族の方は?胸腔内出血に多発骨折、一刻を争う状態です。すぐに同意書へのサインを!」 琴音が手を伸ばして奪い取ろうとしたが、医師は彼女を無視し、その場にいる唯一の正当な家族へと視線を向けた。 琴音は車椅子の上で硬直したが、すぐに甲高い冷笑を漏らした。 「書かせればいいわ!いくら『奥様』だからって何よ。蓮が死んだら、こいつには一銭も入らないんだから!」 そこへ、蓮の顧問弁護士が二人の助手を連れて駆けつけてきた。 初音の姿を見ると、弁護士は眼鏡の位置を直し、気まずそうに、しかし事務的に告げた。 「奥様、葛城社長が生前に作成された公正証書遺言によりますと……万が一の事故で亡くなられた場合、名義にある葛城グループの全株式、信託基金、および海外資産はすべて、白川琴音さんに譲渡されることになっております」 その場の全員の視線が初音に集中した。 弁護士は一呼吸置き、付け加えた。 「社長が奥様に遺されたのは、現在お住まいの『天空の邸』と……向こう三年の生活費のみです」 「聞こえた?」琴音は狂ったように笑い、その瞳には悪意に満ちた快感が溢れていた。「数千億の資産は私のもの。あんたには古臭い家がお似合いよ!蓮にとって、あんたなんて私の足元にも及ばない。路傍の石ころ同然なのよ……あぁ、滑稽だわ!」 初音は静かに聞いていた。視線は医師の手にある同意書に落ちたまま、動こうとしない。 「あんたには良心がないの?蓮が死にかけてるのに何を迷ってるのよ!この恩知らず!蓮があんたなんかと結婚したのは間違いだったのよ!」 背後で琴音が喚き散らす。 初音の視線は人混みを抜け、固く閉ざされた手術室の扉へと向けられた。 脳裏に蘇るのは、三年前の大雪の日。 霊峰にて、蓮が彼女のためにお百度参りをし、一心にお守りを求めた姿だ。 額から血を流しながらも、彼は笑顔で言った。 「ねね、これさえあれば、君はずっと平穏無事だ」 過去の美しさは真実であり、今の痛みもまた真実だ。 彼を憎んでいる。だが、自分の手で彼を死へ追いやることもできなかった。 ついに初音はペンを受け取り、震える手で同意書に自分の名前を記した。 「先生、お願いします」 初音は書類を医師に返す。 そう言い残し、彼女は背を向け、魂が抜けたような足取りで雨の中へと消えていった。 三日後、蓮は骨折の痛みに耐えて退院した。 あの日の騒ぎは葛城グループ広報部の手によって跡形もなく揉み消され、世間では葛城社長は地方へ視察に行っていることになっていた。 初音はリビングのソファに座り、花の手入れをしていた。 ドアが開く音がしても、顔を上げない。 「ねね」 蓮は黒いタートルネックのカシミヤセーターを着て首元まで覆い、その上にゆったりとしたトレンチコートを羽織って体型の異変を隠していた。 ただ歩くたびに、左足がわずかに引きつるのが、彼の身体の状態を物語っていた。 パチン。 初音が枝を切る音が、静まり返ったリビングにひときわ鮮明に響く。 蓮は彼女の隣に腰を下ろした。額には脂汗が滲んでいるが、それでも無理をして穏やかな笑みを浮かべる。 「視察が少し長引いてしまったな。心配かけた」 「視察は順調だった?」初音は剪定ばさみを置き、澄んだ瞳で彼を見つめた。 蓮の瞳が一瞬揺らいだ。無理に座り直そうとした時、左足の強張りが彼を一瞬だけ止める。 「ああ、順調だったよ」 初音の心に冷笑が浮かぶ。 彼女はこの目で見ていたのだ。彼が琴音のためにトラックに跳ね飛ばされる瞬間を。手術室の前で生死の境を彷徨う姿を。昏睡状態で琴音の名を呼ぶ声を。 それなのに、彼は「順調だった」という一言で、すべてを軽々しく塗り潰そうとしている。 この男にとって、自分は真実を告げるに値しない存在なのだ。 残っていたわずかな愛も、この瞬間に完全に灰となって消え失せた。 蓮は彼女の冷めた感情に気づくことなく、彼女の前に回り込んでしゃがみ込んだ。 彼の視線は初音の腹部に注がれ、怪訝そうに眉を寄せた。 「なんだか、お腹があまり大きくなってないな?もう五ヶ月なのに、四ヶ月にも満たないように見える」 第9話 初音は一瞬、言葉を詰まらせた。 「最近、食欲がないだけよ」初音の声は平坦だった。 「栄養が足りてないんじゃないか?」 蓮が手を伸ばして触れようとするが、初音はそれを避けるように身を引いた。蓮は構わずその手を握りしめ、心底心配しているような声を出す。 「これからは霊峰寺の厨房に頼んで、毎日食事を届けさせるよ。外のものは体に悪いからな」 初音は心の中で冷笑した。だが、表情には微塵も出さない。 「好きにして」 蓮はキッチンへ立ち、黒く濁った液体の入った椀を持って戻ってきた。 「山の大先生に頼んで、特別に作ってもらった安産の秘薬だ」 蓮は彼女の向かいに座り、スプーンで煎じ薬をかき混ぜながら、優しい眼差しを向ける。 「大先生が言うには、君は最近業が深いそうだ。だから、この薬には香灰と数種類の生薬が入ってる。厄を落として、俺たちの子が無事に生まれるようにってな」 「熱すぎるわ。冷ましてから飲む」初音はそっけなく答えた。 蓮の携帯が突然震えた。画面には高村宏臣の文字が点滅している。 彼は携帯を手に立ち上がり、テラスへと向かう。 「電話だ。冷めないうちに飲めよ。冷え切ったら効果が薄れる」 テラスのガラス戸が閉まり、音が遮断される。 初音は椀を手に取り、その中身を一滴残らず植木鉢に注ぎ込んだ。 電話を終えた蓮が戻り、空になった椀を見て満足げに笑む。 「いい子だ。苦かったか?」 「ええ、苦かったわ」初音は彼を見つめ、含みを持たせて答えた。 「良薬は口に苦し、だよ」蓮は彼女の頭を撫でた。「会社でトラブルがあってな。二、三日は戻れない。家で大人しく体を休めていてくれ」 そう言い残し、彼はジャケットを羽織って慌ただしく出て行った。 わずか二時間後。 あれほど青々としていた植木の葉が、見る見るうちに黄色く変色し、枯れ果てていった。 いわゆる安産の秘薬などではない。これは命を奪う毒だ。 夕暮れ時、初音は二階の書斎の前を通りかかった。 ドアは半開きになっており、中から激しい口論が聞こえてくる。蓮が戻ってきていたのだ。秘書の賢治と、数人の腹心を連れて。 「社長、正気か!?」 賢治の声は低く抑えられていたが、動揺は隠せない。 「白川家は傾いた社運を立て直すために、大急ぎで琴音さんを嫁がせようとしてるんだぞ。相手はドラ息子だが、向こうの実力は強大だ。会社の危機も救える。 それを略奪婚だと?後先考えたのか?白川家と一条家、両方を敵に回すことになるんだぞ!それに奥様は妊娠中だ。こんなことが世間に知れたら……」 「琴音は嫌がっている」 蓮の声は冷徹で、揺るぎない。 「彼女からメッセージが来たんだ。『あの男に嫁ぐくらいなら死ぬ』とな。あいつはただでさえ体が弱い。思い詰めれば、せっかく取り留めた命をまた失うことになる」 「だが、奥様は……」 「初音なら理解してくれるさ」 蓮は賢治の言葉を遮った。その口調は、戦慄するほど当然という響きを帯びていた。 「あいつは気弱で、誰より心が優しい。普段、蟻一匹踏み殺せないような女だ。琴音がそんな目に遭ってると知れば、あいつも俺を支持するはずだ」 ドアの外。 初音の指が、白くなるほど強くドア枠に食い込んだ。 蓮の目には、彼女の忍耐も譲歩も、愛ゆえのものではなく、ただの軟弱で御しやすい性質としか映っていなかったのだ。 初音はドアを開けて問い詰めることも、泣き叫ぶこともしなかった。 彼女は一歩一歩、寝室へと戻る。ベッドの下からすでに荷造りを終えていたスーツケースを引き出し、最後の書類をその中へ滑り込ませた。 それから二日間、帝都には不穏な空気が流れた。 蓮はあらゆるコネクションを駆使し、六十億もの利益を犠牲にしてまで、琴音のために婚約破棄への道を切り開こうとしていた。 天空の邸には人が頻繁に出入りしていたが、それはすべて蓮のボディガードや秘書たちだった。 誰も気づいていなかった。この家の女あるじが、自分がここに存在した痕跡をすべて消し去ろうとしていることに。 三日目の早朝。 初音の携帯に一件のショートメッセージが届いた。 【離婚届の申請が受理されました。離婚届受理証明書が発行されました】 第10話 かつて交わしたあの合意書。蓮は面倒くさがって、安易にも「全権委任」の項目にサインしてしまった。加えて、初音はこの業界でも指折りの精鋭弁護士団を雇っていたため、その手続きは誰にも気づかれることなく、水面下で粛々と進められたのだ。 法的な意味において、二人はもはや赤の他人だった。 初音は携帯の電源を切り、鞄を手に階下へ降りた。 リビングでは、蓮が姿見の前で袖口を整えているところだった。 今回、彼はいつもの地味な和装ではなく、琴音が一番好む純白のスーツに身を包んでいた。 だからこそ、この大雪の日だというのに、蓮の姿はまるで嫁を迎えに行く花婿のように見えた。 「出かけるの?」 階段の降り口で足を止め、初音は静かに声をかけた。 蓮は鏡越しに彼女を一瞥する。 「ああ。重要なビジネスパーティーがあってな、正装しなきゃならん。君は家にいろ。外は寒いからな」 「蓮」 初音は階段の最後の一段を降り、彼から三メートルほど離れた場所に立った。 「五分だけ、時間をくれない?子供のことなんだけど」 蓮は腕時計に目を落とし、眉間を深く寄せた。 「今は本当に急いでるんだ。一刻を争う事態なんだよ。子供の話は帰ってから聞く。欲しいものがあるなら何でも買ってやるから、な、いい子にしててくれ」 初音の瞳の奥にあった光が、音もなく消え失せた。 「もう、いいわ」 「ん?」 蓮はすでにドアノブに手をかけていたが、生返事で応じた。 「何がだ?」 「行ってらっしゃい、って言ったの」 初音は彼の背中を見つめ、口元に極めて薄い笑みを浮かべた。 「ああ、そうか。物分かりが良くて助かる」 蓮は安堵の息を吐き、重厚な扉を開け放った。 途端に吹き込む風雪が、入念にセットした彼の髪を乱す。だが、別の女のもとへ馳せ参じようとする彼の熱情までは、冷ますことができないようだ。 重たい扉が、目の前で鈍い音を立てて閉ざされた。 初音はその場に立ち尽くし、遠ざかっていくエンジンの轟音を聞いていた。 彼女はきびすを返し、リビングのローテーブルへと歩み寄ると、離婚届のコピーをその中央に恭しく置いた。 置き手紙も、恨み言も、悲痛な絶縁状もない。 初音は書斎に入り、長年愛用してきた道具箱を一つ持ち上げた。 それ以外、彼女は何一つ持ち出さなかった。 蓮から贈られた宝石も、ブランドバッグも、高級車のキーも、すべて過去へと置いていく。 彼女は別荘の通用口を押し開けた。 外は依然として雪が降りしきり、視界を白く染め上げている。 初音はコートを固く合わせる。肌を刺すような寒風だというのに、心はかつてないほどの開放感に満ちていた。 雪を踏みしめ、一歩、また一歩。彼女はこの三年間自分を閉じ込めていた籠から歩み出し、一度たりとも振り返ることはなかった。 …… 空港、第三ターミナル。 出発ロビーは人々の喧騒に包まれ、頭上では便の遅延を告げるアナウンスが流れている。 初音は片隅の金属製ベンチに座り、携帯を握りしめていた。 画面が明るくなり、自動返信のメッセージがポップアップする。 それは十分前、彼女が蓮に送った最後のメッセージ【私、行くね】への返信だった。 【家族の祈祷中につき、返信できません。急用の方は秘書の鈴木賢治までご連絡ください】 その一文を目にして、初音はあまりの滑稽さに乾いた笑いすら込み上げてきた。 彼女はバッグからピンを取り出し、手慣れた手つきでSIMカードスロットを開いた。 この小さなチップには、蓮のすべての連絡先が、この三年間のあまりにも乏しい会話の記録が、そして愛を乞うだけの卑小な存在だった自分の証が、詰まっている。 初音は立ち上がり、躊躇なくそのチップをゴミ箱へと放り込んだ。 搭乗案内を告げる無機質な声が響く。 それは、古都へと向かう便だ。 初音は道具箱を提げ、保安検査場へと大股で歩き出した。 巨大なガラス窓の向こうでは、銀白色の機体が滑走路を移動し、今まさに雲海を突き抜けようとしている。 帝都の風雪がどれほど猛ろうとも、遥か古都までは届かない。 さようなら、蓮。 二度と、会うことはないでしょう。