癒えない傷痕と、夜明けの約束

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癒えない傷痕と、夜明けの約束

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「隊長!医療班の女性隊員は全員異動になったのに、どうして田村先生だけ、また異動が認められないんですか?」 一方部屋の外で、ドアを開けよ...

Chương (1)

第1章

「隊長!医療班の女性隊員は全員異動になったのに、どうして田村先生だけ、また異動が認められないんですか?」 一方部屋の外で、ドアを開けようとしていた田村綾子(たむら あやこ)の手が、空中で止まった。部屋の中の会話が、ドア越しに耳に届いてきたからだ。 「これまで、田村先生の異動申請はあなたによって三回も差し戻されています!そのせいで去年、田村先生はお母さんの死に目に会えなかったんですよ!」 その言葉は、鋭い刃物のように綾子の鼓膜を貫き、一語一句が心に深く焼き付くようだった。 「それに、田村先生の体はもう限界です。このままじゃ、みすみす死なせるようなものですよ!」 「分かっている」夏川竜之介(なつかわ りゅうのすけ)の声が聞こえた。「綾子は俺の婚約者だ。俺は誰よりも、彼女の無事を願っている。 だが美咲の戦地レポートは、今が賞のかかった大事な時期なんだ。それに美咲のお兄さんが死んだのは俺の責任だ。だからこそ、この3ヶ月、彼女の安全は絶対に確保しなければいけない。綾子は最高の腕を持っている、彼女がいてくれてこそ、美咲の万全も保障されるってわけだ」 第1話 「隊長、どうして田村先生の異動願をまた差し戻したんですか?」 一方部屋の外で、ドアを開けようとしていた田村綾子(たむら あやこ)の手が、空中で止まった。部屋の中の会話が、ドア越しに耳に届いてきたからだ。 「これまで、田村先生の異動申請はあなたによって三回も差し戻されています!そのせいで去年、田村先生はお母さんの死に目に会えなかったんですよ!」 その言葉は、鋭い刃物のように綾子の鼓膜を貫き、一語一句が心に深く焼き付くようだった。 「それに、田村先生の体はもう限界です。これ以上ここにいたら、死に行かせるようなものですよ!」 「分かっている」夏川竜之介(なつかわ りゅうのすけ)の声が聞こえた。「綾子は俺の婚約者だ。俺は誰よりも、彼女の無事を願っている。 だが、美咲は戦場記者だ。いつ戦場で怪我をするか分からない。それに美咲のお兄さんが死んだのは俺の責任だ。だからこそ、この3ヶ月、彼女の安全は絶対に確保しなければいけない。綾子は最高の腕を持っている、彼女がいてくれてこそ、美咲の万全も保障されるってわけだ」 それを聞いて綾子は、全身の血が凍りつくのを感じた。 安西美咲(あんざい みさき)。いつも竜之介を崇拝するような眼差しで見つめている、あの可憐でか弱い花のような、女性記者。 そう思うと、綾子は胃の奥からこみ上げてくるような吐き気を感じた。 すると、竜之介の声が再び、有無を言わせない口調で響いた。 「それに、誰もが綾子を俺の婚約者だと知っている。もし俺が私情で綾子の異動を許可したら、部下に示しがつかないだろう?彼女が残ることで、規律と使命を重んじる証にもなるだろ」 それを聞いて、ドアの外に立つ綾子は、まるで魂を抜かれた人形のように、その場に立ち尽くしていた。 手から滑り落ちた診断書が、ひらりと床に落ちたことにも、気が付かないほどだった。 その瞬間、竜之介の言葉一つ一つが、氷の刃のように、綾子が抱いていた淡い幻想を打ち砕いていたのだった。 そう、自分が残された命をかけて、夢見ていた将来は竜之介にとってただの道具で、彼はそれを盾に他の女を守り、彼自身が公正公平であると証明するための見せかけにしていたのだった。 さらに竜之介はそのために、何度も自分をこの戦火の中に留めて置き、自分が母の最期に立ち会うことさえ、「特別対応をしない」、「公正公平を期すため」という彼の建前によって阻まれた。 その瞬間、彼女の心臓に張り裂けるような激痛が、津波のように押し寄せた。同時に、キーンという鋭い耳鳴りが響き渡ったのだった。 綾子は、思わず胸元を押さえた。 竜之介は、特殊派遣部隊で最年少の指揮官であるだけあって、冷酷なまでの戦術と、その大胆な決断力で有名だった。 かつて、綾子も竜之介に少しでも近づきたくて、国内の一流病院からの誘いを断った。そして、いつ命を落とすかわからないこのPKO部隊での任務に、自ら飛び込んだのだ。 この4年間、綾子が死神の手から救った命は数え切れない。そして、綾子自身が死と隣り合わせになった回数も、同じくらい多かった。 1年目は塹壕で爆弾が爆発する寸前、身を盾にして竜之介を庇ったせいで、全身に傷跡が残った。 2年目。美咲が警告を無視して「生の情報」を撮るんだと戦闘範囲に深入りした時は、竜之介が救出部隊を率いて救出に向かった。 その時、綾子も医療班として同行したが、パニックに陥った美咲のせいで隠れていた爆破装置を起爆してしまい、その衝撃で綾子は左耳の聴力を永遠に失ってしまったのだった。 3年目。交戦地帯に勝手に入って「特ダネ」を狙う美咲を守るため、竜之介は綾子のいる医療拠点から警護部隊を引き抜いた。 そのせいで拠点は手薄になったところを襲われ、彼女は負傷者二人と共に二日一夜、孤立無援の状態に陥った。そして、目の前で仲間が息を引き取るのを見て以来、綾子は心の傷に苦しむようになったのだ。 さらに今、……ポケットの中、あのくしゃくしゃになってまで握りしめた診断書。【重度の心臓損傷、及び継続的な狭心症の発作】 すぐにでも療養と治療を始めなければ、予測される余命は、5年未満と言われている。 5年。 綾子はうつむいた。その冷たい宣告を指でなぞりながら、口元には、どこか惨めな笑みが浮かんでいた。 ついさっきまで考えていたのに。5年もあれば帰国して、体を治すのには十分だろ。それで、いつか竜之介が笑って言ってた、自分のために作ってくれるというオーダーメイドの真っ白なウェディングドレスを着て、彼の一番きれいな花嫁になるんだ。 それだけが、この地獄のような場所で、何度も立ち上がることができた、唯一の支えだった。 なのに今、自分が夢を託しているその相手こそ、自分を地獄へと突き落とそうとしているのだ。 そう思って綾子は下唇を強く噛みしめた。そして、口の中に広がった血の味を噛み締めて、かろうじてその場に崩れ落ちるのをこらえた。 彼女はヒステリックに騒ぐことも、中に飛び込んで竜之介を問い詰めることもしなかった。 ただ、骨の髄まで凍るような冷たさだけが、足元から頭のてっぺんまで一瞬で駆け上がるのを感じ、心に残された最後の温もりさえも、凍り付いてしまうほどだった。 綾子は、ゆっくりと体を起こした。 制服の袖で、乱暴に顔の涙を拭うと、くるりと踵を返し、そのドアに背を向けて、一歩、また一歩と、自分の部屋へと戻っていった。 そして、彼女が部屋に戻ってまずしたことは、退職願を書くことだった。 言葉遣いは事務的で、冷たかった。理由は体調不良と簡潔に述べた。【健康上の理由により、現在の職務を遂行することが困難です】とだけ書いて、他のことは、一言も触れなかった。 特に署名した時は、ペン先が紙を突き破りそうになるほど、力を込めていたのだった。 退職願が承認されるには、異動辞令より時間がかかる。少なくとも、一週間の手続きが必要だ。 この一週間さえ過ぎれば、すぐにでもこの場所を離れられるようになる。 第2話 異動部隊は3日後に出発した。案の定、綾子の名前は異動者リストになかった。 司令部からの正式な通知は、冷たくて短いものだった。「特別な医療任務」のため、引き続き基地に残れとのことだ。 竜之介の権威は絶対だったので、誰も異議を唱えられなかった。 そして、案の定紛争は始まった。 そんな中、綾子と残った医療チームは、昼も夜も休まず負傷者の手当てにあたった。 負傷者の移送任務が終わりに近づいた時、近くで砲弾が爆発した。 耳をつんざくような音と衝撃波の後、綾子はぼろぼろの服を着て顔にペイントをした男たちに、乱暴に引きずり起こされた。 そして、そのまま綾子は目隠しをされ、両手を縛られて、交戦地帯から連れ去られてしまったのだ。 どれくらい時間が経ったのか分からない。気づけば、カビと血の匂いがする部屋に放り込まれていた。 目隠しが引き剥がされると、そこは薄暗い倉庫だった。数人の男たちが、貪るような凶暴な目つきで綾子を取り囲んでいた。 男たちは綾子が誰だか気づいた。指揮官、竜之介の婚約者で、有名な医者だということに。 通信機がオンになり、男たちはカメラに向かって叫びながら要求を突きつけた。そして、綾子の顔を乱暴にカメラに押し付けた。 綾子は抵抗しなかった。 彼女は不思議なほど落ち着いていた。自分の心臓が、この極限のストレスにあとどれくらい耐えられるか計算する余裕さえあったくらいだ。 その時だった。倉庫の古いドアが勢いよく少しだけ開けられ、一人の影がよろよろと飛び込んできた。手には武器ではなく、カメラが握られていた。 美咲だった。 美咲の顔には恐怖と、病的なまでの興奮が入り混じっていた。レンズは人質の綾子と、その隣にいるテロリストのリーダーに向けられ、静まり返った倉庫に、シャッター音がはっきりと響いたのだ。 その様子にテロリストのリーダーは激怒した。 部隊の人間ならまだしも、こんな風に命知らずな記者が乗り込んでくるとは思ってもみなかったのだ。 すると、綾子の心臓が一瞬、止まったように思えた。 次の瞬間、ほとんど本能的に体が動いた。綾子はありったけの力で美咲の方へ突進するかのようにぶつかっていき、かすれた声で叫んだ。「伏せて!」 銃声が響いたのは、ほとんど同時だった。 しかし、倒れたのは美咲ではなかった。銃を構えたリーダーの方だった。 男の眉間に血の穴が開き、大きな音を立てて倒れた。 続いて、倉庫の高い場所にある壊れた窓から、さらに正確な狙撃弾が撃ち込まれ、あっという間に残りの二人のテロリストも倒れてしまった。 そして、倉庫の外からも、激しい銃撃戦と爆発音が聞こえてきた。 綾子は、何者かの力で物陰に引きずり込まれた。顔を上げると、顔に厚いペイントを塗り、冷たい目だけをのぞかせたスナイパーがいた。彼は素早く手で合図し、動くなと伝えてきた。 戦闘は、数十秒で終わった。 制式ではない戦闘服を着て、優れた装備を持つ数人の隊員が素早く突入してきた。彼らは死体を確認し、現場を制圧した。 その中の一人は背が高く、顔が完全に隠れるヘルメットとゴーグルを着けていたため、顔はよく見えなかった。 彼はスナイパーライフルを構え、最後に中へ入ってくると、散らかった室内を見渡し、その視線は綾子のところで一瞬だけ止まった。 そして、銃を持っていない方の左手を上げると、綾子に向かって敬礼をした。 すぐにその男は他の仲間たちと共に素早く撤収した。まるで最初からいなかったかのように、廃墟の向こうへと姿を消した。 ほどなくして、外から竜之介の焦った声が聞こえてきた。「綾子!美咲!」 それから竜之介が、少数の救援部隊を率いて駆け込んできた。 彼はまず綾子にさっと目をやり、無事であると確認した後、すぐに、隅でカメラを抱えて震えている美咲の方へ大股で歩み寄った。 「美咲!大丈夫か?怪我はないか?」竜之介の声は、綾子が今までに聞いたこともないほど、切羽詰まっていた。 「竜之介さん、怖かった……」 美咲は竜之介に抱きついて泣きじゃくった。「私はただ、真実を記録したかっただけなの。こんなことになるなんて……」 一方で綾子は壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。 着ている白い医療用のガウンは、埃と血で汚れていた。 そして抱き合う二人を見つめていると、彼女の胸に感じる痛みはもはや麻痺してしまったかのようだった。 「安西さん」彼女の声はかすれていたが、不思議なほど静かだった。 すると、竜之介の腕の中から、美咲が目を赤く腫らしたまま顔を上げた。 「あなたがさっき、何をしたかわかってるの?」綾子は一語一句、区切るように尋ねた。「数枚の写真のために、私を殺しかけた。そして、あなた自身も死ぬところだったのよ」 そう言われ、美咲は顔を真っ青にして、慌てて言い返した。「違う!田村先生、誤解だわ!私はただ、記者としての仕事をしていただけ!ここで起きている真実を、世界に伝えたかった。さっきの人たちがまさか、あんなに興奮するなんて思わなくて……」 「思わなかった?」綾子は皮肉な笑みを浮かべたが、それは彼女自身も笑っているとは思えないような表情だった。 「戦場での訓練を受けた記者が、あの状況で写真を撮ればテロリストを刺激するって分からなかったの?あなたの行動が人質をどんな危険に晒すか、考えもしなかったっていうの?」 「わざとじゃないのよ!」美咲は不満そうに声を大きくした。「あの人たちがあんなに神経質だなんて、私にわかるわけないじゃない?それに……それに、あなたは無事だったし、救助もすぐ来たじゃない?」 すると、竜之介は美咲の手の甲を軽く叩いてなだめたあと、綾子の方を見て、眉間にしわを寄せて言った。「綾子、現場は混乱していたんだ。美咲は経験が浅いし、わざとじゃない。お前も彼女も無事だったんだから、それが一番いい結果だろう。あまり責めないであげてくれ」 綾子は竜之介を見つめた。 そのごく自然に美咲をかばう竜之介の姿を。そして、自分のことを「無事だった」の一言で片付けてしまう、その態度を目に焼き付かせるかのようにして。 そして、彼女の傷ついてひび割れていた心は、まるで容赦なく最後の一撃を振り下ろされ、木っ端みじんにされたかのようだった。 「無事?」綾子は繰り返した。その声は、消えてしまいそうなほど小さかった。 「竜之介。あなたの中での『何か』って、一体何のこと?私がここで死ななきゃ、『何か』あったことにはならないの?」 それを聞いて竜之介の顔が険しくなった。 「綾子、言葉を慎め。感情的になっても問題は解決しない。美咲は仕事のつもりだったんだし、彼女自身も怖い思いをした。お前はプロなんだから、戦場の状況くらい理解できるはずだ。実際に死傷者が出たわけじゃないんだから、いつまでもこの話にこだわるな。もっと全体のことを考えろ」 全体のことを考えろ、か。 美咲の兄への恩も、公平な指揮官というイメージを保つことも、そして今度は、美咲の仕事と、戦場の状況、これらすべてを理解することこそ全体を考えたことになるだろうか。 それによって彼女自身の安全も、恐怖も、ついさっきまで死の淵をさまよっていたという事実も、竜之介の口にかかれば「いつまでもこだわる」とか「感情的」の一言で片付けられてしまうのだ。 綾子はもう何も言わなかった。 目の前にいる、よく知っているはずなのに、まるで知らない人のような男を見つめたあと、その背中に隠れるように、うつむいている美咲に目を向けた。 その瞬間、世界が、異常なほど静かになったような気がした。聞こえるのは、左耳に永遠に続く耳鳴りと、胸を引き裂くような激しい痛みだけだった。 そして、綾子はゆっくりと、本当にゆっくりと、背中を向けた。 美咲に、そして、竜之介ーー命も未来も全てを託せると思っていた相手に彼女は背を向けたのだった。 そして、支えようと近づいてきた隊員を避け、綾子は一人で、一歩ずつ歩き出した。戦火で荒れ果てた、がれきの道へと。 竜之介はその背中を見送りながら、なぜか胸にほんの少しの違和感を覚えた。何か、掴んでおくべきだったものが、猛スピードで失われていくような感覚だった。 第3話 特殊派遣部隊の基地に戻った時には、すでに空は暗くなっていた。綾子が腕の擦り傷の手当てを終えたところへ、竜之介の部下の杉山大地(すぎやま だいち)が訪ねてきた。 左耳の耳鳴りと心臓の鈍い痛みで、綾子は壁に手をつかなければ自室まで歩けないほどだった。 10平米にも満たない部屋だったが、小さな窓と独立したサニタリースペースがあって、綾子にとってはここ4年間で唯一のプライベートな空間だった。 しかし、その中から聞こえてきたのは、美咲の声だった。 「竜之介さん、ここは日当たりがすごくいいわ。前にいたテントよりずっと静かだし、これなら初稿をもっと早く終えられそう」 すると、竜之介が彼女の訴えに答えるようにして言った。「気に入ったんならいいんだ。安心して仕事をしてくれ、安全が第一だからな」 一方で、綾子はドアの前に立ちつくしたまま、部屋の中で、美咲がノートパソコンや本を、あの小さな机の上に並べていくのをただ見ていた。 そして、竜之介は、美咲のためにスタンドライトの角度を調整してやっているのだった。 部屋にあったはずの、綾子のわずかな私物はすべて消えていた。 そこで、竜之介は振り返って綾子に気づいたが、彼は表情一つ変えず綾子に近づくと、声をひそめて告げたのだった。 「戻ったか。戦況が悪化して、基地内の部屋を再編成することになったんだ。美咲のレポートがちょうど大事な時期で、絶対に静かな環境が必要でな。ここが一番条件がいいからお前は一時的に、B区の廊下の突き当たりにある物置に移ってくれ。簡単な掃除はもうさせてある」 その口調は淡々としていて、まるで普通の任務を伝えるかのようだった。 綾子は部屋の中に目を向けた。 美咲は綾子に気づくと、申し訳なさそうに微笑んだ。「田村先生、ごめんなさい、お部屋を使わせてもらっちゃって。竜之介さんが、ここが一番だって……」 「私の荷物は?」綾子は美咲の言葉をさえぎったが、その声はひどくかすれていた。 美咲は今思い出したかのように、口に手をあてて小さく叫んだ。「まあ、田村先生、あの古いスーツケースのこと?誰も使わないガラクタが置いてあるんだと思って……さっき、もう係の人に片付けてもらっちゃった」 「片付けた?」綾子は美咲をじっと見つめた。 美咲はその視線にたじろいで半歩下がり、竜之介の陰に隠れるようにして、さらに声を小さくした。 「その……もう使わないものかなって。基地の決まりで、不要な私物は減らさなきゃいけないから……ちょうど医療廃棄物とかゴミを燃やす日だったので、一緒に処分してもらった。ごめんなさい、田村先生。そんなに大事なものだなんて、本当に知らなくて……」 一緒に処分した。 燃やしてしまった。 すると綾子の心臓がどくんと沈んだ。ゴミを処理する焼却炉へと走り、そのへりで、見覚えのある深緑色のブリキの箱を見つけた。自分の名前のイニシャルが入った箱だった。 箱は開けられており、中は空っぽだった。 焼却炉の中には、まだ燃え尽きていない、焦げ付いた写真の破片がいくつか残っていた。子供の頃に両親と撮った家族写真だった。 それを見て、綾子はそこに立ち尽くし、身動き一つできなくなってしまったのだった。 そして心臓のあたりが、えぐられるようにずしりと重く痛んだ。それは狭心症の発作よりもっと鈍く、そして決定的な痛みだった。 そうこうしているうちに、「見つかったか?」背後から竜之介の声がしてきて、美咲も彼の後ろから付いて来ていたのだった。 綾子はゆっくりと振り返り、竜之介を見つめた。 彼女の顔に涙はなく、表情すらなかった。ただ、極度に青ざめているだけだった。 竜之介は灰の山に目をやり、それから綾子のあまりに静かな顔を見て、口を開いた。 「ただの古いものだろう。今は戦時下だ、私物の扱いでミスが起きるのも仕方がない。怪我さえしていなければそれでいいじゃないか。美咲の仕事は重要なんだ。悪気があったわけじゃないんだから、お前も理解してやれ」 竜之介の言葉は明瞭で、冷静だった。その一言一言が氷の刃のように、とっくにズタズタになっていた綾子の心に、的確に打ち込んでいったのだった。 ただの古いもの。 怪我さえしていなければそれでいい。 理解してやれ。 綾子はうなずいた。 そして、ありったけの力を振り絞り、右手を勢いよく振り上げた。 パァン。 乾いた音が、その場に響き渡った。 すると、竜之介の顔が横に振られ、頬にはくっきりと手の跡が浮かび上がった。 彼は呆然としてしまい、まったくの不意打ちだったようだ。 綾子の手はジンジンと痛んだ。しかし声は、かつてないほどはっきりとしていて、氷のように冷たく響いた。そしてその一語一句をその場に打ち付けるかのように、綾子は言った。「この平手打ちは、母の分よ。 あの中には、母が遺してくれたたった一つの形見と、家族の写真が全部入っていたの。母が危篤の時だって、私は最期を看取ることさえできなかった。なのに今は、母が触れたものを見るのさえもできなくなってしまった」 そう言って綾子は、恐怖で青ざめている美咲に、さっと向き直った。その目は、まるで鋭いナイフのようだった。「それから、安西さん。自分が何を壊したか分かってる?あれは、私の人生に残された、最後の拠り所だったのよ」 綾子が一歩詰め寄ると、美咲は怯えて竜之介の腕にきつくしがみついた。 「必ず、償わせてやるから」綾子の声は静かだった。だが、そこには聞く者をぞっとさせるような、絶対的な覚悟がこもっていた。 「誓うわ。私が生きている限り、今日あなたが燃やしたものを、あなたの最も大切なすべてで償ってもらうから」 「綾子!気でも狂ったのか!」 一方で我に返った竜之介は、美咲をさっと背後にかばうと、怒りをあらわにし、相手の骨を砕いてしまうほどの力を込めて、さっき自分を殴った綾子のその手を掴んで言った。 「自分の姿を見てみろ!理不尽な言いがかりをつけて!仲間を脅すなんて!お前に規律というものはないのか!」 綾子は竜之介に掴まれたまま、怒りに燃える彼の顔を見上げて、ふっと嘲るように笑った。 「規律?仲間?」綾子はその二つの言葉を、まるで初めて耳にしたかのように繰り返した。 そんな綾子の瞳に宿る虚無に竜之介は一瞬ひるんだが、怒りと、人前で殴られた屈辱がそれを上回ったようだった。 彼は、物音を聞きつけてやってきた隊員たちに、厳しい声で命じた。 「綾子は感情が不安定で、過激な行動をとった。ただちに独房に入れろ!俺の許可なく、誰も出すな!少し頭を冷やさせろ!」 そして、竜之介が手を振って合図をすると、少し離れたところに立っていた二人の部下が、すぐに前に出てきて、綾子の両腕を左右から掴んだ。 綾子は抵抗せず、彼らに連れていかれるままになった。 そして、綾子は最後にちらりと焼却炉の燃えかすに目をやり、それから無表情の竜之介を見たが、すぐに顔をそむけ、もう何も見ようとはしなくなったのだ。 背後で独房の重い扉が閉まり、錠がかけられた。 狭い空間は真っ暗で、ドアの下の隙間から、廊下の微かな光が差し込むだけだった。 綾子は冷たい壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。 そして、暗闇の中、手を持ち上げ、さっき平手打ちをした、その手のひらを見つめた後、爪が、深く掌に食い込んでしまうほど、ゆっくりと拳を握りしめていった。 第4話 監禁3日目の午後、鍵が開く音がした。 竜之介がドアの外に立っていた。逆光が、彼の冷たい輪郭を際立たせていたのだった。 竜之介は中には入らず、ただ事務的な口調で告げた。 「北西エリアの特別医療区で、W国の理事が急性心タンポナーデを起こした。ここの外科医は経験が浅い。お前の腕が一番確かだ。手術が成功すれば、お前の異動申請を受理してやる。一週間以内に帰国させる」 綾子は壁にもたれたまま、顔を上げた。 薄暗い部屋のせいで綾子の顔は一層青白く見えた。「条件は?」 「条件はない。これは任務だ」 竜之介の声は淡々としていた。「だが、成功すればお前の望みが叶うだろう」 彼からしてみれば、それ以上言う必要はなかった。 すると、綾子は壁に手をついてゆっくりと立ち上がったが、足が少し痺れていたようだった。 もう辞職を申し出ていたので異動命令を聞く必要はない。でも、医者として目の前で死にかけている患者を見過ごすことはできなかった。 綾子は竜之介を一瞥もせず、そばを通り過ぎて外から差し込む光へと歩いて行った。「案内して」 手術は5時間近くに及んだ。 設備は乏しく、器具も限られている。おまけに、患者の状態も複雑だった。 綾子は左耳の耳鳴りと、時折襲ってくる心臓の痛みを無視して、手術に全神経を集中させた。 そして汗で彼女の前髪がびっしょりと濡れていき、手術が終わる頃には、綾子はほとんど虚脱状態だった。 でも、モニターの安定した数値が手術の成功を告げていたのだった。 そこで、綾子は仮眠用のベッドで休むことを許され、その後の指示を待った。 疲れ果てて、彼女はすぐに深い眠りに落ちた。 次に目を覚ましたのは、外の喧騒が聞こえてきたからだった。 歓声と拍手、そして誰かを表彰するようなアナウンスがはっきりと聞こえてきた。 彼女は体を起こし、狭い通路の出口まで歩いた。 少し離れた広場で、竜之介が美咲の胸に特別な功労賞の勲章をつけているところだった。 美咲は興奮で頬を赤らめながらも上品に、駆けつけたらしい海外メディアのカメラに向かって微笑んでいた。 拡声器を通して、竜之介の冷静で明瞭な声が聞こえてきた。 「安西さんは危機的状況において、その類まれなる勇気と事前に受けた救急医療訓練を活かし、理事の容態安定に貢献しました。そのおかげで、後の手術の成功に繋がったのです……戦場記者として、卓越した勇敢さと専門性を見せてくれました……」 綾子は冷たいドアの枠に寄りかかり、その光景をただ見ていたが、無意識のうちに、指を木のドア枠に食い込ませていたのだった。 短い表彰式が終わり、人々は次第に散っていった。 美咲が綾子のいる方へ歩いてきて、ふと足を止めた。 そして美咲は少しだけ顔を横に向け、綾子の青ざめた顔に視線を落とすと、ふっと微かに口角を上げた。 その目には申し訳なさなどなく、あるのはただ、勝ち誇ったかのような眼差しだった。 そしてすぐに、美咲は早足で竜之介に追いつき、何かを小声で話しかけた。竜之介はそれに小さく頷いた。 今回の功労者について、正式な通知が掲示板に貼り出された。 綾子の名前はどこにもなかった。 手術は「隊長の指揮のもと、医療チーム全体で成功させた」ものとされ、美咲の「決定的な貢献」が大きく称えられていた。 綾子はその掲示物を引き剥がし、手の中で握りつぶすと、まっすぐ司令部へと向かった。 そこで、竜之介は、美咲と大地を交えて何かを話し合っていたのだった。 綾子が部屋に飛び込んでくるのを見て、美咲は少し不安そうな顔になり、竜之介のそばに寄り添った。 竜之介は眉をひそめ、大地に手を振って言った。「先ほど言った通りに進めてくれ」 大地と美咲はドアを閉めて部屋を出て行った。 「どうして?」綾子はくしゃくしゃになった紙を竜之介のデスクに叩きつけた。 綾子の声はかすれていた。でも、ヒステリックではなかった。 竜之介はその紙くずを一瞥すると、椅子の背にもたれかかった。 「どうして、とは何だ?手術は成功し、理事は危険な状態を脱した。最高の結果じゃないか」 「私の名前は?」 第5話 綾子は竜之介をじっと見つめた。「5時間の手術、執刀したのはこの私よ。なのにどうして、安西さんが重要なアシストをしたってことになってるの?」 竜之介は少しイラついたように眉間を揉んだ。 「綾子、あの時は現場も混乱してたんだ。大勢が、美咲が器具を手渡したり、患者を励ますのを見ていた。美咲の報道にはそういう映像が必要なんだよ。 彼女のキャリアのためにも、部隊のイメージアップにもなる。実際に執刀したのがお前だってことは、俺が分かってる。だから功績を少し分けてやったって、大したことじゃないだろ」 「つまり、私の手術が、安西さんの手柄になったってことね」 綾子は続けた。「そして、私の帰国の話も、これでお流れになった。そういうことでしょ?」 綾子はすでに除隊を申請していた。だから竜之介が出す異動辞令はもうなんの意味もないのだが、それでも、竜之介が直接約束してくれたはずの辞令を果たしてくれなかったことは、棘のように深く心に刺さったのだった。 彼女はほんの僅かな可能性に、賭けていたのかもしれない。竜之介がすべての計算を捨てて、ただ自分という人間への思いやりから、5時間にわたる自分の努力を認めてくれることを。 だが、今そんなみじめな期待を抱いた自分自身にさえ、嫌気がさしてきたのだった。そして、心臓もまるで自分の執念に心を貫かれたようで、狭心症の発作よりも鋭い痛みが胸を襲ったのだった。 「そんな言い方をするな」 竜之介は綾子の前に歩み寄り、口調を和らげようとした。「お前の貢献は、俺が一番よく分かっている。だけど今は状況が複雑でな。美咲と、彼女の後ろにいるメディアの力が必要なんだ。帰国の件については……」 竜之介は綾子を見つめ、声をひそめて言った。「国内に戻ったら、結婚しよう。今までのことは……もう水に流すんだ。お前には落ち着いた環境が必要だ。俺も国内勤務を申請するから」 綾子は竜之介を見た。その瞳に浮かぶ、いつもの、すべてを天秤にかけるような傲慢さ。上に立つ人間の、当たり前だという表情。 そう感じて、彼女は突然、すべてが馬鹿馬鹿しくなり、ひどく疲れてしまった。 そして、心臓にいつもの鈍い痛みが走った。でも、それよりも辛いのは、打ちひしがれた後の痺れた感覚だった。 「結婚?」綾子は繰り返した。 「そうだ」竜之介は、綾子の顔に昔のような信頼や感動を探すように言った。「お前がずっと望んでいたことだ。叶えてやる。だから、もうごねるのはやめて、大人しく帰国して俺を待ってろ」 綾子は顔を上げた。その眼差しは、凍りついた湖面のように静かだった。 「竜之介、あなたとは結婚しないよ」 竜之介は一瞬きょとんとした後、「またご機嫌ななめか」と言いたげな顔になった。 「綾子、意地を張るな。つらい思いをさせたのは分かっている、だが……」 「意地じゃない」綾子は竜之介の言葉を遮った。その声ははっきりしていた。「あなたが私に、命がけで安西さんを守れと言った時から。母の形見を燃やして、ただの古い物だと言った時から。私を独房に閉じ込めた時から。ううん、もしかしたらもっと前から」 綾子は首を振った。「私たち、とっくに終わってたのよ。私がそれを認めたくなかっただけ」 綾子は異動辞令を手に取ると、背を向けて歩き出した。 「綾子!」竜之介は立ち上がり、怒りを込めて叫んだ。「よく考えろ!このまま突っぱねても、お前には何も残らないだろ?俺の他に、お前みたいな体がボロボロで傷だらけの女なんか、誰が相手にすると思うんだ……」 だが、綾子は振り返らず、ドアを開けて外に出た。こうして竜之介の声は、ドアの向こうに閉ざされた。 それから数日、基地内では次第に噂が広まり始めた。 指揮官と婚約者がどうやら破局したらしいこと。指揮官は今や一日中、あの美しい女性記者に付き添って会議などに出入りしていること。そして、綾子は完全に冷遇されているらしい、ということ。 そんな噂を耳にしても、綾子の心は少しも揺らがなかった。 彼女はただ待っていた。除隊の手続きが終わるのを。あるいは、ここを去るチャンスが来るのを。 狭心症の発作は以前より頻繁になり、綾子は黙って薬の量を増やした。 左耳の聴力も、少しずつ落ちているようだった。時々、相手にかなり大きな声で話してもらわないと聞こえないことがあった。 でも、そんなことはもうどうでもよかった。 彼女はただ、ここを去りたい。それだけが望みだった。 竜之介も噂を耳にして、苛立ちながらも、信じがたい気持ちでいた。 彼は自分で綾子という人間をよく知っているつもりだった。彼女は自分から離れられない。今はただ、機嫌を損ねているだけだと彼はそう思っていた。 綾子が冷静になり、自分が手配してあげた帰国後の手筈を知れば、自然と自分の元へ戻ってくるだろう。 第6話 一方で、綾子の辞表が受理されたのは、提出から7日後のことだった。しかし、まだ荷造りも済ませていなかった。 その時、耳をつんざくような警報が、基地全体に鳴り響いた。 「緊急招集!安西さんが取材中に待ち伏せに遭い、所属不明の武装グループに人質にとられた!犯人側の要求は、医者一人との人質交換です!」 混乱の中、竜之介が完全武装の隊員たちを率いて、足早にやってきた。その顔は恐ろしいほど険しかった。 そして竜之介の視線はざっと人垣をなぞると、綾子のところでぴたりと止まった。 彼は大股で近づいてくると、有無を言わさず綾子の腕を掴んだ。 「ちょっと来い」 綾子は竜之介の手を振り払った。「離して。私はもうここの医者じゃないわ。私の退職は……」 「今はそんな話をしている時間はない!」 竜之介は声を潜め、有無を言わせぬ早口で言った。「相手は医者を指名してきた。今、この基地で条件に合って、なおかつ……相手にこちらの誠意を信じてもらえるのは、お前しかいないんだ」 「男性の医者なら?白石先生も、清水先生もいるじゃない!」綾子は問いただした。 「男は目立つからダメだ。相手の『コントロールしやすい』という条件に合わない。それに……」 竜之介の声はさらに低くなり、冷酷な計算がにじみ出ていた。 「お前は俺の婚約者だ。お前を交換に出せば、こちらの誠意が伝わりやすい。敵の油断も誘える。これは本当の交換じゃない。あくまでおとりだ。スナイパーと突撃隊を配置して、美咲を確実に救出するし、お前も危険な目には遭わせない。そういう計画だ」 それを聞いて、綾子は、まるで初めて会う人を見るかのように竜之介を見つめた。 「私をおとりにして、安西さんを助けるのね。私があなたの婚約者だから、私が行けばあなたが私情を捨て、苦渋の決断をしたように見えるから。そうでしょ?」 竜之介は唇を固く結んだ。その瞳には複雑な色がよぎったが、すぐに決然とした光に取って代わられた。 「綾子、これは命令だ!それに、人質を救う一番早い方法でもある。美咲にもしものことがあったらどうする!彼女のお兄さんは俺のために死んだんだぞ!分かってくれ!お前の安全は俺が保証する!」 「あなたの保証?」綾子はクスっと笑った。もう抵抗することも、竜之介の顔を見ることもやめた。 ただ、体の芯まで凍えるような冷たさを感じていた。「案内して、隊長」 そして、人質交換の場所は、廃棄工場の瓦礫が散らばる一角だった。 そこへ、綾子は竜之介自らの手で指定された場所の近くまで連れてこられた。 竜之介は最後に綾子を一瞥し、複雑な表情で「忘れるな。おとりなだけだ。怖がるな」と低い声で言った。 だが、綾子は何も答えず、彼女は一人、だだっ広い廃墟の中心へと歩いていったのだった。 相手はかなり警戒しており、現れたのは三人だけで、両手を縛られ、口を塞がれた美咲を連れてきていたのだ。 美咲は綾子を見ると、目を大きく見開いた。その瞳には恐怖と、信じられないという気持ちが浮かんでいた。 簡単な確認の後、相手は交換の合図を送ってきた。 綾子はゆっくりと歩き出す。美咲も前へと押し出された。 二人は中央ですれ違った、その時、美咲の肘が、まるで無意識であるかのように綾子のわき腹を強く突いた。 その痛みに綾子は小さくうめき、眉をひそめた。 そして、綾子の腕が相手に掴まれようとした、その瞬間、予想外の事態が起こった。 美咲は突然、どうやったのか緩んでいた口元の布を引き剥がし、甲高い声で泣き叫んだ。「竜之介さん!助けて!彼ら、爆弾を持ってるの!」 その叫び声は、鋭く響き渡り、綾子を引き取ろうとしていたテロリストたちの顔色を一変させたのだった。 そのうちの一人がジャケットを乱暴にめくりあげると、体に巻きつけられた爆薬があらわになり、彼の指はすでに起爆装置へと伸びていったのだった。 一方、竜之介が配置したスナイパーもこの突然の事態に動揺したらしい。弾丸は的を外し、石に当たって火花を散らした。 すると、「美咲!」竜之介の叫び声が、隠れ場所から聞こえてくるのと同時に、爆発は、すぐ近くで起きた。 第7話 爆風に吹き飛ばされた綾子は、瓦礫の山へと叩きつけられた。 一瞬にして、激痛に襲われた。耳には甲高い耳鳴りだけが残り、視界は真っ赤に染まっていた。 そして、額や脇腹から、体のあちこちから、生ぬるい液体が流れ出してくるのを感じた。 そんな中、短く、激しい銃声が、あちこちで鳴り響き始めた。 ぼやける視界の先に、竜之介が飛び出してくるのが見えた。しかし、彼は自分の方を見ていなかった。爆風で吹き飛ばされ、うずくまって泣いている美咲へまっすぐ駆け寄ったのだ。 一方で、竜之介は美咲を抱きしめ、自分の体でかばいながら、遮蔽物の方へと素早く移動させた。 そして、竜之介は顔を上げ、爆発の煙が立ち込める混乱した現場を、焦ったように見回した。 そこで、瓦礫の中に倒れている綾子を見つけた。 綾子はぴくりとも動かなかった。顔も体も土埃と血にまみれ、どれほどの怪我なのかは分からなかった。 だが、綾子は……目を開けているようだった。指が、わずかに動いた気もした。 「綾子!」と竜之介は叫んだ。だがその声は、爆発の轟音と激しい銃撃音にかき消されてしまった。 竜之介が駆け寄ろうとした、その時だった。腕の中の美咲が必死に彼にすがりつき、泣き叫んだ。「竜之介さん!こわい!足が……足が折れちゃったのかもしれない!動けないの!私を置いていかないで!」 その時、残された武装集団が、やみくもに銃を乱射し始め、流れ弾が、ヒュンヒュンと音を立てて飛び交うようになったのだ。 味方の隊員も応戦を始め、現場は完全にコントロールを失った。 竜之介は、もう一度、綾子の方を見た。 煙が少し晴れると、綾子がまだそこに横たわっているのが見えた。助けを求めるでもなく、動くこともなく、ただ空を見上げているのか、あるいは、ただ目を開けているだけなのかもしれない。 竜之介は、綾子が衝撃で動けないだけだと思った。きっと、命に別状はない。これまでの任務でも、そうだったから。綾子はいつも強く、必ず乗り越えてきたのだ。 一方、美咲は腕の中で震え、泣きじゃくり、動けずにいる。 死んでしまった美咲の兄から託された言葉が、頭の中でこだまする中で彼は思った。 そもそも爆発は、美咲が引き起こしたものだ。これ以上美咲に何かあれば、死んだ戦友に顔向けできない。 「隊長!直ちに撤退してください!敵の増援が来る可能性があります!」大地が硝煙の中から叫んだ。 決断までに、数秒もなかった。 竜之介は歯を食いしばり、その瞳の奥に苦悩の色が浮かんだが、体に染みついた責任感と目の前の危機感にすぐに押し流された。 彼は身をかがめると、美咲を横抱きに抱え上げた。 そして、「援護しろ!撤退だ!」竜之介は声を振り絞って叫ぶと、美咲を抱えたまま、隊員たちの援護を受けて装甲車へと走っていき、二度と振り返らなかった。 冷たい瓦礫の上で、綾子は見ていた。竜之介が、別の女を抱いて去っていくのを。その背中が、視界の向こうに消えていくまで、ずっと。 もう、叫ぶ力さえ残っていなかった。体から流れ出た血が、ゆっくりと地面に染み込んでいく中、痛みはだんだん麻痺していき、残されたのは体の芯まで凍えるような寒さだけだった。 そして、その流れ出る血と共に、自分の命も流出していくのを彼女は感じた。 左耳の耳鳴りがやがて止み、あたりは死んだように静まり返った。 意識が闇に沈む、その直前。かすかに、瓦礫を踏む音が近づいてくるのが聞こえた気がした。 黒いコンバットブーツを履いた足が、ぼやける視界の端に止まった。 誰かが、そばにしゃがみ込んだ。 タクティカルグローブをつけた手が、綾子の血で顔に張り付いた髪を、優しくどけてくれた。 すると、その指先から、知らない人の体温が伝わってきた。 綾子は目を見開こうとしたが、見えたのはぼんやりとした影だけだった。それはゴーグルの向こうから、じっと見つめて来る真っすぐな視線だった。 それから彼女は、とても慎重かつ安定した腕で、抱き上げられるのを感じた。 その腕は広くて力強く、体の寒さと死の気配を少しだけ和らげてくれたようだった。 完全に意識がなくなる直前、遠のく意識の中で綾子は聞いた。低く、知らない声。でも、不思議と安心できるその男の声が、英語で短く告げるのを。 「眠るな。しっかりしろ」 第8話 一方で、装甲車は激しく揺れながら、特殊派遣部隊の基地へと帰還した。 美咲は竜之介の肩にもたれてすすり泣き、その袖をずっと掴んだまま離さなかった。 竜之介は、背筋をまっすぐに伸ばして座っていた。車の揺れで背中の傷から血が滲んでいたが、彼はそれに気づく様子もなく、ただ窓の外を猛スピードで流れていく焦げた大地を見つめていた。 そして、最後に見た、瓦礫の中に横たわる綾子の姿。何も語らず、ただ開かれたままの彼女の瞳が、何度も脳裏にちらついていたのだった。 すると、竜之介の中でどんどん強くなる不安が広がり、心臓はまるで何かに掴まれてしまったかのようだった。 そして、車が停まると同時に、竜之介はすぐさま立ち上がった。「医療班のところへ行く」 「竜之介さん!」美咲は竜之介の腕をぎゅっと掴んだ。彼女が青ざめた顔をあげると、瞳には涙がいっぱいたまっていたのだった。 「あなたの怪我、すぐに手当てしないと!それに……それに、田村先生は絶対に大丈夫。今までだって、爆撃の中だろうと感染区域だろうと、何度も乗り越えてきたじゃない。彼女はここの中で一番優秀な医者なんだから、きっと大丈夫よ。 もしかしたら、もう私たちより先に基地に戻って、隣の医務室で負傷者の手当てをしてるかもしれない。あなたが行ったら、かえって邪魔になっちゃうわ」 その声はか弱く、九死に一生を得たばかりのもろさが滲んでいた。でも同時に、綾子なら大丈夫だという強い信頼も込められているようだった。 それを聞いて、竜之介は、動きを止めた。 そうだ。綾子は、いつも誰よりも冷静で、タフだった。 死の淵から人々を救い出したことは、一度や二度じゃない。それは、綾子自身だって同じことだ。 あの爆発は確かにひどかった。でも、かすり傷くらいで済んで、もう後続部隊に救助されたかもしれない。 綾子ほどの人間が、そう簡単にくたばるはずがない。 「先にあなたの傷の手当てをさせて、お願い?」 美咲は懇願するように言った。「私……一人だと怖いの。手当てが終わったら、私も一緒に田村先生を探しに行くから」 そう言われ、まだおびえる美咲の姿と、美咲の兄の最期の言葉を思い出し、竜之介は焦りを無理やり抑え込んだ。彼はうなずき、連れられて医務室へ向かった。そして、美咲もその後ろについていった。 だが、傷を洗浄し、縫合されている間、竜之介の心はここにあらずだった。 だから、処置が終わるやいなや、彼はすぐさま立ち上がって外へ向かった。 そこへ美咲がついてこようとすると、竜之介は振り返って言った。「お前はここで休んでろ」それは、有無を言わせぬ命令口調だった。 それから、竜之介は早足で、メインエリアにある医療テントへと向かった。 テントの中は、負傷者のうめき声が響き、医療スタッフが慌ただしく行き交っていた。しかし、そこに綾子の姿はどこにもなかった。 竜之介は顔見知りの看護師を捕まえて尋ねた。「綾子は?」 看護師は不思議そうに首を横に振った。「田村先生は見かけていませんが。隊長と一緒の任務に出たんじゃないですか?」 それを聞いて、竜之介の心は、ずしりと重くなった。 次に、綾子が使っていた物置部屋へ向かったが、そこはもぬけの殻だった。 綾子を見たかもしれない隊員を何人か捕まえて尋ねたが、皆から、爆発後の撤退は混乱していて、綾子が帰りの車に乗っていたかは分からないという答えしか得られなかった。 こうして不安がどんどん大きくなっていく中、竜之介が人員確認の号令をかけようとした、その時、向こうから二人の男が歩いてくるのが見えた。 「夏川隊長ですか?」先頭に立っていた中年の男が、手を差し出してきた。 「我々は、田村先生をお迎えにあがりました。彼女から提出されていた辞職および異動届は、特例で緊急受理されたのです。 これから、田村先生を空港までお送りし、この地域から撤退していただきます。あまり時間がありませんので、失礼ですが、どちらにおられますか?すでに、約束の集合時間は過ぎているのですが」