あなたの愛に気づいた時、私はもういなかった

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あなたの愛に気づいた時、私はもういなかった

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小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――藤原裕人(ふじはら ひろと)。 彼を救うためだけに、私、藤原雪乃...

Chương (1)

第1章

小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――藤原裕人(ふじはら ひろと)。 彼を救うためだけに、私、藤原雪乃(ふじはら ゆきの)は自らこの世界へと身を投じた。 彼は極度の人間嫌いで、病的なまでの潔癖症だった。他人との関わりを拒絶し、アトリエという聖域には誰の立ち入りを許さなかった。ましてや、制作を妨げることなど論外どころの話ではなかった。 あれは、一度目のことだった。四時間、片時も火のそばを離れず、灰汁を掬い続けて仕上げた一番出汁を手にアトリエへ向かった私は、不注意にも彼の絵筆に触れてしまった。 たった、それだけのことだったのに。それなのに裕人は、あろうことか煮えくり返る鍋の中身を、躊躇いもなく私に浴びせかけたのだ。 二度目は、真夜中のこと。高熱にうなされ、這うようにしてアトリエの前まで辿り着き助けを求めたが、彼は嫌悪感を隠そうともせずに私を突き飛ばし、無情にも扉を閉ざした。 床に崩れ落ちた私は一晩中放置され、翌朝家政婦に発見されるまで、誰にも気づかれることはなかった。 それでも、私は彼の流儀を尊重してきたつもりだ。結婚して七年、彼が禁じた領域には決して足を踏み入れなかった。 けれどある日、一人の女が弾むような足取りでアトリエへ駆け込み、彼の下書きを無邪気にぐちゃぐちゃにする光景を目の当たりにしてしまった。 裕人は、そんな彼女の横顔を何枚も何枚も、慈しむように描き連ねていた。傍らには、丁寧な文字で【俺のミューズ】と添え書きをして。 ああ、そうか。ようやく、すべてを受け入れられた気がした。私は長い間封印していたシステムを呼び出した。 「帰りたい」 【了解しました。エンディングを設定します──藤原裕人の手による死亡です】 第1話 小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――裕人。 彼を救うためだけに、私は自らこの世界へと身を投じた。 彼は極度の人間嫌いで、病的なまでの潔癖症だった。他人との関わりを拒絶し、アトリエという聖域には誰の立ち入りを許さなかった。ましてや、制作を妨げることなど論外どころの話ではなかった。 あれは、一度目のことだった。四時間、片時も火のそばを離れず、灰汁を掬い続けて仕上げた一番出汁を手にアトリエへ向かった私は、不注意にも彼の絵筆に触れてしまった。 たった、それだけのことだったのに。それなのに裕人は、あろうことか煮えくり返る鍋の中身を、躊躇いもなく私に浴びせかけたのだ。 二度目は、真夜中のこと。高熱にうなされ、這うようにしてアトリエの前まで辿り着き助けを求めたが、彼は嫌悪感を隠そうともせずに私を突き飛ばし、無情にも扉を閉ざした。 床に崩れ落ちた私は一晩中放置され、翌朝家政婦に発見されるまで、誰にも気づかれることはなかった。 それでも、私は彼の流儀を尊重してきたつもりだ。結婚して七年、彼が禁じた領域には決して足を踏み入れなかった。 けれどある日、一人の女が弾むような足取りでアトリエへ駆け込み、彼の下書きを無邪気にぐちゃぐちゃにする光景を目の当たりにしてしまった。 裕人は、そんな彼女の横顔を何枚も何枚も、慈しむように描き連ねていた。傍らには、丁寧な文字で【俺のミューズ】と添え書きをして。 ああ、そうか。ようやく、すべてを受け入れられた気がした。私は長い間封印していたシステムを呼び出した。 「帰りたい」 【了解しました。エンディングを設定します──藤原裕人の手による死亡です】 …… 息子の藤原遊星(ふじはら ゆうせい)が、私が作った薬膳料理をまたひっくり返した。その顔に浮かんだ冷ややかな蔑みは、裕人の面影そのものだった。 「ママってさ、いつも寄生虫みたいにパパにくっついてるよね。プライドないの?恥ずかしくないの? 美亜さんこそパパにふさわしいのに。どうして自分から出て行かないわけ?ママみたいな吸血鬼、パパには釣り合わないんだよ」 淡々とした口調。まるで目の前にいるのが実の母親であるという事実など、どこかへ消え失せてしまったかのようだ。 遊星には知らない。幼い頃から病弱だった彼はまさしく、「寄生虫」である母が一から薬膳を学び、少しずつ健康に育て上げてきたことを。 裕人はダイニングテーブルに座ったまま、遊星の暴言など聞こえていないかのように、吉谷美亜(よしや みあ)と共に描いた下書きをただ眺めている。 美亜はわざとらしく口元を押さえ、笑みを浮かべながら遊星をたしなめた。 「遊星くん、ママを理解してあげなきゃ。家庭に入って夫と子供の世話をするのが生きがいっていうタイプもいるのよ。誰もが私みたいに自立してるわけじゃないんだから」 遊星が美亜へ顔を向けた途端、その表情がぱっと明るく輝く。 「ねえ美亜さん、僕、美亜さんがママだったらよかったのに。いつパパと結婚して新しいママになってくれるの!」 もう、胸は痛まなかった。感覚が麻痺してしまったのだ。だから、声を荒らげることもない。 裕人は私の強張った表情を一瞥すると、吐き捨てるように言った。 「子供の戯言だ。お前の息子だろう。母親がいちいちヒステリックになるな」 その声を聞いた美亜が、満面の笑みで彼の腕に手を絡ませる。 「ねえ裕人、また新しいインスピレーションが湧いてきちゃった。今日の午後、絵を描きに行かない?」 裕人は潔癖症だと言っていた。かつて、眠っている彼の頬にそっと触れただけで、彼は嫌悪を露わにして三度もシャワーを浴び、冷たく警告したのだ。勝手に触れるな、と。 なのに今、彼の瞳から冷ややかな色が消え、美亜へ優しく応える。 「ああ。君は俺のインスピレーションの源だから。君の望みなら何でも叶えよう」 遊星も飛び跳ねて喜ぶ。 「やったー!僕も行く!それで前に行った海辺のレストランでご飯食べたい!」 美亜は彼の鼻先を軽くつつき、申し訳なさそうに私へ視線を向けた。 「ごめんなさい雪乃さん。私たち三人で今夜は外食するから、帰りません。夕飯の支度は結構ですよ」 その馴れ馴れしい物言いは、まるで彼女こそがこの家の女主人で、私はただの家政婦だと言わんばかりだった。 裕人は上着を手に取る。 「美亜は俺のソウルメイトだ。出かけるのも制作のためでしかない。いちいち詮索して電話してくるな」 私は黙って首を縦に振った。迷いなど、もうどこにもなかった。 裕人は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに美亜の呼びかけに気を取られ、振り返ることはなかった。 第2話 室内を、再び静寂が包み込んだ。 私は長い間封印していたシステムを呼び出した。 かつて、小説の結末で飛び降り、自ら命を絶つ運命にあった裕人を変えるため、私は迷いなくこの世界へと身を投じた。 けれど七年が過ぎた今――彼のルールを一つ残らず守り、彼の子を産み育ててもなお、裕人を救える人間は、最初から私ではなかったのだと悟る。 ならば、ここに留まる理由など、もう微塵もない。 夜、三人が上機嫌で帰宅した。 遊星は美亜にべったりと寄り添い、いびつな形の細工菓子を差し出す。 「美亜さん、僕が作ったの。あげる!」 「ありがとう、遊星くん」 美亜に頭を撫でられ、遊星は顔を真っ赤にして照れくさそうに笑う。けれど、私に気づいた途端、その笑顔は瞬時に消え失せた。まるで、招かれざる客を見るような眼差しで。 裕人は上着を脱ぐと、いつものように私へ手渡そうとしたが、私はそれを受け取らなかった。 以前の私は、彼が私を愛してくれなくとも、愛のない営みで子を成し、家政婦のように扱われることこそが、彼からの信頼の証だと勘違いしていたのだ。今思えば、滑稽すぎて笑いも出ない。 裕人が不審げに眉を寄せ、上着をソファに放る。 「遊星の薬膳は用意できてるんだろうな。持ってこい」 人を小馬鹿にしたような顔をする遊星を、私は淡々と見つめ返した。 「作ってないよ。遊星が嫌がるから、もう無理強いはやめるわ」 飲みたくないと駄々をこねる準備をしていた遊星が、呆気にとられたように固まる。そして、見る見るうちに顔を真っ赤にした。 「だ、誰がママの作ったもんなんか食うかよ!飲まなくて結構だよ!ママなんて意地悪な魔女だ、大っ嫌い!」 美亜がわざとらしく「はぁ」と、ため息をつく。その言葉は、非難の色に満ちていた。 「雪乃さん、私のこと気にしてるのは分かりますけど、遊星くんのママでしょう?子供と意地の張り合いをするなんてどうかと思います……分かりました、今日から私、もう来ませんから」 瞳に涙を浮かべる彼女。たったそれだけの言葉で、私は嫉妬に狂って我が子を虐待する、毒婦のような女に仕立て上げられた。 遊星が泣き叫びながら美亜の腰にしがみつく。 「美亜さん、行かないで!ママなんて最低だ!美亜さんをいじめるなんて、死んじゃえ!」 憎しみを込めて駆け寄ってきた遊星が、私の脛を思い切り蹴りつけた。子供の力と侮ることはできなかった。痛みと共に、蹴られた場所が、ずきずきと痛み出し腫れていく。 裕人が泣き崩れる美亜を抱き寄せ、私を睨んだ。 「雪乃、お前も子供か。こんなくだらないことで拗ねるなんて。美亜と俺は何もないと言っているだろう。人間関係をそう歪んだ目で見るな」 もう、彼らと言い争う気力さえ残っていなかった。私は淡々と告げる。 「拗ねてなんていない。遊星の要望に従っただけ」 裕人の眉間に深い皺が刻まれる。「雪乃!何を馬鹿なことを。遊星はお前の息子だろう?」 その時、遊星が再び駆け寄り、私を激しく突き飛ばした。 不意を突かれ、体勢を崩した私は階段から転げ落ちる。打ち付けた額から、つうっと、生温かいものが流れ出した。 「ふん、魔女なんか。ママが僕を要らないなら、僕もママなんか要らない!」 額を押さえる。鋭い痛みが走る。けれど裕人は私を一瞥しただけで、遊星と美亜を連れて背を向けた。 「今夜はアトリエにいる。少し頭を冷やせ。雪乃、お前は母親なんだ。自分の立場をわきまえろ」 ふ、と乾いた苦笑が漏れた。 私は裕人の妻で、遊星の母親。けれど一度たりとも、「私自身」であったことはない。 庭の離れにあるアトリエに灯りが点る。 ふと、思い出した。あの日、四時間かけて煮込んだ一番出汁を手に、彼に休憩を取ってもらおうとアトリエへ入った日のことを。 第3話 器を置こうとしただけで、うっかり絵筆に触れてしまった私。裕人は煮えたぎるスープを私に浴びせた。 腕に酷い水ぶくれができても、彼は一瞥すらくれず、冷たく言い放ったのだ。 「出て行け。来るなと言っただろう」 あの火傷の痕は、今も腕に醜く残っている。 けれど美亜は自由にアトリエへ出入りし、あまつさえ絵筆を手に取って、彼の下書きに好き勝手落書きさえできる。 その時ようやく理解したのだ。アトリエは裕人にとって不可侵の領域なんかじゃない。ただ、その例外に、私は含まれていなかっただけ。 お腹を痛めて産んだ我が子は、家庭に縛られた家政婦のような母親を嫌悪し、美亜の懐へ飛び込んでいく。 幼くて分別がつかないだけだと思っていた。でも、美亜にはあんなに優しくできるのだから、それは間違いだった。 遊星が美亜を母親に望むなら、叶えてあげよう。 翌日、三人は挨拶もなしにベルリンへと発った。 美亜がSNSに投稿した写真には、はしゃぐ彼女の顔と、遊星と裕人の屈託のない笑顔が並んでいた。 【行きたいって言ったら、二人がすぐ連れてきてくれた♡家族三人、揃って幸せ!】 胸が、ちくりと疼いた。 ベルリンは、かつて裕人と新婚旅行で行くはずだった場所だ。けれど重度の対人恐怖症だった彼は外出を嫌がり、珍しく優しい口調でこう言った。 「症状が落ち着いたら、三人で行こう」 あの言葉を、私はどれだけ心待ちにしていただろう。 今になって分かった。裕人の言う「家族三人」に、私は最初から含まれていなかったのだ。 システムを呼び出し、尋ねる。いつになったら帰れるのかと。 【ストーリー設定により、二日後、藤原裕人の手によって死亡します】 ほっと息をつき、がらんとした部屋を見回す。本当に自分のものなど、ほとんどない。大半は裕人と遊星のために揃えたものばかりだった。 翌日、裕人が怒りを露わに家へ駆け込んできた。いつもの無表情とは違う、鬼気迫る形相で。 「お前がマスコミに俺と美亜のベルリンでの写真を流したのか?今、メディアに不倫を嗅ぎつけられた。追い詰められた美亜が自殺を図ったんだ!今、病院で処置を受けているんだぞ!」 何を言われているのか分からない。 「私は何も――」 彼らとは距離を置きたいくらいなのに、わざわざ写真を撮ってリークなどするはずがない。 遊星が泣きながら私を突き飛ばす。 「美亜さんに何かあったら、一生恨んでやる!パパが美亜さんを好きで何が悪いんだよ!この、くそババア……!ババアなんか死ねばいいのに!」 泣き崩れながら美亜のために喚く息子。自分の言葉が実の母親をどれだけ傷つけるか、想像すらできていない。 その時、裕人の携帯が鳴った。彼は目を見開き、叫ぶ。 「分かった。すぐにドナーを連れて行く!」 彼が私の腕を荒々しく掴み、引きずるように外へ連れ出す。 「美亜が大量出血してる。お前の責任だ。今すぐ病院で輸血しろ!」 有無を言わさず病院へ連れ込まれ、太い針が血管に突き刺さる。鮮血が、容赦なく吸い出されていく。 裕人は手術室の方を不安そうに見つめている。私の顔色が土気色に染まっていくのを見て、看護師がおずおずと口を開いた。 「藤原さん、奥様がもう限界のようです。これ以上は危険です、そろそろ中止を――」 「美亜の生死が分からないのに止めるな。この女がどうなってもいい、美亜を助けろ」 裕人が怒鳴りつける。看護師は困惑しながらも、採血を続けるしかなかった。 意識が遠のき、暗闇へと沈んでいく。 ようやく針が抜かれた頃、遊星と裕人は開いた手術室へ駆け込んでいった。床に倒れた私など、見向きもせずに。 目を覚ますと、ベッドに横たわっていた。採血をしてくれたあの若い看護師が、不憫に思って手当てをしてくれたらしい。 隣の病室から、明るい笑い声が聞こえてくる。 遊星の弾んだ声だ。「美亜さん、やっと目が覚めたね!心配したんだから!」 なんて賑やかで、幸せそうな彼ら。それに比べて、私はどこまでも独りぼっちだ。 程なくして、遊星と裕人が美亜を支えながら、私の病室へ入ってきた。 美亜の顔に、悪意に満ちた勝利の笑みが浮かぶ。 「雪乃さん、輸血してくれたんだって?ふふ、感謝しますわ」 裕人は冷たく言い放つ。 「礼を言う必要はない。美亜をこんな目に遭わせたのはこいつだ。当然の償いだ」 「そうだよ!」 遊星が憤慨した表情で私を睨む。 「この悪い魔女が写真を流したせいで、美亜さんは苦しんだんだ。あんなことしなければ、まだベルリンで楽しく遊べてたのに!」 彼はわざとらしく美亜に抱きつき、大きなため息をついてみせた。 「美亜さんが、本当のママだったらいいのに」 「だったら、彼女に母親になってもらえば?」 冷ややかに返すと、遊星が固まった。そして図星を突かれたように顔を真っ赤にする。 「い、いいよ、そうする!ママなんか要らない!」 「雪乃、子供の前でそんなことを言って傷つけて……お前は母親失格だ」 裕人が厳しく叱責する。けれど遊星が私にどれだけ酷い言葉を浴びせても、彼は聞こえないふりをしてきたくせに。 「体調が戻ったらさっさと帰れ。遊星の具合が悪いんだ。薬膳を作って調子を整えろ!」 そう言い残し、彼は美亜と遊星を連れて出て行った。 自嘲気味な笑いが漏れた。 そうね、帰らないと。彼らのためではなく、私自身の家へ。 夜になり、システムが突然話しかけてきた。 【ストーリー起動。転送ゲートを開きます】 次の瞬間、藤原家の二階が、突如として猛烈な炎に包まれた。 ドアを蹴破る音が響き、裕人が遊星を抱えて廊下を駆け出す気配がする。 彼は私の隣の部屋にいる。私の部屋のドアを壊せば、私を助けられる距離だ。 けれど彼は叫んだ。「美亜、どこだ!?」 この期に及んでも、彼が心配するのは美亜なのだ。 「パパ、美亜さんは隣の部屋!」 二人が美亜の部屋へ突入する。裕人は遊星の手を引き、煙を吸って気を失った美亜を抱え、階下の安全な場所へと駆け下りていった。 私は静かに目を閉じる。システムの転送を待つ。 その時、裕人が、はっとしたように振り返る気配がした。 「雪乃!雪乃!」 裕人が戻ろうとした瞬間、二階全体が轟音を立てて崩れ落ち、焼け焦げた柱が私の部屋の前に崩れ落ちた。 【ゲート開放中──宿主の帰還を完了します】 システムが、私の遺体を偽装してくれたのだ。 意識が途切れるその瞬間、裕人が私へ向かって駆けてくる音と、引き裂かれるような絶叫が聞こえた気がした。