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略奪女に夫を譲ったら、今更執着された
どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。 転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助け...
Chương (1)
第1章
どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。
転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助けたこと。
大怪我を負った彼が手にしたのは、加害者の男からの莫大な示談金——
その金を元手に、私たちは地を這う生活から抜け出し、上流階級へと駆け上がった。
すべてが報われるはずの結婚式。
あの時、彼が命懸けで救った女の子が現れ、式を台無しにした。
追い出そうとする警備員を制したのは、新郎である彼自身だった。
式は続行された。けれど私は見てしまった。
彼の視線が、客席で涙を浮かべる彼女に、ずっと囚われたままだったことを。
結婚から五年。
数えきれないほどの「離婚してくれ」を飲み込んできた。
そして最後の一回。
私は、その言葉に頷いた。
第1話
どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。
転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助けたこと。
大怪我を負った彼が手にしたのは、加害者の男からの莫大な示談金——
その金を元手に、私たちは地を這う生活から抜け出し、上流階級へと駆け上がった。
すべてが報われるはずの結婚式。
あの時、彼が命懸けで救った女の子が現れ、式を台無しにした。
追い出そうとする警備員を制したのは、新郎である彼自身だった。
式は続行された。けれど私は見てしまった。
彼の視線が、客席で涙を浮かべる彼女に、ずっと囚われたままだったことを。
結婚から五年。
数えきれないほどの「離婚してくれ」を飲み込んできた。
そして最後の一回。
私は、その言葉に頷いた。
……
大晦日の夜。スマートフォンの画面を埋め尽くすLINEの緑色の吹き出しを眺め、確信した。今夜、紀藤紀一(きとう きいち)は帰ってこない。
「苦労している男を支えて一緒に起業するなんて、女として一番愚かな選択だ」
かつて周囲が口を揃えて忠告してきた言葉が、今さら呪いのように脳裏をよぎる。
紀一だけは例外だと信じていた。けれど時間の流れという残酷な洗礼は、彼をも「どこにでもいる、恩を忘れた男」へと変え、世間の俗説を証明する新たなサンプルに仕立て上げてしまった。
私・紀藤志乃(きとう しの)は、友達リストから紀一のアカウントを削除した。
迷いはなかった。そのまま、何日も前からリビングのテーブルに放置されていた離婚届にペンを走らせる。
最後の一文字を書き終えた、その時だった。
玄関のドアが開く、重苦しい音が響いた。
顔を上げると、そこには紀一と、その腕に親しげに絡みつく白河澪(しらかわ みお)の姿があった。
五年前、彼が身を挺して守ったあの子。あの日を境に、紀一はまるで別人のようになってしまった。
私を労る言葉もなくなり、視線さえ交わさなくなった。
かつて、澪が「自分の居場所が欲しい」と泣いて縋った時、彼は目を血走らせてこう言い放ったという。
「俺が志乃と結婚したのは、入院中に献身的に支えてくれた恩があるからだ。一緒にこの資産を築き上げてきたっていう情もある。……それさえなければ、あんな女、妻にするはずがないだろう」
何人もの伝言ゲームを経て私の耳に届いたその言葉は、彼自身の本音に違いない。
夫の心の内を最後に知ったのが、他ならぬ妻である私だったというのは、滑稽ですらある。
だから、今朝また彼が離婚を切り出してきた時、私は、ようやく頷いたのだ。
紀一は当たり前のような仕草で腰をかがめると、靴箱からふわふわした毛織のレディーススリッパを取り出し、澪の足元に揃えた。
澪はその細い手を自然に彼の腰へと回し、身を預けるようにして靴を脱ぐ。その姿は、私よりもずっと「家族」としての体裁をなしていた。
透明人間として扱われることには慣れていたはずなのに、その光景は今もなお、鋭い棘となって私の胸を突き刺す。
私は深く息を吸い込み、彼を呼び止めた。
「紀一、話があるの」
彼は私の声など聞こえていないかのように、手元の動作を止めようともしない。
代わりに反応したのは、隣にいた澪だった。彼女は勝ち誇ったような笑みを私に向けると、わざとらしく照れたように彼の肩を小突いた。
「紀一さん、志乃さんが待ってるわよ」
そこでようやく、彼は視線の端で私を捉えた。
先ほどまで彼女に向けていた柔らかな情愛は跡形もなく消え去り、そこにあるのは突き放すような冷徹さだけだ。
「……何だ、藪から棒に」
背後に佇む澪に目を向け、私は視線を伏せた。
「二人だけで、話したいの」
「今さら何を隠す必要がある?澪は他人じゃない」
苛立ちを隠そうともせず、彼は私の言葉を遮った。
その言葉を聞いた澪は、頬を朱に染めて「もう、紀一さんったら」と甘えるように彼の腕を叩く。
これ以上、二人の安っぽい芝居に付き合うつもりはなかった。私はただ、テーブルの上に置いてあった離婚届を、彼の前へと静かに押し出した。
その動きを見た瞬間、彼は不快そうに眉を寄せた。
「いい加減にしろ。またその手口か?」
一瞬、言葉の意味を測りかねて硬直したが、すぐに思い当たった。先月のことだ。
結婚記念日の当日、私は彼のSNSに投稿された写真を見た。海外の離島でバカンスを楽しんでいるようだった。
レンズの向こうで澪と笑い合う彼の表情は、私との結婚生活では一度も見せたことのないほど、眩しく輝いていた。
だから、私はあてつけのように彼へメッセージを送ったのだ。――「離婚に同意する」と。
彼は天にも昇るほどの喜びようだった。その言葉の真偽を疑うことすら忘れ、その日のうちに海外から飛行機で飛んで帰ってきた。
そして家に入るなり、弁護士に作成させた離婚届を私の目の前に叩きつけたのだ。
私は自嘲気味な笑みを浮かべ、静かに告げた。
「今回は本気よ。紀一、私たち、これで終わりにしましょう」
紀一はその場に立ち尽くしたまま動こうとしない。抜け目のないその瞳が、私の本心を見透かそうとするかのように執拗に注がれる。
沈黙を破ったのは澪だった。彼女は数歩前へ出ると、テーブルの上の書類を手に取り、隅々まで眺め始めた。
「……あれ?どうして財産分与が折半になっているんですか?」
彼女は書類の一箇所を指差し、不満げに首をかしげる。
「私の記憶が確かなら、志乃さんは結婚してから一度も会社の経営には関わっていないはずですよね?」
あまりにも分をわきまえない振る舞い。それを平然と許している紀一の姿を見て、私の心はこれ以上ないほど冷え切っていった。
「夫婦の問題に、いつから部外者が口を出すようになったのかしら」
冷徹な響きを隠そうともせず私が言い放つと、澪はすぐさま傷ついた顔をして書類を置いた。その瞳には、見る間に涙が溜まっていく。
「私はただ、疑問に思っただけで……悪気なんてなかったんです。志乃さんをそんなに怒らせてしまうなんて……」
紀一は、澪の涙に滅法弱い。彼はすぐさま彼女を愛おしそうに抱き寄せると、私を激しい口調でなじり始めた。
「志乃、いい加減にしろ!何を血迷っているんだ。
彼女は素朴な疑問を口にしただけだろう。そこまで悪し様に言う必要があるのか?」
言い返そうとした。けれど、目の前で色をなして怒る紀一を見ていると、喉の奥に何かがつかえたようになり、言葉が一つも出てこない。
必死に彼女を庇うその形相を見ているうちに、ふと、澪に出会う前の彼を思い出した。
あの頃の彼は、私が料理中に少し指を切っただけで、数日間も自分のことのように心を痛めてくれる人だった。
分かっている。その献身も愛情も、消えてなくなったわけじゃない。ただ、向ける相手が私から別の誰かに変わっただけなのだ。
一体、どこで、何を見誤ってしまったのだろう。かつて安アパートで身を寄せ合っていた私たちが、どうしてこんな結末を迎えてしまったのか。
私は思考を遮り、テーブルの上の離婚届を彼へと差し出した。
「これまでの年月、あなたを支えて一緒に戦ってきた自負はあるわ。この財産分与は、私の権利として妥当なはずよ」
紀一は苛立ちを隠そうともせず、私の手にある書類を乱暴に払いのけた。
「今日はそんな話をするつもりはない」
その言葉に、彼の腕に抱かれていた澪の表情が瞬時に曇る。
第2話
澪は不満げに唇を尖らせ、縋るような声を上げた。
「どうして?彼女も署名したんでしょう?ずっとあなたが望んでいたことじゃない」
そうだ。これこそが、彼が切望していた結末ではなかったのか。
それなのに、なぜ今さら話し合いを避ける必要がある?
紀一は彼女を見つめ、溢れんばかりの甘い声で宥めた。
「俺たちが何のために帰ってきたか、忘れたのかい?」
澪はこくりと頷き、「忘れてないわ。……早く行ってきて」と彼を促した。
階段を上がっていく紀一の背中を見送りながら、彼らがここへ寄った理由を悟った。
どうせ、海外旅行にでも行くためのパスポートを取りに来たのだろう。
去年と同じだ。
けれど今回は、この広い屋敷で独り、帰りを待つだけの私ではない。
紀一の姿が見えなくなると、澪はテーブルに並んだ料理と私を交互に眺め、嘲るような笑みを浮かべた。先ほどまでの「守ってあげたくなるような弱々しい女の子」の面影は、微塵も残っていない。
「志乃さん、本当にごめんなさいね。紀一さんが、どうしても私を海外に連れて行きたいって聞かなくて。
断るのも悪いでしょう?
そういえば、あなたとは結婚してから一度も旅行なんて行ってないんですってね」
私が黙殺していると、彼女はこれ見よがしに左手をかざし、食指に輝く指輪を自慢げに見せつけてきた。
「このリングも、紀一さんからの贈り物なんです。別に欲しくないって言ったのに、どうしてもって……これほどのサイズの翡翠、市場にも滅多に出回らないんですって」
幼稚で執拗な誇示に、胸の奥からどす黒い不快感がせり上がってくる。
私は彼女の言葉を強引に遮り、隠しきれない嘲笑を込めて言い放った。
「ええ、そうね。恩人を仇で返すような人間なんて、世の中にそう何人もいないもの。あなたのその無神経さには感服するわ」
彼女の顔が屈辱で赤らんだり青ざめたりするのを見て、胸の内に溜まっていた鬱憤がいくらか晴れるのを感じた。
けれど、そのささやかな快感も長くは続かなかった。階段の方から、紀一の怒声が響き渡ったからだ。
「志乃、いい加減にしろ!」
言葉が終わるより早く、紀一は階段を駆け下りて私の前に立ちはだかり、澪を庇うように背後に隠した。
「彼女をいじめるなと何度言えばわかるんだ。言葉も通じないのか?
少し目を離した隙に、またこれか!」
冷徹な面持ちには、隠しきれない怒りが滲んでいる。
「いじめているように見えるの?私はただ、事実を言っただけよ」
私が反論しようと口を開くと、澪は彼の袖をそっと引き、いかにも物分かりの良いふりをして見せた。
「紀一さん、私は大丈夫。……行こう?遅れると飛行機に間に合わなくなっちゃう」
そう言いながら、彼女は勝ち誇ったような挑発的な視線を私に投げかけてくる。――「あなたが何を言っても、彼は信じないわよ」とでも言いたげに。
ようやく毒気が抜けたのか、二人は指を絡め合わせるようにして玄関へと向かった。
閉まりかけたドアの隙間から、澪の不満げな声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、どうしてサインしなかったの?彼女がやっぱり離婚しないなんて言い出したら、困るじゃない」
それに答える紀一の声も、はっきりと聞こえた。
「いい子だ、今は忘れて。今日は大晦日なんだ、そんな縁起でもない話はやめよう」
閉ざされた扉を見つめながら、私は拭い去れない口惜しさを噛み締めていた。
何もなかった私たちが、湯水のごとく金を使える地位に登り詰めるまで、七年の月日を費やした。
その間、彼は「体を休めてくれ」と甘い言葉を並べて私を遠ざけ、会社の全権を一身に担ってきた。
そうやって、実のところ私の影響力を少しずつ削ぎ、骨抜きにしていったのだ。今の私は、ただの肩書きだけの空っぽな名義人に過ぎない。
会社の経営には、もう指一本触れさせてもらえない。
これこそが、私が頑なに離婚を拒んできた理由だった。
「苦労して耕した畑の収穫だけを、後から来た泥棒に横取りさせる」なんて、私の人生でそんな都合の良い話は許さない。
もし紀一が、何が何でもあの女に美味しい思いをさせたいと言うのなら――私は持てる限りの力を尽くして、その実りごと畑を焼き払ってやる。
翌朝、私は高平市行きの始発便を予約し、空港へと向かった。
以前からずっと、ここを旅してみたいと思っていたのだ。
若かりし頃はお金がなく、ようやく余裕ができた頃には、そばにいてほしい人はもういなかった。
私は雪山の麓に部屋を借りた。晴れた日には、窓から雄大な山脈を一望できる。
大家の瀬戸口航(せとぐち わたる)は私と同年代の男性で、物腰が柔らかく、言葉の端々にいつも穏やかな笑みを浮かべている人だった。
彼の所有する物件はどれも人里離れた場所にあり、今はオフシーズンということもあって、借り手は私一人だけだった。
雪山に登りたいのだと伝えると、彼は「近いうちにひどい吹雪になるから、登山道はすべて閉鎖されましたよ」と教えてくれた。
天候が安定するまでは、一歩も立ち入れないらしい。
この半年の間、登頂することだけを楽しみに準備を重ねてきた私は、目に見えて落胆した。
そんな私を察したのか、彼は言葉を添えた。
「もしお急ぎでないなら、しばらくここに滞在されるといい。このあたりは雪山以外にも、見どころはたくさんありますから」
急ぐ理由なんて、どこにもなかった。会社の心配をする必要もなく、夫は別の女とどこかへ消えたのだから。
滞在初日の夜、私は彼と軒先に立ち、音もなく降り積もる雪を二人で眺めて過ごした。
少し迷ったが、私は彼に「腕の良い山岳ガイドを紹介してほしい」と頼んでみた。多少値が張っても構わない、と。
彼は考え込むように頷くと、スマートフォンの連絡先を辿り始めた。
その時、ポケットの中で私の端末が震えた。
取り出してみると、通信キャリアからの料金未払いを知らせる通知だった。
支払いを済ませた直後、立て続けに三通のメッセージが画面に躍り出た。
紀一からだった。
【どうしてLINEを消した?】
【書斎の引き出しに黒いファイルがあるはずだ。中身を写真に撮って送れ】
【おい、見ているんだろう。無視するな】
第3話
私はその三通のメッセージを、読み返すことなく削除した。
視界に入れなければ、苛立つこともない。
ついでに、彼の電話番号も着信拒否に設定した。
高平市に腰を据えて半月が過ぎた頃、ようやく登山道が開放される日がやってきた。
この半月の間、航は頼みもしないのに私の専属ガイドを買って出て、高平市はおろか周辺の観光スポットまで余すところなく案内してくれた。
さすがに申し訳なく思い、ガイド料を支払いたいと申し出たのだが、彼はただ静かに首を振って受け取ろうとしない。
彼は紳士だった。
いや、紳士という言葉だけでは、彼を形容するには不十分かもしれない。
男という生き物が持ち合わせる欠点をすべて濾過したかのような、穏やかで礼儀正しい振る舞い。それは、世の女性なら誰もが一度は夢見る、理想の伴侶そのものだった。
いよいよ登頂へ挑む前夜のことだ。
航からは、未だに山岳ガイドの紹介がない。
私たちはいつものようにリビングで、テレビのバラエティ番組をBGMに夕食を囲んでいた。
痺れを切らした私は、箸を止めて切り出した。
「ねえ、お願いしてたガイドさんの件なんだけど……」
すると航は、どこに隠し持っていたのか、二冊の公認ガイド資格証をテーブルに滑らせた。そして部屋の隅に積まれた装備に視線をやり、さらりと言った。
「明日のガイドは、僕が務めるよ」
その言葉が落ちた瞬間、表で呼び鈴が鳴った。
航は箸を置いて立ち上がり、玄関へ向かう。扉が開くと、賑やかな男たちの声と共に、数人の集団が雪崩れ込んできた。
その騒がしい輪の中心には、二人の男女が守られるように立っている。
人垣の中の二人を認めた瞬間、フライドチキンにかぶりついていた私は、その格好のまま凍りついた。
紀一と、澪だ。
なぜ、こんなところに?
私と目が合った瞬間、澪の瞳が大きく揺れた。コートの裾を握りしめる指先が白くなる。
「志乃さん……?どうしてここに?」
紀一もまた、虚を突かれたように立ち尽くしていた。
だが次の瞬間、心の底に澱んでいた感情が一気に顔へ昇ったようだ。
無言のまま私を射抜く視線には、殺意すら滲んでいる。口元には冷笑を浮かべているものの、その顔色は隠しようもなく強張っていた。
私は組んだ足を解くこともなく、食べかけのチキンをボウルに戻した。
そして、さも心当たりがないといった風情で、きょとんと小首を傾げてみせる。
「……どなたですか?」
航が、集団の中の一人に視線を向け、不思議そうに問いかけた。
「裕也、どういうつもりだ?」
紀一の傍らに立っていた男――沢渡裕也(さわたり ゆうや)が、気まずそうに咳払いをする。
「いやあ、俺らもガイドの依頼が入ってさ。こっちの二人のな。
で、航さんも最近客をとったって聞いたから、どうせなら一緒に登ろうぜって話になってよ」
取り巻きの男たちも、口々に調子のいいことを言う。
「そうそう。航さんのルートについて行きゃあ、登頂率は百発百中だからな」
彼らの口ぶりから、航の率いるチームの登頂率が極めて高いことは疑いようがなかった。
私はひとつ息を吐き、張り詰めていた神経を緩めた。
それにしても、と私は二人の背後に控える男たちを見回し、呆れ半分で口を開いた。
「たった二人の客に、ガイドが六人も必要なわけ?」
紀一が口を開くより先に、澪が得意げに言葉を挟んできた。
「だって、紀一さんが心配性なんですもの。私の身に何かあったら大変だからって、万全を期してくれたのよ」
澪は甘ったるい声で続ける。
「それに見て、この荷物の量。誰かに持ってもらわないと困るでしょう?」
澪は幸せに酔いしれた顔で紀一の肩に凭れかかっている。だが彼女は気づいていない。紀一の視線が、最初から最後まで私だけに釘付けになっていることに。
……まあいい。彼にとって澪は、これだけ大金と手間をかける価値のある女なのだろう。
私は「勝手にすれば」とばかりに軽く頷いた。以前のように、彼の振る舞いにいちいち心を痛めるような私では、もうない。
その夜。部屋で装備のパッキングをしていると、控えめなノックの音が響いた。
ドアを開けると、そこには柔らかな笑みを浮かべた航が立っていた。
「これ、装備に入っていなかったみたいだから」
彼は手に持っていたレインウェアを差し出した。
「山の天気は変わりやすいからね。雨具は必需品だよ」
初歩的なミスに顔が熱くなる。それと同時に、私の装備まで細かくチェックしてくれていた彼の心遣いに、胸が温かくなった。
「ありがとう、本当に助かるわ」
航が立ち去って間もなく、再びノックの音がした。
また航が何か伝え忘れたのかと思い、無防備にドアを開けた私は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、航ではなく紀一だったからだ。
私は反射的に顔を強張らせ、ドアを閉めようとした。
だが、紀一は革靴の爪先と膝を強引に隙間へねじ込み、強引に押し入ってくる。彼はそのまま後ろ手で鍵をかけた。
狭まる距離に恐怖を感じ、後退りしようとした瞬間だった。
ドン、と強い力で肩を突き飛ばされる。足をもつれさせた私の背中が、壁に激突して鈍い音を立てた。
逃げ場を失った私の両肩を、紀一の両手が万力のように掴んで壁に縫い止める。
目の前に迫る彼の瞳は暗く澱み、殺気立った表情が視界を埋め尽くした。
「半月だぞ。半月も音信不通で、家にもいない。LINEはブロック、メールは無視、電話をかけても着信拒否……」
ギリ、と歯噛みする音が聞こえそうなほど低い声で、彼は私を詰問する。
「その挙句がこれか?どこの馬の骨とも知れない男と同棲して、仲良く食卓を囲んでるだと?」
彼の指が私の肩に食い込む。
「次はどうするつもりだ?風呂も一緒か?それとも、もう寝たのか?
おい志乃、お前自分が既婚者だってこと忘れてるんじゃないだろうな」