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春風も、君も、二度と戻らない
「枝里、霧島グループの最新医療技術を使えば、君の両親を植物状態から目覚めさせることができる。ただし——元恋人である俺に頭を下げてきた...
Chương (1)
第1章
「枝里、霧島グループの最新医療技術を使えば、君の両親を植物状態から目覚めさせることができる。ただし——元恋人である俺に頭を下げてきた以上、一つだけ、譲れない条件がある」
「……どんな条件なの?」
胸の奥がきゅっと痛む。東雲枝里(しののめ・えり)は息をのんで問い返した。
「高峯翔真(たかみね・しょうま)と別れろ。そして、俺のもとへ戻ってこい」
低く落ち着いた声には、否応のない圧が込められていた。
「……わかった。応じるわ」
一瞬の迷いも見せず、彼女は静かにそう答えた。
第1話
「枝里、霧島グループの最新医療技術を使えば、君の両親を植物状態から目覚めさせることができる。ただし——元恋人である俺に頭を下げてきた以上、一つだけ、譲れない条件がある」
「……どんな条件なの?」
胸の奥がきゅっと痛む。東雲枝里(しののめ・えり)は息をのんで問い返した。
「高峯翔真(たかみね・しょうま)と別れろ。そして、俺のもとへ戻ってこい」
低く落ち着いた声には、否応のない圧が込められていた。
「……わかった。応じるわ」
一瞬の迷いも見せず、彼女は静かにそう答えた。
電話の向こうから、霧島淳哉(きりしま・じゅんや)のかすかな乱れた呼吸が聞こえた。沈黙ののち、低く鋭い声が落ちてくる。
「半月後に帰国する。迎えに行く……逃げるような真似をすれば、どうなるか分かってるな」
電話が切れる。枝里はスマホ画面に表示された「特別な日付」をじっと見つめていた。
その日付は、皮肉にも―彼女と翔真の結婚式当日だった。
しばしの無言のまま予定表を開き、「結婚の日」と記されたその欄を、「去る日」と書き換えた。
家に戻ると、耳をつんざくような大音量の音楽が鳴り響いていた。
玄関は半開きで、ガラス張りの壁越しにリビングの様子がはっきりと見えた。
そこには、一之瀬美羽(いちのせ・みう)は純白のウェディングドレスに身を包み、完璧なメイクを施し、ブーケを手にして翔真の前に立っていた。
唇を噛みしめ、潤んだ瞳で彼を見上げるその姿は、見る者の胸を締めつけるような切なさに満ちていた。
けれど、そのドレスは枝里のものだった。
彼女の婚約者の前で、彼女のドレスを着た美羽は、涙混じりにこう語りかけた。
「翔真さん……もうすぐ枝里さんと結婚するのは分かってる。でも、ずっと好きだったこの気持ち……少しだけ報われてもいいかな?一度だけでいいから、私と結婚して。ずっと夢見てきたこの恋に……ちゃんと終止符を打ちたいの」
場の空気がざわついた。翔真の友人たちが一斉に口をそろえる。
「翔真、美羽ちゃんの願いなんだし、ちょっとくらい付き合ってやれよ」
「そうそう、冗談の結婚ごっこだろ?一度だけならいいじゃん!」
騒がしい声が飛び交うなか、翔真はずっと視線を落としたまま、沈黙を貫いていた。
長い沈黙の末、美羽すら諦めかけたそのとき、彼は静かに口を開いた。
「……今回だけだ。二度とない」
その瞬間、美羽の顔がぱっと明るくなった。
友人たちはすぐさま結婚行進曲を流し、美羽は笑顔でドレスの裾をつまみながら歩み出し、そっと彼の手を取った。
「新郎と新婦に伺います。目の前の方と、富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も、若き日も老いた日も、共に人生を歩むことを誓いますか?」
「はい、誓います!」と、美羽は頬を赤らめながら即答した。
翔真は一拍の間を置いてから、静かに応じた。
「……誓います」
歓声に包まれる中、美羽は用意していた指輪を彼の指に通し、翔真もまた彼女の指に指輪をはめた。
「さあ、最後は新郎から新婦へのキスだ!」
「キス! キス!」
盛り上がる声に包まれるなか、美羽の瞳はまっすぐな愛情で翔真を見つめていた。翔真は動けず、ただ沈黙し続けていた。
やがて美羽の目元に再び涙が滲むと、友人のひとりが茶化すように言った。
「おい翔真、枝里さんには元カレがいたんだろ?美羽にキス一回くらい、どうってことないだろ?」
翔真は少し沈黙の後、そっと美羽の唇にキスを落とした。
美羽は彼の首に腕を回し、彼もまた自然とその背中を抱き寄せ―キスは、静かに深まっていった。
その瞬間まで玄関の外に立っていた枝里は、ついに扉を押し開けた。
一瞬で、空気が凍りつく。
翔真は目を見開き、慌てて美羽を突き放し、指輪を外した。
「枝里ちゃん……違うんだ、誤解だよ。罰ゲームでさ、ただのコスプレなんだよ……本気じゃないんだ」
ただの遊び?
枝里は、苦笑すら浮かべることができなかった。
ウェディングドレスを着て、キスまで交わす「遊び」なんて、あるのだろうか?
枝里の視線は、かつての翔真に向けられていた。
かつては彼女のために、他の女性と一線を引いていた少年だった。だが今、その腕で別の誰かを抱きしめ、唇を重ねている。
枝里の初恋は、高校時代の淳哉との短い交際だった。
周囲の友人たちが恋愛を楽しむなか、自分も恋がしてみたくなって、学園一の人気者だった淳哉に思いきって告白した。
けれど、彼は冷たく、どこか距離のある人だった。付き合っていても、ときめきは一度もなかった。
たった半月で、その関係は終わった。
そして二度目の恋―それが翔真だった。
彼は彼女の人生の中で最も長く、深く刻まれた存在だった。
その美しい顔立ちゆえに、枝里の周囲には常に言い寄る男が絶えなかった。だが、誰よりもしつこく、誰よりも執念深く彼女を追いかけたのは、翔真だった。
彼は枝里のためなら、何でもした。
雑誌で彼女が目を留めたネックレスを覚えて、海を越えてサザビーズのオークションで落札してプレゼントした。
彼女が薔薇が好きだと言えば、一面の庭園を丸ごと買い取り、バラを植え尽くした。
出会った日、付き合い始めた日、付き合って一周年、二周年、三周年……
記念日は欠かさず、毎年違うサプライズを用意していた。
だが、半年前―
枝里の両親が事故に遭い、植物状態になったその日を境に、翔真の態度は変わっていった。
そして、彼は親友の妹―美羽と、距離を縮めはじめたのだ。
最初、彼はこう言った。
「兄貴分に頼まれて彼女の面倒を見てるだけさ。まだ若い子だし、少し気を配るくらい当然だろ?」
だからこそ、雷が怖くて泣き出した美羽のために真夜中に駆けつけたり、長い行列に並んでタピオカを買ってきたりした。
それだけではなく、美羽が彼に書いたラブレターを枝里が見つけ、問い詰めたときでさえ、彼は無頓着な様子で、困ったように笑って言った。
「まだ子どもなんだよ。たぶん、『好き』ってどういうことかも分かってないんだ。気にすることないさ」
そんなある日。
枝里は、霧島グループの最新医療技術によって、両親が目覚めるかもしれないと知った。
翔真が独占欲の強い人間であり、淳哉という元恋人の存在を特に気にしていることも分かっていたため、事前に話しておこうと決めていた。
だが、彼のもとを訪れたその日─
枝里が偶然目にしたのは、酔った美羽が彼に問いかける場面だった。
「翔真さん、もし最初に出会ったのが私だったら……私を選んでくれた?」
翔真は黙ったまま、何も答えなかった。
美羽は泣きながら彼の服を掴み、縋るように言った。
「枝里さんはいないのよ。少しくらい、私を慰めてくれてもいいじゃない……」
そしてしばらく沈黙のあと、彼は小さく答えた。
「……ああ、そうだな」
その瞬間、扉の外にいた枝里の身体は、氷の中に落ちたかのように冷え込んだ。
それなら、もう元恋人の件を話す必要もない。
これからは、心も身体も、彼から引き揚げよう。
脳裏に焼きついたその場面と、目の前の現実が重なっていく。
枝里は静かに微笑み、目の前の男に言い放った。
「分かったわ。二人でごゆっくりどうぞ」
そう言って、彼女は階段を上がろうと一歩を踏み出した。
その時、翔真は呆然と立ち尽くしていた。
長い時間をかけて彼女を説得する準備までしていたというのに、彼女がそんな態度を取るとは、想像もしていなかったのだ。
動揺した彼は、慌てて枝里の手を掴み、小さな声で尋ねた。
「枝里ちゃん……何か、あったのか?」
枝里はただ、静かに彼を見つめ返すだけだった。
そう、たった一つ大きな出来事があった。
彼女はもう、彼を必要としなくなった。
そして、元恋人のもとへ戻る決意をしたのだった。
第2話
心の中にはさざ波のように感情が渦巻いていた。
けれど枝里の表情は、水面のように静かだった。
「何かって?別に。ちょっと疲れただけよ。休ませてもらうわ」
微笑みながら、彼女はそっと言った。
翔真は眉をひそめ、さらに言葉を続けようとしたそのとき―
美羽が軽やかに駆け寄り、彼の腕にしなだれかかった。
「翔真さん〜、まだゲーム終わってないよ!今日は結婚前の最後の独身パーティーなんだから、枝里さんのことばかり気にしないで、こっちにも付き合ってよ。ね?パーティーが終わったら、山に日の出を見に行こう?」
上目遣いで彼を見つめるその瞳は、甘ったるく計算された光を宿していた。
長い沈黙の後、翔真は無言で彼女の髪を優しく撫でた。
「わかったよ。今日は、付き合ってあげる」
枝里はふっと笑みを浮かべ、何も言わずに階段を上っていった。もはやその二人に、心を乱されることはなかった。
パーティーの喧騒は夜更けまで続き、彼女はベッドに横たわったまま、目を閉じてもなかなか眠れなかった。
ようやく、遠くで車のクラクションが響く。彼らが別荘を去ったあと、屋敷には静寂が戻った。
翌朝、スマートフォンを開くと、通知は「99+」
美羽から、延々と写真が送られてきていた。
どれもが翔真とのツーショット―まるで見せつけるように。
テントの前で、彼が彼女の肩に上着をかける写真。
前髪を優しく整える写真。
彼の肩にもたれて、日の出を見つめる微笑ましい写真。
……
画面のいちばん下に、どこか飄々としたひと言が添えられていた。
【きゃ〜っ、ごめんなさいっ☆自分用に保存しようとしたのに、うっかり枝里さんに送っちゃった〜。怒らないでね?翔真さんは妹としてしか見てないから、優しくしてくれただけだよっ!】
枝里は静かに笑った。指先で、淡々と文字を打ち込む。
【大丈夫よ。これから、翔真は『妹』のあなたに譲るわ】
送信ボタンを押したその瞬間、もう迷いはなかった。
彼女は黙々と、出発前に処分すべき「過去」の整理に取りかかった。
書斎のキャビネットを開けると、懐かしいラブレターの束が出てきた。それは、翔真が彼女を追いかけていた頃、何度も書いてくれたものだった。
けれど―
今、その便箋の上には、黒いインクが無数に走っていた。
どの手紙も、彼女の名前は無惨にも塗りつぶされ、そこに記されていたのは「美羽」という名前。
さらに、過去の思い出の写真には、彼女の顔がナイフでくり抜かれ、そこに貼られていたのは、満面の笑みを浮かべる美羽の顔だった。
まるで、彼女に「成り代わった」かのような偽物の笑顔。
枝里は表情一つ変えず、ライターを取り出して火を灯した。手紙も写真も、一枚ずつ火の中へと放り込んでいく。
炎が勢いよく燃え上がり、過去の記憶を食らうようにパチパチと音を立てた。
その瞬間、扉が開いた。そこにいたのは翔真だった。
燃え上がる炎を見た彼の顔色が一変し、何のためらいもなく火の中へ手を突っ込んだ。
火傷の痛みすら感じていないのか、彼の目にはただ燃えゆく「記憶」しか映っていなかった。
ようやく火を消し、写真を救い出した彼は、焦った声で言った。
「枝里……なんでこんなことを……?あれは、俺たちの思い出だろ?年を取ったら、子どもたちに話して聞かせようって、言ってたじゃないか……」
そう言いながら、彼は写真の灰を払った。
だが、そこに映っていたのは、自分と「美羽」の笑顔だった。
彼の指が止まり、言葉が喉につかえて出てこなかった。
沈黙のあと、ようやく震える声で言った。
「美羽は、ただの小娘だから。ちょっとした、いたずらみたいなもので……」
小娘?あの子はもう大人でしょう。
枝里は微かに唇を引き上げ、淡々と告げた。
「好きなら、ずっと取っておけば?毎日、眺めればいい」
そう言って背を向けた。
その背中を見て、ようやく翔真は彼女の怒りに気づく。
慌てて彼女を後ろから抱き締め、耳元で懇願するように囁いた。
「ごめん、枝里……昨日のゲームのこと、怒ってるんだよな?
あれは、ただの冗談だったんだ。遊びの延長で……俺の心には君しかいないよ。君だけを……ずっと愛してる。君なら分かってくれるよな?」
その低く、優しい声―
以前なら、それだけで彼女の心は揺らいだだろう。
けれど今の彼女には、何一つ響かなかった。
沈黙を保つ彼女に焦った彼は、さらに誓いを重ねた。
「枝里、誓うよ。俺はこの先、一生、君だけを愛する。他の誰でもない。
もしそれを裏切ったら……すべてを失って、誰にも愛されずに一生孤独で終わっていい。そう誓う!
もう二度と、美羽に勝手なことはさせない。俺のものに触れさせない。約束する」
枝里はゆっくりと振り返った。
彼の端正な顔立ち。まっすぐに自分を見つめるその瞳―どこまでも誠実に見えた。
もし「昔の彼女」だったなら。
この言葉だけで、きっとすぐに許してしまっていただろう。
でも今の彼女は静かに、その腕をほどいた。
「もう、遅いわ。そろそろ、休ませてもらう」
第3話
その言葉を聞いて、翔真は何も言わず、ただ静かに枝里の背後に寄り添った。寝るときでさえ、彼女を腕の中に抱きしめ、まるで離れることを恐れるかのように手放そうとしなかった。
翌朝。
枝里の顔には、やはり笑みの気配すらなかった。翔真は焦りを感じながら、アシスタントに電話をかけた。
「この前のオークションで落札したルビーのネックレス、家に届けてくれ」
しばらくして、アシスタントがドアをノックした。
翔真は丁寧にラッピングされた小箱を受け取ると、それを彼女の前にそっと置いてゆっくり開いた。
「枝里、これは仲直りのプレゼントだ……もう怒るなよ」
目の前に現れたのは宝石の眩い光を放つネックレス。けれど、彼女の瞳には何の感情も浮かばなかった。
「怒ってなんかないわ」
穏やかな声だったが、それはまるで壁のように距離を感じさせた。その冷たさに、彼の不安はさらに募った。
「じゃあ……君が前に好きだったケーキを買ってくるよ。南の町の、あの店のやつ……あれを食べると、いつも嬉しそうだったから……」
「でも、それは『前』の話でしょ?」
その一言に、彼は言葉を失った。
初めてだった。
どれだけ宥めても、彼女の心が一切動かない。
空気を変えようと、翔真は枝里を連れて、彼女の両親が眠るVIP病室へと足を運んだ。
大きな手をそっと彼女の肩に置き、やがて優しく抱き寄せる。
「枝里、ずっと会社に治療薬と技術の開発を進めさせてきたんだ。ようやく最終段階に来た。信じてくれ。
君の両親に、君のウェディングドレス姿を見せたい。
その日、君はきっとこの世界でいちばん美しく、いちばん幸せな花嫁になる」
彼は彼女の手を引き、病床の前へと立つ。
「お父さん、お母さん、私は翔真です。あと数日で枝里と結婚します。彼女を一生、大切に守っていきます」
その横顔を見つめながら、枝里は心の奥で冷たく笑っていた。
何を今さら。
彼女はもう、彼を必要としていなかった。
あの夜、彼が美羽と「ゲーム」に興じていたその間に―
彼女は、両親を救う手段を見つけ出していたのだ。
もう虚ろな約束も、根拠のない優しさもいらなかった。
そのとき、翔真のスマホが鳴った。彼のアシスタントからの電話だった。
彼が切ろうとしたその瞬間―
「出ていいわ。私は父さん母さんと、少しだけ三人で居たい」
彼は戸惑いながらも、そっと彼女の髪を撫でて部屋を出ていった。
しかし、ドアが閉まって間もなく、再びノブが回る音がした。
振り返った枝里の目に映ったのは―翔真ではなく、両親の主治医であり、家族ぐるみで付き合いのある医師・高野慎也(たかの・しんや)の姿だった。
「おじさん、こんにちは」
彼女はすぐに立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
その目が赤く潤んでいるのを見て、高野先生はふっと息を吐いた。
「枝里ちゃん、そんなに気を落とすな。
前も言っただろう?霧島グループの最新医療技術を使えば、君のご両親が目を覚ます可能性は十分にある。
ただし、あの霧島淳哉と直接連絡を取るのは、そう簡単じゃない。
……だがな、何とか連絡先を手に入れたんだ」
そう言って、高野先生は名刺をそっと彼女の手に渡した。
金箔で刻まれた名前と電話番号。
薄いその名刺から、まだ彼の手の温もりがかすかに残っている気がした。
華を添えるのは誰にでもできる。
けれど、本当に困っている時に手を差し伸べられる人は、そう多くはない―
そんな思いが胸に広がり、枝里は心の中でそっと感謝の言葉をつぶやいた。
「もう大丈夫です」と答えかけたその矢先、背後から翔真の冷たく鋭い声が突然響いた。
「枝里!」
振り返ると、そこには険しい表情の翔真が立っていた。彼は一切の迷いもなく彼女の手から名刺を奪い取り、高野先生に向き直ると、低く、そして静かに言った。
「高野先生、お手数をおかけしました。
ですが、霧島さんにお力をお借りする必要はありません。枝里の婚約者はこの俺です。ご両親の治療についても、俺が必ずなんとかします」
そう言うと、名刺をその場でビリビリに引き裂いた。
その目には醜く燃え盛る嫉妬が滲んでいた。
たった一枚の名刺―それすらも、彼には耐え難かったのだ。
その様子を見て、枝里は思わず胸の奥で冷笑を漏らす。
翔真、たかが名刺一枚で、そんなに取り乱すなんて。
じゃあ―
数日後、私があなたを捨てて、結婚式を投げ出し、霧島淳哉のもとへ戻ると知ったら。
そのとき、あなたは……どんな顔を見せるのかしら?
第4話
翌朝、翔真はいつもより早く家を出ていった。残されたのは、冷蔵庫に貼られた一枚のメモだけだった。
【枝里、薬の研究開発の進捗を確認しに行ってくる。夜は戻れないかもしれない。待たなくていいよ】
枝里は、そのメモを淡々と剥がし、無造作に丸めてゴミ箱に放った。その一連の動作に、感情の揺れは一切見られなかった。
だが、その静けさを破るように、美羽から立て続けにメッセージが届き始めた。
【枝里さん、このドレスあんまり好きじゃないって言ったのに、翔真さんが『似合う』って言い張って、結局買ってくれたの】
【今日、翔真さんと遊園地に行ったの。彼の腕の中、本当にあったかくて、すごく安心できた。抱きしめられてたら、ジェットコースターも全然怖くなかったよ】
【それから、カップル専用のレストランにも行ったよ。でも誤解しないでね?他のカップルみたいにキスとかハグとかはしてないから。ただ食事しただけ】
指先が画面をスクロールするたびに、その動きはどこまでも冷ややかだった。挑発と独占欲が滲む文面に、枝里はわずかに唇を歪める。
これが、あなたの言う「薬の研究」?
似たようなメッセージは、その後も数日間、途切れることはなかった。
その間、翔真は一度も家に帰ってこなかった。
そんなある晩―
美羽からの着信が何度も鳴り響いた。拒否しても、またすぐにかかってくる。まるで執着のように。
うんざりした枝里は、ついに右へスワイプして通話を繋いだ。
電話の向こうから聞こえてきたのは、涙交じりで、それでいてどこか誇らしげな美羽の声だった。
「枝里さん……どうして出てくれなかったの?翔真さんが、事故に遭ったの!
私が車の中で、どうしてもイチゴを食べさせてって甘えちゃって……
彼、それで気を取られちゃったの。
気づいたら、暴走トラックが目の前に―
その瞬間、彼は真っ先に私をかばってくれたの。
私はかすり傷ひとつないのに、彼は血まみれで手術室に運ばれて……
丸一日一晩も必死に治療受けて、やっと危険な状態を脱したの。看護師さんが言ってたのよ、翔真さん、ずっと私の名前を呼んでたって……
あんなにひどい怪我なのに、心配してたのは私のことばかりだったの……」
その言葉に、枝里は心がぎゅっと締めつけられるような痛みが走った。
そして、ふと脳裏に浮かんだのは―三年前の記憶だった。
あの夜、彼と出席した華やかなパーティー。
会場の天井から、突然落下してきたシャンデリア。
誰よりも早く、彼は彼女を庇って飛び込んできた。
枝里は無傷。
彼は、肋骨を二本、折った。
そのとき彼女は、彼の病室のベッドのそばで泣きじゃくっていた。
「バカじゃないの……!?普通だったらああいう時、誰だって逃げるのに……どうして私をかばって飛び込んでくるのよ……
翔真の、大バカ、大バカ者!
この世でいちばんの、おバカさんだよ……」
彼はあまりの痛みに、まともに動くことすらできなかった。それでも微笑みながら身を起こし、彼女の頬に伝う涙をそっと指先でぬぐった。
その瞳には、深い慈しみと愛おしさが満ちていた。
「枝里……そんなに泣かないで。肋骨を二本やられたけど、痛いなんて一言も言わなかったのにさ。
でも、君がそんなふうに泣くと……本当に、半分、命が削られる気がするんだよ。
君は俺の人生でいちばん大切な人だ。命よりも大事な存在なんだ。だからこそ、どんなことがあっても守る、今も、これからも―」
でも、今の彼は、別の誰かのためにも命を懸けようとしている。
翔真は、本当に美羽のことを「親友の妹」としか思っていないのだろうか?
枝里はかすかに唇を引き上げた。
「そんなにひどい怪我してまで守ったんだから、ちゃんと看病してあげて。それじゃ、切るね」
そう言って、迷いも未練もなく電話を切った。
ツー、ツー……と鳴り続ける無機質な音。
思い通りの反応を得られず、美羽は怒りを露わにし、思わずスマホを床へと叩きつけそうになった。
それ以降、翔真は病院で静養していたが、枝里は一度も見舞いに訪れることはなかった。彼の容態を気にかける様子すら、見せなかった。
それを見かねた翔真のアシスタントが、何度もメッセージを送り続けた。
【東雲さん、高峯社長は研究所へ向かう途中で事故に遭いました。現在入院中で、東雲さんにお会いしたがっています。一度だけでも、顔を見せていただけませんか?】
もちろん、彼が「誰のために」怪我をしたのか、そのことは伏せられていた。
だが枝里は、すでにすべてを知っていた。
メッセージを見ては、黙って閉じる。無視を貫いた。
【東雲さん、社長は今日だけで十数回、東雲さんは来ないのかと尋ねていました。どうか、少しでも顔を見せていただけませんか?】
【東雲さん……社長は、本当に東雲さんを待ち続けています……】
数十件にも及ぶメッセージ。それでも彼女は、一通たりとも返信しなかった。
彼女には、もっと大切なことがあった―旅立ちの準備だ。
その夜、荷物を半分ほど詰め終えたころ、外から鋭いクラクションの音が響いた。
すぐにアシスタントの慌てた叫び声が続いた。
「社長、ダメですってば!まだ傷も塞がってないのに、勝手に退院なんて……医師も止めてるんですよ!」
その声に、枝里の手が一瞬止まった。
そして次の瞬間、玄関のドアが勢いよく開かれた。
現れたのは、血に染まった病衣姿の翔真だった。
背中の包帯は、すでに赤く染まり切っていた。それでも、彼の瞳には彼女の姿を見つけた瞬間の「安堵」しか映っていなかった。
まるで、生き返ったかのように―彼は駆け寄り、彼女を力いっぱい抱きしめた。
「枝里、ずっと会いたかった……
君が来てくれなくて、怖くて……何かあったんじゃないかって、気が気じゃなかったんだ」
彼は顎を彼女の肩口に埋め、そのぬくもりを確かめるように、強く、しがみつくように抱きしめた。その腕には、決して離さないという強い意志と執着がこもっていた。
強すぎるその抱擁に、息苦しさを覚えた枝里は、そっと彼の体を押し返した。
それを見て、アシスタントは気を利かせて静かに部屋を出た。
やつれた頬、血の滲んだ病衣。それでも、彼の整った面差しは変わらなかった。ただ、その瞳だけが、捨てられた子犬のように切なげに潤んでいた。
彼が何かを言いかけた、そのとき―
ふと視線の端に、開いたスーツケースが映り込んだ。
中には、きちんと畳まれた衣類が整然と詰められていた。
その光景を目にした瞬間、翔真の思考は止まった。世界の音が、すべて消えた。
彼は思わず彼女の手を握りしめ、震える声で言った。
「枝里、君、荷物をまとめてるの?なんで、何も言わずに?まさか……どこかへ行こうとしてるのか?」
第5話
立て続けに投げかけた三つの問いかけが彼の動揺を如実に物語っていた。
けれど、枝里は何事もなかったかのように、平然と嘘をついた。
「ちょっと荷物をまとめて、病院に泊まり込もうと思ってるの。両親とゆっくり話したくて」
その言葉に、翔真は一瞬きょとんとしたが、すぐに安堵の笑みを浮かべた。
彼女をそっと抱き寄せ、優しく囁く。
「枝里、お母さんとお父さんのことは心配なのは分かるけど、ちゃんと人を手配してあるから大丈夫。俺たちはもうすぐ結婚するんだから、今の君に必要なのは、きれいな花嫁になる準備だよ」
そう言って、彼はスマートフォンを取り出し、画面いっぱいに並んだ細かなデータを彼女に見せた。
「これが、薬の開発の進捗だ」
枝里は、その内容も意味もよく分からなかったし、そもそも興味もなかった。ただ、形式的に頷いて見せるだけだった。
そのとき、翔真の背中に滲んだ血に気づいたアシスタントが、緊張した声で言った。
「社長、もう十分外にいらっしゃいました。東雲さんにもお会いになったことですし、そろそろ病院に戻られては?」
何度もそう促されても、翔真は聞こえないふりをし、なおも彼女の手を名残惜しげに握り続けていた。
「枝里……俺、事故に遭ってから、君に一度も会えなかったのが本当に辛かった。お願いだから、少しだけでも病院に来てくれないか?」
「美羽さんが、いるんでしょう?」
柔らかく微笑みながら、枝里はやんわりとその手を振り払った。
そのひと言に、翔真の表情が固まった。
「彼女なんて、君とは比べものにならない。ただの親友の妹だよ。君は俺の妻になる人なんだ。俺が会いたいのは、妻である君だけよ」
そう言って、彼はシャツの襟元を引き下げ、包帯に巻かれた傷を見せて、彼女の同情を引こうとした。
だが枝里の声は冷静だった。
「最近ちょっと体調が悪くて……病院には行けそうにないわ」
「体調が悪い?風邪?それとも……?医者には診てもらった?今すぐプライベートドクターを呼ぶよ」
自分が傷だらけの身でありながら、翔真の意識はすべて枝里に向いていた。何度も彼女の額に手を当てて、熱がないかを確かめようとする。
枝里は、自然な動作でその手を避けた。
「ちょっとした不調だから、気にしないで」
それでも彼は納得できず、彼女の顔色が冴えないのを見ると、すぐに往診を手配し、アシスタントには栄養補助食品の買い出しを命じた。
アシスタントの再三の説得を経て、彼はしぶしぶ病院に戻ることを決めた。
「……これ、持っていくね。君の服。君の匂いがないと、眠れそうにないから」
そう言って、クローゼットから彼女の服を一枚取り出し、名残惜しそうに立ち去っていった。
その背中を見送りながらも、枝里の表情は最後まで変わらなかった。
その後も、彼女が病院を訪れることはなかった。翔真からのメッセージにも、一切返信しなかった。
「どうして返事くれないの?」という問いにも、「忙しいの」の四文字だけで済ませた。
彼はそれを、結婚準備に追われているからだと信じ、連絡を控えるようになった。
だが実際、彼女が忙しくしていたのは―去るための準備だった。
荷造りもほぼ終わりかけた頃、翔真は退院した。
「翔真さん、お医者さんが言ってたでしょ?傷に水が触れると炎症起こすって。辛いものも控えないと。食べていいもの、リストにして送ったから、ちゃんと見てね?」
車のドアが開き、美羽が彼を気遣うようにそっと支えながら現れた。
彼女より頭一つ分ほど背の高い翔真は、微笑みながら答えた。
「分かってるよ。でも君、女の子のくせに随分口うるさいな。気をつけないと『おかん』って呼ばれるぞ」
美羽は顔を赤く染め、恥ずかしそうに彼を睨んだ。
「それでもいいの。私は、翔真さんのためなら、なんだってするから」
そのやり取りには、確かに親密な空気が流れていた。
だがそのとき、足元の段差に気づかなかった美羽が、つまずいて前のめりになった。
「美羽!」
翔真がとっさに手を伸ばし、彼女を抱き留める。
そのまま二人は一緒に倒れ込む形となり、翔真が下、美羽が上。
至近距離で見つめ合う二人。呼吸が重なり、互いの吐息が頬を掠める。
ふと、時間が止まったかのように、あたりは静まり返った。
第6話
枝里は少し離れた場所から、その光景をじっと見つめていた。
「手伝いましょうか?」
その声に驚いた美羽は、顔を真っ赤に染めて慌てて立ち上がり、視線を逸らしながら気まずそうに笑った。
「枝里さん、誤解しないでね。さっき、私が転んじゃって……翔真さんが助けてくれただけなの」
翔真も、服についた埃を払いつつ彼女の前に出てきて、慌てて釈明した。
「枝里、本当にただの事故なんだ。変な誤解しないでほしい」
枝里が何か言おうとしたそのとき、翔真の視線がリビングに並べられた複数のスーツケースに止まった。
胸騒ぎを覚えた彼は、思わず彼女の手を取る。
「枝里、お父さんとお母さんのことは俺に任せてって言ったよね?どうしてこんなに荷物をまとめてるの?」
枝里はスーツケースを一瞥をくれたあと、淡々と答えた。
「最近、片付けにハマっててね。ちょっと練習してみたくなっただけ」
そう言って、彼女は背を向けて階段を上がっていった。
その背中を見送る翔真の胸には、言いようのない不安が広がっていく。
片付け?そんなの、彼女の趣味じゃなかったはずだ。
だが、枝里にとって翔真の心配を気にかける余裕はなかった。
荷造りはほとんど終わっており、残るはたったひとつ―両親が遺してくれた翡翠のブレスレットだけ。
数日かけて家中を探しても見つからなかった。
大切に保管していたものが、突然なくなるなんてあり得ない。その事実が、胸の奥に不穏な影を落としていた。
そのとき、背後から声がした。
「枝里さん、もしかしてこれを探してるの?」
振り返ると、美羽が手にしていたのは、見覚えのあるビロードの小箱。蓋が開かれ、中には緑の翡翠のブレスレットが静かに収められていた。
「……それ、どうしてあなたが持ってるの?」
枝里が手を伸ばそうとすると、美羽はくすりと笑いながら身体を引き、箱の中からブレスレットを取り出した。
「パーティーのときに見て、すごく素敵だなって思って……つい持って帰っちゃったの。もうすぐ私、誕生日なの、プレゼントにくれてもいいでしょ?」
プレゼント?
「ただの妹」だと何度も聞かされてきた彼女が、図々しくも他人の物を欲しがっている。
枝里は冷ややかな視線を向け、低い声で告げた。
「黙って人の物を持ち出すのは、『盗み』って言うのよ。返して。それは私にとって大切なもの。あげようなんて、一度も思ったことない」
彼女の差し出した手を無視して、美羽はどこか無邪気を装いながら、ブレスレットを掲げてみせた。
カランッ。
翡翠のブレスレットが床に落ち、砕け散る音が部屋に響く。
「あっ……!」
驚いたような声を上げながらも、美羽の目には、かすかな満足の色が浮かんでいた。
「ごめんなさい、手が滑っちゃって……そんなに大事な物だったの?もし必要なら、弁償するけど?」
床に散らばる翡翠の破片。時間が止まったような静けさが部屋を支配した。
それは、両親が最後に残してくれた形見。
「東雲家の家宝」として、ずっと彼女を守ってくれると信じていたお守り。
幼い頃、両親に抱かれて笑ったあの記憶。
「パパとママがいるから、私はずっと幸せでいられるよ」
けれど、その約束は叶わなかった。その後まもなく両親は交通事故に遭い、今この時も昏睡しているまま。
このブレスレットが、彼らのぬくもりの、最後の証だった。
怒りと絶望、悲しみと悔しさが一気に込み上げ、枝里は反射的に手を振り上げた。
パチンッ。
乾いた音が部屋に響き、美羽の頬が瞬く間に赤く腫れ上がった。
「これは東雲家の家宝よ。金で買えるものじゃない!この書斎には監視カメラがあるわ。あなたを『故意による器物損壊』で訴えるから!」
美羽の顔から血の気が引いた。その瞬間、階下で物音がした。
翔真が駆け上がってきたのは、ほんの数秒後のことだった。
状況も分からぬまま、美羽は彼の胸に飛び込む。頬を押さえ、今にも泣き出しそうな顔で訴える。
「翔真さん、私、ただ枝里さんの物をうっかり落としちゃっただけなのに、ビンタされちゃって。すごく痛い、跡、残っちゃうかな……」
大粒の涙が頬を伝って流れ落ちる。腫れ上がったその顔には、どこか芝居がかった哀れさを帯びていた。
第7話
その言葉を耳にした瞬間、翔真の目に淡い哀しみがにじんだ。
「枝里……ただの物じゃないか。壊れたなら、俺が美羽の代わりに弁償する。そんなに怒ることないだろ?」
枝里は、涙に潤んだ目で叫んだ。
「だったら……その『ただの物』を、ちゃんと見て!」
彼は戸惑いながら視線を落とし、そして動きを止めた。
それが何であるか——翔真はすぐに理解した。
それは、枝里の両親が遺した唯一の形見、翡翠のブレスレットだった。事故で両親が倒れたあの頃、彼女は毎日のようにそれを手に取り、手入れをしていた。
翔真の声は、やわらぎを帯び、優しくなった。
「枝里……わかってるよ。でも、美羽は悪気があってやったわけじゃない。修理できるように手を尽くすよ。だから、もう少しだけ冷静になって……な?」
そう言いながら、彼は美羽の方へ振り返り、表情を一変させた。
「まだここにいるのか?悪いことをしたなら、さっさと出て行け!」
その一言に、美羽は唇を震わせ、目に涙を浮かべて顔を覆い、そのまま泣きながら部屋を飛び出していった。
彼女の姿を見届けてから、翔真はそっと枝里に近づいた。
「枝里、見ただろ?ちゃんと美羽を叱った。もう、そんなに怒らないでくれよ……」
叱った?あの一言だけで?
それで、両親が残してくれた大切なものが戻ってくるとでも?
枝里は小さく冷笑し、無言で彼の腕を振り払った。
黙々と床に散らばった翡翠の破片を拾い集め、そっと布に包む。翔真が手を貸そうとしたのも、無言で拒んだ。
「関わらないで。あれは、わざとだった。絶対に許さない」
その声は、氷のように冷たく硬かった。
彼女は書斎の監視カメラの映像をコピーし、翡翠の破片を携えて警察署へ向かった。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「東雲枝里です」
対応した警官は、何度も彼女の顔と資料を見比べた末、静かに首を横に振った。
「申し訳ありませんが、本件については対応できかねます。お引き取りください」
思いもよらない言葉に、枝里は無意識に拳を握りしめた。胸の奥に、じわじわと不安が広がっていく。
その後、二軒目、三軒目……と警察署を回ったが、返ってくるのはどこも同じ返答だった。
誰一人として、彼女の訴えに耳を傾けようとはしかなった。
五軒目、ついに枝里は、カウンターに証拠映像のデータを叩きつけた。
「証拠なら揃ってる。損害額だって、立件に十分値するはず。なのに、どうして、誰も動こうとしないの!?」
警官たちは視線を逸らし、無言を貫いた。
その時、一人の女性警官がそっと近づき、申し訳なさそうに小さな声で告げた。
「東雲さん……本当にごめんなさい。私たちの判断ではないんです。あなたの婚約者が、京市のすべての警察署に『一之瀬美羽には手を出すな』と根回ししていて……
これは家族同士の問題で、東雲さんがちょっと感情的になっているだけだと……」
その言葉を聞いた瞬間、枝里の体から全ての力が抜けていった。
冬の冷たい風の中で、頭から氷水を浴びせられたようだった。足の先から、心の奥まで、すべてが凍りついた。
翔真は、そこまでして美羽を守るのか。
彼は、あの翡翠の意味を知っていた。それが彼女にとって、どれほど大切な物であるかも。壊された時、どれほど絶望したかも。
すべてわかっていながら、守ったのは彼女ではなく——美羽だった。
抜け殻のようになった枝里は、警察署をあとにした。
まるで魂を失った人形のように、重い足取りで外に出る。
そのとき——
夜空に、ドンと響く音と共に、花火が咲いた。
ただ目の前だけでなく、京市全体の空が光に包まれていく。
夜空に浮かび上がった、燃え尽きそうな文字。
【美羽、ごめん】
一発、また一発。花火が打ち上がるたびに、文字が少しずつ重なっていく。
その光景を見つめながら、枝里はふっと笑った。そして、涙がこぼれ落ちた。
枝里、これが、あなたが七年愛した男の「答え」。
あの時、必死に口説いてきた男。
「一生守る」と誓った、あの男。
そして今——
あなたが、地獄の底にいるこの瞬間、彼はその「地獄」を作り出した張本人を優しく慰めている。
第8話
そのとき、携帯が小刻みに振動した。
画面には、美羽からの二通のメッセージが浮かんでいた。
【翔真さん、謝ってくれてありがとう。まぁ……ギリギリで許してあげるわ!】
【ふん、でもまたあのババアのせいで私を追い出したら、もう一生口きいてあげないんだからね!】
数分後、さらにメッセージが届いた。
【きゃー、ごめんなさい、枝里さん!うっかり、翔真さんに送るつもりのメッセージ、間違えて送っちゃったみたい!見なかったことにしてくれると嬉しいな♡】
枝里はその文面を見て、ふっと微笑んだ。涙をそっと拭い取り、携帯を静かにポケットへしまう。
冷たい夜気を纏ったまま帰宅すると、待ち構えていた翔真が駆け寄り、彼女を抱き締めた。
「枝里、どこに行ってたんだ!一日中、君を探して……心配でたまらなかった……」
彼は彼女の全身をくまなく見回し、怪我がないか確認するように手を動かした。
焦燥と不安の色が、彼の目に濃く滲んでいる。
枝里は無表情のまま、翔真の目をまっすぐ見つめた。
「私の案件を京市中の警察に受けさせないよう指示したの、あなたでしょ。私がどこにいたかなんて、わかってるはずよね?」
その言葉に、翔真は一瞬言葉を失い、やがて重い溜息を吐いた。
「枝里、たかがこんなことで、そこまで怒ることないだろう。美羽はまだ若い。もし罪に問われたら、親友との関係も壊れてしまう……」
両親の形見を壊されても「大したことじゃない」と言い切る彼。その一言が、胸の奥を氷の刃のように貫いた。
枝里の瞳に滲んだ絶望を気付かずに、翔真は言い続けた。
「安心して。ブレスレットは俺が責任を持って直す。世界中の修復の名匠を探して、必ず元通りにするから……だから、もう水に流そう?」
枝里は薄く笑った。
「もう戻らないわ。形だけ修復しても、壊れたものは壊れたまま」
それは翡翠のブレスレットだけでなく、二人の関係そのものだった。
翔真はその言葉の裏に含まれた意味に気づき、胸がざわついた。思わず彼女の手をぎゅっと握りしめたが、彼女は自然な仕草で、さりげなくその手をすり抜けた。
その後数日、枝里は何も語らず、感情の波すら見せなかった。
まるで何もかもを、静かに心の奥へ封じ込めたかのように。
かつて美羽に勝手に着られたウェディングドレスを思い出し、翔真は改めて新しいドレスを選んでほしいと、彼女をドレスショップへ連れ出す。
「枝里、このマーメイドラインのドレス……君にぴったりだと思うんだ」
彼は明るい笑顔を向けたが、彼女の返答は冷ややかだった。
「うん」
その一言が、彼の表情を固まらせる。
「じゃあ、これにしよう。前のドレスにも少し似てるし……」
「あなたが決めて」
彼女は視線も向けず、すっとその場を離れた。
それでも諦めきれず、翔真は彼女の手を取って言った。
「枝里、式場を見に行かない?全部新しく飾り付けたんだ。きっと気に入るよ」
そういうと、彼は枝里を急いで車に乗せ、式場へと向かった。
海外から空輸で送られてきた無数の花々が甘い香りを放ち、空には数え切れないほどのピンクのバルーンがふわふわと漂っていた。夢のようにロマンチックな空間だった。
だが、会場の扉を開けた瞬間―
そこにいたのは、思いがけない来訪者だった。
「……美羽?どうしてここに?」
翔真は眉をひそめ、冷ややかに問いただす。
美羽は目を赤く染め、立ち上がった。
「枝里さん、翔真さん、この前のこと、本当にごめんなさい……どうしても謝りたくて。結婚前に、少しでも枝里さんのためにできることをしたくて。それが、せめてもの償いになると思って……」
その声には涙混じりの響きがあり、一見すると誠実な謝罪にも見えた。
枝里は彼女を黙って見つめていた。何かを企んでいる気配を感じながらも、その真意を測りかねていた。
しかし、美羽は「許された」と思い込んだのか、急に涙を拭い、クラッカーを手に取った。
「枝里さん、翔真さん、これは私が用意したクラッカー!お二人の幸せを祝って、ちょっとだけフライングでお祝いを……」
向きを確認し、枝里に向けてクラッカーの紐を引いた。
パンッ。
だが、舞い上がるはずだった紙吹雪の代わりに——
飛び出したのは、液体。
硫酸だった。
「きゃっ!」
枝里の瞳が見開かれる。反射的に腕で顔を庇い、身をよじる。
だが間に合わなかった。
ジュッという音が響き、焼け付くような激痛が彼女の腕を貫いた。
苦痛に顔を歪め、唇には血が滲む。赤黒くただれた腕が、痛ましく視界に映る。
「枝里!」
翔真は青ざめた顔で彼女に駆け寄り、すぐに支えた。
怒気を孕んだ目で美羽を睨みつけ、叫ぶ。
「美羽!これは一体どういうことだ!」
会場が凍りつくような沈黙に包まれる中、美羽は震える声で言った。
「わ、私……普通のクラッカーのはずだったのに、なんで……」
だがその目には、確かに宿る——満足の光。
涙をぽろぽろと流しながらも、彼女は翔真の袖を掴み、震える声で訴える。
「翔真さん、信じて、私がそんなことするわけ……」
「二度と触るな!!」
怒鳴り声とともに、彼は彼女の手を振り払った。
枝里の顔から血の気がひき、冷や汗が滲み、頬は紙のように白くなった。体がぐらりと揺れ、二、三歩よろめいた末、そのまま意識を失って崩れ落ちた。
「枝里っ!!」
翔真はすぐに彼女を抱き上げ、全力で病院へと駆け出した。
第9話
目を覚ました瞬間、鼻先に鋭く染み入る消毒液の匂いが突き刺さった。
枝里はゆっくりとまぶたを開き、薄暗い天井を見上げる。
左腕は分厚い包帯で巻かれており、ほんのわずかに動かすだけで、骨の奥をえぐるような激痛が走った。
病室のドアが音を立てて開き、看護師が入ってきた。
起き上がろうとする彼女を見て、看護師は慌てて制止した。
「東雲さん、まだ体を動かしちゃダメですよ。皮膚移植の手術を受けたばかりですから、しっかり安静にしていてくださいね」
包帯を交換しながら、看護師は思わず話し出す。
「一体何があったんですか?どうして硫酸なんて……
でも、高峯さんは本当に東雲さんのことを大切にしてるんですね。
莫大な費用をかけて、海外から名医を招いてまで、東雲さんの腕が元通りになるように全力を尽くして。
昨日は一晩中、東雲さんの枕元で寝ずに付き添っていたんですよ」
ちょうどその言葉が終わるころ、病室のドアが再び開いた。
翔真が枝里の目覚めを聞いて、駆け込んできたのだ。
彼は彼女の枕元にひざまずき、すぐに抱きしめた。
「枝里、目を覚ましてくれてよかった。ごめん、俺がちゃんと守っていれば……
大丈夫か?まだ痛む?他に苦しいところは?」
彼の目は赤く充血し、顎には無精髭がうっすらと生えていた。震える声には、明らかに本気の焦りと後悔が滲んでいた。
しかし、枝里の目に浮かんでいたのは冷たい光だけだった。感情の一片も見せることなく、そっと彼の腕を押し返すと、低く問いかける。
「一之瀬美羽は?」
その一言に、翔真の動きがぴたりと止まった。一拍の沈黙ののち、彼は重いため息をつきながら答えた。
「枝里……もうその話はやめよう。ちゃんとお仕置きはしておいたから」
「どんなお仕置き?」
「……三日間、食事を抜かせた……」
おそらく本人も、内心その言葉に説得力がないことを分かっていたのだろう。語尾は濁り、どこか歯切れの悪さがにじんでいた。
そして彼は、苦し紛れのように、さらに言葉を重ねた。
「今回のことは……彼女もわざとじゃなかったんだ。俺が厳しく叱ったし、もう君の前には現れないように言ってある。
だから、この件はもう水に流そう?な?」
表向きでは彼女を気遣うそぶりを見せながらも、その実、彼の行動の端々には、美羽をかばおうとする姿勢が見え隠れしていた。
枝里は知っている。もし自分が今回の件で警察に行ったとしても、きっとまた、あのときとまったく同じ結末になるのだろう。
「愛してる」と言いながら、彼はいつも、誰かに傷つけられる自分を見て見ぬふりをしてきた。
七年間、愛し続けてきたこの男―
その姿を見つめながら、枝里の心は静かに、完全に冷え切っていった。
彼女は無言のまま、ゆっくりと目を閉じる。
もうこれ以上、無意味な言葉を聞きたくなかった。
式まであと数日。それでも彼女が待ち望んでいたのは、指輪でも祝福でもない——
「解放」だった。
結婚式の三日前、枝里は病院を退院した。
翔真は彼女を喜ばせようと、高級ジュエリーをいくつも競り落とし、テーブルに並べた。
だが彼女はちらりと目をやっただけで、何も言わず視線を逸らした。
スマートフォンのカウントダウンアプリを開き、画面に映る数字を見つめ続ける。
一分、一秒が過ぎるたびに、心が静かに軽くなっていく。
彼女のその様子に気づいた翔真が、笑いながら尋ねる。
「そんなに結婚式が楽しみなのか?」
「うん。とても」
彼女は画面から目を離さず、穏やかにそう答えた。
その一言に、彼は満足げに笑顔を浮かべる。
「俺も楽しみだよ。あの日、枝里は絶対に世界一美しい花嫁になる」
彼女はただ、無言のまま、引きつった笑みを浮かべた。
迎えた結婚式当日。
ドレスルーム。
時間になっても、枝里は椅子に座ったまま、微動だにしなかった。
スタッフたちが何度も声をかけるが、彼女はウェディングドレスにもメイク道具にも手を伸ばさない。
すでにタキシードを着終えた翔真が、ドアを開けて顔を覗かせる。
「枝里、どうして着替えてないんだ?」
その声が響いたと同時に、彼のスマホが鳴った。
発信者は——美羽。
受話器越しには酒場の喧騒が聞こえる。
「翔真さん、今日はあなたの結婚式だから……私は行かない。お幸せに、ね……」
電話の向こうから突然、悲鳴のような声が上がった。
その直後、ガヤガヤとした騒がしい音が聞こえ、やがて残ったのは―下品な男たちの声だけだった。
「お姉さん、一杯付き合ってよ。こんなにキレイなんだし、俺たちが楽しいこと教えてあげるよ?」
その言葉を耳にした瞬間、翔真の表情が一変する。緊張と焦りがその顔に浮かび上がった。
「美羽!?今どこにいるんだ!」
だが、その問いかけに答える声はなく、代わりに男たちの笑い声が電話越しに響いた。
次の瞬間、通話はぷつりと切れてしまった。
画面を見つめたまま、翔真の顔は見る見るうちに険しくなり、すぐさま車のキーを手に取り、玄関に向かおうとする。
だが、足を止めた彼は、何かを思い出したように振り返り、迷うような視線で枝里を見つめた。
「行って」
その静かな声は、すべてを見透かしていた。
枝里がこれほどまでに理解を示してくれることに、翔真は罪悪感を滲ませながら言う。
「枝里、式はたった一時間だけ延期する。本当に、これが最後だから。今後は絶対に……美羽を、俺たちの世界に関わらせない」
そう言い残し、大股で会場を後にする彼。
その背中が完全に視界から消えるのを見届けてから、枝里は小さくつぶやいた。
「翔真……あなたは間違ってる。今後、二度と私が、あなたたちの世界に現れることはないのよ」
彼女は静かに振り返り、控えていたメイクスタッフとスタイリスト全員を下がらせた。
スーツケースを引きずりながら部屋を出ようとしたそのとき、携帯に一通のメッセージが届いた。
送り主は淳哉だった。
簡潔な四文字―彼らしい冷静な口調で、ただこう書かれていた。
【出てこい】
それだけの、短く鋭いメッセージ。
枝里は【すぐに行く】と返信し、翔真と美羽の連絡先をすべて削除。スーツケースを引いてドアを開けた。
外には、漆黒のロールス・ロイスが静かに待っていた。
彼女はドアを開け、後部座席に乗り込む。
ドアが閉まると同時に、エンジンが唸りを上げる。
もう、振り返る必要なんてなかった。