消去するモレッティ夫人

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消去するモレッティ夫人

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シカゴ・アウトフィットのドン――ダンテ・モレッティと結婚して五年。裏社会の人は誰もが知っていた。ダンテが私を、自分の命より重く扱って...

Chương (1)

第1章

シカゴ・アウトフィットのドン――ダンテ・モレッティと結婚して五年。裏社会の人は誰もが知っていた。ダンテが私を、自分の命より重く扱っているということを。 彼は一族の紋章のすぐ下に、私のためにヴァイオリンのタトゥーを彫ってくれた。「消えない忠誠の印だ」って。 ……その消えないはずだった印は、彼の愛人から届いた一枚の写真で、あっさり砕けた。 バーテンダーが、ダンテの腕の中で裸のまま、だらしなく横たわっていた。肌には、行為中に乱暴に扱われたような青痣が点々と残っている。 そして彼女は――私のために彫られたヴァイオリンのタトゥーのすぐ横に、勝ち誇ったように自分の名前を書き込んでいた。ダンテは、それを許したのだ。 「ダンテね、私の中にいる時だけ男になれるんだって。ねえ、アレッシア。あんた相手じゃもう勃たないんでしょ?そろそろその席、譲ったら?」 私は返事をしなかった。代わりに一本だけ、ある人に電話をかける。 「新しい身分が欲しい。それと、海外行きの航空券」 第1話 夫の愛人からの挑発は、二か月前に始まった。ベッドの上で絡み合っている写真。彼女の身体に溺れてる、とでも言いたげな生々しい文章。不倫している事実を、毎回これでもかと突きつけてくる。 私はダンテを問い詰めなかった。黙って新しい身分の手配を進めた。そして自分で期限を切る――あと七日。 シカゴ西部の廃倉庫。点滅する電球が、薄い黄色の光を落としていた。 私は分厚い札束をテーブルの向こうへ滑らせ、フラットキャップの男に突き出す。 「新しい身分が必要なの。名前はアヴァ」 だだっ広い空間に、私の声が響き渡る。 男は札を慣れた手つきで弾くように数え、ぱさぱさと乾いた音を立てる。「パスポート、免許証、全部ってことか?」 「全部よ」私は膝の上の革のバッグを握ったまま、短く頷いた。「クレジット履歴付きの口座も」 「倍だな」男が顔を上げる。薄暗い光の中で金歯がきらりと光った。 私は迷わず、もう一束を差し出した。男はそれをジャケットに押し込み、身を乗り出して声を落とす。 「一週間だ……だが忠告しとく。新しいIDを使った瞬間、過去のお前は死んだことになる」低い声が、空気を冷たくした。「モレッティ家の者は、この国のどこにでも潜伏している。痕跡を一つでも残せば、必ず辿り着く」 私は立ち上がり、ヒールでコンクリートを鋭く鳴らした。 「分かってる」 決意はもう、鋼みたいに固まっていた。 …… 二十分後。私はプライベートのタトゥーサロンのベッドに横たわっていた。 除去レーザーの甲高い音が、胸の奥の鈍い痛みに不釣り合いなほど響く。鎖骨の鷲の紋章が、少しずつ、確実に消えていく。 熱した鉄棒を何度も押し当てられるように痛い。それでも私は歯を食いしばって、声を出さなかった。 五年間の記憶と、ダンテへの愛情が――ただインクと共に焼け失せていく気がした、それだけだった。 …… 夜十一時。リンカーン・パークの屋敷へ戻った。八百万ドルのヴィクトリア朝の大邸宅。結婚祝いに贈られたはずの場所は、今の私には金ピカの檻でしかなかった。 テレビをつけると、シカゴ・トリビューンの「マン・オブ・ザ・イヤー」インタビューの再放送が流れている。 画面の中のダンテは、完璧に整えた黒髪をオールバックにし、深い茶色の瞳でカメラをまっすぐ射抜いていた。生まれつき支配者側の空気が、映像越しでも滲んでいる。 記者が尋ねる。「あなたにとって忠誠とは?」 ダンテはゆっくり、シャツのいちばん上のボタンを外して胸の紋章を見せた。翼を広げた鷹。爪には薔薇と短剣。 「忠誠とはこれだ」低く、引き込むような声。彼は心臓の上のインクを指す。「……それと、これ」 カメラが近寄ると、私ははっきり見えた。紋章のすぐ下に彫られた、繊細なヴァイオリン――私のために入れたものだ。 「妻のアレッシアは才能ある音楽家だ」ダンテは口元に笑みを浮かべ、プラチナの結婚指輪の光る手を軽く上げる。「彼女は俺のために、世界的ヴァイオリニストになる夢を手放した。その犠牲をここに刻んだ。絶対に消えないようにな」 私は鎖骨のガーゼに指を滑らせた。皮膚はまだじくじくして、触れるだけでも痛い。 消えないように?その言葉に、あの写真の記憶が容赦なくぶつかってくる。 …… 二か月前。知らない番号から届いたメッセージ。携帯が震え、画像が表示された瞬間――世界が割れた。 写真の中で、金髪のバーテンダー――ダンテの腕の中にいる裸のジェナが写っていた。首筋には新しく付けられたであろうキスマーク。そして肌には熱がこもっていた痕。終わった直後だと、嫌でも分かった。 彼女は長い指で誇らしげにダンテの胸をさしている。私のヴァイオリンの隣。雑にマーカーで描かれた新しい落書き。 「ジェナ」汚い筆記体だった。 ただのマーカー。洗えば落ちる。それでも――ダンテがそれを許したという事実は、刃物みたいに私の心を切り裂いた。 数十枚の写真が続いた。別荘。私たちのお気に入りのレストラン。私の誕生日の日さえ、私が「マフィアファミリーの事業」を進めていたと思っていた時間に、彼は書斎の壁へ別の女を押しつけていた。 そして、あのメッセージ。 【ダンテね、私の中にいる時だけ男になれるんだって。ねえ、アレッシア。あんたじゃもう勃たないんでしょ?そろそろその席、譲ったら?】 …… 鍵が回る音がして、私は現在に引き戻された。 ダンテが帰ってきた。大理石の床に足音が響き、こちらへ近づいてくる。 匂いで分かった。安っぽい香水。私が買ったトムフォードじゃない。甘ったるくてフローラル系の、鼻につくほど吐き気のする匂い。そこにタバコとウォッカの臭いまで混ざっている。 白いシャツは少し乱れ、ネクタイも緩い。首には、はっきり歯形が残っていた。 「アレッシア?まだ起きてたのか」 いつもみたいに抱きしめようとして、彼が手を伸ばす。胃の奥から嫌悪がせり上がった。 私は手を上げて、彼を止めた。 ダンテは怪訝そうに眉を寄せる。次の瞬間、視線が私の鎖骨へ落ちた。白いガーゼ――モレッティの紋章があった場所。 「アレッシア」 声が落ちる。低く、危険な温度を帯びていく。 「……タトゥーはどうした?」 第2話 「……うっかり火傷しちゃって、ガーゼをあてたの」自分でも驚くほど、声が冷たく響いた。 ダンテの手が宙で止まる。かつて私が見つめるだけで迷い込んだ、あの茶色の瞳が疑念に揺れた。 でも、もう違う。私は五年前の、世間知らずな音大生じゃない。 モレッティ家の晩餐で完璧な笑顔を貼り付ける術も、血と裏切りの渦の中で、気品を失わずに生き延びる術も――もう身につけた。 「プレゼントがあるの」 ソファに置いてあった、深い青の箱を手に取り、テーブルの上を滑らせる。 箱は軽い。中身は、私たちの結婚写真――爪ほどの大きさにまで、細かく切り刻まれていた。 ダンテは箱を手に取り、驚きに満ちた表情で首を傾げる。 「今日って、何かあったっけ?もしかして俺、何か忘れてる?」 箱は開けず、そのままテーブルに置くと、彼は私の頬に手を伸ばしてきた。 私は一歩下がる。完璧な笑顔は崩さないまま。 「本当に覚えてないの、ダンテ?今日は、私たちの結婚五周年の記念日よ」 まるで平手打ちでも食らったみたいに、彼の顔が強張った。一瞬だけ浮かぶ、嘘が露見した男特有の焦りと罪悪感。 「アレッシア……ああ……」 彼は私に手を伸ばす。 「最近ファミリーのことでゴタゴタしてて、完全に――」 「大丈夫よ」 彼の体から漂う、別の女の匂いを吸い込まないよう、さりげなく身を引く。 「分かってるわ」 「いや、それで済むわけがない」 彼は私の手を掴んだ。強い力で。 「ちゃんと祝おう。今すぐ馬場に行こう。お前、あそこが好きだろ?昔みたいに馬に乗って、日の出を見るんだ」 ――昔、ね。 一緒に乗馬したのは三年前が最後。あの頃の彼は、耳元にキスして「お前は俺の女王だ」と囁いていた。 今の彼は、結婚記念日すら覚えていない。 それでも私は頷いた。 「……うん。いいわね」 逃げる準備を整えるには、愚かな妻を演じ続けるしかなかった。 午前四時。 ダンテは無理やりロマンスを演出するかのように車を走らせ、私たちの結婚式の曲――「ラ・ヴィ・アン・ローズ」を流す。 「忘れてて本当にごめん、ベイビー」 ちらりと私を見る。 「俺がお前をどれだけ愛してるか、分かってるだろ?」 私は答えなかった。 助手席のドアポケットに手が触れ、布の感触がした。引き出すと、安っぽい黒のレースのタンガが落ちてきた。 ……私のじゃない。 何も見なかったふりをして、そっと元に戻した。虚しい言い訳なんて、もう聞く気はなかった。 空が白み始める頃、私たちは馬場に着いた。 三十分ほど馬を走らせる間、ダンテは必死に、昔の親密さを再現しようとする。 私が通り過ぎるたびに写真を撮り、わざとらしく褒め、日の出を指さしては、安いロマンチックな台詞を吐く。 馬場のスタッフまで調子に乗る。 「モレッティさん、本当に奥さんのこと愛してらっしゃるのですね。男としても嫉妬しちゃいますよ!」 私は黙ったままだった。 そのとき、彼のスマホが鳴る――特別な着信音。 「ごめん、ベイビー。ちょっと出る。緊急のファミリー案件だ」 私の額に軽くキスし、彼は馬をパドックの端へ走らせた。 私は静かに車へ戻り、ダンテが隠し持っている予備スマホを手に取る。 画面には、「子猫ちゃん」との同期チャット。 【子猫ちゃん:会いたいよ……明日、新しい体位試さない?新しいおもちゃも使って】 【ダンテ:もちろん。前回、まだ足りなかったみたいだな】 【子猫ちゃん:私が欲張りだからこそ好きでしょ?あの黒のレース、あなたが好きなやつ着るね。幸せにしてあげる】 【ダンテ:楽しみにしてる】 生々しい言葉が、容赦なく流れていく。 今夜だ。ウェスティンのプレジデンシャルスイート。シャンパンも、赤いバラも、すでに手配済み。 ダンテが戻ってきたとき、彼はまた「献身的な夫」の仮面を被っていた。 「一瞬見えなくなって、焦ったよ」 隣に並び、私の手を取る。 「いなくなったかと思った」 胃がひっくり返る。喉元までこみ上げるものを、もう抑えられなかった。 「アレッシア、大丈夫か?」 心配そうに覗き込む。 「顔色が悪いぞ」 限界だった。 いやらしいメッセージ。他の女の匂いが染みついた下着。偽善的な優しさ。 そのすべてが、体ごと拒絶反応を起こさせた。 私は勢いよく車のドアを開け、外へ飛び出す。茂みに膝をつき、すごい勢いで吐いた。 胃の中のものが、すべて出ていく――まるで、この五年間の結婚生活そのものを吐き出すみたいに。 「アレッシア!」 ダンテが叫び、車を降りてくる。 「どうしたんだ!」 私は地面にうずくまり、嗚咽しながら吐き続けた。涙と胆汁が混じり、口元を汚す。 これは、悲しみだけじゃない。 ――怒りだった。 第3話 「ベイビー、きっと何か変なものを食べたんだ」 ダンテはそう言って、私を車に戻し、水のボトルを差し出した。 「病院に行こう」 私は弱々しく首を振る。 「大丈夫……最近、ちょっとストレスが溜まってただけ」 彼は少し考え込み、それから言った。 「明日の夜、ガラパーティーがある。気晴らしには丁度いいかもしれない」 一拍置いて、わざとらしく微笑む。 「モレッティ夫人。俺と一緒に来てくれる?」 その瞬間、頭の中に鋭く冷たい考えが浮かんだ。 私は微笑み返す。 「もちろん。場所はウェスティンがいいな。あそこの料理、好きなの」 ダンテの目に、一瞬だけ焦りが走る。けれどすぐに消えた。 「もちろんだよ、ベイビー。お前の望むままに」 すぐに部下に手配させる、と付け加える。 彼の考えは、手に取るように分かっていた。 私たちが同じホテルに現れたら、愛人と鉢合わせる危険が高すぎる。 でも――体調の悪い妻のささやかなお願いを、断れるはずがない。 屋敷に戻ると、ダンテは異様なほど甲斐甲斐しかった。 スープを作り、ベッドから動くなと言い、毎時間、様子を見に来る。 まさに完璧な夫と呼べるほどの振る舞いだ。 けれど、彼の予備スマホには、はっきり残っていた。 【予定変更だ。明日20時半、地下のプライベート・ワインセラーで会おう。人目がない。もっとスリリングだ。高級な赤ワインに囲まれながら抱き合うところを想像してみろ……】 【最高!あなたの好みのあの赤いドレス着ていくね。下は何も着ない】 シャワーの水音が止まり、私は現実に引き戻された。急いでスマホを元に戻す。 タオル一枚を腰に巻いただけのダンテが出てくる。 水滴が、鍛え上げられた胸を伝う。 ――五年前なら、心臓が激しく上下していたであろう。でも今は、ただ嫌悪しか生まれない。 「少しは良くなったか?」 ベッドの端に腰掛け、私の額に手を当てる。 私は頷き、ふと思い出したように言った。 「そうだ。渡し忘れてた」 ナイトテーブルから、あの青い箱を取り上げる。 「結婚記念日のプレゼント。渡すの、すごく楽しみにしてたんだ」 彼が開けようとした、その瞬間。 「――待って」 私は彼の頬に指を滑らせる。 「一週間、待ってからね。ちょっとしたサプライズだから」 困惑した顔。 「なんで一週間?」 意味ありげに微笑む。 「その頃には、このプレゼントの本当の意味が分かるから」 ダンテは肩をすくめ、箱を引き出しにしまった。 「分かったよ。お前がそう言うのなら」 翌朝。 ダンテは早起きしてキッチンに立っていた。 目玉焼き、ベーコン、搾りたてのオレンジジュース。そして、私の大好物――完璧なエスプレッソ。 完璧な夫による、完璧な朝食。 そのとき、玄関のベルが鳴る。 部下のマルコが、無地の茶色い紙袋を手に立っていた。 「ボス、頼まれてたものです」 彼は落ち着かない様子で視線を泳がせる。 私は見逃さなかった。袋の中から覗く、小さなベルベットの箱。 ――今夜の密会用だ。 マルコが帰ると、ダンテは何事もなかったかのように席に戻った。 私はコーヒーをかき混ぜながら、何気ない声で言う。 「ねえ、ダンテ。聞いてもいい?」 「何でも」 顔を上げる。 「結婚において、忠誠ってどれくらい大事だと思う?」 彼のフォークが一瞬だけ止まり、すぐに卵を切り続けた。 「すべてだ。忠誠こそ、俺たちの世界の土台だ」 「そう?」 無垢な妻を演じて、首を傾げる。 「じゃあ……私を裏切ったことは、一度もないの?」 ダンテは即座にフォークを置き、首から下げた銀の十字架に手を伸ばした。 父から受け継いだ、モレッティ家にとって神聖なもの。 「父の墓に誓う」 まっすぐ私を見つめ、厳粛な声で言う。 「俺は一生、お前だけに忠誠を誓う。アレッシア。お前は俺の妻で、俺の女王で、この世で唯一の、俺の女だ」 ――完璧な演技。 真実を知っていなければ、きっと感動で泣いていた。 「じゃあ」 カップを持ち上げ、氷のように冷たい目で言った。 「もし裏切ったら、どうなるの?」 何も疑わず、彼は気楽に笑う。 「そのときは、すべてを失えばいい。亡霊が如く、この世を彷徨うさ」 「ええ、あなた」 コーヒーの苦味を噛みしめながら、私は囁いた。 「その言葉――必ず守ってもらうわ」 第4話 「後部座席に座りたいの」 ホテルへ向かう車の中でそう言うと、ダンテは少し意外そうに私を見た。 「どうして?いつも助手席だろ」 ――あの席に、彼の愛人が何度も座っていたと思うと耐えられなかった。ジェナがそこに腰を下ろし、甘えた声で囁き、途中で車を止めさせて体を求めていた光景を想像するだけで、胃の奥がきしんだ。 でも、口にしたのは簡単な理由だけ。 「今日は、少し広く使いたい気分なの」 ダンテは深く考えなかった。彼にとって、私の違和感は取るに足らないものだった。 ホテルに入ると、彼はいつものように私の腰に腕を回し、堂々とエスコートする。周囲の視線が集まる。羨望と畏敬が入り混じった、あの視線。 この世界でモレッティ夫人であることは、多くの女にとって夢だ――その代償を、知らなければ。 一族の幹部たちが次々と挨拶に来る。ダンテは私の背中から手を離さず、ワインを注ぎ、耳元で囁いた。 「このボトルは二万ドルもする。だがそれでもお前の美しさには敵わない」 昔なら、きっと頬を染めていた。今は、ただ滑稽に思えるだけ。 彼の中で、私の価値は――二十二歳のバーテンダー以下なのだから。 表向きでは、ディナーは何事もなく進んだ。ダンテは組織の話をし、ときどき私に意見を求める。 私は完璧な妻を演じ続けた。上品で、聡明で、決して出しゃばらない女。 20時20分。ダンテが腕時計にちらりと目をやる。 「ベイビー、少し下に降りて取引先と会ってくる。三十分もかからない」 「ええ、もちろん」 私は微笑んだ。 「ゆっくりどうぞ」 数分後、気分が悪いふりをして席を立ち、ボールルームを出ると、私はダンテに電話をかけた。 三回目のコールで出る。 「どうした、ベイビー?」 少し息が上がった声。 「少しふらついて……」弱った妻を演じる。「いつ戻る?」 「すぐ……あと十五分だけ」 声がこもる。何かを必死に抑えているようだった。 ――そのとき、聞こえた。 女の低い笑い声。甘く、粘つくような声。そして、小さな鈴の音。 チリン、チリン。 「ダンテ?どこにいるの?」 心配そうな口調を崩さない。 「オフィス……だ」荒い息。「取引先が今、来た」 「ん……ダンテ……」 背後で、女の喘ぎ声。 私はスマホを握る手に力を込めた。その声は、間違いなくジェナだった。 「声、変よ?」わざと通話を引き延ばす。「本当に大丈夫?」 「もちろん……っ」 必死に平静を装っている。 「この相手は……扱いが難しくてな」 「そこ……ダンテ……」 彼女は、電話中だと気づいていない。 「いい子だ、子猫ちゃん」 ダンテの声が低く唸る。 「今すぐ欲しい……」 チリン、チリン。鈴の音が、速く、乱れていく。 私は静かに録音ボタンを押した。感情を切り離し、ただ事実だけを保存する。 「ダンテ?ダンテ?」 「……ああ、ごめんベイビー」 息を切らしながら戻ってくる。 「電波が悪くてな。すぐ戻る」 「分かった。愛してるわ」 一番甘い声で言った。 「俺も愛してる」 その嘘は、あまりにも自然で、あまりにも慣れていた。 通話を切り、録音を保存してから、何事もなかった顔で席に戻る。 四十分後、ダンテはレストランに戻ってきた。髪は少し乱れ、ネクタイも歪んでいる。そして満足そうな表情をしていた。 「待たせてごめん」 私の隣に座る。 「なかなか手強い相手でね」 私は完璧な笑顔を返した。 「いいのよ。仕事は大事だもの」 彼は私の手を取る。 「世界一の妻だ」 その瞬間、私のスマホが震えた。 【パスポートと航空券、手配完了。五日後に有効。準備万端】 すぐに画面をロックしたが、ダンテは一瞬、その文字を見ていた。 「パスポート?」 戸惑いが浮かぶ。 「アレッシア、どこか行くのか?」 第5話 私は小さく笑った。まるで、彼が間の抜けた質問でもしたかのように。 「友だちのマリアよ。ヨーロッパに行きたいんだけど、パスポートの期限が切れてて。更新の手続きについて聞かれただけ」 声は軽く、自然だった。嘘の匂いは、どこにもない。 「ほら、あの子ってこういうこと本当に疎いでしょ?」 ダンテの表情はすぐに緩んだ。むしろ、少し照れたようにさえ見える。 「ごめん、ベイビー」 苦笑して言う。 「一瞬さ……お前が俺の側からいなくなるつもりなのかと思った」 その言葉に、近くのテーブルにいた他の妻たちが一斉にこちらを見る。 ――なんて深い愛情なのかしら、モレッティ夫人が羨ましいわ。 私はワイングラスの向こうで、冷たい笑みを隠した。 外から見れば、私たちは今も完璧な夫婦。少なくとも、そう見える。 22時半。ディナーパーティーは終盤に差しかかり、レストランには私たち二人だけが残っていた。 ダンテは近づき、私を抱き寄せる。 「今夜は完璧だったな」 その瞬間、とある匂いが鼻を突いた。 葉巻の煙。高級ウイスキー。そして――安っぽいジャスミンの香水。 ジェナの匂いだ。 胸が焼けつくほど甘ったるいその香りが、夫の襟元や袖口から立ち上っていた。 隠そうともしていない。それとも、自分がどれほど彼女の匂いを纏っているか、気づいていないのか。 胃の奥が、激しくかき回される。 私は彼を突き飛ばし、口を押さえてトイレへ走った。 「アレッシア?ベイビー?」 ダンテが追いかけてくる。 便器の前に膝をつき、激しくえづく。胃は空っぽなのに、苦い胆汁と、抑えきれない怒りが込み上げる。 「どうした?」 彼は隣にしゃがみ込み、起こそうとする。 「シーフードに当たったのか?それともワインの飲みすぎか?」 彼の匂い――彼女の匂いが、また一気に押し寄せた。 「……触らないで!」 私は彼の手を振り払った。体が震える。 「俺についた煙のせいか?」 眉をひそめる。 「打ち合わせで葉巻を何本か吸ったんだ。悪かった」 その嘘を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。 私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗う。鏡越しに見る彼の目には、無垢な心配の色が映っていた。 ――本当に、何も分かっていないみたいに。 「葉巻?」 声は低く、唸るようだった。 「これが何のことか……本当は分かってるでしょ?」 ダンテは凍りついた。私が感情を露わにする姿を、見たことがなかったのだ。 「アレッシア……何を言ってる?」 ――やりすぎた。 私は息を整え、無理やり表情を戻す。 「何でもない。ただ、お腹が痛いだけ」 翌朝、ダンテは私を病院へ連れて行くと言って聞かなかった。 医師はカルテを見て言う。 「症状からすると、ストレス性の胃炎ですね。精神的な負荷が原因になることが多いです」 私を見る。 「最近、特別なストレスは?」 ダンテが即座に答えた。 「いや。昨日だって、最高の一日でした」 医師はそれ以上踏み込まず、処方箋を書き始める。 「では胃を落ち着かせる薬を出しておきましょう」 そのとき、ダンテのスマホが鳴った。 画面を見た彼の表情が強張る。 「すまない。大事な電話だ」 「どうぞ」 私は淡々と言った。 廊下に出た彼の声が聞こえる。 「何だって?今?……いや、今は妻と医者に……分かった」 彼は申し訳なさそうな顔をしながら戻ってきた。 「ベイビー、本当にごめん。部下が重要な書類を届けにくるから、下に取りに行かないといけないんだ。五分で戻る」 「わかったわ、行ってきて」 理解ある妻を演じて頷く。 医師の説明を聞くふりをしながら、私は窓辺に立ち、外を眺める。 数分後――ダンテの姿が見えた。 だが、彼は入口で誰かを待っていなかった。 通りを横切り、迷いなく、向かいの建物へ入っていく。 ――産婦人科のプライベートクリニック。 その背中が中に消えた瞬間、怒りはすっと引いた。 代わりに広がったのは、冷たく、静かな解放感。 そのとき、スマホが震えた。 知らない番号。 【残念だね、モレッティ夫人。今日彼はあなたのそばにいられないみたい。私が一本電話するだけで、犬みたいに駆けつけるから】 第6話 すぐに、もう一通のメッセージが届いた――エコー写真だった。 白黒の画像には、小さな胎嚢がはっきりと写っている。右上には【8週間】の文字。 【驚いた?ダンテに知らせたとき、彼、露骨に喜んでたわ、獣みたいにね。それにね、彼って本当に獣なの。あなたといるとのように……退屈じゃないのよ。ねえ、いつもあんなに抑えてるの?あなたには触りたいとも思わないからでしょ?でも私には……ああ、あの情熱、受け止めきれないわ】 私は窓にもたれ、世界がぐらりと回るのを感じた。 五年間、二人で願い続けた子ども。それが今、彼の愛人の腹の中で育っている。 ――祝福してあげるべきかしら。 さらにメッセージが届く。 【そうそう、明日ラスベガスに連れて行ってくれるの。まさにロマンチックな旅行!ってね】 私はスマホの電源を切り、医師の方を向いた。「先生、もう帰らせてください」 「でも、ご主人が――」 「自分で伝えます」 私は弁護士事務所へ向かった。必要なのは、離婚協議書。 「財産分与について、ご希望は?」弁護士が尋ねる。 モレッティ家の力をよく理解している私は、金のために長引く争いなど望んでいなかった。「婚姻期間中の共有財産、法的に認められた額の50%だけで結構です。そのお金が口座に入ったら、全額寄付してください」 欲しいのは、自由だけ。 弁護士の目に一瞬驚きが浮かんだが、すぐにうなずいた。 二時間後、私は離婚書類を手に事務所を出た。シカゴの空は重く曇り、嵐を予感させている。 スマホが鳴った。 ダンテ。 「ベイビー、本当にごめん。仕事が思ったより長引いて……今どこだ?」 「家よ」私は嘘をついた。 「分かった、すぐ戻る。でも……」彼の声がためらう。「明日、急なファミリーの用事でラスベガスに行かないといけないかもしれない。複雑な案件で、来週まで戻れないかも」 ――彼とジェナのロマンチックな旅行。 「分かった」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。 「怒ってないのか?」ダンテは意外そうだ。「タイミングは悪いけど、ファミリーの仕事だし……分かってくれるよな」 「分かってる」 「アレッシア」彼の声が急に優しくなる。「愛してる。分かってるよな?」 私は手にした離婚書類を見下ろし、最後の質問をした。 「ダンテ」静かに。「あなたが他の人を愛することって、あり得る?」 「は?」彼は笑った。「何を心配してるんだ?俺が他の女を愛するわけないだろ」 「でも……仮に、よ。もし私たちの間に何かあったら――」 「ない」彼は遮った。声には不穏な独占欲が滲む。「いいか、アレッシア。お前の名前がアレッシア・モレッティである限り、俺から離れることはできない。お前は俺の妻だ。俺の女だ。この街で、誰もお前に手出しなんかしないし、俺から隠れられる場所もない」 頭の中で、静かな声が答えた――私の名前は、もうアレッシア・モレッティじゃない。私の名前は、アヴァ。 「もし、私が出て行きたいって言ったら?」 彼はまた笑った。傲慢な自信に満ちた声で応える。「三日だけ猶予をやる。それ以上は無理だ。そのあと俺が必ず見つけ出す。言っただろ。お前がモレッティ夫人である限り、どこに逃げても引きずり戻す。俺からは逃げられない、ベイビー。絶対にな」 私は電話を切り、シカゴの街路に立ち、遠くの摩天楼を見上げた。 三日で、彼が私を見つけられるかは分からない。 ただ一つ分かっているのは――三日後、私は自由になる、ということだった。 第7話 ――残り三日。 私は化粧台の前に座り、鏡の中の自分を見つめていた。長い黒髪、完璧に整えたメイク、首元にはダンテが贈ったダイヤのネックレス。すべてが完璧で――すべてが嘘だった。 スマホがまた震える。 写真が送られてきた。ラスベガスの高級スイートで、ダンテとジェナが絡み合っている写真だ。シャンパン、バラの花びら、裸の身体。 【私と赤ちゃんには、これくらい豪華なホテルじゃなきゃって言ってくれたの。あなたのハネムーンスイートより素敵でしょ?】 私は無視して、スイスのプライベートバンクにいる個人アドバイザーへ電話をかけた。 「モレッティ夫人、お電話ありがとうございます」 「口座内の資金をすべて、現金と持ち運び可能な資産に換えて。今日中に」 ――残り二日。 私はマリアと最後の別れをした。彼女は、私にとって唯一の本当の友人だった。 「アレッシア……顔色、よくないわ」マリアは心配そうに私を見る。 「シカゴを離れるの」私は回りくどいことを言わなかった。 「出張?」 「永遠に」 マリアは一瞬黙り、それから静かにうなずいた。「そう……手伝えることは?」 それが、私が彼女を愛していた理由。詮索せず、ただ支えようとする。 「別に。でも……」私は小さな包みを手渡した。「これは、あなたに」 マリアが開けると、中には二十万ドル相当のエメラルドのネックレス。「アレッシア、こんなの……」 「親友への贈り物よ」私は彼女を抱きしめた。「元気でね、マリア」 美術館を出た瞬間、またメッセージが届く。 【今夜のオークションで、三百万ドルのブレスレット買ってもらったの。綺麗でしょ?モレッティ夫人でいられる残りの日々を、せいぜい楽しんで】 私はその番号をブロックした。 ――最後の日。 午前三時。屋敷は墓場のように静まり返っていた。 ウォークインクローゼットに立ち、何百万ドル分もの服や宝石、バッグを見渡す。エルメスのバーキン、シャネルのスーツ、カルティエのダイヤ。かつては、成功した女の証だと思っていた。 今はただ、金色の檻にしか見えない。 四時きっかりに、慈善団体のスタッフが来た。私はすべてをトラックに積み込むのを手伝った。 「モレッティ夫人、本当に全部寄付なさるんですか?」若いボランティアが目を見開く。「これ……値段なんて付けられないのに」 「だからこそよ。必要としている人の元へ行くべきだわ」 彼らが去ったあと、私は大きな箱を三つ積み、街外れの廃工場へ向かった。そこには、使われなくなった焼却炉がある。 私は『愛の証』を一つずつ投げ込んだ。 結婚写真、ダンテからのラブレター、新婚旅行の思い出……すべて、燃え盛る炎の中へ。 闇の中で炎が踊り、アレッシア・モレッティの痕跡を完全に飲み込んでいく。 残したのは、ヴァイオリンだけ。1920年代のイタリア製で、幼い頃から私と共にあった、真の意味での、私のもの。 火が静まるのを見つめながら、今まで知らなかった安堵を感じた。 アレッシア・モレッティは死んだ。 夜明けとともに、空港へ向かう車に乗り込む。ターミナルに着いたとき、見覚えのある黒いマセラティが、別の出入口から走り去るのが見えた――ダンテだ。戻ってきたのだ。 その瞬間、スマホが鳴った。 「ベイビー!帰ったぞ!」ダンテの声は、子どもみたいに弾んでいる。「ベガスの仕事、思ったより早く片付いた。もうすぐ家に着く。お前が準備してくれたサプライズ、早く見たいな」 サプライズ。ええ、確かに驚くわ。 「待ってるわ」私は遠ざかる彼の車を見ながら、静かに答えた。 「愛してる、アレッシア。待っててくれ」 私は通話を切り、SIMカードを抜き取り、スマホごとゴミ箱へ投げ捨てた。 新しいパスポートを握りしめる。写真は確かに私。でも名前は――アヴァ・ジェイストン。新しい身分。新しい人生。 最後に一度だけ、シカゴを振り返り、私は迷いなく搭乗ゲートへ向かった。 さようなら、アレッシア・モレッティ。はじめまして、アヴァ・ジェイストン。 第8話 ダンテは、まっすぐ屋敷に戻るつもりだった。 ――少なくとも、車に乗り込むまでは。 背後から、ジェナの腕が腰に絡みつく。柔らかい体温と、甘ったるい声。 「まだ行かないで……遊び足りないの」 耳元で囁かれ、指先が彼の胸にゆっくりと模様を描く。 「あなた、言ってたでしょ?奥さんは退屈な陶器人形のようだって。もう一晩くらい、なんてことないよね?明日帰ればいいじゃない」 ダンテは、一瞬だけ迷った。 確かにそうだ。アレッシアは、こんなふうに引き止めたりしない。 五年間の結婚生活で、彼女はいつも黙って待っていた。夜遅く帰ろうが、出張が続こうが、不満を口にしたことは一度もない。 ――それが、当たり前だと思っていた。 「……分かった」 ダンテは荷物を床に置いた。 「でも数時間だけだ。今夜中にシカゴへ戻る」 数時間後。 セックスとシャンパンに溺れた意識が浮上したとき、窓の外はすでに白み始めていた。 「……くそ」 腕時計を見て、ダンテは跳ね起きる。 慌ててアレッシアに電話をかける。 【おかけになった番号は、現在使われておりません】 ……使われていない? そんなはずはない。モレッティ夫人の電話は、二十四時間つながる。それがファミリーの暗黙のルールだ。 胃の奥に、嫌な感覚が広がった。 「どうしたの、ダーリン?」 シルクのローブを羽織ったジェナが、気だるそうに近づく。 「ひどい顔してる」 「アレッシアに繋がらない」 眉をひそめ、もう一度発信する。 「寝てるだけじゃない?」ジェナは肩をすくめる。 「それか、あのヴァイオリンの練習。あなた、いつも言ってたでしょ。あの人、つまらない趣味が大好きだって」 だが胸のざわめきは消えない。 ダンテは無言で服を掴み、着替え始めた。 「私を置いて行くの?」 ジェナの声が鋭くなる。 「さっきまであんなことしてたのに、彼女のところへ戻るの?」 「彼女は俺の妻だ」 振り返りもせず、ダンテは言い捨てる。 「帰らなきゃならない」 「妻?」 ジェナは嘲笑った。 「ベッドの中じゃ、そんなこと言ってなかったわ。冷たい、退屈、ただの飾りだって――」 「もういい」 ダンテが振り向いた瞬間、部屋の空気が凍る。 危険な光を宿した視線。 そのとき、スマホが鳴った。コンシリエーレだ。 「ボス。八時からカポたちの会合です。イーストサイドの件、ご判断を――」 「延期だ」 「ですが、緊急で――」 「延期と言った」 一切の余地を残さない声。 「明日の十時だ。組み直せ」 通話を切り、黙々と支度を続ける。 ジェナの顔が歪む。 「ダンテ……この三日間、あなたが言ったこと、忘れたの?私を愛してる、彼女と結婚したことを後悔してるって――」 「寝言だ」 氷のような視線が、彼女を射抜く。 「現実を見ろ、ジェナ。自分の立場を」 一歩近づいただけで、ジェナは無意識に後ずさった。 「アレッシアは俺の妻だ。これからも、永遠にな」 言葉を区切り、低く続ける。 「お前は……ただの気晴らしだ。代わりはいくらでもいる。分かったか?」 ジェナの顔から血の気が引き、涙が滲む。 「そんな……さっきまで、あなたは――」 「あれはもう終わりだ」 ダンテはコートを掴み、ドアへ向かう。 「しばらく俺に連絡するな。アレッシアと過ごす」 ――バン。 ドアが閉まり、ジェナは高級ソファに崩れ落ちた。 ダンテは、屋敷へ戻った。 だが――外から見える家は、真っ暗だった。 「……くそ」 嫌な予感が、一気に現実味を帯びる。 「アレッシア?帰ったぞ!」 返事はない。 リビングも、寝室も、音楽室も――家全体が、墓場のように静まり返っていた。