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風が止んだ夜に
新橋碧(しんばし みどり)の五歳になる息子は、夫の義妹である小野寺舞(おのでら まい)によって殺された。 胸を引き裂かれるような悲しみを...
Chương (1)
第1章
新橋碧(しんばし みどり)の五歳になる息子は、夫の義妹である小野寺舞(おのでら まい)によって殺された。
胸を引き裂かれるような悲しみを必死に押し殺し、碧は自身が勤める監察医事務所のコネを頼って、息子の司法解剖が行われる一部始終を細かく記録した。
証拠を手にしたとき、夫の小野寺朗(おのでら あきら)は「最高の弁護士を雇って、裁判で戦う」と彼女に約束した。
しかし、開廷当日。朗は敏腕弁護士を伴い、あろうことか被告席に座っていた。そして、碧こそが証拠を偽造し、義妹を陥れようとしたのだと糾弾した。
碧は懲役三ヶ月の実刑判決を言い渡された。
出所の日、朗が碧を迎えに来た。
怒りと悔しさに震える彼女に対し、彼は淡々と言い放つ。
「舞は一時の過ちで、不注意から息子の命を奪ってしまっただけだ。あの子は根が優しいんだ。どうしてそんなに執念深く責めるんだい?
子供なら、また授かることもできる。だが、俺にとって義妹は一人しかいないんだ!碧、俺を困らせないでくれ。いいだろう?」
朗の瞳に宿る、少しの曇りもない。それが当然だと言わんばかりの色を目にした瞬間、碧の心臓は激しく疼いた。
かつて、碧の父は舞を救うために片足を失い、その負傷がもとで退職を余儀なくされた。
退職後、父は長年の貯金を投げ打って朗の起業を支えたのだ。
あの時、碧を心から愛していると言わんばかりの表情で、朗は父の前に膝をつき、「一生、碧を幸せにします」と誓った。
それなのに今、舞が窮地に立たされるや否や、朗は我が子を失った痛みさえも、いとも簡単に切り捨ててしまった。
そこで碧は、ある番号に電話をかけた。
「……共通の敵がいる以上、手を組んで復讐をしませんか?」
第1話
5歳の息子は、ただの風邪をひいていただけだった。それにもかかわらず、夫の義理の妹である小野寺舞(おのでら まい)に「治療」された末、命を落とした。
新橋碧(しんばし みどり)は、胸を引き裂かれるような悲しみを必死に押し殺し、自身が勤める監察医事務所のコネを頼り、息子の司法解剖が行われる過程を細かく記録した。
解剖結果が出たあと、夫・小野寺朗(おのでら あきら)は彼女に誓った。必ず犯人に報いを受けさせる、自分の手で息子の無念を晴らすのだと。
碧はその言葉を疑わず、集め得るすべての証拠を彼に託した。
しかし、裁判当日。
あろうことか、提出されるはずの証拠はすべて跡形もなく隠滅されていた。
最も信頼していたはずの夫は、敏腕弁護士を伴い、被告人席に堂々と腰を下ろしていた。そして、碧こそが舞を陥れたのだと、公然と糾弾した。
「裁判長、私の妻は、私と妹の関係に嫉妬し、職権を利用して解剖結果を歪めたのです。
息子はもともと先天性心疾患を抱えていました。持病の急変による死亡であり、私の妹とは一切関係ありません」
朗が偽造された診断書を差し出した瞬間、碧は全身の血が一気に凍りつくのを感じた。
彼女は震える声で叫ぶように問い詰めた。
「朗、正気なの。死んだのは……あんたの実の息子なのよ」
だが朗は少しも動揺を見せず、淡々と言葉を重ねた。
「妻は私の義妹を誹謗しただけでなく、公務員としての地位を利用して虚偽の鑑定報告を行いました。厳正な裁きを求めます」
法廷内は一瞬で騒然となった。
舞はその場で無罪判決が下り、逆に碧が虚偽有印公文書作成などの罪で懲役三ヶ月の実刑判決を言い渡された。
出所の日、朗は車で迎えに現れた。
背後で刑務所の鉄門が重々しく閉じる。碧は眩しい日差しの下、ただ立ち尽くしていた。
三ヶ月に及ぶ刑務所の生活は、碧を別人のようにやつれさせていた。
路肩に停めた車の窓を下ろし、朗は申し訳なさそうな表情を作って声をかけた。
「碧、乗りなよ」
碧は一歩も動かなかった。ただ、じっと彼を見据える。
「朗……私の目を見て答えて。どうして?」
朗は車を降り、彼女に近づいて頬に触れようとした。しかし碧は、その手を激しく振り払った。
「碧、すまない。辛い思いをさせた」
朗はため息をついた。その冷ややかなくらい落ち着いた声が、碧の心を凍てつかせる。
「舞はまだ若くて世間知らずなんだ。わざとやったわけじゃない。許してやってくれないか」
碧は血走った目で彼を見つめた。
「朗、あれは……あんたの実の息子なのよ。どうして、そんなに冷酷でいられるの」
この瞬間になっても、碧には信じられなかった。夫が、息子の死に加担するなど。
朗は一瞬言葉に詰まったが、すぐに言い直した。
「碧、息子を失ったことは俺だって辛い。でも……子供はまた授かることもできる。俺にとって義妹は一人しかいないんだ。彼女を失うわけにはいかない」
その言葉は、氷の楔となって碧の心臓を深く貫いた。
ふと、十年前の雨の夜が脳裏に蘇る。
十八歳だった舞が酔っ払いに絡まれていたとき、彼女を守ろうと飛び込んだのは、碧の父――元ベテラン刑事の新橋隆太郎(しんばし りゅうたろう)だった。
一方、朗は後ろに立ち尽くしていただけだった。父が舞を庇い、暴漢に右足を刺し貫かれるのを、ただ見ていただけだった。
父は片足の自由を失った。そのとき朗が口にしたのは、形ばかりの感謝の言葉だけ。
その後、退職した父が長年の貯金を朗の事業資金として貸し付けたとき、朗は父の前に土下座し、こう誓った。
「義妹を救い、資金まで貸してくださった恩は一生忘れません。碧を幸せにします。新橋さんの老後も、最期まで私が支えます」
その誓いの言葉は、今も碧の耳に焼きついている。だが今となっては、それは痛烈な皮肉でしかなかった。
目の前にいる、かけらほどの悔恨も見せない男を見て、碧は突然笑い出した。
最初はかすかな笑い声だった。それが次第に大きくなり、やがて嗚咽とともに涙が溢れ出す。
朗は眉をひそめた。碧がひどく情緒不安定になっていると思ったのだ。
「碧、どうしたんだ。約束してくれ。この件はここまでにしよう。もう一度、やり直そう。な?」
「ここまでにしよう、ですって」
碧はぴたりと笑みを消した。血走った目で朗を睨み据える。
「あの子はね、私が十月十日もお腹の中で育てて、産んだ子なの。難産で生死をさまよいながら産んだ子なのよ」
朗の表情が険しくなる。
「碧、俺を怒らせるな。三ヶ月の刑務所生活で、少しは現実を見たと思っていたがな」
闇に閉ざされた刑務所の日々が、鮮明に脳裏をよぎった。
同室の女たちに水槽へ顔を押し込まれ、窒息しかけたこと。看守から嫌がらせを受け、食事を抜かれたこと。高熱にうなされながら、冷たい床の隅で丸まり、耐えるしかなかった夜。
碧の体は、思わず小刻みに震えた。
それでも、無惨に死んでいった息子の姿を思い出すと、碧は一歩も引かなかった。
冷徹な氷のような眼差しで朗を一瞥すると、碧は静かに背を向け、歩き出した。
遺体安置所へ――息子・小野寺安晴(おのでら やすはる)の最期に向き合うために。
第2話
朗は彼女の背中に向かって、冷淡に言い放った。
「碧、馬鹿な真似はよせ。お前が俺に勝てるわけがないだろう」
碧は振り返らなかった。
そのまま遺体安置所へ向かい、息子の亡骸と対面した。
ひんやりとした遺体安置所で、震える手を必死に抑えながら、ゆっくりと白布をめくる。
その瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
息子の小さな顔は、刃物で無惨に切り刻まれていた。幼い頬には、歪で忌まわしい文字が刻み込まれている。
「Akira LOVE Mai」
――朗は、舞を愛している。
その意味を理解した途端、碧の全身を震えが襲った。たった一行の英文字。それだけで無数の刃が心臓を貫き、息をすることすらできないほどの激痛が走る。
「あああああ――っ!」
碧は息子の遺体を強く抱きしめ、引き裂かれるような声で泣き叫んだ。虚ろな遺体安置所に、絶望した母親の慟哭が木霊する。
彼女は震える手でその惨状を写真に収め、警察に通報しようとした。
「碧、よく考えたか」
背後から朗の声がした。振り返ると、入口には黒ずくめのボディガードを二人従えた朗が立っていた。
一人の男が、無言でタブレットを彼女の前に差し出す。
画面に映し出されたものを見た瞬間、碧の体は石のように硬直した。
そこにいたのは、退職した父の姿だった。かつて舞を救うために片足を失った、元ベテラン刑事の隆太郎。
隆太郎は今、全裸のまま崖の縁に吊るされていた。
崖下では荒れ狂う波がうねり、数匹のサメが獲物を待ち構えるように口を開けている。
隆太郎は屈辱に耐えるように目を閉じ、大粒の涙を頬に伝わせていた。
碧の手は激しく震え、信じられないという思いで朗を凝視した。
「朗……舞の命を救ったのはお父さんなのよ!あんたの会社の設立資金だって、お父さんが受け取るはずだった補償金じゃない!どうして……どうして、こんな屈辱を味わわせるの……!」
常に沈着冷静だった碧の目尻は赤く染まり、目の前の冷酷な男を射抜くように睨みつけた。
朗は彼女を一瞥しただけで、淡々と、氷のように冷たい声を落とす。
「碧、最後にもう一度だけ言う。この件は二度と蒸し返すな。さもなければ……」
言葉が終わる前に、画面の中の誰かがナイフを取り出し、父を吊るしているロープへ刃を当てた。
「やめて!」
碧は崩れ落ちるように叫んだ。
「わかった……もう二度と追及しない……約束する……だから……お願い……お父さんには、手を出さないで……」
嗚咽を漏らす彼女の姿を見て、朗は満足げに頷いた。
「それでいい。いい子だ」
朗が去ったあと、碧は冷たい床に座り込み、変わり果てた息子の顔を見つめ続けた。
ふと、三ヶ月前の、あの電話を思い出す。
息子が亡くなる前夜、受話器越しに、か細い声でこう言っていた。
「ママ……ピアノの部屋で、パパと舞さんがチュッてしてるの見たよ……パパ、僕の口を塞いで、ママには内緒だって……」
そのとき碧は、ただの子供の戯言だと思い、優しくなだめてしまった。
「安晴くん、いい子ね。パパは舞さんを励ましていただけよ」
真実は、ずっと以前から目の前に示されていたのだ。ただ碧が、十年愛し続けた男を信じる道を選んだだけだった。
碧は涙を乱暴に拭い、長く封印していた番号に電話をかけた。
受話器の向こうから、低く響く男の声が返ってくる。
「決心がつきましたかな」
「ええ、あなたと手を組みます」
碧の声は、氷のように冷え切っていた。
「その代わり……朗と舞に、息子の命で償わせる」
電話の向こうで、男の笑い声が静かに響いた。
「いいでしょう。一ヶ月後、迎えに行きます。我々の協力関係に、幸多からんことを」
第3話
碧は息子の遺体と共に、葬儀場へと向かった。
納棺師の手を借りながら、湯灌の儀を行い、息子の体を隅々まで清めた。そして、顔に残った傷跡を一つひとつ、専門の化粧で目立たなくしてもらうよう頼み込んだ。
深さも形も異なる無数の傷を前に、碧はとうとう声をあげて泣き崩れた。
「安晴くん、ごめんね……ママが守ってあげられなくて……本当に、ごめんなさい……」
息子が一番好きだった「プーさん」の服を着せ、その小さな体を腕に抱く。いつもの寝かしつけと同じように、涙を流しながら、息子が大好きだった絵本を読み聞かせた。
何度も、何度も、声が枯れるまで、ありったけの愛を伝え続けた。
火葬の準備が整った頃、朗が姿を現した。
目を真っ赤に腫らした彼は、碧の前に片膝をついた。
「……安晴くんには、本当に申し訳ないことをした。せめて、最後の別れをさせてくれ。
安晴くんのために最高の墓地を手配した。有名な住職にも読経を頼んである。もう一度だけ、俺を信じてくれないか?
安晴くんはもういない。俺に、償う機会をくれ……頼む」
朗は懇願するような瞳で碧を見つめた。その眼差しは、プロポーズした日のそれにあまりにも似ていた。
一睡もせず憔悴しきっていた碧の脳裏に、ふと、過去の朗の姿がよぎる。
つわりに苦しむ自分を一晩中看病してくれた男。不器用ながら必死におむつを替えていた、父親としての姿。
ふと、心が揺らぎ、碧は腕の中の息子を彼に預けてしまった。
朗は愛おしそうに息子の頬に口づけると、納棺師と共に遺体が運ばれるのを見送った。
戻ってきた彼は、碧を抱き寄せる。
「碧、辛い思いをさせたな。お前が気に入っていたV島の別荘、手続きを進めている。葬儀が終わったら、二人で静養しに行こう」
碧の心が、かすかに震えた。
なるほど――別荘一つで、一つの命が償えるというわけか。
朗、あなたは本当に計算高いわね。
そのとき、朗のスマートフォンが鳴り響いた。
「社長、大変です!舞さんが手首を切って、自殺しようとしています!」
「何だって?」朗の表情が強張る。
「ネット上で、社長と舞様が結託して奥様を陥れ、坊ちゃんを死なせたという噂が広まっています。舞さんは、その誹謗中傷に耐えきれず……」
「すぐに行く!」
そう言い捨て、朗は碧の横をすり抜け、慌ただしく外へ向かおうとした。
だが数歩進んで足を止め、振り返るって氷のような冷たい声で言い放った。
「碧、ライブ配信で釈明しろ。今回のことはすべて、お前の嫉妬による自作自演だ。舞は一切関係ないと説明するんだ」
碧は信じられない思いで目を見開いた。
「正気なの?朗、悪いのはあの子でしょう!」
張り詰めた空気の中、係員が骨壺を捧げ持って現れた。
それを受け取った朗が碧を見る目は、次第に冷酷さを増していく。
「碧、本当に断るつもりか?安晴くんを、死んでからも安らかに眠らせてやりたくないのか?」
碧の瞳が大きく見開かれた。
「何を……何をする気なの、朗!?」
朗は答えず、ただゆっくりと骨壷を高く掲げ、床に叩きつけようとする素振りを見せた。
「やめて!朗、それはあんたの実の息子なのよ!」
碧は叫びながら飛びかかろうとしたが、ボディガードに力ずくで押さえつけられる。
「碧、息子はもういないんだ。俺はこれ以上、義妹を失うわけにはいかない」
朗の声は、恐ろしいほど冷静だった。
「朗、この人でなし……!
わかった……わかったわ!舞のために釈明する!」
その言葉を聞くと、朗は満足げに腕を下ろした。
碧は絶望の中でそれを奪い取るように抱きしめ、胸に押し当てた。
そのとき、スマートフォンの通知音が鳴った。弁護士から送られてきた離婚協議書と、株式譲渡の合意書。
碧は目を閉じ、必死に理性を繋ぎ止めた。
――朗、舞。覚悟しておきなさい。
再び目を開けたとき、その瞳に宿っていたのは、凍てつくような憎しみだけだった。
「いいわ。でも条件がある。安晴くんが亡くなったことは、お父さんには絶対に知らせないで」
碧は冷淡に告げた。
隆太郎は安晴を誰よりも可愛がっていた。もし真相を知れば、きっと耐えられないだろう。
息子を失った今、父まで失うわけにはいかない。
父は、この世界に残された、唯一の肉親なのだから。
朗は眉をひそめ、碧の様子に一瞬だけ違和感を覚えた。だが、その疑念はすぐに霧散した。
「わかった。義父さんは我が家の恩人だ。責任を持って『静養』していただくように手配するよ」
――彼の言う「静養」とは、実質的な監視と行動制限を意味していた。
第4話
碧は生配信の現場へと連れて行かれた。
眩い照明が鋭く突き刺さり、無数のレンズが、まるで冷酷な瞳の群れのように彼女を捉えている。
碧は拳を固く握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んだ。口内に、鉄の味がじわりと広がる。
深く息を吸い込み、積み重なったすべての屈辱を喉の奥へと押し込み、彼女はゆっくりと口を開いた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。新橋碧です。このたびは、私の過った判断がために、夫と義妹にあたる小野寺舞さんとの間柄を邪推し、あろうことか、夫の関心を引くための道具として我が子を利用いたしました。その結果、然るべき医療処置が間に合わず、息子を救うことができませんでした。すべては私の責任です。小野寺舞さんには、一切の関わりもございません」
震える声で釈明を終えた瞬間、コメント欄は罵詈雑言で一気に埋め尽くされた。
『正気かよ、この女。子どもを道具にしたのか!』
『毒親!母親失格!死ぬべきなのはお前だ!』
『この人殺し!地獄に落ちろ!』
碧は一瞬にして世間の集中砲火を浴び、激しいバッシングの的となった。
ステージ脇で、朗は満足そうに頷いていた。配信が終わると、彼は歩み寄り、碧の肩を抱き寄せた。
「碧、安心しろ。世間が落ち着いたら、ネットの悪評なんて俺が綺麗に消してやる。また、昔みたいに戻れるさ」
目の前で白々しく言い放つその男を、碧はただ虚ろな目で見つめ返すしかなかった。
その時、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
「新橋碧さんですか?お父様が緊急搬送されました。至急、お越しください!」
「……何ですって!?」
胸を掠めるような暗い予感に突き動かされ、碧は病院へと駆け出した。
病室では、隆太郎が血にまみれ、顔はあざだらけに腫れ上がっていた。義足はどこかへ消え、その姿はあまりにも無惨で、顔には深い悲嘆と憤りが滲んでいた。
病室の入り口には、怒りに燃えた野次馬たちが押し寄せていた。
「あんたの娘が、自分の息子を殺したんだぞ!知ってるのか!」
「何が元ベテラン刑事だ。汚職刑事だったんじゃないのか!でなきゃ、こんな毒婦が育つはずがない!」
「父娘そろって地獄に落ちろ!死んだ子供に、命で償え!」
碧が駆けつけた時、隆太郎はなすすべもなく罵声を浴びせられていた。
胸を引き裂かれるような思いで、碧は隆太郎の前に立ちはだかる。
「どきなさいよ!……みんな、出て行って!」
取り乱したその声に気圧され、人々は次第にその場を離れていった。
「お父さん、大丈夫?」
震える手で隆太郎に触れようとするが、痛みを与えてしまいそうで、碧は思わず手を止めた。
碧の姿を認めた隆太郎の瞳に、かすかな希望の光が宿る。
「碧……あいつら、安晴くんが死んだなんて言ってるが……嘘だよな?な?」
その言葉に、碧の鼻の奥がツンと痛み、堪えていた涙が溢れ落ちた。
「お父さん……ごめんなさい。全部、私のせいよ……安晴くんを、守れなくて……」
碧は隆太郎の手を強く握りしめ、懺悔するように泣き崩れた。
隆太郎の指先が激しく震え、喉の奥から嗚咽が漏れる。
「碧……安晴くんは……本当に、もういないのか?」
老いた瞳に宿る淡い期待を前に、碧は言葉を失った。
彼女の沈黙がすべてを物語り、隆太郎の瞳から光が、ゆっくりと消えていく。
「そんなはずが……昨日、安晴くんの夢を見たばかりなのに……どうして、急にいなくなっちまうんだ。まだ、たった五歳じゃないか……」
隆太郎の肩が小刻みに震え、絞り出すような泣き声が病室に響いた。
しばらくして、隆太郎は突然、碧の手を強く掴んだ。その瞳には鋭い光が宿っている。
「あの日、俺が拉致されたのは……朗の仕業か?お前に、この件を追及させないために……そうなんだな?」
碧は、どう説明すべきか分からず、その場に立ち尽くした。
すべてを悟った隆太郎は、ベッドから降りようと無理に体を起こす。
「あいつを許さん!警察へ行く。安晴くんの無念を、俺が晴らしてやる!」
碧は慌てて隆太郎を抱きとめた。
「お父さん、無駄よ……今の朗は、やりたい放題なの。安晴くんの解剖結果も書き換えられて、カルテまで偽造された。今はまだ、その時じゃないの……お願いだから、生きて。私にはもう、お父さんしかいないの……」
碧は必死に、声を震わせて訴えた。
「大丈夫だ……必ず、あいつらに報いを受けさせてやるから」
隆太郎をなだめていると、再び電話が鳴った。
着信画面を見た瞬間、碧の睫毛が微かに揺れる。彼女は一度、病室を出た。
朗からだった。
「碧、義父さんの具合はどうだ?」朗の声には、微塵の感情もこもっていない。「かなり取り乱していると聞いた。変なことを口走る前に、しばらく精神病院へ入院させた方がいいんじゃないか」
碧の胸に、怒りの炎が激しく燃え上がった。
「朗……あんた、一体どこまで腐ってるの!?息子を殺しただけじゃ飽き足らず、今度はお父さんまで?……いい、よく聞きなさい。お父さんに何かあったら、私は自分の命と引き換えにしてでも、あんたたちを地獄へ引きずり込むわ!」
そう言い捨て、碧は電話を切った。
振り返ると、いつの間にか隆太郎が背後に立っていた。
心臓が跳ね上がる。
「……お父さん」
「いいんだ、碧。もう大丈夫だ」隆太郎の表情は、異様なほど静まり返っていた。「お前の言う通りにする。無茶はしない。だから一度戻って、安晴くんを……きちんと見送ってやりなさい」
隆太郎が平静を取り戻したのを見て、碧はようやく胸をなで下ろした。
碧が背を向けた、その時。隆太郎は窓の外を見つめ、低く呟いた。
「安晴くん……もう、怖がらなくていい。おじいちゃんが……」
その先は聞こえなかった。だが、息子の名を耳にしただけで、碧の胸は締めつけられるように痛んだ。
一階まで降りたところで、碧はある事実に気づき、全身の震えが止まらなくなった。
先ほど、父は確かに、こう言ったのだ。
「安晴くん、もう怖がらなくてもいい。おじいちゃんが、今すぐそばに行ってやるからな」
碧の心は、一瞬にして恐怖に支配された。よろけながらも、彼女は必死に病室へ引き返す。
その時だった。
ドォォォォン!!
凄まじい衝撃音が響き渡った。
「おい、救急車を呼べ!誰かが、飛び降りたぞ!」
第5話
碧は全身を強張らせ、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、世界は鮮血の色に塗り潰された。
「お父さん――!」
喉が張り裂けんばかりの叫びとともに駆け寄り、碧は血肉にまみれた父の亡骸を抱きしめた。
「置いていかないで……お願い……お父さん……目を開けて、私を見て……」
その時、彼女は父が固く握りしめていた一通の手紙に気づいた。血に染まり、赤黒く変色した紙切れだった。
【碧へ
お父さんは安晴くんのところへ行く。
俺がいなくなれば、お前に後腐れはなくなる。
必ず、安晴くんの無念を晴らしてくれ。朗と舞に、相応の報いを受けさせるんだ。
お父さんは空から、ずっとお前を見守っているからな】
碧は血に濡れた遺書を握りしめ、身を削られるような思いで泣き叫んだ。
一夜にして、最愛の人も、自分を最も愛してくれた人も、すべてを失ったのだ。
「あああああ――!」
耐えきれなくなった彼女は、そのまま意識を失い、崩れ落ちた。
どれほどの時間が経ったのだろう。鼻を刺す消毒液の匂いの中で、碧はゆっくりと目を覚ました。
「碧……やっと目を覚ましたか」
朗の目は赤く充血し、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
彼は碧を抱き寄せ、心底心配そうな声音で言う。
「碧、義父さんのことは不慮の事故だった。遺体を回収して安全な場所へ移そうとしたんだが……どうしてメディアに嗅ぎつけられたのか……」
朗の言い訳を、碧は氷のように冷え切った心で聞いていた。
父の最期の凄惨な光景と、あの遺書。そのすべてが、目の前の男がどれほど卑劣な偽善者であるかを、一刻一秒突きつけてくる。
「碧、辛いのは分かる。でも、お前には俺がいる。俺のためだと思って、強く生きてくれ。な?」
朗は切実な眼差しで碧を見つめてくる。
碧はそっと目を閉じ、拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む痛みで、ようやく理性を保つ。
やがて、彼女はバッグから一束の資料を取り出した。
「……これは何だ?」
朗が訝しげに眉をひそめる。
「郊外の寺院に、安晴くんと父の永代供養墓を設けたいの。手続きに必要な書類にサインをいただけないか」
碧は感情を排した声で答えた。
朗が中身を詳しく確認しようとした、その時だった。電話が鳴る。
『お兄ちゃん……お腹が痛いの。病院まで連れて行ってくれない?』
受話口から、舞の甘ったるい声が流れてきた。
朗の表情に一瞬、緊張が走り、彼は慌てて書類にサインを走らせた。
「待ってろ。すぐ行く」
電話を切ると、朗は書類を碧へと差し出した。
「碧、ここではゆっくり休め。葬儀の手配は、俺が責任を持ってやっておく」
朗は碧の額に軽く口づけを落とし、足早に病室を後にした。
碧は受け取った資料の中から、三枚の書類を静かに抜き取った。
離婚協議書、離婚届……そして、株式譲渡合意書。
そこには、はっきりと「朗」の署名が記されている。
碧はその三枚を写真に撮り、弁護士へ送信した。ほどなく返信が届く。
「承知いたしました。離婚届は本日役所へ提出いたします。受理され次第、婚姻関係は解消されます。株式譲渡についても、順次手続きを進めます」
窓の外を見つめる碧の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように冷え切っていた。
――朗、舞。一か月後、地獄に落ちるのは、あんたたちよ。
翌日の葬儀。舞は、あろうことか真っ赤なワンピース姿で現れた。
彼女は隆太郎の遺体に軽く一礼すると、碧の前まで歩み寄り、まとわりつくような甘い声を出す。
「碧さん……お悔やみ申し上げますぅ」
一連の惨事の元凶とも言える人物を前に、碧は理性が崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、唇を噛みしめた。
それを見た舞は、蔑むように口元を歪め、碧の耳元へ顔を寄せる。二人にしか聞こえない声で囁いた。
「碧さんって、本当にマヌケね。赤の他人を父親だと思い込んで……葬式まで出すなんて」
碧の瞳が、はっと見開かれた。全身が氷の洞窟へ突き落とされたかのような感覚に襲われる。
震える手で、彼女は白布をめくった。
顔立ちは父と瓜二つ。しかし――父が失っていたのは右足だ。目の前の遺体には、左足がなかった。
「この……っ!殺してやる!」
その瞬間、理性は完全に吹き飛んだ。碧は舞に飛びかかり、全力でその首を絞め上げる。
「お父さんの遺体を、どうしたの!答えなさい!」
涙を流しながら、壊れたように叫び続ける。
「碧、やめろ!何の真似だ!」
異変に気づいた朗が駆け寄り、力任せに碧を突き飛ばした。
「碧さん……私は、ただおじさんに最後のお別れを言いに来ただけなのに……どうして、こんなひどいことを……」
舞は朗の背後に身を隠し、真珠のような涙をこぼしながら震えている。
朗の顔は、冷酷そのものだった。
「碧……一体、何の真似だ」
「朗……分かってるの?この女、お父さんの遺体をすり替えたのよ!」
碧は絶望に満ちた眼差しで、朗を訴えた。
一瞬、その視線に朗の眉がわずかに揺れた。
「お兄ちゃん……私、そんなことしてない。私が臆病なの、知ってるでしょ?そんな恐ろしいこと、できるわけない……」
舞は、さらに白々しく嘘を重ねる。
「碧さん……私を罠にはめるために……おじさんの遺体まで利用するなんて……ひどすぎます……ううっ」
どこまでも白を切るその顔を、碧は今すぐ引き裂いてやりたい衝動に駆られた。
近づこうとした彼女の前に、朗が壁のように立ちはだかる。
「碧……いつから、そんなに見苦しい人間になった。自分の父親だろう……最後に一度だけ、警告しておく。これ以上、舞を陥れようとするなら……俺にも考えがある」
吐き捨てるように言うと、朗は冷ややかに碧を一瞥し、舞を庇うように抱き寄せて立ち去った。
白布をめくり、遺体を確かめようとすらしないまま。
去り際、舞は挑発的に碧へウィンクを向けた。
まるで、「ほら見て。あなたの夫が、最初から最後まで信じるのは私だけなのよ」と告げるかのように。
碧は目尻の涙を拭い、朗に対する最後の未練を、完全に断ち切った。
このままでは終われない。
何としても、父の遺体を見つけ出さなければならなかった。
第6話
碧はかろうじて理性の手綱を引き、思考を巡らせた。
舞なら、父の亡骸をどこへ隠すだろうか。
その瞬間、閃光のごとき思考が脳裏を貫いた。
「研究室だ!」
舞の研究室では近頃、人体実験が行われているという黒い噂が立っていた。
碧が研究室へと駆けつけ、扉を蹴り破った瞬間、その身を走る血がことごとく凍てついた。
父の亡骸は巨大なガラスケースの中でホルマリンに浸され、その傍らには、息子・安晴の骨壷が無造作に置かれていたのだ。
あまりの衝撃に碧はごぼりと血を吐き、血走った眼でガラスケースにすがりつく。堰を切ったように大粒の涙が溢れ、止まらなかった。
二人を取り戻そうと、彼女は狂ったように厚いガラスを叩き続けた。
その時、壁一枚を隔てた隣室から、淫らな声が漏れ聞こえてきた。男の荒い息遣いと、女の甘ったるい嬌声。
碧の身体が石のように硬直した。おそるおそる隣室へと歩み寄り、ガラス窓の隙間から中を覗き込んだ。
そこでは、朗と舞が互いの体を貪るように絡み合っていた。
瞬間、全身の血が沸騰し、逆流するような怒りが碧を貫いた。
耐えきれず部屋へ踏み込もうとしたその時、背後から現れた黒ずくめの男二人によって口を塞がれ、床へと組み伏せられた。
舞がこちらに顔を向け、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。声を出さず、唇の動きだけで碧にそう告げたのだ。
「よく見て。あなたの夫は、私のものよ」
朗の腰の動きはさらに激しさを増し、彼はうわ言のように繰り返していた。
「舞……愛してる。ずっと俺が守ってやるからな……」
碧は必死にもがき、嗚咽を漏らしたが、後頭部に走った鈍い衝撃を最後に、ぷつりと意識を失った。
どれほどの時間が経ったのだろうか。不意に浴びせられた冷水に、碧ははっと目を覚ました。
気がつくと、身体は椅子に固く縛り付けられていた。目の前には、朗のものと思しきシャツを無造作に羽織った舞が、愉快そうに碧を見下ろしていた。
「舞……!いったい何を企んでいるの!?ただで済むと思わないで!」
「自分の息子も父親も守れなかった女が、この私に何が出来るっていうの?」
舞はせせら笑うとガラスケースの前へ歩み寄り、安晴の骨壷を玩びながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「舞、安晴くんはまだ子供だったのよ……!どうしてあの子を殺したの!?」
碧は心の底に澱のように沈めていた疑問を、ついに突きつけた。
舞は、侮蔑を隠さない皮肉な視線を碧に向けた。
「どうして?見てはいけないものを見てしまったからよ」
碧の顔がこわばった。あるおぞましい予感が、脳裏を駆け巡った。
「あの子、私とお兄ちゃんの関係に気づいてしまったのよ。あなたに話すって騒ぎ立てるから……仕方なかったじゃない」
舞はさも当然とでも言うように肩をすくめてみせた。
「可哀想にねぇ。あの子、死ぬ間際まで『ママ、助けて!』って叫んでいたわよ。そしてあなたの旦那様は、すぐ隣の部屋で、最愛の息子が息絶えていくのをただ聞いていただけ。あはははは!」
舞の甲高い笑い声が部屋に響き渡った。
あまりにも残酷な真実に、碧は言葉を失い、ただ喘いだ。
「嘘よ……そんなはずない……」
碧はか細い声で呟き、何度も首を横に振って、その現実を振り払おうとした。
「まだ分からないの?」
舞はゆっくりと屈み込み、その指先で乱暴に碧の顎を掴み上げた。
「お兄ちゃんはあなたを愛してなどいないわ。結婚したのは、あなたのお父さんへの恩返しと、この新橋家の資産と人脈を手に入れるため。すべてが手に入った今、あなたたち親子は邪魔なだけなのよ」
碧の瞳から絶望の涙がとめどなく溢れ、唇がわなわなと震えた。
「舞……もう朗はいらないわ。だからお願い、お父さんと安晴の亡骸だけは……返して」
もはやあなたたちには関わりたくない――そう訴える碧の姿に、舞は氷のように冷たい笑みを返した。
「碧さん、あなたが何を考えているかなんてお見通しよ。黙って身を引いて、お兄ちゃんの後悔を誘い、気を引こうという魂胆でしょう?……甘いわね!」
言うが早いか、舞は部屋の隅にあった木の棒を手に取ると、狂ったようにガラスケースを叩き割り始めた。
「舞、何をするの!?やめて!」
ひとしきり暴れて満足したのか、舞は傍らのアルコールランプを手に取った。そして悪魔のような微笑を浮かべると、碧の耳元で囁いた。
「ねえ、もしここが火事になったら、お兄ちゃんはどちらを助けると思う?」
碧が答える暇もなく、舞はアルコールランプを床に叩きつけた。
青い炎は瞬く間に燃え広がり、業火となって床を舐めた。
「舞、正気なの?!」
燃え盛る炎の中で、舞は部屋の隅にうずくまると、芝居がかった仕草でカウントダウンを始めた。
「三、二……」
「舞!どこだ!」
朗の焦燥に満ちた叫び声が響いた。
駆け込んできた彼は周囲を見渡し、椅子に縛られた碧の姿を認めると、驚愕に目を見開いた。
「碧、どうしてここに?」
朗が碧のもとへ歩み寄ろうとした、まさにその時だった。
「お兄ちゃん、助けて……」
舞がか細く、子猫のような声で助けを求めた。「痛い……助けて、お兄ちゃん!」
朗の足がぴたりと止まった。その顔に、一瞬、葛藤の色がよぎる。
だが、彼は結局――舞のもとへと駆け寄った。
「怖がるな、舞!今すぐ助け出してやる!」
朗は舞を腕に抱き上げると、出口へと走り出した。碧の横を通り過ぎる刹那、その顔に一瞬だけ、後ろめたさのようなものが浮かんだ。
「碧、舞は身体が弱いんだ。先に彼女を助けるが、すぐに戻ってくるからな!」
そう言い捨て、二人の姿は炎の向こうへと消えた。
火勢はいや増しに激しくなり、黒い煙が天井に渦を巻いた。
熱が皮膚を焼き、全身が悲鳴をあげていた。喉に絡みつく黒煙のせいで、目を開けていることすらままならない。
遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、碧の心は、音もなく完全に死んだ。
――もしこのまま炎に焼かれて死ぬのなら、怨霊と化してでも、夜ごと二人の枕元に立ち、必ずや呪い殺してくれる。
――もし、もしも生き延びることができたなら……あの二人には、この苦しみを何百倍にもして返してやる!
全身を苛む激痛と、魂を蝕む絶望のなかで、碧の意識はゆっくりと闇の底へと沈んでいった。
第7話
どれほどの時間が経ったのだろう。碧は鼻を刺す消毒液の匂いの中で、ゆっくりと意識を取り戻した。
まぶたを開いた瞬間、全身を焼き尽くすような激痛が襲い、火の海からかろうじて生き延びたという現実を突きつけられた。
皮膚は水膨れと火傷の痕で覆われ、左手の三本の指は熱で歪み、息をするたびに肺の奥が鋭く刺すように痛んだ。
「新橋さん……ようやく意識が戻られましたか」
医師が向けてくる眼差しには、隠しきれない同情が滲んでいる。
喉が焼けるように痛み、碧は掠れた声で、ようやく言葉を絞り出した。
「どうして……私は、ここに……?」
「消防隊が、火災現場からあなたを救出しました」
医師は一度言葉を切り、沈痛な表情で続ける。
「ですが、お父様のご遺体は損傷が激しく、監察医による検案を経て、後に遺骨としてお返しすることになります。鎮火後に確認できたのは……お父様と息子さんの、主に遺骨の状態でございました」
その言葉と同時に、碧は枕元に置かれた大小二つの白い骨壺に気づいた。
痛む体を無理に起こし、包帯で何重にも巻かれた手で二つの骨壺を抱き寄せる。そして、壊れ物に触れるように、そっと撫でた。
「お父さん……安晴くん……怖くないよ……もう、怖くないからね……」
碧は全身の激痛を押し殺し、ベッドから降りた。
二人の遺骨を、きちんと墓地へ埋葬するために。
「碧、大丈夫か!」
朗が慌ただしく病室へ飛び込んできた。眉間には、わずかながらも申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「すまない、碧。本当は、火の中に戻って助けるつもりだったんだ。でも、火勢があまりにも強くて……周りに止められてしまって……」
彼は一拍置くと、唐突に責め立てるような口調へと変わった。
「だが、いくらなんでも、火を放って舞と無理心中を図るなんて……無茶にも程があるだろう!」
碧は、かすかな嘲笑を浮かべた。
なるほど――彼は、私が舞を殺すために火をつけたと、本気で信じているらしい。
息子の死の真相。父が死の直前に遺した血染めの手紙。
それらを思い出すたび、胸が引き裂かれるように痛み、もはや朗の顔を直視することすら耐え難かった。
碧は何も答えず、ただ黙々と出口へ向かって歩き出した。
「どこへ行くんだ。俺も行く」
沈黙を貫く碧に焦りを覚えたのか、朗は強引に彼女の腕を掴んだ。
「……離して」
碧は氷のように冷たい声で言い放った。その瞳には、もはや夫を慈しむような光はなく、赤の他人を見るような冷淡さだけが宿っていた。
「碧さん……お体は、大丈夫ですか?」
二人が言い争っていると、入院着姿の舞が、青ざめた顔で病室の入り口に現れた。
首にはガーゼ、手首にも包帯が巻かれている。
苦肉の策として、自らつけた傷だ。ただのかすり傷に過ぎない、ごく浅いもの。
「碧さんが一時の気の迷いで、あんなことをしたって……分かってます。大丈夫です。私は、碧さんを恨んだりしませんから」
吐き気を催すほど、偽善に満ちた声音だった。
碧はその厚顔無恥な女を見つめ、ただ強烈な不快感だけを覚えた。
「……消えなさい」
思いもよらぬ碧の冷徹な反応に、舞の顔が一瞬で引きつった。
それを見た朗の表情も険しくなる。
「碧、お前のせいで舞が怪我をしたというのに、彼女は水に流そうとしているんだぞ。どうして、そんなに理不尽なんだ!」
碧は鼻で笑った。
「朗……あんた、本当に……救いようのない馬鹿ね」
面目を潰された朗がさらに怒鳴ろうとしたが、碧は背を向け、そのまま歩き去った。
あまりにも痩せ細ったその後ろ姿に、朗の胸を一瞬、鋭い痛みが貫いた。
病院の出口に辿り着くと、外は激しい豪雨だった。
どれだけ待ってもタクシーは捕まらない。
その時、一台の黒いマイバッハが、音もなく目の前に停まった。
「碧さん、乗ってください。一緒にお墓まで行きましょう」
助手席から舞が声をかけてくる。その瞳の奥では、どす黒い憎悪が渦を巻いていた。
碧は二人を一瞥したが、何の反応も示さなかった。
朗が車を降り、碧に詰め寄る。
「この雨じゃ、タクシーなんて来ない。送らせてくれ。安晴くんと、お義父さんの遺骨を……早く供養してやりたいだろう?」
碧の睫毛がわずかに震えた。
葛藤の末、彼女は静かに車へ乗り込んだ。
車内の空気は、息が詰まりそうなほど重い。珍しく、舞も一言も発しない。
碧は窓を激しく叩く雨粒を見つめ、そっと目を閉じた。車内は、不気味な沈黙に包まれていった。
「危ない!!」
突如、助手席の舞が悲鳴を上げた。
碧が目を開けようとした、その瞬間――
ドォォォォン!!
凄まじい衝撃音とともに、制御を失ったトラックが、マイバッハへ激しく突っ込んできた。
第8話
マイバッハは凄まじい衝撃を受け、無惨にも横転した。
天地が反転するかのような激震ののち、碧はようやく微かな意識を取り戻した。
ドアを開けようと手を伸ばしたものの、ひしゃげた車体はびくともしない。身体は座席の下敷きとなり、押し潰されるように拘束されて、身動きひとつ取れなかった。
「舞!大丈夫か!」
常に冷静沈着だったはずの朗が、血相を変えて叫んでいた。額から血を流したまま、それを拭う余裕すらなく、必死に助手席へと這い寄っていく。
碧は、これほどまでに取り乱した朗を、これまで一度も見たことがなかった。
彼は血に染まることも厭わず、拳で何度も何度も窓ガラスを叩き割る。その瞳には、かけがえのないものを失ってしまうかもしれないという、剥き出しの恐怖が宿っていた。
アスファルトにガソリンが滴り落ちる音が聞こえた。死神の足音のようなその音に急き立てられ、朗の動きはいっそう激しさを増した。
「舞、しっかりしろ……死ぬな……」
碧は、かすかに、苦い笑みを浮かべた。
朗に助けを求める希望など、とうの昔に捨てている。
脂汗を流しながら、碧は自力で脱出しようともがき続けた。激痛が全身を貫いても、唇を噛み締め、決して声を漏らさなかった。
そのとき、朗が舞を救い出し、安全な場所へ抱きかかえて運んでいくのが見えた。彼の表情は、大切な人を救い上げた安堵に満ちている。
碧もまた、身体の半分をどうにか車外へ引きずり出していた。
あと少しで逃げ切れる――そう思った刹那、車内の片隅に置かれた、父と息子の骨壺が視界に入った。
鼻を突くガソリンの臭い。
だめだ。二人の遺骨を、ここに置き去りにするわけにはいかない。
碧は奥歯を強く噛み締め、骨壺を掴もうと再び車内へ身を乗り出した。その瞬間、腕を強い力で掴まれた。
「碧、爆発するぞ!早く来い!」
朗は碧を乱暴に引き寄せ、路肩の方へと引きずった。
「嫌!お父さんと安晴くんが、まだ中にいるの!朗、離して!」
碧は狂ったように抵抗したが、朗の力には到底抗えず、なすすべもなく連れ去られた。
二人が安全圏へと辿り着いた、その瞬間だった。
ドォォォォン!!
凄まじい爆発音が轟き、火柱が夜空へと突き上がった。
「嫌だあああ―――っ!!」
碧は真っ赤に充血した目で、胸を引き裂かれるような絶望の叫びを上げた。
爆発の衝撃に耐えきれず、碧の意識はそのまま闇へと沈んでいった。
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朦朧とする意識の底で、碧は朗と医師の会話を途切れ途切れに耳にした。
「舞さんの臓器には深刻な損傷があります。腎破裂を起こしており、一刻も早く適合するドナーを見つけ、移植手術を行う必要があります」
重苦しい沈黙ののち、朗が口を開いた。
「碧の血液型は舞と同じだ。彼女が眠っている間に検査をしろ。適合するなら、碧の腎臓を舞に移植する」
その言葉を聞いた瞬間、碧の心臓は、見えない手で握り潰されたかのような衝撃を受けた。
「ですが……奥様も現在、命に関わる状態です。本当に今、移植手術を強行なさるおつもりですか?」
医師が恐る恐る問いかける。
数秒の沈黙のあと、冷え切った声が響いた。
「ああ。舞は一刻を争う。彼女には時間がない。碧の方は……昔から体が丈夫だ。きっと乗り越えてくれると信じている」
碧は悔しさに耐えきれず、目を開けて朗を激しく問い詰めようとした。
しかし次の瞬間、静脈に麻酔薬が注入され、意識は再び深い闇へと引きずり込まれた。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。碧は、ゆっくりと目を覚ました。
無意識のうちに腹部へ手を伸ばした。幾重にも巻かれたガーゼの感触が伝わってきた。
そっと押してみると、そこには生々しい手術の痕があり、同時に刺すような激痛が走り、碧は思わず呻いた。
確信した。
自分は――ひとつの腎臓を、失ったのだ。
第9話
息子と父の遺骨すら、守りきることができなかった。
底の見えない無力感と挫折感が、重く碧を包み込んでいた。彼女は壊れた人形のように、生気の失せた虚ろな瞳で、ただ天井を見つめていた。
朗が病室のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、命の気配すら感じられない碧の姿だった。
その刹那、胸の奥が奇妙に疼き、言葉にできない後ろめたさが込み上げてくる。
「碧、気がついたか?」
彼は保温容器を手にベッド脇へ歩み寄り、できるだけ柔らかな声を作った。
「俺が作った栄養食だ。熱いうちに食べてくれ」
碧は、何の反応も示さなかった。
それでも朗は、彼女をそっと腕に抱き寄せ、少しずつスプーンを運んで栄養食を口に含ませた。
それからの日々、朗は罪滅ぼしのつもりなのか、朝から晩まで片時も離れず碧に付き添い、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
体を拭き、食事を促し、薬を塗り、夜になれば碧の手を固く握ったまま、その傍らで眠る。
だが、碧の心に波紋が広がることはなかった。
碧は操り人形のように、朗のなすがままになっていた。食べる、薬を塗られる、眠る――あまりにも従順だった。
その従順さを見て、朗は、碧が自分を許したのだと勝手に思い込んだ。
退院の日、碧のもとに弁護士から電話が入った。
「碧さん、先日ご提出いただいた離婚届は、本日正式に受理されました。これにより、法的に婚姻関係は解消されています」
死んだ魚のようだった碧の瞳に、ようやくかすかな光が宿った。
彼女は株式譲渡合意書を写真に収め、あの男へと送信した。
一分も経たないうちに、電話が鳴った。
「準備は整いました。すぐにお迎えの者を向かわせます」
碧が退院の支度をしていると、朗が姿を現した。
パリッとしたスーツに身を包み、かつて碧が愛したひまわりの花束を抱えている。退院祝いのつもりなのだろう。
周囲の人々は、献身的な夫の姿に感嘆と羨望の視線を向けた。
だが碧は、冷ややかな一瞥をくれただけで、黙々と荷物をまとめ続けた。
弁護士との約束の時間が迫っている。何としても、朗をここから引き離さなければならない。
朗は碧の冷淡さに、拭いきれない不安を覚えた。
彼が口を開こうとした、その瞬間だった。携帯電話が鋭く鳴り響く。
「社長、大変です!舞さんが『お兄ちゃんに無視された』って騒いでと取り乱し、屋上から飛び降りると言ってきかないんです!早く来てください!」
朗の表情が一気に強張る。背を向けて駆け出そうとしたが、ふと碧の存在を思い出し、足を止めた。
「碧、舞が……」
「行って。私はもう大丈夫だから」
長い沈黙を破り、碧は初めて朗に言葉を向けた。
その一言に、朗の胸は大きく揺さぶられた。
「碧……やっぱりお前は優しいな。俺はあっちへ行くが、すぐに運転手を寄越す。今夜は家族水入らずで、退院祝いのご馳走を食べよう」
そう言い残し、彼は慌ただしく病室を後にした。
碧は、冷たく口元を歪めた。
――私の家族は、もう誰もいない。
いったい、何を祝うというのだろう。
碧は病院の裏門へと向かった。角には、一台のロールスロイスが静かに停まっている。
「碧さん、お久しぶりです」
ゆっくりと窓が下がり、息を呑むほど端正な顔立ちの男が姿を見せた。綾小路辰巳(あやのこうじ たつみ)だった。
碧は一瞬の迷いもなく、車内へと乗り込んだ。
「さて、どうしましょうか」
辰巳は銀色のライターを弄びながら、楽しげに問いかける。
「証拠はすべて揃っています。小野寺兄妹を、今すぐ刑務所送りにすることも可能ですよ」
碧は、淡い笑みを浮かべた。
「そんな程度では、あの二人には生ぬるすぎるわ」
静かに、しかし確かな声音で言う。
「じっくりと……遊んであげないと」
その瞳の奥では、どす黒い殺意が、静かに渦を巻いていた。