風は儚く、恋は難しく

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風は儚く、恋は難しく

GoodNovel Hoàn thành

「移民を申請したいのですが」 綾瀬紬音(あやせ つむね)は窓口に立ち、準備してきた書類の束を無言で差し出した。 カウンターの向こうで職員...

Chương (1)

第1章

「移民を申請したいのですが」 綾瀬紬音(あやせ つむね)は窓口に立ち、準備してきた書類の束を無言で差し出した。 カウンターの向こうで職員が手際よく目を通し、必要な箇所に次々と印を押していく。そして数分後、新たな一枚の書類を彼女に差し出した。 「こちらで手続きは完了です。十五日後に結果が出ますので、それまで少々お待ちください」 紬音は軽く頷き、何も言わずその場を後にした。自動ドアへ向かう途中、不意に背後から小声のひそひそ話が聞こえてきた。 「えっ、見間違いじゃないよね?あの人、志田グループの奥様じゃない?まさか移民申請って……ご主人と何かあったのかな」 「だとしても、ちょっとやりすぎじゃない?何せ志田社長って、有名な『愛妻家の鑑』だよ?あんなに大事にしてたのに、一体何があったんだろ」 「ほんとだよ。五年前、あの『世紀の結婚式』は全国ニュースで何日も流れてたし、三年前に奥様が事故った時なんて、血液が足りないって言われて自分の血を半分以上提供したんだよね。 反対されても構わず、自分の命と引き換えに彼女を救ったって、今でも語り草だよ。去年、奥様がたった一時間行方不明になっただけで、世界中のメディア動員して探し回ったって……それなのに、奥様が黙って家を出るなんて、社長、正気保てるかな……」 耳に飛び込んでくる会話の断片。紬音は歩みを止めずに、唇を少し引き上げた。笑ったようで、どこか痛々しいその顔には、冷たい皮肉が滲んでいた。 そう、誰もが知っているのだ。志田昴真(しだ こうま)が、どれほど彼女を愛していたかを。 第1話 業界では誰もが知っている。志田グループの若き当主、志田昴真(しだ こうま)は、ビジネスの場では冷酷無情で知られ、私生活では一切のスキャンダルを寄せ付けず、女色に興味のない『氷の社長』として有名だった。 女性たちは彼の半径三メートル以内に近づくことすら許されない。彼が綾瀬紬音(あやせ つむね)と出会うまでは。 あの夜会で、昴真は彼女に一目惚れした。 そこからはまるで、長い冬を越えた春の嵐のように、猛烈なアプローチが始まった。豪邸、高級車、宝石。惜しげもなく彼女に贈られた。 三日三晩、京汐湾を照らした満天の花火は、彼の想いを空に焼きつけた。 ある晩、紬音がふと「昔食べた栗蒸し羊羹がまた食べたい」と口にしたとき、昴真は猛吹雪の中、夜を徹して三つの町を車で駆け回り、出来たての羊羹を手に濡れたまま彼女の前に差し出した。 だが、紬音の心を決定的に動かしたのは、両親を事故で亡くしたあの日だった。 昴真は遠く離れた臨城にいたが、数千億の取引を投げ打って彼女の元へ駆けつけた。 乱れた髪、血走った目。その姿のまま、彼女を抱きしめた。 「紬音、俺がいる。ずっとそばにいるから」 彼の目に浮かぶ切実な想いに、紬音の胸が震えた。 この人だ。 彼女の中で、何かが決まった瞬間だった。 だが——そんな唯一無二の愛を捧げてきたはずの男が、三ヶ月前、誘惑に負けた。 しかも相手は、彼の親友の妹で、今は志田家に居候している——香坂遙花(こうさか はるか)だった。 別荘のリビング、キッチン、ベッドルーム。あらゆる場所に、ふたりの痕跡が残っていた。 昴真は、上手く隠せているつもりだったのだろう。だがこの世に、永遠に隠し通せる秘密などない。 真実を知ったあの瞬間、紬音は苦しみ、絶望し、迷い、そして——血が滲むような思いで、その現実を受け入れた。 もう終わりにしよう。 志田家——三代にわたり公安の任務に携わってきた由緒ある家系。そのため、国外への一歩さえ、常に申請と厳しい審査が付きまとう。 つまり、紬音が海を越えれば、彼はそう簡単に追ってくることはできない。 移民の申請書類をバッグにしまい、紬音はタクシーを拾って「潮見邸」へと向かった。 志田家の邸宅に入った瞬間、ふわりと甘ったるく、どこか不快な匂いが鼻を突いた。 壁に装飾を取り付けていた男女が動きに気づき、同時に振り返る。 一瞬、昴真の目が驚きに揺れ、すぐに微笑みへと変わった。優しく近づき、彼女の手を取る。 「紬音、そんな薄着で……寒くないか?今日は友達と出かけるって言ってたのに、もう帰ってきたの?ちょうど今、サプライズの準備をしてたんだ」 サプライズ? 紬音は昴真の顔を見上げ、自然と彼の首筋へと視線が止まった。 そこには、くっきりとしたキスマークが。 睫毛が微かに震える。心の奥が痛んだ。 彼女が何も言わずにいると、遙香が甘い声で歩み寄る。 「紬音さん、昴真さんってほんとにロマンチストですね~。ふたりの『出会った記念日』を、こんなに盛大にお祝いするなんて」 遙香はわざとらしく笑いながら、ソファの横に積まれたプレゼントの山を指差す。 「見てください、これ全部、昴真さんが用意してくれたプレゼントですよ」 紬音の視線がその指の先を追う——そして、まず目に入ったのは、プレゼントの下にじんわりと滲んだ水の跡。 あの瞬間、雷に打たれたような衝撃が身体を貫いた。家に入った時に感じた匂い。ソファの染み。すべてがひとつに繋がった。 『愛している』だって? サプライズだなんて言いながら、彼女へのプレゼントを用意しておいて、そのすぐそばのソファで他の女と交わっていた——? しかも、夢中になりすぎてソファを濡らすほどに。 骨の髄まで痛むとは、このことだ。 昴真は彼女の異変に気づくこともなく、用意していたネックレスをそっと彼女の首にかけた。柔らかすぎる声音で囁く。 「紬音、出会った記念日、おめでとう。今日はディナーも用意してるんだ」 紬音の体が小刻みに震えた。「いい、食べたくない。ちょっと、体調が悪くて」 この空気。この男。この屋敷。すべてが、彼女にとって拷問だった。 最初から言っていたのに。自分は『感情に潔癖』なんだと。傷のある愛なんて、受け入れられないのだと。 だったらどうして、最初から手を伸ばしたの。 紬音のひと言に、昴真は顔色を変えた。 すぐさま何人もの専属医師を呼び寄せ、診察させた。異常がないとわかっても安心できず、アシスタントを走らせてサプリメントを買い込み、自らミルクを温めて彼女を寝かしつけた。 夜が更け、四、五時間かけてようやく彼女が眠りについた。 深夜。喉の渇きに目を覚ました紬音は、水を求めて部屋の外へ出た。 しかしドアを開けた瞬間——その場で凍りついた。 隣室の扉が開いていた。月明かりが差し込むその部屋。ベッドの上では、裸の男女が絡み合っていた。 「今日のネックレス、億単位の価値があるのに、私は何度お願いしてもくれなかったのに。紬音は何もしてないのに、あんな高い物すぐ渡すなんてズルい」 愛撫の余韻が残る声で、遙香が文句を漏らした。 昴真は煙草に火を点け、ベッドの端に腰を下ろした。 「自分の立場、わかってるのか?俺が愛してるのは、紬音だけだって言ったよな。 お前、続けたいなら、絶対に人前には出るな。バレたら終わりだ」 遙香の顔が引きつるが、それでも背後から彼を抱きしめ、甘えた声で囁く。 「わかってるよ。紬音にバレたくないんでしょ。でも、私は昴真さんが好き。ちょっとくらいヤキモチ焼いたって、いいじゃない……」 昴真は黙ったまま、引き出しから新しいネックレスを取り出した。紬音に贈ったものと同じデザイン——ただし色違い。 「これも買っておいた。だが、絶対に人前でつけるな。バレたら、俺たちは終わりだ」 遙香の顔がぱっと明るくなり、首にある無数の痕跡を気にもせず、ネックレスを喉元に合わせてはしゃいだ。 「ありがとう!やっぱり昴真さんって優しい~!でも、そこまでして、そんなに紬音がいなくなるのが怖いの?」 彼は、何の迷いもなく答えた。「そうだ。彼女がいなくなったら……俺は壊れる」 そして再び遙香をベッドに押し倒し、音を立てて始めた。 ベッドが軋む音。遙香の甘い声……すべてが、廊下に佇む紬音の鼓膜に突き刺さる。涙が頬を伝い落ちた。 彼女は真っ赤な目で、壁に飾られた結婚写真を見つめた。 志田昴真。十五日後、私はあなたが壊れる姿を、楽しみにしている。 第2話 早朝、紬音は外から聞こえる騒ぎ声で目を覚ました。 寝ぼけ眼のまま部屋を出て、隣の高級住宅の庭に目をやると、やつれた顔の女性が男の胸元を掴み、泣き叫ぶように訴えていた。 「白井のバカ、私はあなたを十年も愛してきたのよ。何人もの子どもまで産んだのに! 結婚の時、あなたは一生私を愛すって言ったじゃない。 なのに、たった数年で、あなた浮気して愛人を囲ってるなんて!」 朝の空気はまだ澄んでいて、湖の周囲を散歩する人々が次第に足を止めて集まってくる。「あの人、有名な経営者よね?信じられない……」 ざわざわと人が増えていくのを見て、男の顔色が急に変わった。慌てて女の腕を引き、屋内に連れ込もうとする。 「もうやめろよ!何度も言ってるだろ、この世に浮気しない男なんていないんだよ!」 その光景を、紬音は呆然と見つめていた。ふいに、背後からそっと温かな手が彼女の耳を覆った。 「紬音、そんな汚い話は聞かなくていい」 その声に振り返ることなく、彼女は静かに問いかけた。「ねえ、すべての男は、いつか心変わりするの?」 昴真の身体がぴくりと硬直し、彼女を正面に向かせた。その瞳には真剣さしかない。 「他の男は知らない。でも、俺は違う。紬音、俺は生涯、君だけを愛す」 「一生なんて、長すぎるじゃない」 彼は優しく彼女を抱きしめ、耳元に囁いた。「だからこそ、一生ずっと君だけが欲しいんだ」 その言葉に、紬音はくすっと笑った。けれど、その笑いには、苦さが混じっていた。 「でも、もし……もしあなたが裏切ったら?」 昴真は笑いながらも、静かに言い放つ。「その時は、天罰を受けて死ぬよ。俺はそれくらい、君しか見てない」 真実を知ってしまった今、その言葉は刃のように彼女の胸を刺した。 「昴真、そんな重い誓い、よく口にできたね。本当に天罰が下ったら、どうするつもり?」 昴真は静かに笑った。「大丈夫。俺がどれだけ君を愛してるか、一番わかってるのは俺自身だ。信じられないなら、この心臓を切り開いて見せる。それでも足りないなら、命ごと君にあげるよ」 命ごと、差し出せるって? じゃあ、どうしてその身体一つ、制御できなかったの? 別の女との痕跡がまだ肌に残っているのに、平然と「愛してる」と囁くなんて—— それは、最も甘い言葉に包まれた、最も醜い裏切りだった。 「紬音さん、昴真さん、ふたりでなにしてるの〜?」 唐突に、玄関の方から軽やかな声が響いた。 ふたりが振り返ると、そこには赤いベアトップのワンピースを纏った遙花が立っていた。 その瞬間、紬音は明らかに昴真の肩が微かに揺れるのを感じた。彼はすぐさま眉をひそめた。 「今日は週末じゃなかったのか?そんな格好して、どこに行くつもりだ」 その声は『妹』を心配する兄のものではなかった。まるで、出かけようとする妻に嫉妬する夫のような声音だった。 遙花はそれに気づいているのか、頬を染めて笑った。「うちの会社で合コンがあるの。いい相手を見つけたら、今夜は帰らないかも」 その言葉に、昴真の表情が一気に険しくなった。遙花は楽しげに笑いながら続けた。 「そうだ、紬音さんたちは今日は何か予定あるの?」 昴真はようやく我に返り、紬音の手を握りしめた。「今日は実家に顔を出してくるんだ」 「そうなんだ、よろしくお伝えくださいね〜」そう言って手をひらひらさせ、遙花は踵を返して去っていった。 三十分後、昴真の運転する車で、ふたりは志田家の本邸へ向かった。 志田家の両親は、紬音のことを心から歓迎していたわけではなかった。息子の昴真がすっかり恋愛にのめり込み、仕事も命も顧みないようになったのは、すべて彼女のせいだ——そう思っていたからだ。 結婚して何年も経つのに子どもも授からず、会うたびに眉間に皺を寄せ、冷ややかな態度を隠そうともしなかった。 それを昴真はよく知っていたからこそ、なるべく関わらないようにしてきた。しかし今回は、母の体調が優れないという連絡があったため、渋々紬音を連れて戻ってきたのだった。 玄関をくぐった瞬間、先ほどまで笑っていた両親の顔がさっと冷たくなった。 昴真はすぐにそれを察し、声を荒げた。 「いい加減にしてください。もしまた紬音に冷たくするようなら、俺たちはもう二度と来ない!」 その場の空気が凍りついたように張り詰めた。父がテーブルを叩きつけた。 「無礼なことを言うな!お前、親よりも女を取る気か!」 昴真は迷わず紬音の手を握りしめた。「紬音は俺の人生そのものだ。俺は彼女に少しでもきつい声を出すのも嫌なんだ。そんな彼女にあなたたちが冷たくするというのは、俺の心を抉るのと同じことなんだよ。 もう一度言う。次は……家族なんて、いなかったことにするから」 第3話 誰も、昴真がここまで強硬に出るとは思っていなかった。リビングの空気が、まるで時間が止まったように凍りついた。 けれど、紬音は目の前で自分を庇い立てるこの男を見ても、心が少しも動かなかった。 息子が本気だと悟った昴真の母は、とうとう折れた。「もういいわ。さっさとご飯食べましょ」 食卓では、食器が当たる音と、義母の時折放つ鼻を鳴らす音だけが響いた。 紬音は箸を握る手に力が入った。 あの音は、義母が説教を始める前兆。 案の定、次の瞬間には、カチリと音を立てて箸が置かれた。 「他のことには目をつぶっても、子どもはちゃんと産んでちょうだいね?」 「志田家の血筋を、あなたたちで途絶えさせるつもり?」 昴真もすぐに箸を置いた。「何度も言った。紬音は痛みに敏感なんだ。あれほどの陣痛なんて、彼女に味わわせたくない。俺は子どもを諦めても構わない!」 その言葉に、義父母は箸を置き、完全に食欲を失った様子だった。 空気がまた重くなり始めた頃、紬音が口を開いた。「半月後ですよ。お父さん、お母さん。半月後には、おふたりに孫ができると思います」 沈黙が落ちた。全員が彼女を見た。驚きと戸惑いを隠せない表情で。 「紬音?」昴真が彼女の手を握った。「俺たち、子どもは諦めようって決めただろ?無理する必要なんてないんだよ」 紬音はその真っ直ぐな瞳を見つめながら、ほんのわずかに唇を歪めた。 「自分が産む」とは言ってないわ。 あと半月で、国外へ発つ。あれだけ遙花に夢中で、毎晩のように一緒にいたがるなら産ませればいい。 そう思って、にこりと微笑んだ。「ご両親の願いですもの、応えるべきですよね」 昴真は、妙に素直すぎる彼女の言葉に、どこか胸騒ぎを覚えた。 何かがおかしい。素直すぎる。 義父母の顔にはようやく笑顔が戻り、機嫌を取り戻した。「それでいいのよ、それで!」 昴真はどうにも引っかかるものがあり、何か言いかけたとき——スマートフォンが震えた。彼は画面をちらりと見て、表情が微かに変わった。 紬音は隣にいたため、自然と画面に映ったメッセージを目にしてしまった。 【昴真さん、ねえ、ある男の子に連絡先聞かれちゃったんだけど……教えてもいいと思う?】差出人は香坂遙花。 紬音は心の中で数を数えた。1秒、2秒、3秒—— ぴったり三秒後、昴真が立ち上がった。「悪い、紬音。会社で急ぎの用ができた。君はゆっくり食べてて。終わったら迎えに来るから」 返事も待たず、コートすら羽織らず、足早に部屋を出て行った。 彼の姿が完全に見えなくなった瞬間、義父母の顔が一変した。その目はまるで獲物を狙う猛禽のように鋭く、怒気を含んだ言葉が次々と紬音に投げつけられる。 「もう何年嫁に来てるのよ。まだ子どももいないなんて、恥ずかしくないの? 家柄も知れてるし、親も亡くなってる。昴真が気に入らなかったら、あんたなんか嫁に来れるわけないでしょ。ほんと、不幸を呼ぶ女よ! 何よその目。赤くして……どうせまた昴真に告げ口するつもりなんでしょ?どこの嫁だって姑に怒られるのよ。あの子は忙しいんだから、くだらないことで手間かけさせないで!」 気が遠くなるほどの罵声は、昼から夕方まで五時間以上も続いた。 ようやく昴真が戻り、彼女を迎えに来た頃には、陽は傾きかけていた。 車の中。 滑るように走る高級車の車内で、紬音がふいに口を開いた。「会社のこと、もう落ち着いたの?」 昴真はわずかに驚いた後、穏やかに微笑んだ。「ああ、全部片付けたよ」 そう答える彼の指先が、無意識にハンドルをトントンと叩いた。 それは、機嫌がいい時に出る癖だった。 しかし紬音が返事をしないでいると、ようやく昴真が尋ねてきた。「俺が出た後、親が何か言わなかった?」 紬音がちょうど答えようとしたその時——ふと助手席の足元に、くしゃくしゃに破れた水玉模様のストッキングが目に入った。 一瞬で、血が逆流するような感覚がした。彼が家を出たのは、遙花のところへ行くためだった。 それはもう知っていたけれど——まさか車の中で、こんな痕跡を残すほどだとは思っていなかった。 彼と結婚して五年。夜の営みにおいて、自分はずっと控えめだった。 物足りないと思わせたくなくて、恥を忍んで聞いたこともある。「変わったこと、したい?私、努力するよ?」 そのたび彼は笑って、優しく彼女を抱きしめてくれた。「紬音が好きなんだ。どんな姿でも心が動く。無理する必要なんてないよ。愛する人には、自然と惹かれるものだから」 そう言ってくれたその人が、今では別の女と、こんな風に—— 涙がこぼれ落ちそうになる。「あなたは、どう思うの?」 かすれた声に、昴真は「義両親の小言で泣いてる」と勘違いした。慌てて車を停め、彼女をぎゅっと抱きしめた。 「ごめん、紬音。俺が悪かった。こんな思い、もう二度とさせないから」 その腕に包まれても、彼女はただ、息苦しさしか感じなかった。 涙を飲み込みながら、彼を押しのけた。 「運転、続けて」 もう、「これから」なんて、私たちにはないのだから。 第4話 自宅に戻ったあと、昴真は車を駐車しに行き、紬音だけが先に家へと入った。 リビングの扉を開けると、遙花が既にナイトドレスに着替え、ソファでスナック菓子を抱えながらテレビを観ていた。 紬音は立ち止まり、わざとらしく問いかけた。「今日は合コンで帰らないって言ってなかった?」 遙花はくすっと唇を歪め、どこか作ったような恥じらいを含ませながら言った。「ごめんね、紬音さん。言い忘れてたの。実は彼氏とケンカしちゃって、それでちょっと意地になって合コン行ったの。 最初は全然気にしてない様子だったのに、私が会場に着いた瞬間、彼が追いかけてきて、いきなり連れ戻されちゃって」 そう言いながら、彼女はわざと襟元をずらし、首筋から鎖骨にかけて散らばる無数のキスマークを露わにした。 その目は、挑むように紬音を見つめている。 「まさかあんなに嫉妬するとは思わなかったわ。車の中で……三回も抱かれちゃって」 その言葉に、紬音の手のひらに力が入り、爪が深く刺さった。 息を整えながら、静かに尋ねた。「彼氏なんて、いつできたの?」 遙花は軽く目を細め、肩をすくめながら答える。「ちょうど三ヶ月前かな?」 三ヶ月前。遙花がこの家に住み始めたのは、まさにその頃だった。あの時、昴真の親友の頼みで、「妹をよろしく」と預かったはずだったのに。 あの日からもう、ふたりは関係を持っていた——? 紬音の呼吸が徐々に乱れてきた。言葉を続けようとしたその時、背後から大きな手が彼女の肩をそっと包み込んだ。 「紬音、今日は一日疲れたね。お風呂のお湯、今から入れてくるよ。ゆっくり休んで」 昴真は優しい笑みを浮かべながら、彼女をバスルームへと押しやった。 紬音は服を脱ごうとして、着替えを持ってきていなかったことに気づいた。 ドアを開けて取りに戻ろうとしたその瞬間——目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。 ソファの上で、昴真が遙花のナイトドレスを荒々しくまくり上げ、貪るように唇を這わせていた。 彼の手は彼女の腰をしっかりと掴み、キスは鎖骨から胸元へと下っていく。 遙花は彼の肩に腕を回し、あえぎながら甘えるように笑う。「っ、ああ……優しくして、紬音さん、まだお風呂よ。今日は車の中でも足りなかったの?」 「黙れ」昴真の低い声が響いた。 「次、また他の男に会いに行ったら、どうなるかわかってるだろうな?」 遙花はふっと笑みを浮かべたかと思うと、何かに気づいたように艶やかに目を上げ、 ドアの前で凍りついた紬音を挑発するように見つめた。 「わかったわよ。行かないってば。私のカラダ、ぜ〜んぶあなたのもの。それで満足? ほんと、どこまで嫉妬深いのよ」 紬音はもう、それ以上見ていられなかった。無言で着替えを手に取り、バスルームのドアを閉めた。 湯船に身体を沈めながら、頭の中にはあの場面がこびりついて離れない。 五年前。ふたりで南の島へハネムーンに行ったあの時。 海辺で紬音が、たまたま上半身裸の男性を一瞬見ただけで、彼は機嫌を損ねた。 そのまま彼女をスイートルームに連れ戻し、七日七晩、部屋から一歩も出さなかった。 七日目、ベッドは軋み、コンドームは使い切っていた。 その夜、彼は彼女を抱きしめ、涙を滲ませながら呟いた。 「紬音、彼らにあるものなら、俺にだってあるんだ。君には俺だけを見ててほしい。俺から離れないで」 彼女はその時、何度もうなずいた。 それ以来、彼女は他の男を一瞥することすらやめたのに。 なのに今、彼は遙花に対して、まったく同じ狂気を見せていた。 湯船から顔を出し、大きく息を吸った。 バスルームを出ると、部屋には昴真がひとりで待っていた。 テーブルの上には、カットされた果物と、湯気の立つホットココア。 「もうすぐ君、アレでしょ?先に用意しといたよ。これ飲めば、少しは楽になると思う」 紬音は、その優しさに微笑むこともできなかった。 たった今、別の女を抱いていた男が、平然と「夫」の顔をして自分に尽くしている。 演技なのか、それとも本当にふたりの女を同時に愛せるのか。その問いが、夜のあいだずっと心に刺さっていた。 眠りかけた頃、隣で寝ていた昴真が、突然うなされるように叫んだ。 「紬音っ!」 彼は夢から飛び起き、焦ったように手を伸ばして彼女の身体を探した。 見つけると、すぐに彼女をきつく抱きしめた。 紬音の体が一瞬だけこわばった。「どうしたの?」 昴真は目を赤くしながら、震える声で言った。 「よかった。君がまだここにいてくれて……夢の中で君が消えたんだ、どうしようかと……」 紬音は目を伏せた。そして、もうすぐ本当にいなくなるって言いたい。 翌朝、昴真は「今日も一緒に会社に来てほしい」と懇願した。 断っても、何度も何度も頼んでくるため、しぶしぶ同行することに。 会社に着いて彼のオフィスに入ると、そこには紬音の写真がずらりと並んでいた。 驚いて立ち尽くす彼女を、背後から抱きしめる昴真。 「こうしておけば、俺に近づこうとする女も減るんだ。心配しないで。君だけを見てるよ」 紬音は無言のまま、彼の腕の中で目を伏せた。 その時、アシスタントがドアをノックし、会議の開始を知らせた。 彼女を名残惜しそうにそっと抱きしめたあと、昴真は静かに手を離した。「少しだけ待ってて。先に好きなところを見て回ってて」 そう言い残し、彼は未練を滲ませながら背を向けた。 彼女は応えることなく、ゆっくりとオフィスを出た。 とくに興味はなかったが、建物内をぐるりと一周する。そして、ちょうど昼前、一本の電話が鳴った。表示された番号は、移民局だった。 「綾瀬さま、移民手続きの関係で、ご本人の署名があと一箇所必要です。恐れ入りますがご来局いただけますか?」 その言葉に口を開こうとした瞬間、背後から鋭い声が響いた。 「移民?今、何の話だ?」 第5話 振り向いた紬音の視線の先には、顔色を変えた昴真が立っていた。 彼女が電話を切った瞬間、昴真は焦ったように駆け寄り、手を掴んだ。「紬音、誰が移民なんだ?」 紬音の表情は変わらない。「同級生よ。移民前に会っておきたいって誘われただけ」 その平然とした口ぶりに、昴真は疑う気配も見せなかった。彼女が嘘をつくとは、想像すらしなかったのだろう。だが次の瞬間、彼は彼女を強く抱きしめ、息を乱して囁いた。 「お前かと思って……心臓が止まるかと思った」 紬音は苦笑のように唇を引き上げた。「ただの移民に、そんなに慌てる?」 昴真は胸を押さえながら、言い訳のように口を開いた。 「お前も知ってるだろ?うちは三代にわたって公安の任務に関わってきた家系だ。だから、そう簡単に外国へは行けない。 もしお前が俺のそばを離れて国を出たら、たぶん、もう二度と会えない。そうなったら……俺は、殺されるよりも、ずっと辛い」 抱きしめる腕の中で、紬音は静かに笑った。「わかったわ」その笑みの裏に何があるか、昴真は気づかない。 それから数日間、彼は紬音に張り付くように行動した。会社に行くにも、外出するにも、常に彼女を連れて。 紬音としても、移民局へ署名に行く機会を失っていたため、しばらくは逆らわず従うしかなかった。 ある日、彼の旧友たちが新しくオープンした会員制クラブで集まりがあるという話になった。 「行くよ、紬音も一緒に」昴真が当然のように言い、彼女も頷いた。 個室に入った瞬間、旧知の面々が一斉に集まってきた。「紬音、今日は心ゆくまで楽しんで。静かな音楽が好きだって聞いたから、クラシックに変えておいたよ!」 「デザートも、昴真が全部用意してくれたんだ。好きなものばかりだって」 「こっちの席がいいよ。果物も全部切っておいた!」 「お前ら、いつからこんな気が利くようになったんだ?」昴真が眉をひそめると、誰かが笑いながら答えた。 「この世で一番大事なものが奥さんだって、昴真が自分で言ってたでしょ。そりゃ俺たちも気を遣うよ!」 「そうそう、昴真が奥さん一筋になってから、俺たち兄弟の出番が減ってさ……だからこそ奥さんを全力でお姫様扱いするしかないっすよ!」 場の空気が和んだその瞬間——ひとりの小柄な女性が部屋に入ってきた。 遙花だった。 店のマネージャーが慌てて彼女を止めようとする。「申し訳ありません。本日は貸切営業のため、一般のお客様のご案内は……」 「紬音さん?昴真さん?あら、まさか貸し切ってたのはふたりだったの?偶然ね〜」遙花は軽やかに言い放ち、返答も待たずに紬音の隣に腰を下ろした。 そして、暗がりの中で、静かに昴真の手を自分のスカートの奥へと導いた。 紬音の体が小さく震えた——なにを…… 視線を向けると、昴真は明らかに動揺していた。遙花を追い出そうとした様子だったが、手が彼女の身体に触れた瞬間、彼は目を閉じ、長い指がかすかに動き始めた。 その瞬間、紬音の呼吸が乱れた——この場で、今この空間で、彼は…… 感情を抑えながら、何事もなかったように会話に加わるふりをした。 途中、紬音は化粧室へ立った。 何度も顔を水で濯ぎ、なんとか心を落ち着けようとしていた。すると、背後から甘ったるくも挑発的な声が聞こえた。 「紬音さん、あたしから一言いい?」鏡越しに見ると、遙花が不敵な笑みを浮かべている。 「その年齢でその格好、ちょっと地味すぎじゃない?」 そう言って、彼女はコートをはらりと脱いだ。下に着ていたのは、透けるレースのセクシーなランジェリーだった。 「ねえ、賭けをしない?私がこの下着を着てるって昴真さんに伝えたら——彼はこの後、あなたのそばにいる?それとも、こっそり私を押し倒すと思う?」 紬音は無言で蛇口を閉め、水を払って個室へ戻った。 しばらくして、遙花も戻ってきた。 昴真の前を通り過ぎるとき、彼女は彼のスマートフォンを指先でトントンと叩いた。 昴真がそれを開いた瞬間、目が陰を帯び、喉ぼとけが上下する。 そして、何事もなかったかのようにスマホをポケットにしまい、立ち上がった。 「紬音、ちょっと電話してくる。すぐ戻るから、ここで待ってて」 返事も待たず、足早に部屋を出た。 その数分後、遙花も「電話してくる」と言い残して席を立つ。 二人の背中が視界から消えていくのを見届けながら、紬音は震える呼吸を必死に抑えていた。けれど胸の奥に突き刺さるような痛みは、まるで鋭利な刃物が何度も何度も心臓を切り裂くように襲いかかってくる。 痛い。どうしようもなく、苦しくてたまらない。 彼女の瞳に浮かんだのは、怒りでも悲しみでもなかった。その痛みをどうにかするために、ただ一つ浮かんだ願い——昴真、あなたも地獄に堕ちろ。私をこんな目に遭わせた分、何倍も苦しんで、何十倍も痛んで。 夕方まで、昴真は戻ってこなかった。 旧友たちは気まずそうに目を合わせ、ついには誰かが声をかけた。 「昴真、何か急用でもあったのかも。紬音、僕らが送っていくね」 紬音は何も言わず頷き、席を立った。 車に乗った直後——忘れ物に気づいた。「あ……バッグ、忘れた」 部屋へ戻ろうとした時、扉の内側から男たちの声が漏れてきた。 「ふぅ〜、やっと送ったな……もうちょいでバレるとこだった。昴真ってどうしてあんなに上手く演じられるんだろうな……」 第6話 紬音の足は、まるでその場に釘で打ちつけられたかのように動かなかった。 だが、扉の向こうから聞こえてくる会話はまだ終わっていなかった。 「昴真と遙花ちゃんは、まだ終わらないのか?もう五時間は経ってるだろ」 「せっかちすぎるって。昴真は持久戦の王様だし、遙花ちゃんもエロいし、一日中でもやりかねないよ」 「しかもあのふたり、まるで隠す気もない。さっき隣の個室で盛り上がってたの、聞こえたぜ?女の喘ぎ声も丸聞こえ。慌てて音楽のボリューム上げさせたからセーフだったけど、俺マジで冷や汗かいた」 「緊張してるのがバカらしい。何度も現場見てりゃ慣れるわ。昴真がやっと本命以外の女にも目を向けるようになって、俺らもホッとしてんだよ。たまには他の女と遊ぶくらい、いいじゃん?」 「いやさ、紬音は綺麗だけど、あれじゃベッドの上でも無反応だろ。マグロみたいな女なんて、誰が喜ぶよ?やっぱ男は刺激あるのがいいって」 そこから先の言葉は、もう耳に入ってこなかった。 ガンガンと耳の奥で鳴り響く耳鳴り。 みんな、知っていたのか。自分だけが、知らなかったなんて。 表面では丁寧に接してくれていた彼らが、裏では——自分を笑いものにしていた。裏切りという言葉では足りない。魂ごと踏みにじられるような感覚。 胸の奥が、まるで見えない手で無理やり引き裂かれるように痛んだ。体中の骨が悲鳴をあげ、息をするのも苦しい。 外は激しい雨だったが、紬音はまるで何も感じていないかのように、濡れた道を歩き出した。 魂の抜けた人形のように、ただ前へ、前へ。 そのまま移民局へ向かい、全身びしょ濡れのまま、最後の署名を終えた。 そしてまた、ひとりで帰宅し、自室に鍵をかけた。 その夜、紬音は高熱を出した。 翌日、ようやく戻ってきた昴真は、彼女がうわごとを呟き、汗にまみれて意識を失っているのを見て、血の気が引いた。 「紬音!紬音!!」半狂乱のように彼女を抱き上げ、そのまま病院へ駆け込んだ。 幸い、大事には至らなかった。ただのインフルエンザだったが、点滴を一昼夜続けてようやく熱は下がった。 だが、昴真はそれだけでは足りず、病室ごと貸し切り、仕事すら放り出して付きっきりで看病を続けた。 そんなある日、アシスタントが病室のドアをノックし、緊急の来客がいると報告してきた。「どうしても社長に会いたいとのことで……」 最初は拒絶しようとした昴真だったが、アシスタントが耳打ちした一言で表情を変える。 彼は、沈黙のままベッドに横たわる紬音の手を握った。「紬音、俺……」 彼女は目を閉じたまま、静かに言葉を遮った。「……行って。用事でしょ」 その冷静すぎる声音に、昴真の胸がひどく痛んだ。 彼女が異様に静かなことにも気づいていた。だが「病み上がりだから」と、自分に言い聞かせた。 「すぐ戻るから。ちゃんと休んでて」彼は名残惜しそうに彼女の手を離し、看護師に細かく指示を伝えたあと、病室を後にした。 だが、三日経っても昴真は戻ってこなかった。その代わり、遙花からの一本の電話が鳴った。 紬音が無言で応答すると、聞こえてきたのは、ねっとりと甘い声だった。「紬音さん~、いいニュースがあるの。あたしね、妊娠したの!昴真さんの子よ」 「この三日間、ずっと私のそばにいてくれてね?毎日甘やかしてくれるの。起きたら抱き起こしてくれるし、ご飯も食べさせてくれるし…… それにね、三ヶ月ならもう『していい』ってお医者さんが言ったの。そしたらもう昴真さん、大喜びで——その夜、何度も、何度も…… 中に出しても大丈夫ってわかってるから、嬉しくて仕方ないみたい。何十回も姿勢変えてきて、ほんと、死ぬかと思った。 あら、ごめんね、つい話しすぎちゃった。 でも怒らないでね。だって彼だって、病気の奥さんより、元気な子どものほうが大事でしょ?」 その声は、毒にまみれた甘さだった。もし、以前の紬音なら——きっとその場で泣き崩れていたかもしれない。 だが、もう涙は出なかった。感情はとうに、干からびていた。 彼女は何も言わず、ただひとつ——スマートフォンの録音ボタンを静かに押した。 そして心の中で、静かに呟いた——昴真。この音声を聞いたときの、あなたの顔が楽しみよ。 第7話 紬音が退院したその日は、ちょうど彼女の誕生日だった。 ダブルでおめでたい日だと、昴真は惜しげもなく大金をはたき、都内で最も豪華なホテルをまるごと貸し切って、紬音の誕生日パーティーを開いた。 その華美な演出に、招待客たちは皆、目を見張り、口々に羨望の声を漏らした。 昴真の旧友たち——例のあの一件以来、紬音が一切好意を持てなくなった面々も、手の込んだプレゼントを贈ってきた。 けれど、紬音の表情は冴えない。彼らが表面だけ取り繕っていることなど、もうとっくに見抜いている。彼女はもう、彼らに対して何の感情も持っていなかった。 彼らもそれに気づくことなく、「病み上がりでまだ本調子じゃないのだろう」と勝手に納得していた。 やがて、ケーキカットと願いごとの時間がやってきた。 昴真が紬音の背後からそっと腕を回し、一緒にナイフを握って微笑む。 「紬音、今日は君の誕生日だ。願い事、ある?」 かつてなら、きっと彼女は「ないよ」と微笑んでいた。彼が愛してくれてさえいれば、それだけで十分だったのだから。 だが今、彼女には切実な願いがあった——彼から離れ、二度と関わらずに生きること。 「その願い、あなたは叶えてくれるの?」 昴真は一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。「もちろん」 「じゃあ、私……三つ、願いごとがあるの」 「三つ?いいよ、なんでも言って。全部叶える」 紬音はバッグから一枚の真っ白な紙を取り出した。 「一つ目の願い。この紙に、あなたのサインをしてほしいの」 会場が静まり返った。 業界において、「白紙にサイン」など、最も警戒すべき行為だ。 もしも悪意ある者にそれを利用されたら、取り返しのつかない事態を招くのは明らかだった。 慎重派として名を馳せる昴真が、まさかそんなものにサインするはずがない。 そう思った、その瞬間。彼は微笑んだまま、何の躊躇も見せずにサインを書き終えた。 「はい、ほら、できたよ」 紬音はその紙をそっと握りしめた——これがあれば、いつでも離婚届を作成できる。 これで彼とは、法的にも完全に切り離せる。 満足げに微笑む彼女の表情を見て、昴真も安心したように頬を緩めた。 「さて、二つ目の願いは?」 紬音は顔を上げ、会場をゆっくり見渡す。ざわめき、驚き、羨望……様々な視線が交錯する中、ただ一人、遙花だけが嫉妬に満ちた目で彼女を見つめていた。 けれど紬音の視線は、彼女すら超えて、その先——遠い異国の未来を見ていた。 そして、唇を静かに開いた。「二つ目の願い。志田グループの全株式を、私に譲渡して」 場内が、まるで地震のようにどよめいた。 億単位では足りない、千億を超える価値のある株式を、全て——?いくら愛妻家とはいえ——そのすべてを彼女に譲渡するなんて、常識では考えられない。 だが、昴真は微笑みを崩さないまま、弁護士に電話をかけた。 「すぐに、名義を紬音に変えてくれ。一株も残さず、全部だ」 数分後、紬音のスマートフォンに届いた電子契約書。そこには正式な譲渡記録と、法的効力を持つ印影がしっかりと刻まれていた。——これで、彼の全財産が、彼女の手に渡った。 この資産を売却すれば、海外での生活は十代先まで安泰だろう。 昴真は彼女を抱き寄せ、冗談めかして言った。「これで俺は無一文だ。君の下で働くしかないな。捨てないでくれよ?」 紬音は唇を引きつらせながら笑い、答えようとしたその時だった。 「誰か倒れた!」叫び声が上がった。 皆の視線が集まる中、倒れていたのは遙花だった。 昴真の顔色がさっと変わった。反射的に彼は紬音のほうへ早足で駆け寄ろうとしたが、寸前で理性がそれを押しとどめた。 何かを思い出したように足を止め、振り返って紬音を見た。「紬音、ごめん、ちょっと病院まで送ってくる。最後の願いは、メッセージで教えて」 紬音は微笑んだ。 「もういいの。願いはもうないわ」 「え?」 「なんでもない。行ってらっしゃい」 昴真が遙花を抱き上げ、慌てて去っていくその背中を、紬音は穏やかな表情で見送った。 昴真、私の最後の願いは、もうあなたには叶えられない。 だってそれは、「あなたから完全に自由になること」だから。 あと三日。その日が来たら、私はあなたの世界から完全に消えてみせる。 第8話 その夜、紬音が自宅に戻った直後、病院から一本の電話がかかってきた。相手は昴真だった。 「紬音、ごめん。遙花の容態が思ったより良くなくて、もう数日入院することになった。 彼女のお兄さんに『責任を持って面倒を見る』って約束したから、俺、しばらく病院で付き添う。今夜は帰れそうにない」 紬音は静かな口調で応えた。「いいのよ、ちゃんと看てあげて」 昴真、あなたには——これからのすべての夜を、彼女と過ごせばいい。 残り三日。それが、この国で過ごす最後の時間になる。 その日の夜、紬音のスマートフォンに遙花から動画が届いた。 画面に映っていたのは、自分の誕生日と同じ会場。遙花はティアラをかぶり、ふわふわのドレスを着て、プレゼントの山に囲まれていた。 その背後から、昴真がそっと近づき、彼女の耳たぶにキスを落とした。「お姫さま、お誕生日おめでとう。願いごとは?」 遙花は顎を上げ、ふんわりと笑う。「紬音さんみたいにしたいの。どんな願いでも叶えてくれるって、言って」 昴真は鼻先で彼女の鼻を軽くつまむ。「もちろん。全部、叶えるよ。お姫さまの願いならね」 紬音は何も返信しなかった。ただ、動画を保存し、黙ってバッグに白紙契約を入れて外に出た。 向かった先は、弁護士事務所だった。 「綾瀬さま、こちらが離婚協議書です。ご本人の署名があれば、これで法的に婚姻関係は解消されます」 紬音は迷いなくサインをした。 これで、彼とは完全に他人になる。 残り二日。 その日の夜、またしても遙花から動画が届いた。 動画の中では、昴真が彼女の大きくなってきたお腹に耳を当てていた。 「まだ三ヶ月なのに、何も聞こえないってば」遙花が笑いながら言うと、昴真は真剣な表情で言った。 「パパって、言った気がする」 遙花は声を立てて笑い、ナイトドレスをずらしてみせる。「赤ちゃんはまだ言葉喋れないけど、あなたが望むなら——私が言ってあげる、パパって」 次の瞬間、昴真の喉ぼとけが動いた。そして彼は、彼女をベッドに押し倒した。 ベッドのきしむ音がだんだんと激しくなる。 「昴真、その体勢ダメ、抱き上げるのはっ……」 「パパって呼んだろ。パパは、こうやって可愛い娘を抱っこするもんなんだよ」 その動画を見ながらも、紬音の目には、もう涙ひとつ浮かばなかった。彼女は弁護士に電話をかけ、譲渡された全ての株式を即時売却するよう指示した。 その足で銀行へ向かい、大金の一部を外貨に両替した。 そして、いよいよ出発の日がやってきた。朝早く起きた紬音には、三つのやるべきことがあった。 第一。 この数年間、昴真から贈られたすべての高価なプレゼントをまとめて、屋敷の使用人たちに配った。 彼女の朗らかな笑顔に、誰もが驚いた。 「最近、すっごく嬉しいことがあって。皆さんと幸せを分かち合いたくて。遠慮しないで、もらってくれる?」 そして最後にこう言った。「今日は掃除もしなくていいし、ご飯も作らなくていいし、お花の水やりもしなくて大丈夫。今日は全員、早退していいわ」 使用人たちは大喜びで頭を下げ、山ほどの贈り物と共に屋敷を後にした。 第二。 これまで遙花から送られてきた挑発的なメッセージ・動画・音声録音をすべてまとめた。 挑発のメッセージ、100万部印刷し、ドローンで市内全域に空中散布。 送られてきた映像、市内最大の広告ビジョンにてループ再生。 録音、広場に1万台のスピーカーを設置し、拡声リピート放送。 第三。 紬音は自分のスーツケースを整え、テーブルの上に離婚届受理証明書をそっと置いた。 ちょうどそのとき、スマートフォンが鳴った。表示された名前は——昴真。 「紬音?もうすぐ用事が片付く。そしたらすぐ帰るよ。今日は君のために——」 紬音は静かに応えた。「私もあなたにサプライズを用意したの」 「えっ、ほんと?何を用意してくれたの?」 「帰ってきたらわかるわ」 もしかすると——タイミングさえ合えば、移動中にだって見られるかもしれない。 あのメッセージも、動画も、音声も——すべて。 通話が切れた。昴真が嬉しそうに微笑むその瞬間——紬音はスーツケースを持ち、静かにドアを開けた。 玄関を出ると、近所の住民が声をかけてきた。 「紬音さん、旅行かい?いいわね、楽しんでらっしゃい」 彼女は笑顔で応えた。「はい、遊びに行ってきます」 ただ、もう二度と戻らないだけ。 その日の朝は、どこまでも澄んだ青空だった。紬音は、スーツケースを引き、ひとつも振り返ることなく、空港へ向かう車に乗り込んだ。