所詮、すべては泡沫の夢

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所詮、すべては泡沫の夢

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陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。 奈津美はパスポートを...

Chương (1)

第1章

陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。 奈津美はパスポートを再発行してもらうため市役所へと戸籍抄本をもらいに行った。キーボードを少し叩いていた窓口の職員が、ふと顔を上げて彼女に言った。「ご結婚されてるとおっしゃっていましたが、戸籍上は未婚になっております……」 聞き間違いかと思い、奈津美は呆気に取られた。「そんなはずありません。夫とは3年前に、ここで婚姻届を出しましたから」 職員はもう一度記録を確認すると、気まずそうに言った。「システム上、高橋さんは確かに未婚ですが、旦那さんだとおっしゃられる陣内勇太さんはご結婚されおります……」 そして、言葉を濁しながら続ける。「奥様として登録されているのは、陣内明里(じんない あかり)さんという別の方ですが……お知り合いでしょうか?」 その言葉に、奈津美の頭は真っ白になった。キーンという鋭い耳鳴が響く。 第1話 陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。 奈津美はパスポートを再発行してもらうため市役所へと戸籍抄本をもらいに行った。キーボードを少し叩いていた窓口の職員が、ふと顔を上げて彼女に言った。「ご結婚されてるとおっしゃっていましたが、戸籍上は未婚になっております……」 聞き間違いかと思い、奈津美は呆気に取られた。「そんなはずありません。夫とは3年前に、ここで婚姻届を出しましたから」 職員はもう一度記録を確認すると、気まずそうに言った。「システム上、高橋さんは確かに独身ですが、旦那さんだとおっしゃられる陣内勇太さんはご結婚されおります……」 そして、言葉を濁しながら続ける。「奥様として登録されているのは、陣内明里(じんない あかり)さんという別の方ですが……お知り合いでしょうか?」 その言葉に、奈津美の頭は真っ白になった。キーンという鋭い耳鳴が響く。 奈津美と勇太が幼なじみだということは周知の事実だった。 奈津美は勇太の初恋の人で、勇太が少年時代から大切に守り続けてきた存在だった。 そして、明里は奈津美が留学していた2年間、奈津美に会いたくてたまらなかった勇太が、寂しさを紛らわすために見つけてきた「奈津美の代わり」だったのだ。 …… 奈津美は新しく発行してもらった未婚と記された戸籍抄本を握りしめながら、呆然としたまま車に乗り込んだ。 突然携帯が震え、勇太からのメッセージが表示された。 【奈津美。少しでも早く君に会いたかったから、2000億円規模の契約を蹴って、君の大好きなバラとショートケーキを買ってきたよ。君も俺に会いたいと思ってくれてるかな?】 奈津美はそのメッセージを見つめながら、ふっと笑い声を漏らす。 笑っていた奈津美だったが、次第に涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。 この3年間、勇太は毎日こうやって、言葉で愛を伝えてくれていた。 それなのに……本当は別の人と法的な夫婦になっていたなんて。 子供のころ、木に引っかかった凧を取ろうとした勇太は、3メートルほどの高さから落ちたことがあった。その時、彼は右腕を骨折したというのに、笑いながら凧を渡してこう言った。「奈津美、泣かないで。僕は痛くないから」 15歳の誕生日には、奈津美へ一番に「誕生日おめでとう」と言うためだけに、彼女の家の前で一晩中雨に打たれていたこともあった。 18歳の誕生日に至っては、勇太は遊園地を丸ごと貸し切って、夜空いっぱいの花火の下で片膝をつきながらこう言ってくれた。「奈津美。俺が22歳になったら結婚しよう」 奈津美が留学に立つ日、目を真っ赤にした勇太は、空港の壁に奈津美を押し付け、震える声で言った。「2年だ。君にあげられる時間は2年だけ。2年経ったら、無理やりにでも連れ戻しに行くからな」 留学中の2年間、勇太はほとんど毎日ビデオ通話をかけてきた。 一度、奈津美が論文に追われて3日間電話に出なかったことがあるのだが、やっと連絡が取れた時には、勇太は飲み過ぎで入院していた。 ビデオ通話の向こうで、勇太が真っ赤な目をして言った。「奈津美、君がいないと生きていけないんだ」 そんな時、奈津美はいつも勇太を宥めるのだった。「もうすぐ帰るから。もう少しだけ待ってて」 帰国する日、奈津美は勇太に内緒でサプライズをしようと考えていた。 サプライズで行ったクラブの個室のドアを開ける。すると、勇太が知らない女を抱きしめ、情熱的にキスをしているのが見えた。 しかも、その女の横顔は、奈津美によく似ていたのだった。 奈津美の手から鞄が滑り落ちたが、彼女はそのまま踵を返して走り去った。 それに気づいた勇太が必死になって追いかけてきた。その後も、幾度となく奈津美に電話をかけた勇太だったが、奈津美が電話に出なかったので、メッセージを大量に送った。それでも、奈津美が会うことを拒んだので、勇太は彼女の家の前で雨に打たれながら、何度も何度も弁明をしていた。 「君が思っているようなことじゃないんだ! この数年、君は会いに来るなって言っただろ……でも、どうしても君に会いたくて、それで君の代わりに…… でも、抱きしめたりキスしたりしてただけなんだ。それ以上のことは何もしてない! 奈津美、本当にごめん。でも、君に会いたすぎて、俺はどうかしてたんだよ……」 結局、雨の中で3日間も立ち続けた勇太は、高熱で肺炎を起こして倒れてしまった。病院に運ばれてもまだ奈津美に会おうとする勇太を見て、奈津美はとうとう許してしまった。 その後、勇太は以前と同じように奈津美に優しくしてくれた。 しかし結婚後、勇太の秘書が明里に変わっていたのだった。 勇太がもう縁を切ったと言っていた、あの「奈津美の代わり」だ。 勇太はまたもや弁明をした。「俺は明里たち家族に別の土地で暮らすように言ったんだ。だけど、両親は体調を崩すし、本人も新しい環境に馴染めなかったらしくて……泣きながら東都に帰りたいって頼んできたんだ…… でも、明里が秘書の面接を受けてたなんて、俺は全く知らなかった。 だから、あいつはちゃんとした選考で選ばれたんだし、仕事もできるから、簡単にクビにはできないよ」 結局、奈津美はまた我慢することにしたのだった。 しかし、我慢を重ねた結果がこうなるなんて。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。 車が高級住宅街に入った頃には、奈津美の涙はもう乾いていた。 奈津美は深く息を吸い込んでから、ドアを開けようとした。その時、リビングから勇太と彼の友人の会話が聞こえてきた。 「さっき病院に行ってきたけど、明里さんは大丈夫だったぞ。ただのかすり傷だから、お前は安心して奈津美さんと一緒にいてやれ」 ソファにもたれている勇太は、黒いシャツのボタンを二つ外し、長い脚を組んでいた。 すると、勇太は眉を顰めて親友が持つ煙草を灰皿に押し付け、低く冷たい声で言った。「何回言ったら分かるんだよ。うちでは煙草は吸うなって言っただろ?奈津美は煙草の匂いが嫌いなんだ」 「はいはい、奥さん愛が強いねぇ」親友が笑って揶揄う。「でも正直よく分かんねぇんだよな。お前はこんなに奈津美さんを愛してるのに、なんで明里さんと籍を入れたんだ?もしかして、ただの代わりってだけじゃないのか?」 数秒間、空気が静まり返った。 やがて、勇太の低い声が響く―― 「だとしたら、なんだっていうんだ? 俺も昔は、明里はただの替え玉だと思ってたよ。奈津美が帰ってきたら、もう必要ないって。 でも、明里と別れてから、ほとんど毎晩のように明里の夢を見たんだ。 それで結局、あいつが傍にいないことに耐えられなくなって、秘書としてそばに置くことにした。 俺には奈津美が必要だ。でも明里も……もう手放せないんだよ。 奈津美には、表立って俺の愛情を全部注いでやれるけど、明里との関係は公にはできない。だから、せめてもの償いに籍を入れてやったんだ。それのどこが悪い?」 親友はため息をついた。「奈津美さんに知られたらとかは思わないのか?あの人の性格だぞ。もし知られたら、お前が目の前で死んだって、二度と振り向いてくれないって」 勇太は少し黙り込み、喉を鳴らす。「だったら、永遠に知られなければいいさ」 ドアの外に立っていた奈津美は、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。 こういう時は泣き崩れるものかと思っていたが、涙一滴出てこない。 これが本当の痛みを感じた時の反応なのか。 心臓を抉り取られたようなのに、それでも動き続けている感覚。 今朝、出かける前に勇太が優しくおでこにキスをしてくれたこと、接待で酔って帰ってくると、いつも自分を抱きしめて「奈津美、君がいないとダメだ」と呟いていたこと、奈津美の手を彼の胸に当てて、「この心臓は君のためにだけ動いてる」と言ってくれたこと…… その全てが嘘だったなんて。 ここへ帰ってくる途中は、勇太にも何かやむにやまれぬ事情があるのかもしれない、などと考えていた。 しかし、今やっとはっきりした。勇太はただ、二人を同時に愛してしまっただけなのだ。 勇太にあったのは、二者択一ではなく、一人は初恋の人として、もう一人は心に深く刻まれた忘れられない存在として、両方手に入れたかったのだ。 そうなら、それでいい。 勇太は自分に知られたくないのだ。だったら教えてあげよう。本当の意味で「二度と振り向かない」というのがどういうことかを…… 奈津美は踵を返し、その足で二つのことをしに行った。 第2話 まずはじめに、奈津美は自分の個人情報を全て抹消する手続きをとった。 そして、名前も変えた。 役所の人からは、手続きは全て2週間で終わると言われた。 2週間すれば、勇太がいくら血眼になって探しても、もう二度と自分を見つけることはできなくなるのだ。 バッグの中では、携帯が狂ったように震えている。全部、勇太からの着信やメッセージだった。しかし、奈津美は携帯を見ることもなく、その場を後にした。 家に戻ってきた時には、もう空は真っ暗になっていた。 奈津美が家に入ると、勇太がリビングに立っていた。奈津美の顔を見るなり大股で歩み寄ってくる勇太の目には、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。「奈津美、どこに行ってたんだよ?帰ってきたらいないから、もう何時間も待ってたんだ。街中探し回るところだったよ」 この勇太の心配は嘘ではなさそうだ。 奈津美は勇太を見つめる。なぜだか、心臓を見えない手でぎゅっと掴まれたようだった。 ふと、高校生の頃を思い出した。あれは、勇太が数学の大会に出場した時のこと。奈津美が1時間勇太に返信しなかっただけで、彼は大会を放り出して自分を探しに戻ってきた。奈津美になにかあったのではないかと、本気で心配してくれたのだ。 あんなにも、自分を愛してくれていた人…… しかし、その愛情は自分だけのものではなかった。 喉に何かがつまったみたいに、息をする度ちくちくと痛む。だが、奈津美は平静を装って言った。「買い物に行ってたの。言うの忘れちゃって、ごめんね」 それを聞いた勇太はほっと息をつき、奈津美を腕の中に抱きしめる。「謝ることなんてないよ。責めてるわけじゃないから。ただ心配だったんだ」 勇太は奈津美の髪にそっとキスをして、やさしく言った。「そうだ。一昨日、ハンバーグとポトフが食べたいって言ってたよね?俺が今から作るよ」 勇太は奈津美から体を離すと、キッチンへと向かった。 奈津美は入り口に立ち、静かに勇太の姿を見つめる。 シャツの袖をまくりあげた勇太は、すらりとした指で手際よく野菜を切っていた。暖かい光に照らされたその横顔は、とても優しい。 そういえば、とあることを思い出す。3年前、自分が帰国したばかりの頃のこと。不規則な食生活がたたって、奈津美は胃を壊して入院した。 あの頃、誰もが知る大企業の社長である勇太は、料理なんて一度もしたことがなかった。なのに、彼はわざわざ一流のシェフに弟子入りして、1ヶ月かけて料理を習得したのだった。 ある時、海外とのテレビ会議と奈津美のための料理の時間が重なってしまった。すると勇太は、キッチンにタブレットを持ち込んで、料理をしながら会議に参加したのだった。役員たちがみんな呆気に取られていたのを覚えている。 勇太はかつて、それほどまでに自分を愛してくれていた。 だが、その時……勇太の携帯が鳴った。 奈津美は、画面をちらりと見た勇太の表情が変わったのに気づいた。勇太がすぐに包丁を置き、慌てて手を拭く。 「ごめん、会社で急用ができちゃった。ちょっと行かなきゃいけないんだ」勇太はエプロンを外し、いつもと変わらない口調で言った。そして、奈津美の額にキスをすることも忘れない。「料理はもうできてるから、先に食べてて。俺を待たなくていいからさ」 奈津美は何も言わず、ただ頷いた。 勇太が出て行った後、奈津美はダイニングテーブルに歩み寄る。湯気の立つ料理を見ていると、急に心臓が痛くなって、息がなんだか苦しい。 なぜなら、さきほどはっきりと見えたのだ。電話の相手が明里だということが…… 奈津美は食事を始める気にはなれなかったので、家を出てタクシーを拾い、勇太を追いかけた。 案の定、勇太が向かったのは会社ではなかった。そこは病院だった。 病院の特別病棟の廊下。 そのフロアは貸し切りになっていて、病室の前には、白衣を着た数人の医師や看護師が緊張した面持ちで立っているだけだった。 院長が頭を下げ、勇太に平謝りしている。「陣内社長、誠に申し訳ありませんでした。我々の不注意で、患者さんがバスルームで転倒してしまうなんて……必ずヘルパーを増員し、二度とこのような失態はいたしません!」 顔を曇らせた勇太が、氷のように冷たい声で言った。「次はない。もし次があったら、この病院を潰してやる」 院長は何度も頷いた。「は、はい!肝に銘じます!」 角に隠れて立っていた奈津美の指先が、手のひらに食い込んでいく。 勇太の友人が明里はただの「ただのかすり傷」だって言っていたのに。 それなのに、たかがかすり傷でフロアを丸ごと貸し切りにして……ちょっとしたことで、病院ごと潰してしまいそうな勢いで取り乱している。 病室のドアが開けられた。明里が、ベッドの上で力なく体を起こしている。顔は真っ青で、目の縁は赤くなっていた。 勇太は足早に駆け寄り、明里の手を握る。「どうだ?まだどこか痛むか?」 明里は目を赤くし、声を詰まらせた。「全部私のせいなの……車に轢かれたのはまだしも、お風呂で転ぶなんて。それに、あなたと高橋さんが一緒にいる時間まで奪ってしまって……もし彼女が誤解しちゃったらどうしよう。私って本当に最低ね……」 「馬鹿なこと言うな」勇太は咎めたが、その口調は優しかった。「今は自分の体のことだけ考えろ。ここ数日は、俺がずっと傍にいてやるから」 明里が濡れた瞳を上げて尋ねる。「でも、高橋さんは?」 「あいつのことはうまくやっておくから、お前は心配するな」勇太は淡々と言った。 そして、一息おいて付け加える。「俺たちは夫婦なんだ。傍にいるのは、当たり前だろ?」 第3話 奈津美の全身の血が一瞬で凍りつく。 夫婦……ね。本当に仲睦まじい「夫婦」だこと。 奈津美がその場で動けないでいると、次の瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。勇太が腕から数珠を外し、そっと明里の手に着けたのだ。 「もう二度と自分のことを最低だなんて言うな。 この数珠はご祈祷してもらったものなんだ。俺が7年間ずっと身に着けていた。これからはお前が着けて、お前の無事を守ってくれるから」 感動した明里が目に涙を浮かべ、勇太に抱きつく。 ドアの外に立ち尽くしていた奈津美は、目の前がぼやけて、まるで深海に沈んでいくかのような息苦しさを感じた。 あの数珠は…… あれは自分が18歳の時、山のふもとから頂上のお寺まで何度も通って、やっと手に入れたものだった。 その日は大雨で、地面がかなり滑りやすくなっていたため、奈津美は派手に転んでしまった。ひざからは血がにじみ、手のひらは擦りむけたが、奈津美はなんとか山頂のお寺まで登り切った。そうして、ようやく和尚と会え、この数珠を授けてもらったのだった。 その時の奈津美はボロボロで、しかもずぶ濡れになった状態で家に帰った。そんな奈津美の姿を見た勇太は、すぐに目を赤くし、震える声で彼女を抱きしめてくれた。「奈津美、君はなんて馬鹿なんだ。なんでこんな無茶するんだよ!」 奈津美は笑いながら、勇太の手に数珠を着けてあげた。「和尚様が言ってたの。これは『長寿祈願』のお守りで、あなたをずっと守ってくれるんだって」 勇太はうつむいて奈津美にキスをすると、「一生はめておく」と言った。 それから7年間、勇太は本当に一度もそれを外さなかった。 どれだけフォーマルなビジネスの場でも、たとえ二人きりの甘い時間でも、その数珠はいつも勇太の腕にあった。 なのに今、勇太は自分の手で、それを他の女の手に着けてしまった。 心臓を鈍いナイフで少しずつ切り裂かれるような痛みで、呼吸さえも苦しかった。 勇太の言う「一生」は、たった7年のことだったみたい。 奈津美はくるりと背を向けてその場を離れた。足元がおぼつかず、まるで綿の上を歩いているようだった。 家に帰り着いた頃には、もうとっくに日は暮れていた。 玄関のドアを開けたとたん、携帯が震えた。 勇太からのメッセージだった。【奈津美、急に会社でトラブルがあって、数日海外出張になった。怒らないでくれ。帰ったら埋め合わせするからさ】 奈津美は画面をじっと見つめた。キーボードの上に置かれた指が、かすかに震える。 奈津美は文字を打ち込んだ。【数日間の出張?それとも、奥さんと過ごすための数日間?】 しかし、結局その言葉を一つ一つ消していった。スクリーンに涙がこぼれ落ち、視界が滲んでいく。 それから、奈津美は荷造りを始めた。 マイナンバーカード、パスポート、キャッシュカード……自分の存在を証明するものを、全てをスーツケースに詰め込む。 3日後、勇太が帰ってきた。 勇太はドアを開けるなり、大きなバラの花束を抱え、もう片方の手にはいちごのショートケーキを持っていた。そして、優しい笑顔で言った。「奈津美、ただいま」 奈津美はリビングの真ん中に立ち、静かに勇太を見つめる。 勇太は奈津美に歩み寄り、花とケーキをテーブルに置くと、奈津美を抱きしめようと手を伸ばす。「この数日、会社の仕事が本当に忙しくてさ。どうしても海外に行かなきゃならなかったんだ。そうでもなきゃ、君をこんなに長く一人にしたりしない。だから、怒らないでくれ、な?」 奈津美は軽く身をひいて勇太の腕から逃れると、静かな声で言った。「怒ってないよ。まずは仕事を終わらせたら?」 勇太は一瞬呆気に取られていたが、すぐ笑顔に戻った。「もう忙しくないよ。やるべきことは全部終わらせてきたから。これからは君のご機嫌をとる時間だ」 勇太は奈津美の手を取り、期待に満ちた目で言う。「君にサプライズを用意したんだよ」 奈津美の返事を待たずに、勇太は彼女を車に乗せた。 30分後、車はとあるコンサートホールの前で停まった。 中に入った奈津美は、ホール全体が貸し切りになっていることに気づいた。会場にいた人々は、二人が入ってくると、口々にささやき始める。 「陣内社長はすごいわね。高橋さんのためにホールを丸ごと貸し切るなんて!」 「わざわざ海外から高橋さんの大好きな楽団を呼んだらしいよ。今日は一日中、彼女のためだけに特別な曲を演奏するんだって」 「あの楽団、今ものすごく人気で出演料も高騰してるのに。控えめに見積もっても、200億円はくだらないでしょ」 「こんな陣内社長が喜んでるんだもん、大したことないはずよ」 まばゆいライトの下に立つ奈津美。耳に届くのは、周りの人々のため息にも似た羨望の声。目の前には、勇太の優しい笑顔。 こんな幸せな状況なのに、奈津美の心は、まるで氷水に浸されているかのように、痛いほど冷え切っていた。 勇太は自分に盛大なロマンスをくれ、他の女には妻という地位を与える。 自分を誰もが羨むスポットライトの中に立たせる一方で、別の女を彼の戸籍に入れているのだ。 第4話 奈津美はコンサートホールの特別席に座った。美しいピアノの音色が響く中、目の前には勇太の優しく微笑む顔がある。 彼は奈津美のショールを直し、「寒い?」と優しく尋ねた。 奈津美は首を振った。しかし、下腹部に締め付けられるような痛みが走り、少し眉を顰める。 勇太はすぐにそれに気づき、「もしかして、生理か?」と聞いた。 下着が濡れる感覚に、奈津美はこくりと頷く。 勇太は温かい手のひらを奈津美の下腹部に当てて、そっと撫でた。「かなり痛む?もしあれだったら、もう帰ろうか?」と心配そうな顔で聞いてきた。 奈津美は首を横に振る。 勇太は強引に奈津美を連れて帰ることもできなかったので、仕方なく秘書の荒井空(あらい そら)に電話して、生理用品とカイロを持ってこさせることにした。 その間も、勇太の意識はずっと奈津美に注がれていた。時々お腹をさすってくれたり、「温かい飲み物はいる?」や「ブランケットは?」と気遣ってくれたり……まるで奈津美がまだ、彼にとっての大事な宝物であるかのようだった。 30分後、誰かが慌てた様子でやってきて、小さな声で呼びかけた。「社長、お届け物です」 奈津美と勇太が同時に振り返ると―― そこにいたのは、明里だった。 明里は紙袋を手に持ち、髪は少し濡れていて、顔色も青白かった。 勇太の表情が一瞬で変わる。「お前は怪我が治ったばかりだろ?誰がお前を来させたんだ?俺が呼んだのは荒井だ」 明里は唇を噛んで、か細い声で答える。「荒井さんは今、商談中なんです。でも、高橋さんがお辛いだろうし、社長をお待たせするのも悪いと思って、私が代わりに来ました……」 明里はそう言うと、紙袋をそっと差し出した。「傘を忘れてしまって、袋を濡らしてしまいました……でも、安心してください。カイロも生理用品も、ちゃんと濡れないように守ってきましたから」 勇太は複雑な表情を浮かべたが、最終的にはまず紙袋を受け取り、それを奈津美に手渡す。「奈津美、一緒に行くよ」 奈津美は何も言わず、それを持ってトイレへと向かった。 しかし、奈津美が出てくると、外で待っているはずの勇太の姿がなかった。 その場を去ろうとした時、隣のお手洗いから微かな物音が聞こえてきた。 奈津美が近づき、中を覗くと―― 勇太が、明里を洗面台に押さえつけ、深くキスをしていた。 明里は、拒むような、それでいて受け入れるような仕草をする。「やめて……高橋さんが待ってる……」 「あいつのことはほっておけ」勇太の声は低く、掠れていた。「こんな大雨の中を走ってきて……俺をそんなに心配させたいのか?」 「私はただ、高橋さんが辛い思いをするのが嫌で……だって、彼女の辛い顔を見たら、あなたもきっと辛くなるでしょ……」明里の声は涙で震えている。「あなたには、笑っていてほしいから……」 その言葉に、勇太はさらに明里を愛おしく思ったようだ。キスはさらに深くなり、明里が小さな声を漏らす。 勇太は低く笑い、優しい声で囁いた。「感じたか?」 明里が顔を赤らめて勇太を押す。「高橋さんのところへ行ってあげて。私は……自分でなんとかするから……」 「どうやって?」勇太の声には、甘やかすような響きがあった。「こういうのは、男に手伝ってもらったほうが気持ちいいに決まってるだろ?」 そして、勇太の手が下に伸びていく。 衣擦れの音。明里が必死に抑えた喘ぎ声。そして、勇太の低く甘い声が聞こえる。「いい子だ、力を抜いて……」 奈津美はドアの外に立ち尽くす。胸が張り裂けそうなほどの痛みに襲われた。 奈津美は二人のファーストキスを思い出す。 18歳のあの日。勇太は満開の花火の下で自分の顔を両手で包み、そっと尋ねた。「奈津美、キスしてもいい?」 自分が顔を赤らめて頷くと、勇太は顔を近づけてキスをした。まるで、壊れやすい宝物に触れるかのように、それはとても優しく…… 奈津美は、二人が初めて結ばれた夜も思い出した。 勇太はとても我慢強く、何度も「痛くないか?」と聞き、奈津美が慣れるまで、本気で自分を抱こうとはしなかった。終わった後も、ずっと自分を抱きしめてくれて、「一生、君を大切にするから」と言ってくれたのに。 それなのに今は、トイレの中なんかで、他の女を指で喜ばせている。 勇太……こうやって裏切るのね。 心臓を引き裂かれたようで、その痛みに奈津美は立っていることさえできなくなりそうだった。 ふらつきながら後ずさりした拍子に、壁際にあった飾りの花瓶にぶつかってしまった。 「誰だ?外にいるのは!」勇太の鋭く冷たい声が聞こえる。 第5話 廊下に出た勇太だったが、そこには誰もいなく、ただ隅っこに茶トラの猫がうずくまって、彼を警戒するように見ていただけだった。 「どうやら猫だったみたいね」追ってきた明里が小声で言う。「勇太、早く高橋さんのところに戻ってあげて。私は後でタクシーで帰るから大丈夫」 勇太は眉を顰めた。「こんなに雨が降ってるのに、タクシーなんて捕まらないよ。俺と一緒にいればいい」 明里は唇を噛み、小さな声で言う。「でも、高橋さんは……」 「お前は誰の女だ?」勇太は不意に彼女の顎を掴み、低い声で尋ねた。 明里は途端に顔を赤らめる。「……あなた」 「なら、俺の言うことを聞け」勇太は明里の手を取り、そのままコンサートホールへと連れ戻した。 ドアを開けて中に入ると、奈津美はまだ元の席に座って、静かに演奏を聴いていた。 勇太はほっと息をつき、明里を引っ張って奈津美の隣に座らせると、何気なく言った。「外は雨がひどいし、彼女も演奏会が好きだっていうから、ここにいてもらうことにしたよ」 奈津美は「うん」とだけ答え、勇太の嘘に気づかないふりをする。 演奏会の間、勇太は相変わらず奈津美に細やかな気配りを見せていた。 寒くないか尋ねたり、お腹をさすってあげたり。さらには、途中で退席して休むかとまで小声で聞いてきた。 でも奈津美は知っていた。勇太の左手は、ずっと明里と指を固く絡ませていたことを。 ふと、二人が初めて手を繋いだ時のことを思い出した。 それは16歳だった、ある雪の降る冬の夜のこと。勇太はこっそり塀を乗り越え自分の家の前にやってきて、凍えて真っ赤になった手を差し出し、笑って言った。「奈津美、手がすごく冷たいんだ。温めてくれない?」 自分が顔を赤らめながらその手を握ると、勇太はすぐに指に力を込め、ずっと離さなかったのだ。 あの頃、勇太の目には自分しか映っていなかった。 それなのに今は、自分と手を繋ぎながら、他の女の手も握っている。 一筋の涙が奈津美の頬を伝った。 勇太はすぐにそれに気づき、指の腹でそっと奈津美の頬を拭う。「どうした?」 奈津美は微笑んで、小さな声で答える。「音楽があまりにも素晴らしいから、感動しちゃったの」 勇太はくすりと笑い、甘やかすような声で言った。「まったく、君は本当に可愛いな。こんなことで感動するなんて」 しかし、奈津美は何も言わず、ただ勇太が涙を拭うのを黙って受け入れた。 演奏会が終わり、人々が会場の片付けを始めた。しかし、勇太は奈津美を引き留める。 勇太がスタッフに、たくさんの楽器を運び込ませた。ピアノ、チェロ、ヴァイオリン……どれも信じられないほど高価なものばかりだ。 「君が前に、この楽器たちのこといいって言ってたろ?だから全部、買っておいたんだよ」勇太は笑って奈津美に尋ねる。「気に入ってくれた?」 「高橋さん。陣内社長はこれらの楽器を手に入れるために、大変な苦労をされたんですよ」傍にいたスタッフも言葉を付け加えた。「個人のコレクターから高値で競り落としたものもあれば、博物館から借り受けたものもあって……」 その様子を横で見ていた明里の目に、暗い影がよぎる。 奈津美は皮肉っぽく口の端を上げ、何かを言おうとした。 しかし、「これは何?」と、明里が突然手を伸ばし、好奇心から傍にあった何か装置を動かすためのロープを引っ張った。 「引っ張らないで!」顔色を変えたスタッフが慌てて止めたが、もう手遅れだった。 頭上で機械が動く大きな音がしたかと思うと、次の瞬間、重い照明の骨組みと音響機材が猛烈な勢いで落下してきた。 その瞬間、勇太はとっさに明里を引き寄せ、腕の中に抱え込むようにして横へ転がった。 一方、その場に立ち尽くしていた奈津美は、黒い影が自分に迫ってくるのをただ見つめることしかできなかった―― ドンッ。 激しい痛みが体を襲い、奈津美は血の海に倒れた。薄れていく意識の中で最後に聞こえたのは、慌てふためく勇太の叫び声だった。「奈津美――」 しかし、奈津美には分かっていた。勇太が他の女を腕に抱いているということを…… 第6話 奈津美は、長い夢を見た。 夢の中の勇太は、まだ14歳で制服を着ていて、口の端に青あざを作りながらも、その笑顔は不敵に輝いている。 自分は目に涙をためながら彼に薬を塗り、怒鳴った。「馬鹿じゃないの?一人で30人も相手にするなんて!スーパーヒーローだってそんな無茶はしないよ!」 勇太は平然と眉を上げる。「あいつらが、君から金を奪おうとするのが悪いんだろ?君をいじめるやつは許さない」 顔を上げた勇太は、熱く、そして力強い眼差しで言った。「僕がいる限り、君を絶対に傷つけさせない」 夢の中の奈津美は涙が止まらず、思わず勇太の名前を叫んだ。「勇太……」 しかし彼は、まるで聞こえていないかのように、同じ14歳の自分の手を引いて、背を向けて遠ざかっていく。 場面は突然現実に切り替わる―― 現実の勇太は明里を庇った。そのせいで自分は怪我をし、視界が血で真っ赤に染まった。 奈津美がはっと目を開けると、涙で枕が濡れていた。 まだ夢うつつでいると、病室で明里が泣きながら勇太の胸に飛び込んでいるのが見えた。「どうしよう、全部私のせい……あのロープを引かなければ、高橋さんもあんなことには……何か、私に罰をちょうだい……」 勇太は仕方ないなという顔で彼女の涙を拭う。「本当に罰がほしいのか?」 明里がしゃくりあげながら頷いた。「うん。悪いことをしたんだから罰を受けなきゃ。じゃないと、夜も眠れないよ……」 勇太は静かに笑い、明里の頬をつまんだ。「じゃあ、俺のこと『旦那様』って呼んでみろ」 明里はきょとんとした。「……え?」 「呼べ」 明里は顔を赤らめ、小声で呟く。「……旦那様」 勇太は明里の髪を撫で、優しい声で言った。「俺を『旦那様』と呼んだんだから、俺の言うことを聞くように。この件は俺に考えがあるから、お前はもう気にするな」 明里は、素直に部屋を出ていくしかなかった。 奈津美は静かにその光景を見つめていたが、無意識に動いてしまった指先で、ベッドサイドのコップを倒してしまう。 ガシャンッ―― 勇太ははっと振り返り、そこで初めて奈津美が目を覚ましていたことに気づいた。 彼は足早に駆け寄り、心配そうに尋ねる。「奈津美、大丈夫か?どこか痛むところは?」 勇太は奈津美の手を握り、悔やむように言った。「ごめん。あの時は混乱していて、君と明里を間違えてしまった……」 相手の嘘を暴こうとはせず、奈津美は目を閉じた。 ただ静かな声で尋ねる。「明里さんは?」 勇太は、奈津美が明里を責めるつもりだと思い、顔色を変えてすぐに弁明した。「あの子もわざとじゃなかったんだ……でも、確かに彼女が悪い。だから、もう厳しく罰しておいたから」 奈津美は、さっき勇太が明里に「旦那様」と呼ばせていた場面を思い出す。 あれが、罰だって? それなら確かに……ずいぶん厳しい「罰」だ。 奈津美は何も言わなかった。 なぜ見間違えたのかなんて怒って問いただしたり、勇太の贔屓をヒステリックに責めたりもしなかった。 ただ、穏やかにこう言うだけ。「お腹が空いた」 勇太は言葉を失った。 奈津美の目を見つめ、ついに何かがおかしいと気づいた。 奈津美があまりにも静かすぎる。 まるで心が死んでしまっているかのようだった。 勇太は何かを言おうと口を開きかけたが、奈津美がもう一度繰り返した。「お腹が空いた」 その言葉が、勇太の思考を完全に掻き乱す。 勇太は不安を押し殺し、優しく頷くしかなかった。「分かったよ。すぐに何か買ってくるから待ってて」 勇太は車のキーを手に取り、慌てて出ていった。 ドアが閉まった瞬間、奈津美の目からは、涙が滝のように溢れ出す。 しかし、奈津美はすぐに腕でそれを拭った。 窓の外を見る。眩しいほどの太陽の光も、奈津美の心までは届かない。 好きだから取り乱すし、憎いから騒ぎ立てるの。 でも今の自分が、勇太に抱いている気持ちは…… 愛でも憎しみでもない。ただ、無なのだ。 第7話 全ての仕事をキャンセルした勇太は、病院で奈津美につきっきりで付き添っていた。 自ら奈津美にご飯を食べさせ、薬を塗り、夜中に目を覚ましては布団がはだけていないか確認するほどだった。 それなのに、奈津美はずっと静かなまま。 退院の日、勇太は奈津美が塞ぎ込んでいるのではないかと心配し、わざわざ盛大な快気祝いのパーティーを開いた。 ホールはきらびやかに飾られ、シャンパンタワーが高く積まれている。招待客たちは皆着飾り、楽しそうにグラスを酌み交わし、誰もがその光景を羨んだ。 「陣内社長は、高橋さんのことを本当に大事にされているのね……」 「プレゼントはどれも限定品ばかりだとか。中には、いくら高くても構わないとオークションで競り落としたものもあるって聞いたよ……」 「高橋さんって、本当に幸せ者ね……」 奈津美は人の輪の中心に立っていたが、その顔に笑顔はなかった。 勇太はついにしびれを切らし、奈津美を隅に連れて行くと、小声で尋ねた。「まだ怒ってるのか?」 奈津美の手首の内側を指でなぞりながら、機嫌をとるように言う。「あの時は本当に見間違えただけだったんだよ。 なあ、どうしたら許してくれるんだ?なんでも聞くからさ、ね?」 奈津美は勇太を見つめると、ふっと笑いを漏らした。「分かった。じゃあ、明里さんをクビにしてくれる?」 勇太は表情を微かに曇らせたが、語気を和らげて言う。「彼女は家が大変で、両親も病気なんだ。そこまで追い詰めなくてもいいだろ?」 奈津美は、黙って彼を見つめた。 さっきまでは「なんでもする」と言っていたくせに、明里が関わると、途端に変わるんだから。 奈津美が何か言おうとしたその時、勇太の携帯が鳴った。 相手は、明里だった。 電話の向こうでは、明里が必死に泣き叫んでいる。「助けて!変な男たちが大勢きて……私、ひどい目に遭わされそう……」 勇太の顔色が一気に変わった。「なんだって?今、どこにいるんだ?」 しかし、電話はもう切れていた。 血相を変えた勇太はかけ直したが、電話はもうつながらなかった。 勇太がはっと奈津美を見た。その目には、焦り、疑い、そして抑えきれない怒りが渦巻いている。 「奈津美、明里はどこだ?」勇太の声は緊張でこわばっていたが、まだなんとか怒りを抑えているようだった。 奈津美の胸がぎゅっと締め付けられる。 勇太は自分を信じていない。 確かめもしないで、もう自分がやったと決めつけている。 奈津美は震える声で言った。「私がやったって疑ってるの?」 「疑っているわけじゃない」勇太は眉間をもみながら言った。「ただ、さっきの電話で、誰かに襲われそうだと……」 「だから……なによ?」奈津美の声は震えていた。「私がやったとでも言いたいの?」 一瞬黙った勇太は、声を低くして言った。「そんなことは言っていない。ただ、今は緊急事態なで……」 「あの女から電話があっただけで、そんなに慌てるの?」奈津美はふと笑ったが、その瞳は冷え切っていた。「勇太、あなたと彼女は一体どんな関係なの?」 勇太はさらに眉を顰める。「命に関わる状況なんだぞ。こんな時にまでやきもちを焼くのか?」 「やきもち?」奈津美の声は羽が舞い落ちるようにか弱かった。「これが、やきもちを焼いているように見えるの?」 勇太は深く息を吸い込んで、できるだけ穏やかな声で言った。「奈津美、俺とあの女は本当に何もない。でも、今は彼女の身が危ないかもしれないんだ。だから教えてくれ。君がやったのか……」 「違うわ」奈津美は彼の言葉を遮った。一つ一つの言葉が、まるで刃物のように突き刺さる。「最後にもう一度言う。彼女がどこにいるかなんて知らないし、誰かに何かさせた覚えもない!」 勇太が奈津美を睨みつける。その目には焦りの色がどんどん濃くなっていく。 一分一秒と時間は過ぎていくが、明里の電話はずっと繋がらなかった。 ついに、我慢の限界に達した勇太は、奈津美の手首を骨が砕けんばかりの力で掴みつけた。 「奈津美、彼女にはもう俺が罰を与えたと言ったはずだ!なのになぜこんな真似をする?女の子の名誉を傷つけるなんて、一番卑劣なやり方だぞ!君の遊びに付き合っている暇はない!教えろ、明里はどこだ?」 奈津美は痛みで顔を真っ白にしながらも、頑なに繰り返した。「知らない!何回聞かれても、知らないもんは知らないから!」 勇太は怒りでどうにかなりそうだった。 「奈津美!君がこんな人だったなんて、知らなかったよ!」 彼は、力任せに奈津美の手を振り払った―― ガンッ。 よろめいた奈津美は、運悪くテーブルの角に額を強く打ちつけた。ぶつけた場所か、血がどっと溢れ出す。 周りから悲鳴が上がった。「陣内社長、高橋さんがお怪我を!」 しかし、勇太は気にも留めなかった。 勇太は振り返りもせずに出て行きながら、電話口で鋭く指示を飛ばした。「今すぐ防犯カメラを調べろ!明里が最後に目撃された場所を特定しろ!」 奈津美はテーブルの角に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。 額からこめかみへと流れる血が生温かい。しかし、奈津美は痛みを感じなかった。 心が引き裂かれるような痛みに比べたら、こんな傷、どうってことない。 奈津美は勇太が去っていった方を見つめ、ふっと笑った。 勇太が自分のことなんて気にするわけない。 今のあの人の頭の中は、明里でいっぱいなのだから。 昔、自分のことで頭がいっぱいだった時のように。 慌てて駆け寄ってきた人たちが、病院に連れて行こうと奈津美を支えようとする。しかし、彼女は静かに首を振ってその手を振り払い、一人でホールを出て行った。 ガシャーン―― 一歩外へ踏み出した途端、背後で大きな音が響いた。 奈津美が振り返ると、そこには【陣内勇太は一生、高橋奈津美を愛す】と書かれた金色のプレートが地面に落ち、真っ二つに割れていた。 奈津美はそのプレートを見つめ、笑い声を漏らす。 笑っているうちに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。 勇太、あなたの「一生」って、こんなにも短かったのね。 第8話 奈津美は一人で家に帰った。 黙って額の傷の手当てをすると、奈津美は荷物をまとめ始めた。 勇太にもらったネックレス、指輪、腕時計。彼が手書きでくれたカードに一緒に撮ったアルバム……勇太に関係するものは全て段ボールに詰め、何度も何度も階下のごみ捨て場に運んで捨てた。 最後の段ボールを捨て終えた時、粉雪混じりの夜風が奈津美の頬を撫でた。 街灯の下に立ち尽くしながら、奈津美はふと自分が滑稽に思えた。 あれほど宝物だった思い出が、今ではただのごみの山の一部だなんて。 家へ戻ろうとした瞬間、突然頭から麻袋を被せられた。 奈津美がもがく間もなく、首筋に激痛が走り、目の前が真っ暗になって意識を失った。 次に目が覚めた時、奈津美は自分がまだ麻袋の中にいることに気づいた。両手は後ろで縛られ、口には布が固く詰め込まれている。 麻袋の隙間から、勇太が明里を抱きかかえ、一段高いソファに座っているのが見えた。周りはボディーガードに囲まれている。 ボディーガードが報告した。「社長、捕まえました。これが高橋さんが明里さんを襲わせたチンピラのリーダーです」 明里は勇太の胸にうずくまり、か細い声で言った。「勇太、もういいよ……あなたが来てくれたから、私は助かったわけなんだし……」 勇太が鼻で笑う。「だめだ」 勇太は長い指でそっと明里の頬を撫で、ありえないほど優しい口調で言った。「奈津美に手を上げるのは気が引ける。だが、お前を傷つけようとしたんだ。それなりの落とし前はつけさせないとな。 こいつが奈津美の差し金なら、見せしめにしてやる。二度とこんな真似ができないように」 奈津美の全身が凍りつく。 やっと奈津美は理解した―― これらは全て、明里が仕組んだ自作自演の芝居なのだ。 明里はチンピラに襲われたふりをした後、人を買収して自分を拉致させた。そして、自分がそのリーダーだと勇太に嘘をつく。そうすれば、勇太は何も知らずに、自分を痛めつけることになるから。 奈津美は必死にもがいて勇太の名を呼ぼうとしたが、口を塞がれているため、か細いうめき声しか出なかった。 明里は情にもろいふりをして、ため息をついた。「それじゃあ……手加減してあげて。高橋さんの仲間なんでしょ……」 勇太の眼差しが冷たくなる。「手加減だと?ありえない。 お前を傷つけようとしたんだ。死ぬほど辛い思いをさせてやる」 次の瞬間、奈津美は高い台の上まで引きずられていった。 下には深さ十数メートルのプールがあり、冷たい水面が青白い照明を反射させている。 麻袋を被せられ縄で縛られた奈津美は、台の端から突き落とされた―― ドボンッ。 水に落ちた衝撃は内臓をハンマーで殴られたかのように感じた。冷たい水が一気に麻袋に流れ込んでくる。 鼻や口からは水が容赦なく流れ込み、むせて目の前が真っ暗になった。肺は無数の針で刺されるように痛み、奈津美は思わず体を丸める。 「助け……て……」 かすかな助けを求める声は、無慈悲にも水音に掻き消された。 麻袋は水を吸ってどんどん重くなり、鉛のように奈津美の体を底へ引きずり込んでいく。 奈津美は必死にもがいたが、縄はますますきつく体に絡みつき、今にも窒息しそうだった。 意識が遠のきかけたその時、縄が急に引き上げられ、奈津美は無理やり水面に引きずり出された。 「ゴホッ、ゴホッ――」 奈津美は激しく咳き込み、肺から血の混じった水を吐き出した。しかし、息つく暇もなく、体は再び突き落とされた。 一度、二度、三度…… 落ちるたびに氷の穴に投げ込まれるように感じ、引き上げられるたびに全身の皮を剥がされるような感覚がした。 それが何度も繰り返され、まさに死ぬほど辛い拷問だった。 奈津美の意識はどんどん朦朧としていき、耳鳴りだけが響く。肺は焼けるように痛み、今にも張り裂けそうだった。 何度目かに引き上げられた時、明里がついに、慈悲を施すように制止した。「もうやめて……勇太、これ以上は……」 だが勇太は鼻で笑った。「まだ終わらないさ」 勇太はボディーガードから鉄パイプを受け取り、奈津美の前に歩み寄った。 「俺の女に手を出したんだ。その代償は払ってもらう」 ドンッ―― 最初の一撃が背中に叩きつけられると、奈津美の体は感電したかのように大きくしなった。 激痛が背骨から伝わり、瞬く間に全身に広がる。奈津美は口の中の布を強く噛みしめたが、くぐもったうめき声が漏れた。 ドン。ドン。ドン。 鉄パイプが容赦なく、次々と振り下ろされる。 その一撃一撃が、骨を砕き、内臓を破裂させるかのようだった。 奈津美は、生暖かい液体が口の端から溢れ、顎を伝って地面に滴り落ちるのを感じた。 99回。 しかも、勇太が自らの手で…… 殴られ続けるうちに、奈津美はもう痛みを感じなくなっていた。 意識は混濁し始め、視界は何度も暗転した。 体がズタズタに引き裂かれ、ミンチ機にかけられたかのようだった。 最後の一撃が振り下ろされると、奈津美はぼろ切れ人形のようにぐったりと地面に倒れ込んだ。体からは血が流れ続け、服を濡らし、地面を赤く染めていった。 バキッ―― 勇太は光る革靴を上げ、麻袋から出ていた彼女の指を容赦なく踏みつけた。 指の骨が砕ける音がはっきりと聞こえ、奈津美は痛みで全身を痙攣させたが、悲鳴を上げる力はもう残ってはいなかった。 ようやく満足した勇太は足をどけると、振り返って明里を抱き寄せた。 長い指で明里の長い髪をそっと撫でる。「怖かったか? でも、もう大丈夫だよ。終わったからな」 勇太はまるでごみでも扱うかのように、ボディーガードに指示を出した。「こいつを捨ててこい」 そう言うと、勇太は明里を抱き上げ、振り返りもせずに立ち去った。革靴が血だまりを踏みつけ、ねちゃりとした音を立てる。 その時、奈津美の口に詰められた布が、ようやく緩んだ。 奈津美は最後の力を振り絞り、かすれた声で勇太の名前を呼ぶ。 「勇太……」 その声は風に吹き消されてしまいそうなほどか細いものだったが、奈津美はその一言で全ての力を使い果たしてしまった。 第9話 勇太が足を止めた。 しかし、明里にタイミングよく「眩暈」が起こる。勇太の肩にぐったりと寄りかかった。「勇太……なんだか頭が痛くて……」 勇太はすぐに視線を戻した。さっきの「気のせい」を無かったことにし、慌てて明里を抱きしめる。「すぐに病院へ連れて行ってやるからな!」 勇太は大股で去って行き、二度と振り返ることはなかった。 奈津美は勇太の後ろ姿を見つめふっと笑う。 笑っているうちに、涙が血と混じって流れ落ちた。 一度だけでも振り返ってくれさえすれば…… 一目見れば分かったはずなのに。今、半殺しにされたのが、かつて宝物のように大切にしていた人だったと…… しかし、勇太はそうしなかった。 勇太の目には、もう明里しか映っていなかったから。 奈津美が次に意識を取り戻した時、自分が家の床に転がされていることに気づいた。 全身ずぶ濡れで、骨がきしむように痛い。 奈津美はなんとか起き上がろうとしたが、動くたびに、背中の傷が引き裂かれるように痛んだ。 指は見るも無残に腫れ上がり、骨が折れたところは、気味の悪い青紫色に変色している。 ポケットの中で携帯が震えた。 奈津美は震える手でそれを取り出すと、2件のメッセージが表示されていた―― 1件目は、勇太から。 【奈津美、この前はごめん。ついカッとなっちゃって。でも、君が道を間違えるのを見たくなかったんだ。しばらくは明里の看病で病院に泊まるから、帰れない。明里が回復したら、また君の傍に帰るから】 奈津美は携帯の画面をじっと見つめていたが、涙を流しながら、悲惨な笑みを浮かべた。 馬鹿馬鹿しいにも程がある。 勇太は自分を半殺しにしたくせに、どんな顔でこんなことを言ってるのだろう。 この男は、自分がいなくなったことすら、全く気づいていなかったのに。 2件目は、身分証明の抹消手続きが完了したという通知だった。 【高橋さん、ご申請のありました身分情報抹消及び氏名変更の件は、審査を通過いたしました。本日より有効となります】 奈津美は、指の関節が白くなるほど携帯を強く握りしめた。 これでやっとここから離れられる。 奈津美は痛む体に鞭打って立ち上がると、きれいな服に着替え、とっくにまとめてあったスーツケースを手に取った。 この家にあった自分の物は、全て持っていく。 たった二つのものを除いて―― 一つ目は、勇太が18歳の時にプレゼントしてくれたネックレス。 ペンダントトップには小型の盗聴器が隠されていた。これを渡された時、彼はこう言った。「奈津美。君が何をしているか、いつでも知っていたいんだ」 その時は甘い言葉だと感じたのに、今では滑稽にしか思えない。 勇太はもう長い間、これを確認したりしていないのだろう。 でも、もし確認してさえいれば、分かったはずだ。 奈津美を何度もプールに突き落としたのが、彼自身だったということに! 99回も奈津美を殴りつけたのが、彼自身だったということに! 奈津美の指の骨を砕いたのが、彼自身だったということに! 二つ目は、勇太が奈津美を口説いていた時に書いたラブレター。 分厚い束の黄ばんだ便箋には、まだ少年っぽさの残る筆跡があった―― 【奈津美へ。今日、君が白いワンピースを着ているのを見て、心臓が止まるかと思ったよ】 【奈津美へ。卒業したらすぐに結婚しよう。もう一日だって待てない】 【奈津美へ。一生君を愛する。君だけを愛し続ける】 奈津美はその文字をそっと指でなぞった。ふと、18歳のあの日を思い出す。勇太は目を真っ赤にして自分を壁に追い詰め、こう言ったのだ。「奈津美、君がいないと生きていけない」 かつては、眠れないほど胸をときめかせた誓いの言葉も、今となっては一つ残らず馬鹿げて聞こえる。 奈津美はネックレスとラブレターをテーブルの上に置くと、躊躇うことなく背を向けて出て行った。 家を出る前、奈津美は携帯をゴミ箱に捨てた。全ての過去を、一緒に葬り去るように。 これからはもう、勇太のために涙を流す奈津美は、この世のどこにもいない。 第10話 飛行機が離陸する時、奈津美は窓の外でだんだん小さくなる街の灯りを眺めていた。ふと、雲の上に18歳の勇太が立ち、こちらに微笑みかけてくる幻を見た。 次の瞬間、肋骨のあたりから激痛が走り、幻は消え去った。唇をきつく噛みしめた奈津美の口の中に血の味が広がる。 「どうかしましたか?」 隣の席に座っていた男は、奈津美の額に冷や汗がにじんでいることに気がつき、手にしていた雑誌を下ろした。 奈津美は首を横に振ると、顔をマフラーに深くうずめた。空港の売店で慌てて買った安物のマフラーには、まだ地下室のようなカビ臭さが残っている。 「大丈夫です」奈津美はか細い声で答えた。「少し、飛行機に酔っただけですから」 藤原達也(ふじわら たつや)は、全身から奇妙な雰囲気を漂わせるその若い女性を見つめた。 明らかにサイズの合っていないキャメル色のトレンチコートを着ている女性。それに、左手の薬指には長い間、指輪をはめていた跡があるが、右手は奇妙な形にねじ曲がっていた。 何より気になったのは、気温が26度に保たれた機内で、彼女がずっと小刻みに震えていることだった。 「実は、医者をしていまして」達也はティッシュを差し出しながら言った。「ひどく顔色が悪いですよ」 奈津美がティッシュを受け取った時、達也は彼女の手首の内側にあるあざに気づいた。それは、素人が縛ってできるような痕ではなかった。 達也は、奈津美がただの家庭内暴力の被害者ではないと悟った。 「ありがとうございます」奈津美はティッシュを手のひらで握りしめただけで、それを使おうとはしなかった。 なぜなら、どんな痕跡も残すわけにはいかないのだ。特に、今は…… でも、この飛行機が着陸してしまえば、勇太が血眼になって探したって、もう自分を見つけられっこない。 突然、腹の底から突き上げるような激痛が走った。奈津美の目の前は真っ暗になり、鼻から生温かい液体がこみ上げてくるのを感じた。無意識に鼻に手をやると、指先はねっとりとした真っ赤な血で染まっていた。 達也がとっさにシートベルトを外す。「乗務員さん!救護をお願いします!緊急です!」 霞んでいく視界の中、奈津美は達也のすらりと長い指が、素早く自分の服の襟元を緩めるのを見ていた。 おかしな話だ。こんな時に、勇太の手を思い出してしまうなんて。昨夜、勇太の手もこんな風に、明里の服のボタンを外していたのだろう。 奈津美は、大勢の人に体を持ち上げられるのを感じた。まるで嵐の海に浮かぶ一枚の木の葉になったみたいだった。奈津美はプールに突き落とされた時のことを思い出す。冷たい水が肺に流れ込む痛みや、麻袋のざらざらした布が頬をこする焼けるような感触まで。 でも、何より痛かったのは勇太の言葉だった。「俺の女に手を出したんだ。その代償は払ってもらう」その一言に心を鈍いナイフで抉られるようだった。 意識が遠のく直前、奈津美の耳には自分自身の乾いた笑い声が聞こえた。 皮肉なことに、勇太に折られたこの肋骨が、今まさに自分の肺に突き刺さっている。絶対に傷つけないと、いつも自分を守ると言ってくれたのに。結局、あの人が一番、自分を深く傷つけた。 機内のライトが頭上で揺れていた。達也のシャツは、すでに汗でぐっしょりと濡れている。見ず知らずの女性の命が、今まさに彼の腕の中で消えかけていた。だが、言葉では説明できない直感が、達也に「見過ごしてはいけない」と告げていた。 客室乗務員が小声で達也に尋ねる。「先生、緊急着陸を手配しましょうか?」 意識のない奈津美の体が、突然激しく痙攣した。 達也は奈津美の体を抑えながら、客室乗務員に向かって言った。「空港に救急車の手配をお願いします。患者は複数箇所を骨折しており、内出血も……早く処置をしないと……」 達也が言い終わる前に、突然彼の手首が強く掴まれた。虚ろだった奈津美の瞳が、奇跡的に一瞬だけ焦点を結ぶ。達也はその瞳に宿った鬼気迫るほどの決意を見て、息をのんだ。 「病院は……だめです……」奈津美が一言発するたびに口の端からは血の泡が溢れる。「お願い……します……」 達也は一瞬躊躇ったが、何かに導かれるように頷いていた。「郊外に、俺の療養院がありますから」