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未来より長い、あの日の記憶
松浦彩花(まつうら あやか)は妊娠七か月の身で、陣痛促進剤を混ぜられたジュースを飲んでしまい、その影響で早産となった。 そして、かなり...
Chương (1)
第1章
松浦彩花(まつうら あやか)は妊娠七か月の身で、陣痛促進剤を混ぜられたジュースを飲んでしまい、その影響で早産となった。
そして、かなり早く生まれてしまった子どもは、すぐさま病院の集中治療室へと搬送されたのだった。
しかし、この悲劇を引き起こした犯人は今、平然とした顔で被告席に座っている。
証拠は十分だった。河内泉(かわうち いずみ)が彩花に渡したジュースからは薬が検出されたうえに、監視カメラにも泉が薬を入れる姿がしっかり映っていた。
だが勝訴を目前にして、彩花が長年愛してきた夫が、彼自らの手で示談書にサインしてしまったのだ。
裁判官の声が響く。「被害者側から示談書が提出されたため、被告人はこれをもって釈放とする」
法廷が一瞬にして騒めいた。
彩花は傍聴席の最前列にいる松浦悠斗(まつうら ゆうと)の方へと勢いよく振り返った。
悠斗は端正なスーツに身を包み、表情は落ち着き払っていて、その全身からは長くトップに立ち続けてきた者だけが放つ威厳が滲み出ていた。
「悠斗!」
彩花は彼の名前を叫びながら駆け寄り、その腕を力一杯掴む。「なんで河内さんを許しちゃうのよ!あの女せいで私の子は大変な目に遭っていると言うのに!」
泣き叫ぶ彩花は、悠斗をめちゃくちゃに叩いた。「人でなし!どうしてこんなひどいことができるのよ!」
しかし悠斗は、そんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、髪を振り乱す彩花の姿を、冷たい目で見つめた。
「そのみっともない姿はなんだ?お前は松浦グループ社長夫人で、俺の顔でもあるんだぞ。もっとその自覚を持って、品位ある行動を心がけろ」
彩花は呆然とした。
品位?こっちは赤ちゃんの命に関わることだというのに、犯人を野放なんて。それでいて、まだ体裁を気にして、品位ある行動をしろというのか……
いろんな記憶のかけらが、頭の中に蘇る――
第1話
松浦彩花(まつうら あやか)は妊娠七か月の身で、陣痛促進剤を混ぜられたジュースを飲んでしまい、その影響で早産となった。
そして、かなり早く生まれてしまった子どもは、すぐさま病院の集中治療室へと搬送されたのだった。
しかし、この悲劇を引き起こした犯人は今、平然とした顔で被告席に座っている。
証拠は十分だった。河内泉(かわうち いずみ)が彩花に渡したジュースからは薬が検出されたうえに、監視カメラにも泉が薬を入れる姿がしっかり映っていた。
だが勝訴を目前にして、彩花が長年愛してきた夫が、彼自らの手で示談書にサインしてしまったのだ。
裁判官の声が響く。「被害者側から示談書が提出されたため、被告人はこれをもって釈放とする」
法廷が一瞬にして騒めいた。
彩花は傍聴席の最前列にいる松浦悠斗(まつうら ゆうと)の方へと勢いよく振り返った。
悠斗は端正なスーツに身を包み、表情は落ち着き払っていて、その全身からは長くトップに立ち続けてきた者だけが放つ威厳が滲み出ていた。
「悠斗!」
彩花は彼の名前を叫びながら駆け寄り、その腕を力一杯掴む。「なんで河内さんを許しちゃうのよ!あの女せいで私の子は大変な目に遭っていると言うのに!」
泣き叫ぶ彩花は、悠斗をめちゃくちゃに叩いた。「人でなし!どうしてこんなひどいことができるのよ!」
しかし悠斗は、そんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、髪を振り乱す彩花の姿を、冷たい目で見つめた。
「そのみっともない姿はなんだ?お前は松浦グループ社長夫人で、俺の顔でもあるんだぞ。もっとその自覚を持って、品位ある行動を心がけろ」
彩花は呆然とした。
品位?こっちは赤ちゃんの命に関わることだというのに、犯人を野放なんて。それでいて、まだ体裁を気にして、品位ある行動をしろというのか……
いろんな記憶のかけらが、脳裏に蘇る――
5年前の結婚式。悠斗は目を潤ませながら言っていた。「一生大切にする。絶対に悲しませない」と。
結婚してから彩花は、子供を授かるために何度も病院に通った。しかし検査の結果、不妊の原因は悠斗にあると分かった。
彩花は悠斗が受け入れられないのではないかと心配し、診断書を隠して、「原因は自分にある」と周りには言っていた。
体外受精のために、数え切れないほどの注射を打ち、様々な薬を飲んだ。
そんな努力が身を結び妊娠が分かった日には、悠斗は喜びから彩花を抱き上げて映画のワンシーンのように回った。そして、彩花そっと降ろしながら、彩花と子供には何でも最高のものを与えると約束してくれたのに。
幸せだった頃の思い出と、今の絶望的な現実。その落差が彩花の理性を壊す……彩花は泉に掴み掛かろうとした。
「殺してやる!」
「いい加減にしろ!」
悠斗は彩花をぐいっと掴むとそのまま地面に押しつけた。そして、鞄から診断書の束を取り出し、彩花の目の前に叩きつける。
ばらまかれた書類の中の外国語で書かれた診断書が目に入った。
「自分で見てみろ」悠斗の声は冷酷だった。「お腹の子はもともと先天性の心臓病があった。だから、あのジュースを飲んでいなかったとしても、臨月まで持たなかっただろう」
彩花はよろめく体に鞭を打ち、震える手でその書類を掴む。憎しみと共に、涙が紙の上へと落ちた。
「ありえない。赤ちゃんは健康だってお医者さんは言ってたもの!これは偽造に決まってる!」
「偽造?」悠斗は彩花に顔を近づけた。「これは河内さんが海外でもトップクラスの医療機関に依頼して検査してもらった結果だ。偽造がそんな簡単なものだと思ってるのか?」
産後の体は弱りきっていて、起き上がる力さえ残っていなかった彩花は、みじめに床に這いつくばることしかできなかった。
しかし、彩花を見下ろす悠斗の目には一欠片の同情もない。
「これ以上、俺を怒らせないでくれ。この話はこれで終わりだ」
悠斗は身を屈め、彩花を見つめる。そして宥めるようでありながら、半分は脅すような口調で言葉を続けた。「海外から最高の医療チームを呼んで、子供の治療をしてやる。ただし条件は……お前がこれ以上騒ぎ立てないこと、だ。いいな?」
しかし、悠斗の視線は彩花の返事を待つことなく、係官に連れられて来ていた泉に移っていた。そして、彼女にかけるその声は、とても彼女を労るものだった。
「河内さん、大変だったな。今日は、早く帰ってゆっくり休むといい」
「社長……」
泉は目に涙を浮かべ、何か言いたそうに口ごもった。その姿はとても同情を誘う。
「もう終わったことだ。あとは俺がうまくやっておくから」
頷きながら涙をぽろぽろと溢す泉の姿は、ひどく哀れに見えた。
そんな時、裁判長が近づいてきて、彩花に判決への異議はないか尋ねた。
彩花は口を開きかけたが、保育器の中の小さな命が頭に浮かぶと共に、悠斗の「これ以上騒ぎ立てるな」という言葉が耳に蘇る。
閉じられた彩花の目から、一筋の冷たい涙が頬を伝った。
「異議はありません。これ以上、被告の責任を追及することはしません」
そんな彩花の様子を見た悠斗は満足げに微笑むと、彩花の腰に手を回し自分の方へと抱き寄せ、裁判長に軽く会釈をする。
「妻がご迷惑をおかけしました。今後の件も、よろしくお願いいたします」
すると、さっきまで威厳を放っていた裁判長だったが、急に90度近くまで腰を折り、媚びるような笑みを浮かべ始めた。
「松浦社長、そんな、そんな。こちらでしっかりとやらせてもらいますので、決して悪い噂が流れるようなことはありませんよ」
帰りの車の中、彩花は窓に頭をもたれ、黙って外を眺めていた。
そんな彩花に、悠斗はカバンからファイルを取り出し差し出した。
彩花はゆっくりと顔を向ける。「何これ?」
「示談書の補足資料だ」
悠斗の口調は穏やかだったが、そこには断ることのできない威圧感があった。
「これにサインすれば、この件は法的に完全に片付くから、後でごたごたしなくて済む」
しかし、彩花は視線をファイルから悠斗の顔へと移し、ふっと口の端を吊り上げる。
「悠斗。河内さんとはいつから?」
彩花が言い終わるや否や、悠斗は苛立たしげに舌打ちし、冷たい目を彩花に向けた。
「くだらないことを考えるな。俺と河内さんは、ただの上司と部下の関係で、やましいことは何もない」
「やましいことは何もない?」彩花はふっと笑った。「今日まで、私も自分の考えすぎだって思ってたわ」
彩花は声を詰まらせながら、この半年間、心の奥に無理やり押し込めてきた一つ一つの出来事を悠斗に突きつける。
「3ヶ月前、あなたのシャツの襟についてた口紅、河内さんのものと全く同じだった。
2ヶ月前の私の誕生日。あなたは急な会議があったからと夜中に帰ってきたけど、あなたの体からは河内さんの香水の匂いがしたわ」
それに……
彩花の声はもう震えていた。「疑わなかったわけじゃない!でも――」
でも、悠斗はこれでもかというほど自分に優しくしてくれていたのだ。
妊娠初期、足がよくつっていた。そんな時、悠斗はどんなに夜遅くても、疲れていても、必ず起きて1時間はマッサージしてくれた。
つわりがひどい時には、料理なんてしたこともない悠斗が、自分のためにうどんの作り方を覚えてくれた。指が火傷の水脹れだらけになるほどに。
ひとつひとつ話すごとに、彩花の心は冷えていく。「あなたは会社の仕事ですごく忙しそうだったから、河内さんのように気が利いて有能な秘書がそばで支えてくれるなら、それはいいことだと思ってた。
でも、結果は?!」急に声を張り上げた彩花の目には、怒りの炎が燃え上がっている。
「河内さんが飲みかけのコーヒーをあなたの口元に差し出して、あなたが平気でそれを飲んだのを見た時、私はただ『少しは節度を持って』と彼女に言っただけなのに。それだけで、彼女は私に薬を盛って妊娠を誘発し、まだ未熟児の赤ちゃんを集中治療室で殺そうとしたのよ!」
彩花は、みるみる顔色が変わっていく悠斗を睨みつけ、一語一句問い詰めていく。
「それでもあなたはまだ示談書にサインできるっていうの?それでいて、二人の間にやましいことは何もないって言えるわけ?」
悠斗の表情はめまぐるしく変わり、何かを天秤にかけているようだった。
やがて、彩花の手を握り、口調を和らげる。
「彩花、俺が悪かったんだ。確かに一度だけ、越えてはいけない一線を越えてしまった。去年の海外出張で飲みすぎて、河内さんと、その……過ちを犯してしまった。本当に後悔してる。だから今回は……俺がしでかしたことに対する、河内さんへの償いだと思って、受け入れてくれないか?」
「償い?」
彩花は悠斗の手を激しく振り払う。胃がひっくり返るような吐き気に襲われた。
悠斗に飛びかかり力任せに叩く。「悠斗、本当最低。あなたが犯した過ちのせいで、どうして私と赤ちゃんが命をかけてまで償わなきゃいけないの?」
「彩花!いい加減にしろよ!」
ついに我慢の限界に達した悠斗は、彩花の手首を強く掴んだ。
「サインしろ。子供の治療には全力を尽くす。これ以上騒いでも誰のためにもならない。それに、今日はもう十分恥をかいたんだから」
また、恥とかなんとか言ってる。
悠斗にとっては、子供を失いかけた自分の痛みも、自分がもう少しで死ぬとこだったことも、体裁と比べれば全てどうでもいいことなのだ。
彩花は力いっぱい悠斗を突き飛ばす。「嘘つき!人殺し!あなたたちは共犯よ!私の赤ちゃんを陥れた!ろくな死に方しないわ!」
「車を止めろ!」
悠斗が鋭く叫ぶ。
運転手が急ブレーキをかけると、車は道端に止まった。
悠斗はドアを開け、涙でぐしょぐしょの彩花を車から突き落とす。「頭を冷やせ。どうすれば松浦家の嫁として恥ずかしくない振る舞いができるか、よく考えろ」
そう言い残すと、悠斗は「バンッ」とドアを閉め、走り去っていった。
初秋の夜風が、薄着の彩花の身に吹きつけ、彼女は寒さに体を震わせた。
周りではネオンが輝き、車が絶え間なく行き交っている。でも、そのどれもが、今の彩花には関係のない世界だった。
病院には生死の境をさまよう我が子がいるのに、自分の夫は犯人をかばい、自分のことはゴミのように捨てた。
信じていた家庭も、愛情も全てがガラガラと崩れ落ちていく。
彩花は低く笑い始めた。その笑い声は次第に大きくなり、最後には号泣に変わった。
第2話
彩花は、母の工藤日和(くどう ひより)が住む古い団地へとゆっくりと足を進めていた。彩花がインターフォンを鳴らすと、日和は心配そうな顔で、彩花を家の中へと招き入れた。
部屋は小さくて家具も質素だったけれど、きれいに片付けられていた。
彩花が悠斗と結婚したとき、松浦家は都心の一等地に豪華なマンションを用意してくれた。
その時、彩花は日和に同居を提案したのだが、「彩花。松浦家のようなお家と縁ができただけでも、ありがたいことなの。だからお母さんまでお世話になるなんて、とんでもないわ」そう言って、日和はどうしても首を縦に振らなかった。
湯気の立っているスープを日和が持ってきてくれた。
「熱いうちに飲みなさい。あなたは産後間もないんだから、体を冷やしてしまっては後々体に響くわよ」
彩花は器を受け取った。その温もりが、冷え切った手のひらにじんわりと伝わってくる。
「お母さん。私、離婚したいの」
その言葉を聞いた瞬間、日和の手は震え、持っていたお盆を落としそうになった。
かつての光景を、今でも昨日のことのように思い出せる。
悠斗の猛烈なアプローチは、ごく普通の家庭で育った彩花を夢見心地にさせた。しかも、それは父を事故で亡くした後の、家計も苦しかった時期だったので尚更だった。
しかし、日和は猛反対していた。「彩花、悠斗さんが優しくしてくれるのは、あなたみたいな普通の子が物珍しいからよ。一緒に暮らしてみたら分かるわ。日々の暮らしの些細なことや、家柄の違いが、きっと二人を苦しめることになる」
だが、当時の彩花にはそんな日和の言葉など届くはずもない。
悠斗の深い愛情と松浦家の裕福さは、まるで一筋の光のように、彩花の暗い青春時代を照らしてくれた。
そして最後には、彩花は悠斗と二人で、一晩中、地面に額を擦りつけながら、日和に結婚の許しを請い続けた。
日和は、頑固な娘と誠実そうな御曹司の姿に心を打たれ、最終的には涙を拭いながら折れたのだった。
しかし今、日和の言ったことが現実になってしまった。
彩花は息を吸い、なんとか声を震わせないようにする。「でも、私にはお金がないの。赤ちゃんには、病院でたくさんのお金がかかるのよ。だから松浦家からは離れられない……」
そこまで言うと、もう言葉が続かなかった。喉が詰まって、胸が痛い。
話を聞き終えた日和は、ベッドの脇にある棚から通帳を一つ取り出すと、彩花の手へ渡した。
「ここにお父さんの労災保険金と、お母さんが今まで貯めてきたお金が入ってる」
そして、日和は彩花の冷たい手を握りしめる。「お母さん、家政婦でも清掃の仕事でもなんでもするから。赤ちゃんの病気は、私たちで治すのよ。一緒に背負うから」
「お母さん!」
彩花はもう堪えきれず、日和に抱きつくと大声で泣きじゃくった。
それからどれくらい泣いただろうか。突然、彩花のスマホが鳴った。病院からの電話だった。
「松浦さんですか?治療費のお支払いが滞っておりますので、お子さんを一般病棟に移させていただきました。至急、病院で手続きをお願いします」
電話を切るや否や、彩花は玄関を飛び出し、病院へと急いだ。
一般病棟の病室では、赤ちゃんがチアノーゼを起こし、ベッドにぐったりと横たわっていた。
彩花はふらつきながら主治医の診察室へ駆け込み、必死に懇願する。
「先生、お願いです!あの子を集中治療室に戻してください!」
医師は困ったようにため息をついた。「松浦さん、病院にも決まりがあるんです。とにかく、未払い分を清算していただかないと。さもないと……」
「さもないと、どうなるんですか?」
彩花の声は震えた。
医師は少し黙り込んでから、低い声で続ける。「お子さんの今の状態では、もってもあと20分でしょう」
20分?
彩花は全身の血の気が引いた。震える指でスマホを取り出し、悠斗に電話をかける。
長い呼び出し音の後、ようやく電話がつながった。しかし、聞こえてきたのは、今一番聞きたくない声だった。
「もしもし、秘書長の河内でございます」
彩花の頭に、一瞬で血がのぼる。「悠斗はどこ?電話を代わって」
しかし、泉は落ち着いた事務的な口調で返した。
「申し訳ございません。社長はいま大変重要な会議中ですので、私的なお電話はお繋ぎできないんです」
「河内さん、病院が治療を止めたの!このままだと、赤ちゃんが死んじゃう!お願いだから、悠斗に代わって!」
彩花は泣き叫んだ。我が子の生きるか死ぬかの瀬戸際、彼女のプライドなど無残にも砕け散り、何も残っていなかった。
「彩花さん、まずは落ち着いて下さい。社長の会議はグループ全体の利益に関わるものですから、中断はできません。では、失礼します」
そう言うと、泉は無情にも電話を切った。
彩花はベッドの上でますます弱々しくなっていく我が子を見つめる。残された時間は、たった20分。
もう後がなくなった彩花は目を閉じると、上着、セーター、そしてズボンを脱ぎ始めた……
下着だけになると、彩花は驚く医師の視線を振り切り、人通りの多い廊下へ飛び出して、甲高い声で叫ぶ。
「痴漢!先生に襲われた!」
その場にいた全員が、驚いて振り返った。そして、彩花を指さし、ひそひそと話し始める。
医師は怒りながら慌てて、彩花を診察室へ引きずり戻した。
「48時間だけ待ちますから。それまでに、未払い分と、これからの治療費を全額払ってくださいよ」
彩花は震えながら服を着ると、医師に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!先生、本当にありがとうございます!」
診察室を出ると、人々の視線はまだ複雑に絡みついてきた。しかし、そんなのは彩花にとってどうでもよかった。
残された時間は、たったの48時間。
懐には日和がくれた通帳があるが、それを全て使ったとしても、高額な医療費の前では焼け石に水なのだ。
第3話
彩花が病院の廊下のベンチで丸くなって、うとうとし始めたその時、突然現れた悠斗に腕を掴まれ、無理やり立たされた。
彩花の前に立つ悠斗は、スーツをきっちりと着こなし、髪の乱れもなく完璧な姿だ。
彩花はとっさに悠斗の手首をつかみ返し、懇願する。「悠斗!早く支払いをして!お願いだから!」
しかし悠斗は、スマホを彩花の顔に突きつけながら怒鳴った。
「お前がやったことを見てみろ!」
何のことか分からなかった彩花は言われるがまま画面を見ると、それはネットニュースだった。
【衝撃!松浦グループの社長夫人、病院でいきなり脱衣】
添えられた写真の彩花の髪は乱れ、服もはだけている。
コメント欄もかなり炎上していて、ひどい憶測や嘲笑するもので溢れかえっていた。
彩花の瞳孔がきゅっと縮まる。そして、ゆっくりと顔を上げ、怒りに満ちた悠斗の顔を見た。
「それで?わざわざ、私に文句を言いに来たってわけ?」
悠斗は彩花のその態度にさらに腹を立て、彼女の手を振り払うと、厳しい声で問い詰め始めた。
「彩花、お前には恥というものがないのかよ。こんなはしたない真似をして、俺への当てつけのつもりなのか?これがうちの株価にどれだけ影響を与えたのか、分かってるのか?」
「はしたない真似?当てつけ?」
彩花は、その言葉を繰り返しながら声を詰まらせる。「あんなことでもしなければ、私たちの子供はもう、冷たい体になっていたっていうのに……」
悠斗は眉をひそめた。「何馬鹿なことを言ってるんだよ?」
「馬鹿なこと?」彩花は声を張りあげる。「病院は支払いが滞ってるからと言って、集中治療室の機械を止めたの。そして、あの子は機械なしじゃ20分も生きられないって先生は言った。それに、私があなたに電話をかけたら、なんだか知らないけど大層重要な会議に出ていたっていうじゃない?」
少し顔色を変えた悠斗は、無意識のうちに後ろの泉の方を見た。
泉はすぐにそっと下唇を噛んで、か細い声で言う。
「社長、私は会社の規則に厳密に従っただけです。会議中は、私的な電話ならばいかなる内容でも繋げるな、と。社長ご自身が、そうおっしゃいましたから……」
泉は一旦言葉を切って、ちらりと彩花を見た。「それに、彩花さんはずっと泣きながら電話を社長に代わってくれと叫ぶだけで、理由を聞いても何も答えてくれなかったんです。だから、こんなに緊急の事態だとは……」
泉の目は話せば話すほど赤くなり、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「だそうだ、彩花。ん?」
悠斗は彩花を振り返り、責めるような口調で言った。「河内さんはルール通りにやっただけ。お前が電話でちゃんと状況を説明していれば、彼女だって対応したはずだろ?」
怒りで全身が震える彩花は、泉を指差す。「悠斗、あなたは結局この女を庇ってるだけじゃないの!」
「彩花さん、なんてことを言うんですか!」
泉の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。泉は悠斗に向き直り、声を詰まらせながら続ける。
「社長。この仕事、私には務まらないようです。なので、辞めさせてください」
「河内さん、何馬鹿なこと言ってるんだ」
悠斗はすぐに泉を宥める。その声は、彩花がもう長いこと聞いていなかった、優しい響きのものだった。
「明日の夜のチャリティーオークションに一緒に行こう。そこで気に入ったものがあったら、何でも選んでいいから」
涙を拭いながら笑顔を見せた泉は、恥ずかしそうに悠斗をちらりと見ると、小さく「はい」と頷く。
悠斗はカバンから書類を取り出すと、彩花の前に投げつけた。「サインしろ。そうすれば、すぐに支払いを済ませてやる」
彩花は集中治療室の固く閉ざされたドアを見上げる。他に選択肢はない。
彩花はペンを取り、一筆一筆と自分の名前を書き込んだ。
悠斗は満足そうに書類を取り返すと、泉に手渡す。「支払いを済ませてこい」
書類を受け取った泉だったが、集中治療室の窓ガラスの前で、わずかに足を止めた。
「しぶといわね。まだ死なないの?」
とても小さな声だったが、彩花の心を抉るには十分だった。
「殺してやる!」
彩花は叫びながら泉に飛びかかった。しかし、泉に触れるよりも先に、悠斗に強く突き飛ばされた。
ドンッ――
彩花の背中は壁に激しく打ちつけられた。あまりの痛みに息もできず、目の前がチカチカした。
悠斗が泉の前に立ちはだかる。「彩花、お前が人前で服を脱いで騒いだせいで、俺と松浦グループは街中の笑いものだ」
悠斗は一呼吸おいて続けた。「お前に1ヶ月間のチャンスをやるよ。この1ヶ月、お前の態度の改善が見られたら、離婚はしないでいてやる。もし、なんの改善も見られなかったら……その時は即離婚だからな」
彩花ははっと顔を上げ、信じられないというように悠斗を見つめた。
入籍した日、悠斗が自分を抱きしめながら言った言葉を思い出す。
「俺たちの世界に『離婚』なんて言葉は存在しない」
今思えば、なんて滑稽なことだったのだろうか。
しかし、悠斗の次の言葉は、離婚以上に彩花を屈辱の底に突き落とした。
「この1ヶ月間、俺が満足するような態度を見せれば、また俺の元に引き取ってやるからさ。せいぜい頑張れよ」
彩花は、足元から頭のてっぺんまで何か冷たいものが突き抜けるのを感じた。指先まで震える。
悠斗は自分を何だと思っているのだろう?故障して、修理が必要な商品だとでもいうのか?
そう言った悠斗は、もう彩花には目もくれず隣でおとなしくしている泉の肩を、当たり前のように抱き寄せた。
「さあ、俺たちはもう行こうか」
悠斗の体に寄り添う泉は、床に座り込んだままの彩花に、勝者の笑みを投げかけたのだった。
第4話
彩花は思い出の詰まった家に帰ってきたが、ドアを開けた瞬間、リビングの光景に再び立ちすくんでしまった。
ソファに座る悠斗と、その横の肘掛けに部屋着姿で寄りかかっている泉。二人は親密そうに何かを話している。
彩花はドアの前で固まったまま尋ねた。「悠斗、どうして河内さんがここにいるの?」
悠斗が答える前に、泉が口を挟む。「社長はお仕事で忙しいんですから、家で身の回りの世話をする女が一人くらいは必要でしょう?」
「この家にはお手伝いさんが何人もいるわ!」
彩花は唇を震わせながら、声を絞り出した。
「それとこれとは話が別なんです」
泉はなんだか色っぽい視線を悠斗に送り、意味ありげに言う。「だってお手伝いさんにはできないこともありますもの。そうですよね?」
その声色は甘く絡みつくようで、あからさまに誘惑していた。
悠斗は何も言わなかったどころか、肘掛けに置かれた泉の手に、自分の手を重ねて軽く撫でた。
「好きにすれば」
彩花はもう二人を見たくなかったので、まっすぐ2階の寝室へ向かい、急いで荷物をまとめた。
荷物もまとめ終わったので、階段を降りていくと、腕を組んだ泉に行手を阻まれた。
「私は社長からこの家の管理を任されているんです。だから、あなたが出て行った後、もし高価なものがなくなっていたら、私の立場的に困るんですよ。だって、責任がありますからね」
そう言われ、彩花はぴたりと足を止める。「どういう意味?」
「ですから」泉は一語一句はっきりと告げた。「あなたの鞄を調べさせてもらいます」
「何言ってるの?!」彩花は怒りで全身が震えた。「鞄には化粧品と着替えしか入ってないから。どいて!」
しかしもみ合いになった途端、泉が突然叫び声をあげ、そのまま後ろに倒れ込み、階段を転がり落ちていった。
「河内さん!」
物音を聞きつけリビングから駆けつけてきた悠斗は、眉をひそめてうめく泉をそっと抱き起こす。
「彩花、お前また何かしでかしたのか?なんで河内さんを突き落としたりなんかするんだよ」
「押してない!」彩花は階下で寄り添う二人を見て、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきた。「河内さんが自分でバランスを崩したの」
しかし、泉はしゃくりあげながら訴える。「私はただ、彩花さんのカバンを見ようとしただけなのに……そしたら急に突き飛ばされて……」
悠斗の視線が、彩花の持つカバンに向けられた。その目はさらに冷たくなっていく。「彩花、カバンをよこせ。中身を確認するから」
それは紛れもなく命令だった。
彩花は背筋をまっすぐに伸ばしたが、足は自分の意思とは関係なく、かすかに震えていた。
この震えは恐怖からではない。怒りと失望からの震えだった。
彩花は一歩ずつ階段を下り、悠斗の前でカバンの中身を一つずつ取り出した。
安物のポーチ、古びたネグリジェ、そしてビニールケースに入った日和の通帳。
「これでいいかしら?何か高価なものでもあった?」
彩花はきょとんとした顔をする悠斗を横目に、床に散らばったものを拾ってカバンに戻す。
通帳を手に取ろうとしたその時、横から泉にひったくられ中を見られた。
「2000万円?これで何も盗んでないって言えるんですか?」
彩花は慌てて奪い返そうとした。「それはお母さんの通帳!松浦家とは何にも関係ない!」
すると悠斗が眉をひそめた。「この1ヶ月間はお前の態度を見る期間なんだから、自分の力で生活してもらう。だから、お前とお前の母親名義のキャッシュカードと通帳は、すべて一時的に凍結するから。せいぜい頑張るんだな」
彩花は全身が震えた。よろめきながら悠斗の服の袖を掴み、泣きじゃくる。
「やめて。それはお母さんが一生懸命ためたお金なの。それを全部取り上げるなんて……私と子供を殺す気?」
「あら、大げさですね」
泉は、さも親身になっているかのように言った。「彩花さん、社長が1ヶ月のチャンスを設けてくれたのは、あなたのことを思ってのことなんですよ。きっと、あなたに早く立ち直ってほしいからなのでしょうね」
絶望と母性本能の下、彩花は床に崩れ落ちるように膝をついた。
「悠斗……」彩花はすがるように悠斗を見上げる。
「お願い、この口座だけは凍結しないで。どんなことでも受け入れるから」
悠斗の視線が、涙で濡れた彩花の青ざめた顔に注がれた。その瞳の奥に、一瞬だけ躊躇いがよぎる。
しかし、絶妙なタイミングで泉がため息をつき、諭すような口調で言った。「社長は仰っていましたよ。本当に追い詰められた状況でも、冷静でいられる人だけが、試練を乗り越えたと言えるって」
それを聞いた悠斗の顔からは迷いが消え、冷酷な表情に戻った。「河内さんの言う通りだし、子供には何かあるとすぐに謝って許しを得ようとする弱い女じゃなくて、強い母親が必要だ」
泉はしゃがみ込み、跪きながら懇願する彩花と視線を合わせる。
「追い詰められた時こそ、人の力は引き出されるものですよ。彩花さん、頑張ってください。あなたならできると信じてますから」
彩花ははっと顔を上げた。その瞬間、すべてを悟った。
どんなに自分が惨めな姿になりながら、赦しを得ようとしても、この二人は少しも哀れんではくれないのだと……
なぜなら彼らは、こうして自分を踏みつけにすることを楽しんでいるのだから。
彩花はもう泣くのをやめた。懇願することもやめ、床に手をつき、静かに立ち上がった。
何も言わず、ただじっと悠斗を見つめる。その視線に、悠斗はなぜか背筋が凍るような思いがした。
彩花はくるりと背を向けて、出口へと向かう。
ドアを開けると、外から冷たい風が吹き込んできて、彩花の乱れた髪を揺らした。
彩花はスマホを取り出すと、躊躇うことなくある番号に電話をかけた。「私が力を貸します。松浦家を潰して、悠斗に奪われたものを取り返すために……」
しばらくの沈黙の後、相手が口をひらく。「条件は?」
第5話
悠斗は仕事が忙しいのを理由に、子供の治療費の管理をすべて泉に任せていた。
しかし、泉が支払っていたのは最低限の費用だけで、それ以外のことは気にもしてくれなかった。
経済的に困った彩花は、仕方なく日和と一緒に日雇い労働を始めることにした。
毎朝4時に起きて仕事場へと向かい、朝早くから仕事を始める。
日雇い労働といえど、朝早くから夜遅くまで働いていたおかげもあり、わずかながらお金を貯めることができた。
毎日彩花は日和と狭いベッドで一緒に寝たし、一杯のかけそばを二人で分け合って、1円たりとも無駄にしないよう、必死に切り詰めていた。
そんな生活を送る中、彩花は悠斗がいなくても、自分ひとりで子供の治療費を稼げるかもしれないと思い始めていた。
そんな矢先のこと――
その日、締め作業をしていた時だった。突然、数人のチンピラが仕事場に現れて機材などをめちゃくちゃにし始めた。
「やめて!やめてください!」
日和は泣き叫びながら止めようとしたが、突き飛ばされてコンクリートの地面に後頭部を強く打ちつけてしまった。
「お母さん!」
彩花は悲鳴をあげて日和に駆け寄り、抱き起こす。「一体なんなの?なんでこんなことを!」
スキンヘッドの男が近づいてきてしゃがみこみ、鋭い目つきで彩花を睨んだ。「俺たちを恨むなよ。金をもらって仕事してるだけなんだから」
彩花の心臓がどくんと跳ねると同時に、一人の名前が頭に浮かぶ。
「誰に頼まれたの?」
スキンヘッドの男は、黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑った。「河内さんが言ってたぜ。おとなしくしてろってな。今回は機材だけですんだけど、次はどうなるか分からねえぞ」
河内さん?やっぱり泉なのか?
彩花はめちゃくちゃにされた職場と、顔が真っ青になっている腕の中の母を見つめた。泣くことも叫ぶことも、なにもできなかった。
彩花はポケットから、今日一日のなけなしの給料を取り出すと、怪我をした日和を背負って病院へと走った。
薬代を払うだけで精一杯だった。医者は脳震盪がないかレントゲンを撮ったほうがいいと言ったが、彩花にはもう一銭も残っていなかった。
日和を支えながら古い実家に戻り、寝かせつけたあと、彩花は家を飛び出した。
再びあの家の前に立つと、ありったけの力でドアを叩く。
ドアを開けたのは泉だった。「彩花さん?どうして……」
その言葉が終わる前に、彩花は泉の頬に強烈な平手打ちを食らわせた。
バチン――
「私の職場をめちゃくちゃにして、お母さんに怪我までさせて……いったいどういうつもりなの?」
「やってません!」泉は頬を押さえながら、いかにも濡れ衣だという顔で、物音を聞きつけて書斎から出てきた悠斗に訴える。「社長、私じゃありません」
泉の頬に残る平手打ちの跡を見て、悠斗の顔はみるみる険しくなった。
「彩花、気は済んだか?河内さんはずっと俺と一緒にいたんだ。お前の職場を荒らしに行かせるなんて、できるわけないだろう?
それよりお前こそ、なんでそんな日雇い労働なんか始めたんだ?これ以上、まだ俺に恥をかかせたいのか?」
自分をまったく信じていない悠斗の目に、その口から発せられる刺々しい非難の言葉。彩花の心は冷えきって、感覚が麻痺していくようだった。
ひきつった笑みを浮かべる彩花のその顔は、泣き顔よりもずっと惨めに見えた。「あなたが助けてくれる金額じゃ、子供の薬代にすらならないの。私が働かなかったら、お母さんと二人で飢え死にするしかないんだから」
「金は渡しているだろ!」悠斗はイライラしたように彩花の言葉を遮った。「お前が強欲なだけだろ?金金金って!」
悲しみと怒りで彩花の声は震える。「悠斗、病院で明細を確認してきて。それに、お医者さんにも聞いてみてよ。あなた……」
「もういい。お前の言い訳なんか聞きたくない」
すると泉がそっと悠斗の袖を引き、彩花の方を向いた。
「彩花さん。お子さんの病気については、私たちもずっと何とかできないかと考えていたんです」
彩花は疑い深い目で泉を見つめた。また何か企んでいるに違いない。
泉はそっとため息をついてから言った。「知り合いにとても有名な神主さんがいるんですけど、その方がおっしゃるには、あなたとお母さんでその神社へ行って、お子さんのために祈願すればきっと良くなると……」
神社で祈願?
彩花は、思わず笑いそうになった。「私が求めているのは、ちゃんとした治療。そんな非科学的なものじゃないの」
泉は心外だという顔をしながら答える。「彩花さん、その神主さんは本当に信頼できるんです。それに、私のこと信じてくれないんですか?それとも、お子さんには元気になってほしくないと?」
「なんてこと言うの!」彩花は言葉を失った。
「いい加減にしろ!」と悠斗が再び声を荒げた。「他にできることもないんだし、試してみればいいだろ?それに、ここで訳のわからないことを言って騒いでいるより、ずっといいじゃないか」
悠斗は少し間を置き、有無を言わせぬ口調で言った。「3日後に迎えを行かせるから、その神社へ行ってこい。母親と一緒に準備しておけよ」
「もし行かないって言ったら?」彩花は悠斗をじっと見つめる。
悠斗の目が鋭く光った。「ということは、子供の命なんてどうでもいいってことだな。なら、もう今後の治療も必要ないよな?」
また子供の治療を盾にする……
彩花は目を閉じ、深く息を吸った。
「分かったわ、行くよ」
彩花は背を向けると、この息が詰まるような場所から、一歩ずつゆっくりと離れた。
第6話
3日後、彩花と日和は山の上にある神社へと連れて行かれた。
泉に紹介された神主は、今しがた上ってきた気の遠くなるほど長い階段を指さして言った。
「1段目から登り、そのまま本殿へお参りに行き、お子様の無事を祈る。これを親子二人で999回繰り返しなさい。そうすれば、神様もお願いを聞いてくださるでしょう」
999回も?
彩花は、付き添いで来ていた悠斗とその隣に寄り添う泉に視線を向ける。
「母はこの間怪我をしたばかりで、まだ目眩などの症状があるんです。だから無理はさせられません。私が代わりに二倍やる……それではだめでしょうか?」
神主は断固とした態度で言った。「血の繋がった親子、どちらも欠けてはなりませぬ」
眉を顰める悠斗は、真っ青な顔の日和と助けを求めるような彩花の目を見て、少し迷っているようだった。
しかし泉がそっと悠斗の袖を引く。「神主さんがおっしゃる通りですよ。お子さんのためなんですから、彩花さんたちには、頑張ってもらわないと」
すると悠斗の顔つきはまた冷たいものに戻り、再び彩花に命令した。
「神主さんの言う通りにしろ。これしかないんだから」
「悠斗、これがただの嫌がらせだってあなたには分からないの?」
彩花は力の限り叫んだ。
「いい加減にしろ!」悠斗は我慢の限界だった。「子供のためなら何でもするって言ったのは、お前じゃないか。なのに今さら何を言ってるんだ?助けたいのか、助けたくないのか、どっちなんだよ?」
「彩花……」日和の虚ろな瞳には涙が浮かんでいる。「赤ちゃんのため。お母さんは大丈夫だから」
1回目。ただでさえ体が弱っているのだ。そこに、この長くて急な階段はかなり堪える。
辛い。しかし、それ以上に胸が張り裂けそうだった。
2回、3回……彩花と日和は悠斗と泉が見張る中、何度も、何度も階段を往復し続けた。
10回、50回、100回……
彩花の踵は、靴擦れで血が流れ出ている。見ているだけで痛々しい。
しかし、心の中でたった一つのことだけを考え、彩花は歯を食いしばって耐えた。私の赤ちゃん、必ず助けるからね。
しかし、日和の状況はもっと酷いものだった。
地面に倒れ込んだかと思うと、胃液を吐きそのまま意識を失ってしまった。
「お母さん!」
彩花は日和に駆け寄って抱きしめる。「早く、お医者さんを呼んで!」
悠斗は深く眉をひそめたが、気を失った日和を複雑な表情でちらっと見ただけで、また神殿の方へと視線を戻してしまった。
悠斗の耳元で泉が囁く。「社長、神主さんが言ってました。ここでやめたら、全部が無駄になるって」
すると悠斗の目つきが再び鋭くなった。そばで控えていたボディーガードに指示を出す。「立たせろ。続けさせるんだ」
彩花はかっと目を見開き怒鳴った。
「悠斗、あなたそれでも人なの?お母さんは倒れたのよ!これ以上やらせたら死んじゃうかもしれないのに!」
「ならさっさと終わらせればいいだろ!」悠斗の声には、苛立ちが滲んでいる。「時間を無駄にするな!」
この一言は、彩花に残っていた最後の希望を粉々に打ち砕いた。
彩花は見ていた。意識もないまま階段を引きずられていく日和を見つめる悠斗の冷酷な顔。そして、泉の目に宿る意地の悪い光を……
彩花から世界の色と音が消えていく。
彩花はもう一度足に力を入れ、一歩を踏み出す。一段、また一段と歩みを進めていく。
ゴン……ゴン……ゴン……
371……502……783……999。
彩花の全身からは力が抜け、冷たい地面に崩れ落ちた。そして、なんとか首だけを動かして、悠斗の方を見る。
「悠斗。お母さんを病院に連れて行って」
悠斗は全身ボロボロになった彩花の姿を見て、深く眉をひそめた。
「休憩が済んだならさっさと山を降りろ。車はいつまでも待ってないぞ」
そう言い捨てると、悠斗は当たり前のように泉の肩を抱き、さっさと去っていってしまった。
遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、彩花は歯を食いしばり、必死の思いで日和を背負った。
しかし、階段を降り始めた瞬間足を踏み外してしまい、急な石段を転がり落ちてしまった。
景色が回る。固くてザラザラした石段の角が、体中を削っていく。
薄れゆく意識の中で、悠斗が泉の耳元で何かをささやいているのが見えた。泉もとても幸せそうに笑っている。
第7話
彩花がやっとの思いで目を開けると、目に飛び込んできたのは、病院の冷たく無機質な白い天井だった。
とっさに、そばにいた看護師の腕を掴む。「母は?母はどこにいますか?」
看護師は一瞬視線を泳がせたが、声を落として言った。「松浦さん……あなたのお母様は、急な脳出血で、こちらも全力は尽くしたのですが……昨夜、お亡くなりになられました」
彩花はただ呆然と看護師を見つめることしかできなかった。言葉はしっかりと聞き取れているのに、その意味がまったく理解できない。
お母さんが……死んだ?
「そんな……そんなわけないですよ……」
しかし、日和の死という知らせを受け止める間もなく、子供の主治医が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「お子さんが多臓器不全を起こしました!緊急手術が必要です。すぐに2000万円、用意してください!急いで!」
だが、今の彩花には一円もない。日和の通帳は奪われ、こつこつ貯めたお金も、日和の治療費で使い果たしてしまったのだ。
彩花はスマホを掴むと、震える指で悠斗に電話をかけた。
長いコールの後、やっと繋がった電話から聞こえてきたのは、またしても泉の声だった。
「社長は今シャワー中です。何かご用でしたら、私が伝えておきますよ」
「赤ちゃんが危ないの。手術が必要だから、今すぐ2000万円振り込むように悠斗に言って」
「もう、しつこいですね」泉は話を遮ると、馬鹿にしたように言った。「病気の子供を助けて、何になるっていうんですか?」
そして電話は一方的に切られた。かけ直しても、「おかけになった電話は……」という冷たい機械音声が流れるだけだった。
彩花は、ぼろぼろの体を引きずって集中治療室の前まで来ると、その場に崩れるように膝をついた。
「神様、こんな仕打ちはないんじゃないですか?どうか、どうかお願いします。私の子を連れていかないでください……」
その時、医者がゆっくりと近づいてきて、首を振った。「残念ですが……助かりませんでした」
赤ちゃんが死んだ?
5年も待ち望み、辛い治療にも耐えてやっと授かった子。生まれてからずっと保育器の中で頑張っていたのに、死んだって?
彩花はずるずるとその場にへたり込んだ。口をぱくぱくさせるが、声にはならなかった。
母も子供もいなくなってしまった。
そして、かつてあんなに愛し、一生愛すると誓ってくれた男は今頃、母と子供を死に追いやった女を腕に抱き眠っているのだろう。
日和と子供の葬儀は病院に任せるしかなかった。火葬だけで済ませ、一番安い骨壺に遺骨を納めてもらった。
彩花は二人の骨壺を抱き、雨に打たれながら、かつて「家」だった場所へゆっくりと歩いていった。
ドアを開けると、ダイニングテーブルで泉がステーキを切っていた。
物音に気づいたらしく、泉がちらりと彩花を見て、ふっと笑った。「ちょうどよかったです。味見しますか?社長がわざわざ取り寄せてくれた和牛ですよ。これだけで、何十万円もするんですから」
続けて泉は手元のワイングラスを揺らす。「このワインも一口で2000万円するんですよ」
2000万円。
その言葉が、刃物のように彩花の胸に突き刺さる。
彩花はそっと骨壺を脇に置き、泉に向かって駆け寄ると包丁を奪い、その首に突きつけた。
「きゃっ!何するんですか!」
声を聞きつけて駆けつけた悠斗は、目の前の光景に息を呑む。
「彩花、包丁を置け!」悠斗は驚きと怒りを露わにした。「自分が何をしているかわかっているのか?人を殺せば、命で償うことになるんだぞ!」
「命で償う?」彩花はゆっくりと悠斗の方を向いた。「いいわよ。だったら、この女に私の子の命を償わせるわ」
言い終わるや否や、彩花が振り上げた包丁の刃先は泉の頬をかすめた。
「この女が私の電話を切ったのよ!この女のせいで、助かるはずだった子供は死んだ!」
泉は恐怖で全身を震わせ、涙と冷や汗を流しながら叫ぶ。「社長、助けてください!」
悠斗は、はっと泉に視線を移した。その声には、自分でも気づかないほどの動揺が混じっている。
「彩花の言っていることは本当なのか?」
泉は血の滲む頬を押さえながら、必死に首を振った。「違います、社長。私、彩花さんからの電話なんて、出ていません」
悠斗は眉をひそめながら、スマホで着信履歴を確認したが、彩花からの着信記録はどこにもなかったし、電話を切った後、泉がすぐに履歴を消去したことなど、悠斗が知る由もなかった。
悠斗はゆっくりと彩花に近づき、ぎこちない口調でなだめようとする。
「彩花、落ち着け。俺たちはまだ若いんだから、子供なんてまた作ればいいだろ!お前の体が回復したら……」
「また子供を?」彩花は一歩前に出て、包丁の先を悠斗の胸に向けた。「悠斗。あなたにはもう、二度と子供はできないわ」
悠斗の体は強張り、瞳孔が収縮する。「どういうことだ?」
「だから……」彩花は一語一句はっきりと告げた。「あなたの血は、これで絶えるのよ」
言い終わると同時に、彩花は突然、悠斗の心臓をめがけて包丁を深く突き刺した。
ブスッ――
彩花がナイフから手を離すと、悠斗の高級そうなシャツに血がじわじわと滲んでいく。
そして見つめる。かつては骨の髄まで愛し、今では骨の髄まで憎んでいる男の顔を……
「今日から私が生きる目的は復讐……ただそれだけ」