愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた

Đang tải thông tin quảng bá...

愛を誓ったその日に、ワスレナグサは枯れた

GoodNovel Hoàn thành

前田グループの社長、前田勲(まえだ いさお)は私にぞっこん。みんなからは「彼は奥さんの言いなりだ」と噂されるほど、私をこよなく愛してい...

Chương (1)

第1章

前田グループの社長、前田勲(まえだ いさお)は私にぞっこん。みんなからは「彼は奥さんの言いなりだ」と噂されるほど、私をこよなく愛していた。 そして結婚式を明日に控えた日。妊娠検査薬に浮かび上がった陽性のサインを見て、勲を驚かせようと私は胸を弾ませていた。 でも、書斎のドアの前で、勲の氷のように冷たい声が聞こえてきたんだ。 「美羽(みう)は体が弱い。上田家の血筋を絶やさないためには、子供が必要なんだ。 体外受精がうまくいったことは絶対に遥(はるか)には知られてはならない」 それを聞いて、私の手から妊娠検査薬が滑り落ちた。そこでようやく悟ったのだ。勲の愛は、大きな利益の前では、所詮後回しにされてしまうのだ。 そう思って私はその夜のうちに自分の痕跡をすべて消し去ったあと、お腹に宿したまだ2ヶ月ほどの双子と一緒に、アフロテラ共同体へ向かう支援プロジェクトの飛行機に乗り込んだ。 それから5年後。国際ニュースに映る私は、世界に名を知られる記者になっていた。 一方、あれだけ私を見下していた勲は、血眼になって世界中で私を捜し回り、ついには200億円もの懸賞金をかけるほどになっていた。 第1話 エアコンは26度に設定されているのに、私の心はどんどん冷えていくのを感じていた。 手には、まだプレゼント用に包装できていない、陽性反応が出たばかりの妊娠検査薬があった。 ほんの数分前まで、私はこのサプライズを知ったら前田勲(まえだ いさお)がどんな顔をするか、ワクワクしながら想像していたのに。 きっとプロポーズの時みたいに、目を潤ませて私を抱きしめてくれるはず。そして、まだ何も聞こえないって分かっていても、そっと私のお腹に耳を当てるんだろうな。 だって、勲は誰もが認めるほどの愛妻家なんだから。 私が「南区のケーキが食べたいな」ってつぶやいただけで、土砂降りの中でも彼は、2時間も車を走らせて買って来てくれていた。 胃が痛いと言えば、わざわざ胃に優しいレシピを探してきては手料理を作ってくれたりもした。 極めつけは、私たちの結婚式のために、60億円もの契約を断って、自ら海外までウェディングドレスを選びに行ってくれたことだ。 それなのに……半開きになった書斎のドアの前に立った私は、隙間から漏れ聞こえてくる会話を、聞いてしまったんだ。 「上田家との話はついたのか?」勲の声は、私が今まで聞いたこともないほど冷たかった。 「社長、上田さんの検査結果が届きました。体外受精は成功です」秘書の小野哲也(おの てつや)の声は緊張しているみたいだった。「しかし……これは、上田さんがあまりにもお気の毒です。それに、もし石田(いしだ)さんがお知りになったら……」 「黙れ」 勲は哲也の言葉を、冷たく遮った。 「美羽には重い遺伝病があって、自然に子供を授かるのは難しい。それでも彼女は子供が欲しいって言うし、そして俺も、上田家に恩を返さなければならないから、これは取引だ」 その話し声と共にカチッ、とライターの音がして、タバコの匂いが漂ってきた。 「生まれた子は上田家の籍に入れる。俺は恩を返し、向こうは子供を手に入れる。これでチャラになる」勲はそう言って煙を吐き出しながら、まるで仕事の話でもするように淡々と続けた。「遥のことは……」 そこまで聞いて、私は、息をするのも忘れていた。 「遥は純粋すぎる。こんな汚い話は、絶対に知られてはいけない」勲の声は少しだけ優しくなった。でも、その言葉には私がぞっとするような、恐ろしい独占欲が潜んでいるようだった。 「結婚式も近いんだ。遥を悲しませたくない。子供が生まれても、遥の目に触れない場所で育てれば、裏切りにはならない」 裏切りにはならないって? あの優しそうな仮面の下で、勲はとっくに私たちの愛や結婚を、利益と天秤にかけていたんだ。そして彼にとって私はいつでも切り捨てられる、代替案なんだ。 恩返しのために、上田家の令嬢・上田美羽(うえだ みう)と子供を作る? じゃあ、私のお腹にいる子供たちは?ただの邪魔者ってこと? もしかして……この子たちが勲の邪魔になったら、厄介払いみたいに、始末されちゃうの? そう思っていると書斎から足音がして、勲が出てきた。 私は急いで妊娠検査薬をネグリジェのポケットにしまい、何食わぬ顔でドアノブに手をかけたが、指先は凍えるほど冷え切っていた。 するとドアが、内側から開かれた。 チャコールグレーの部屋着を着た勲が、私を見て、ごく自然に腰へと手を回してきた。 ネグリジェ越しに伝わる体温に、私はただただ鳥肌が立った。 「遥?」勲は優しく声をかける。「ドアの前に突っ立ってどうした?裸足じゃないか。風邪ひくだろ?」 私は舌先を強く噛んだ。その痛みでこみ上げてくる何かを必死にこらえ、引きつった笑顔を作って言った。「ちょうどあなたを呼びに来たの。おやつができたから、山下(やました)さんが、温かいうちにって」 「そうか、じゃあいただこうかな」勲はいつものように優しく私の髪を撫でた。 彼の後ろにいた哲也は、俯いたまま、私と目を合わせようともせずに足早に去っていった。 一方私は勲に手を引かれるまま、階段を降りた。 部屋のあちこちに飾られた、結婚式用の飾り付け。テーブルに山積みになった、昨日届いたばかりの引き出物、そのすべてが私をあざ笑っているかのようだった。 そう思っていると、「手が冷たいぞ?」勲は私の手を握りしめてきて、眉をひそめた。「どこか具合でも悪いのか?」 「お腹がすいただけよ」私は自分でも聞こえないくらい、か細い声で答えた。 その夜の勲は、いつも以上に優しかった。 私の髪を乾かしてくれたり、全然面白くない冗談で笑わせようとしたり。電気を消す前には、おでこにキスまでしてくれた。 「おやすみ、遥」 だが、暗闇の中、私は目を開けたまま、隣で眠る勲の穏やかな寝息をただ聞いていた。 そして、そっと下腹部に手を当てて、ここには、小さな命が宿っているのを実感しながら、この子の父親は、別の女の子供を利用して、前田家の未来を盤石にしようとしていることが改めて脳裏を過った。 勲、あなたって本当に欲張りね。全てを手に入れて、私には何も知らないバカでいろって言うの? そんなの、絶対に許さない。 私は勲に背を向けて寝返りを打ち、スマホを取り出して画面の明かりを一番暗くした。 そして半年ぶりに、あるラインのアカウントを開くと、相手は、私が勤めていた新聞社の編集長だ。 結婚の準備をするために、半年前、編集長から提案されたアフロテラ共同体支援プロジェクトを断ったんだった。 だが、今、私は震える指でメッセージを打っては、消すのを繰り返しているのだ。 そして、ついに深く息をした後、私は再度入力をし始めた。今度は、指先が驚くほど安定していた。 【編集長、例のアフロテラ共同体支援プロジェクトの駐在記者派遣枠、私がやります。できるだけ早く出発したいです】 だが、メッセージを送った瞬間、胸のつかえが取れるどころか、もっと大きな石が心臓にのしかかってきたようで、息ができなくなるほど、苦しくなった。 でも、その痛みと同時に、一筋の光が見えた気がした。ここから逃げ出すための、道が。 スマホの明かりが、左手の薬指にはめられた5カラットのダイヤモンドの指輪を照らし、その完璧なほどまでに美しい輝きが、今は冷たい手錠のように見えた。 すると、すぐに返信が来た。【石田さんか?月末に結婚式じゃなかったのか?冗談はやめろよ】 それを見て私は無表情でキーボードを叩き、一文字一文字に、決意を込めて返信をした。【結婚は、しません。必要な手続きはすぐに済ませますので、月末には出発できます】 それからしばらく間が空いて、一言だけ返ってきた。【わかった】 スマホを置いた後、私は目を閉じた。 そして涙が堰を切ったように溢れ出し、枕に染み込んでいった。まるで、心の中にあった勲への愛を、全て洗い流していくようだった。 第2話 朝の7時。ダイニングテーブルに座っていると、タブレットに共有カレンダーの通知が表示された。勲が共有設定を切るのを忘れていたみたいだ。 【9:30東都私立病院、東都不妊治療センター、VIP診察室3、上田さん・再診。備考:関係者用通路は避けること】 その通知画面を私は数秒見つめてから、無表情でスワイプした。 それから階段から足音がして、勲が下りてきた。仕立てのいいスーツを着て、手には老舗の紙袋を提げている彼の額にはうっすらと汗も滲んでいた。 「遥、起きてたのか?」勲は紙袋を私の前に置いた。その眼差しは溺れてしまいそうなほど優しい。「3つ先の通りまで走って買ってきたクリームパンだ。温かいうちに早く食べて」 私はそれを手に取って、一口かじった。 だが、甘ったるいクリームが舌の上でとろけるのを感じて、胃のムカムカが一向に治まらなかった。 「こんなに朝早くから、疲れないの?」私は目を伏せたまま、淡々とした口調で尋ねた。 「お前のためなら、大したことないさ」と勲は笑い、ブラックコーヒーを一口飲むと話を続けた。「そうだ遥、会社で最近、西区の大きなプロジェクトを受注したんだ。取引先が厄介でね。しばらく残業しなきゃいけないから、夜ご飯は外で済ませてくるよ」 西区のプロジェクト……東都病院も、西区にある。 そう思って私は食べ物を飲み込んで、勲を見上げて言った。「そんなに大事なプロジェクトなの?」 「前田家の下半期の株価を左右するからな」勲の表情は真剣そのものだった。「俺たちの未来のためだ。頑張らないと」 昔の私なら、きっと勲を抱きしめて、無理しないでねって言っていたはずだ。 でも今は、「仕事熱心」で「愛情深い」って書いてあるみたいなその顔を見てるだけで、吐き気がするほど嘘くさく感じて仕方がないのだ。 だから、「あまり無理しないでね」と私はただそう言ってティッシュで口を拭いた。 勲は私の素直な態度に満足したのか、身を乗り出して手を握ってきた。「このプロジェクトが終わったら、新婚旅行に行こう。好きな場所を選んでいい。俺が全部手配するから」 その手は乾いていて温かい。かつてそれは、私にとって一番の安らぎだった。でも今は、それに嫌悪感しか感じないのだ。 「どこでもいいよ」私はさりげなく手を引き、ごまかすように牛乳のカップを持ち上げた。「ねえ、勲。私たち、いつ子供を考える?」 すると、目玉焼きを切っていた勲の手が、ぴたりと止まる。ナイフが皿に当たって、キーッと耳障りな音を立てた。 勲は顔を上げた。一瞬だけ視線が泳いだけど、すぐに笑顔で隠した。「どうして急にそんなことを聞くんだ?俺たちはまだ若いじゃないか。遥は戦場記者になりたいんだろ?子供ができたら、足枷になるだけだ。もう少し先でいいよ。二人だけの時間を、もっと楽しみたい」 もう少し先で……それは、美羽が前田家の長男を産んで、その子が大きくなるまで待つってこと? じゃあ、私との子供は?日の目を見ることのない隠し子になるか、それとも邪魔者として消される運命なの? 「確かにそうね」私はカップを置いて、自分でも気づかないうちに皮肉な笑みを浮かべた。「だって、前田家に認められた『血筋』じゃなかったら、産まれてきても辛い目に遭うだけだものね」 それを聞いて勲は眉をひそめた。「今、なんて言った?」 「別に」私は勲の視線を受け止めた。「あなたの考えは、本当に周到だなって言ったの」 その時、テーブルの端に置いてあった勲のスマホの画面が光り、ラインの通知がポップアップした。 【勲さん、昨日はありがとう。おかげで体調もずっと良くなったよ。朝の検査、付き添ってくれる?】 それを見た勲の顔色が一瞬で変わり、スマホをすぐに裏返しに伏せた。 「迷惑メールだ」勲の説明は早口で、喉仏が動いた。「最近、資産運用の勧誘が多くてさ」 私は静かに彼を見つめた。かつて、どしゃ降りの雨の中で私を背負って2つ先の通りまで歩いてくれた彼。絶対に嘘はつかないと誓ってくれた、そんな彼が少しずつ廃れていくのを目の当たりにしたかのように思えた。 「最近のセールスって」私は微笑みながら、一語一句、区切るように言った。「ずいぶん、なれなれしいのね」 勲はこの話題を続けたくないのか、急いでコーヒーを飲み干して立ち上がった。「もう時間だ。西区に出張してくる。家でいい子にしてろよ」 そう言って勲はダイニングテーブルを回り込み、いつものように私の唇にキスをしようとした。 だが、私はさっと顔を背け、椅子の背もたれに掛けたジャケットを取るふりをした。 そのキスは、結局私の冷たい頬に落ちた。 そして男物の香水と、嘘の匂いが混じったその気配に、私はぞわっと鳥肌が立った。 しかし、「行ってくる」と勲は何も気づかないまま、車のキーを持って足早に去っていった。 玄関のドアが閉まった瞬間、家の中は静まり返った。 私は洗面所に駆け込み、蛇口をひねると、冷たい水で勲に触れられた場所を夢中で洗い流した。 べたつくような感触が消えるまで、肌が赤くなるほどこすり続けた。 ようやく顔を上げると、鏡の中には、目の縁を赤くしながらも、妙に落ち着いている自分がいた。 「勲、私たち、もうこれで終わりよ」 私はポケットから、とっくに記入を済ませていたアフロテラ共同体支援プロジェクトの申請書を取り出した。それを丁寧に折りたたむと、一番奥にしまい込んだ。 第3話 そして午後には、アフロテラ共同体支援プロジェクトへの参加申請を済ませた私は、近くのカフェに座り、留守番中の猫の様子を見ようと、遠隔で監視カメラをつけた。 すると、午後3時40分、玄関に人の気配があった。 勲がドアを開けて入ってきた。靴も脱がず、慌てた様子だった。 そしてすぐに、彼の腕に絡みつく一本の手が見えた。 美羽は、私が前に欲しがった服を着ていた。露出が多すぎると勲に反対されて諦めた、あのキャミソールドレスだ。美羽はそれを着て、堂々と私の家に上がり込んだ。 「勲さん、今すぐ取りに戻らないとダメなの?誰かに頼めばいいじゃない?」と、美羽が甘ったるい声を出した。 「例の輸入薬なんだけど、家の保冷庫にしか置けないんだよ」勲の声は少し苛立っていた。でも、彼は美羽を支えながら、私がいつも座っているソファに座らせた。 「座って、動くなよ。先生も言ってたろ、安静にしてないと、お腹の子が危ないって」 一方、私はその画面を見つめながら、「通話」ボタンに指を置いた。これを押せば、すぐに問い詰められる。 そう思ったが、私は指を離した。 今ここで問い詰めても、「家のためのことだ」とか言われるだけ。最悪、「物分かりの悪い女」だと逆ギレされるかもしれない。 私がしたいのは、ただの口喧嘩じゃない。一撃で息の根を止めて、あと腐れがないようにすることだ。 しばらくして、画面の中では、勲がすぐに携帯用の保冷ケースを持って現れた。「行くぞ」 「やだ。喉が渇いたし、なんか気持ち悪い」美羽はソファから動こうとしない。そして、挑発するように、私のテリトリーを見回した。 「わがまま言うな。遥は、他人に自分のものを触られるのが嫌いなんだ」勲は眉をひそめた。 「どうせいないんだから、いいじゃない。何をそんなに怖がってるの?」美羽は口をとがらせた。 勲は黙り込んでしまった。そして、本当に美羽のために水を取りに行った。 その瞬間、私は勲が汚らわしいだけじゃなく、惨めなくらい情けない男だと思った。 そのあと二人が家を出てから、私はカメラの電源を切った。 そしてあのソファも、この家も、すべてが気持ち悪く思えた。 夜10時。いつものように、勲から電話がかかってきた。 「遥、もう寝たかい?」その声に、風の音が混じっていた。 「ううん、まだ。本を読んでる」私はベッドにもたれ、二人の思い出の写真を手に取った。 「西区は風が強くてさ。会いたいな」勲は甘い声で言った。「この仕事が終わったら、すぐ帰ってウェディングドレスの試着に付き合うから」 「うぇっ」 すると電話の向こうから、突然、こらえきれないような吐き気が聞こえてきた。 それを聞いて、勲の息が乱れた。すぐ後に、布でマイクを慌てておさえるような音がした。 数秒後、彼の声がまた聞こえた。気まずそうに笑いながら言った。「ごめん、遥。お客さんが飲みすぎて吐いちゃってさ。ここはうるさいから、またかけるね。愛してるよ」 ツー、ツー、ツー。 無機質なその音だけが、やけに耳についた。 そしてしばらくじっとしてから、私は立ち上がり、アルバムも、甘い言葉が書かれたカードも、初めてアフロテラ共同体へボランティアに行った時の記念写真も……全部、ゴミ箱に捨てた。 あの頃の勲は、目をキラキラさせていた。「世界の美しいものも、悲しいものも、全部一緒に見に行こう」なんて言っていたのに。 そんな想いを巡らせて、私はカチッ、とライターをつけた。青い炎が燃え上がり、写真の中の若い勲の笑顔を飲み込んでいった。 こうして一枚、また一枚と、写真は黒く丸まって灰になった。それらの燃えかすを見つめていると、私は今までにないほど、心が軽くなるのを感じた。 その時、スマホが震えた。新着メールだ。 差出人はグローバル通信社。【重要――アフロテラ共同体駐在記者としての採用、及び秘密保持契約について】 メールを開き、電子署名の欄に、はっきりと自分の名前を書いた。【石田遥】 そして、私は【2週間後、出社します】と返信した。 それから3日後、勲がビロードの箱を手に帰ってきた。 「遥、西区のプロジェクトは順調だよ」彼はダイヤが散りばめられたネックレスを差し出した。「ここ数日、ほったらかしにしたお詫びだ」 勲はそう言って笑顔で私を抱きしめようと近づいてきた。私は避けなかった。 そして、彼が私の首に顔を埋めた瞬間、ツンと鼻をつく消毒液の匂いがした。 服を着替え、シャワーも浴びたんだろう。それなのに、匂いは骨の髄まで染みついているようだった。 「臭い」私は眉をひそめ、正直にそう言った。 すると、勲の体がこわばった。彼は私から体を離し、一瞬、動揺した目つきになった。「多分……病気の藤原社長のお見舞いで病院に寄ったからかな。匂いがとれないみたいだ。シャワーを浴びてくる」 「藤原社長」って?先週、海外でダイビングしてる写真をインスタにあげてたけど。 私は勲の背中を、冷たい目で見つめた。この男は嘘をつくのに、何の準備もしようとしないのね。 その夜、勲はぐっすりと眠っていた。妊婦の世話は、やっぱり疲れるのだろう。 私は寝返りを打ち、月明かりの下で、5年間も見つめてきたその顔を見た。かつては絵のように美しいと思っていたが、今はただ憎らしいとしか感じないのだ。 指先で、そっと勲の頬に触れてみる。冷たい。骨の髄から冷えきっているみたいに。 この男は、私と結婚式の準備を進めながら、同時に、病院で他の女に付き添っているのだ。他の女の、お腹の子のために。 そう思って、私は勲に背を向け、ベッドサイドのデジタルカレンダーに目をやった。 結婚式まで、あと15日。 勲が「大切な日」だと印をつけたその日は、私にとって、彼との決別のカウントダウンだった。 第4話 翌日、ネットニュースに【前田グループの社長、東都不妊治療センターに頻繁に出入り。なにやらおめでたいニュースがあるかも?】という記事が一瞬だけ出て、すぐに削除された。 その日家に帰ってきた勲は、わざわざワスレナグサの花束を買ってきた。 ワスレナグサは「私を忘れないで」という意味で、勲が一番好きな花だった。 「週刊誌の憶測だよ」勲はネクタイを緩めながら私の様子をうかがった。「あの病院へ行ったのは、最新の不妊治療ができると聞いたからだ。遥、俺たちの赤ちゃんのために、まず体を最高の状態に整えたいんだ」 勲は花瓶に花を生けながら、愛おしそうに言った。「遥に、一番健康な赤ちゃんを産んでほしい。これって、間違ってるか?」 ただ、勲のスマホで見た【勲さん、今日の検診、赤ちゃんは順調だった。ただ、ちょっと疲れちゃった】というメッセージを見ていなければ、私も彼の嘘を鵜呑みにできたのかもしれない。 そう思いつつ私は言った。「あなたはいつも本当に気が利くわね」私は花束を受け取り、指先で花のトゲに触れた。「『私たちの家庭』のために、あなたも大変ね」 それを聞いて、勲は明らかにほっとした様子で、私の肩を抱きしめた。「お前が喜んでくれるなら、これくらいどうってことないさ」 次の日、勲が会社に行っている間に、私は実家に寄った。 実家の庭は花の甘い香りに満ちていた。両親は楽しそうに新婚旅行の計画を立てていた。 「遥、この島はどうかしら?私たちはもう計画も立てているのよね」母は満面の笑みだった。 両親の白髪まじりの髪を見て、私は胸が締め付けられ、必死に涙をこらえた。 「母さん、新婚旅行は急がなくていいから」私は分厚いファイルを取り出し、一緒に来てもらった弁護士に渡した。「陣内(じんない)先生、これは勲が私にくれた資産の証明書です。全権を委任しますので、すべて私の両親名義の信託口座に移して、先生に管理をお願いしたいんです」 彼は驚いた。「石田さん、これは一体……」 「もし……私がすごく遠い場所で仕事をすることになって、管理ができなくなった時のための……私の両親の老後のための資産です」 そう言って私は父のゴツゴツした手を握った。「父さん、母さん、私は叶えたい夢があるの。だからすごく遠くて、電波も届きにくいかもしれない場所へ行く予定よ。でも、心配しないで。私は元気にやっていくから」 それを聞いて両親は、私が地方にしばらく取材旅行にでも行くのだろうと思い、仕方ないと優しく笑って送り出してくれた。 そして実家を出てから、カフェで待っていた親友の石川椿(いしかわ つばき)と合流すると、彼女はものすごい剣幕だった。 椿は薬の箱をテーブルに叩きつけた。「遥、正気なの?もうすぐ結婚式なのにこんなもの飲んで!前田さんは、ずっと子供が欲しいって言ってたじゃない?」 それはホルモンバランスを整えるための薬で、つわりをごまかすための私の口実でもあった。 私はアイスコーヒーをかき混ぜながら、静かな口調で言った。「椿、私はもう勲の子供を産まないつもりよ」 「どうして?彼、あんなにあなたのこと大事にしてるのに……」 しかし、そう言い終えないうちに、椿の視線が固まった。振り返ると―― デパートの1階で、勲がゆったりした白いワンピースを着た女性を支えながら、高級ブランド店から出てくるところだった。 女性が足を滑らせると、勲は慌てて彼女の腰を抱きかかえた。彼の手には、有名ブランドの限定マザーズバッグが提げられていた。 椿は勢いよく立ち上がって駆けつけようとしたが、私は必死で彼女の腕を掴んで引き止めた。 「行かないで」 ちょうどその時、勲から電話がかかってきた。私はスピーカーにした。 「遥、今、会社で会議中なんだ。今夜は少し帰りが遅くなる。 そうだ、さっきデパートの前を通ったら、お前に似合いそうなバッグを見つけたんだ。でも残念ながら品切れでさ、今度買ってやるよ」 それを聞いて椿の表情は、怒りから驚きへ、そして最後には侮蔑へと変わっていった。 だって、階下では、勲が美羽のために優しく助手席のドアを開け、彼女が頭をぶつけないように手を添えていたから。 「分かったわ。お仕事頑張ってね」私は電話を切って、椿を見た。「ね、これで分かったでしょ?」 すると椿は椅子に崩れるように座ると、目を赤くして吐き捨てた。「あのクズ男!」 「このことは黙ってて」私は薬の箱を取り返し、ゴミ箱に捨てた。「結婚式の日に、全部終わらせるから」 第5話 そして、退職の手続きをした日は、冷たい雨が降っていた。 編集長は戦場記者への派遣申請書を私に差し出し、深いため息をついた。「石田さん、本当に決めたのか?あそこは、本当に命の保証がない場所だぞ」 「覚悟はできています」私はためらうことなく、書類にサインをした。 編集部を出ると、同僚たちが噂話をしようと集まってきた。「遥さん、寿退社して妊活に入るって本当?前田社長って優しいのね。デスクがお花でいっぱいじゃない?」 私は自分のデスクの隅に目をやった。そこは勲から贈られた花で埋め尽くされている。でも、2週間前に贈られた胡蝶蘭は、手入れもされずに黄色く枯れ、花びらがはらりと落ちていた。まるで死んだ蝶のようで、まるで、私たちの結婚を物語っているようだった。 「ええ」私は微笑んだ。「盛大な結婚式にするつもりだから、みなさんもぜひ来てくださいね」 そう言うと、私はその場を後にした。 そして家に着くと、勲が眉間にしわを寄せて立っていた。 「遥、悪い知らせがある」 勲は私の手を握り、重い口調で言った。「海外から空輸したメインのウェディングドレスが、輸送中にレースがほつれてしまったらしい。修理が終わるのは、結婚式の当日になるそうだ」 私は、失望に満ちた目で勲を見つめた。 だが、つい10分前、私は彼の車のドライブレコーダーの映像を見てしまったのだ。 郊外のプライベートスタジオで、勲は私たちの結婚式のためにオーダーメイドした白いタキシードを着て、美羽のウェディングベールを直してあげていた。 美羽はオフショルダーのサテンのドレスを着て、楽しそうに笑いながら、勲に寄りかかっていた。 一方勲も美羽を突き放すどころか、愛おしそうに彼女の鼻をツンとつつくだけだった。 その優しい眼差しは、私にプロポーズしてくれた時にも見たものだった。 そう思い巡らせながら、「大丈夫よ」私はそう言って勲の手を握り返したが、指先は氷のように冷たかった。「急いでないから」 すると勲はきょとんとして、申し訳なさそうな顔をした。「遥、お前は本当に物分かりがいいな」彼はしゃがみこむと、私の足を自分の膝の上に乗せた。「仕事でまた足が浮腫んだんだろう?マッサージしてあげるよ」 勲の指は長くて、力加減もちょうどいい。私のために、わざわざ覚えてくれたマッサージだ。 「力加減はいかが?」勲は顔を上げ、優しい眼差しで私を見た。「最近、寂しい思いをさせてごめんな。この仕事が片付いたら、ずっとそばにいるから」 私は目の前で跪くこの男を見下ろした。一族の利益のために、完璧な芝居を続ける男を。 「勲」 「ん?」 「今日の香水、少し甘い匂いがするわね」 そう言われ勲の指が、ぴくりと固まった。 「そうかい?化粧品関係のクライアントに会ったから、匂いが移ったのかもしれないな」彼はすぐに平静を取り繕い、話を逸らした。「そうだ、お前のためにルビーのジュエリーセットを注文したんだ。明日届くから、ドレスが遅れるお詫びだと思って受け取ってくれ」 「わかったわ」私は微笑んだ。「ありがとう」 翌日、数千万円はするであろうジュエリーセットが届いた。 私は箱をちらりと開けて中身を確認すると、ウォークインクローゼットの一番下の引き出しに無造作に放り込んだ。 そして午後、配送業者のトラックが裏口に停まった。業者の人は、山積みになった何十もの袋を見て驚いている。「石田さん、これ、タグが付いたままの新品ですけど……全部、寄付されるんですか?」 「全部です」私はがらんとしたウォークインクローゼットに立ち、「もう着ないから、必要な人に使ってもらいましょう」と言った。 シルクのネグリジェ、ラムウールのコート、限定品のバッグ……2時間後、ウォークインクローゼットのほとんどが空になり、勲のスーツが数着、ぽつんと残されているだけになった。 その晩、夜遅く、勲が帰ってきた。彼は寝室のドアの前に立ち、眉間を揉みながら言った。「遥、今夜はお前を抱いて寝たい」 勲が家で寝るのは、この1週間で初めてのことだ。きっと、美羽のほうはうまく「なだめ」終えたのだろう。 それから明かりを消すと、勲は後ろから私を抱きしめてきた。5分も経たないうちに、寝息が聞こえてきた。 二人の女の間を行き来し、嘘を重ねて体裁を保つのは、確かに疲れることだろう。 そう思って、私は目を開けたまま、窓の外に浮かぶ青白い月を眺めていた。そして、涙が静かに頬を伝う中、背中に感じるぬくもりも今では息苦しく思えた。 私はそっと勲の手を解くとベッドから抜け出し、裸足でがらんとしたウォークインクローゼットへと入った。月明かりが、空っぽのハンガーを照らしている。 「勲、この家はもう空っぽなのに。どうしてあなたには、それが見えないの?」 その夜、私は壁に寄りかかって床に座り込み、そのまま朝を迎えた。 第6話 次の日、哲也が美羽を送り届けてきたのは、ちょうど日が暮れた頃だった。 「遥」勲は申し訳なさそうに笑いながら、もみ手をしていた。「こちら美羽、上田グループの会長のお嬢さんなんだ。最近ちょっと塞ぎ込んでて、医者からも一人にしないようにって言われててね。上田会長に数日預かってほしいと頼まれたんだ。新居は静かだし、ちょうどいいと思って」 そう言われ私はソファに座ったまま、すっかり冷めてしまった水を手に、美羽のことを見つめていた。 ベージュのニットに、ヒールのない柔らかな靴。顔色も良いみたい。 「石田さん、お邪魔します」美羽はか細い声で言った。「勲さんから、石田さんは穏やかな方だからと聞いていましたので、きっと受けいれてくださるんですよね」 そう言われ、私が置いたグラスが、テーブルの上でカチャンと乾いた音を立てた。 「ええ、もちろんお構いなく」私は立ち上がるとスカートの裾を整え、感情のこもらない笑みを浮かべた。「山下さん、2階の南向きのゲストルームの用意をお願い」 それを聞いて勲はほっと肩の力を抜き、感動したような顔で言った。「遥、ありがとう。お前が一番物分かりがいいって、わかってたよ」 勲が私を抱きしめようとしたけど、美羽の「あっ」という声に遮られた。 「勲さん、なんだかクラクラする……」美羽は玄関の棚に手をつき、今にも倒れそうに体を揺らした。 すると、私に向かって伸ばされた勲の手は、くるりと向きを変え、大股で美羽を支えに行った。「貧血かな?早くソファに座って」 寄り添いあう二人の後ろ姿を見て、私はまるで自分が邪魔者みたいに感じた。 さらに、夕食のメニューまで、明らかに勲が前もって決めていたもののようで、テーブルには、野菜のおひたし、魚の蒸し物、鶏と野菜の煮込みといった、あっさりしたものばかりが並んでいた。 辛いものが大好きな私の前には、白ごはんの入ったお茶碗が一つだけ。 「美羽は体が弱っているから、味の濃いものは食べられないんだ。だから、ここ数日は薄味でお願い」 そう言って勲は料理を取り分けつつ、続けた。「遥、お前も胃を休めなよ」 しかし、私はそれを見ていると、胃がむかむかしてきた。 「勲さん、本当に優しいのね」一方、美羽は料理を受け取ると、挑発するように私に視線を投げた。「石田さんも気にかけてあげてくださいね。勲さんたら、私の病気のことばかりを気遣っているんですから」 そう言ってテーブルの下では、美羽の足が勲のすねをそっと擦っていた。 それを勲は避けもせず、美羽に取り分けを続けていた。「たくさんお食べ。タンパク質もしっかりとらないと」 そう言った後、勲は向き直って、膝の上に置かれていた私の手を握った。そして真剣な眼差しで、声をひそめて言う。「遥、すまないな。これが落ち着いたら、またとびきり美味しいご馳走でも食べに行こう」 愛人にお腹の子のためにおかずを取り分けてやりながら、妻の手を握って未来を約束するなんて。 胸くそ悪い。 そう感じて私は胃酸がこみ上げてくると、思わず「うっ」と吐きそうになった。 すると美羽が箸を止め、勲はきょとんとした後、眉をひそめた。「どうしたんだ?」 「たぶん、薄味すぎて口に合わないのかも」私は口元を拭い、平然と答えた。 美羽はほっと息をつき、くすりと笑った。「石田さんって、わがままなんですね。勲さんがわざわざ用意してくれたのに、ありがたみもわからないなんて」 勲は美羽と私を交互に見てから、冷たい顔になった。「遥、意地を張るな。美羽はお客さんで、しかも病人なんだぞ。そんな態度じゃ、彼女が食事しにくいだろ?気分が悪いなら、先に部屋で休んでくれ。場をしらけさせないでくれよ」 なるほど。場をしらけさせる邪魔者は、私の方だったのね。 「わかったわ」 そう言って言い争うことも、わめき散らすこともなく、私は静かに立ち上がり、椅子を引き、背を向けてその場を去った。 すると、背後から、勲が美羽におかずを取り分けてあげる音が聞こえた。「遥のことは気にするな。結婚式の準備で疲れてて、少し神経質になってるんだ」 一方、私は主寝室に戻ると、スーツケースを開け、身分証明書や現金、着替えなどを詰めていった。 その間、階下からは、楽しそうな笑い声がかすかに聞こえてきた。 夜中の12時、部屋のドアノブが静かに回された。 勲が入ってきた。 私は勲に背を向けて、寝たふりをした。彼はそろそろとベッドに入ると、私に背を向けた。2メートルもある広いベッドの真ん中には、まるで深い溝があるみたいだった。 するとベッドサイドのスマホが一度震え、勲は素早くそれを手に取った。画面の明かりが、彼の横顔の半分を照らす中、「遥?」勲は探るように声をかけてきた。 一方、私は穏やかな寝息を立て続けた。 すると、勲は安心したように息をつき、布団をめくってベッドから降りた。私が起きないように、カーペットの上を裸足で歩いている。 ほどなくしてカチャリ、とドアが静かに閉まる音がした。 私は起き上がってドアに近づき、隙間から外を覗いた。 廊下の明かりがついていた。レースのネグリジェを着た美羽が、勲の体にまとわりついているのだった。 「勲さん、暗いと怖くて……」 「大丈夫、一緒にいてあげるから」 勲は美羽を腕の中に抱きしめた。ゲストルームのドアがゆっくりと閉まり、声が聞こえなくなると同時に、夫としての勲の最後の理性も消え去った。 そしてベッドに戻ると、美羽がわざとドレッサーの上に置き忘れていった冊子に目が留まった。【東都不妊治療センター体外受精周期の注意事項】 1ページ目を開くと、【保護者・配偶者】の欄には、勲の署名があった。 「本当に、用意周到なこと」 そう思って、私は小さくため息をつき、冊子を閉じると、引き出しの一番奥にしまい込んだ。 そしてその夜、私は一睡もできなかった。 朝の6時、枕元のスマホが震えた。海外からの長距離電話だった。 私は電話に出た。声はかすれていたけれど、落ち着いていた。「もしもし」 「石田さんですね、グローバル通信のアフロテラ共同体駐在員事務所です。スケジュールの最終確認です。31日午前8時、第3ターミナル発の便となります。 その後は通信が制限されるエリアに入りますので、国内との連絡が長期間取れなくなる可能性があります。予定通り進めてよろしいでしょうか?」 私は隣の、誰もいなくて冷たいベッドに目をやった。 「はい、確定でお願いします」 「承知いたしました。ご参加、心よりお待ちしております。道中お気をつけください」 第7話 それから30日になると、勲は隣県へ出張だと言ってきた。 「日帰りだ。戻ったら、お前のウェディングドレスの最終フィッティングに付き合うから」玄関で靴を履き替えながら、勲は慌ただしい口調で言った。別れのキスも、どこか上の空だった。 一方玄関から出ていくその後ろ姿を見送ってから、私はくるりと向きを変え、2階へ上がった。 美羽は私を見ると、挑発するような視線を向けてきた。 「石田さん、本気で勲さんがあなたのことを愛してると思ってるんですか?本当に愛してる男が、こうも毎回あなたを放っておけるわけないじゃないですか」 そう言われ私は足を止め、振り返った。「だから、何です?」 「身の程をわきまえてるなら、自分から出ていくべきだって言っているのよ」そう言って美羽は階段のところまで来て続けた。「勲さんの将来の妻は、私なんですから」 嫉妬で歪んだ美羽の顔を見ていると、なんだかおかしくなってきた。 「そんなの私にとってはどうでもいいものよ。あなたが欲しいなら、どうぞ」 そう言って、私は背を向けた。 その時、玄関の電子ロックがピッという音を立てた。 美羽の表情がさっと変わり、持っていた赤ワインを自分の顔に浴びせると、そのまま階段に座り込んだ。そして、甲高い悲鳴をあげた。 「きゃあ!石田さん、押さないでください!」 すると、勲は、手にしていた車のキーを床に落として叫んだ。 「美羽!」 すぐに勲は階段を駆け上がってくると、その目は焦りでいっぱいだった。そして私の横を通り過ぎるなり、躊躇なく私に平手打ちした。 殴られた衝撃で顔が横に振られ、耳がキーンと鳴った。 だが勲は私を一瞥もせず、膝をついて美羽を抱きかかえた。そして、震える声で尋ねた。「大丈夫か?どこか怪我は?」 美羽は勲の腕の中で震えながら言った。「勲さん……石田さんを責めないで。きっと私のせいで、かっとなっちゃったのよ……私がここにいるのがいけないの。すぐに出ていくから……」 「馬鹿なこと言うな!」勲は目を真っ赤にして、私を睨み上げた。 その眼差しに優しさは微塵もなく、嫌悪と激しい怒りだけが宿っていた。 「遥、いつからそんなに根性の悪い女になったんだ?美羽がうつ病だって言っただろうが、少しは思いやれないのか?それに、彼女がここに住むのは、お前も了承済みじゃないのか!」 それを聞いて私はゆっくりと顔を元に戻し、痺れの残る頬の内側を舌で押した。 そして、目の前にいる男が、まるで赤の他人のように思えた。 「あなたはいつ、私が彼女を押したのを見たっていうの?」そういう私の声は静かで、不気味なくらい落ち着いていた。 「まだ言い訳か!」勲は怒鳴った。「美羽がどんな子か、俺が一番よく分かってる!遥、お前がわがままなのは知っていたが、ここまで性根が腐っているとは思わなかった!」 そのタイミングで、美羽が呻き声をあげ、私の「罪」を確定させた。 「勲、あなたに殴られたのは、これが初めてね」私は口の端から流れる血を拭った。 勲は一瞬、言葉を失った。私の腫れ上がった頬を見て、彼の目に動揺が走ったが、すぐに強気な態度でそれを覆い隠した。「先に手を出したのはお前だろ!謝れ!今すぐ美羽に謝るんだ!」 「謝らない」 私は落ち着いた様子でスマホを取り出した。 「よかったわ。猫が逃げ出さないように、玄関と階段のところにカメラを付けておいたの」私はアプリを起動させ、リビングのテレビに映像を映した。 すると画面には鮮明な映像が流れていた。美羽が玄関のドアを見つめ、自分でワインをかぶり、手すりを掴んでゆっくりと座り込む。そして、わざとらしく体勢を整えてから、口を開けて叫んだのだ。 その間、私は美羽から3つも段差を離れたところに立っていて、彼女の服に少しも触れていなかった。 それを見て美羽の泣き声がぴたりと止まり、顔から血の気が引いた。 勲も美羽を抱いたまま、硬直した動きでスクリーンに目をやり、そしてまた腕の中の女を見つめた。 「これは……一体どういうことだ?」勲の声は乾いていた。 「勲さん、薬の副作用で、めまいがして立てなかったの……」美羽は慌てて説明したが、その言い訳はあまりにわざとらしかった。 一方私はテレビの電源を切り、二人を見下ろした。「まだ私に謝れって言う?」 勲は美羽を離し、立ち上がった。 彼は途方に暮れた顔で私を見て、私の頬に触れようとしたが、私は身をかわした。 「遥、すまない。俺は、あまりに急なことで、てっきり……」 「私がひどい女だと思ったんでしょ」私は勲の言葉を遮った。「何も聞かずに、私を犯人だと決めつけた」 勲は視線の隅で床にへたり込んでいる美羽を捉え、罪悪感に満ちた表情は、やがてどうしようもないといった様子に変わっていった。 「遥、美羽が間違っていた。彼女は今、精神的に不安定で、どうかしていたんだ」そう言って、勲は上位者っぽい口調に戻った。「でも、この動画は外には出さないでくれ」 「どうして?」 「もしメディアに前田家のスキャンダルとして知られたら、明日の結婚式が台無しになる」勲は声を低め、命令とも懇願ともつかない口調で言った。「頼むから、消してくれ。殴ったことは謝る。埋め合わせは必ずするから」 勲の愛情は、天秤にかければ、利益よりもずっと軽かった。 「埋め合わせ?」私は思わず笑ってしまった。 「ええ、いいわよ」 勲はきょとんとした顔になった。 「あなたの言う通りに消すわ」私は勲の目の前で、削除ボタンをタップした。 勲は安堵の息を漏らし、その目に称賛の色を浮かべた。私がまた、何でも許してくれるいつもの私に戻ったと、そう思ったのだろう。 「やっぱり遥は話がわかるな」勲は振り返ると、美羽に冷たく言い放った。「いつまでそうしているつもりだ?部屋に戻れ。みっともないぞ」 こうして茶番は、幕を閉じた。 その晩深夜になっても、書斎の電気はついたままだった。 勲は、明日の盛大な結婚式に備え、マスコミ対応の最終チェックをしているのだろう。 私は寝室のパソコンの前に座っていた。画面の青白い光が、顔を照らしている。 ゴミ箱フォルダの中には、さっきの動画ファイルが静かに入っていた。 だけど、私が開いていたのは、市内すべてのメディアに一斉送信できる予約メールの画面だった。 添付ファイルには、高画質の防犯カメラ映像、妊娠検査結果、勲の署名入り体外受精同意書、そして書斎での「子供の取引」に関する録音データが入っていた。 送信設定時刻は明日、午前11時58分。 「勲、そんなに世間体を気にするなら、一生忘れられない晴れ舞台を用意してあげる」と私は密かに呟いた。 第8話 翌日、東都大聖堂。 長い廊下は、空輸された数千本のワスレナグサで埋め尽くされている。メディアもカメラを構えて準備万端だ。 「前田社長、奥様は今日、さぞお美しいでしょうね?」と、記者がお世辞を言った。 勲はそつなく微笑んで答えた。「彼女は、いつも美しいですよ」 そう言って勲は腕時計に目を落とした。時刻は11時50分。もうすぐ、愛する女性を妻に迎えられる。 結婚式が終わったら、美羽を海外で出産させよう。勲はそう心に決めていた。 私が機嫌を損ねても、少しご機嫌をとって、家でも数軒プレゼントすれば、いつものように許してくれるはずだ。 だって、私は、彼のことをあんなにも愛していたのだから、そう思っているのだろう。 一方サイドドアの近くに、美羽が立っていた。デザイン性の高い白いドレスを着ていて、招待客の中でもひときわ目立っている。 そのドレスは、ブライズメイドにしては豪華すぎるくらいで、ウェディングドレスだと言っても過言ではないほどのデザインだった。 それを見て、勲は眉をひそめ、哲也に目配せして美羽を外へ連れ出すよう指示した。 時刻は、11時58分になった。 本来なら、教会の扉が大きく開かれ、花嫁が入場してくるはずの時間だ。 しかし、重々しい扉は、固く閉ざされたままだった。 その時、勲の背後にあった巨大なLEDスクリーンが、突然明るくなった。 波形が画面で揺れ動き、勲の冷酷な声が聖堂に響き渡った。 「美羽は体が弱い。上田家の血を継ぐ子供が必要なんだ。 体外受精が成功したことは、絶対に遥には知られてはならない。 子供が生まれても、別の場所で育てて、遥の前にさえ現れなければ、裏切りにはならないさ」 その瞬間招待客たちの間に、どよめきが広がった。 勲の顔から笑みが消えた。彼は音響ブースに向き直り、叫んだ。「消せ!今すぐ消すんだ!」 しかし画面が切り替わり、今度は高画質の監視カメラの映像が流れ始めた。勲が跪いて美羽に靴を履かせたり、高級なデザートを食べさせたりしている場面だった。 続いて、スライドショーのように次々と写真が映し出される。勲のサインが入った体外受精同意書、美羽の妊娠検査結果…… すると会場は一斉にフラッシュの嵐となり、シャッター音が鳴り響いた。 祭壇の上に立つ勲の顔は、真っ青だった。 混乱する人々を前にして、彼は初めて、骨の髄まで凍るような寒気を感じた。 ポケットのスマホが震えた。勲は震える手でそれを取り出した。 差出人は、「遥」だった。 【勲、もうこのお芝居は疲れたの。あなたが欲しがった前田家の血筋も、あなたが守りたがった体面も、私にとっては必要のないものよ】 それを見た勲は招待客のことも、怒鳴る母親のことも、床で泣き叫ぶ美羽のことも、もうどうでもよかった。 彼は司会者を突き飛ばし、狂ったように聖堂を飛び出すと、飾り付けられたウェディングカーに飛び乗った。 40分はかかる道のりを、勲はわずか20分で駆け抜けた。 そして家のリビングに飛び込むと、部屋中のブライダルの飾りだけがやけに目について、テーブルの上には、まだ引き出物の箱が残っていた。 「遥!」と勲が叫ぶ。その声は部屋に響き渡ったが、返事はなかった。 2階へ駆け上がり、寝室のドアを開ける。ベッドサイドのツーショット写真はなくなり、ドレッサーの化粧品もすべて消えていた。 クローゼットを開けると、オーダーメイドのドレスも、ブランドバッグも、すべてが消え去っていた。 ただ、あのルビーのジュエリーセットだけが、箱に入ったまま、隅に捨てられていた。 勲は狂ったように全ての引き出しを漁り、私の痕跡を探した。 そしてついに、ベッドサイドテーブルの一番下の隙間に、指先が触れた。 プラスチックが折れるような感触がした。 力を込めて、それを引き抜いた。 そこから、真っ2つに折れた妊娠検査薬と、私が偽造した、しわくちゃの病院の書類が落ちてきた。 勲の手は激しく震え始め、ぼやける視線が【妊娠中絶同意書】という文字を捉えた。 【患者氏名:遥。診断:子宮内妊娠(8週目)。手術内容:妊娠中絶。署名日:1月15日】 1月15日。 勲の呼吸が止まった。 その日、私に、西区へ出張に行くと嘘をついていた。 実際には、東都の病院で美羽の妊婦健診に付き添っていたのだ。 その日、電話でこう言った。「お前との未来のために、必死で頑張っているんだ」と。 勲は、ようやく全てを理解した。 私は彼にチャンスをあげた。何度も、何度も。 彼自身のその手で、私を絶望の淵に突き落としたのだ。 「あああああっ!」 その事実に打ちひしがれ、勲はがらんとした部屋の中央に膝をつき、偽の中絶同意書を固く握りしめながら、獣のような雄叫びを上げた。 …… 一方、上空1万メートル。機内には、まぶしいほどの陽光が差し込んでいる。 「お客様、お飲み物はいかがですか?」と、客室乗務員が優しく声をかけてきた。 私はサングラスを外した。かつて涙をこらえていた瞳は、今では澄み切っているのだった。 「オレンジジュースを一杯いただけますか」 ジュースを受け取ると、左手で少し膨らんだお腹をそっと撫で、窓の外に広がる雲海に目をやった。 「赤ちゃん、今日から、私たちだけの人生が始まるのよ」 そう呟き、窓の外のうねる雲を眺めながら、私は、本物の自由へと飛び立った。