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時が流れても、私は私でいられる
夏目夏希(なつめ なつき)は車の中で、夫の篠原繁人(しのはら しげと)の不倫の証拠を見つけてしまった。 相手は彼の初恋である九条未来(く...
Chương (1)
第1章
夏目夏希(なつめ なつき)は車の中で、夫の篠原繁人(しのはら しげと)の不倫の証拠を見つけてしまった。
相手は彼の初恋である九条未来(くじょう みらい)だった。
その瞬間から、夏希の心は、音を立てて冷えていく。彼女はひとりで中絶手術を受け、離婚を決意した。
けれど別れの日までの間、未来は何度も夏希を挑発し、繁人もまた迷うことなく未来の肩を持った。
すべてを終わらせるため、夏希が海外へと去る。そこでようやく繁人は、自分が失ったものの大切さに気づいた。
彼は夏希を自分の元へ連れ戻すと心に決めた。
第1話
私の名前は夏目夏希(なつめ なつき)。同僚がふざけて、青い貼り紙を私の車に貼り付けて、写真を撮って私に送った。
「ほら、違反切符を切られてるぞ」
それをすっかり信じてしまって、私は交通違反の照会サイトにログインし、念のため確認した。
いつの間に違反をしたのか見当もつかず、ドライブレコーダーの履歴を開いた。そこには、車内カメラが撮り落とした映像が目に飛び込んできた。
篠原繁人(しのはら しげと)の隣に、彼の初恋の女・九条未来(くじょう みらい)が助手席に座っていた。シートベルトもしていないまま身を乗り出し、繁人の頬にキスをしていた。
そして繁人は、眩しいくらいの笑顔で笑っていた。
そんな顔は、私には一度も見せたことがない。
その笑顔を呆然と見つめたまま、私はようやく分かった。
この一方通行の気持ちは、もう手放す時が来たんだって。
私は一人で車を出し、病院で中絶手術を受けた。
そして離婚協議書を整えて、離婚届の用紙と一緒に繁人の会社へ書留で送った。
時が流れても、私は私でいられる。
……
しばらくして、親友の久我甘音(くが あまね)が知らせを聞くと、すぐに駆けつけてきた。
「繁人さんとどうなってるの?彼が浮気したの?」
私は赤くなった目のまま、歪んだ笑みを浮かべた。
十年の追いかけっこが、結局はこんな結末。
それでも私は、それが幸せなんだと勘違いしていた。
けれど今日は、たった一つの映像で目が覚めた。
繁人は私と結婚しても、結局のところ最後まで不本意だったのか。
甘音は、情けない私を見るほど腹が立つみたいに顔をしかめた。
「だから前から言ってたじゃん。あの人、ろくな男じゃないって。夏希はさ、なんでいつも一人で意地張るの。
離れて正解だわ。毎回しんどいくらい追いかけて。
見てるだけで、私までムカついてたよ。
それでね。柳瀬先輩が海外のプロジェクトを持っていて、求人をしてるの。夏希は考えてみない?」
口の中が苦くなって、うまく言葉が出ない。私は小さくうなずいた。
その瞬間、抑えていた涙が勝手にこぼれた。
慌ててティッシュを探す私を見て、甘音がため息まじりに言う。
「もう我慢しなくていい。泣いていいよ」
悔しさがこみ上げてきて、止められなかった。私は甘音にしがみついて、声がかすれるまで泣いた。
私を家まで送ると、甘音はちょっと用事があると言って出ていった。
私はすぐ柳瀬恒一(やなせ こういち)先輩に電話して詳しい話を聞いた。内容的にも十分できると分かったので、その場で引き受けた。
出発は一週間後だ。
今の会社の引き継ぎは、ほとんどオンラインで片づけられる。
洗面所で身支度をしながら鏡を見ると、そこには疲れ切った顔の私がいた。
初めて自分が嫌になった。
考えがまとまらないうちに、スマホが鳴った。
「夏希。悪いけど、黒のスーツ一式を会社まで持ってきて。頼む」
繁人のやけによそよそしいほど丁寧な声を聞いて、私は反射的に「分かった」と答えてしまった。
通話が切れてから、やっと気づいた。
少し迷ったけれど、断るためにかけ直すことはしなかった。
繁人は忙しくて家に帰らないことが多い。私が直接行けば、離婚協議書も回収できる。
会社に着くと、未来がちょうど繁人の横に寄り、パソコンの画面を覗き込んでいた。
髪がふわりと揺れて、繁人の頬に触れる。
繁人はそれを当たり前みたいに指で払って、未来の耳にかけてやった。その仕草が、やさしすぎる。
私に気づくと、繁人の表情がほんの一瞬だけ凍りついた。さっきまでの柔らかさがすっと消え、無表情の顔になる。そして、責めるように言った。
「本当に遅かったな」
未来が笑って、私からスーツを受け取った。
「わざわざありがとう、夏希さん。繁人は部下のことでいらいらしてて、言い方がきついかも。気にしないでくださいね」
女主人みたいに振る舞いで、まるで私のほうが場違いな第三者みたいだった。
未来が帰国して、繁人の秘書になったばかりの頃なら、私はきっと詰め寄っていた。
けれど今の私は、ただ一つだけ確認したい。
「……書類はサインした?」
繁人は眉を少し上げたまま、未来にネクタイを整えさせている。
「サインって、何のだ?」
「繁人、行こう。もう間に合わないよ」
未来がすぐに割って入る。私と繁人の会話が増えるのが、気に入らないのが見え見えだった。
繁人は小さくうなずき、私に投げるように言う。
「用があるなら、家で話す」
二人は前後して出ていった。
最後に振り返った未来は、得意げな笑みを隠しもしなかった。
私はデスクの上や引き出しをひと通り探した。離婚協議書も、離婚届の用紙も見当たらない。
うっかりマウスに触れ、モニターが点く。
映し出されたのは、繁人と未来が手すりにもたれて海を見ている写真だ。目が合っていて、互いに大事に思っていると言わんばかりの距離だ。
それは私が一度ももらえなかった親しさ。
私はバッグを掴むと、その場から逃げるように出た。
家に帰るなり、玄関の内側にしゃがみ込んで、また涙が落ちた。
手放すって、こんなにしんどいんだ。
それでもいい。いつか少しずつ、繁人のことを心の奥から、根っこごと抜いていく。
気を紛らわせたくてショート動画を流していたら、「知り合いかも」のおすすめが出た。
飛ばすつもりが、指が滑って開いてしまう。
未来のアカウントだった。
最新の投稿は、葬儀に参列している様子だった。
添えられた言葉は――「つらい日でも、そばにいてくれてよかった」
亡くなったのは、未来の遠い親戚にすぎない。
それでも繁人は、恋人みたいに彼女の隣で振る舞っていた。
受付の対応から細かい気配りまで、全部自分がやると言わんばかりに動いている姿を見て、私は分かった。
繁人は、いつも忙しくて手が回らないわけじゃない。
ただ、私のために時間を使う気がなかっただけだ。
私たちの結婚式の日もそうだ。仕事が立て込んでるという理由で、繁人は途中でいなくなった。
式場を後にする際、彼は迷ってるみたいな視線をしていた。私はそれを罪悪感だと信じて、「気にしないで」と笑って慰めた。
今思うと、笑えるくらいばかみたいだ。きっとあの時点で、繁人はもう後悔してたんだろう。
第2話
夜、繁人はいつものように帰ってこなかった。
けれど翌日、大学の創立記念式典で、私は意外な場面を目にしてしまった。
繁人が未来の手を引いたまま壇上に上がり、並んで寄付をしていた。
司会者に向かって、繁人はためらいもなく言った。
「未来は、俺にとってこの先もいちばん大事な人です」
その瞬間、私はふと、彼と結婚した頃のことを思い出した。
目立つのはいやだなんて彼が言ったから、結婚式に私は同級生を一人も呼ばなかった。
今思えば、あれでよかったのかもしれない。
視線を感じた繁人が客席を振り返り、私と目が合う。
眉がわずかに寄ったのに、未来の手は強く握ったまま放さない。
私は苦く息を吐いて、目を伏せた。そのまま校内の池のそばの芝生へ向かう。
しばらくして、背後から足音が近づいた。
「夏希、式典に来るなら言えよ。迎えに行けたのに」
手をつないでいたことについて何の説明もない。見られたことに慌てた様子すらない。
私は鼻で笑った。
「あなたの車に、まだ私の席ってあるの?」
繁人は眉間を指で押さえ、困ったみたいな顔を作る。
「夏希、そこまで言う必要あるか?前のお前はもっと気が利いてただろ」
前の私?
前の私は、繁人が私を泥の中から引っぱり上げてくれた神さまみたいだと思っていた。
繁人が笑えば私も笑って、繁人が曇れば私も沈んでいた。
目の中にも心の中にも、繁人しかいなかった。
自分の未来も、目標も、全部手放した。ただ、彼の背中だけを追いかけていた。
本当は、繁人が未来と一緒になりたいなら、ひと言言ってくれればよかった。私は喜んで身を引けたと思う。
だって今の結婚は、そもそも繁人と未来が別れたあと、彼女への当てつけで持ちかけたものだった。
そのとき私は、片想いのままずっと横で見ていた。全部わかっていたのに、それでも断れなかった。
今さら昔の気持ちが再び燃え上がったのなら、私にさっさと身を引けって急かしてくるはずだった。
なのに繁人は、その話を切り出すつもりはないらしい。
それが、私はどうにも分からなかった。
「繁人、こんなところにいたのね」
ハイヒールの音が鳴り、未来が繁人の背後から現れた。私を見て、少しだけ目を丸くする。
「え、夏希さんも来てたんだね」
そう言いながら繁人の前に回り込み、慣れた手つきで襟元を直す。
「学内の人が、一緒に写真撮りたいって。行こうか?」
繁人は私が返事をしないのを見ると、どこか落ち着かない顔で言い添えた。
「あとで一緒に帰る。待ってろよ」
すると未来が、笑いながら彼に一言添えた。
「でも繁人、このあと会議あるでしょ。夏希さんは一人でタクシーで帰ることになるんじゃない?」
それから、申し訳なさそうな顔を作って私を見る。
繁人が迷った、その瞬間だった。
未来が急に声を上げた。
「きゃっ、ヘビ!」
繁人は反射的に私を突き飛ばし、慌ててしゃがみ込むと、未来の腰に腕を回して抱え上げた。そのままコンクリートの通路まで駆ける。
池の縁に立っていた私は、突き飛ばされて、水へ落ちた。
夏の池の水は、本来ならぬるいはずなのに。それなのに私は、刺すような冷たさを感じた。
水面のきらめきがやけに眩しい。
見上げると、繁人がこちらを見ていた。目には罪悪感と焦りが混ざっている。
彼がこちらに向かって走り出すのが見えた。けれど私は先に岸へ這い上がった。
「夏希……悪い。気づかなかった」
私は口元だけで笑う。
「大丈夫。もう慣れてるから」
迷いなく私は背を向けた。
濡れた服が肌に貼りついて気持ち悪い。けれどそれ以上につらいのは心のほうだった。
そのまま、振り返らずに去った。
繁人は拳を握りしめた。たぶん、初めて私に距離を置かれていると感じたからだ。
私を追いかけて、捕まえて、ちゃんと問いただしたかったんだろう。
でも結局、未来のほうが気になって、追ってはこなかった。
代わりに、スマホに短いメッセージが届く。
【先に帰ってろ。あとで説明する】
私は小さく鼻で笑った。
説明?
未来を真っ先に守ったことの説明?
それとも、私を池に落としたことの説明?
どっちにしても、聞きたくない。
自分に都合のいい言い訳なんて、もううんざりするほど聞いてきた。
その夜、繁人は何か引っかかるものを抱えたまま、珍しく早く帰ってきた。
冷えた台所と、火の入っていないコンロ。
そして、私はテーブルでデリバリーの容器を前に、黙々と箸を動かしていた。
それを見た繁人の表情が、すっと落ち着く。
「俺がいないとき、お前はこんなふうに過ごしているのかよ。
これから家政婦でも頼むか。家事大変だろ。お前がしんどいの、俺が嫌なんだ」
箸を持つ手が、ぴたりと止まった。
なんて出来のいい夫だ。
昔の私は、こういう気にかけてるふりを本気で受け取って、いつの間にか情が移ったんだと思い込んだ。
だから、どんどん離れられなくなった。
でも、嘘は嘘だ。
私は口元を拭いて、ゆっくり顔を上げた。
「……離婚しよう」
第3話
繁人はほんの一瞬だけ言葉を失った。
そして、彼は私に向けて笑みをそっとこぼした。
「参ったな。まだ拗ねてんのかよ。
未来とはもう終わったんだよ。今、夫婦やってるのは俺とお前二人だろ。自分の旦那をちゃんと信じろよ」
そう言いながら、繁人は私の頭に手を乗せ、軽く撫でた。子供をなだめるような口ぶりで続けた。
「腹がちょっと減った。なんか作ってくれない?」
それはまるで、話をそらそうとしているようだった。
でも、私に断られた。
「自分でやって」
断られるのが初めてだったのか、繁人はほんの少しだけ戸惑った。
これ以上彼の話に付き合う気にもなれず、私は身をずらして彼の横をすり抜け、部屋へ戻ろうとした。
けれどその瞬間、彼に腕をぐいとつかまれた。
「夏希……具合が悪いのか?」
彼の声は相変わらず優しい。まるで、私のわがままを寛大に受け止めているかのような態度だった。
私は彼を突き放すように言い放った。
「具合が悪かったら、何だっていうの?結婚して五年間、あなたが本気で私のことを気にしたことがある?」
「夫婦だろ。お前のことを気にしないで、誰のこと気にすんだよ」
「じゃあ聞くけど。私の生理はいつ来るか知ってる?」
繁人は口をわずかに開けたまま、言葉が出なかった。
知っているわけがない。私が妊娠して、彼の前で何度もつわりで吐いたときでさえ、繁人は適当に「胃薬でも飲め」と言っただけだ。
「でも、未来さんのは知ってるのね」
私は涙でぐしゃぐしゃになりながら彼を見つめる。きっと彼が怒鳴り返してくるか、あるいは、慌てて未来との関係を言い訳でもするか、と思った。
でも繁人は、どちらもしなかった。ただどうしようもなさそうに息をついただけだ。
「……お前、いったん落ち着け。今夜は会社で残る」
またそれだ。私がぶつけようとすると、彼は残業を盾にして逃げる。
こんなモラハラと何ら変わらないようなやり方を、繁人はやけに上手く使った。
もう我慢できなかった、私は手にしていたリモコンを思いきり投げつけた。
彼は避けきれず、額の端に当たって、そこが薄っすら赤くなった。
繁人の目に、怒りの炎が燃え上がった。
「夏希……わがままにも限度ってもんがあるだろ」
そう言い捨てて、彼はドアを叩きつけるように出ていった。
部屋はしんと静まり返り、崩れたのは私だけだった。
返事のない谷に向かって叫び続けても、苦しくなるだけだ。
私は床にへたり込み、壁の結婚写真に目を向けた。泣くべきか笑うべきかさえ分からなかった。
どれくらいそうしていたのかわからない。ぼんやりしていると、電話が鳴った。
出た瞬間、繁人の怒った声が飛んでくる。
「夏希。お前の親友をちゃんと止めろ」
甘音のことだと分かった瞬間、私は電話を切り、息もつかずに西洋料理店へ向かった。
店に入った途端、目に飛び込んできたのは、頬を押さえて泣きそうな顔をしている未来が、繁人の胸に寄り添っている姿だった。
甘音は店員に止められていて、怒りで顔が真っ赤だ。今にも噛みつきそうな目をしている。
私は慌てて甘音のそばへ行き、なだめようとした。
繁人は私を見もしなく、陰った顔のまま言った。
「久我甘音。お前が夏希の親友だからって、手出さねぇと思うな。今すぐ未来に謝れ」
甘音が吐き捨てる。
「は?誰が謝るべきなのよ?!このクズ男。
殴ったって言うなら、殴りたかったわ。ただやる隙がなかっただけ」
繁人の顔が一気に険しくなり、矛先が私に向いた。
「夏希。お前、こいつに何吹き込んだ?
言ったよな。俺と未来はただの友だちだって。耳がついてんのか?
今日、二人とも未来に謝らないなら、帰さないぞ」
「いいよ。でもその前に、店の人に監視カメラを見てもらおう」
その瞬間、甘音の目がわずかに光った。
けれど未来は、いっそう声を震わせて泣き出した。
「もういい、繁人。夏希さんにこんなに誤解されてるなんて、私は思ってもみなかった。これ以上、あなたに迷惑をかけたくない。だから、私から離れて」
そう言い終えると、未来は泣きながら店を飛び出し、繁人は慌ててその後を追った。
出ていく直前、彼は私に吐き捨てた。
「夏希。未来に何かあったら、お前のせいだからな」
鼻の奥がつんと痛んだ。私はうつむいたまま、何も言えなかった。
第4話
甘音が私をぎゅっと抱きしめてきた。
「ねえ、夏希。追いかけてさ、あいつのこと二発くらい蹴り入れてこない?」
私は思わずぷっと笑ってしまう。
そのあと甘音と夕飯を食べてから、私は家へ戻った。
けれど家の前についたところで、足が止まった。
酔いつぶれた繁人が、未来を抱きしめたまま、どうしても手を離そうとしない。
そして駄々をこねる子どものように、口の中で何かをぶつぶつ呟いていた。
「なんで……お前は、もうちょっと分かってくれないんだよ……」
私の姿に気づいた未来は、わざとらしく繁人に顔を寄せ、唇にそっと触れる。
口調は甘くなだめるようだったけど、その目は私に向けてあからさまに挑発してきた。
「大丈夫。これからは、繁人の言うとおりにするから」
もし昔の私なら、未来の腕から繁人を引き剥がして、「恥知らず」なんて怒鳴って泣いていたに違いない。
でも今は違う。私は無表情で鍵を取り出し、黙ってドアを開けた。
二人のほうへ目をやることすらしない。
すると、未来は一人で必死に繁人を支えながら、部屋の中へ運び込み、ソファに寝かせた。
ようやく立ち上がったと思ったら、今度はわざとよろめいてみせる。
「きゃっ……」
小さな悲鳴とともに、未来はそのまま繁人の胸に倒れ込んだ。
繁人は目を閉じたまま、反射的に彼女を抱き寄せ、酔った声で呟いた。
「……やめろ」
未来は芝居がかった仕草でもがいて、甘ったるい声でささやいた。
「繁人、だめ……そんなことしたら、見られちゃう」
それを聞いた繁人は、逆に腕に力を込めた。
「見られちゃうって……?だれによ」
そして体の向きを変えると、未来の言葉を塞ぐように唇を重ねた。
寝室にいる私は、もう離れると決めたのに、それでもなお胸が刃物で抉られるように痛んだ。
繁人、そこまで急ぐ必要なんてあるの?
それでもいい。ここまで見せつけてくれるなら、私はもっと身軽になれる。
喉が渇いて、コップを持ってキッチンへ向かった。
それから間もなく、服の襟元は乱れ、唇の端がわずかに腫れた未来が、ゆっくりと入ってきた。
「そのみっともない格好では、繁人の心を掴めなくても仕方ないわ。
私がいなくなって五年も経つのに、あなたは何ひとつ変わってない。
私だったら、恥ずかしくて壁に頭ぶつけて死ぬわ」
私は未来をまっすぐ見て、挑発的な口調で言った。
「じゃあ、ぶつければ?人の夫に手を出すほうが、よっぽど恥ずかしいよ」
その瞬間、未来の顔が羞恥と怒りで歪んで、手近にあった熱湯でなみなみと満たされたグラスを掴み上げ、そのまま私へ叩きつけるように浴びせた。
私はとっさに腕で顔を庇ったけれど、熱湯の大半は首筋へ落ちた。
ひりひりと痛んだ。
気づけば私は踏み込んでいて、手のひらで未来の頬を思い切り打っていた。
もう一度叩こうとした瞬間、腕を強く掴まれる。
振り返ると、そこには陰った顔をしている繁人がいた。
次の瞬間、パァンと乾いた音が、私の頬で弾けた。
首の灼けるような痛みが、そのまま顔全体に広がっていく。
「夏希……お前にはほんとに失望したよ」
その日を境に、繁人は姿を見せなくなった。
私は自分の物のうち、持っていけないものを片っ端から片づけて、リサイクルショップに持ち込んだ。
離婚の話を進めたくて、何度か繁人に電話もかけた。
でも返ってきたのは、冷たい一通のメッセージだけだった。
【未来はお前に殴られて病院で治療を受けている。本気で反省して謝る気がないなら、もう連絡してくるな】
出発の日、空港で甘音が私にしがみついて泣きじゃくった。
私は笑って、何度も彼女の背中を撫でた。そして、新しい未来へ向かって、まっすぐ歩き出した。
時が流れても、私は私でいられる。
これからは、自分のために生きていく。
スマホの電源を落とす直前、繁人の番号に最後のメッセージを送った。
【離婚協議書は会社宛に送りました。お手数ですが、名前を書いて早めに送り返してください。よろしくお願いします】