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月はもう、彼を照らさない
東都市において、桐島湊斗(きりしま みなと)の名を知らぬ者はいない。桐島家きっての異端児であり、最大の厄介者だ。 十八歳にして実の父親...
Chương (1)
第1章
東都市において、桐島湊斗(きりしま みなと)の名を知らぬ者はいない。桐島家きっての異端児であり、最大の厄介者だ。
十八歳にして実の父親相手にオークションで骨董品を競り合い、価格を吊り上げるという暴挙に出たかと思えば、二十代前半にはアルプスの麓で無謀なカーレースに興じ、命を落としかけたこともある。
交際相手を変えるスピードは、ハイブランドの新作コレクションの入れ替わりよりも速い。かつて彼はこう豪語していた。
「結婚なんてもう時代遅れだ。したい奴だけが勝手に自縛すればいい」
だが三年前、そんな桐島湊斗が、ある家の門前で跪いた。
記録的な豪雨の夜、ただ白石紗月(しらいし さつき)に一目会いたいがために、十二時間もの間、泥にまみれて雨に打たれ続けたのだ。
紗月は、息を呑むほどの美貌の持ち主だ。由緒正しい学者の家系に生まれ、その佇まいは丹精込めて育てられた高貴な蘭の花を思わせる。
本来なら、奔放な湊斗が最も敬遠するはずの「深窓の令嬢」だ。
周囲は皆、彼女がいずれ弄ばれ、捨てられて泣きを見るだけだろうと高を括っていた。
だが、街中を騒然とさせたあのプロポーズがすべてを覆した。
彼は稀少なピンクダイヤモンドを贈り、世間の雑音を封じ込めたのだ。
リングの内側には、彼自身の手で一文字ずつ、こう刻まれていた。
【囚人・桐島湊斗、刑期は終身】
結婚から三年が経っても、紗月のお伽話は終わらなかった。湊斗の彼女への溺愛ぶりは、留まるところを知らない。
人々は口を揃えて言った。
「桐島家のあの『手のつけられない暴れ馬』が、まさか白石紗月に完全に飼いならされるとは」
紗月自身も、そう信じて疑わなかった。
だが、結婚三周年の記念日の翌日。
写生に出かけた先で、彼女は夫の裏切りを目撃してしまう。
その時初めて知ったのだ。
湊斗の甘い寵愛は、とうの昔に内側から腐り落ちていたことを。
第1話
東都市において、桐島湊斗(きりしま みなと)の名を知らぬ者はいない。桐島家きっての異端児であり、最大の厄介者だ。
十八歳にして実の父親相手にオークションで骨董品を競り合い、価格を吊り上げるという暴挙に出たかと思えば、二十代前半にはアルプスの麓で無謀なカーレースに興じ、命を落としかけたこともある。
交際相手を変えるスピードは、ハイブランドの新作コレクションの入れ替わりよりも速い。かつて彼はこう豪語していた。
「結婚なんてもう時代遅れだ。したい奴だけが勝手に自縛すればいい」
だが三年前、そんな湊斗が、ある家の門前で跪いた。
記録的な豪雨の夜、ただ白石紗月(しらいし さつき)に一目会いたいがために、十二時間もの間、泥にまみれて雨に打たれ続けたのだ。
紗月は、息を呑むほどの美貌の持ち主だ。由緒正しい学者の家系に生まれ、その佇まいは丹精込めて育てられた高貴な蘭の花を思わせる。
本来なら、奔放な湊斗が最も敬遠するはずの「深窓の令嬢」だ。
周囲は皆、彼女がいずれ弄ばれ、捨てられて泣きを見るだけだろうと高を括っていた。
だが、街中を騒然とさせたあのプロポーズがすべてを覆した。
彼は稀少なピンクダイヤモンドを贈り、世間の雑音を封じ込めたのだ。
リングの内側には、彼自身の手で一文字ずつ、こう刻まれていた。
【囚人・桐島湊斗、刑期は終身】
結婚から三年が経っても、紗月のお伽話は終わらなかった。湊斗の彼女への溺愛ぶりは、留まるところを知らない。
人々は口を揃えて言った。
「桐島家のあの『手のつけられない暴れ馬』が、まさか白石紗月に完全に飼いならされるとは」
紗月自身も、そう信じて疑わなかった。
だが、結婚三周年の記念日の翌日。
紗月が写生に出かけていた時のことだ。
「おい!そこの絵を描いてる人!」
紗月が顔を上げると、金髪の青年が腹を押さえ、脂汗を流しながら立っていた。
「た、頼む、手を貸してくれ!この袋をあっちに届けてほしいんだ。ツレが待ってる!」
紗月は言われた通りに小道を抜け、空き地へと向かった。
そこには、改造された一台の黒い車が止まっていた。
威圧感を放つその車体は、どこか狂暴で、そして――奇妙なリズムで小刻みに揺れていた。
スモークガラスが貼られており、中の様子は窺えない。
「チッ、あいつ何してやがる。ゴムはまだかよ!」
車内から、しわがれた男の声が漏れ聞こえた。情欲に蒸された、苛立ちを含んだその声。
紗月の呼吸が止まった。
湊斗だ。
直後、おどおどした女の声が響いた。
「湊斗さん、そんなに怒らないで……ナシじゃ、だめなの?」
短い沈黙。
すぐに、男の喉から低くあさましい笑い声が漏れた。
「いい度胸だな」
女の声はさらに低く、どこか試すような響きを帯びた。
「紗月さんより、度胸あるでしょ?」
湊斗は気だるげに答えた。
「シラけるな。あいつの話をするな。
あいつは妊娠を怖がるし、ルールだの何だのうるさい。つまらない女だ」
「本当?」
女の声に、隠しきれない得意げな色が混じる。
「じゃあ湊斗さん……今の私は面白い?」
「御託はいい」
ガクン、と車体が沈み込んだ。湊斗の声が急激に獣じみたものに変わる。
車体の揺れは激しく、急なものになり、女の嬌声が断続的に響き始めた。
紗月の手からビニール袋が滑り落ちた。
中身が地面に散らばる。
それは、コンドームの箱だ。
……
どうやって家に帰り着いたのか、紗月は覚えていなかった。
震える指ではスマホを握ることすらままならない。
画面が明るくなり、湊斗とのチャット画面が表示された。
今朝のメッセージが、まだ残っている。
【愛しい君へ。夜はデザートを買って帰るよ。いい子で待ってて】
先週、彼女が生理痛で寝込んだ時、彼は真夜中に街中を駆け回って薬を買ってきてくれた。
一ヶ月前、彼が地方へレースを見に行った時も、深夜にテレビ電話をかけてきた。画面越しの彼は不敵な目をしていたが、声は甘かった。
「紗月、会いたいよ」
どの一言も真実味に溢れ、どの行動も「愛妻家」そのものだった。
けれど、全部嘘だ。
胃の中で何かが激しく暴れ、涙がこぼれ落ちた瞬間、紗月はたまらずその場にうずくまり、からえずいた。
さらに滑稽なのは、車の中にいたあの女を、彼女が知っているという事実だ。
森下梨花(もりした りか)。
半年前に田舎へ写生に行った際に出会った少女だ。小柄で、驚くほど大きな目をしており、いつも怯えたような視線を向けていた。
紗月は彼女の身の上を憐れみ、田舎から連れ出した。
服を買い与え、メイクを教え、清潔で日当たりの良いマンションまで借りてやり、一年分の家賃まで肩代わりした。
ある時、紗月が梨花に画材を届けさせた際、ちょうど湊斗が在宅していたことがある。梨花は紗月が贈ったワンピースを着て、怯えながら「桐島さん」と挨拶した。
湊斗は目もくれなかった。
それどころか、眉をひそめて紗月にこう言ったのだ。
「どこで拾ってきたんだ、あんな小娘。目が泳いでるし、あざとい。家に上げるな」
紗月は彼をたしなめた。
「そんなに悪く言わないで。梨花ちゃんも苦労してるのよ、私はただ力になりたいだけ」
湊斗は舌打ちをし、紗月の腰を抱き寄せてキスをした。
「君は優しすぎる。この世の中、優しい人は食い物にされるんだぞ。俺が守ってやらないとな」
湊斗のキスには特有の強引さがあったが、紗月に触れる時だけは優しかった。
紗月は彼の腕の中で力を抜き、こう思った。
「彼の目には私しか映っていない。この叱りも、私への愛ゆえだ」と。
まさかその二人が、最も醜悪なやり方で、彼女が大切に積み上げてきた完璧な世界を粉々に破壊するとは、夢にも思わなかった。
リリリリン――
回想を断ち切るように、スマホが鳴った。
桐島家の本宅に仕える家政婦、松本(まつもと)からだ。
「大奥様がようやく目を覚まされました……ずっと若奥様のお名前を呼んでおられます。もう一度会いたい、このままだと心残りだと……」
桐島芳子 (きりしま よしこ)、湊斗の祖母。
湊斗が悪さをすれば杖で叩いて叱り、紗月のことは実の孫のように可愛がってくれた人。そして彼女を芸術の世界へと導き、半生の技術をすべて授けてくれた恩師でもある。
そんな大切な人が、重病で最期の時を迎えようとしている。
紗月は涙を拭い、弁護士の番号をタップした。
「谷口(たにぐち)先生、離婚協議書の準備をお願いします。
ですが、私が合図をするまでは絶対に動かないでください。
お祖母様を最後に見送ったら……私はここを出て行きます」
第2話
デザートは届かなかった。
湊斗は丸一日、姿を消した。
再会したのは、翌日の夕方だった。
彼は家に入ろうともせず、車の中から何食わぬ顔で言った。
「紗月、俺の新車を見に行こう」
湊斗は埃にまみれ、目は充血していたが、妙に興奮していた。
紗月は黙って助手席に乗り込む。
車内には、彼のものではない甘ったるい香水の匂いが染み付いていた。
車は郊外のサーキットへと疾走した。
耳をつんざくようなエンジンの轟音の中、彼は紗月の手首を掴んで人混みをかき分けていく。
その時、弱々しい声が二人を呼び止めた。
「湊斗さん!紗月さん!」
梨花だ。
サイズの合わない大きなレーシングスーツを着て、袖を何度もまくり上げている。顔は薄汚れていたが、その瞳は異様なほど輝いていた。
彼女の後ろには、金髪の男・須藤甲斐 (すどう かい)がついてきていた。
湊斗は紗月の手を離し、何でもないことのように言った。
「甲斐が梨花を口説いてて、どうしても俺に応援に来いってうるさくてな」
彼は言い訳がましく、紗月の顔を覗き込んだ。
「彼女は臆病なんだ。レースを見るのは初めてで、怖がってる」
紗月の視線は、梨花の襟元から覗く生々しい紅い痕を掠め、そして湊斗を見た。
彼は平然としていた。
紗月はふと、自嘲気味に笑った。
まさか、この男がここまで厚顔無恥だとは思わなかった。絶対に不倫はバレない、と高を括っているのだろうか。
紗月は何も答えなかった。
ただ顔を背け、梨花が差し出してきた手を初めて無視し、真っ直ぐにコースを見つめた。
……
運悪く、湊斗の宿敵も来ていた。
二人は何かにつけて争ってきたが、レースで湊斗が負けたことは一度もない。
男は派手な紫色のスーパーカーにもたれかかり、湊斗に向かって顎をしゃくった。
「新車はどうした?一勝負しようぜ。助手席には誰を乗せる?」
周囲が静まり返り、すべての視線が集まる。
湊斗は一秒の迷いもなく言った。
「梨花、来い」
梨花の目がぱっと輝いた。彼女は小走りで彼のそばに寄り添い、緊張した様子で彼の袖口をギュッと掴んだ。
湊斗は自然な仕草で彼女の肩を抱き、ライバルの男に眉を挑発的に上げた。
「こいつだ。勝った方は……」
「条件は好きに選べる、どうだ?」
周囲から「おおっ」という歓声が上がった。
誰も覚えていない。一ヶ月前、この特注のレースカーが納車された時、湊斗が鍵を紗月の手に乗せ、背後から抱きしめてこう宣言したことを。
「この車の助手席に最初に乗るのは、俺の妻だけだ」
あの時、紗月は耳を赤くして「目立ちすぎる」と湊斗をたしなめた。
だが今、湊斗は梨花の肩を抱いて車へとエスコートしている。強烈なライトに照らされた彼の横顔は、冷酷なほど美しかった。
紗月はその場に立ち尽くしていた。
自分が座るはずだった場所に、梨花が恥じらいながらも嬉々として乗り込むのをただ見ていた。
湊斗は身を乗り出して彼女にシートベルトを締めてやっている。
そのベルトは、紗月が彼に贈った限定モデルだった。
……
レースが始まった。
風を切り裂き、二台のスーパーカーがゴールラインの百メートル手前で唸りを上げる。
湊斗の車は黒い矢のように加速し、エンジンを咆哮させながらゴールに迫る。
その時、助手席の梨花が金切り声を上げた。
「湊斗さん、怖い!」
黒いスーパーカーが、猛烈な勢いで急ブレーキをかけた。
タイヤが悲鳴を上げ、白煙が舞い上がる。
その隙に、ライバルの紫色の車が爆音と共にゴールラインを駆け抜けた。
会場が静まり返る。
湊斗の初めての敗北だ。
夜風は冷たく、コースにはタイヤの焦げた臭いが漂っていた。
ライバルの男がゆっくりと車を降り、湊斗の窓辺へと歩み寄る。指に挟んだ煙草で、恐怖に震える梨花を指した。
「女を置いていけ」
男はニヤニヤと笑い、ふざけた口調で言った。
「約束だろ?勝者の特権だ」
梨花の顔色が瞬時に青ざめた。彼女は死に物狂いで湊斗の腕にしがみついた。
「湊斗さん、嫌……置いていかないで……」
湊斗は彼女を見なかった。シートベルトを外し、ドアを開けて車を降りた。
「他を選べ。こいつは駄目だ」
男は眉を上げ、意味深に鼻で笑うと、ゆっくりと視線を観客席へと移した。
「じゃあ――」
彼は語尾を伸ばし、煙草の煙越しに、人混みの中に佇む紗月に目を留めた。
騒がしい中で、彼女だけが浮世離れした静けさを纏っていた。
「あの女だ」
その瞬間、紗月は会場中の視線が、一斉に自分に突き刺さるのを感じた。
第3話
「お断りします」
紗月の声は大きくはなかったが、夜風に乗って全員の耳にはっきりと届いた。
湊斗が弾かれたように振り返り、眉を険しく寄せる。
紗月は彼を見ず、ライバルの男だけを見据えて正論を突きつけた。「負けたのは誰?責任を取るべきなのは、負けた当事者でしょう」
「紗月!」湊斗が大股で歩み寄り、彼女の手首を万力のように掴んだ。
彼は声を潜めた。
「騒ぐな」
「騒ぐ?」紗月は彼を見上げた。
「潔く負けを認めるのが、あなたの流儀じゃなかったの?」
湊斗の喉仏が動いた。声はさらに低く、切羽詰まった響きを帯びた。
「君があいつらの所に行ったとして、何が起きる?桐島家の正妻に、あいつらも本気で手出しはできない。だが、梨花は違う」
彼は車の中で震える梨花を一瞥した。
「あの子には身分も後ろ盾もない。
あいつらの遊び方がどれだけエグいか知ってるだろ。梨花じゃ壊されて、死ぬかもしれないんだ」
紗月は静かに彼を見つめた。
彼の瞳にある焦燥は本物だった。だがそれは、彼女のためのものではない。
「だから……『正妻』が盾になれと言うの?」彼女は静かに問いかけた。
湊斗の呼吸が止まる。
彼女は手首を引き抜いた。白い肌には、赤い指の跡がくっきりと残っていた。
「湊斗。あなたのルールって、相手によって変わるのね」
遠くで、ライバルの男が口笛を吹いた。
湊斗の顎の筋肉が強張った。
やがて彼は背を向け、照明に長く伸びた影を引きずりながら、強硬に宣言した。
「梨花は渡さない。代わりに、俺の妻を一時間だけ貸す」
一瞬の沈黙の後、彼はドスの利いた声で続けた。
「一時間後に、俺が直々に迎えに行く。もし妻の髪の毛一本でも傷つけてみろ……全員、命の保証はないと思え」
直後、黒服の男たちが紗月の両腕を乱暴に掴んだ。
どれだけ抵抗しても振りほどけない。
紗月はただ、遠ざかる湊斗の背中を見つめることしかできなかった。
彼は車を覗き込み、震える梨花に何かを囁いた。梨花は涙目で頷き、彼の服の裾をギュッと掴んでいる。
「何を怯えてるんだ?」
ライバルの男が紗月の前に現れ、彼女の頬を指でなぞった。
「極上じゃないか」
不躾な手が、彼女の体をまさぐる。
「湊斗!」
恐怖が喉を駆け上がった。紗月の悲鳴は震えていたが、エンジンの轟音にかき消されそうになった。
だが、湊斗には聞こえていたはずだ。車のドアを閉める手が、一瞬だけ止まったからだ。
しかし、彼は振り返らなかった。
バンッ、と無機質な音がして車のドアが閉ざされる。
スーパーカーの爆音が夜気を切り裂き、彼らは疾走していった。
「湊斗、この人でなし!」
紗月の口の中には鉄錆のような血の味が広がった。腰には男たちの指が食い込み、痣ができそうなほど痛かった。
……
湊斗の車は、梨花のマンションの下に到着した。
梨花はシートベルトを指でいじりながら、震える声で言った。
「湊斗さん、上まで送って……私、暗いのが怖くて」
湊斗は時間を確認した。約束の一時間まで、あと四十分ある。
彼はドアを開け、車を降りた。
エレベーターの中は狭く、静かだ。
梨花が体を寄せてくる。彼女からは、安っぽい香水とわずかな汗の匂いがした。
紗月とは違う。梨花が纏うこの生々しく安直な匂いこそが、湊斗にとって何の負担もなく、本能のままに遊べる理由だ。
ドアが開く。部屋の電気はついていない。
しばらくすると、暗闇の中から衣擦れの音がした。ふいに、彼女が密着してきた。
「湊斗さん、今日は守ってくれてありがとう」
梨花の声は甘く、粘りつくようだった。
湊斗は眉をひそめた。
「よせ……」
だが言葉は途中で途切れた。
鼻先に、強烈なクリームの甘い香りが飛び込んできたからだ。
差し込む月明かりが、彼女の姿を照らし出す。
いつの間にか服は脱ぎ捨てられ、その体には真っ白なホイップクリームが塗られていた。白い泡が、肌を伝ってゆっくりと滑り落ちていく。
彼女は舌先を出し、唇についたクリームを舐め取った。その目は暗闇の中で異様なほど爛々と輝いている。
吐息が湊斗の顎にかかる。
「紗月さんじゃ……こんな遊び方、できないでしょ?」
湊斗の喉が激しく動いた。
理性が警告するよりも先に、体の記憶が蘇る。
それは慣れ親しんだ、背徳的な衝動だった。紗月という高貴な妻からは永遠に得られない、安っぽくて強烈な刺激。
彼は手を伸ばし、粘つくクリームに指を這わせた。
声はひどく掠れていた。
「……時間がない。妻を迎えに行かないといけないんだ」
第4話
その頃、バーの個室の中は煙草と酒の臭いで淀んでいた。
最初は男たちも遠慮していた。無理やり酒を飲ませ、腰に手を這わせる程度だった。
紗月は歯を食い縛り、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめて耐えていた。
壁の時計が、約束の一時間を告げようとしていた。
湊斗は来ない。
業を煮やした金髪の男が、酒瓶を床に叩きつけた。
「いつまで『桐島夫人』気取ってんだよ!」
男は紗月の胸倉を乱暴に掴んだ。
「お前の旦那は今頃、あの『か弱いお姫様』を慰めるのに忙しいんだよ!」
「触らないで!」
紗月は手近にあったグラスを掴み、男に投げつけた。
グラスが砕け散る音が、さらなる嘲笑を呼んだ。
男たちの理性が飛んだ。四、五本の手が一斉に彼女を押さえつけ、布が引き裂かれる音が響く。
「やめて――!」
彼女は陸に上げられた魚のように激しく抵抗し、膝で男の股間を蹴り上げた。
返ってきたのは、強烈な平手打ちだった。
「いい写真だ、もっと撮れ」
金髪の男が彼女の髪を掴み、カメラに向けさせた。
「みんなに見せてやろうぜ、桐島夫人がどうやって命乞いをするのかを」
「湊斗があんたたちを殺すよ……!」
「湊斗だと?」男たちは腹を抱えて笑った。
「あいつは今頃、他の女のベッドの上だろ?」
スマホの画面が紗月の目の前に突きつけられた。
そこには、車のボンネットに梨花を押し倒し、熱烈にキスをする湊斗の姿が写っていた。
いつの間に撮られたものなのか。
紗月の心は瞬時に凍りついた。
張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
ベルトのバックルを外す金属音が響いた瞬間、紗月は床に落ちていたガラスの破片を鷲掴みにし、自身の首筋に死に物狂いで押し当てた。
鋭利な刃先が皮膚を裂き、赤い血が滲み出す。
「指一本でも触れてみなさい」
彼女の声は恐ろしいほど掠れ、目は充血していた。
「ここであんたたち全員、人殺しにしてやる」
男たちの動きが止まった。
所詮は遊びのつもりだったのだ。本気で死なれては困る。
フラッシュが何度も焚かれ、彼女の蒼白な顔と、服が破け屈辱にまみれた姿が記録されていく。
「いい子だ」
金髪の男が彼女の顎を掴み、涙で濡れた顔にレンズを向けた。
「今日のことを誰かにチクってみろ。この写真と動画をバラ撒くぞ……白石家の名声が地に落ちるのが楽しみだな!
白石教授は最近、昇進を控えてるんだろう?」
紗月の指が強張った。
父は厳格な大学教授で、何よりも名誉と品格を重んじる人だ。祖父の葬儀には、街の半分を埋め尽くすほどの弔問客が訪れた名家だ。
「こんな動画が流出したら、白石家の『清廉潔白』な看板はどうなるかな?」
紗月は何も答えず、ドアを開けてその場を立ち去った。
……
一方、湊斗は梨花との情事に溺れ、時間を忘れていた。
彼が紗月のことを思い出したのは、翌日の朝になってからだ。
彼は半狂乱になって一日中探し回った。
そして夜、病院の病室のドアを開けた時、ようやく彼女の姿を見つけた。
紗月は付き添い用の椅子に座り、ぼんやりとしていた。
「どこに行ってたんだ?電話にも出ないし、バーの連中は君が……」
言葉が止まった。
ゆっくりとこちらを向いた彼女の顔を見たからだ。
顔色は紙のように白く、目の下には隈ができ、頬には叩かれたような赤い腫れが残っていた。
紗月は彼を見上げた。その瞳は、深海のように暗く、空洞だった。
「私のこの姿を見て……満足した?」
彼女は囁くように問うた。
湊斗の喉仏が動いた。言葉が出ない。
長い沈黙の後、彼は眉を寄せ、絞り出すように言った。
「どうしたんだ?まさかあいつら、本当に手出しを……」
紗月の答えを待たず、彼の表情が急激に陰った。
彼は踵を返し、スマホを取り出しながら怒鳴った。
「すぐに人を呼べ!あの店の監視カメラを全部押さえろ!」
湊斗が出て行くと入れ替わりに、梨花がフルーツバスケットを提げて入ってきた。
「紗月さん、お祖母様のお見舞いに来ました」
梨花はベッドに近づき、眠っている芳子を覗き込んだ。
「お祖母様、梨花です。早く良くなってくださいね」
芳子の瞼がわずかに動いた。混濁した瞳がゆっくりと焦点を結び、梨花の顔を捉える。
「あら、お祖母様、私のこと覚えてるみたい」
梨花は体を起こし、紗月に向かって無邪気に微笑んだ。
「以前、湊斗さんが連れてきてくれたことがあるんです。その時もお祖母様は起きていて、私に頷いてくれたんですよ」
紗月は冷たい目を向けた。
「出て行って」
梨花は聞こえないふりをして、ベッドの端の椅子に腰を下ろした。
「紗月さん、そんなに怒らないでくださいよ」
彼女は諭すような口調で言った。
「こういうことは、割り切ったほうが楽になれますよ。湊斗さんみたいなハイスペックな男が、一人の女だけで満足するわけないじゃないですか?」
第5話
「出て行って」
紗月は立ち上がり、芳子を見る梨花の視線を遮るように立ちはだかった。
梨花は彼女を見上げ、その瞳をゆっくりと潤ませた。
「悪気なんてないですよ。私はただ、湊斗さんの代わりに孝行したいだけです。それに、お祖母様も私のこと気に入ってくれてますし。
紗月さん、知らないでしょう?以前、お祖母様がこっそり私に言ったんです。『あなたの方が湊斗にお似合いだ』って」
病床の芳子の呼吸が、不意に荒くなった。
紗月はすぐに身を乗り出した。
「お祖母様!」
芳子はカッと目を見開き、梨花の方を死に物狂いで凝視した。酸素マスクの下で、唇が激しく震えている。
紗月は芳子の背をさすって優しくなだめると、振り返って梨花に言い放った。
「よくもそんな嘘を!私もお祖母様も、あなたなんて歓迎していないわ。あなたが来ない方が、お祖母様は長生きできるのよ!」
梨花の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。彼女は唇を震わせた。
「紗月さん、ひどい……どうしてそんなことを言うんですか……」
「じゃあ、なんて言えばいいの?」
紗月は一歩踏み込み、彼女に詰め寄った。
「あなたは純粋だ、無実だと言えばいい?それとも『うっかり』私の夫と寝てしまっただけだ、とでも言うつもり?」
いつも穏やかな紗月が、初めて見せた凄まじい剣幕だった。梨花は怯んだように後ずさり、背中を壁に打ち付けた。
紗月はそれ以上近づかなかった。かつて心から憐れみ、救い出した少女が流す空涙を、ただ冷ややかに見下ろした。
「消えて」
梨花は涙を拭い、赤い目のまま病床へ歩み寄った。だがその口元には、密かに歪な笑みが浮かんでいた。
「紗月さん。私、お祖母様にどうしても知っておいてほしいことがあるんです」
紗月が反応する間もなく、梨花は突然、スマホの画面を芳子に向けた。
スマホから、耳障りな男たちの嘲笑と、布が裂ける音が響き渡った。
薄暗い光の中、服を乱された紗月自身が、男たちに囲まれている映像だ。
カメラがズームし、涙に濡れた顔と絶望的な瞳が映し出される。
「離して!」
動画の中の紗月の悲鳴は、鋭く、そして壊れていた。
芳子の呼吸が、一瞬止まった。
直後、モニターが不吉な警告音を鳴らし始めた。老人の胸が激しく波打ち、目は画面に釘付けになったまま、喉の奥から「ヒュー、ヒュー」という異音を漏らす。枯れ木のような手が、空を掻きむしった。
「消して!」紗月はスマホを奪い取ろうと飛びかかった。
梨花は身をひるがえしてかわし、画面をスワイプした。
「まだありますよ。ほら、これは昨日の夜、湊斗さんが私と一緒に……」
「気でも狂ったの!」紗月は彼女の頬を思い切り引っぱたいた。
スマホが床に落ち、画面が暗転した。
だが、もう手遅れだった。
芳子の体が痙攣し、口の端から白い泡が溢れ出した。モニターの心拍波形が狂ったように乱れ、やがて――一本の直線に変わった。
ピーーーーという電子音が、部屋に響き渡る。
「先生!先生!」紗月はよろめきながらナースコールに覆いかぶさった。
廊下から、慌ただしい足音が近づいてくる。
混乱のさなか、紗月が最後に目にしたのは、騒ぎの縁に立つ梨花の姿だった。
彼女は腰をかがめてスマホを拾い上げ、画面の埃を軽く払った。そして顔を上げ、自分に向かって、純粋で天真爛漫な笑みを向けた。
それはまるで、初めて出会ったあの日。
野イチゴを両手いっぱいに捧げ持ち、潤んだ瞳で見上げてきた、あの素朴な少女そのものだった。
第6話
処置室のランプが、三時間もの間、無情に点灯し続けていた。
ようやくドアが開いた。主治医がマスクを外し、重苦しく首を横に振った。
「手を尽くしましたが……急性心筋梗塞に呼吸不全の併発、それに加えて激しい情動のショックが……」
その後の言葉は、紗月の耳には届かなかった。
彼女は冷たい壁に背中を預け、ゆっくりと床に崩れ落ちた。視界が涙で滲み、何も見えない。
廊下の突き当たりから、急いた足音が聞こえてきた。
湊斗だ。
後ろから梨花が小走りでついてくる。その目は赤く腫れている。
紗月は顔を上げた。
湊斗の姿を認めた瞬間、予兆もなく涙が溢れ出し、ポタポタと手の甲を濡らした。
ただ彼を見つめ、唇を震わせる。それはまるで、溺れる者が不意に浮木を見つけた時のようだった。裏切られてなお、彼女の瞳は習性として、夫への依存と救いを求めていた。
湊斗が大股で歩み寄り、目の前で立ち止まる。
無表情だが、瞳の奥には黒く重い何かが渦巻いている。
次の瞬間、彼の手が挙がった。
パァン!
乾いた音が響き、紗月の頬に強烈な平手打ちが飛んだ。
「紗月」
骨まで凍るような冷たい声。
「お祖母様に何を言った?」
平手打ちの音が、静まり返った廊下に異常なほど響き渡る。
紗月は顔を背けたまま、動けなかった。頬が焼けつくように痛く、耳鳴りがする。
彼女はゆっくりと顔を戻し、湊斗を見る。そしてその背後で、梨花がうつむいて涙を拭い、肩を小刻みに震わせているのを見た。まるで、とんでもない被害を受けた子供のように。
処置室のドアの隙間から、無機質な光が漏れている。
「お祖母様の心臓が悪いことくらい、知っていたはずだろう?たかがお前のくだらない痴話喧嘩のために、なんでお祖母様の前で騒ぎ立てたんだ?」
彼は一歩踏み込み、その影で彼女を完全に覆い尽くした。
「紗月、お前には本当に失望したよ」
梨花がタイミングを見計らったように嗚咽を漏らし、そっと彼の袖を引いた。
「湊斗さん、やめて。紗月さんも気が動転してて、それでつい私の悪口をお祖母様に……全部、私が悪いの……」
「君は関係ない」
湊斗は紗月の手首を強く掴み、睨みつけた。
「お祖母様はお前を実の孫のように可愛がっていただろう!美味しいものがあれば真っ先にお前に届けていた。それなのに、お前はお祖母様の体を気遣うことすらしなかったのか?」
紗月は口を開こうとしたが、喉の奥からせり上がる血の味が言葉を塞いだ。
湊斗は冷笑した。
「俺が駆けつけるのが遅れたのは悪かった。だが、バーの連中も言ってたぞ、お前は少し嫌な思いをしただけだってな!その程度のことでお祖母様を巻き込んで、何様のつもりだ?」
「お祖母様を殺したのはその女よ!」
紗月は弾かれたように立ち上がり、掠れた声で叫んだ。
「あの子が動画を見せたの!私が乱暴されて……」
「いい加減にしろ!」
湊斗が怒鳴りつけた。その目には、隠しようのない嫌悪感が満ちている。
「そんな嘘までついて……紗月、お前には吐き気がするよ」
彼は一歩下がった。まるで汚らわしいものを避けるかのように。
「今の自分を見てみろ。名家の令嬢としての品格の欠片もない」
彼は一言一句、噛み含めるように言葉を投げつけた。
「男を巡って髪を振り乱す浅ましい女と何が違う?一輪の蘭の花だったお前が、今じゃただの腐った雑草だ。本当に気色悪い!」
梨花の泣き声が、一層大きくなった。
第7話
「この女を追い出せ!二度と顔も見たくない!」
湊斗は紗月に対して、一片の慈悲も示さなかった。
大柄な警備員二人が紗月の口を無理やり塞ぎ、粗暴に引きずり出すと、車に押し込んだ。
湊斗が何を命じたのかは分からない。ただ、車は都市の最も賑やかな繁華街で止まり、彼女を路上に蹴り落とした。
紗月が顔を上げると、目の前の巨大なLEDビジョンに、見覚えのある映像が映し出されていた。
あの動画だ。
引き裂かれた衣服、絶望的な涙、男たちの嘲笑と共に響く「桐島夫人」という声。
彼女はスクランブル交差点の真ん中で立ち尽くし、巨大スクリーンに映る自分の顔を呆然と見上げた。
通行人の好奇な視線と、棘のような囁きが突き刺さる。
「清楚ぶってたけど、随分派手に遊んでるんだな」
「なるほどね、こういう手口で桐島家に取り入ったわけか」
「動画の声、すごい淫乱だったじゃん……」
LEDの人工的な光が、彼女の顔を明滅させる。画面の中の彼女は泣き叫び、現実の彼女は凍りついたまま動かない。
スマホが狂ったように震え始めた。母からだ。
通話ボタンを押すと、十秒ほどの沈黙のあと、嗚咽が聞こえてきた。
「紗月……白石家の面目は丸潰れよ……お父さん、あなたと縁を切るって……どうしよう、紗月、お父さんの怒りを鎮める方法はないの?」
電話の向こうから、父の怒声が響いた。
「そんな恥知らずに何の用だ!我が白石家に、あんな風紀を乱す娘などいない!」
プツリ。電話が切れた。
紗月は乾いた笑みを漏らした。
湊斗の徹底的な制裁の前で、彼女に何ができるというのか。
父の行動は迅速だった。十分もしないうちに、白石家からの絶縁声明がスマホのニュース速報として通知された。
紗月はその場にうずくまり、行き交う人波の中で膝を抱えた。
再びスマホが鳴る。今度は、湊斗からだ。
彼女は画面に表示された名前を長く見つめ、ゆっくりと通話ボタンを押した。
「見たか?」彼の声は平坦だった。
背景から、梨花の軽快な鼻歌が聞こえてくる。
湊斗は淡々と言った。
「お祖母様の件の償いだ。
よく覚えておけ。お前が、お前自身の手で、白石家の最後の誇りを踏みにじったんだ」
見上げたスクリーンの動画は最後のフレームで停止していた。ソファに押し倒され、泣き崩れる彼女の顔がアップになっている。
脇にはトレンドワードが流れていた。
#名門妻の裏の顔
#清純派セレブの転落
誰もが彼女を軽蔑し、この街全体が彼女を排除しようとしている。
もう、潮時だ。
唯一の心残りは祖母のことだけだ。
「最期を見送る」と約束した。葬儀にだけは、どうしても出なくてはならない。
……
桐島家の誰にも連絡する勇気はなく、紗月は黒いコートに身を包み、マスクで顔を隠して、葬儀場の裏口からこっそりと忍び込んだ。
だが、無駄だった。すぐに見つかってしまった。
湊斗が冷たい顔で立ちはだかった。
「どの面下げて来たんだ?
梨花に謝れ。お祖母様の御前で」
紗月は目を見開いた。
湊斗の瞳は静まり返っていた。
「お前が病院で発狂したせいで、あの子はトラウマを負ったんだ。毎晩悪夢にうなされて、朝まで泣き続けている」
祭壇の前では、喪服姿の梨花が膝をつき、肩を震わせて涙を拭っていた。親族たちが彼女を取り囲み、慰めている。
「どうして……?」紗月の喉が引きつった。
「お前がお祖母様を憤死させたからだ。
お前の汚らわしい行いが、梨花を怯えさせたからだ。今ここで、最後の償いのチャンスをやる」
彼は紗月の手首を掴み、祭壇の前へと引きずり出した。手首の骨が砕けそうなほどの力だった。
正面には、慈愛に満ちた祖母の遺影が飾られている。
「跪け」湊斗が命じた。
第8話
参列者の視線が一斉に突き刺さる。
梨花は涙に濡れた目を上げ、怯えたように半歩後ずさった。まるで脅かされた小鹿のようだ。
「跪け!」湊斗は一語一語を噛みしめるように命じた。
「梨花に謝れ!もう二度と虐めないと誓え!」
紗月は芳子の遺影を見つめた。遺影の中の老婦人は、額縁の中から優しく微笑んでいるように見えた。
「ごめんなさい」
彼女は梨花の方を向き、静かだがはっきりと通る声で言った。
「あなたが私を嵌めて動画を撮らせ、それをお祖母様に見せて憤死させた後なのに……」
「紗月!」湊斗が怒鳴りつけた。
彼女は構わず、梨花を見据え続けた。
「……私がまだ生きて、あなたの目の前に立っていて、ごめんなさいね」
梨花の顔色が、瞬時に土気色に変わった。
「謝罪は済んだわ」紗月は湊斗に向き直った。
「これでお祖母様にお別れの挨拶をしてもいい?」
葬儀場は死んだように静まり返り、低い哀悼の音楽だけが流れていた。
湊斗は彼女を睨みつけた。その瞳の底には、どす黒い怒りが渦巻いている。
だが彼女は背を向け、遺影に向かって正座し、深く頭を下げた。一度、二度、三度。その一つ一つが、重く、深かった。
湊斗の表情が急激に陰った。
彼は紗月の髪を力任せに鷲掴みにした。頭皮が引き裂かれそうな激痛が走る。
「死にたいのか!」
彼は彼女の首を押さえつけ、猛然と床のタイルに叩きつけた。
ドゴッ!
一撃目。額が硬い床に打ち付けられ、鈍い音が静寂を切り裂く。
「梨・花・に・謝・れ」彼は歯を食いしばり、一文字ずつ吐き捨てた。
手首に力がこもる。
ドゴッ!
二撃目はさらに重かった。
紗月の目の前が真っ暗になり、額から温かい液体が流れ落ちた。周囲から押し殺したような悲鳴が上がり、梨花の細いすすり泣きが聞こえる。
「私が間違ったことを言った?」
紗月の声は掠れていたが、そこには笑いが混じっていた。
「彼女がやったことの、どこが冤罪なの?」
湊斗の理性が完全に決壊した。
彼は彼女の髪を掴み、三度目、全力で床に叩きつけた。
ドゴォッ!!!
心臓が縮み上がるような衝撃音と共に、床に暗赤色の血飛沫が散った。
紗月は床に突っ伏したまま動かない。額の血が目を塞いでいる。
血の色に染まった視界の先で、芳子の遺影が目に入った。老婦人は変わらず慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
まるで、この滑稽で悲しい茶番劇を見守っているかのように。
湊斗は荒い息を吐きながら手を離した。
彼の仕立ての良いズボンの裾には、彼女の血が点々と飛び散っていた。
「湊斗さん、やめて……紗月さんが血を……」
梨花が泣きながら彼にすがりつく。
湊斗は彼女の手を振り払い、紗月を指差した。
「今すぐ跪け。梨花が許すまで、頭を擦り付けて謝れ」
葬儀場は水を打ったように静まり返り、誰もが息を呑んで見守っている。
紗月は震える手で上体を起こした。血が顎を伝い、黒いコートに滴り落ちる。
梨花は顔を覆っているが、指の隙間から覗くその目は、隠しようのない愉悦と残酷な輝きを放っていた。
額の血が床に落ちる。ポタリ、ポタリ。
紗月は手を伸ばし、血に塗れた指で、梨花の足首をガシリと掴んだ。
「きゃっ!」梨花が短く悲鳴を上げる。
紗月は顔を上げた。血塗れの顔に、凄惨な笑みを浮かべていた。
「梨花、もう悪夢を見る必要はないわ。
今日から、悪夢を見るのは、私のほうだから」
彼女は手を離し、もう一度だけ祖母の遺影に向き直り、最後のお辞儀をした。
そしてよろめきながら立ち上がり、出口へと歩き出した。
湊斗はその場に立ち尽くし、彼女の華奢な背中を見つめていた。不意に、心臓の一部がごっそりと抉り取られたような、奇妙な空虚感に襲われた。
……
冷たい風が吹き荒れる外に出ると、紗月はスマホを取り出した。画面には亀裂が入り、そこに血で汚れた自分の顔が映っている。
彼女は静かに谷口弁護士の番号をタップした。
「お祖母様が亡くなりました」
彼女は左手の薬指からピンクダイヤモンドの指輪を抜き取った。
指輪には血が付着していた。彼女はそれを躊躇なく、路肩の排水溝に投げ捨てた。
「湊斗に伝えてください。葬儀が終わったら、区役所で会いましょう、と」
通話を切り、空を見上げる。
血に染まったコートの裾が風に煽られる。
どんよりとした曇り空の下、彼女の心に残っていた最後の光が、完全に消え失せた。
それでいい。
これでようやく、未練なく、綺麗さっぱりここを去れる。