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さよなら、私の命を救った裏切り者
会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)は私のヘアゴムを女秘書に貸した。私はそれを見て、迷うことなく自分の結婚指輪を外すと、同じよ...
Chương (1)
第1章
会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)は私のヘアゴムを女秘書に貸した。私はそれを見て、迷うことなく自分の結婚指輪を外すと、同じように彼女へと差し出した。
その光景を目にした司朗は、怒りを通り越して冷笑を浮かべた。
「たかがヘアゴム一つで、そこまで目くじらを立てるのか?
俺の周りに、異性の友人が一人もいちゃいけないっていうのか?
結婚指輪まで投げ出すなんて……本当に俺と別れたいみたいだな」
私は彼を見つめ、静かな口調で答えた。「ええ、その通り。もう、あなたとはやっていけないわ」
第1話
会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)が一眼レフを構えて、斉藤佳雪(さいとう かゆき)の写真を熱心に撮っているのが見えた。
興に乗った同僚たちが「私たちも撮って!」とせがむのを、司朗は苦笑いでさらりとかわした。
「悪いな。このカメラは琉叶専用なんだ。他の人の写真は撮らないことにしてる」
羨望の眼差しを向ける社員たちの傍らで、佳雪は、どこか気まずそうな表情を浮かべた。
無理もない。彼が口にした「琉叶」とは、私、佐藤琉叶(さとう るか)のことだったのだから。
司朗は口にした瞬間に失言だったと悟ったらしい。微かに眉を寄せ、佳雪の居心地の悪さを取りなそうと言葉を継ごうとした。
だが、社員たちはすでに勝手に納得し、盛り上がっていた。
「佳雪さん、幸せすぎますよ。社長のカメラに収まるなんて、それだけで特別扱いです」
「佳雪さんは綺麗だし、社長とは本当にお似合いです」
その言葉は無数の棘となり、私の心臓の奥深くまで突き刺し、じわじわとした痛みが広がっていく。
私の姿に気づいた瞬間、社員たちは一様に口を噤んだ。それぞれの顔に複雑な色が浮かび、その場の空気が一気に凍りつく。
佳雪は、殊更申し訳なさそうに身を縮めて謝ってきた。「すみません、琉叶さん。社長がカメラを持っていらしたので、つい甘えて撮っていただいちゃって……どうか、怒らないでくださいね」
私が答えるより先に、司朗が淡々と言い放った。
「写真を数枚撮っただけだ。そう怒るようなことじゃないだろう?
さあ、次の場所へ行くぞ」
移動中も、佳雪はずっとはしゃぎながら写真を見せてほしいとせがんでいた。
彼女は人目も憚らず司朗の腕に絡みつき、今にもその懐に溶けてしまいそうなほどの距離感で寄り添っている。
司朗はカメラを操作しながら、穏やかな顔で彼女と談笑していた。その姿は、どこからどう見ても、絵に描いたような睦まじい恋人同士そのものだった。
その様子を見ていた社員が、堪えきれないといった風に羨望の溜息を漏らす。
「社長は冷徹だって聞いてたけど、噂なんてあてにならないわね。あんなに細やかで優しい人だったなんて。
琉叶さん、本当に羨ましいわ。あんなに素敵な旦那様がいるなんて。うちの無神経な夫も、爪の垢でも煎じて飲んでほしいくらいよ。
容姿も財力もあって、その上あの優しさ……もう、完璧すぎて反則よね」
私は自嘲気味に口角を上げ、バッグの持ち手を握る手に、思わず力を込めた。
以前の司朗は、他人に触れられることを何よりも忌み嫌っていた。
たとえ不意に指先がかすめただけでも、露骨に不快な表情を浮かべては、触れられた箇所を執拗に拭き清める。
ひどい時には、その服を二度と着ようとせず、その場に捨ててしまうことさえあった。
それは潔癖症などではなく、純粋な他者への拒絶だった。
彼の領域に無遠慮に踏み込むことが許されていたのは、世界中で私だけだったはずだ。でも今、その特権を持つ人間が、もう一人増えたらしい。
「ねえ琉叶さん見て、社長が佳雪さんの髪を結ってあげてるよ。手つき、すごく慣れてるよね。もしかして家でも、いつもあんな風に琉叶さんの髪を結ってあげてるの?」
社員は興奮を隠しきれないといった様子で、すっかり「理想のカップル」でも拝むかのような顔をしていた。
だが、私が無表情に前方を見据えたまま立ち尽くしていることに気づき、彼女はようやく何かがおかしいと察したようだった。
まともな夫が、妻以外の女の髪を、これほど甲斐甲斐しく結ってやるはずがないのだ。
間違いなく私のものだったはずのヘアゴムが、これ以上ないほどしっくりと佳雪の髪を束ねている。
それを見つめているうちに、ふと、司朗という男も、所詮はその程度の存在だったのだと気づかされた。
これまでの歳月が彼を美化し、私の瞳に「特別」というフィルターをかけていただけ。彼は最初から、他の男たちと何ら変わりはなかったのだ。
佳雪はスマホの画面を鏡代わりにして、うっとりと自分の姿を眺めていたが、やがて弾むような足取りで私の元へ駆け寄ってきた。
「琉叶さん、社長って髪を結ぶのが本当にお上手なんですよ。琉叶さんはショートにされてしまって残念ですけど、でも大丈夫です。これからは私が代わりに練習台になりますから。社長の腕が鈍らないようにいたしますね。……よろしいでしょうか?」
満面の笑みを浮かべる彼女の瞳の奥には、隠しきれない優越感が渦巻いている。
佳雪の今の髪型は、私が短く切り落としてしまう前の長さに驚くほどよく似ていた。結い上げれば実によく映えるその長さを、私自身、本当はとても気に入っていたのだ。
だがある夜の情事の後、司朗が突然「ショートヘアの君が見たい」と言い出した。
だから私は、翌日には迷わず髪を切りに行った。
今にして思えば、あのヘアゴムには、すでに新しい主が決まっていたのだろう。
司朗は私に鋭く一瞥すると、何でもないことのように言い放った。
「佳雪が暑がっていたから、ヘアゴムを貸してやっただけだ。
琉叶、そんなつまらないことで目くじらを立てるなよ」
私が顔を上げると、視線がぶつかった。司朗は一秒もしないうちに目を逸らした。
どうやら、このヘアゴムが私たちにとってどんな意味を持っていたのか、彼はまだ覚えているらしい。二人の歩んできた過去を、完全に捨て去ったわけではないのだ。
それでも彼は、あえて裏切りを選んだ。
私は指先から指輪を抜き去ると、それを佳雪の薬指に、突き立てるように嵌め込んだ。その瞬間、心臓を鷲掴みにされたような、締め付けられる痛みが走る。
「この指輪は五年前、司朗が私に贈ってくれたもの。今は彼の代わりに、あなたに差し上げるわ」
司朗が弾かれたように顔を上げた。信じられないものを見るような眼差しで、私を凝視している。
第2話
数秒の沈黙の後、司朗は不快そうに眉をひそめ、冷え切った声を絞り出した。
「琉叶、何の真似だ。ふざけるのもいい加減にしろ。
たかがヘアゴム一つで、そこまで目くじらを立てるのか?
いいから指輪を戻せ。結婚指輪まで投げ出すなんて……本当に俺と別れたいみたいだな」
「ええ。その通り。もう、あなたとはやっていけないわ」
淡々と返したものの、急激に目頭が熱くなるのがわかった。掌に爪を深く食い込ませても、痛みを感じないほど心はすでに麻痺していた。
司朗は暗い眼差しで私を射抜き、唇を固く結んでいる。彼が激昂しているのは明白だった。
以前の私なら、彼の不機嫌を察して、どうにか機嫌を取ろうと必死になっただろう。けれど今の私には、もうそんな余裕はどこにも残っていない。
私だって、誰かに縋って、慰めてほしいくらいなのだ。
最悪な雰囲気になった今回の親睦会を、私は途中で切り上げた。
後から同僚に聞いた話では、私が去った後の司朗はずっと不機嫌なままで、結局、旅の行程をすべて放り出して途中で引き揚げてしまったらしい。もちろん、佳雪も彼に付き添って。
ただ、司朗は社員たちに三日間の特別休暇を言い渡し、レジャー費用もすべて会社負担にするという大盤振る舞いをしたそうだ。
深夜、司朗が帰宅した。
彼は私の拒絶を無視し、力任せに指輪を私の指へとねじ込んだ。思わず痛みに声を上げると、彼はようやくその手の力を抜いた。
「琉叶、佳雪とは本当に何でもないんだ。ただの友達だよ。
俺たちがどれほどの苦難を共にしてきたか、分かっているだろう?愛しているのは君だけだ、それだけは信じてくれ。なのに俺は、身近に異性の友人を一人置くことさえ許されないのか?」
彼の瞳に、湿っぽい優しさと苦渋の色が浮かぶ。私の指先にそっと唇を落とすと、彼は力なく微笑んだ。
「琉叶……なあ、もう一度、子供を作らないか」
子供?
もし三年前、司朗がライバル企業に拉致されなかったら。もし私が不安に駆られて飛び出したりせず、家で大人しく彼の帰りを待っていられたなら。今頃、私たちの子供は二歳になっていたはずだ。
けれどその子は、産声を上げる前に、冷たい闇の中へと消えてしまった。
私は視線を落とし、彼に抱かれるがまま、耳元で語られる空虚な「未来予想図」を聞き流していた。
「二人産もう。男の子と女の子だ。俺たちが受けられなかった愛を、余すことなくその子たちに注ぐんだ。
琉叶。俺たちの子供には、絶対に俺たちのような孤児の寂しい思いはさせない」
私は自嘲気味に口角を上げた。視界は涙でぼやけ、唇から虚ろな問いが漏れる。「……じゃあ、佳雪のお腹にいる子はどうするの?」
司朗の全身が強張った。彼はよろめくように後ずさり、私の腕を掴んでいた手には、骨が軋むほどの力がこもる。
彼の瞳は、驚愕と狼狽で激しく揺れている。
私はスマホを操作し、数時間前に佳雪から届いていたメッセージを表示させた。画面に浮かび上がったのは、一枚のエコー写真の画像。
挑発的な言葉も、罵詈雑言もない。ただ、写真が送られてきただけ。
その写真は、残酷なまでの真実を突きつけていた。
司朗は心も体も、もう救いようがないほど汚れきってしまったのだ。
「司朗、答えて。彼女の子供はどうするつもり?」
彼は唇を噛み締め、充血した目で私を見つめたまま、一言も発することができなかった。
私は深く息を吐き出すと、バッグから一本の煙草を取り出し、火をつけた。
肺を充たす重苦しいニコチンの香りが、高ぶる神経を少しずつ麻痺させ、静めていく。
立ち昇る紫煙の向こうで、司朗が不快そうに眉を寄せた。
「……いつから、煙草なんて吸うようになったんだ」
その問いには答えず、熟考の末、私は一つの決断を下した。
「司朗、私たち、別れましょう。離婚してちょうだい」
リビングは、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれた。
霞んだ目のせいで、司朗がどんな表情をしているのか、よく見えない。
ふと、何かを思い出したように、私は自分の額を軽く叩いた。
「……あら、忘れていた。私たち、そもそも籍を入れていなかったわね。
なら話は早いわ。会社にある私の持ち株はすべて現金化して返してちょうだい。その他の財産も、しかるべき割合できっちり分けましょう。
二十年以上もあなたに尽くしてきたんだもの。まさか、これっぽっちの権利さえ惜しむなんて言わないわよね」
「琉叶!」
司朗の氷のように冷徹な声が響き渡った。その顔は、憎しみさえ孕んだような陰鬱さに満ちていた。
「……自分が何を言っているのか、分かっているのか?
二十年だぞ。二十年もの間、俺たちが積み上げてきた月日を、君はそんなにいとも簡単に捨て去るつもりか!
俺は君のためなら、いつだって何だって投げ出してきた。どうして君は俺のためにもう少し寛大になれないんだ?
たかが佳雪一人のことで、いつまでそんな子供じみた真似を続けるつもりだ!」
彼にとって、佳雪の存在は、二十年の歳月を天秤にかけるまでもない「些細なこと」に過ぎなかったのだ。
第3話
私は悲哀に満ちた笑みを浮かべた。「ねえ。私が胃の切除手術を受けたあの日、あなた、どこで何をしていたか覚えてる?」
司朗は言葉を失い、後ろめたそうに視線を逸らした。
私は小さく溜息をつく。「佳雪の正社員登用を祝って、彼女の隣で花火を見ていたのよね。違うかしら?」
「……誰に聞いたんだ?」
「それが、今更そんなに重要なこと?」
司朗は重苦しいため息を吐き出すと、もどかしそうに目を閉じた。「……率直に言え。どうすれば君の気が済むんだ?佳雪に子供を諦めさせればいいのか?」
この期に及んで、彼はまだ私が単に「嫉妬して拗ねている」だけだと思っている。
私は深く煙草を吸い込み、立ち昇る煙越しに淡々と言った。「財産分与の案、あなたが決める?それとも、私に決めてほしい?」
――パタン、と乾いた音を立てて司朗が出て行った。結局、彼は最後まで財産の話をうやむやにしたまま、現実から逃げ出した。
その時、指先に焼けるような鋭い痛みが走った。熱さに息を呑んだ瞬間、堪えていた涙が、その痛みを利用するかのように堰を切って溢れ出した。
短くなった煙草の火が、指を焼いていた。吸い殻が床に落ち、火を失った灰が、私たちの関係のように虚しく四散していった。
スマホのバイブ音が鳴った。佳雪からの「宣戦布告」だった。
【琉叶さん、私、司朗のためにこの子を産むことに決めたよ】
……なんとも健気で、ご立派な覚悟だこと。
その文字を眺めているうちに、意識がふわりと遠のき、かつての自分を思い出していた。
十歳の時に児童養護施設に入り、そこで司朗に出会った。
二歳年上の彼は、端正な顔立ちで機転が利き、施設長のお気に入りだった。
他の子供たちは施設の門を一歩も出ることを許されなかったが、司朗だけは例外で、自由な外出が認められていた。
施設に来たばかりの私は、誰とも馴染めず、周囲からは疎まれていた。
そんな孤独な私に唯一、救いの手を差し伸べてくれたのが司朗だった。
司朗は外出するたびに、私を元気づけようと飴を買ってきてくれた。
私の髪が伸びてくると、いつも丁寧にポニーテールに結んでくれたのも司朗だ。
それ以来、私の髪を結ぶのは、いつだって司朗だった。
ある時、他の女の子が羨ましそうに「私にも結んで」と司朗にねだることがあった。けれど司朗は、真っ直ぐに私の方を見て、こう問いかけた。
「琉叶がいいって言うなら、してあげてもいいけど。どうかな?」
肯定も否定もしないまま、私は不満を露わにしてその場を駆け出した。
司朗が私を見つけ出した時、私はまだ一人でむくれていた。彼は私の頬を優しくつねった。
「琉叶、嫌ならどうして言ってくれないの?」
「私が言ったら、あの子の髪、結ばないでいてくれる?」
「君が言わなくても、結局結ばなかっただろう?琉叶一人だけにしかしないよ。いいかな?」
そうして少しずつ、私は彼に依存するようになっていった。
けれど、平穏な日々は長くは続かなかった。十三歳の時、施設から子供たちが一人、また一人と姿を消していることに気づいた。
里親に引き取られたという話は一度も耳にしない。
そして司朗もまた、重い沈黙に支配されるように、何かに怯え、塞ぎ込みがちになっていた。
ある日、司朗がひどい熱を出した。私は居ても立ってもいられず、施設長のもとへ走った。
そこで目にしたのは、虚ろな目をした少女が部屋から運び出される光景だった。
彼女の体は傷だらけで、股の間からは血が流れている。そのまま、彼女は裏庭の花壇へと埋められた。
恐怖で頭が真っ白になり、悲鳴が喉に張り付いて出てこない。
あそこの花が異常なほど鮮やかに咲き乱れていた理由。司朗が決して私を近づけようとしなかった理由。そのすべてを、私は最悪な形で悟ってしまった。
だが、私はすでに施設長に目をつけられていた。
「薬が欲しいなら、ここで服を脱げ」
怖くて、震えが止まらない。今すぐこの場から逃げ出したい。けれど、司朗は今も苦しんでいる。薬がなければ、彼は死んでしまうのだ。
不幸中の幸いと言うべきか、施設長は一本の電話に呼び出され、部屋を後にした。
私は引き出しをひっくり返し、ようやく解熱剤を見つけ出した。けれど、必死の思いで部屋を飛び出した私の目に飛び込んできたのは、施設長の部屋の前に立つ司朗の姿だった。
彼の目は真っ赤に血走り、青ざめた唇は一直線に結ばれている。
彼があれほど激しい怒りを見せたのは、あの時が初めてだった。
その日、司朗は私に問いかけた。「逃げたいか?」と。
途切れ途切れの声で、私は問い返した。
「もし……捕まったら……どうなっちゃうの?」
「警察にはもう告発の手紙を出した。でも、それがちゃんと届いているのかなんて、分からないんだ。琉叶、施設長はもう君を狙ってるんだ。逃げなきゃ、二人ともここで殺される」
彼は長い時間をかけて練り上げたという、とっておきの脱出ルートを私に示した。
私たちは夜の闇に紛れて森へ飛び込んだ。鋭い枝が肌を切り裂いても、痛みを感じる余裕さえなかった。
極限状態のアドレナリンが全身を駆け巡り、立ち止まることなんて到底できなかった。
森の中に潜伏して三日。司朗の熱は上がる一方で、意識も混濁し始めていた。
「もう、ここが二人の死に場所なんだ」そう覚悟を決めた私は、泣きじゃくりながら、来世でもまた必ず出会いたいと、何度も何度も彼に語りかけた。
泣き疲れて絶望の淵にいたその時、数人の警察が現れた。
私はまたしても救われた。
あの施設は警察の手によって解体され、施設長をはじめとする関係者たちは一人残らず捕まった。
第4話
司朗は、私の学費を稼ぐために、泥にまみれて工事現場で働き、時には誰かの舎弟として危ない橋を渡ることさえ厭わなかった。
あの頃の彼は傷が絶えず、ボロボロになっていく姿を見るのが辛くて、私は「もう学校なんていい。一緒に働きたい」と泣いてすがった。
そんな私を、彼は初めて激しい声で怒鳴りつけ、半月もの間、口をきいてくれなかった。
それ以来、私は二度とそんな弱音は吐かないと誓い、死に物狂いで勉強して、常に学年トップの成績を維持し続けた。
司朗も泥水をすするような下積みから這い上がり、ついには頂点へと昇り詰めた。
彼は私を大切に守ってくれた。彼なしでは生きていけないと思い込んでしまうほどに。
二十年。そのあまりに長い月日のせいで、私たちが入籍もしていなければ、式さえ挙げていなかったことを、私はすっかり忘れてしまっていた。手元にあるのは、たった一つの、飾りのないシンプルな指輪だけ。
そして今、その指輪はもう、何一つ繋ぎ止めることはできない。
私は弁護士を雇い、財産分与合意書を作成した。司朗が起業した際、ずっと隣で支え続けてきたのは私だ。
接待の席で無理に酒を煽り、胃を壊してまで契約を勝ち取ってきた。
この財産は、私が命を削って手に入れた、当然の対価だ。
合意書は整ったが、司朗とは連絡がつかなかった。
人づてに探りを入れると、彼は佳雪を連れて旅行に出かけているという。
【琉叶さん、兄貴と何かあったのか?旅行、琉叶さんを置いてったってマジかよ?
一緒にいるあの女、誰なんだ?まさか愛人か?琉叶さん、一体どうしちまったんだよ。計画してたあのプロポーズ、本当にこのまま進めるのか?】
田中拓海(たなか たくみ)は、かつての司朗の舎弟だ。司朗が事業を成功させた後は、彼のホテルの切り盛りを任されている。
拓海は、私と司朗がここまで歩んできた道のりを一番近くで見守ってきた男だった。
そしてあの逆プロポーズは、司朗の三十二歳の誕生日に私が贈るはずだった、とっておきのサプライズだった。
【もういいの。全部中止にして】
拓海から、困惑を隠しきれないメッセージが届く。
【どうしてだよ?やっぱりあの女のせいか?
琉叶さん、兄貴がどれだけ君を愛してるか、俺たちが一番よく分かってる。入籍しなかったのは、まだ経営が不安定で、君に苦労をかけたくなかったからだ。彼は君の人生を縛りたくないってずっと言ってたんだぞ。
あの女のことは、絶対に何かの間違いだ。頼むから、もう一度だけ兄貴にチャンスをやってくれよ】
昔の司朗は、確かに恐れていた。私に不自由のない暮らしをさせてやれない、この自分の不甲斐なさを。だから、私が結婚を切り出す際、あの指輪を贈ることで私をなだめていた。
けれど今や、彼の心にはもう、私以外の誰かが住み着いている。
業務の引き継ぎのために会社へ向かうと、司朗が戻っているという話が耳に入った。
人事に退職届を叩きつけた後、私はそのまま社長室へと向かった。
エレベーターを降りた瞬間、数人の女たちの下世話な噂話が聞こえてきた。
「ねえ佳雪、琉叶さんと社長、本当に入籍してないの?だって、社長が彼女のことを『うちの奥さん』として紹介してるの、私、確かに聞いたことがあるんだけど……」
「嘘をついて何の得があるの?司朗の口から直接聞いたんだから間違いないわよ。それに、私のお腹にはもう司朗の子がいるの。彼、私にプロポーズまでしてくれたわ」
佳雪はこれ見よがしに手を掲げ、薬指に嵌まったまばゆいばかりの大粒のダイヤの指輪を自慢げに見せつけた。
周囲から、羨望の入り混じった感嘆の声が上がる。
「すごーい!じゃあ佳雪、あなたもうすぐ『社長夫人』ってわけ?まさに玉の輿ね!」
「本当、佳雪は運がいいわよね。私、前から気づいてたわ。社長が本当に大切に思ってるのは、あなただって」
「本当よね。あの琉叶って人もいい年して、籍も入れてないくせに『社長夫人』気取りだなんて。本当に図々しい」
佳雪は満面の笑みを絶やさず、女たちのおべっかを悦に入った様子で受け取っていた。
私に気づくと、彼女はわざとらしく薬指のダイヤの指輪をこちらへ向け、勝ち誇った顔で言った。「ねえ、琉叶さん。司朗は今、誰にも邪魔されたくないって言ってるんだ。だから、あなたは……」
「目障りよ。失せなさい」
佳雪は一瞬で顔を白くさせ、屈辱に震えながら下唇を噛んだ。
社長室に入り、差し出した合意書を一瞥した司朗は、不快そうに眉を寄せた。
「……サインはしないぞ」
「いいわ。なら、私の持ち株はすべて競合他社に売り払うだけよ」
司朗は重いため息をついた。「琉叶、俺は本当は……」
「司朗!お腹が、お腹が痛いの……今、琉叶さんに突き飛ばされて……赤ちゃんに何かあったらどうしよう!」
司朗の顔色が変わり、反射的に彼女へ駆け寄ろうとする。
私はその腕を掴み、無理やりペンを握らせた。
「サインして」
司朗は無表情に私を射抜いた。その瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいる。
彼は殴り書きのような筆致で署名を済ませると、その合意書を私の顔に叩きつけるようにして放り出した。
「これで満足か?琉叶。いい加減、いつまでそうやって被害者ぶって騒ぎ立てるつもりだ」
そう言い捨てると、彼は佳雪を横抱きにすると、私を一瞥もせず、足早に部屋を去っていった。
書類の端で切れた頬の痛みを、指先でそっとなぞる。頭の中は、彼が最後に見せたあの冷え切った眼差しで埋め尽くされ、胸の奥が張り裂けそうなほど疼いた。
その時、スマホの着信音が鳴り響いた。
「琉叶、何時に着く予定かな。空港まで迎えに行くよ」
……
私は名義にしていた家も車もすべて売りに出し、不動産業者に早急な現金化を頼んだ。
司朗との二十年の歳月が染み付いたこの街に、私が戻ることは二度とないだろう。
司朗の心をすっかり奪い去った佳雪は、もはや隠そうともせずに自らの「勝利」を誇示し始めていた。
【琉叶さん、司朗は私のものよ。どうせ入籍もしてなかったんだし、いい加減、彼の前から消えてくれない?
この子には、ちゃんとした温かい家庭が必要なの。
司朗が施設育ちだってことは、あなたも知ってるでしょ?本当に彼のためを想うなら、これ以上付きまとわないで】
司朗がいかにその子を愛しんでいるかを思い知らせるように、彼女は何枚もの写真を送りつけてきた。そこには、彼女のお腹にそっと顔を寄せ、胎児の鼓動に耳を澄ませる司朗の姿が写っていた。
三年前、私の妊娠がわかったあの日、司朗は狂喜乱舞した。
彼は壊れ物を扱うような手つきで、私のお腹に耳を寄せ、まだ見ぬ命の鼓動を聴こうとしていた。
「まだ胎芽の状態よ。形にすらなってないんだから」私が彼の耳を弄ぶと、彼はとろけるような優しい眼差しで私を見上げ、私たちの未来に想いを馳せ始めた。
「琉叶。俺もようやく、君を幸せにできる自信がついた。経営も安定したし、正式に籍を入れよう。
名前は何がいいかな。琉叶の名前から一文字もらって、何かいい組み合わせはないか?」
「まだ男の子か女の子かもわからないじゃない。それに、無理に私の名前を入れなくてもいいのよ」私は笑って、彼をからかった。
「だめだ。二人の愛の結晶なんだから、絶対に意味のある名前にしたいんだ」
司朗が一晩中悩み抜いた末に、二つの名前を決めた。
男の子なら、長谷亮叶(はせ あきと)。
女の子なら、長谷琉奈(はせ るな)。
けれど、あの子は運命に恵まれなかった。
妊娠三ヶ月の頃、司朗が競合他社の男たちに拉致された。
知らせを受けた私は、居ても立ってもいられず、相手が要求した契約書を掴んで無我夢中で車を走らせた。彼を救いたい一心だった。けれど、その道中で凄惨な交通事故に遭い――あの子の命は、その場で失われた。
私たちは、子供が生まれたら籍を入れる約束をしていた。
けれど司朗は「君が狙われるのが怖い」と言い、入籍を先延ばしにするようになった。
私は、彼は本気で私の身を案じているのだと信じ込んでいた。けれど、彼が佳雪にプロポーズしたことを知り、ようやく悟った。彼はただ、私と結婚する気がなくなっただけなのだ。
震え続けるスマホを操作し、佳雪の連絡先を拒否リストに放り込む。
機内には、離陸を告げるアナウンスが流れ始めた。
電源を切ろうとしたその時、一本の電話が入った。私は無意識に通話ボタンを押していた。
「……今どこだ。今夜、少し話そう」
スピーカーから聞こえてくる司朗の疲れ切った声が、機内のアナウンスと重なる。
私は淡々と事実を告げた。「飛行機の中よ。司朗、私たち、もう終わりにしましょう」
二十年というあまりに長い月日に、せめて最後くらい、綺麗な幕引きをさせてあげたかった。
電話の向こうは、しんと静まり返った。ちょうどその時、客室乗務員がこちらへ歩み寄り、スマホの電源を切るよう促した。
私は「さよなら」とだけ告げて、彼の声を待たずに通話を切った。そして、迷わず機内モードに切り替えた。