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後悔しても戻れない
真夜中、氷を部屋まで持ってこいと義兄の小山智樹(こやま ともき)が言った。 乱れた髪を見た彼の喉仏がわずかに動き、目の奥が暗く沈んだ。 ...
Chương (1)
第1章
真夜中、氷を部屋まで持ってこいと義兄の小山智樹(こやま ともき)が言った。
乱れた髪を見た彼の喉仏がわずかに動き、目の奥が暗く沈んだ。
「家の中でそんな格好をして……誰を誘惑するつもりだ?」
私は暗がりに座る智樹にアイスバッグを差し出した。「氷、持ってきたよ」
彼はそれを受け取ると同時に、私の手をぐっと掴み、自分の熱い胸元へ押し当てた。目が真っ赤に染まっていた。
「氷なんかじゃ足りない……菜々美、助けてくれる?」
私は恐怖で後ずさる。彼は自嘲するように手を離し、いつもの冷淡な表情に戻った。
「ふん、根性なしだな。
留学の手続きは済ませた。来週にはここを立つ。俺みたいな狂人からは、離れておけ。
二度と戻ってくるな、いいな」
第1話
スマホが震え、画面の光がまぶしく目を刺した。
午前三時。
登録名は「智樹」のたった二文字。
通話をつなぐと、低くかすれた声が聞こえた。
「菜々美、アイスバッグを持って俺の部屋に来い」
プツッという音とともに、電話は切れた。
暗くなった画面を見つめ、闇の中で三十秒ほど座り込んだ。
エアコンが枕元に直接風を送っているのに、全身に冷や汗がにじんでいた。
布団をめくってベッドを降り、素足で踏んだ無垢の床板から、ひやりとした感触が足裏から這い上がってくる。
手近にあったシルクのナイトドレスをつかんで頭からかぶると、裾は太ももの付け根をかろうじて隠す程度。髪も束ねず、乱れたまま肩に垂れている。
キッチンでアイスバッグを取ろうとしたとき、手が震えていた。
冷蔵庫から流れ出る冷気が顔に当たり、ようやく少しだけ意識がはっきりした。小山智樹(こやま ともき)の部屋は廊下の突き当たりにある。
この廊下を五年間も歩き続けてきたが、一歩一歩がまるで刃を踏むような感覚だ。
扉はわずかに開いており、隙間から淡い黄色の光が漏れている。
そっと扉を押し開けた。
部屋の中には天井の灯りはついておらず、隅に置かれたフロアランプだけがぼんやりと灯っている。
薄暗い光の中、空気は濃いたばこの匂いで満ちて、それに混じってどこか甘く、言葉にしがたいムスクの香りが漂っていた。
智樹はベッドの縁に腰を下ろしていた。
上着を脱ぎ、白いシャツの襟元は三つのボタンが外れ、広い鎖骨と張りつめた胸筋が露わになっている。
胸は荒く上下し、額の汗が顎のラインを伝って深灰色のスラックスに落ち、暗い染みを広げていった。
物音に気づいたが、彼は顔を上げず、ただ指先でシーツを強く握りしめていた。
息を殺し、裸足で一歩一歩彼に近づいた。
この五年間、彼を恐れながらも、同時にどうしようもなく惹かれていた。
「氷、持ってきたよ」
彼の手が届くぎりぎりの距離で立ち止まり、まだ冷気を吐き出しているアイスバッグを差し出した。
指先が彼の熱い掌に触れた瞬間、彼はふいに顔を上げた。
いつもは冷ややかで、よそよそしかった彼の瞳が、今は真っ赤に血走っていた。
その視線が、私の乱れた髪からゆっくりと滑り落ち、鎖骨をかすめ、寝間着の裾からのぞく裸足へと移る。
喉仏が上下に動き、ごくっと、低く湿った音を立てて唾を飲み込んだ。
「家の中でそんな格好をして……誰を誘惑するつもりだ?」
かすれた声には、隠そうともしない悪意が滲んでいた。
私は全身をこわばらせ、反射的に自分の姿へと視線を落とした。
シルクのナイトドレスは、この剥き出しの欲望の視線の中では、あまりにも薄くて、まるで存在していないかのようだ。
頬が一気に熱くなり、唇を噛みしめながら、張り詰めた声で言った。
「真夜中に電話で呼び出したのはあなたでしょ!」
「ふん」
彼は冷ややかに鼻で笑い、手を伸ばしてアイスバッグを受け取った。
もう用は済んだと思い、背を向けて逃げ出そうとしたその瞬間、焼けつくような熱さの掌が、私の手首を強く掴んだ。
世界がぐるりと回る。
猛烈な力で、私は彼の方へと引き寄せられた。
「きゃっ――」
悲鳴が喉の奥で凍りつくより早く、私の手は彼の胸に押しつけられていた。
薄いシャツ越しに伝わる肌の熱は異様で、その下で脈打つ鼓動は、制御を失ったように荒く激しかった。
「お兄ちゃん……」私は慌てふためき、必死にその手から逃れようともがいた。
すると彼は突然、指に力を込めた。その握力は尋常ではない。
顔を上げた彼の、赤く染まった瞳の奥には、理解を超えた狂気が渦巻いていた。
かすれた声が震え、吐息が私の手の甲を熱く撫でる。
「氷なんかじゃ足りない……菜々美、助けてくれる?」
頭の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
恐怖が波のように押し寄せ、頭のてっぺんまで飲み込まれる。
私は反射的に一歩後ずさり、必死に手を引こうとした。「正気じゃない……離して!」
手首には、彼の指の跡が真っ赤に浮かび上がっていた。
彼は私の怯え切った瞳をじっと見つめ、三秒ほどの沈黙ののち、それが絶望にも似た確信に変わる。そして、ふいにその手を放した。
勢いで私は数歩よろめき、背後のチェストにぶつかる。花瓶がかすかに揺れ、かちりと音を立てた。
智樹は、まるで一瞬で力を吸い取られたかのように、ぐったりとベッドのヘッドボードにもたれかかった。
彼は嘲るように笑い、その瞳に宿っていた狂気がすっと引いていった。
「ふん、根性なしだな」
空気はひっそりと静まり返り、加湿器の微かな給水音だけが部屋に響いている。
彼は目を閉じ、ベッドサイドのたばこの箱に手を伸ばした。その仕草にはいつもの冷淡さが戻っており、さっきまで獣のように暴れていた姿は、まるで私の幻覚だったかのようだ。
「留学の手続きは済ませた」
ライターがカチッと乾いた音を立て、炎が跳ね上がる。その光が、彼の冷たく硬い横顔を照らした。
深く煙を吸い込み、淡い青の煙を吐き出しながら、彼は私を見ようともしなかった。
「来週にはここを立つ。俺みたいな狂人からは、離れておけ」
煙の揺らめきの中、その声からは何の感情も読み取れなかった。
「二度と戻ってくるな、いいな」
私はチェストにもたれかかり、まだ落ち着かない鼓動を感じながら、指先でナイトドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
これこそが智樹という男だ。
私に平手打ちを食らわしたかと思うと、飴玉を一つくれる。
あるいは、飴玉をくれたかと思えば、今度は刃を突き立ててくる。
これが、私が五年間「お兄ちゃん」と呼んできた人間なのだ。
深く息を吸い、目の奥の痛みを無理やり押し殺し、涙よりも醜い笑顔を作った。
「うん、お兄ちゃん」
部屋を出るとき、私はできるだけ背筋を伸ばし、ゆっくりと歩いた。
重たい一枚板の扉を閉め、あの部屋に満ちたたばこの匂いと息苦しさを遮断するまで。
廊下の冷たい壁に寄りかかった瞬間、脚の力が抜け、立てなくなった。
涙が、何の前触れもなくこぼれ落ちた。一粒、また一粒と床に落ちて、小さなしずくの輪を広げる。床板は冷たいのに、涙だけが焼けつくように熱かった。
その瞬間、私は悟った。
彼は私たちの間に残されていた、最後の温もりさえ、自らの手で消し去ってしまったのだ。
部屋へ戻ろうとしたそのとき、扉の内側からガラスが砕け散る鋭い音が響き渡った。
続いて、何か重いものが床に落ちる重苦しい衝撃音。
私は思わず足を止め、ドアノブに手を伸ばした。
中から、智樹の押し殺したような苦痛の唸り声が漏れた――
「失せろ!」
第2話
あの夜、彼は結局、私を行かせてはくれなかった。
ガラスの砕ける音が、まるでスイッチのように。
私はドアの前で立ちすくんだ。理性は警告する――逃げろ、彼の言う通り、どこか遠くへ消え失せろと。
しかし、足は鉛のように重く、一歩も動かなかった。
部屋の中からはもう物音ひとつしなかったが、その静けさは先ほどの激しい怒号よりもずっと恐ろしかった。
私は歯を食いしばり、再びその扉を押し開けた。
智樹はカーペットの上に倒れていた。手のそばには粉々になったグラスと、投げ捨てられたアイスバッグが転がっている。
彼は体を丸め、手の甲に血管が浮かび上がり、冷や汗でシャツが背中に貼り付いていた。
「お兄ちゃん……?」
私は震えた声で、試すように呼びかけた。
彼は微動だにせず、ただ荒い息遣いだけが暗闇に響いている。
私は彼のそばへ歩み寄り、かがみこんで額に手を伸ばそうとした。「具合が悪いの?お医者さんを呼ぼうか…」
手が彼の肩に届いた瞬間、逆に彼の手が私の手首を強く掴んだ。
視界がぐるりと回り、私は彼に引き倒されるようにカーペットの上へと倒れ込んだ。背中が砕けたガラスの破片に当たり、鋭い痛みに息を呑む。
痛みを訴える間もなく、重い体がのしかかってきた。
「失せろって言っただろ、言葉が通じねぇのか?」
彼は私の上に腕を突いて覆いかぶさり、目は血が滲むように真っ赤で、声はかすれていた。
私は彼を見つめ、涙がこめかみを伝って髪に染み込むのを感じながら、「お兄ちゃん……やめてよ……」と訴えるように言った。
「お兄ちゃんって呼ぶな!」
低く唸るように叫ぶと、彼は勢いよく顔を近づけ、乱暴に唇を奪った。
その唇には、優しさの欠片もなかった。
それは凶暴で、苛烈で、罰そのものであり、絶望に満ちていた。まるで私という存在を引き裂き、喰らい尽くそうとするかのように。
唇がぶつかり裂けて、口の中に鉄の味が広がった。私は泣きながら彼の首にしっかりとしがみつき、爪が背中の筋肉に刻み込まれた。
これが間違いだとわかっている。もう一歩進めば奈落だとわかっている。
それでも、私はこれまでになく激しく彼に応じた。
ただ必死に体を絡み合わせさえすれば、何かを引き留められるような気がした。
この五年が、ただの――いつでも消し去られるような荒唐無稽な戯れではなかったと、証明できるような気がして。
……
窓の外の空が白み始めるころ、ようやく部屋に静けさが訪れた。
空気にはまだ濃厚な情欲の匂いが漂っている。
体中に青あざが点在し、私はぼろ切れの人形のように体を丸めて、ベッドの端に身を横たえていた。
背後から布の擦れるかすかな音が聞こえた。
智樹が目を覚ました。
私は腰に回されようとする手の気配を感じた。
その手は空中で一瞬止まり、懐かしい温もりを帯びていた。
私はそっと目を閉じ、身体をわずかに横へずらして、その触れようとする指先を避けた。
その手は硬直したまま動かない。
私は彼に背を向け、カーテンの隙間から差し込む薄明かりを見つめながら、かすれるような声でつぶやいた。
「お兄ちゃん……どうして……」
背後には長い沈黙が続いた。あまりにも長くて、彼がまた眠ってしまったのかと思うほどだ。
「恵子が帰ってきた」
ああ、やっぱり。あの智樹の心にいる初恋のせいだ。
彼の今の冷たさと距離感は、まるで昨夜のあの狂おしいすべてが夢だったかのように思わせた。
じゃあ、この五年間はいったい何だったの?
彼はベッドから身を起こし、床に落ちていたシャツを拾い上げて身に着けた。
静まり返った部屋の中で、ボタンを留める音だけがやけに鮮明に響く。
「シャワーを浴びてこい。あとで会社まで送ってやる」その声は、いつものように冷静で、少しの感情の揺れも感じられなかった。
私は動かず、丸まったまま答えた。「いい」
「言うこと聞け」
「いいって」私は身を起こし、布団を引き寄せて体を隠し、顔を上げて彼を見た。
目は腫れ、唇も切れていて、きっとひどい顔をしていると思う。
それでも私は彼を真っ直ぐに見据え、一語一語を噛みしめるように言った。「自分で運転して行く」
智樹はボタンを留める手を一瞬止め、重い視線を私に向けたが、結局何も言わずに背を向け、部屋を出て行った。
三十分後。
身繕いを済ませ、疲れた顔色を隠すように濃いメイクを施し、ハイヒールの音を響かせて階下へと下りた。
ガレージには朝霧が薄く立ち込めていた。
智樹は黒いマイバッハの傍らに立ち、火のついていないタバコを一本、指に挟んだままだった。
彼は深いグレーのスーツに着替え、背筋を伸ばしたその姿は、感情のない彫刻のように冷ややかだった。
私が階下に降り立つのを見るや、彼は車のドアを開けてくれた。「乗れ」
私は自分の白いアウディへと直向きに歩き、アンロックを押した。「出発は来週よ。やることも多いし、そもそも方向が違うんだから」
智樹の手がドアノブの上で止まった。
朝霧の中、彼のシャツの袖口に、かすかに暗赤色の跡が滲んでいるのが見えた。
それは、私の唇が残した痕だった。昨夜の狂気の名残り――罪の証。
ふと、ばかばかしい気持ちが込み上げてきた。
五年の月日が過ぎた。
私は小山菜々美(こやま ななみ)。小山家に引き取られた養女であり、彼の名ばかりの妹。
そして私は、夜ごと彼の欲望を受け止めるだけの道具であり、呼べば来て、飽きれば捨てられる玩具でしかない。
ただひとつ、彼が心の奥で守りたいと願う存在ではない。
「好きにしろ」
彼は冷ややかにその言葉を投げ捨て、背を向けて車に乗り込み、勢いよくドアを閉めた。
マイバッハが唸りを上げ、怒りを吐き出すように私のすぐ脇をかすめて車庫を飛び出した。
白い排気ガスが顔を撫でた。
私はその場に立ち尽くし、赤いテールランプが角を曲がって消えるのを見送った。
ドアを開けて運転席に沈み込み、バックミラーに映った自分を見つめながら口紅を塗り直す。
手が震えて、何度もラインをはみ出した。
「菜々美、本当に情けない」
自分を罵り、ティッシュを引き抜いて口元の赤い跡を乱暴に拭き取り、もう一度丁寧に塗り直した。
そして、手の中の口紅を見つめる。
これは去年の誕生日に智樹がくれたものだった。
限定品で、色は彼が自ら選んだ。私の肌に最も映える色だと言って。
あの頃の私は、愚かだと自覚しながらも、宝物のようにいつも身に着けていた。
今となっては、ただの笑い話だ。
窓を開け、手を振りかぶって、ぱっと放り投げた。
高価な口紅は銀色の弧を描き、死角にあるゴミ箱めがけて一直線に飛び込んだ。
カチリという乾いた音と共に、何かが砕け散るのが分かった。
第3話
車は猛スピードで走り、メーターの針は一瞬、レッドゾーンを振り切った。
私は会社へ行かず、そのまま自分のマンションへ戻った。
ここは智樹が私のために買ってくれたマンションで、会社にも近く、この五年間私たちが最も頻繁に密会を重ねた場所でもある。ドアを押し開けると、玄関にはまだ彼のスリッパが置かれていた。
紺色で、彼の家にあるものと同じである。
私はそのスリッパを二秒ほど見つめ、かがみ込んで手に取ると、あらかじめ用意しておいた大きな段ボールに放り込んだ。
去ると決めたからには、きれいさっぱりと片づけなければ。
私は、この部屋に残された彼の痕跡を一つ残らず消し始めた。
クローゼットの中には、半分のスペースを占める彼のシャツやスーツ、ネクタイがきちんと掛けられていた。
どっちも、私が自分の手でアイロンをかけてきたものばかりだ。
それらを一枚ずつ取り出し、丁寧に畳んで、きちんと段ボールの中へと詰めていく。
浴室には、彼のシェーバー、歯ブラシ、そして専用のアフターシェーブローション。
書斎には、読みかけの経済誌と、彼のイニシャルが刻まれたライター。
さらに、冷蔵庫の中にあった、彼が好んで飲んでいたあの銘柄のソーダ水までも、一瓶ずつ取り出してはゴミ箱に捨てていった。
「取り出す、畳む、箱に詰める、捨てる」――私はそんな動作を機械のように繰り返した。まるで、これらをすべて片づけさえすれば、五年分の記憶も塵のように払い落とせるかのように。
最後に、私は床に跪き、何度も床を拭き上げた。
一寸の隙もなく力を込めて磨き上げ、やがてかすかに漂っていたタバコの気配が空気から完全に消え、鋭い消毒液の匂いだけが残った。
夜がすっかり暮れた。
ドアのロックがピッと音を立てて開いた。
智樹が入ってきた。
おそらく会社からそのまま来たのだろう。ネクタイをゆるめ、スーツの上着を腕に掛け、どこか疲れの色を浮かべている。
リビングに積まれた大きな段ボール箱と、がらんとしたクローゼットの扉を目にした瞬間、彼の足が止まった。
「何をしているんだ?」
声は淡々としており、喜びも怒りも感じさせない。
私は顔を上げず、テーブルの上の存在しない汚れを力任せに拭きながら言った。「荷物をまとめてるの。来週には出て行くんでしょう?少し早めに梱包しておこうと思って」
智樹が私の背後に回ると、影が覆いかぶさってきた。
「これは俺の物だろう」彼は段ボール箱を指さす。
「ええ、全部整理しておいたわ。持って帰るならどうぞ。不便なら、同じ市内の宅配便で実家に送っておく」
私の声は、まるで大家と部屋の引き渡しをしているかのように落ち着いていた。
智樹は眉をひそめ、あの苛立ちを隠そうともしなかった。
彼は上着をソファに投げると、ドア枠に寄りかかりながら私を見た。「ただの留学だろう。帰ってこないわけじゃない。そこまでする必要があるのか」
必要があるのか?
手が止まった。
その言葉が胸の奥に鋭く突き刺さる。
顔を上げ、冷たく整った彼の顔を見つめ、私はかすかに笑った。「お兄ちゃん、あなたが二度と帰ってくるなって言ったんだよ。私は、言われた通りにしてるだけ」
智樹の表情が一気に暗くなった。
「菜々美、皮肉はやめろ」
「皮肉なんて言ってない」
私は立ち上がると、雑巾をバケツに放り込んだ。汚れた水が数滴跳ねた。
「あなたは小山家の長男で、小山グループの社長。私は居候の養女。あなたが、出て行けと言えば出て行く。帰ってくるなと言えば、外で死んでも帰らない。それって、すごく従順じゃない?」
「もういい!」
智樹は数歩で距離を詰め、私の手首を乱暴に掴み、そのまま力ずくで引き寄せた。
彼は私の瞳を真っ直ぐに見据え、抑えきれない怒りをその奥に滲ませながら言った。
「何を拗ねてるんだ?今朝、送らなかったからか?」
「拗ねてなんかないわ」
私は彼を見返した。視線は虚ろで、声は乾いていた。
「お兄ちゃん、これから私たちはただの血縁関係のない兄妹であり、上司と部下よ」
兄妹という言葉を、私は噛みしめるように強く吐き出した。
智樹の瞳孔がわずかに縮んだ。
彼は私の顔をじっと見つめ、ほんの一瞬でも未練や甘えを探ろうとするかのようだった。
けれど、何も見つからなかった。
私の沈黙が、彼には見知らぬものだった。
その抑えきれない感情が彼を苛立たせ、彼は力任せに私の手を振りほどいた。
「好きにしろ」
彼は身を翻し、シャツの詰まった段ボール箱を思いきり蹴りつけた。
箱はひっくり返り、きちんと畳まれていたシャツが床一面に散らばった。その中で、彼がいちばん気に入っていた紺色のストライプのシャツには、灰色の靴跡が無惨に残った。
「別れるなら、きれいに別れろ」
冷ややかにそう言い捨てると、ソファに置かれたコートをつかみ、大股でドアを叩きつけるようにして出ていった。
バンッ!
扉が震え、灯りの下で埃が舞い上がった。
部屋は再び、静寂に包まれた。
散らかったシャツと、その上の足跡を見つめる。
それは昨日の朝、私が三十分かけて丁寧にアイロンをかけたものだった。
足の力が抜け、ドア枠に寄りかかったまま、ずり落ちるように床に座り込んだ。
顔を押さえて、涙がとうとう溢れ出した。
惜しいからじゃない。
痛かった。あまりにも痛くて、胸の奥が熱くひりついた。
そのとき、スマホが再び鳴った。
銀行からの振込通知だった。
【口座番号****に10,000,000.00円が振り込まれました。備考:留学生活費】
続けて智樹からメッセージが届いた。冷えきった一行だけ。
【金が足りないなら経理に言え。外で恥をかかせるな】
その数字を見て、私は突然声をあげて笑った。
笑いながら、胃の底がひっくり返るような吐き気がこみ上げてくる。
私は洗面所に駆け込み、便器に向かって嘔吐し、胆液が空になるまで吐き続けた。
鏡に映った女は顔面蒼白で、まるで幽霊のようだ。
蛇口をひねり、手ですくった冷たい水を顔に浴びせた。
「菜々美、泣くな」
鏡の中の自分にそう言い聞かせた。「この一千万は、この五年分の肉体関係の代償だと思っておけよ」
だが、それ以上に嫌悪すべきことが待っているとは、この時まだわからなかった。
第4話
部長のポジション――そのために私は半年もの間、全てをかけてきた。
今は去る身だが、あのマーケティング部長の座を手に入れるため、徹夜までして企画書を七回も書き直し、夢にまでデータが浮かぶほどに準備を重ねた。たとえ自分がなれなくても、あの人だけには渡したくなかったんだ……
けれど人事部からのメールを見た瞬間、私は悟った。この場所で、私の努力や願いなんて何の意味もないのだと。
【人事異動のご通知:白野恵子氏をグループマーケティング部長に任命する。本日付で発令する】
白野恵子(しらの けいこ)。
智樹の初恋。五年前に海外へ美術留学し、今も彼が忘れられない元恋人である。
会議室の扉が開かれた。
恵子は智樹の腕に手を軽く絡ませ、ゆったりと中へ歩み入ってきた。
彼女はシャネルのオートクチュールスーツを身に纏い、完璧なメイクに柔らかな微笑みを浮かべている。
「こんにちは。白野恵子と申します。今後ともよろしくお願いします」
彼女の声は甘く響き、柔らかに会議室を見渡した視線が、やがて私のところで止まった。その瞳には、ほのかに挑発するような光が宿っていた。
智樹は彼女に腕を取られるに任せ、表情は淡々として、感情の起伏は読み取れない。
けれど、私には見えている。
恵子の白く細い首には、ひとつの翡翠のペンダントがかかっている。
それは三年前、私が半年分の給料を貯めて、骨董市を駆けずり回ってようやく見つけ出し、智樹に贈ったお守りだった。
彼はそれを「安っぽい露店の品だ」と言って、引き出しに放り込んだ。
なのに今、それが恵子の首元で揺れている。これが、挑発なの?
会議が終わると、皆が恵子のまわりに集まり、お世辞を並べ立てた。
分厚い企画書の束を抱え、私は指先がじんじんと冷たくなっていくのを感じていた。
どうしても諦めきれず、人の気配が消えたのを確かめて、社長室のドアをノックした。
ドアはしっかり閉まっておらず、細い隙間が空いていた。中から、恵子の甘えた笑い声が聞こえてくる。
「智樹さん、このイチゴすっごく甘いよ、食べてみて」
隙間越しに見えたのは、恵子が智樹の膝の上に座り、手にしたイチゴを彼の口元へ差し出している姿だ。
智樹は彼女を拒まず、少し頭を傾け、彼女の手からイチゴを一口かじった。
その光景が、あまりにも親密で目に痛かった。
ドアにかけた手が固まり、胃の奥がまたひっくり返るように波打つ。
それでも、私はドアを押し開けた。
「社長」
冷たく硬い声が、室内の甘やかな空気を切り裂いた。恵子は驚いて智樹の膝から飛び降り、スカートの裾を整えながら、頬を赤らめて言った。
「菜々美さん、来ていたのね。どうしてノックしなかったの?」
智樹はゆっくりと口元を拭い、視線を上げて私を見た。その瞳が一瞬で冷たくなる。「用件は?」
私は恵子を無視してまっすぐデスクへ歩み寄り、分厚い企画書の束をデスクに叩きつけた。
「これは私が七回も修正を重ねたマーケティング企画書です。そしてこちらが半年間のマーケティング部の業績報告。私の数字は第二位を40%も上回っています」
智樹の目を見据えながら、震える手を押さえた。「教えて。どうして恵子なの?」
智樹は椅子の背にもたれ、企画書の束に一瞥をくれただけで、めくりもしなかった。
「会社の人事について、お前に説明する必要ない」
「必要ないの?それとも、説明できないの?」
鼻で冷笑った。「恵子さんの専攻は油絵で、マーケティングの経験など一切ない。ただ、彼女があなたの元恋人だから?ちょっと遊んでみたいと言ったから?それだけで私の努力も、部署全体の成果も、彼女への土産物にするおつもり?」
「菜々美!」
智樹はドンとデスクを叩き、声を低く落として言った。「口の利き方に注意しろ」
恵子は傍らで目を赤くし、涙をこらえながら智樹の袖をつまんだ。「智樹さん、菜々美さんを責めないで。きっと機嫌が良くなかっただけなのよ……私、無理だって言ったのに、どうしても来てほしいって……」
ぶりっ子全開の演技、見てられない。
智樹は恵子の手の甲を軽く叩いて宥め、それから顔を上げて私を見た。その目には一片の温もりもない。
「菜々美、忘れるなよ」
彼は立ち上がり、見下ろすように私を見据え、軽蔑を隠そうともせずに言った。
「お前はもともと俺の口利きで会社に入ったんだ。お前は小山家の養女だし、俺の金で食ってるんだ。このポジションでさえも俺が与えた。そんなお前に、公平を主張する資格があると思うのか?」
その瞬間。
胸の奥で、何かが粉々に砕け散る音がした。跡形もなく。
彼の目には、私の努力も、徹夜も、成果も、全て「彼のおかげ」でしかなかったのだ。
私はただ彼の付属品で、飼われている犬に過ぎない。
噛みつきたいと思っても、飼い主の許可が必要なのだ。
私は深く息を吸い、涙をぐっと押し戻した。
「……いいわ」
うなずいて、デスクの上の企画書を取り返し、そのまま彼の目の前で、一枚一枚、細かく引き裂いた。
紙切れが雪のように、豪華なカーペットの上にふわりと舞い落ちた。
「社長の言う通りです。私には資格なんてありません」
最後の一枚を彼の目の前でひらりと翻し、唇を歪めて笑った。
「こんなくそみたいな部長職、やりたい奴に譲ってやれ。もう付き合いきれない」
そう吐き捨てるように言うと、背を向けてさっさとその場を離れた。
背後から智樹の苛立った声が響く。「菜々美、止まれ!一歩でもこのドアを出てみろ!」
私は足を止めなかった。
今度こそ、振り返らなかった。
ドアの前まで来たとき、恵子の小さな声が聞こえた。「智樹さん、菜々美さん、頭おかしくなったんじゃ……」
智樹は鼻で笑った。「甘やかしすぎたようだな。カードを止めてやる。外でどれだけ強がっていられるか、見せてもらおう」
強がっていられる日数?
智樹、私を甘く見ないで。
今度こそ、本当にあなたなんていらない。