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夢の中で枯れた薔薇
「本当にすべての個人情報を抹消してよろしいですか?処理が完了すれば、あなたはこの世界から完全に消え、記録からも存在が消えます」
Chương (1)
第1章
「本当にすべての個人情報を抹消してよろしいですか?処理が完了すれば、あなたはこの世界から完全に消え、記録からも存在が消えます」
第1話
「本当にすべての個人情報を抹消してよろしいですか?処理が完了すれば、あなたはこの世界から完全に消え、記録からも存在が消えます」
……
一人の若い女性が、申請書類を手にしてやって来た。その内容が「身分情報の抹消」だと知った瞬間、窓口の職員は驚きで目を丸くした。
「はい、お願いします」
彼女――朝倉ゆい(あさくら ゆい)は、やわらかながらも揺るぎない声で答えた。
返事を聞いて、職員は資料を受け取り、スタンプを一つ押した。
「手続きには十五日前後かかりますので、お待ちください」
彼女はそれ以上何も言わず、そのまま庁舎をあとにした。外へ出てすぐ、スマホを操作し始め、ほどなくして航空会社からの「航空券購入完了」のメッセージが届いた。
全てを終えてから、ゆいはタクシーを拾って別荘へ向かった。
車は静かに住宅街へと入っていき、やがてタクシーがこれ以上進めなくなった。ここから先は、朝倉誠士(あさくら せいじ)の住む別荘まで歩いていくしかない。
数分も歩かないうちに、彼女の視線は道路脇に停まっている一台のマイバッハに引き寄せられた。
車体が意味不明なほど激しく揺れていて、どう見てもただ事ではない。半開きの窓からは、一人の男と女の影が見える。
男はシートに寄りかかり、煙草をくわえながらダラリとジャケットを脱いでいる。片手は女の腰を抱き、もう片方の手で窓を少し下げて、指先の火を静かに消した。
その綺麗に整った手には、結婚指輪がはまっていた。そこには三つのイニシャルが刻まれていた――「AY」。
朝倉ゆい。
体がかすかに震える。スマホを取り出し、かつて七年間もピン留めしていた番号に指を滑らせた。
電話はすぐに繋がった。優しくもどこか掠れた、彼の声が聞こえてくる。
「どうした、ゆい?」
「……今、会社にいるの?」
問いに答えず、彼女はごく自然を装いながら聞き返した。目元には、かすかな涙の光が滲んでいた。
「うん、そうだよ」
電話の向こうからは、彼の低く笑う声が響いた。その声はさらに優しくなっていて、まるで宥めるようだった。
「もしかして、オレのこと恋しくなっちゃった?ごめんな、今日はちょっと仕事が立て込んでてさ……いい子にして待ってて?すぐに帰るから」
ゆいは何も言わずに、通話を切った。
その瞬間、目の前のマイバッハが再び激しく揺れだした。しかもさっきよりもっと大きな動きで、あからさまに中の様子を想像させた。
もう見ていられなかった。
痛む胸を必死で抑えながら、彼女は踵を返した。
――一時間後。
朝倉家の別荘の扉が、バタンと開いた。
誠士が片手に満開のバラ、もう片手にスイーツの箱を持って慌ただしく入ってきた。
だが、いつもなら玄関まで迎えに来るはずのゆいは、ソファに座ったままぴくりとも動かず、まるで彼の帰宅に気づいていないかのようだった。
誠士の顔には明らかな後ろめたさが滲んでいた。
「ゆい……今日は急に会議が入っちゃって、ちょっと遅くなったんだ。許して?なんでもするからさ」
彼はそう言って、まるで機嫌をとるように、そっとキスを落とした。
ゆいは目を伏せたまま、彼のシャツの隙間から覗いた胸元を見つめていた。そこには、びっしりとキスマークがついていた。
「ねえ、誠士……まだ、私のこと、好き?」
その声はとても小さく、でも確かに届いていた。
誠士はまだ、自分の胸元が見えていることに気づいていないらしく、唐突な問いに動揺し、すぐに彼女を抱きしめた。
「なんで急にそんなこと言うの?もちろん好きに決まってるじゃないか。オレがどれだけ君を愛してるか、世界中が知ってるよ。命を懸けても、君を守りたいんだ」
その言葉を聞いて、ゆいはふっと笑った。
そうだね。全世界が知ってる。
誠士が、私をどれだけ愛してるか――いや、かつてはそうだった、ってことを。
彼女は思い出していた。
物心ついたときから家庭は荒んでいた。両親の怒鳴り合いは日常茶飯事。ひどい時には、包丁まで飛び出して、本気で相手を殺しかねない喧嘩を繰り返していた。
けれど、喧嘩が終わるたびに、両親は決まって彼女の前で涙を流してこう言った。
「お前がいなかったら、俺たちはとっくに離婚してたんだ……」
そんな環境の中で育ったゆいは、ようやく高校一年の時に両親の離婚を迎えた。そしてそれ以来、恋愛というものに強い拒絶反応を抱くようになった。
どれだけ好意を寄せられても、何人に告白されても、彼女の心はびくともしなかった。
――そんなとき、彼は現れた。
朝倉誠士。
彼は一目惚れだったと言い、猛烈なアプローチを始めた。
告白された回数、七十八回。彼女が拒んだ回数も、ぴったり七十八回。
それでも彼は諦めなかった。そしてある日、二人が巻き込まれた交通事故の中で――
彼は一瞬の迷いもなく彼女をかばい、身体を盾にした。
ゆいはかすり傷一つ負わなかった。けれど彼は肋骨を三本折って、三ヶ月も寝たきりになった。
鉄でできた彼女の心を、彼はその命がけの行動でこじ開けた。
付き合い始めた後、彼の家――名家である朝倉家は、庶民出身の彼女を当然のように拒絶した。
だけど、誠士は家に逆らった。家業の跡継ぎの座を自ら降り、全ての特権を捨てて、独立。
血を吐くほどの努力で一から企業を築き、ついには朝倉家も渋々認めるしかなかった。
――そして結婚。
結婚後も、彼の愛は狂気じみていた。
ゆいの誕生日には、何十億円もの費用をかけて特大の花火を打ち上げ、ドローンを使ったパフォーマンスで彼女を喜ばせた。
結婚記念日には、街中の大型スクリーンを買い占め、自分の愛を世界中に向けて宣言した。
彼女が仇に拉致されたとき、誠士は侮辱に耐え、命懸けで彼女を守った。
そのときの彼の土下座はSNSで拡散され、世間を騒がせた――
その数日間、トレンドには彼らの名前が踊っていた。
【朝倉誠士、世紀の土下座】
【千年に一度の男、誠士様】
【恋の英雄、土下座でネットに衝撃】
――世界がそう絶賛した彼の愛は、まるで奇跡のようだった。
だけど、その奇跡のような愛を捧げていたはずの誠士は、結婚四年目にして裏切った。
ゆいに何も告げず、新しく入った秘書の藤崎すみれ(ふじさき すみれ)を囲い、隠れて逢瀬を重ねていた。
昼間はゆいを抱きしめて「愛してる」と囁き、夜になるとすみれのベッドで優しく愛していた。
……あのマイバッハは、間違いなく彼の車だ。
いったいどれだけ我慢できなかったのか。家の前というのに、あんなにも大胆にすみれと絡み合っていたなんて。
ゆいが真実を知ったのは、もう三ヶ月も前のことだった。
その三ヶ月間――彼女は何度も疑い、何度も苦しみ、何度も絶望した。
でも――ただの一度も、彼を問い詰めることはしなかった。
彼女がした唯一のこと。それは、自分自身の個人情報をすべて抹消する手続きだった。
「誠士……結婚の日に、私が言ったこと、覚えてる?」
彼女は彼の瞳を見つめてそう問いかけた。
彼は一瞬、ぽかんとした顔をしていた。ゆいは微笑みながら、言葉を続けた。
「あなたは、誰よりも熱い想いで、私の心をこじ開けた。その日、私はこう言ったの。
――もし、いつか愛が冷めたなら、その時は、ちゃんと言ってね。私は追いすがったりしない。
――でも、もしあなたが私を騙したら、私は跡形もなく消える。絶対に、見つからないように」
そう、これは予言だったのかもしれない。
あと半月。
その日が来たら、彼女はこの世界から、完全に消えてしまう。
誠士が、どれだけこの世を探しても、もう二度と、ゆいには辿り着けない。
第2話
彼女の突拍子もない言葉に、誠士は目に見えて焦りだした。
「どうしたんだよ、ゆい。なんでいきなりそんなこと言うんだ?」
混乱したまま彼はしばらく黙っていたが、ふと思い至ったように顔をしかめた。
「……誰か、何か変なこと吹き込んだのか?」
そう言うなり、彼は返事も待たずに立ち上がり、電話を取り出してそのまま通話を始めた。
「オレが最近接触した女性を全員、今すぐここに呼び出せ」
電話を切ってから間もなく、屋敷にいたメイドや会社の女性スタッフたちが一堂に集められた。
ズラリと整列した女性たちを前に、誠士は重たい声で命じた。
「この中に、最近オレと関わったことがある人がいるなら、何でもいい、全て包み隠さず彼女に話してくれ」
お互いに顔を見合わせるスタッフたち。
すると、列の真ん中にいたメイドが一歩前に出た。
「最近お会いしたのは一度だけです。奥様が生理の時、旦那様が私に頼んで、温かい飲み物を作る方法を教えてくれって……女性の体調のことも、すごく丁寧に聞いてこられました。奥様の痛みを少しでも和らげたくて」
彼女の証言を皮切りに、次々と他の女性たちも口を開いた。
「私は入社したばかりですが、最初にお会いしたのは、旦那様が『妻の最近の気分が晴れない』って話して、どんなプレゼントが喜ばれるか、私たちに聞いてきた時でした」
「私のところには、奥様の食欲がないって聞いて、何度も『美味しくて元気が出るおやつ』を作ってほしいと頼まれました」
――
皆の証言は、すべて同じ方向を示していた。
朝倉誠士が女性スタッフたちと話したのは、すべて「ゆい」のためだったということ。
その時、不意に――
コン、コン。
部屋の奥から、控えめなノック音が響いた。
全員がその声のする方を見た。
現れたのは――タイトな制服に短めのスカートを穿いた、誠士の秘書、藤崎すみれだった。
「すみません、ちょっと私用で遅れてしまいました」
場の空気を察してか、すみれは人々の視線をすり抜けるように歩きながら、にこやかにゆいの前に立った。
「ご心配なく、奥様。社長と私のやりとりは基本的に仕事の話ばかりですから。誰だって知ってますよね、社長がどれだけ奥様一筋なのか。普段、公私混同なんて絶対にしませんし、私たちと深く関わることなんてありませんよ」
その言葉に、ゆいはようやく目を上げた。
すみれの笑顔は完璧で、態度も礼儀正しい――だが。
もしあのマイバッハの中を見ていなかったら、彼女のその態度に、何一つ疑いを持たなかったかもしれない。
だが、あの夜、彼女は確かに見てしまった。
すみれの笑顔の奥に潜む「挑発」の光。
ずっと彼女を見つめていたゆいに気づき、隣にいた誠士の額にはぴくりと青筋が浮かんだ。
「ここで働く以上、オレのルールはちゃんと覚えておけ」
誠士は重い声で口を開いた。
「オレの妻は、オレの唯一の弱点だ。仕事でのミスはまだ許せる。だが、もし誰かが彼女の前でくだらない噂を吹き込んだら……その時は、容赦しない」
その一言で、全員が一斉に「申し訳ありませんでした」と頭を下げ、空気が一気に引き締まった。
スタッフたちは順に退室し、最後にすみれもその場を離れていった。
人の気配が消えたその瞬間――
誠士はもう一度、ゆいをその腕に抱き寄せた。
「これで、信じてくれた……よな?」
その声は、どこか震えていた。まるで、彼女にすがるように。
「お願いだから、もう『消える』なんて言わないでくれよ。そんなこと言われたら……オレ、本当に死ぬかもしれない」
第3話
ゆいは何も言わなかった。
ただ、彼の温かい腕の中に包まれながら、その胸の中で渦巻くのは、皮肉と苦しみだった。
――ほんと、よくやるよね……
もし、あの夜の光景を目にしていなかったら――
もし、あのマイバッハの中で誠士がすみれと絡み合っている姿を知らなかったら――
彼がこれだけ手間をかけて用意した「証明」に、きっと信じてしまっていたに違いない。
でも、この世界に「もしも」なんて存在しない。
一度裏切った男は、もう信じない。
――誠士、一度の裏切りは、一生の不信なんだよ。
彼女の微細な変化に、彼も何かを感じたのかもしれない。
それからの数日間、誠士はすべての仕事をキャンセルし、ずっと家にいて彼女に寄り添った。
機嫌をとるように、ブランド物やファッションショーの最新アイテムが、毎日のように屋敷へ届けられた。
けれど、彼女の顔に笑顔が戻ることはなかった。
そんなある日――
「目、閉じて」
そう言って彼は彼女の目を優しく覆い、どこかへ連れて行った。
着いたのは、街のど真ん中にある超高層ビルの最上階。
目隠しが解かれたとき、そこにはロマンチックなキャンドルディナーが用意されていた。
……昔だったら、きっと心から感動していた。
だけど今は、ただ黙って彼の引いた椅子に腰を下ろし、淡々とナイフとフォークを動かすだけ。
向かい側の彼は、思い出話を語り始めた。
「なあ、ゆい。覚えてる?オレがここでプロポーズしたこと。この結婚式の準備、半年かけて完璧にしたんだ。世界中に配信されてさ……君が『はい』って言った瞬間、オレ、何したと思う?」
ナイフでステーキを切っていたゆいの手が、ピタリと止まった。
「……泣いたんでしょ」
その一言に、誠士は微笑んだ。
「そうだよ。泣いたんだ。嬉しすぎて、もうどうしようもなかった」
どれほど深く愛していたら、男は――
最愛の彼女と結ばれたその瞬間、世界中のカメラの前で涙を流せるんだろう。
彼の思い出話を聞いて、何も感じなかったわけじゃない。
きっと、あの頃の彼は、本当に自分を愛してくれていた。
でも――
今はもう違う。
過去は過去。
目の前の誠士は、あの日「一生、君だけを愛す」と言った彼じゃない。
思考の深みに沈んでいたゆいの視界に、ふと何かが現れた。
それは、淡い翡翠色のペンダント。
どこかで見たことがある……と思った瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは――
つい最近、サザビーズのオークションで億単位で落札された、あの伝説のジュエリー。
目を上げると、彼の目が真っ直ぐこちらを見ていた。
「このネックレス、名前は『結糸』って言うんだ。初めて見た時、まっ先に君を思い出したよ。似合うって思った。
名前の中には「ゆい」があるし、『結糸』、つまり、糸はふたりを繋ぐものだと思ってる。
だから……この先ずっと、君と繋がっていたいんだ」
まっすぐに愛を込めたその瞳に、ゆいは一瞬、思考を止めてしまった。
――そのときだった。
「奥様、こんばんは」
軽やかで朗らかな声が響いた。
すみれが、笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。
「社長、ご依頼のもの、すべて準備が整いました」
そう彼に報告し、彼は満足げに頷くと、指をパチンと鳴らした。
「パン!」
「パン!」
「パン!」
直後、夜空を裂くようにいくつもの花火が打ち上がった。
音を立てて咲く無数の光の花。
「この花火、一日中続くんですよ。奥様が花火好きなの、社長が覚えていて……サプライズだそうです」
すみれは、羨ましそうに微笑んだ。
夜空に咲く花火は確かに綺麗だった。
彼女は、花火が好きだ。間違いなく、好きだった。
――でも。
花火はすぐに消える。
愛も、そうだった。
一陣の風が吹き抜けた。
テーブルの上に置かれていた紙ナプキンが、ふわりと舞い上がり、ゆいの足元へと落ちた。
彼女は反射的に身をかがめ、それを拾おうとした――そのとき。
ふと目に入ったのは、風に煽られたテーブルクロスの隙間から見えた「異物」。
スーツのスラックスに、黒いナイロンストッキングの脚が、そっと、でも確かに、擦り寄せられていた。
この場にいるのは、誠士とゆいと、藤崎すみれの三人だけ。
そして、その脚は――自分のものじゃない。
息が詰まる。
誠士は、その脚を払いのけることなく――むしろ、逃げるように引こうとしたそれを、突然、力強く掴んだ。
まるで所有者のように。
その手は、すらりとしたストッキング越しの足首を撫で回し、ゆっくりと、ぞわりと這い上がっていく。
まるで愛撫するように。
そして、指先がスカートの奥へと滑り込もうとしたその瞬間――
誠士が立ち上がった。
何事もなかったように、愛しげな微笑みを浮かべたまま。
「ゆい、ちょっと電話かけてくる。すぐ戻るから、ここで待ってて」
言い残し、席を離れた。
そのすぐ後――すみれも、彼の後を追うように立ち上がった。
二人の背中が並んで遠ざかっていくのを、ゆいはただ見つめていた。
――待てるわけがない。
彼の言葉を聞き流し、彼女も静かに立ち上がった。
そして、彼らの後を追い、屋上へ続く階段の途中で――立ち止まる。
わずかに開いた扉の隙間から、見えたものは――
誠士が、すみれをその腕に抱きしめ、情熱的にキスを交わしている姿だった。
第4話
どれくらいの時間、唇を重ねていただろうか。
ようやく唇を離した誠士は、すみれを壁際へと押しつけ、低くかすれた声で言い放った。
「……なんで挑発するんだよ。ゆいの前では、やるなって言っただろ」
すみれはその問いに答えず、彼の首に腕を絡めたまま、くすくすと笑い続けていた。
やがて、そっと耳元に口を寄せる。
吐息がふわりと耳にかかる。
「でもぉ、引っかかってたでしょ?焼きもち妬いてるの、バレバレだったもん。ちょっとくらいワガママ許してよぉ〜」
甘ったるい声でそうささやきながら、彼女の体は彼の胸にすり寄っていく。
その柔らかな曲線が、誠士の理性をじわじわと溶かしていく。
返事の代わりに、彼の呼吸が深く荒くなっていき――そして次の瞬間、堪えきれずにまた、唇がすみれの唇を激しく奪った。
「……明日、同じ花火、君にも打ち上げてやるよ。ゆいにすることは、全部君にもしてやる。ただ一つだけ……」
彼は息を荒げながら、それでも厳しい口調で続けた。
「――オレの一線は、ゆいの前でだけは絶対に越えるな」
知っていた。
ゆいは、もうとっくに知っていた。
でも――
実際にこの目で見てしまった、それだけで、心が崩れそうになった。
胸が、じんじんと痛む。鈍いナイフでゆっくりとえぐられるような、そんな痛み。
涙が、じわりと目に滲んだ。
視界がぼやけていくなか、扉のすき間から見えたのは――
重なり合う二人の影。
誠士の唇が、すみれのうなじへと降りていく。
そして彼の手は、彼女のスカートの中へ、音もなく忍び込んでいた。
女のくぐもった吐息、男の荒れた息づかい。
その音が、ドアの隙間からじわじわと漏れ出してくる。
脳は、叫んでいた。
――早く、ここから離れなきゃ……
でも。
足が、動かなかった。
地面に縫い付けられたかのように、どうしても、その場から動けなかった――
ほんの一枚の壁を隔てて、彼女は聞いていた。
かつて「絶対に裏切らない」と誓った男が、別の女と、貪り合う声を。
震える指でスマホを取り出し、扉のすき間から彼らの姿を捉えるようにカメラを向ける。
「……録画開始」
指が録画ボタンを押すと同時に、彼女は耳を塞ぐこともせず、ただ静かにその場に立ち尽くした。
二人の情事が続く限り、彼女もまた、そこに立ち続けた。
そして――
ついに二人が荒く激しい息を吐きながら絶頂に達したとき、彼女はスマホの画面に目を落とした。
録画時間――
一時間三十六分。
だが、それすらもまだ終わりではなかった。
誠士が次の包装を破ろうとしたその瞬間、すみれが甘ったるく口を開いた。
「社長……もう、だめよ……奥様は?こんな寒い中、ずっとお待ちしてるんじゃ……」
「うるさい、黙ってろ。伏せろ」
冷たく、一切の情もない声で誠士は命じると、容赦なく彼女を再び抱きしめ、次の「戦」を始めた。
もう限界だった。
ゆいは、震える足でその場を後にした。
ふらつく足取りで家に戻り、何も言わず、ただ黙々と動き始める。
過去の思い出――
誠士との写真、彼から贈られたプレゼントの数々。
二人で選んだ、愛の証のペアアイテム。
ウェディングドレス、結婚写真、結婚指輪。
それらすべてを、大きな箱に詰め込んでいく。
そして、全てを詰め終わったその箱を、後庭へ運ばせた。
使用人たちが去ったのを見計らい、彼女は無表情のまま、静かにライターを取り出した。
――カチッ。
火が灯り、箱に触れる。
パチパチと音を立てて、愛の記憶が炎に包まれていく。
やがて、彼女は後ろにある庭園へと目を向けた。
そこには、誠士がかつて彼女のために植えた薔薇が、満開に咲き誇っていた。
「薔薇は純潔の愛を意味するんだって」
誠士はそう言って、笑顔で彼女を抱きしめた。
「君はオレが初めて本気になった子だ。結婚したいって思えた、唯一の子。オレの想いは――純粋で、汚れなんてない」
……あのときの言葉が、胸を締めつけるように蘇った。
「……純粋、汚れてない?」
ゆいは、さっき見た光景を思い出して、ふっと鼻で笑った。
そして――もう一度、ライターの火を強めに当てた。
ごうっ、と炎が燃え上がる。
あっという間に、あの薔薇は炎に呑まれていった。
夢みたいだった庭園が、一瞬で業火の海へと変わっていく。
彼女はただその場に立ち尽くし、冷たい目でそのすべてを見届けた。
――朝倉誠士――薔薇は、もう二度と咲かないよ。
――私たちの間にも、「次」なんてない。
燃えさかる炎が後庭を跡形もなく焼き尽くしたそのとき、ゆいは静かに部屋へ戻った。
そして――無言でスーツケースを開き、荷物を詰め始めた。
ちょうど荷物を半分ほど詰めたころだった。
突然、外から焦ったような足音が近づいてくる。
……まさか。
と思った次の瞬間――
「バンッ!」
ドアが勢いよく開け放たれ、額に汗を浮かべた誠士が、息を切らして飛び込んできた。
彼の目が、彼女の姿を確認するなり、安堵の色に変わる。
「ゆい!どうして一人でいなくなったんだよ……探して、探して、気が狂いそうだったんだぞ!」
その声は震えていた。心底怖がっていたのが、はっきり伝わる。
でも――
ゆいは黙ったまま、ただ彼を見つめていた。
その沈黙が逆に何かを告げていて、誠士の表情が少しずつ青ざめていく。
そして次の瞬間――
彼の視線が、クローゼットに広がった洋服の山に向いた。
――それが、全てを物語っていた。
頭の中が真っ白になったような衝撃に、誠士は立ち尽くす。
そして、絞り出すように震える声が漏れた。
「……なんで、荷造りしてるの……どこへ行くつもりなんだ……?」
第5話
誠士の目に浮かぶ動揺は、どう見ても演技じゃなかった。
でも――ゆいの目には、それがただただ滑稽に映った。
私がいなくなれば、あの人と過ごす時間が増えるんじゃないの?
だったら、何をそんなに取り乱してるの?
そう思っても、その言葉を口に出すことはなかった。
代わりに、ごく落ち着いた口調で返した。
「待ってても全然戻ってこなかったから、寒くて先に帰っちゃった。服はね、季節の入れ替えだから、整理してただけよ」
彼女のその一言で、誠士の張り詰めていた心が一気に緩んだ。
まるで地獄の底から引き戻されたみたいに、彼は息を荒げながら彼女を強く抱きしめた。
「怒ってなかったんだ……よかった……ごめん、オレが悪い。電話が長引いちゃってさ、君を一人にして、本当に悪かった……
これからはさ、こんな片付け、一人でやらないでよ?ホント、心臓止まるかと思った……君がいなくなったかと思って……ダメだよ、ゆい……オレ、死んじゃうから……」
彼女はその言葉に何も返さず、ふと彼のズボンの膝に目を落とした。
高級なスーツのそこには、うっすらと土埃の跡――きっと急いで部屋に飛び込んできたとき、どこかで転んだんだろう。
一瞬、何を言えばいいのか分からなかった。
たった一時間でこれなら――
もし、私が本当にこの世界から消えたら……彼は、どうなるのかな。
彼の言動は、私のことをまだ愛しているように見える。
だけど、あの人と関係を持ってるのも、彼なんだ。
「怒ってないよ。仕事、大事にして」
ゆいは静かに頭を振った。まるで、彼の態度なんてどうでもいいと言わんばかりに。
だけど、その短い一言が、誠士の胸に不安を芽生えさせた。
「違う、仕事なんてどうでもいい。何よりも大事なのは……ゆい、君だよ」
彼は強く、強く彼女を抱きしめた。離したら、今にも消えてしまいそうで――
「もし、オレがなにか悪いことしたなら、怒ってくれていい。叩いても、罵っても構わない。でも……お願いだから、置いていかないで……」
しゃくりあげながら弱さを見せる彼の姿は、もし誰かが見ていたら、きっと心を打たれたに違いない。
でも、ゆいはただ無言で彼を押しのけた。
「疲れたの……少し休みたい」
「うん、うん、じゃあ一緒に寝よう」
このときの誠士は、もう彼女の言葉に逆らうなんてとてもできなかった。
彼女が言うことが、すべて。
それからの彼は、ずっと家にいて彼女のそばを離れなかった。
だけどある日、一本の電話がかかってきた。
電話の相手が何を言ったのかはわからない。
ただ、電話を受けた誠士の顔色が、見る間に険しくなった。
その日を境に、彼はこっそり誰かと電話するようになり、夜中には忍び足で家を出ていくようになった。
そして、ある日――
仲のいい友人のひとりが結婚を控えていて、盛大なバチェラーパーティーを開くという話になった。
何度も何度も誘われた誠士は、最初は断り続けていた。
結婚してからというもの、彼はすべての交友を断ち、ゆいとの時間を最優先にしていたから。
でも、最近ずっと浮かない顔をしている彼女を気にして、気分転換もかねて無理にでも外に連れ出そうと決めた。
優しく言葉を尽くし、熱心に口説いて――
なんとか彼女を外へ連れ出すことに成功した。
友人たちとの集まりとはいえ、誠士の目線は最初から最後まで、ずっと彼女に注がれていた。
彼女には一滴もお酒を飲ませず、会場にあるジュースをすべて取り寄せ、自分で味見して一番美味しかったものを彼女の前にそっと置いた。
男たちの会話に興味を示さないだろうと思って、代わりに山ほどのスナックとドラマを観るための端末を準備させた。
果物は自らの手で丁寧に皮を剥き、彼女の手の届くところに並べていく。
彼女が煙草の匂いを嫌っているのを知っているから、誰にも喫煙を許さず。
彼女が静けさを好むのを知っているから、音楽も全て止めさせた。
それどころか、彼女がトイレに立つときですら、彼は「護衛のためだ」と言って一緒に立ち上がる始末。
その徹底ぶりに、集まった友人たちは目を見開いて絶句していた――
第6話
この日の主役である真田廉平(さなだ れんぺい)が、終始ゆいにしか目を向けていない誠士を見て、茶化すように笑った。
「誠士さん、これじゃあ人間じゃなくて聖人様だな。さすが『世界で一番結婚したい男』ランキングのトップ。オレもそろそろ結婚だし、嫁さんの扱い方、ちょっと教えてよ」
ゆいに関する話題は、彼にとって何も恥じることじゃない。
誠士は目の前の石榴を一粒ずつ手で剥きながら、淡々と答えた。
「欲しいものは全部あげる。必要なものは迷わず送る。サプライズとトキメキを忘れずに。いつも一緒にいて、ちゃんと気にかけて……命ごと、捧げる」
その口ぶりに廉平は苦笑しながら両手を振った。
「うーわ、無理無理。そんな神レベルの男、真似できるわけないじゃん」
その言葉に、周囲の男たちがどっと笑い出す。
「廉平、それってつまり、誠士さんほど奥さんを愛してないってことだよなー?」
「やめろよ、神レベルと比べるのはやめてくれって!」
和やかな空気が流れる中、不意に誰かが口を開いた。ただし、今度は聞き慣れた言葉ではなかった。
それは、Y国の言葉――
「誠士さん、最近ずっと奥さんと一緒にいるって聞いてるけど……外にいる、あの妊娠中の秘書はどうするつもり?」
突然の言語切り替えに、ゆいの手がぴたりと止まった。
何気なく顔を向けると、誠士の表情には変化がない。
自然な口調で、そのままY国の言葉で返した。
「昼はゆいと過ごして、夜はすみれと」
その言葉に、周囲の男たちが爆笑とともにテーブルを叩いた。
「ほら見ろ、男なんてそんなもんだって言ったろ?俺たちみんな外に女のひとりやふたり、いや、三人はいるもんだ。あの秘書、かなりのやり手だったな。あの誠士さんを誘惑して、しかも妊娠までさせるなんて!」
「なあ、誠士さん。その秘書、ベッドで何パターンある?」
誠士は表情を変えず、気だるそうに一つの数字を口にした。
「八十二」
さっきまで少し収まりかけていた笑いが、再び爆発するように沸き起こった。
「マジかよ、そりゃ堕ちるわ!あの誠士さんを誘惑するだけあるって!なあ、どうだった?その秘書、いい女だろ?」
彼は口元をほんの少しだけ持ち上げ、六文字で答えた。
「や、め、ら、れ、な、い」
その瞬間、男たちの目がギラリと光り、笑い声はさらに大きくなった。
あまりに騒がしくなってきたその場で、誠士はようやく冷ややかな声で一言放つ。
「静かにしろ。ゆいに聞こえたらどうする」
「大丈夫っすよ、誠士さん。奥さん、Y国の言葉わかんないでしょ。オレたち、ちゃんと分別あるからさ」
彼はそれ以上話を広げず、隣で小刻みに震えるゆいの様子に気づくと、すぐに自分のジャケットを脱ぎ、優しく彼女の肩に掛けてやった。
「寒かった?これで、少しはあったかくなった?」
おなじみのオードトワレの香りがふわりと漂う。
でも、それだけじゃ心の寒さは埋まらなかった。
ゆいは彼を見上げ、震える声で尋ねた。
「さっき……何を話してたの?」
彼は相変わらず柔らかい笑みを浮かべたまま、彼女の髪を撫でながら答えた。
「仕事の話だよ。みんな昔Y国に留学してたから、あの言葉の方が話しやすいだけ。退屈だったよね、ごめんね。もう喋らせないから」
温かな指先が髪に触れる――けれど、彼女の全身は凍えるように冷えていた。
誠士は知らない。
彼女が、彼の世界にちゃんと溶け込むために、ひそかにY国の言葉を勉強していたことを。
彼らの会話――全部、聞き取れていた。
彼が最近電話をかけまくっていた理由も、夜中にこっそり出て行っていた理由も――全部。
お腹に子どもを宿したすみれと、夜を共にしていたことも。
何より、彼の仲間たちは皆、その存在を知っていたということも。
……たった一人、知らなかったのは、彼女だけ。
第7話
ゆいがいたからか、この日の集まりは長引かなかった。
日が暮れ始めた頃、誠士が先に切り上げるよう促し、彼女を連れて個室を出た。
階下へと降りたところで、彼のスマホが突然鳴り出す。
画面に表示された名前を見た誠士は、一瞬でその場を避けるようにスマホを手に取り、彼女から視線を逸らした。
三分ほどの通話の後、彼は電話を切って申し訳なさそうな顔を向けてきた。
「ゆい、ごめん。急な仕事が入っちゃって……先に運転手に送ってもらってもいいかな?」
彼女はじっと彼を見つめた。
真実を突きつけることはしなかったが、彼の提案にも応じなかった。
「運転手さんには先に帰ってもらって。ここからなら家も近いし、少し歩いて、気分を落ち着けたいの」
そう言った彼女の表情を見て、誠士はしばらく考え込んだ。
たしかに、ここからなら歩いて帰れる距離だし、彼女も最近はずっと家の中ばかりだった。
少し気分転換するのも悪くないか――そう判断した彼は、軽く手を振って運転手を帰らせる。
そして、彼女が歩き出したのを見届けたあと、静かに別の車に乗り込んだ。
彼の車が走り去るのを見届けたゆいは、そっと手を挙げてタクシーを止めた。
「前の車、ついて行ってください」
彼の車は会社へは向かわなかった。
辿り着いたのは、とあるマンションの前だった。
タクシーを降りて料金を支払い、ふと顔を上げたその瞬間――
ゆいの視界に飛び込んできたのは、ふくらみ始めたお腹を抱えて駆け出してくるすみれの姿だった。
満面の笑みを浮かべ、迷いなく誠士に飛びつく。
彼もまた自然な動きで彼女を受け止め、両腕でしっかりと抱きしめた。
一見すれば、微笑ましい恋人たちの再会。
事情を知らなければ、誰もが「お似合い」と呟く光景。
離れた場所からその様子を見ていたゆいの目の前で、すみれは耳元にそっと何かを囁いた。
その一言がよほど効いたのか、誠士はその場が公共の場所であることも忘れ、彼女の後頭部を引き寄せて深く口づけた。
唇を離したときには、すみれの口紅はほとんど落ちかけ、唇を噛む仕草までもがどこか艶やかで――
女の色気が全身からにじみ出ていた。
視線がぶつかり合った瞬間、ふたりの間の空気が変わった。
距離がじわじわと縮まり、互いの吐息が重なるほど近くなる。
「きゃっ……!」
次の瞬間、すみれが小さく叫ぶと、誠士は彼女の腰に腕をまわし、そのまま軽々と抱き上げた。
彼女は首に腕を絡めながら、冗談めかして彼の胸をぽかぽかと叩いた。
「もう……やめてよ。お腹に赤ちゃんいるのに〜」
誠士の目がわずかに陰を帯び、唇を寄せて囁く。
「もう三ヶ月だろ……ちょっとくらい、父親の顔を見せてやらないと」
すみれはまだ抵抗するそぶりを見せていた。
「だめよ……こわいもん……」
「怖がることなんてない。どれだけ……我慢してたと思ってる」
彼の低く湿った声がその場を支配する。
次の瞬間、誠士は彼女を抱いたまま、躊躇うことなくマンションの中へと消えていった。
――そして、その光景を遠くからずっと見つめていたゆいは。
どれほどの時間、そこに立ち尽くしていたのか。
ただ、やがてバッグの中でスマホが震え、無機質な着信音が鳴り響いた。
画面を見ると、知らない番号。
でも、彼女にはわかっていた――誰からのものか。
何も言わずに、受話ボタンを押す。
そこから聞こえてきたのは、衣擦れの音。
そして次に、甘ったるい声が響いた。
「社長……もう、無理って……食べられないよぉ……」
その声音とともに、耳元に届いたのは、あまりにもよく知っている男の声。
かすれた吐息混じりの、甘い囁き。
「まだいけるだろ……ほら。ちゃんと食べられてる」
濡れたような吐息、そして意味不明な音が断続的に流れてくる。
携帯越しのその淫靡な音に、ゆいの目が赤く染まり、視界がじんわりと滲んでいった。
気がつけば、空は分厚い雲に覆われ、大粒の雨が落ちてくる。
ざあざあと打ちつける雨音の中、彼女は立ち尽くしたまま、びしょ濡れになっていた。
それが雨なのか、涙なのか――もう、わからなかった。
動きたかった。
この場を離れたかった。
でも、足は、ただの一本も動かなかった。
第8話
ゆいはそのまま、外で一夜を過ごした。
冷たい雨に、ずぶ濡れのまま――朝日が昇り始めるまで、ずっと。
スマホのバッテリーが尽きかけた頃、ようやく彼女は足を動かし、無意識のようにタクシーを拾って別荘へと戻った。
全身が濡れそぼった彼女の姿を見て、使用人たちは目を丸くして慌てふためいた。
すぐに熱いお湯を用意し、体を温めるよう促してくれた。
でも――意識は朦朧としていて、まともに階段も登れない。
心配したひとりの使用人がそっと額に手を当てると、そこには火のような熱が宿っていた。
驚愕したその人は、すぐに誠士へ連絡を入れた。
連絡を受けた誠士は、まるで命に関わる緊急事態かのように家へ飛び帰った。
そのとき、ゆいはすでに高熱で意識を失っており、どんなに名前を呼んでも、何の反応も返ってこなかった。
誠士は迷わず彼女を抱き上げ、そのまま車に乗せて病院へと直行した。
薬が効いて、ようやくゆいが目を覚ましたとき――
最初に見えたのは、彼女のベッドのそばに座り込む誠士の姿だった。
目の下には濃いクマ、顎には無精ひげ――明らかに一睡もしていない顔。
彼は彼女の点滴がついていない手をそっと握り、自分の頬にあてがって、喜びを抑えきれない声で言った。
「よかった……やっと、目を覚ましてくれた……」
その日一日、彼は片時も彼女の側を離れなかった。
喉が渇けば水を運び、空腹になればスプーンで一口ずつ食べさせる。
看護師たちですら「こんな優しい旦那、見たことない」と驚くほどの献身ぶりだった。
――けれど、夜になると不思議なことが起きた。
彼の姿はふいに病室から消え、どこへともなくいなくなるのだ。
この階には他に入院患者はいない。
だからこそ、深夜の病院はひときわ静まり返る。
そんな中、たまたま通りかかった看護師たちの会話が、まるで囁き声のように耳へ届いてきた。
「聞いた?あの奥さん、熱出したって。で、旦那さんがこの階、まるごと貸し切ったんだって」
「しかもね、上の階には妊娠してる子がいて、その子のためにも誰かが階を貸し切ったらしいの。二人とも、超絶イケメンで超お金持ち。うらやましいよね」
「ほんと、うらやましいよね~。でもさ、ちょっと不思議じゃない?こっちの階の朝倉さんは昼間しか見かけないし、上の階のあの男の人は夜しか現れないんだよ?」
「まあ、お金持ちの趣味なんて、私たちにはわからないよね」
……
――看護師たちの会話は、足音とともに病棟の奥へと消えていった。
ベッドの中で、まだ眠れずにいたゆいは、そのすべてをはっきりと聞いていた。
口元を引きつらせるように笑ってみたけど、そこには何の感情も乗っていなかった。
ただ、苦い苦い気持ちが胸の中を満たしていく。
……人って、本当に、同時に二人を愛せるんだ。
そして、またある夕暮れ――
夕食を食べ終えたゆいは、そのままベッドに横たわり、目を閉じた。
誠士は特に気にする様子もなく、「今日は疲れてるんだな」と勝手に納得し、布団を丁寧にかけてやったあとも、しばらくその場に座って彼女の寝顔を見守っていた。
彼女は呼吸を整え、静かに眠っているふりをする。
まもなく、ゆったりとした寝息が室内に広がった。
彼は小声で何度か名前を呼んだが、反応がないとわかると、そっと彼女の額にキスをして、静かに部屋を出ていった。
足音ひとつ立てずに、階上へと向かう。
彼は急ぐように早足で歩いていた。
だから気づかなかった。
その背後に、もう一人の影が忍び寄っていることに――
ゆいはそっと誠士のあとを追った。
彼が廊下を何度も曲がり、やがて一つの病室の扉を開けて入っていくのを、黙って見届けながら。
ドアの小窓からそっと中を覗くと、そこにはさっきまで自分の看病をしていたはずの彼の姿があった。
彼は、また違う誰かのために、同じように優しく動いていた。
手には温かいお粥の入った器。
そして、穏やかな声で語りかける。
「ね、もうちょっと食べよ。赤ちゃんのためだし、君のためでもあるんだから」
その口調、その目の優しさ――
それは、かつて彼が自分に見せていたものと、まったく同じだった。
……もう、見たくなかった。
ゆいはその場から目を背け、足早に階段を降りて自分の病室へ戻った。
扉を閉めた直後、スマホが音を立てて通知を表示する。
差出人は――すみれ。
【ねえ、どうして途中で帰っちゃったの?前は一晩中、私たちの声を聞いてたくせに。あのときは、さすがにもう私たちの関係を暴くかと思ったのに、意外と我慢強いんだね。もしかして……まだ社長があなたを愛してるって思ってる?】
【でも残念。私が彼の子を妊娠してるってこと、あなた知らないのかな?一年間、ずっと私を囲ってたのよ。三百六十五日、ほぼ毎日一緒にベッドの中。あなたの誕生日も、出会った記念日も、結婚記念日も、あなたのもとを離れて、私のところに来てた】
【彼は私の身体に夢中なの。八十二の体位、全部私のために使ってくれたわ】
【誠士さんって本当にすごいのよ。ホテルでも、オフィスでも、マイバッハでも、クラブでも、そして――あなたたちの新居でも、何度も何度も、抱き合った】
【そうそう、この前ね。ある男が私に言い寄ってきたの。誠士さん、それを知って大激怒。相手の男を半殺しにして、その晩、私を何度も求めてきたの。「他の男なんて見るな」「ずっとオレだけを呼べ」って……その日、あなた熱出して寝込んでたよね?彼、あなたを置いて私のとこ来たのよ】
【今、私は彼の子をお腹に宿してる。だから――そろそろ「奥さん」の座を空けたらどう?今ならまだ、自分で身を引けるチャンスがある。でも、もし赤ちゃんが生まれてからも居座るなら……その時はきっと、あなたの方が家から追い出されるわよ】
……
――ポン、ポン、ポン。
立て続けに届くメッセージ。
それはまるで、鋭い針が何本も心に刺さるようで、ゆいの胸を容赦なく貫いていった。
涙が勝手に溢れてくる。
震える手で何度拭っても、止まることはなかった。
……誠士。
……誠士。
「絶対に裏切らない」って、言ってくれたよね。
「一生、愛し続ける」って、何度も何度も誓ったよね。
「この先、他の女なんて目にも入らない」って。
――その全部、全部、嘘だったんだ。
第9話
退院の日――
誠士は姿を見せなかった。
代わりに届いたのは一通のメッセージだけ。
【今日は用事があって行けない。運転手を向かわせたから】
ゆいはそのメッセージに返信しなかった。
だって、その前にすでに届いていたから。
すみれからのメッセージ。
添付されていたのは、ある一枚の写真だった。
スーツ姿の誠士が、社長とは思えない気さくな様子で、彼女の荷物を手際よくまとめている姿。
そして、短い一言が添えられていた。
【もう待たなくていいよ。今日は彼が、私と赤ちゃんを家に送ってくれる日だから】
ゆいは誰にも何も言わず、自分で荷物をまとめて、ひとりで別荘に戻った。
――それからというもの、すみれからのメッセージは、まるで剥がれない呪いのように、毎日届くようになった。
今日は誠士が足を揉んでくれてる写真。
明日はエビの殻を剥いてくれてる写真。
その次は、オフィスで二人が甘く絡んでいる写真――
そして、ゆいが何も反応しないと、怒ったように追い打ちが来る。
【ねえ、どうして返信しないの?どうして誠士に何も言わないの?こんなに我慢できるの?もうすぐ私たちの子が生まれるっていうのに、あなたは何も知らないふりでいられるの?】
でも、ゆいは沈黙を続けた。
その代わりに、彼女はその写真を一枚一枚プリントアウトして、裏に、丁寧に、ペンを走らせた。
「一日目。彼女が送ってきたのは、桜の木の下でキスしてる写真。昔、彼もあの場所で告白してきたっけ。告白七十八回、私が断ったのも七十八回。『冷たい女』って言われたけど、それはね、間違うのが怖かったから。身体の傷は癒える。でも心を傷つけられたら、一生癒えない。だから、私は負けたくなかった。でも今ならわかる。誠士、あなたに賭けた私は、見事に負けたの」
「二日目。二人で花火を見ている写真。彼女の指に指輪をはめる彼……あの頃の彼は、こう言った。『花火は、本当に好きな人としか見ない。指輪も、本当に好きな人にしか贈らない』って――今の彼は、全部忘れちゃったのね」
「三日目。二人が身体を重ねる写真……もし、彼が『他に好きな人ができた』って言ってくれてたら、私はもちろん傷ついた。泣いたと思う。でも、執着なんてしなかった――裏切られたことじゃなくて、騙されたことが、何よりも、つらいの。誠士……心が、痛い。とても、痛い。だから――私は、行くね」
……
七日目。
ゆいは弁護士と相談の上、離婚協議書の内容を整えた。
これまでの写真。
録音されたあの夜の音声。
そして、署名済みの離婚届。
それらすべてを一つのギフトボックスに詰め込み、彼女は静かに蓋を閉じた――
その瞬間、スマホの着信音が鳴り響いた。
「朝倉様、個人情報の削除が完了しました。これより、この世に『朝倉ゆい』という人物は存在しません」
――その言葉に、真っ白な顔にかすかな笑みが浮かぶ。
やっと、終わる。
「ありがとうございました」
そう呟いた直後、部屋の扉が突然開かれた。
「何を、削除って?」
振り返ると、そこにいたのは、しばらくぶりに顔を見せた誠士だった。
けれど、さっきの会話を聞いた様子はなかったようで、問いもただの興味本位のものに過ぎなかった。
ゆいは何気ないふうに口元を動かし、こう返した。
「なんでもないよ。聞き間違いでしょ」
誠士はそれ以上追及せず、代わりに長い腕で彼女を抱き寄せた。
「ごめんな、最近全然そばにいられなくて。でももうすぐ落ち着くから。そしたら、ずっと一緒にいられる」
彼はそのまま、やさしく髪にキスを落とした。
けれどその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは――すみれから送られてきた、親子コーデの写真。
目の奥に浮かんだのは、冷たい嘲笑。
「そんなに忙しいのに、どうして今日に限って帰ってきたの?」
誠士は彼女の鼻を指先で軽くつついた。
「忘れた?明日、結婚記念日だよ。君にサプライズを用意してたんだ」
ゆいは首を横に振り、隣に置いてあったギフトボックスをそっと手渡す。
「忘れてなんかないよ。私も、君に『サプライズ』を用意してあるの」
その言葉に、誠士の顔がぱっと明るくなった。
嬉しそうに蓋を開けようとした、その時――
突然、スマホの着信音が鳴った。
ちらりと光った画面に、はっきりと映っていた名前。
――すみれ。
ゆいの視線が、ほんの一瞬、鋭く光る。
一分後。
電話を終えた誠士が戻ってきた。
「なあ、ゆい……会社のほうでちょっと急用があって」
彼女はまるで、すべてを予想していたかのように、微笑すら見せずに静かにうなずいた。
「大事な仕事でしょ。行ってきて」
その言葉に、誠士の足が一瞬止まった。
――かつてなら、彼女がこうして見送るとき、たとえ「公事優先」と口では言っても、目には寂しさが滲んでいた。
今のように、何の感情もなく、ただ淡々と背中を押すことなんてなかった。
でも彼の脳裏には、さっき電話で聞いたすみれの言葉がちらついていた。
一瞬だけ躊躇したあと――彼は行くことを選んだ。
「ゆい……すぐ戻る。帰ったら、お互いのサプライズを交換しようね」
その背中が遠ざかっていく。
彼女は、追わなかった。
彼のサプライズが自分にとって「驚き」かどうか、それはわからない。
けれど――自分の贈り物は、きっと彼にとって「衝撃」になる。
車が完全に見えなくなったのを見計らって、ゆいは部屋に戻り、あらかじめ準備していたスーツケースを手に取った。
中身は多くない。
だから転がす音も静かで、屋敷の誰一人、彼女の出発に気づく者はいなかった。
タクシーに乗り込み、あの家から離れていく。
窓の外に広がる風景の中で、家は次第に小さく、やがて見えなくなった。
その瞬間、ふと彼女は振り返った。
――そこには、十七歳の彼が立っていたような気がした。
泣きそうな顔で、それでも優しく笑いながら、彼は言った。
「ゆい、あいつを許しちゃダメだよ。もう、戻っちゃいけない」
彼女は視線を前に戻し、赤く染まった目元のまま、ほんの少しだけ微笑んだ。
――そして、もう二度と、振り返らなかった。